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人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア ―夜の市街地
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「銀には退魔の効果があると伝えられているが……」
一気に間合いを詰めたセラフィナの腕がしなやかに伸び上がる。風に散らされる紙屑
のような跳躍でそれを躱しながら、老人は苦笑したようだった。
音もなく地面に降り立ち、ずるり、と、頭蓋骨に収まるはずもない長さの針を眼窩か
ら抜き出して、節くれだった指でつまんだそれを観察しながら彼は「ふむ」と呻く。
「伝承というものは、往々にして事実を誇張しているのだよ」
チィン――無造作に投げ捨てられた針が石畳に跳ねる。一瞬だけ同意を求めるような
視線を浴びたライは右手の中に剣を具現させて、折りたたまれた刃を広げた。
小さな音を立てて金具を固定した親指が細かく震えているのを無視して、柄を握る。
銀の武器で傷つけられたことなどないから、知らない。そんなどうでもいいことより
も余裕綽々の態度が気に食わなかった。しかし相手が余裕綽々なのはつまり――余裕が
ある、ということだろう。
いや、「だろう」なんて推定ではなくて、この敵は、二人のどちらも彼に匹敵し得な
いことを知っている。
洗練された体術で打ちかかるセラフィナを往なしながら、老人は、説教じみた口上を、
あくまで穏やかな口調で述べている。もういちど街灯の光に照らし出された彼は、今度
は路地裏で見たのと同じ人間の顔をもっていた。
「くっ……」
喉の奥で詰まるような短い笑い声にこの上ない嘲りの色を感じ取って、ライは突進の
一歩目を踏み出すと同時に姿を消した。
刹那の後には相手の背後に姿を現し剣を薙いでいる。
セラフィナを一人で相対させてはいけないと思ったが、それは今更だった。そう思う
のならば先陣を切るべきだったのに。
体を反転させた老人が容易く剣の刃を握り止める。
彼はまた苦笑して何かを呟いた。すぐ間近なのに聞き取れない。
急に心の奥がざわめいた――ざけんな何を笑ってんだ。異様な程に頭に血が上る。
馬鹿にするのも大概にしろと、一瞬前まで意識を占拠していた躊躇も恐怖も掻き消し
て視界が白むような激情にライは唸り声を噛み殺す。
セラフィナの軽い踏み出し音が老人の向こうから聞こえた。
動かせない剣を消し二本目を作り直して振り下ろす。大振りの一撃を敵は避ける気配
すら見せずに。
その体が一瞬にして無数のカラスに変わった。
群れの向こうに見えたのは、打ちかかった体勢で驚愕の表情を浮かべるセラフィナ。
彼女が刃の軌道の上にいるのを理解すると同時に、冷水でも浴びせられたようにさっと
意識が冷めた。
「――ッ!」
斬撃の勢いを殺すのは無理だった。自分の体も剣も強引に現実から引き剥がす。
飛び退ったセラフィナの髪を掠めた刃は何も切断せずに済んだ。
ばさばさとカラスが夜気を舞い、すぐに集まって老人の姿を形作る。
驚きに目を見開いて動きを止めたままでいるライのすぐ真後ろ――どちらから狙うか
は、ただの気まぐれだったのだろうが。
ライは慌てて振り返る。目の前に見えたのは老人の掌だった。
掲げられたというよりは無造作に突き出されたそれから放たれた白い光と衝撃に、視
力を灼かれ弾き飛ばされる。
視界の隅に見えたのは、道の両側に建ち並ぶ家々を囲う塀だった。
このまま激突してはただでは済まない。一瞬の間で、それだけを理解する。透過して
強引に勢いを消し難を逃れるつもりだったが。
(は……?)
本来そうであるように消え去ることができず、疑問符が浮かぶのと殆ど同時に、肩か
ら石塀に叩きつけられた。嫌に響いた鈍い音は体の中からも聞こえた気がする。
肺が潰れて息が詰まった感覚にむせ返る。
自分は元々呼吸などしていないことを即座に思い出しながら、ライが吐けたのは呻き
声だけだった。
適当なことを言ってセラフィナを安心させようとしたのか、老人に罵声を吐こうとし
たのか、どちらのつもりだったのかは自分でもわからないが。
「少しは面白いだろう?」
「……なにが……っ!」
セラフィナが呟く。珍しくも忌々しげな気配を滲ませる口調に、彼女の怒りが感じら
れた。このままじゃいけないけど、駄目だ動けない。ごめんさっきは偉そうなこと言っ
たけど僕は弱いんだ。
馬鹿にされているとすぐにわかった。
老人はクツクツと暗鬱な笑い声をこぼして、山高帽のつばに手をやる。
“目撃者は消せと怒られて来た”という言葉に反し、すぐにカタをつけるつもりはない
らしい。そしてその態度は、彼を叱責した人間――かどうかは知らないが――を、彼が
尊重するつもりはないということ。
となると、一連の惨殺事件の犯人は、体制の整った組織ではなさそうだが……
目の前に相手がいるのだから訊いてみてはどうだろうと思った。答えてくれるわけが
ない。「冥土の土産に教えてやろう」なんていうのは、一昔どころか二昔は前の三流悪
役の台詞だ。
実際に耳にしたことなど、一度たりともない。
「今のは、唯一の特技でな」
言って老人はひょいと肩をすくめた。
いっそ無防備といっていい仕草。
“唯一の特技”とはなんだろう。カラスに化けたことか、得体の知れない攻撃か、呪文
もなしにこちらの回避を封じたことか。
それとも人の神経を逆撫でする物言いだろうか。皮肉だが。
「…………」
最早、言葉もなくセラフィナが構えた。
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