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人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア ―宿屋『クラウンクロウ』
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胃が灼けつくような、じわりとした痛みが染みて、
自分が、中から少しずつ、溶けていくのを感じて、
きっと、もうすぐ我慢できなることに、気がつく。
だけれど、もうすぐ、は、まだ今日じゃないから。
ヘルマンが部下を伴って部屋を出て行くのを無言で見送って――当てつけに、音を立
てて扉を閉めたりもしてみた――から、ライは部屋の隅の化粧台に備え付けられていた
椅子を寝台の横に引き寄せて、腰掛けた。
そこまでしてから、ふと気づく。
「……長居したら悪いかな」
「そんなことないですよ」
クスクスと笑いながらセラフィナが応える。何を笑われたのかわからなくて、ライは、
ただ曖昧な笑顔だけを返す。それから少しだけ、へらへらした奴だって思われたらどう
しようと後悔した。今更遅いだろうが。
「元気そうでよかったよ。さっきは傷だらけだったから」
まだ彼女の顔色は少し青ざめていて、あまり元気そうには見えなかった。だが中途半
端に心配そうなことを言っても、セラフィナは逆に気遣って「大丈夫ですよ」と応える
だろう。そして自分には彼女の体調をどうすることもできない。
「ライさんは……あまり無事ではないみたいですね」
セラフィナが顔を曇らせた。後悔したばかりだというのにライはまた例の笑い方をす
る。視界に細かな粒子のようなノイズがあって、不便を感じるには程遠い程度ではある
それのせいでセラフィナの表情を昨日と同じくらい鮮明に見られないことに僅かに苛立
った。
「ああ、ちょっとぼやけてるよね。コレ直らなくてさ」
できるだけ軽くて薄っぺらい声を出そうと意識する。
こうやって態度を取り繕うことには慣れていたが、本当に得意なのかどうかはわから
ない。最近は特に、感情が表に出やすくなっているみたいだから。
「でも、このくらいは遅かれ早かれなってたから、気にすることないよ」
何も起こらなくても、一月後には、姿を維持するのが難しくなっていただろう。自分
の限界などという大層なものを知っているわけではないが、楽観も悲観もしないように
考えれば、その程度だろうと予想がついた。そう、たった一月分、早いだけ。
強がっているように聞かれたら嫌だと思って――実際そんなつもりもなかった――、
ライは話題の転換先を探そうと周囲を見渡した。
とりたてて特徴があるわけではない宿の一室。淡い淡いクリーム色の壁は清潔に保た
れていて、置かれている調度品も、特に質がいいというわけではないが、趣味はいい。
寝台の上で上体を起こしてるセラフィナを見て、ようやくライは彼女の服装が昨日と
変わっていることに気がついた。ぼろぼろになってしまったのだから、当たり前といえ
ば当たり前ではあるけれど。
「あー……えっと……似合うね、その服」
「ありがとうございます」
セラフィナがまた笑った。
言うことすべてが上滑りしているようで、だんだんと自分が滑稽な気がしてくる。ど
うしようもなくてライは苦笑した。どうせだったら「昨日のも似合ってたけどね」くら
いは言ってしまおうか。そう思ったが、勇気がなかった。
次の言葉を探すが、出てこない。うーん、と唸って天井を見上げる。
セラフィナの笑い声が少しだけ弾んで、それから彼女が言った。
「ライさんは、これからどうするんですか?」
「そーだねぇ……
あまり目立たないうちにソフィニアを出たいんだけど、どうしようかな」
「え?」
少しだけ、セラフィナの表情が変わった。
どういう種類の変化なのか読み取れないが、あまりプラスの感情では、ないように感
じる。
「そろそろ飽きて来たんだ」
適当なことを言いながら目を逸らす。本当は、森林都市ポポルで起こった爆破事件の
犯人として手配されてるから。
どういう理由だかはわからないが――濡れ衣、だろう。
たとえ、ちょうどその頃の記憶がなくたって、不自然な距離を移動していたとして。
そんなことをする理由はないのだから。
決して居やすくはなかった。だが、最低限の居場所があったポポルの町のことは好き
だ。人がたくさんいるのに穏やかに時間が流れていく感じが少し懐かしい。
だけど、もし真犯人が捕まっても、ポポルはもう二度と、帰る場所には、ならない。
不信と嫌悪の視線を浴びせられて、追い出されるのがわかりきっている。
「どこ行こうかなぁ……できるだけ、東の方に行きたいんだ」
ポポルは西だ。近づくほど危険だから。帰れない場所からは離れたいから。別に、北
……は海だが、南でもいい。西の反対は東だから言ってみただけだ。
「東の方……」
セラフィナが少し俯いて呟く。
彼女は何かを思い出すように目を細めて黙り込んでしまった。
「でも――そうだなぁ」
東の方には何があったか。クーロン、ムーランといった都市には何度か行ったことが
あるが、あのどこか常に緊張している雰囲気は、どうも疲れる。エウディスあたりは真
面目に物騒だから、できれば近づきたくない。
更に東へ行けばヴァルカンや、いくつか小さな国もあったような気がするが……
また悩みかけて、ふと思いついた。それはそれだけの価値しかない思いつきに過ぎな
かったが、まるで天啓のようにすんなりと意識に居座った。
「コールベル……なんて、いいな。うん」
芸術の町と謳われる水都。昔から一度は行ってみたいと思っていたんだ、と思い出し
て、ライは薄く笑顔を浮かべて言った。
「僕は吟遊詩人になりたかったんだ。
だから、一度は行ってみようと思ってんだよね」
喉に刻まれた深い傷が疼くのを感じた。喋れるけれど歌えない。
動くけれど壊れた手をゆっくりと握り締める。曖昧な笑顔のまま。
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人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア ―宿屋『クラウンクロウ』
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ライの曖昧な笑顔にセラフィナは少し目を逸らした。自分にはどうしようもないこ
とだと痛感させられる気がして。
何気なく見た窓の外では、目が覚めるような青空に小さな鳥が二羽飛んでいた。仲
良くじゃれるように飛ぶ小鳥に目を細める。黄色い嘴[くちばし]を持つその鳥の名
前は思い出せなかったが、鮮やかな青い尾が印象的だった。
「コールベル……私も行ってみようかしら……」
何気なく口をついて出た言葉。ライに対して言ったつもりのない独り言だったのだ
が、ライにはしっかりと聞こえていたようで。
「え、いや、別についてきて欲しいとかそういうつもりじゃ」
片手をひらひらと振りながら、もう片手で顔を覆うようにしてライが苦笑した。
その姿がなんだかとても可愛らしく見えて、セラフィナも笑った。
「私が一緒の旅はイヤですか?」
一緒に行こうとか、そこまで考えてはいなかったが、口に出してみるとそれもいい
なと思う。まあ、相手のあることだから無理強いするつもりはなかったけれど。
「いや、そうじゃなくて、イヤな訳じゃないんだけど、ほら、体の方、無理しちゃダ
メだよ?まだ安静にしておかなくちゃさ」
しどろもどろなライの言葉に、苦笑しながらも小さく胸が痛む。胸には傷を受けて
いなかったと思ったけれど……セラフィナは首を傾げ、肩を竦[すく]めた。
「そうですね、今日これから立つのは無理そうですし」
ベッドに後ろ手をついて枕に寄りかかろうとすると、慌ててライが手を貸してくれ
た。柔らかい枕に体を預け、目を閉じて一つ深呼吸。すると体も心もほんの少しだけ
軽くなったような気がした。
「ありがとうございます」
ライに笑顔を向けて、セラフィナは話しかける。
「私も、出来るだけ早くソフィニアを出ようと思っていたんですよ」
行き先は決めていなかったけれど、とは言わない。
「この傷を詮索されるのも避けたいですし、ここにいたらあの子に捕まってしまう気
がして」
嘘ではなかった。助けることの出来なかった例の少女。彼女のことを忘れるつもり
は毛頭なかったが、いつまでも彼女の思いに縛られるわけには行かなかったから。
ライがなにも言わず聞いていてくれることに感謝しながら、視線をドアに向け、小
さく呟いた。
「ここに長居をするのは辛すぎるから……」
涙で視界が歪んだ気がして目を閉じる。また一つ深呼吸をして、出来るだけ明るく
声をかけた。
「ねえ、ライさん。コールベルで見かけたら、声をかけてくださいね?」
なんとなくあの笑顔を見るのが怖くて、目を閉じたまま笑顔を浮かべる。返事の代
わりにライは声を上げて笑った。
「……ライさん?」
「くっくっ、ごめ、はははっ」
なにがそんなにおかしかったのか、首を傾げるセラフィナを見て、ライがどうにか
笑い声を飲み込む。
「ほんと、セラフィナさんには敵わないよね。また無茶をする気でしょう?」
「ふふっ、そんなつもりはないですよ。でも……そうですねぇ、無茶をしないように
見張ってくれる人がいればいいんですけど」
セラフィナも笑う。もう一度、ちゃんと誘ってみようか。今なら笑って快諾してく
れそうな気がする。
「……一緒に来ていただけませんか?」
軽く言おうと思ったのに真剣な声になってしまって、誤魔化すように笑った。ライ
も笑い返した。掌[てのひら]が汗ばんで、思わず毛布を握りしめる。
「それもいいね」
ライは窓の外を見ながら返事した。仲良く遊ぶ小鳥達も、小さく小さく鳴いた。
「セラフィナさん、無理してない?」
一週間後。セラフィナとライは、ソフィニアから北へと続く街道を歩いていた。
「大丈夫ですよ」
まだ歩けるようになったばかりだというのに、足取りも軽くセラフィナは答える。
途中に何度も休憩を挟んで、しかし馬車や馬は揺れが体に響くからと徒歩を選んだの
は彼女だった。
「やっぱり、馬車か何かの方がよかったんじゃないかな」
「でも、あれくらい上質の馬車じゃなかったら、結構揺れが酷いんですよ?」
ちょうど後方から来た馬車をセラフィナが指し示す。確かに高級そうな、そしてお
金がかかりそうな馬車だ。道の端に寄り、二人が足を止めると、今まさに目の前を通
り過ぎたはずの馬車が急停車し、中から一人の若い男が顔を出した。
「セラフィナ様?!」
思わずセラフィナは目を逸らし、ライは呆気にとられる。
空は高く、青く、珍しいほどに澄み渡っていた。
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人物:ライ セラフィナ
場所:街道(ソフィニア⇔バイコーク)
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馬車に揺られながら――という表現は、この場合には間違いだろう。殆ど、揺れがな
い。クッションが効いているだけでなく車輪の種類やら何やらに、細かな工夫がなされ
ているらしい。しかし、専門の知識のないライには判別つかなかった。
「セラフィナさん、いいところのお嬢様だったんだね」
窓の外を眺めながらライがそう言うと、セラフィナは複雑そうな微笑を浮かべた。
詮索して欲しくなさそうだと一目でわかるその様子に、どうしたものかとライは目を
伏せる。
そしてさっきのことを思い出す。
馬車から飛び降りてきた若い男はトリステン家の使いだと名乗った。
確か、ここ数年で幾つかの大都市に勢力を伸ばしてきた地方商家。ポポルにも進出し
ていたと思う。何の分野を扱っているのかは覚えていないが。
男はセラフィナの前に跪いて時代錯誤な――今時、どこかの王族にしかやらないよう
な大仰なご機嫌伺いの言葉を並べ立て、ついでに、セラフィナの横で事態についていけ
ずに突っ立っていたこちらに明らかな不審の目を向けてきたりした。
「なんで魔物なんか連れていらっしゃるのですか」とズケズケ言ってきたのには、ちょ
っとカチンときて何か言い返そうとしたが、その前にセラフィナに制止されて、そのま
ま彼女が男を強引に説得して、しぶしぶ納得させた。
その後で男は「どうして従者もなくこんなところにいらっしゃるのですか」なんて言
い出して「道中は危険ですから」と続いて、なんだか、気がついたら二人して馬車に乗
せてもらうことになっていた。
北の岬にある港町に、分家の屋敷があるそうで、この馬車はそこへ向かっているらし
い。このままでは恐らく立ち寄ることになるのだろうが……セラフィナはあまりそうし
たくないみたいだ。
流れていく景色は、いくつかの町や村を通り過ぎた。かなりの急ぎなのか、この付近
では大きな町であるバイコークにも寄らないという。男は、狭い場所に座り続けること
で体に負担をかけることを、セラフィナに詫びていた。
本当だったら徒歩のはずだった行程を歩かなくて済むというわけで、その面に関して
はありがたい話だ。セラフィナは、自分が病み上がりであることなど男には言わなかっ
たし、男もまったく気づいていないようだったが。
ライの都合で言えば、勘弁して欲しかった。
ことあるごとにセラフィナの機嫌を伺って彼女を困らせる男と向かい合って長時間を
過ごすのは、いい加減に殴りたくなるのを我慢しなくちゃいけなくて精神的に悪い。
男の方は、やっぱり、すごい気に入らなそうな視線をたまに向けてくるし。
セラフィナとトリステン家の関係がどうなのかは知らない。だがきっと、この男も、
同じようなものだろう。ただ、顔と名前と身分を知っているから、無闇に敬っている。
そんなところ。
だから、男が口を開くとライが無言で睨む。ライが口を開くと男が「この方に無礼な
口を利くな」と睨む。でも、そろそろ諦めたらしく相手も無言になってきたから、判定
勝ちだろうか。勝ち負けがあるかはともかく。
寝たふりを決め込むことにして、ライは体勢を変えて目を閉じた。何言われても反応
するもんか。
昔、何かで寝たふりしていたら本当に寝てしまって相方に怒られたことがあるが、今
回は大丈夫だ。だって睡眠をとることはできないから。
便利といえば便利だが、この際、いっそ本当に寝てしまった方が心の平穏は保てるよ
うな気がする。夢の中にいれば、目の前の馬鹿が何を言っても聞こえないで済む。
下手したら死んだふりだよなぁとか、あんまり趣味のよくないことを思いついた。
位置的に移動しないで一箇所に留まっているのならば遠慮せず姿を消すが、馬車が移
動しているから、実体は保たなければならない。
ああ、そういえば、船の上でもそうか。疲れること、この上ない。
――少しだけ開いた窓からの風も、あまり和やかではない空気を薄めることはできな
いでいる。そのまま、馬車は走っていく。
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人物:ライ セラフィナ
場所:街道(ソフィニア⇔デルクリフ)
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馬車に乗ることになってしまって、セラフィナは正直「面倒なことになったな」と
思っていた。以前世話になったトリステンの名前を出されれば無下には出来ないし、
だからといってずっと付き合ってやるほどの義理もない。
ライとトリステン家の使いはやたら緊迫した空気を作ってくれるし、せめて皇族の
威光を敬っているだけの男がいなければ休息もとれるのに、と思わずにはいられなか
った。重い沈黙も傷によくないような気がする。
「もうすぐバイコークを抜けます」
ふて寝を決め込んだライをちらりと横目で見ながら、男は告げた。
目的地まではソフィニアからココまでの2~3倍の距離があると聞くと、途中で休
憩を挟めないのが深刻に感じてくる。
「御者台の方は涼しいのでしょうね」
何となく口にした一言は、思ったよりも男を慌てさせた。
「冷たい水や扇子でもお持ちいたしましょうか」
そういう男の顔は汗が滲んでいる。セラフィナは元々あまり汗をかかない体質らし
く、涼しい顔で笑顔を向けた。
「結構です。私も少し休もうかと思うのですが、他の方の前で休むのはあまり慣れな
いモノですから」
席を外してくれと暗に言っているのだ。分かってくれると良いのだが。
「ああ、そんなことにも気づきませんで申し訳ありません」
そういうと男はなにやら紐を引き、御者台へ合図を送った。小さな揺れとともに一
端馬車が止まる。
「御者台の方へおりますので、ご用の際にはこの紐をお引き下さい」
深く一礼すると、男は馬車を降りていった。すぐに馬車はまた動き出す。
「助かったよ」
寝たフリを決め込んでいたライが苦笑した。セラフィナも疲れたように笑う。
「無理してない?」
ちょっと心配そうに覗き込むライ。大丈夫、と答えようとして、セラフィナはやめ
た。
「さすがにちょっと疲れました」
深く深呼吸を一つ。
「しばらく、肩をお借りしてもイイですか?」
空いた向かい側の席に移ろうとしたライが一瞬躊躇してまた元の位置に座り直す。
「えーと、どうしたらいいかな」
「そのまま、隣にいてくれると助かります」
小さく笑うとセラフィナは遠慮がちに寄りかかる。他の人の前で休むのに慣れない
と言ったのは嘘ではないが、さっきよりもずっと落ち着いて休めそうな気がした。
「こんなんで本当に休める?」
ライも疲れているようだったが、セラフィナはそのことに触れないことに決めた。
自分に何もできないのなら、せめて彼が居心地悪くならないように、と思ったから。
「ありがとうございます」
最後は消え入りそうな声で礼を言った、のまでは覚えている。思いの外安心したセ
ラフィナはそのまま眠りに落ちてしまったから。
馬車は北へ向かって走り続けている。気が付けば北の岬の港町・デルクリフまで、
残りわずかになっていた。
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人物:ライ セラフィナ
場所:港町デルクリフ
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岬の先にあったのは、想像していたよりもこじんまりとした町だった。小さな入り江
に、港そのものだけではなく町全体までも寄り添って、活気がないとはいかないが、あ
まり賑わっているというわけでもなく。
ソフィニアをこの周辺の中心として考えれば、大陸の西側との交流に使う港町はイノ
スで事足りてしまうのだ。
そして西にも東にも、陸路も続いている。だから、どこか半端な発展を遂げ、それが
そのまま、このデルクリフという港町全体の雰囲気となっているのだろう。
馬車は速度を落とさず町の中へ入り、「もうすぐ到着します」と顔を覗かせた男によ
れば、目指す先は丘の上の館のようだった。町を睨め下ろすように聳える豪邸。一目で、
この町でどれだけの力を誇っているかが理解できた。権力なのか財力なのか、或いは両
方を兼ね備えているのかまでは、わからないが。
目を覚ましていたセラフィナが少し顔を曇らせる。
「あの、申し訳ないですけど、急いでいますので……」
「でしたら是非ともご一緒していただけませんか。
この町の大きな船は、殆どがエッカルト家の所有ですから、ご来訪いただければ、旅
もはかどることでしょう」
セラフィナの表情が更に複雑になる。
当の相手は、ただただ得意そうに笑顔を深くした。
「……?」
何かがおかしいなと思いながらライは少しだけ目を細める。どうやらセラフィナは、
彼らにとってよっぽど大切なお嬢様らしいけれど、そうだとしたら普通、旅などやめて
留まるように勧めはしないか。
少なくとも、正規の共ではなく得体の知れないユーレーと二人(一人と一匹、と数え
られてるような気がしなくもない)だけで、乗り物も使わずのてのて歩いていたら……
普通は、もう少し違う反応をしないか?
なのにこの男は彼女の行き先さえ問いもしない。その上で、旅の手伝いを――などと
いうような内容の話を切り出した。
金持ち連中の常識なんか知らないから、意外とそういうものなのかも知れない。
縁のない世界の“アタリマエに”違和感を感じるのは、よくあることだろうが……
それでも少し気になって、口を出してみる。こちらが言葉を考える一瞬の間に即座に
嫌な顔を作った男の、反射神経だけは評価してもいいかも知れない。
それにしても、こういう風に対応を変えるから一言一言の滑稽さが増していると、こ
の男は自覚しているのだろうか。教える義理もないからどうでもいいけど。
「いえ、特別扱いしていただくわけにはいきません」
困惑の濃い笑顔を見なくとも、セラフィナが困っていることは明白だった。それに気
づかないほど、この男は鈍いのだろうか。それとも鈍いふりをしているのだろうか。
「私たちはここで失礼させていただこうと思います」
「でしたら――」
と、尚も言い募る男の声に、ようやく譲歩の色が滲んだ。
彼は御者に声をかけ、馬車の速度が遅くなり、すぐに止まった。こんな道の真ん中で
迷惑だなぁと思ったが黙っておく。口を出せばややこしいことになるのはわかっていた。
「せめて、お泊りになられる宿はこちらで用意させてください。
近頃は物騒ですから……」
物騒なのは昔からだ。
ソフィニアの事件は派手だった上に、一般に情報が秘匿されたまま“解決”してしま
ったから、記憶から薄れるにはまだ時間がかかるかも知れないが。そういえば、ひどか
ったらしいポポルの爆発事件のことも、あまり近くない土地にいるせいもあるだろうが、
すっかり話に聞かなくなった。
人の話題なんてあっという間に入れ替わっていく。このままいけば、あの手配書も、
うやむやのうちに分厚いファイルに埋もれて忘れられてくれるかも知れない。
誰も掘り起こさなければ――だが。
これ以上は無理だと思ったのか、セラフィナは「それではお願いします」と答えた。
男は「この町で一番の宿をご用意いたします」と言ってから、初めて、こちらを横目に
した。
「そちらの方は……如何いたしましょうか?」
言いにくそうにしたのは、ただ単に、いい家のお嬢様のご機嫌を損ねたくないと思っ
たからというわけなのだろう。相手の意図はどうでもよかったが、嫌悪と見下しの雰囲
気がはっきりと伝わってきていい気分はしなかった。
普通ならここで恐怖とか畏怖とか混ざってるもんなんだけどなぁ。僕って、そんなに
ナメられるような見た目だっけ? 確かにテンション高い方ではないけど。
「放っといていいです」
「そですか」
自分で答えると、今回はあっさりと頷かれた。
こういう分かりやすいところは、或いは、この馬鹿の欠点であると同時に美徳かも知
れない、と、思い直してみたりした。