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人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア ―夜の市街地
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セラフィナは老人の言葉を頭の中で反芻した。
「放っておこうと思ったが、目撃者はちゃんと消せと怒られたのだよ」
……ソレはつまり、彼の後ろにまだ厄介な御仁が控えていることを物語っている。
一瞬だけ眉根を寄せると、セラフィナは構えを崩さないままライの目線を探った。見
ているのは例の死霊使いだと思われる老人ただ一人。他の付き従う死霊達は今回は来
ていないのか。それとも、これから増えてゆくのか。
もしかしたらチャンスは今なのかもしれない。一番の窮地に一点の光が見いだせた
ら、ソレが逆転の鍵になる。
「消す対象は私一人ですか?」
心なしか口角が上がる。この状況を楽しむ余裕など無いはずなのに、落ち着いてい
く自分がソコにいる。
「私は貴方を許さないと言ったはずです」
にっこり。自然に笑みが漏れる。構えを解いた刹那、セラフィナは自分に針を突き
立てていた。
「セラフィナさん?!」
ライから驚きの声が漏れる。どう考えてもおかしい行動に見えたに違いない。殺さ
れるくらいならいっそ自らの手で……と見えなくもない。が。
「さあ、行きましょう」
セラフィナは男に向かって走り出す。体を低くし、針を構え、さっきまで息を切ら
していたのとは別人のような動きで突進する。
セラフィナは限界までの力を引き出そうとしていた。リミッターオフ。簡単に言っ
てしまえばそんなところだ。普段無意識に制限をかけている能力から枷をはずす。
火事場の馬鹿力なんて言うのが分かり易い例かもしれない。普段から限界まで引き
出していたら体が持たないために秘められた、本来の力。ソレを意図的に引き出す。
「破っ!」
銀の針が空を舞う。針は二重外套に払いのけられる、が。
(宙で止まらない!いける!)
狙うは山高帽の下、影に覆われた死霊使いの目。
ライがダートを投げ、払いのけるその一瞬を狙う。
外套のひらめきがダートをうち払う。
「そんな……」
銀の針は、確かに影に覆われた山高帽の下で消えた。
普通の人間なら無事で済むはずがない。そう、普通の、ニンゲン、なら。
「おやおや、困ったお嬢さんだ」
山高帽を悠々と被り直す死霊使いが、一瞬見せた顔は。
白く硬質な、ガイコツ。
射抜かれたはずのソコには、光を受け入れない完全な闇があった。
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人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア ―夜の市街地
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「銀には退魔の効果があると伝えられているが……」
一気に間合いを詰めたセラフィナの腕がしなやかに伸び上がる。風に散らされる紙屑
のような跳躍でそれを躱しながら、老人は苦笑したようだった。
音もなく地面に降り立ち、ずるり、と、頭蓋骨に収まるはずもない長さの針を眼窩か
ら抜き出して、節くれだった指でつまんだそれを観察しながら彼は「ふむ」と呻く。
「伝承というものは、往々にして事実を誇張しているのだよ」
チィン――無造作に投げ捨てられた針が石畳に跳ねる。一瞬だけ同意を求めるような
視線を浴びたライは右手の中に剣を具現させて、折りたたまれた刃を広げた。
小さな音を立てて金具を固定した親指が細かく震えているのを無視して、柄を握る。
銀の武器で傷つけられたことなどないから、知らない。そんなどうでもいいことより
も余裕綽々の態度が気に食わなかった。しかし相手が余裕綽々なのはつまり――余裕が
ある、ということだろう。
いや、「だろう」なんて推定ではなくて、この敵は、二人のどちらも彼に匹敵し得な
いことを知っている。
洗練された体術で打ちかかるセラフィナを往なしながら、老人は、説教じみた口上を、
あくまで穏やかな口調で述べている。もういちど街灯の光に照らし出された彼は、今度
は路地裏で見たのと同じ人間の顔をもっていた。
「くっ……」
喉の奥で詰まるような短い笑い声にこの上ない嘲りの色を感じ取って、ライは突進の
一歩目を踏み出すと同時に姿を消した。
刹那の後には相手の背後に姿を現し剣を薙いでいる。
セラフィナを一人で相対させてはいけないと思ったが、それは今更だった。そう思う
のならば先陣を切るべきだったのに。
体を反転させた老人が容易く剣の刃を握り止める。
彼はまた苦笑して何かを呟いた。すぐ間近なのに聞き取れない。
急に心の奥がざわめいた――ざけんな何を笑ってんだ。異様な程に頭に血が上る。
馬鹿にするのも大概にしろと、一瞬前まで意識を占拠していた躊躇も恐怖も掻き消し
て視界が白むような激情にライは唸り声を噛み殺す。
セラフィナの軽い踏み出し音が老人の向こうから聞こえた。
動かせない剣を消し二本目を作り直して振り下ろす。大振りの一撃を敵は避ける気配
すら見せずに。
その体が一瞬にして無数のカラスに変わった。
群れの向こうに見えたのは、打ちかかった体勢で驚愕の表情を浮かべるセラフィナ。
彼女が刃の軌道の上にいるのを理解すると同時に、冷水でも浴びせられたようにさっと
意識が冷めた。
「――ッ!」
斬撃の勢いを殺すのは無理だった。自分の体も剣も強引に現実から引き剥がす。
飛び退ったセラフィナの髪を掠めた刃は何も切断せずに済んだ。
ばさばさとカラスが夜気を舞い、すぐに集まって老人の姿を形作る。
驚きに目を見開いて動きを止めたままでいるライのすぐ真後ろ――どちらから狙うか
は、ただの気まぐれだったのだろうが。
ライは慌てて振り返る。目の前に見えたのは老人の掌だった。
掲げられたというよりは無造作に突き出されたそれから放たれた白い光と衝撃に、視
力を灼かれ弾き飛ばされる。
視界の隅に見えたのは、道の両側に建ち並ぶ家々を囲う塀だった。
このまま激突してはただでは済まない。一瞬の間で、それだけを理解する。透過して
強引に勢いを消し難を逃れるつもりだったが。
(は……?)
本来そうであるように消え去ることができず、疑問符が浮かぶのと殆ど同時に、肩か
ら石塀に叩きつけられた。嫌に響いた鈍い音は体の中からも聞こえた気がする。
肺が潰れて息が詰まった感覚にむせ返る。
自分は元々呼吸などしていないことを即座に思い出しながら、ライが吐けたのは呻き
声だけだった。
適当なことを言ってセラフィナを安心させようとしたのか、老人に罵声を吐こうとし
たのか、どちらのつもりだったのかは自分でもわからないが。
「少しは面白いだろう?」
「……なにが……っ!」
セラフィナが呟く。珍しくも忌々しげな気配を滲ませる口調に、彼女の怒りが感じら
れた。このままじゃいけないけど、駄目だ動けない。ごめんさっきは偉そうなこと言っ
たけど僕は弱いんだ。
馬鹿にされているとすぐにわかった。
老人はクツクツと暗鬱な笑い声をこぼして、山高帽のつばに手をやる。
“目撃者は消せと怒られて来た”という言葉に反し、すぐにカタをつけるつもりはない
らしい。そしてその態度は、彼を叱責した人間――かどうかは知らないが――を、彼が
尊重するつもりはないということ。
となると、一連の惨殺事件の犯人は、体制の整った組織ではなさそうだが……
目の前に相手がいるのだから訊いてみてはどうだろうと思った。答えてくれるわけが
ない。「冥土の土産に教えてやろう」なんていうのは、一昔どころか二昔は前の三流悪
役の台詞だ。
実際に耳にしたことなど、一度たりともない。
「今のは、唯一の特技でな」
言って老人はひょいと肩をすくめた。
いっそ無防備といっていい仕草。
“唯一の特技”とはなんだろう。カラスに化けたことか、得体の知れない攻撃か、呪文
もなしにこちらの回避を封じたことか。
それとも人の神経を逆撫でする物言いだろうか。皮肉だが。
「…………」
最早、言葉もなくセラフィナが構えた。
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人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア ―夜の市街地
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低い姿勢のまま無言で踏み出し、足を払う。
当たるとは思っていなかった。そんなに楽観視は出来なかった。所詮、他の行動を
とらせないための時間稼ぎに過ぎないことも知っていた。
立て続けに放つ蹴りも、拳も、やはり相手を捉えるまでには至らない。
シュッ シュッ シュッ
空を切る音だけがこだまする。老人は面白そうにセラフィナを見下ろし、そしてラ
イは肩を押さえ苦痛に顔が歪ませている。
いつまで続いただろう。
受け流し、よけ続けるのにも飽きた目の前の敵は、おもむろに掌を差し出す。
その掌には光が集まり、そして。
避けられないタイミングではなかった。だが、完全に避けるには体勢を崩してしま
い、致命的な隙が出来る。セラフィナはギリギリまで体を反らし、踏み止まった。
「セラフィナさん?!」
ライの声が聞こえる。光が右の脇腹を浅く抉[えぐ]る。
きっと見ている方が痛いのだろう。ライの声の方が辛そうだ。
しかしセラフィナは痛みを感じていなかった。後で酷い痛みに襲われることは分か
っていたが、こんな所で死ぬわけにはいかなかった。
「破っ!」
至近距離で気弾を打ち出す。老人の片眉がぴくりと上がる。
一か八か、やっと見つけた僅かな隙。
「ライさん!」
叫びにも似た声と共に針を構え、投射する。ライは声に答えるようにダートを具現
化しようとするが上手くいかない。苦々しげに顔を歪める。
嬉しくない予想通り、敵は無数のカラスへと変化した。
一度に投げられる針は両手で八本、全部を当ててもまだ足りない!
一斉にからすが飛び上がる。撃ち落としたカラスは……半数に満たない。
セラフィナはキッと空を見上げた。カラスは何度か旋回して、急降下してくる!
もう一度針を構えるが、こちらが打つよりもカラスの動きは早かった。とっさに後
方へ飛び退き、左へ前回りに受け身を取る。
体を転がして避けるにも限界があった。鋭い鋼のような嘴[くちばし]が傷を狙っ
て襲いかかる。服を裂き、肌に無数の血が滲[にじ]む。
傷を庇うように体を丸めたセラフィナの上に、ライが覆い被さった。
無理をしたのだろう、肩から滴る血が地に落ちて、色を失い、消えていく。
このまま、朽ちてしまうのだろうか。
優しい彼を巻き込んで、何もできないまま。
目前に数羽のカラスが集う。体を復元するのには数が足りないのか、老人の頭だけ
が空中に浮かびあがる。
「時間切れだ」
ニィィィィッと不気味に笑った。口の中に光が集まる。
セラフィナは、思わず目を瞑った。ライがセラフィナから体を離し、飛びかかろう
としたが、間に合うはずもなく…………閃光が走った。
駆け寄ってくる足音が聞こえて、セラフィナは顔を上げた。何故か死の淵に立って
いたはずの自分が無事で、老人のガイコツがひび割れ無惨な姿で転がっている。
途端に、セラフィナは顔をしかめた。右の脇腹が焼け付くように痛む。頬や腕に幾
筋も残る切り傷も、まだ血が止まっていない。
「無事か?!」
駆け寄ってくるのはヘルマン。急行した先で無惨な死体を発見した後、慌てて戻っ
てきたのだろう。あれだけ大騒ぎで宿を飛び出したのだ。逃げた方角を覚えていた人
がいてもおかしくない。一人、先に飛び出してきたのだろうか?遠くから部下の靴音
が聞こえるような気もする。
「……彼は?!」
声を出すのも辛い。しかし、視界の何処にもライがいない。
セラフィナは必死に辺りを見回した。撃ち落とされたカラスの群と、無数の羽根。
ライの姿はやはり見あたらなかった。
「すまない、魔法銃には当たらなかったハズなんだが、閃光がおさまった後どこにも
見あたらないんだ」
ヘルマンが眉間に皺[しわ]を寄せ、深刻な顔をする。
セラフィナは座り込んで動けなくなってしまった。体の無理が、自由を奪う。
「とにかく、回復魔法を使えるモノを手配させる」
近くなった足音に、ヘルマンは駆け戻っていった。ヘルマンの背中がまだ見える。
が、いまなら彼の注意はセラフィナに向いていない。
「ライさん……意地悪しないで。本当はいるんでしょう?」
囁くようにセラフィナが語りかける。本当にいるのか、分かるわけはなかったのだ
が、いないことはもっと信じられなかった。
「……ほんと、セラフィナさんには敵わないよね」
目の前が揺らいだかと思うと、傷を負った姿のままのライが現れる。
「こういうの、あんまり見せたくなかったんだけどなぁ」
ちょっと疲れた笑顔。心なしか透けているような気さえする。
セラフィナのほうはというと、彼が来てくれたことに安心して、力が抜けてしまっ
た。
「ちょっ、無理するんだから……」
前方に倒れ込むセラフィナを支え、ゆっくりと地面に横たわらせたライは、セラフ
ィナの髪を少しだけ撫でつけるように触ると、再び姿を消した。
途中から目を閉じていたから、もしかしたら気のせいなのかもしれない。すぐ後に
ヘルマンが駆け寄る足音を聞いたような気もしたが、それも良く覚えてはいない。
ただ、ライが「またあとでね」と言ったのが気のせいじゃないといいのに、と、沈
みゆく意識の中でセラフィナは強く思った。
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人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア ―宿屋『クラウンクロウ』
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「おはよー、セラフィナさん」
こんこんと扉を叩いて、呼びかける。昇ったばかりの太陽の光が窓から入って、廊下
の壁を、うっすらた橙がかった強い白に輝かせている。少し、寒い……
気温は感じないはずだったのだが。
あの後、まだ事を公にしたくないという自警団の配慮で、彼女は元々部屋をとってい
たこの宿屋で治療を受けることになったのだ。惨殺事件の犯人と交戦したという話が知
れれば、治安維持隊は遠慮なく、まだ回復しきらな彼女を尋ねてくるだろう。
公的機関というものは強引だと決まっている。偏見と経験が根拠だ。
下手をしたら、早すぎると怒られかねない時間ではあるが――なんとなくセラフィナ
には早起きのイメージがあるので、夜が明けたらすぐに着てみることにしたのだ。
会ってどうするというわけでもなかったが、なんとなく。
夜だけは本当に長く感じるから、朝になって人間が起き出すのを見るとほっとする。
たとえ全くの他人だとしても、同じ時間に活動している人がいるかいないかというのは
……つまり独りか独りじゃないかということで。なんていえばいいんだろう? 朝が来
るまで静まり返った町の中に取り残されているのは辛い。かといって、賭場に行って騒
ぐような気力もない。
扉の向こうからは返事は返ってこなかった。
さすがにまだ寝ているのかな。まさか、この時間から何処かへ出かけているというこ
ともないだろう。朝の廊下は、しぃんと静まり返っている。
ぎぃ、と下の階で扉の開く音がした。
さっきから起きていたらしい主人と一言二言を交わして、来客は階段を上がってきた。
二人いるらしい。声を潜めた会話が聞こえる。
「それでは、解決……なんですか? 一連の事件は」
「……だろうな。少なくとも、そういうことになるだろう」
片方は聞き覚えがある。ヘルマンの声だ。ライは姿を消すべきか迷ったが、結局この
まま扉の前にいることにした。
昨日、魔法銃の余波で消えてしまったことを誤魔化せるならば誤魔化しておいた方が
いいだろうし、セラフィナの様子も聞いてみたい。昨夜は、彼女がここに運ばれたのを
見た後、すぐに立ち去ってしまったから。
「しかし、信じられませんね……素人が黒幕だなんて」
そんな話は人に聞かれない場所でしろ。
そう思いながら体を実体化しなおす。やはりさっきと同じく、昨日までほど鮮明な像
は結べなかった。
新しい怪我は消したが、その分、体が“いたんで”いるような気がする。何度幻を作
り直しても感覚が死んでいる部分が増えている。どういうワケか問題なく動くから、今
のところは別に構わないのだけど。
ただ、隠し切れなくなると人前に出られなくなる。そうなったら仮面でも被ってみよ
うか。別の意味で怪しい人になるけど。
階段を上り切ったヘルマンが「おや」と呟いてこちらに視線を向けた。
彼の後ろにいるもう一人は見えないが、少なくともヘルマンは銃を提げていない。ま
ずそれを確認してから、ライは口を開いた。
「……おはようございます」
「君は確か、カース君だったかな」
「ええ」
頷いてからライは首を傾げる。
「セラフィナさんなら、まだ寝てるけど?」
何が可笑しいのかヘルマンは苦笑のような表情を浮かべた。意図はわからないが、少
なくとも敵意の色は混じっていない。
彼は、階段の途中で立ち止まってるもう一人のために廊下の端に寄りながら、
「いやいや――まるで番犬のようだなんて思っていない」
ライは眉をひそめた。ケンカ売ってるなら受けて立ってやる、と半分くらい本気で思
いながら、どういう反応をするべきか考える。
「そういえば、君は人間ではないようだが」
「……犬でもありませんね。」
予測していたと言わんばかりに頷かれる。
舌打ちしそうになって、やめた。あまり行儀のよろしくない癖だ。直そう直そうとは
思っているのだが……
変わりに、気分を害したという表情を作り、言う。
「それに、人間外なんてそこらに溢れてるでしょう、この町」
「そうとも。彼らに紛れて入り込み、害を成す輩から、人々を守るのが我々の役目だ」
ヘルマンは笑った。ライは彼の横に立っている連れの男――格好からして、魔法使い
だろうか?――を見やったが、少し眠そうな顔をして話が終わるのを待っているだけの
ようだった。
「昨日の夜は無事だったかね?」
「体がダルいです。頭が痛いです。寒気がします。目が霞んでます。不調だらけです」
「…………体も頭も目も、ないだろうに」
「こーゆー表現は、なかなか抜けませんよ」
こちらを退治しようというような意思は見られないので、正直に答えることにした。
相手も、だいたいは正体を予測していて問うてきていたみたいだったから。
ライは肩を竦めて、
「……一応、生きてますよ。もう一回はさすがにアウトだと思うので。
あのバケモノに吹っ飛ばされたのが半分、魔法銃の余波が半分……」
「はは、悪いな。しかし、随分と追い詰められていたようだったからな」
あそこで加勢が入らなかったから、ここで意地の悪い大人にからかわれてはいられな
かっただろう。だから、感謝はしている。
「……なんつー威力のモノ使ってるんですか。禁制品レベルじゃない?」
「我々の立場も複雑でな……
実は、自警団とは世を忍ぶ仮の姿。その正体は、とある貴族の――」
「うわ聞きたくない。やめてください」
即行で拒否すると、ヘルマンの隣にいた男の方が、小さく噴き出した。どちらの意味
で面白かったのかは知らないが……それを知るということは、今の話の真偽を知るとい
うことだ。
冗談なのか本当なのかは知らないが、知らない方がよさそうなことは聞かないに限る。
「で、さっきの犯人はトーシロ云々は?」
「それは、こんなところで話すべきではないな」
「…………」
さっき堂々と話していたくせに、抜け抜けと言ってくる。
ライは溜め息をついた。そしてたっぷり数秒は黙ってから、問うた。
「じゃあ、こんな朝早くから、何の用ですか?」
迷惑という点では、人のことは言えないが。
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人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア ―宿屋『クラウンクロウ』
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扉がノックされたような気がしてセラフィナは目が覚めた。
見えるのは天井で、薄明かりから夜が明けたことが推測されて、ようやくココが宿
であることを思い出す。
昨日は、ああそう、あの後宿まで運ばれて、それで、応急手当をしてもらったんだ
った。治癒魔法を使える人をヘルマンさんが連れてきてくれたけど、封魔布を捲いて
いたせいかあまり効果がなくて。体を動かそうとすると引きつったように傷が疼[う
ず]くのは多分そのせい。宿の女将さんに手伝いを頼んで、持参の薬を傷に貼って、
サラシを巻いて。ボロボロになった服の代わりを捜してくれるとも言っていた様な気
がする。でも……。
「ライさん……」
彼には会わなかったはずだ。何処で何をして時間を過ごしたのだろう。
なんとか体を起こそうとしてようやくあられもない姿に気付き、慌てて毛布を掻き
寄せ、体に巻き付ける。人が入ってきた後に気付かなくて良かった。さすがに頬が火
照る。サラシ一枚で異性に会うわけにもいくまい。
「ちょっとあんたたち!怪我人の部屋の前で何やってんだい!」
威勢のいい声が部屋の中まで響く。ノックで起きたと思ったのは夢ではなかったの
だ。待たせた誰かに申し訳ないと思う反面、うっかり入ってもらわなくて良かった、
と胸を撫で下ろさずにはいられない。毛布を急いで巻き直し、髪を撫でつけ、枕を背
もたれにしてようやく上体を起こす。
「レディの着替えを覗く気じゃないだろうね?」
そう言いながらドアが軋んだ。入ってきたのは女将一人。
「ああ、まだ無理して起きちゃいけないよ」
そう言って、持ってきた紙袋から着替えを取り出す。青いシルク地に小さな龍の紋
様が銀糸で刺繍された東洋風の服。白い木綿のズボンが付いていてホッとした。東洋
風のデザインというのは動きが制限されることが多く、スリットが深く入っている場
合でも普段晒さない肌を露出させるようになっている。それは出来れば避けたかっ
た。
「ありがとうございます」
素直に感謝の言葉が漏れる。濡らしたタオルで一通り体を拭き、薬を張り替え、手
伝って貰いながらサラシを巻き直す。ようやく袖を通した新しい服は、なんだか少し
くすぐったかった。
「本当に災難だったねぇ」
タオルや洗面器を片づけながら女将がこぼす。ヘルマンの配慮で今回のことは伏せ
られていた。女将にも正確な情報は伝わっていないだろう。少し申し訳なく思いなが
らも、困ったような笑顔を向けることしかできなかった。
「ところで」
「はい?」
「昨日のお兄さんが扉の前でお待ちかねだよ、部屋に入れてもイイかい?」
昨日の、お兄さん……?ライの顔が浮かぶが、期待がはずれると寂しいので頭から
追い出すことにした。ヘルマンは様子を見に来ると言っていたから、彼であった場合
に残念そうな表情になるのも失礼だろう。まあ、ヘルマンが「お兄さん」と呼ばれる
年齢かは微妙なところではあるのだが。
「私は大丈夫です、お通しして下さい」
ベッドで枕を背もたれにしたまま、髪に少し櫛を通して答える。女将は持ってきた
荷物を片づけると、心配そうな顔を向けて囁いた。
「早めに休みなよ?」
女将の心遣いがありがたかった。セラフィナが頷くと、女将が部屋を後にする。扉
の前で「怪我が酷いんだから長居はダメ」とか「静かにしなさいよ」とか、客に注意
する声が聞こえたので、セラフィナはくすくすと笑った。が、やはり傷に響いてすぐ
に顔をしかめる。もう少し、そう、もう少し痛みが引けば回復も早いだろう。練気は
自己再生機能も促進させることが出来るはずだから。一度深呼吸して、意識を痛みか
ら引き離す。大丈夫、呼吸法に気をつければ、動かない分はそう痛まない。
「セラフィナさん、入るよ?」
扉の隙間から顔を出したのはライだった。セラフィナは驚きと喜びに身を乗り出し
そうになって苦痛に顔を歪める。心配そうに表情を曇らせるライの目に映ったのは、
苦笑するセラフィナの姿だった。
「ライさん、心配したんですよ?」
「それはコッチのセリフだから」
セラフィナの苦笑にライも苦笑で返す。ラ後ろから居心地悪そうにヘルマンが現れ
た。
「具合はどうだね、お嬢さん」
「おかげさまで予想よりは早く動けそうです」
「そうか。一応事件のことで言っておきたいことがあるんだが、イイかな?」
「……伺いましょう」
セラフィナがもたれていた枕から体を起こし、姿勢を正す。一瞬眉をひそめたが、
何事もなかったように笑顔を浮かべてみせた。
ライは何も言わずにベッド脇に立ち、セラフィナ側からヘルマンを見る。
「今回の事件は解決した、ということで、これ以上の詮索はやめていただく」
ヘルマンは事務的な口調で淡々と続ける。
「そのかわりコチラも君たちのことは詮索しない。治安維持隊に引き渡しもしない」
「……それだけですか?」
「勿論口外は厳禁だ。そう悪い話ではないだろう」
ヘルマンはあからさまな態度でライに視線を振った。ライが不快な表情を浮かべる
も、ヘルマンに敵意や殺意は見られなかった。
「そうそう、この街に入る前に助けられたお礼がまだだったからね」
ベッドの隅に小さな布袋が置かれる。
「傷が癒えてしばらく位は生活できるだろう」
「そんなつもりでは……」
「受け取っておきなさいお嬢さん。今回のお詫びも表立っては出来ないのだから」
事務的な表情を崩してヘルマンが笑う。では、と軽く会釈をして、ヘルマンは部屋
を後にした。残されたのはライとセラフィナの二人だけ。
「ええと、結果オーライ?」
肩を竦[すくめ]めるように振り返ったライの姿がなんだか微笑ましくて、セラフ
ィナは満面の笑みを浮かべた。