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2024/04/30 06:26 |
ファランクス・ナイト・ショウ  1/クオド(小林悠輝)
登場:クオド
場所:ガルドゼンド -アプラウト子爵領
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 ガルドゼンド、南西辺境。
 ヴィオラ・アプラウト子爵は頭を悩ませていた。
 彼の数少ない領民たる一人の老人が粗末な荷馬車を引いて屋敷を訪れたのが発端だっ
た。老人は荷馬車を示すと「貴族の方とお見受けしましたので」と拙く言った。運ばれ
てきたのは気を失った若い男で、確かに騎士と思しき格好――紋章入りの鎧羽織と鉄色
の鎖帷子に身を包んでいた。

 行き倒れの放蕩貴族を保護したのであれば何の問題もない。手厚く遇し、恩の一つで
も記憶に留めさせればいいことだ。本来なら簡単に済むはずのこの件がヴィオラを悩ま
せているのは、男が纏っていた青い鎧羽織の紋章のせいだった。

 翼を広げた勢黒鳥は、紛れもなくアプラウトのもの。
 ただし二百と三十二年前にパフュール王家に戦を挑み、惨敗の末に臣下となるより前
に掲げていた紋だ。現在のアプラウト家の紋章は、敗戦の際に服従の証として下賜され
た足なし燕。

 家紋の剥奪は屈辱だった。黒鳥を取り戻すため武勲を焦るあまり戦場に散った一族の
勇士は一人ではない。未だあの呪わしい命喰いの鳥を掲げている親戚はいただろうかと、
ヴィオラは図書館で、分厚い紋章辞典と睨み合うことになった。

 そして、三日め。例の男が意識を取り戻したと報を受けるなり、ヴィオラは辞典を放
り出して図書館を飛び出した。古びた羊皮紙のにおいといい、無駄に飾り立てられて文
字の読みにくい写本といい、気分がよくなる要素は何一つない。その上、屋敷の図書館
は暗く、蝋燭の光を頼りに篭らなければならなかったのだ。消し忘れた蝋燭の灯を背後
に、ヴィオラは石造りの廊下を早足に進んだ。

“屋敷”とは言うものの、造りは古い砦そのものである。窓が少ない上、歳月に黒く変
色した石壁にはひどい圧迫感がある。元々あった調度は大略を売り払った。九年前、家
を継ぐ際に起こった問題を片付けるために資金が必要だったのだ。元々傾いていた家は、
現在の状況を維持するだけで精一杯だ。

 こんなものを背負わされるなら還俗しなければよかった。
 容姿ばかり端麗で一人では何もできない義兄に泣きつかれ、聖書を置き剣を握った十
六歳の自分の浅慮を呪わない日はない。嬉しくもない騎士叙勲の後、ひたすら領地に縛
りつけられ、もうすぐ十年が経とうとしている。戦争でもあれば気晴らしになるだろう
に、王家は決してアプラウトを頼らない。あの狂王め。
 領内の魔物狩りでは物足りない。今回のことが、後々まで悪影響を及ぼさない程度に
暇つぶしになればいいのだが。

 灯りを手に前を行く従士が一つの扉の前で立ち止まった。ヴィオラは控えているよう
命じてから扉を二度、叩いて名乗り、入室しても構わないかと尋ねた。間髪入れず返っ
た答えは、客人ではなく義兄の声だった。少々、気分を害しながら扉を開く。

 擦り切れかけた絨毯を敷いた部屋は、この屋敷のどこでもおなじことだが、決して広
くはない。調度の不足が、逆に狭さを感じさせない結果になっている。窓はあるが、や
はり光は殆ど入らない。小テーブルの上で硝子灯が瞬いている。

 窓際の寝台、半身を起こした例の男はまだ夢うつつなのか、ぼんやりとした表情をし
ていた。拾ってきた当初の汚れを洗い流された彼を見て、ヴィオラはまず、毛並みはよ
さそうだという印象を抱いた。日の光を意図的に避け続けたような生白い肌は貴族的と
いえば貴族的であったし、印象に残らないほどすっきりした、言ってしまえば地味な顔
立ちに合わないほど濃い蒼の瞳にも同様の評価をすることができた。

 仮に用意した簡素な服の上から見たところ、線は細いが非力というわけでもなさそう
だった。従士によれば、体中に戦傷の跡があったという。これも、前に挙げたのとは真
逆の意味で貴族らしかった。

 そして、汚れを落とされても唯一変わらない、冴えない灰色の髪――ヴィオラはそれ
を認めると、かすかに顔を蹙めた。この辺りでは、アプラウトの人間にしかない色だ。
長兄を追放してしまった今、もうヴィオラしかいないはずなのに。

「ヴィオラ! お客人は家長が現れないものだから不安がっているよ」

「申し訳ございません、義兄上」

 寝台の横にいた金髪の義兄が振り返って問うてくるのを横目にし、ぞんざいに応える。
 もうとっくに三十を過ぎたというのに何の悩みもなさそうな頬を思い切り殴り飛ばし
てやりたいような衝動を抑えこみながら、ヴィオラは彼らの方へ歩み寄った。正体の知
れない客人を第一優先に構っている暇はないのだと言いたいが、実際は暇を持て余して
いる。しなければならない雑務は、九年の間に大略は片付けてしまっていた。

 広い歩幅で近づくヴィオラを、男は困惑の表情で見上げてきた。捨てられた犬か何か
のような目つきは、不安がりながらも相手を見定めようとしているように見えた。同情
心よりも苛立ちを刺激されながら、ヴィオラは客人に対する作法でもって立場を名乗り、
次に相手にそれを問い返した。男は、ヴィオラを不思議そうな目で見返した。

「……私は」

 覇気のない声で言いかけ、彼は口を噤む。
 ヴィオラがその意味を量るより早く、義兄が言葉を挟んできた。

「お客人は自分の名前を覚えていないようなんだ。
 さっき僕が聞いたときもこうして黙ってしまわれた」

「そうなのですか?」

 義兄ではなく、男に直接、問いかける。男は、義兄の言うことがまるで予想外だった
というようなきょとんとした顔で、首を横に振った。「違います」と返してきた声は、
躊躇と混乱を含んでいた。その短い言葉の発音に違和感を覚えた。

「その……名前は以前、なくしてしまったので。
 父が新しいものを寄越してくれたのですが、それが余所に通じるかは確証がなくて」

「なくした? とにかく名乗ってごらんなさい。
 あなたは私の血縁者のようだ。もしかしたら知っているかも知れない」

「アプラウト家の、クオド・エラト・デモンストランダムと」

 ヴィオラはわずかな沈黙の後に、穏やかな声で「そうですか」と答えた。義兄は、変
わった名前だがどのような意味があるのかと、あまり聞くべきでない質問を繰り出して
いる。ヴィオラはその様子を冷ややかに眺めながら「お調べ致しましょう」と答えた。

「名前以外のこともお尋ねしなければなりませんね」と続けると、男は素直に頷いた。
妙に若い――というより、幼いような印象がある。間違いなく二十には届いていないだ
ろうが、それよりどれだけ下なのかはよくわからない。



 しばらくの後、ヴィオラの悩みは深まっていた。
 男は錯乱しているのか、噛み合わない返事ばかりを寄越してきたのだ。生まれを聞く
と、古い地名でここだと答える。父親を問えば、その姓は“アプラウト”だというのに、
ヴィオラには心当たりのない名前を返す。

 義兄が「やはり記憶が」云々と言うのを聞き流しながら、前々から心の片隅にあった
“騙り”の可能性が存在を主張し始めていたが、男は嘘をついている様子ではなかった。
今、部屋の隅に置かれている彼の戦装束にしても、貴族に取り入るために用意したとは
思えないほど質素な――華美のない鉄色で黙りこんでいる。鉄靴の金拍車だけが煌びや
かに目を引く色合いだったが、これには細かい傷が無数に刻まれている。飾りではない。

 実用だけを考えた装備だ。戦羽織にしても主流の型とは違い――え? 馬鹿な。
 咄嗟に否定したのは、あり得ない思い付きだった。現代の騎士は、鎖帷子ではなく、
板金鎧に身を包む。戦羽織は麻ではなくて羅紗を使うように変わったのだ。この男の装
備は時代錯誤に過ぎる。

 義兄がまた何か見当違いのことを話している。「ヴィオラは厳めしく見えるが情に厚
いから心配は要らない」という台詞が勘に障った。こいつも九年前に粛清しておくべき
だったか。今からでも、何か理由をつけて余所にやってしまえば……まぁ、それは後で
いい。ヴィオラは咳払いして二人の注意を引くと、義兄が言葉を途切らさせた一瞬を狙
って口を開いた。

「クオド殿、とお呼びして構いませんね?
 あなたが騎士の叙勲を受けられたのはいつのことですか」

「十六の時――三年前の秋、です」

 ヴィオラは少しだけ迷って、首を横に振ってから聞いた。

「残念ですが、三年前にこの地で叙勲を受けた者はいません。
 念のために年を確認してもいいですか? 資料をあたりますので」

「……イムヌスの歴で、四百と八十五の年ですが」

 首を傾げて言ってくる男の言葉に、ヴィオラは一種の眩暈のようなものを覚えた。
 だってそれは、今から三百年以上も前じゃないか。錯乱か真実か、確かめるのが極め
て用意なだけに、面倒ごとの気配がした。



      + ○ + ○ + ● + ○ + ○ +



 クオドは愛用の片手半剣を抱えて、暗い砦の通路を歩いていた。
“現代風”らしい薄い生地の上着の裾がひらひらと動いて落ち着かない。図々しいよう
だけど、もう少し厚い布で服をあつらえる手配を頼んでみようか。金銭は――恐らく、
何とかなる。荷物を調べたら何枚かの硬貨を見つけた。金貨の価値は変わらないはずだ。

 途中ですれ違った従士に「灯りを持ってきましょうか」と聞かれたが、慣れているか
らと断った。多少、視界が聞かなくても、この砦のことはよく知っている。自分が生ま
れ、育った場所だ。最近は図書館に通うのが日課になっていたから、硝子灯はそこに用
意してある。

 アプラウトの図書館は昔から蔵書数が多くなかったが、自分の記憶にあるよりも少々
減ったようだった。特に教会関係の書物がごっそりと消えているように思えたので今の
家長だというヴィオラに聞くと「禁書が多く指定された時期がありましたからね」と言
われたので、それで納得した。

 重い扉を押し開けて、卓上硝子灯に火を灯す。獣脂が燃えるにおいが鼻をついた。
 クオドは扉は閉めないまま昨日から机の上に置き放しておいた本を開いた。今までに
見たことのないほど頁紙の薄い本で、白い紙面に質素で飾り気のない文字が整然と並ん
でいる。書き言葉が変わったのか、内容は殆ど理解できない。文中の単語を拾って推測
しながら眺めているのは歴史概略書だった。少しでも気を抜けば、意味を取らぬまま、
字を追う視線だけが先へ流れる。これと物語と、何が違う。

 こうして本を読んでいると、父が現れて「このようなところにいないで剣の練習でも
しろ」と叱られるような気がする。意識の隅で急な怒声を待ち受ける癖が染みついてい
る。来るわけがない、と言い聞かせる思考の方が現実味を欠いていた。

 ――石床を蹴る足音が近づいてきた。
 クオドは思わず顔を上げて身構えたが、扉の隙間から飛び込んできたのは父ではなく、
金髪の男だった。切羽詰った形相に面喰らったまま「どうしたんですか」と問うと、男
は足早に寄ってきた。

「……コルネールさん? 顔色が悪いようですが」

「ヴィオラに、ヒュッテ砦へ行けと言われた」

「ヒュッテ? イェッセン伯領ですか?」

「ああ、キミは過去からの来訪者だということになっているのだったか。
 ヒュッテ砦は我が国とティグラハット公国――連中が勝手に国を名乗っているだけだ
がね――との国境線上にある防衛施設だ。近年、公国が我々に大規模な反乱を仕掛けて
きてね、それ自体はすぐに鎮圧されたけど、未だ睨み合いが続いている」

 その最前線がヒュッテ砦だ、とコルネールは続けた。
 反乱以降、近隣の貴族が半年ごとに警戒のための兵を出すことを取り決めた。その順
番が、アプラウト家に回ってきたのだ。歩兵を五人と騎兵を一人。歩兵はこの屋敷にい
る兵士の半分で足りる。騎兵は――騎乗した兵とは貴族のことだ。

 ヴィオラは家長であるからこの土地を離れることができない。「ですから義兄上にお
願いしたい」と淡々と言うヴィオラの姿を、クオドにも簡単に想像できた。居候の身で
言うべきことではないが、あの人は少し苦手だ。静かで強い視線に気圧される。

「任期は半年ですか。ご無事を」

「僕は戦が嫌いなんだ!」

 大声に、クオドは目を丸くした。半ば無意識に聖印を切りかけた手をとめ瞬きする。
コルネールは擦り寄るように近づいてきた。「どうすればいいと思う?」と問われても、
クオドにはその質問の意味さえわからなかった。

 国家として成立した社会において、人々は三つの身分のいずれかに属している。
 働く者、祈る者、戦う者。最初の一つは農民、市民。祈る者とは聖職者。そして彼ら
を守るために武器を握る者が貴族と呼ばれる。比較的余裕のある生活は有事の際に真先
に命を散らすからこそ許されるもの。
 少なくともクオドはそう教えられて育ったし、信じている。

「僕は戦場に行ったことなどないし、行くつもりもない」

 きょとんとしたまま何も言わないクオドの態度に痺れを切らしたコルネールが、低い
声で繰り返した。線の細いこの男に戦は似合わない。そのことだけはなんとなくわかる。
わかるが、その印象だけで判断していいのだろうか。

「今は停戦中なのでしょう?」

「小競り合いが起こり前任者が二人亡くなったそうだ。
 国境線は緊張している。アプラウトの小隊では足りない」

「まさか六人で砦を守ることにはならないでしょう。現地にも人がいるはず」

「僕は血の匂いが駄目なんだ。ああいった野蛮なことはヴィオラの方が得意なのに」

 クオドは、今度は思考のために沈黙した。首を傾げて青瞳でじっと相手を見上げなが
ら、指先に頁の感触を思い出して本を閉じる。コルネールは戦場へ行きたくない。今は
戦いは貴族全員の義務ではないのかも知れない。

 不意に傍らの剣が気になって、視線を落とす。鍔と鞘を青いリボンで封印された片手
半剣は、硝子灯に強調された陰影で禍々しく見えた。野蛮。ああ、野蛮か。血は穢れだ。

  血。死。腹の上で冷えていく少女の血液。
  混乱したまま掻き抱いた頭部は既に重いだけの感触しか返さない――死なないで。

 唐突な過去視にクオドは顔を青ざめさせた。忘れきれていないのか。忘れるものか。
守れなかったから、あんなことになった。同じ過ちを繰り返してはいけない。戦いは穢
れだ。それを一手に被るために自分達は存在する。戦わなくてよい者が血に濡れること
のないように。そうでしょう、お父さん?

「――私が行きましょうか」

 頭の後ろを血が滑り落ちる感覚に眩暈を覚えながら思わず口走った言葉に、コルネー
ルは目に見えて歓喜の表情を浮かべた。恐らく彼が期待していた通りの返事だったのだ
ろうと思いついた。ならばよかった。よくしてくれているのだから、少しくらいは恩を
返すべきだ。

「そうか!」

「……もしもアプラウトの騎士として立つことが許されるなら、ですが。
 そう認められていない者が、この家の兵を率いるわけにはいきませんから」

「ヴィオラは君のことをそうだと信じ込んでいるらしいし、僕は君のことを、今回の苦
難から僕を救いにきた御遣いだと確信しつつある。だから何も問題ない。ヴィオラは書
類をいじるのが巧いからね」

 クオドは返事に迷って沈黙した。

「早く一緒に執務室へ来てくれ。
 あいつ、すぐにでも例の砦に返事を書くつもりなんだ」

 机を回ってきたコルネールに手首を掴まれながら上の空で掴んだ剣は、いつもの通り
冷たく重たかった。鼻を掠めた獣脂のにおい。硝子灯を置き去りに、開いた扉から外へ。

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2007/02/12 16:51 | Comments(0) | TrackBack() | ○ファランクスナイトショウ
ファランクス・ナイト・ショウ   2/ヒルデ(魅流)
登場:ヒルデ
場所:ティグラハット ―ガルドゼンドとの国境付近
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 丘の上で、眼下に広がる平野を見下ろす人影が一つ。砂色のマントに身を包み、傍らには馬が一頭。風に揺れる長い金の髪から女性であろう事は想像できるが、何故こんな場所に一人でいるのかはまったくわからない。
 人影はただ景色を眺めているだけのようだった。それをもう20分も続けている。途中で余所見をする様子もないということは、何か目的をもって平野を見下ろしているのだろう。

「――つまりは、カモって事よ」

 丘から離れること約40m。戻ってきた偵察の話を聞いたアイパッチの男はそう話を締めくくった。周りにはそれぞれバラバラの装備を持った男が15人、適当に円形になるように座っている。
 ティグラハットがガルドゼンドに対して反乱を起こして以来、大きな戦いは収まったといえども両国の境目ではまだ小競り合いが絶えない。彼らはそういう地域に居を構え、死者の装備を剥いで売ったり人数の少ない部隊や戦いに勝利した直後の疲弊した部隊を襲って倒したりして生計を立てている、いわゆる山賊だ。

「でもボス、なんでこんな所に女が一人でいるんでしょう?」

 並み居る男達が女性を襲う事に肯定的な中、一人だけ疑問の声を上げるものがいた。男達の中でもひときわ小柄で、どうみても山賊にむいてるとは思えないような風貌を持つ少年。恐る恐る口火を切った彼に与えられたのは、周りからの冷たい視線だった。

「よぅマイケル。テメェ新入りの分際で余計な事言ってるんじゃねーよ」

 普通の社会では冷静と言われる彼の思考もここではただの臆病者。彼自身にも周囲から睨まれてまで自説を唱え続ける度胸はなく、そのまま黙り込んでしまった。

「ようし野郎ども。目標は馬と女、がっぽり稼いで今夜は宴会だぜ!」

「おおー!!」

 その決断がどんな結果を招くかなど露知らず。ノリノリな山賊たちは鬨の声をあげたのだった。

            ―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―

「やはり直接砦の方に当たるべきだったか?」

 眼下の平野を見下ろしながら、砂色のマントを纏った女性――ラインヒルデは呟いた。

「――そうだ。正面から砦に行っても追い返される公算が高い。だから今こうしているのだろう?」

「――分かっている。それでも、ただじっと待つのは私の性には合わないんだ」

 辺りに話をできるような人影はない。精々傍らに栗毛の馬がいるくらいだ。それでも、ヒルデはまるで誰かと会話しているかのように言葉を紡ぐ。その視線は遥か下の平野を見つめたままだ。

「……ふぅ。こんなだから姉様はおろか妹にまで差を付けられるのか」

 心中に溜まったものをゆっくりと吐き出すように声をだす。この間久しぶりに会った彼女らは着実に成果を上げていて、自分ひとり立つ瀬がなかった。このままではいけない。なんとしても、この地にいるという英雄アルスラーンに会い、彼を連れ帰らなければ。
 頭を振って、マイナス方向に沈みかけた意識をプラスの方へと引き上げる。ヒヒンという小さい馬の嘶き。――そういえば、先程から不自然に背後から葉ずれの音が聞こえる気がする。

 ヒルデが振り返るのと、少し離れた木立の中からバラバラと山賊たちが姿を現すのは同時くらいだった。7人くらいが半円を描くように囲みにかかる。中央にはこれみよがしなシミターを握った禿頭アイパッチの男。その顔に浮かぶ下卑な笑い顔がなんとも奸に障る男というのがヒルデの第一印象だった。

「ようネェちゃん。こんな所に独りでいるとアブないぜェ?おにーさんが最寄の街まで送ってってあげようかァ?」

 自分の下心を隠そうともしない程度の低さに呆れを通り越して憐れみさえ覚える。大人数で逃げ道塞ぐように囲んでるいかにもごろつき風の男を信用する者が一体どこにいるというのか。

「……私の事は心配してくれなくて結構だ。それよりも自分の身の安全を気にかけた方がいいと思うぞ」

 瞬間、静寂。そして、直後に爆笑が巻き起こった。新入りのマイケル以外の全員が半月程前の事を思い出す。彼らに対して同じようなセリフを吐いた女は今では薔薇の焼印を押される身だ。そして、今回もそうなるだろう。――もちろん、その前に存分に楽しむのだが。

 山賊たちが大笑いしている間も、ヒルデは表情を変えずに立っている。その口が小さく言葉を生み出しているのに気付いたのは、何故仲間が爆笑しているのかわからずにじっとヒルデの様子を見ていたマイケルだけだった。

「――大丈夫だ、この程度私一人でどうとでもなる」

            ―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―

「やっちまえ」

 ひとしきり笑いが収まるのを待って、ボスは命令を下した。相変わらず女は無表情のまま、馬もよほど訓練されているのか急に走り出す様子もなくただ立っているだけだ。
 両翼の二人がニヤニヤと笑みを浮かべたまま女に近付いていく。一人はブロードソード、もう一人の手にはロープ。

 ワリといい生地を使ったマントを羽織った女が一人、山賊に囲まれても怯える様子もないという事は……間違いなく、女には何かしら武器の心得があるのだろうと、その程度はボスも予想している。
 それでも、山賊の首領はまだ相手を侮っていた。ついこの間も自分が強いと勘違いしていた貴族の娘を返り討ちにして一儲けしたばかりだし、今回もきっと上手く行く。そんな根拠もない確信があったのだ。
 泣き叫ぶ貴族娘の様子を思い出して、目の前の女ならどういう反応をするかと連想する。気が強い娘を力で屈服させるその過程を思い浮かべた所で、何か妙な音が聞こえた気がしてボスは思考を現実に帰した。

 女を取り囲む二人の部下、状況は何も変わらない。ただ、何故か部下の一人が動きをとめていて――待て、その背中に生えているモノはなんだ?

 そのモノの正体にボスが気付いたのとほぼ同時にそれは部下の体の向こうに消えて行った。柔らかい肉がグズグズに裂ける聞き慣れた音だけが妙に生々しく辺りに響く。
 腹部を刺し貫かれた山賊が崩れ落ちるのとほぼ同時に、女がやった事を間近で見ていたただ一人の山賊が怒声をあげ――次の瞬間には首から血柱を上げて地面に倒れていた。

「何やってる、網を投げろ!」

 ようやく現実に理解が追い付いた首領が指示を飛ばし、部下が動く。
 この網には細い鋼線が編み込んであるので斬られる事はなく、端に括りつけられた重りのお陰で被されば間違いなく動きを止める事ができる。
 そして、両側から二つ投げられた網は逃げ場を残してはいない。網にくるんでしまえば後はどうとでもできる。ボスは今度こそ己が勝利を確信した。

「――silph」

 女は特に何をするでもなくこちらに向かって歩いてくる。そして網はまるで急な風に吹かれたかのように軌道を変え、明後日の方向に落ちてしまった。

「なっ……や、野郎ども、たたんじまえ!」

 もはやさっきまでの根拠のない自信は跡形もなく消えうせていた。斬りかかった手下達が次々と斬り伏せられ、女は着実にこちらへと迫ってくる。血の赤と太陽の照り返しが合わさって剣が燃えているようにも見え、もしかしたら今自分はアジトで寝ていて、これは悪い夢か何かなんじゃないかと本気で思い込みそうになる。むしろそうだったのならどれだけ幸せな事か。

 ヒュッという空気を裂く音が辛うじてボスの正気を保っていた。斬りかかる部下達の隙間の通して的確に女を狙うマイケルのパチンコが石を飛ばす音だ。
 ちょっとしたきっかけから彼を新入りとして迎えたのはほんの気まぐれだったが、思ったよりもいい拾い物だったらしい。こんな状況でさえなければ素直に喜べたのだが。
 だが、そのマイケルの石礫でさえ女には掠りもしない。避けられるか、剣の柄で叩き落されるか。そして、ついに最後の部下が倒された。

「やりたい放題やってくれたじゃネェか……!!」

 女の後ろには山賊一味が死屍累々とはこのことかとばかりに倒れている。まだ息がある者もいるが、あの出血では恐らく10分と持たないだろう。

「だから最初に言っただろう。自分達の身の安全を心配しろ、とな」

 そう言い放って女は剣を構える。山賊たちの血で赤く染まったそれは独特の波打った刀身を持つ細剣。俗にフランベルジュ・レイピアといわれているものだ。見た目の美しさとは裏腹に、斬った者の傷口をぐちゃぐちゃにして治りにくくするという機能を持つ。
 反面、刀身が細いこの剣は他のもっと太い剣とぶつけ合いになると確実に折れるし、同じ細剣を相手にしたとしても波打った刀身がやはり打ち払いを邪魔する。
 言ってしまえば、攻撃に偏ったバランスの悪い剣。実用的ではないため、実戦で使おうとする者は少ないし、使うならせめて防御のために盾の一つでも持つのが生き延びるコツというものだ。

「調子にのんじゃねぇ。てめぇのほそっこい剣なんざブランド様のこの円月刀で叩き折ってやるぜ!」

 言うなり両手で持ったシミターを袈裟懸けに振りぬいた。ブンッという豪快な風切り音が鳴り響く。

「ラインヒルデ――ヴォータンスドーティル。いざ」

            ―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―

 ――マズいヤバいどうしよう。

 盗賊団の新入りマイケルのここ最近一番の悩みは、唯一つ。
『どうやって、生き延びるか』

 ケチがつき始めたのは少し前の事。街道沿いの森に狩りに出かけて、山賊が旅人を襲っている所をうっかり目撃してしまった時からだ。殺されそうになったマイケルは自分のパチンコの腕と投網の技術を見せることで、山賊の仲間としてではあるがとりあえず生き延びる事には成功した。後は折りをみて逃げ出すだけ――そんな矢先にこの騒ぎである。
 武装した軍馬を連れた女の一人旅。どう考えたってリスクの方が大きいのに、ボスは何故か手を出すことを選ぶ。

 自分はまだ仲間になったばかり、ここで嫌だと言えば殺されるだけ……せめて女がこの山賊たちにどうこうされる程度の存在で、奇跡的にのちのち足がつかなければまだ道は拓ける。マイケルはそう考え、しぶしぶではあるが襲撃に加わる事にした。本当なら街道を見張る側に回りたかったが、逃げようという意思を持っている事をボスに悟られてはマズい。

 そして今。相手の女の名乗りを聞いて、マイケルは体中の血が引いていく思いを味わっていた。

 Wotan's daughter
 ヴォータンスドーティル。つまりはヴォータンの娘。

 戦を導く存在としてイムヌスによって封印されている悪魔スヴィズリル。彼の者は封印される前はヴォータンと呼ばれ、女性ばかりのある種族に加護を与える代わりに自らの尖兵としての役割を果たさせている。ヴァルキューレと名乗る彼女らは戦の影で英雄に助力し、英雄の死後かの魂を主の宮殿へと導くと言われているのだ。
 そんな英雄に加担して戦を勝利に導くような存在にたかが山賊が挑んで、勝てるハズもない!

 ボスはあちこちに傷を負いながらもまだ生きてラインヒルデとか名乗った戦乙女と斬りあっている。事情はよくわからないけど伝説の戦乙女にも全力を出せない理由があるらしい。――それなら、まだ今なら間に合う。なんとかボスが彼女を殺してくれればまだ故郷に帰れるかもしれない。

 ――俺は生きて、生き延びて考古学者になってアンディに求婚するんだ!

 さっき以上に全神経を研ぎ澄ましてパチンコから石礫を飛ばす。拳に満たないくらいの大きさの礫は、致命傷を与えるのは無理でも当たれば確実に体勢を崩す。その隙にボスが斬れば十分に勝機はあるハズだ。

 顔を狙って一発、二発。その全ては首を捻るだけであっさりと躱されてしまう。

 それでも顔を狙い、三発、四発。石礫があたる気配はない。どんなタイミングで放ってもヒルデはあっさりと躱してみせた。

 五発、六発。そろそろ避ける時に横目ですら礫を見なくなってきた。風切り音を頼りにして避けているのだろう。それでもマイケルは諦めない。

 七発、八発、九発。射撃ペースがいきなり増えた所為でヒルデの回避が少し揺らぐ。それでも、結局礫は一発も掠りすらしなかった。ブランドの傷もだいぶ増え、そろそろ止めを刺されるのも近いように感じてくる。

 そして、ついにブランドが斬り負け、体勢を崩して一歩下がる。止めを刺そうとヒルデが踏み込もうとして――そのタイミングで礫が飛ぶ。だがヒルデもそうくる事は予測済み、首を捻って冷静に躱していく。そして、最後の一発が肩口に命中した。

 自分のたくらみが上手く行ったマイケルは会心の笑みを浮かべる。単調に顔を狙い続け、相手が顔しか狙ってこないと思い込んだところで肩口に一撃。それも、常日頃動物の四肢を狙って礫を当て、動きを止めているマイケルだからこそできる高速四連射でやるからこそ成功するトリック。そして、その技は見事にヒルデの体勢を崩していた。

「くっ!」
「よくやったマイケルッ!」

 体勢を立て直そうとするヒルデに対してブランドは大きくシミターを振りかぶる。

「あ。」

 そして、即座に体勢を立て直したヒルデの刃がガラ空きになったブランドの喉を切り裂いた。倒れる首領の姿がものすごく遅く見える。同時に、マイケルの中の希望が音も立てずに崩れ落ちていく。

「後はお前一人か。しかし先程の一撃は見事だった。危うく本気を出さなければいけない所だ」

「……さすがは戦乙女様。成り行きとはいえ、敵対しちまった時点で俺の命運も尽きてたか」

 もはやパチンコ用の弾もなく、白兵戦では勝ち目がないのは明らかだ。不思議と安らかな気持ちで、マイケルは目を閉じた。

「ほう、この私を戦乙女と知ってなお石を放ったのか」

 ――ああそうか。戦乙女って気づいたんだから後は諸手を挙げて降参すりゃあよかったのかぁ

 閉じた瞼の裏に今も街で自分を待っていてくれているであろう恋人の姿が浮かんできて、思わずなきそうになる。それにしても、止めの一撃はいつになったら来るのだろうか?

 うっすらと目を開けると、既にマイケルに背を向け後始末に掛かっているヒルデの姿があった。あっけに取られている間にも彼女は血に塗れたマントを脱ぎ、剣についた血をふき取ったりしている。

「俺を……殺さないのか?」

 思わず呟いてしまうマイケル。言った後でしまったと後悔するが、それでも自分だけが見逃される理由が思いつかず、ぬか喜びではないかという思いがどうしても拭いきれない。

「私を戦乙女と知ってなお石を放ったお前の勇気と、その技量に免じて見逃そう。……ただし、次はないぞ。拾った命、精々大事に使うんだな」

 言うだけ言って、本当に馬に乗って走り去ってしまう。一人残されたマイケルはしばらくは尻餅をついた姿勢のままで固まっていたが、しばらくして生き残ったという実感を得ると、「ひゃっほぉぉぉぉぉぉおぉぉぉうっ!」と向こう数十メートルくらいにまで響きそうな大声をあげて、自分の愛する恋人が待つ街へと一目散に駆けていった。

            ―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―

 一方その頃。

「仕方ないだろう。あそこ以外に適度な距離から様子を見れる場所はなかったし、第一お前だって血臭が漂う場所で何日もすごすのは嫌だろうに」

 馬に乗って草原を駆け抜けながら、相変わらずヒルデは誰かと話をしていた。併走する馬も騎手もない以上近くに話ができる人間なぞいるはずもないのに。

「とにかく!こうなったらヒュッテ砦に直接向かってみるつもりだ。追い返されるかもしれないが……もしかしたら出てきた所を捕まえられるかもしれないからな」

2007/02/12 16:51 | Comments(0) | TrackBack() | ○ファランクスナイトショウ
ファランクス・ナイト・ショウ  3/クオド(小林悠輝)
登場:クオド
場所:ガルドゼンド -アプラウト子爵領
--------------------------------------------------------------------------


 ばたん! と、激しい音を立てて扉が開かれた。
 ヴィオラは取り落としそうになった杯を慌てて支えながら顔を上げる。

 ずかずかと踏み込んできたのは予想通りの人物だったが、先程の出来事に抗議に来た
にしては妙に表情が明るい。
 義兄がこういう表情をするときは、碌なことが起こらない――経験則で瞬時に判断し、
ヴィオラは杯を机に置いた。立ち上がらないまま机越しに相手を見上げ、書きかけの文
書を腕で庇うと、静かに、覚られないように呼吸を整える。

「義兄上、どうしました」

「僕はヒュッテへ行かなくて済みそうだ」

「私の留守を務めてくださるとでも?」

 ヴィオラは、義兄の金髪と対照的に冴えない灰色の前髪が目にかかったのを手で払い
ながら「畑の耕し方もご存じないでしょうに」と皮肉を言ったが、義兄は気にした風も
なく首を横に振った。

「そうじゃなくて、ここにはもう一人、騎士がいるじゃないか」

「……まさか」

 言いかけ、首を噤む。もしかしてと戸口を横目にすれば、案の定、片手半剣を抱えた
青年が所在なさげに立ちつくしている。義兄が選んだ赤い上衣がまったく似合っていな
いせいで余計に頼りなく見えた。無理やり連れてこられたらしく、途方にくれた表情で
じっとこちらを眺めている。ヴィオラは「入りなさい」と短く声をかけてから、義兄を
横目で睨んだ。

「役目を放棄するお積りですか」

「クオドが変わってくれるって言ったんだ」

 まさか自分から出征志願するとは思えない。何か吹きこまれたに違いない。
 義兄はいつもこうだ。みっともなく取り乱す姿に憐れみと居た堪れなさを感じて、私
もまんまと篭絡されたのだ。またおなじように自分だけ苦難を逃れるつもりか。

「…………あなたは九年前と何も変わらない」

 義兄は意外にも後ろめたさを感じていたらしく、口の中で何か呟いて目を逸らした。
ヴィオラは内心の苛々を押し殺そうと試みながらため息を吐いた。
 手元には書き掛けの文書。“歩兵を五人と騎兵を一人、了解した。数日のうちに準備
は整うだろう。”――整うか?

「義兄上の言うことは気にしなくて構いません」

「……行かせてください」

「何故」

 半ば睨むように見据える。クオドは困ったような笑顔を浮かべた。
 彼が抱えた片手半剣の金具が小さく音を立てた。十字型の鍔が妙に長い剣だ。持ち主
は「受け用に調整したんです」と言っていたが、ヴィオラが考えついたのは、その言葉
とは逆の、極めて攻撃的な使用法だった。あの鍔に掌底を当てて押せば、敵の体に刃を
深く突き込むことができるだろう。

「行きたいんです。駄目ですか?」

 ヴィオラはため息を吐いた。
 じっと相手の目を見据え、ゆっくりと話す。

「古い記述を当たったところ、恐らく貴方だろう人物を発見しました。
 イムヌスの歴で四百七十四年にこの地で生まれ、八十五年に叙勲を受け、その三年後
に姿を消したのは貴方ですね?
 古い本なので、残念ながら名前の部分は掠れて読み取れませんでしたが」

「姿を消した……?」

 クオドはぼんやりと聞き返してきた。

「ええ。しかし、貴方に剣を拍車を与えたのは貴方の父君で、その血は今まで絶えてい
ない――貴方が否と言わない限り、そして私が否と言わない限り、貴方は私の騎士だと
いうことになります。貴方の身分は私が保証しましょう」

 クオドは釈然としない様子で黙っている。続けて「異を唱えますか」と問うと、彼は
わずかな逡巡の後で首を横に振った。焦点の定まっていなかった青い瞳が、ヴィオラを
曖昧に見つめた。

「でしたら主君の命には従いなさい。あなたが行く必要はない」

「……」

「返事は?」

 ヴィオラの新しい騎士は、悲しそうに俯いた。

「わかりました、ご主人。
 しかし、戦へ行くなと仰せなら、私はどうして貴方のお役に立てましょう……」



         + ○ + ○ + ● + ○ + ○ +



 目の前で、ヴィオラとコルネールが言い争っている――というよりも、ヴィオラが一
方的にコルネールを責めている。クオドはもう口を挟めなくなって、かといって黙って
退室するわけにもいかず、ただ眺めているしかない。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。私は教会に閉じ込められていたはず
で、またここへ戻ってくることができるとは、殆ど思っていなかった。いいや、戻って
こられたのではない。どれだけ見覚えがあろうとも、ここは知らない場所だ。

 この部屋の大きな机で書きものをしているのは父のはずだった。その机自体も一回り
小さなものに変わっている。机の向こう側の窓から見える緑の丘は知っているままなの
に、部屋の中には以前の名残がまるでない。

「ヒュッテの防衛がアプラウトだけの問題じゃないことは知ってるさ。
 だからこそ、本当に僕を行かせていいのかって聞いてるんだ」

「どういう意味です」

 辛うじて穏やかさを保っていたヴィオラの声が、低く沈んだ。クオドは今まで以上に
剣呑な空気を感じて彼を見る。家長は妙に無表情だったが、あまり光らない土色の目に
湛えられているのは殺意にも似た昏さだった。戦場で敵に向けるよりも黒い感情。

「……ヴィオラさん?」

「義兄上、根拠を述べない提案には価値がありませんよ。
 貴方が行かない方が善いという理由をどうぞお話ください」

 コルネールは、恐らく言葉を選ぶために黙りこみ、それから何かを誤魔化すように、
小さく首を横に振った。彼は何故かクオドを横目にしてきたが、クオドは、何かの助け
を求められているということ以上の意味を取ることはできなかった。

「今、ヒュッテが陥ちるようなことがあれば間違いなく内乱が再開するからだ。あそこ
の小競り合いは年中行事のようなものだけど、前任者がそれをしくじったせいで、“い
つものこと”では済まなくなってる。均衡はもう崩れる間際だ」

「知っていますよ。例の事件で英雄アルスラーンが亡くなったそうですね」

「英雄が死ぬような場所を僕が守れると思うか、ヴィオラ」

 沈黙。
 コルネールは耐えかねた様子で何かを言おうとしたが、今度は発するべき言葉が見つ
からなかったらしく口を噤む。ヴィオラは、今度こそ完全に感情を覚らせない無表情で
黙りこんでいる。

「…………あの……」

 クオドが恐る恐る、何を言おうと思ったのかはよくわからないまま小声で言うと、二
人はゆっくりと視線をこちらへ向けてきた。何故だか背筋に寒気を感じて、クオドは身
震いを押し隠す。先を促されはしなかったが、視線を外されもしない。

 何でもないと謝ろうと思った矢先に、ヴィオラがかたんと小さく椅子を鳴らして立ち
上がった。彼は机を回ってクオドのすぐ横までくると、すれ違う位置で、肩を強く掴ん
だ。布地越しの痛み。クオドはわずかに顔をしかめる。

「……あなたが行きなさい」

「え?」

「すぐに手配を済ませます。従士を一人つけますので、道中のことは彼に任せなさい。
あと、あなたは馬を連れていましたね? この前、家畜小屋番が見慣れぬ葦毛の雌馬を
持っていたのを取り上げたのですが、あれはあなたのものでしょう」

「え…ええ、え?」

「気が変わったんです。あなたがヒュッテへ行きなさい。
 その男に任せるには兵が惜しい」

 ヴィオラは低い声でそう言うと、後は無言のまま部屋を出て行った。
 取り残された二人は顔を見合わせたが、どちらの表情も明るくなかった。



         + ○ + ○ + ● + ○ + ○ +



 砦を守るのは現地の常駐兵十九とアプラウトの六、それから、ヒュッテの建つイェッ
セン公領の西と北に領地を持つ二つの騎士の家から十一ずつの戦力。他に料理人や治療
師、騎兵の従士などで、総人数は五十八になる。

 資料を読み上げていたカッツェ・オスヴァルトが兵の内訳を述べて説明を締括ると、
新入りの騎士は「すごいですね」と感心の声を上げたが、特にそれ以上の発言をするつ
もりはなさそうだった。主人に言われてこの騎士の旅に同行することになって、もう道
のりの殆どを過ぎたというのに、未だ扱い方がよくわからない。

 まるで冒険者か何かのような飾り気のない服装で平然と歩き回るし、世話を焼こうと
すると苦笑して遠慮する。少しでも目を放すと、すぐにいなくなる。普通の貴族に対す
る対応では、まったくうまくいかない。

 大体、歳が近いはずなのに、共通の話題が一つもないのがおかしい。
 カッツェの愛読書「ブンツカ=ドンドン」シリーズを知らないことも許しがたいが、
趣味の話が通じないならと時事の話を振ってみたところ、そちらもまったく駄目だった。
世間知らずにしても度を越している。果たしてどういう育ち方をしたものなのか。
 何を話しても熱心に聞いてくれるから、話し甲斐がないわけではないのだが……

 かぽり、かぽり。蹄が地面に当たる音が続いている。
 どこまでも青い空の下、街道から外れた道を行くのは一行だけだ。周囲はなだらかに
起伏する平原が広がり、どこまでも続いているように見える。ところどころに生えた木
は近づく冬に備えて葉を落とし始めていた。風はまだ冷たくないが、数日のうちに冷気
を帯び始めるかも知れない。午後の日が、穏やかに光を注いでいる。

 簡素な馬具をつけられた軍馬の上に人影はない。
 騎士は、馬の横で自ら手綱を引いて歩いている。連れている五人の兵と歩調を合わせ
ているのかと思って「その必要はない」と進言したところ、笑いながら「外を歩くのは
久しぶりなので」と返事された。彼は結局そのまま、歩兵と雑談しながら短くない距離
を歩き通しているが、普通、馬を所有する貴族は町の外を自分の足で歩いたりしないも
のだ。

 彼の腕の中には、どういうわけか常に剣が抱えられている。カッツェはその様子に、
毛布かぬいぐるみを放さない子どもを連想したが、あながち間違いでもなさそうだった。
くまさんの代わりが武器では、物騒以外の何でもないが。

「魔法士もいるんですか」

「え? あ、ええ。魔術師は二名、配備されます」

 中断したはずの会話をいきなり続けられ、カッツェは少し慌てて返事をした。
 騎士は少しだけ考え込むように俯いてから再び顔を上げて、何か納得がいかないよう
な表情で言ってきた。

「私の感覚だと、魔法士ってとても貴重な戦力なんです」

「……まあ、そうですね。オレもそう思います」

「停戦中の砦に常駐させるのって不自然だと思いません?」

 言われて沈黙する。少し考えてみれば奇妙ではあった。
 書類が間違えているのだろうかと手元に目を落とすが、これは先程立ち寄った町で、
ヒュッテから王都へ向かう使者から受け取ったものだ。間違いがあるはずがない。

「……」

 かぽり、かぽり。蹄が地面に当たる音が続いている。
 騎士は自分の質問を無視されても、特に気分を損ねた様子ではなかった。



「あ」

 騎士が声を上げたので何かと思い、その視線の先を見れば、季節外れの蝶がひらひら
舞っていた。雲の少ない空に鮮やかな小さな白い羽。景色だけは平和すぎて嫌になる。
カッツェがため息を吐く横で、騎士は手綱を持った腕に片手半剣を抱え直すと、蝶の方
に手を伸ばした。

「……何してるんですか?」

「ちょうちょが」

「はい?」

 素頓狂に聞き返し、騎士の笑顔に邪気がないのを見て本気だと悟った。何歳だお前。
本当に追いかけていきそうだったのを慌ててとめる。気候が平和なのは仕方がないが、
せめて頭の具合くらいは常温でいてくれないものだろうか。

 これから行く場所は最前線だというのに。

2007/02/12 16:51 | Comments(0) | TrackBack() | ○ファランクスナイトショウ
ファランクス・ナイト・ショウ  4/ヒルデ(魅流)
PC:ヒルデ、クオド
場所:ガルドゼンド -イェッセン伯領ヒュッテ砦
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「……ふぅ、これでもう三日も棒に振ったか。いっそ開戦してくれればやりようもあるの
だがな」

 姿を隠し易い木立の中で、ヒルデは空を見上げて溜息をついた。雲が少ない空は少し薄
い青を湛え、少し寒々しい印象を与える。もう少しすれば本格的な寒さが訪れるであろう。
――そんな中でテントもなしに野宿をする気にはどうしてもなれない。


 ガルドゼンド国イェッセン伯領ヒュッテ砦。両国の首都に挟まれる位置にあるこの砦は、
両国が対立状態にある現状ではまさに最前線の中の最前線。少しずつではあるが人員は増
員され、魔術師も何名か派遣されているという話もある。――つまりは、いつ開戦しても
おかしくないという事。

 それが、ヒルデが街で仕入れてきたこの砦に関する噂だ。加えて、"英雄"アルスラーン
もまたこの地にいるという。先の戦いで白の傭兵と並んで敵を薙ぎ倒したと名高い、いわ
ばガルドゼンド国民にとって希望の星とも言うべき存在だ。
 その逸話は枚挙に暇がなく、例えば独りで千にも及ぶ敵兵を蹴散らしただとか、あるい
は魔術師が放つ火球の術を片っ端から跳ね返し味方を護っただとか、彼の者に一睨みされ
ただけで敵兵は恐慌状態に陥りまともに戦えなくなるだとか。
 中にはとても人間業とは思えないようなものも含まれている為全てが真実とも言えない
だろうが、火のない所に煙は立たぬという言葉にもあるとおり、それなりの人物なのだろ
う。

 ヒルデの目的はその"英雄"アルスラーンにある。もし何者の加護もなくそのような事を
成し遂げたのだとすれば、それは主の宮殿に招くに相応しい器と言える。とりあえずは、
誰の息も掛かっていないかどうかを確かめる必要があった。
 それを確かめるのならば本人に聞くのが一番手っ取り早い。上手く行けばその場で契約
を結ぶ事もできるだろう。だが、イムヌスの影響力がそこそこにあるこの地で戦乙女であ
る自分が砦に乗り込んだ所で門前払いを食うのは目に見えている。
 結局、こうして砦の前で外に出てくるのを待ち構えるしかないのだ。

「やれやれ……とはいえ他に有効な手もないしな」

 マントで作った簡易テントから少し離れ、砦の様子を観察する。――とはいえ、取り立
てて何か変化があるわけではない。

「ん?」

 何か物音が聞こえた気がして振り返ると、砦へと歩く一団の姿が見えた。兵隊らしき者
が六名、軍馬が一頭に荷馬が数頭。一団の先頭を歩く青年は片手で馬の手綱を取り、もう
片方の手でやけに鍔が広いバスタードソードを抱えている。
 おそらくは封印用であろうリボンが装飾の目的でつけられているようにも見え、ヒルデ
は思わず苦笑した。まるでお気に入りの人形を抱えている子供のような――それが彼の横
を歩く従者とほぼ同じ感想である事には当然気づきもしなかったが。

「――will o' wisp、elven cloak」

 ヒルデが姿隠しの呪文を唱えると、彼女と彼女の馬が不可視のカーテンで包まれるよう
に姿を消していく。この術は光を歪める事によって姿を晦ます、わりと簡単な部類に入る
ものだ。物音はまったく隠せないし、よく見ると歪んでいるのが分かるので効果の方も高
いとは言えないが、消耗も少なくこういう場合には重宝する。

 しばらく眺め、やがてヒルデは興味を失い視線を外そうとする。軍装の馬に乗る人影は
なく、おそらくはなんらかの事情で馬だけを補給するのだろうと思った。求めているのは
英雄のみ、普通の兵隊には用がない。――だが、何か違和感を感じる。

「!?」

 違和感の正体に気づいた時ヒルデは驚愕した。一団の先頭を歩く青年が、こちらを見て
いる。妖精の外套に包まれているはずの自分を。
 驚いた拍子に青年と目が合ってしまった。笑みを浮かべてブンブンと手を振ってみせる
青年。この辺りに他に人影はなく、間違いなく自分に対して手を振っている。――それは、
姿隠しの術が効果を成していないという事。

「誰に手を振ってるんですか?」

「え?あそこに女の人が」

「……オレには見えませんけど」


 聞こえてきた会話から先頭の青年以外にはちゃんと術の効果が出ている事は分かった。
しかし、逆に何故先頭の青年だけには効果が出ていないのかが分からない。精神に働きか
け、こちらを"見えない"と錯覚させる類の術なら抵抗されれば見えてしまうが、光の精霊
の術は単純にこちらが風景に溶け込んでいるだけだ。抵抗も何もあったものではない。

「何か特殊な能力を有しているのか……?」

 結局そのまま砦へと入っていく一団を見送ってヒルデは呟いた。仮にそうだとしても恐
らく本人はそれを自覚していないだろう。――もしかしたら将来英雄となりうる人物かも
知れない。一応、顔は覚えておく事にする。

 それ以降はまたこれまでの三日間と同じく何があるというわけでもなく、ただただ時間
だけが過ぎていった。

 そしてその二日後、痺れを切らしたヒルデはついに単身ヒュッテ砦へ潜入を試みる事を
決意した。


2007/02/12 16:52 | Comments(0) | TrackBack() | ○ファランクスナイトショウ
ファランクス・ナイト・ショウ  5/クオド(小林悠輝)
登場:クオド
場所:ガルドゼンド -イェッセン伯領ヒュッテ砦
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 ヒュッテ砦の城代を務めているのはテオバルドという騎士だった。
 豊かな黒髪を持つ三十絡みの大男で、片目が古い刀傷で塞がれている。カッツェはそ
の強面に内心たじろいだが、城代は外見に反した大らかな微笑み顔で「長旅ご苦労」と
ねぎらいの言葉をかけてきた。

「直々に出迎えていただき恐縮です」

 騎士の返答を聞いて、カッツェは慌てて書状を取り出し城代に渡した。
 大男は封を破り文字を目で追うと、わずかに眉根を寄せる苦い表情で騎士を見下ろす。
城代と騎士との身長差は大人と子供ほどもあるように見えた。

「ヴィオラ――いや、子爵は来れなかったか」

「ご主人が屋敷を離れるには人手が足りなくて」

「そうか……そうだよなぁ、あの家は」

 城代は言い淀んで、それから何かを取り繕うように「とにかく、よく来てくれた」と
続けた。その間にカッツェはぐるりと周囲を見渡した。

 ティグラハットとの国境とは逆側の小さな門だ。
 足元の地面は堅く均されている。視線を左に転じれば、正門が見えた。

 あそこから入った者は、右側に並ぶ背の低い建物群と、左側に並ぶ木造の厩舎、厨房、
倉庫などの先に、石造りの堅牢な主塔を見ることができるだろう。主塔は篭城の際に最
後の防衛線になる。物見が利くよう高く造られ、塀の外からでも頂辺付近が見えていた。

 ここは丁度、釜舎の裏に当たるらしかった。カッツェは正門から入ろうと主張したが、
騎士がその必要を否定したのだ。二度進言して二度とも断られれば不精ながらも従うし
かなかった。突然小門から訪れた一行の取次ぎは多少揉めたが、直接現れた城代は特に
機嫌を損ねている様子はない。

「私じゃ駄目でしたか」

「戦争に出たことはあるのか?」

 騎士は無言で頷いた。
 彼の連れていた軍馬が、早く休ませろとばかりに嘶いた。

 カッツェは騎士に声をかけて手綱を受け取ると、それを近くの召使に預けて厩へ連れ
て行くよう言った。引かれて去っていく馬に騎士が手を振る。「後で必ず会いに行きま
すからねー」という言葉は、まるで恋人との別れ際のようだった。

「みっともないですよ、クオド様。
 手を振るのは癖か何かなんですか?」

「だって挨拶はしないといけないでしょう?」

「さっきは誰もいないところに手を振ってたじゃないですか」

 言うと、騎士は困惑の表情を浮かべた。その様子にカッツェは逆に自分が間違えてい
るのではないかと不安になったが、あのときは本当に自分達以外には誰の姿もなかった
のだ。見晴らしのいいあの場所で人間を見逃すはずがない。
 騎士は恐る恐るといった様子で口を開いた。

「……テオバルド卿、この砦に女性はいますか」

「治療師がひとり女だが、それがどうした?
 ちょっかいかけようってんなら残念だったな、若くはないぞ」

「この近くで、武装した軍馬を連れた女性を見たんです。金髪で、背の高い……」

 城代は沈黙し、それから首を横に振った。「ここにはいないな」という返事を聞いて、
騎士は「そうですか」とだけ答えた。納得したようには見えない。大丈夫だろうか、こ
の人。カッツェがそう思っていると城代が口を開いた。

「本当に見たんだな」

「ええ」

「ティグラハットの者かも知れない。
 よく周囲をちょろちょろしてるんだ――捕まえられないから証拠は出ないが」

「証拠が出たら?」

「王が介入してくるだろうな。
 この辺りで、戦を望んでいる領主は少ない」

 城代は踵を返した。
 剣を抱えなおして追いかける騎士の後ろ姿が、カッツェにはとても頼りなく見えた。

 任期は今日から半年だ。何も起こらないことを祈るばかり。
 すぐに冬が訪れる。戦争には向かない季節。



         + ○ + ○ + ● + ○ + ○ +



「二月以内にヒュッテは陥ちます」

 騎士は会議から戻ってくると、何でもないことのような口ぶりでそう言った。彼は絶
句するカッツェの様子には頓着せずに部屋を横切ると、羽織っていた白外套を無雑作に
寝台へ放り出し、自身もそこに腰を降ろした。例によって剣は抱えたままだ。

「……攻撃を受ける、ということですか」

「ええ」

 細い窓から午後の陽光が差し込んでいる。騎士は朝からの会議で疲れているように見
えた。ヒュッテ砦へ到着してから、今日で三日目になる。今朝、ようやく到着した最後
の騎士を迎えて開かれた会議は随分と荒れていたようだ――その階中に城代の怒鳴り声
が響き渡っていたために、部屋の外で待機していたカッツェたち従士は階下へ追いやら
れたのだから。

「少なくともガルドゼンドはそのつもりのようですね」

「誰が言ったんですか」

「今朝到着したエーリヒ卿は王の書状を携えていました。
 ここの防衛は彼の管轄になります。彼の連れてきた魔法士二名も王の兵です」

 カッツェが黙っていると、騎士は穏やかな声で続けた。

「今、極めて不安定な状態のここに四十七人の兵力は多いと思いませんか。
 城代によれば、本来は三十六のところにエーリヒ卿が助力を申し出たのだそうです。
 どうして断れなかったのかは知りませんけれど、とにかく警備の増員は安易な挑発に
なり得ます。王が、承知した上で手を出したのだとすれば」

「必ず襲撃してくるという確証があって、しかもその対策も既に整っている……」

 呟いて、ぞっとした。四十七という人数はあまりに微妙すぎる。
 停戦状態を保つには危険であり、砦を守るには少なすぎる。
 この推測が当たっていれば、我々は開戦の捨て駒にされる。

 ――あり得ないことではない。今代の王ならば。
 自ら黒装束の殲滅部隊を率いて戦場に血の驟雨を降らせる狂王ハンディラグならば、
やりかねない。

 現在、ヒュッテ砦の防衛のために、手勢を或いは自らの手を割いているのは付近の領
主たちだ。カッツェの主人含め、彼らはティグラハットとの戦争を歓迎しない。自領が
戦場と化すことを恐れたイェッセン伯ゲルノートは、戦を望まぬ領主のみに援助を求め
たのだ。

 故に、この砦には王に親しい者は誰一人としていない。
 唯一の例外があるとすれば、書状を持って現れたエーリヒだけ。

「冬が……来るじゃないですか」

「ええ、雪が降れば大軍は動かせません」

 騎士は会話を終わらせようとしたらしく、ぱふりと寝台に倒れこんだ。それでも放さ
ない剣に何の意味があるのかと聞きたかったが、騎士は目を閉じて「少し休みます」と
宣った。

「起きたらヴィオラさんに手紙を書きますから、あなたは明日の朝早くにそれを持って
ここを出られるよう準備しておいてください――私の馬を使って構いません。
 彼女はあまり速くは走れませんが持久力がありますからね」

「……わかりました」

 相手の言う意味をすぐ理解できずわずかに逡巡してから答えた。
 目に付いたので騎士が放り出した外套を取り上げてたたみ直し、椅子の背にかける。

「だからちゃんとベッドに入って寝てください。
 もう冬が近いんですから変な寝方すると風邪ひきますよ」



         + ○ + ○ + ● + ○ + ○ +



 騎士が寝ついてしばらくすると、カッツェは言いつけられた用事のために部屋を出る
ことにした。まずは食堂で保存のきく食料を分けてもらい、それから馬の様子を見に行
かなければならない。

 馬――そう、軍馬。普通の乗用馬よりも一回り以上大きな体躯をもつ獣。戦場を駆け
巡り、時には敵兵を踏み拉く。騎士見習いたる従士にとって、先程の申し出は極めて魅
力的だった。借り物とはいえ軍馬を駆ることができる。考えるだけで鼓動が逸る。

 足取り軽く食堂へ向かったが、急に人数が増えたせいで食料に余裕はないという。
 今朝到着したばかりのエーリヒ卿の兵卒が、隅のテーブルを囲んで騒いでいる。砦内
でも武器を手放さない彼らを横目に料理番に頼みこみ、騎士の名前を出してようやく、
雑穀麺麭をいくつかと、布の水袋一杯の弱い麦酒を分けてもらった。

 食堂を出たときにはもう日は傾きかけていた。
 予想以上に時間を使ってしまった。騎士はもう起きただろうか。
 いないことで怒られるとは思えないが、気にかけないわけにもいかない。最後に見た
ときには、だいぶ深く眠っているようだった。寝付くとき、すうっと静かになった呼吸
に祖母の臨終を思い出してぞっとしたくらいだ。
 先程まであんな物騒な話をしていたのに、よくもまぁ平和に眠れるものだ。

 冬が近い。夕闇は速やかに地上を閉ざしていく。
 黄金色に染まった空。吹き抜ける風はひいやりと湿っている。
 視界の端を横切る白い何かに振り向けば、白い蝶がひらひらと宙を舞っていた。

 神が季節を間違えているのだろうか。今年の雪はいつ降るだろう。
 毎年、新年には実家へ帰るようにしていた。麦の収穫期ごろから必死で働けば、子爵
は「見返りを求める人間はよく働きますね」などと皮肉めかして苦笑いしながら、かな
らず十日前後の暇を出してくれた。

 今年も帰ることができることを望む。騎士の予想が当たらなければいいのだが。
 冬に戦争を始める者はいない――簡単な理由だ。寒さは兵の体力を削り続ける。雪道
の行軍は難しい。そして冬に収穫はなく、必要な量の半分の食料さえ確保できない。だ
から、冬は戦に向かない。

 厩は獣のにおいで満ちていた。
 人間よりも背の高い軍馬がずらりと並ぶ様は見るだに壮観で、カッツェは明日を思う
だけの理由でなく心臓をどきどきさせた。騎士の馬――シンシアというらしいあの葦毛
だけは、他の馬とは離して繋がせてある。雌馬は慎重に扱えと、厩番に念を押した甲斐
があったようだ――そうでなかった、などということがあっては困るが。

 葦毛はカッツェの姿を見ると、鼻を鳴らして蹄で地面を叩いた。
 カッツェはその首筋を撫でてやろうとしたが、葦毛が首を回したので、噛みつかれそ
うになって慌てて手を引っ込める。

「……明日から一緒に旅をするんだからな」

 呟く。葦毛は含み笑いでもするような感じで小さな嘶きを上げた。
 なんて可愛げのない。女は女でも、人間の貴婦人とは大違いだ。とはいえカッツェの
想像する貴婦人というのは所謂文学における騎士道物語の貴婦人そのものであり、必ず
しも現実の女性を見ているとは言い難い。が、少なくとも葦毛の態度は「雌馬も丁重に
扱うべきか」という些細な疑問を払拭するには十分だった。もちろん、借りる以上は乱
暴にするつもりはないが。

 カッツェは馬に向けて舌を出してから、厩番を呼びつけて、馬の足元の地面の汚物を
掃き水気を払うよう命じた。厩番は仕事が増えたことに嫌な顔をしたが、銀貨を投げ渡
してやると、一瞬前までとはまったく正反対の晴れやかな笑顔で「お任せください」と
請け負い、早速仕事に取り掛かりはじめた。

「蹄鉄はどうしますか」

 意欲に溢れた厩番の問いに、馬の世話は刷毛かけくらいしかしたことのないカッツェ
はどう答えていいものかわからず鷹揚なふりをして頷いた。

「明朝から長距離を走らせる。
 最も都合のいいようにしてくれ」

「承知しました」

 カッツェはその返事を聞くと、これ以上何か言われる前にと、落ち着いたような態度
は崩さないまま厩を後にすることにした。もう日は暮れ、兵舎の窓には光が灯り始めて
いた。吹き抜けた風が先程よりも冷たいように感じられる。夕餉のにおいが漂っている。

 兵卒の食事は、昨日一昨日とおなじ、あまり味の濃くない肉汁と麺包だろう。それで
もいくらかの香辛料が使われているのだから文句は言えないが、正直、物足りない。貴
族階級には果物が配られることもあるらしく、昨日、騎士は林檎をもらっていた。

 彼はその赤い果実を大切そうに部屋に持って帰って短刀で綺麗に切り分け、自分は一
切れだけとって残りはすべてカッツェにくれた。なんでも、果物は好きなのに、小食な
せいであまり食べられないらしい。
 民謡だか何だかにそういう女の子の話があったような気がする。

 ――騎士は起きているだろうか。
 いや、無理にでも起こさないと夕食を食べ損ねてしまう。
 二十歳まであと数年、今は食べ盛りなのだ。空腹で眠れなくなるのは嫌だ。

 カッツェはため息をついて主塔を仰ぎ見た。
 あの部屋の窓に明りはない。間違いなくまだ寝ている。

 いつの間にか月が出ている。
 その月が、


 一瞬、翳った気がした。



2007/02/12 16:52 | Comments(0) | TrackBack() | ○ファランクスナイトショウ

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