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人物:ライ セラフィナ
場所:港町デルクリフ
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「この町で一番の宿です」
案内された建物を見上げて驚いた。どう見てもこじんまりとしたこの町には似合わ
ない高級感が感じられたからだ。豪奢[ごうしゃ]ではないが品のある佇[たたず]
まい、おそらく使われている材質から違うだろうと思われる玄関までの石畳。
「あの、ここはどなたかの私宅なのでは」
宿と言うよりはよほどしっくりくる答えだった。しかし、男は得意そうに満面の笑
みを浮かべて答えるのだ。
「あの丘の上にありますエッカルト邸は始終慌ただしくしておりますので、大切なお
客様をもてなすための静かな宿も当然必要とされるのです」
ライとセラフィナが顔を見合わせる。
「私はトリステン家の使いとしてエッカルト邸に所用がありますので、何かご用があ
りましたら宿のモノに使いを頼めんでいただければばすぐにでも駆けつけ」
「特別扱いは無用です」
「……出過ぎた真似を申し訳ありません」
セラフィナの有無を言わせぬ言葉の挟み方に、男は深々と頭を下げた。
そして、失態を取り返そうとしてか、少し陽気に言葉を続ける。
「ここはとても眺めがいいことで評判なんですよ、窓から海が見渡せます」
セラフィナは表情を少し和らげると言葉を返した。
「いろいろありがとう。お仕事に戻って下さい」
「宿の方には私どもから口添えさせていただきますのでご心配なく」
もう一度深く頭を下げ、後ろ髪を本当に引かれているんじゃないかというような素
振りで男の乗った馬車は去っていった。
「セラフィナさんの周りって、いつもあんな?」
うんざりした顔でライが頭をかく。セラフィナは苦い笑いを浮かべて何も言わなか
った。もう一度宿を見上げて、二人で小さくため息を付いた。
宿の対応はさすがだった。トリステンの客人(身分はどうやら伏せてくれたらし
い)として海の見える部屋へ通され、静かに過ごしたいというこちらの要望通り、波
の音しか聞こえない。
宿にはいるときに「人外の方はちょっと……」「あ、ペットですからお気遣いな
く」「……ライさん」「……左様ですか」「え、だって食事いらないし」「そうじゃ
ないでしょう?」「あの、お客様……?」「彼は私の友人で、彼と一緒が無理なら他
を探します」「そこまで言わなくても……」「……畏[かしこ]まりました。お部屋
へご案内いたします」というやりとりがあったのは余談だ。
セラフィナは窓辺に立ち、ライは部屋中央のイスに腰掛けている。
「海を見るの、初めてなんです」
目をわずかに細め、セラフィナが外を眺める。潮風が頬をくすぐり、独特の香りを
運んでくるのが面白い。湖面の静かな淡水湖とは違い、潮の香りと騒々しさが海の躍
動感を象徴しているような気さえする。
港には大きな帆船が6隻と、一回り小さな帆船が十数隻見えた。あれがいろいろな
港町を往復するのかと思うとわくわくしてくるから不思議だ。
「セラフィナさん、少し休んでおいた方がよくない?」
ライがテーブルに頬杖をつくような形で声をかける。きっと声をかけられなかった
らずっと海を見ていただろうと思うと、なんだか気恥ずかしかった。
「ふふっ、そうですね。しばらく休みます」
おとなしくベッドへ移動し、ちょっと考える。
「ライさんは休まなくてもいいんですか?」
「うーん、眠れるワケじゃないからね」
セラフィナの顔が少し曇る。ライは気にするなと、手をひらひら振って続けた。
「でも、ちょっと消えとこうかな。さすがに彼の相手は疲れたよ」
彼のことを思い出してまたちょっとうんざりした表情を浮かべるライ。その表情が
なんだかとても微笑ましくて、セラフィナはくすくすと笑った。
少し休んで、セラフィナは下のテラスで食事をとることにした。部屋に運んでもら
うこともできたが、夜の海を見ながら食事をしてみたかったのだ。一人での食事は味
気ないからと付き合ってもらったライは、向かいの席に座って、手に持ったグラスで
遊んでいる。
「綺麗ですね……」
波に照り返されて揺れる光を見ながら、セラフィナはうっとりと呟いた。髪を高い
位置で一つに結った姿は、今までと少し違う印象を与える。白いうなじがほんのりと
色付いているのは、手にしたワインのせいだろうか。
「……っ、…………!」
言い争うような声が聞こえて、眉を寄せる。なんと言っているかまでは分からない
が、どうも女が相手を詰[なじ]っているらしい。
気にしてはいけないと思った矢先、ガラス製の何かが割れるような音と、男の呻く
ような声が聞こえた。風に乗って届いたのは血の臭い。
「セラフィナさん?!」
考えるよりも先に体が動いた。潮の匂いに紛れず、これだけ強い鉄臭さが届くとい
うのは相当な出血だろう。風上の、声がした方角の柵を躊躇[ためら]いなく飛び越
える。着地の時に傷口が悲鳴を上げたが、お構いなしに立ち上がり、再び走りだす。
顔を押さえて膝をつく男と、振り返ることなく走り去る女がすぐに目に入った。男
は壮年だが女は若い。一見したところ痴情のもつれというところか。男の足下には割
れたグラスと血溜まりがみえた。怪我をしたらしい男に駆け寄り、声をかける。
「何物だ……」
「お話は後にしていただきます。血を止めますので黙って」
額[ひたい]、ちょうど眉間の間あたりをすっぱりと斬られていて、吹き出す血を
手で押さえているらしい。傷口を直接圧迫してもこの出血量ということは、命に別状
はないとも言い切れなくなってくる。
セラフィナは男の手を退けず、男の手の上に重ねるように手を翳[かざ]した。
「助かった、礼を言う」
出血が収まり、閉じていた目を開けて初めて、男は自分の出血の多さに驚いた様子
だった。追ってきたライに水とタオルの調達を頼んで、セラフィナは手当てを続け
る。
「礼などいいですから、水分と肉類をしっかり取って下さいね。私は体に本来備わっ
た力を高めることしかしていません。足りない血は自分の中で作るしかないんです」
手を傷口に重ねたまま、セラフィナは言った。男は小さく肩を竦[すく]めた。
「君は始めて見る顔だな」
「今日ついたばかりですから」
にっこりと笑顔を作るが素っ気ない。
「これからここで働くのかね」
「……何故です?」
警戒からか、セラフィナの目がすぅっと細くなった。
ライが水とタオルを手に戻ってきたので、血で汚れた自分の手を洗い、濡らしたタ
オルで男の顔の血糊を拭き取る。その間、セラフィナは一言も発しなかった。
「警戒させてしまったようですまない。私はライゼル、君は?」
握手を求める手に濡れタオルを握らせ、セラフィナは笑顔で答える。
「セラフィナです。片づけてきますから、手はご自分でお拭きになって下さいね」
そういうと相手の返事を待たずに立ち上がった。
「何か礼がしたい、どうすれば連絡が取れる?」
「礼が欲しくてやったことではありませんから」
軽く会釈するとセラフィナは水が血に染まった洗面器を持って立ち去る。
「ふむ、私は何か悪いことを言ったのかな」
「さあ、そうかもね」
男をその場へ一人残し、ライはセラフィナの後を追った。
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人物:ライ セラフィナ
場所:港町デルクリフ
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結局、食事を続ける気は起きなかったらしく、彼女はそのまま部屋へ戻った。
ライは彼女を追いかけて扉を開けずに部屋へ入り口を開く。
「さっきの人に、随分と警戒してたね」
「……そうですか?」
タオルを取りに行っていたから話は途中からしか聞かなかったが、普段よりも彼女の
声が硬かった気がしたのだ。
でも首をかしげたセラフィナには何かを隠すような様子はない。
「……気のせいだったかな」
軽く肩を竦めて言いながら、部屋を横切ってさっきとおなじ椅子に腰を下ろす。椅子
の背に肩肘を乗せて、それに寄りかかりながら窓の外を見る。
ガラス越しに、夜の海はぼんやりと深い闇だった。
「最初に僕に話しかけてきたときなんかは、もう少し……そーだなぁ、とっつきやすか
ったかな。雰囲気がもう少しやわらかかった気がしたんだけど」
言ったのは、何も意図したところではなく、どちらかと言えば口を滑らしたに近かっ
たが――セラフィナは慌てたように両手を振った。まるで過去の失敗――か、それと似
たような恥ずかしいことを指摘されたときの反応みたいだな、と思ってライは薄く苦笑
を浮かべる。
「あっ、あれは……ライさんが、知ってる人とよく似てたから、つい……」
「そんなにそっくりだった?」
弟とは、確かにたまに“区別がつかない”と言われた。だがそれは昔の話で、今のあ
いつがどうなのかは知らないし、実のところ、鏡に写らないものだから、自分の顔さえ
しばらく見ていない。
左目のあたりの皮膚が少しおかしくなっていることも、この前、セラフィナに言われ
るまで気がつかなかった。それからは、目の邪魔にならない程度の適当さではあるが、
髪で隠すようにしている。
とりあえずそんなことは今はどうでもいいが。
問題なのは、今、弟に会っても、すぐには彼だとわからないかも知れない、というこ
とだ。会うことなどないだろうけれども。
「ライさんより年下で、もっと大人しい感じでしたけど」
懐かしがるように目を細める彼女を見上げて、ライは「ふぅん」とだけ相槌を打った。
ああいうのは、“大人しい”じゃなくて“根暗”っていうんだ、と思ったが、もちろん、
内心に留めておく。
「僕も意外と若くて十六歳なんだよ……まぁいいや。
さっきカウンターで聞いたんだけど、明日の昼前に出る船があるんだって」
「本当ですか?」
「タイミングよかったみたい。コールベルの方に向かうらしいよ」
本当だったら早朝に一人で確認しに行ければいいと思ったが、最近は一目で“人外な
人”って言われるようになったから、下手に一人でいると面倒ごとに巻き込まれそうだ。
どんな目で見られようが別に構わないが、必要な情報が得られないのでは意味がない。
ここの従業員ならば嘘は言わないだろうから信じることにしよう。
ガンつけられたくないから一人で行動しない、と言い換えると相当情けないけれど。
だけどもう少しの辛抱だから。もっと調子が悪くなって、体の中が溶けるような感覚
が強くなって、我慢できなくなれば、躊躇わずに人の命を奪えるかも知れない。
一度そうなってしまえばもう大丈夫。だって僕をとめているのは罪悪感じゃなくて、
半ば意地のように自分は人間の範疇にあると思い込もうとしてるだけなんだ。誰も認め
てくれなくなても自分だけには貫くなんて、そんなカッコいい自己陶酔に浸れるほど強
くも弱くもないよ。
「ねぇセラフィナさん」
「はい?」
ライが立ち上がって、わざと声を弾ませて呼びかけると、彼女は笑顔で振り返ってき
た。一瞬前まで彼女が見つめていた夜の海に、さっとカーテンを引く。
彼女を惹きつける闇を部屋から追い出してライは笑った。
「僕が元気になったら嬉しい?」
セラフィナは、きょとんと瞬きしてから微笑んだ。
「ええ、嬉しいですよ」
きっと彼女はその方法が一つしかないことなんて知らないし、仮に想像したことはあ
っても真に受けたことなんかないだろう。だから裏も表もなく純粋に答えてくれたとい
うことだ。それはライを喜ばせた。
「じゃあ今日は早く寝なよ。船旅は意外と疲れるから――」
翌日、青い空の下で港は賑やかだった。キラキラと白い波が光るのに飾られた海が、
どこまでも続いている。そこに浮かんだ大きな船の一隻には、出港が近いだけあってた
くさんの人が集まっている。
昨日の夜に怪我をしていた男はいないかと見渡してみたが、見つからなかった。
大きな木箱が次々と船の中に消えていく横でセラフィナが船長と思われる老人に乗船
賃を払って、二人分のチケットを受け取った。
「セラフィナさん、船出までどのくらいかかりそうって……」
――ミャア
ちょうど言いかけたとき、小さな鳴き声が聞こえた。
思わず言葉を切って目をやると、船の甲板の縁の上に小さな三毛猫が座ってこちらを
見下ろしているのと目が合う。まだ子供だろうか、大きな目が宝石みたいで綺麗だ。
そんな感想を抱いているうちに、猫はさっさと縁から飛び降りて見えなくなってしま
った。
この船には動物がいるのか。いいなぁ。
猫は可愛いから好きだ。犬の次に。
「ライさーん、先に乗ってましょう?」
セラフィナが、ひらひらとチケットを見せながら声をかけてきた。
今の彼女はいつもより少しはしゃいでいるような感じがして、ライは、船旅もいいか
も知れないなぁなんて思いながら彼女の方に歩いて行った。
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人物:ライ セラフィナ
場所:海上(バイコーク⇔ルクセン)
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「……綺麗ですねぇ!」
帆に風を受けて走る大型船の甲板で、セラフィナは一人子供のように目をきらきら
させていた。風に弄ばれて髪が踊る。その様子を見ているライも、心なしか楽しそう
だ。
この船は元々貿易用の貨物船らしく、客室はおまけみたいなモノで寝台しかないよ
うな狭い造りになっていた。だからというか海を見たかったというか、船員の作業の
じゃまにならないように甲板の隅を陣取り、光を乱反射しながら輝く水面を眺めてい
たのだ。
木箱の上に腰掛けるライの隣には小さな三毛猫が丸くなっている。彼が優しく撫で
ると、三毛猫は目を細めて嬉しそうに鳴いた。
――ミャア
その声に、セラフィナが振り返り、笑みを浮かべる。
「まあ、もうお友達になったんですか?」
「うん、なんか気に入られちゃったみたい」
居心地良さそうにしている猫を突っつきながらライは笑った。
ライが笑っていると、セラフィナもなんだか嬉しくなった。
「ほとんどの船は海岸沿いに小さな港を移動するらしいんですけど、この船は大きい
ですからね、それなりの港まで行かないと着岸できないんですって」
「へぇ、じゃあ一直線?」
「そうなりそうですよ」
風に煽られる髪を押さえながら、セラフィナは船の舳先[へさき]を見つめた。
前に広がるのは一面の海。後方のバイコークはもう見えなくなったかもしれない。
「多分同じような風景がしばらく続くと思うけど……眺めてて飽きない?」
「え、楽しいですよ?」
セラフィナは左側に見える小さな島を指して言った。
「ほら、あの船も同じ方角を目指してるんでしょうか」
「え、アレは島でしょ」
「いいえ?今あの陰に入ってますけど、この船より一回り小さい黒い船がいました
よ?」
セラフィナが首を傾げる。ライも真似して首を傾げる。
「見間違いかしら」
確かに見たと思ったのに。しばらく気にして見ていたのだが、とっくに島影から出
てきてもいいはずなのに、結局何も出てこなかった。
「なんか物騒な匂いがするなぁ」
――ミャア
ライの呟きに答えるように、猫が小さく鳴いた。
少しして、セラフィナは猫と遊んでいるライと分かれて一旦船室に戻ることにし
た。荷物の整理をしたかったのと、くしゃくしゃになった髪を梳[くしけず]りたか
ったからだ。結い上げた髪を下ろし、柘植[つげ]の櫛を通す。絡まった髪が解[ほ
ど]け、本来の真っ直ぐな姿を取り戻していく。
髪を再び結い上げ、人心地ついたところで狭い船室を出た。が、その途端、慌ただ
しく走る船員にぶつかった。よろめいて、壁に体を強[したた]か打ちつける。普段
なら大したことはないのだろうが、なんだか傷に響くような気がして、わずかに眉根
を寄せた。
「おっとすまないね。あんた背の低い団子っ鼻の水夫を見かけなかったカネ」
「いいえ?見ていないと思いますけど」
「んじゃあ、見つけたら教えてくれよ。あんにゃろ、何処でサボってやがる……」
言いながら再び走り出す船員。セラフィナは呆気にとられて後ろ姿を見送った。
「あれ、セラフィナさん、もういいの?」
後ろからライに声をかけられてようやく自分が呆気にとられていたことに気づき、
セラフィナはバツが悪そうに笑って振り返った。
「船員さんが一人見当たらないんですって」
「ふぅん。僕は猫と遊んでる間、誰にも会わなかったからなぁ」
掻きあげるライの髪の隙間から見えた傷につい目がいってしまう。
セラフィナのその視線に気づいたライは、ちょっと意地悪そうに笑った。
「やっぱり、気になる?」
「ごめんなさい。やっぱりまだ慣れませんね」
しかし心配そうな表情ではなく、笑顔で返す。
「でも、ちょっと前よりずっといい表情してますよ」
「そうかな」
小首を傾げて、ライはぽむと手を打った。
「あの猫に元気を分けて貰ったかな?」
二人は顔を見合わせて笑った。
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人物:ライ セラフィナ
場所:海上(バイコーク⇔ルクセン)
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いなくなったという船員が見つかることはなかった。
深夜を回ってからようやく、船員たちは「何かあったんじゃないか」と騒ぎ始め、ば
たばたと慌しく探し回り始めた。セラフィナが二つとってくれた客室の片方で部屋全体
を占拠している狭い寝台に寝転がったまま、ライはその騒ぎを聞いていた。
枕元はすぐ壁になっており、小さな丸窓から真夜中の海を覗くことができた。
分厚いガラスの向こうには墨を流したような夜闇が広がっている。月光を受けた波が
時折ちらちらと白く輝いて見えるのは、或いは幻想的なのかも知れなかった。
左手の手袋の中指の先を口に銜えて引っ張る。
しばらく外気に触れていなかった手が、船室の空気に寒さを訴えるのを無視して、窓
ガラスに触れる。
地上で冬の朝にそうしたかのように、ガラスは冷たかった。
そうか、やっぱり、このすぐ向こうには海があるんだな――船旅も悪くないね。
なんとなく満足して、そのまま、ぱたりと手を下ろし、寝返りをうって仰向けに天井
を見上げる。意識がまどろむことはなかったが気にならなかった。
こういう心地のいい夜ならば、長く続いてもいい。
ぎしぎしと小さな音を立てて木材が軋んでいる。建物であれば、それは家の呼吸なの
だ、と聞いた覚えがあったが、船もそうなのだろうか。
これだけ大きな乗り物に“生きている”という比喩を使うのは奇妙だ、と、苦笑する。
天井ちかくに備え付けられた小さな灯りは獣脂を使っているらしく、消したあともし
ばらくは、独特の臭いが充満していた。慣れてしまったのか、木材のわずかな隙間から
逃げていってしまったのか、今はもう感じない。
すぐ近くにあるはずの海の波音は、遠くからのもののように小さく聞こえた。
船はただ揺れるだけにしか感じられず、人間が走るよりもよっぽど速く、海の上を滑
るように移動しているとはとても思えなかった。だが常識でそれを知っているから、実
体を消すことができない。海の真ん中で取り残されたらあまりにも間抜けだ。
「……疲れた……」
気がつけば、さっきまで騒がしかった船員たちは静かになっていた。探し人が見つか
ったのだろうか。一種の閉鎖空間であるここで、本当に誰かがいなくなる、ということ
は起こり得ないのだ。海にでも飛び込まない限り。
ふいに、扉が小さくノックされた。鍵のついていない扉は、返事を待つ間もなく開か
れる。ライが闇の中で身を起こして「どなたですか」と問うと、蝋燭を持った船員は、
一瞬だけびくりと体を強張らせた。
「あ……起きてたか」
何かに怯えるように彼は小声で言う。その感情は自分に向けられているのかと思った
が、違うようだ。彼はきょろきょろと廊下を見渡し、口の前に人差し指を立てる、所謂
「しー」のジェスチャーを見せた。
「しばらくの間、絶対に灯りを点けないでいてください」
言い方に違和感を感じて眉をひそめる。
立ち上がりかけながらライは問い返した。
「何かあったんですか?」
「なんでもないんだけど……とにかくお願い!」
慌てて扉が閉められる。
続いて、隣の部屋の扉が同じように叩かれるのが聞こえた。
なんだったんだ、と呟いて、寝台の上で上半身を起こしたまま頭を掻く。
嫌な予感に根拠などなかったが、音がしないように注意して、ゆっくりと扉に手をか
けた。少しだけ開けた扉の隙間に体を通し、そうっと閉じる。
さっきの船員が、まだ見回っている灯りが少し離れた場所に見えた。自分以外は殆ど
が眠っていたようで、声は聞こえない。彼は部屋の明かりが消えていることだけを確認
している。
甲板では低い騒ぎが起こっていた。どこか張り詰めたような雰囲気で、嫌な予感は当
たったと確信する。船室から続く階段の闇に身を潜めて――こういうことをするのは久
しぶりだ――、なんとか話を聞こうとする。
自分たちに関係のないことであれば、船員同士のいざかざでもなんでも、やらせてお
けばいい。サボっていた仲間をリンチにしようがなんだろうが、勝手にしていればいい
のだ。もしもセラフィナに言えば顔を曇らせるような考えだろうが。
集まった船員たちの間で交される囁き声の内容はよく聞き取れない。
ただ、声を潜めて慌しく行き来する彼らは、頻繁に海の一点を見ているようだった。
――なんだ? あそこに何かあるのか?
よく見れば甲板の灯りも落とされて、星と月の光のみを頼りにしている。
急に風が強くなっていったように感じたのは、船の速度が上がったからかも知れない。
「逃げ切れねぇよ! 明かりをつけて応戦するしかない!」
「馬鹿言え!」
いきなり上がった叫び声は、この緊張に耐えかねたかのようだったが、一喝されて押
し黙る。
嫌な予感が予感でなくなる。今ので何が起きたのかよくわかった。昼間にセラフィナ
が見た黒い船が連想される。
「――うわあっ! あんた、ここで何してんだ」
隠れてはいたが、やましいことをしているつもりはなかったので、下に降りてこよう
とした一人に見つけられても、ライは慌てなかった。ただ、近くにいた船員たちの視線
が一気に集中したのは少し怖かったが。
「騒がしかったから……何かあったのかと思って」
「何もないんだ! 気にしないで部屋に戻ってくれ」
まじまじ見れば恐慌に近い表情で、彼は強くこちらの体を押し返そうとした。暗闇の
中で、ずるりと足元が滑って踏み外しかける。
擦れて変色した真鍮の手すりに掴まって転げ落ちずに済み、それでも相手に対して瞬
間的に怒りがわいて、ライは逆にその船員を強引に押しやって甲板に出た。
物陰で猫が瞳を光らせている。
見渡すと、夜の海に不気味な光が浮いていた。
大きなシルエットをぼんやりと現し、少しずつ迫ってくるそれは――
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人物:ライ セラフィナ
場所:海上(バイコーク⇔ルクセン)
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セラフィナは衝撃とともに目を覚ました。
直下型の地震のようなズンと芯に響く衝撃。慌てて体を起こし、狭い船室を抜け出
す。
部屋を出ると、月明かりに一人の男が浮かんだ。
昼間に船内で遭遇しなかった長身の男。端整な顔立ちで襟の高いコートを羽織って
いて、部屋を出るセラフィナの気配に気付いたのか、振り向きざまに目が合う。
「……お嬢さん、部屋に戻りなさい。ココにいては危険ですよ」
その優雅で紳士的な振る舞いに、セラフィナは違和感を覚えた。この船に上流階級
の人物が乗っているなど噂にも聞いていないし、そして何より、噂にならないことが
信じられないほどの力のある目だったから。
「……何があったんですか?今の衝撃は?」
「今はまだ、知らない方が貴女の為だ」
表情も言葉も物腰さえも柔らかいのに、右手には抜き身の剣。その時、船首近くで
悲鳴が聞こえた。セラフィナは思わず、彼とすれ違い、駆けつけようとした。が。
「な?!」
片腕を腰のあたりに巻き付けられ、足が宙に浮く。剣を持っていない方の腕で進路
を阻むどころか、抱き上げて見せたのだ。
「放して下さい!」
「おやおや、無茶をするね」
セラフィナは何とか抜け出そうともがくが、男はビクともしない。
コートの下は細身に見えた割にしなやかな引き締まった筋肉に覆われているらし
く、筋力も相当なモノだった。
「何をしたの?他の人達は?!」
「……仕方がないな」
剣を持つ手が閃[ひらめ]く。うなじに柄が叩き込まれ、セラフィナの体は力無く
うなだれた。男はセラフィナを肩に担ぎなおし、何事も無かったかのように歩き出そ
うとしてふと立ち止まると、月を見上げて微笑んだ。
「今日は素晴らしい日だ。美しい月夜に美しい船、そしてそれに負けない美しい出会
い」
「キャプテン!」
駆け寄った手下に一瞬険しい顔を向ける。次に浮かんだのはさっきとは別人のよう
な冷ややかな視線と氷のような笑み。
「邪魔をするとはイイ度胸だな、オマエ」
「も、申し訳ありませんっ!船内をほぼ掌握しましたので、ご報告に!」
「だからって俺の楽しみを壊すんじゃないよ」
音もなく手下の耳が斬られる。焼け付くような痛みに悲鳴を上げ、膝から崩れ落
ち、必死で傷口を押さえるが血が止まらない。
「キエろ」
手下は転げるように男の前から逃げ出した。セラフィナの髪が風に煽られて揺れ
た。
船首では甲板の上にロ-プで縛られた水夫達が並んで座らされていた。怪我人が殆
ど。だが亡くなった者や瀕死の者は居ないようだった。船の運航に必要だからだろう
か。
「てめぇ、手引きしやがったな?!」
悔しそうに睨み付ける男はセラフィナにぶつかったあの男。睨まれる男は背の低い
団子っ鼻の水夫。つまり、行方不明になっていた船員は、海賊船の手引きのために行
方を眩ましていたらしい。
「アンタにイジメられるのはもう沢山だ」
団子っ鼻の男は吐き捨てるように言った。
「コレで全員か?錨[いかり]はおろしたか?」
他の男が捕虜を蹴りながら団子っ鼻に訪ねる。
「ああ、ちゃんと止まってるさ。そこはまかせてくれ。いや……しかし客が二人ほど
足りないようだ。船員は全部だよ」
見渡し、人数を確認する。やはり二人足りない。
「若い男と女の二人連れだったはずだ。船内をもう一度くまなく探さなければ」
きりきりと歯軋りをする。ざわめきが起きて静まり、慌てて振り返ると長身の男が
気を失った女性を大事そうに抱いて歩いてくるところだった。
「手を煩わせてしまい申し訳ありません、アネさん!」
キャプテンの目が鋭さを増し、視線だけで射殺してしまうのではと思うほどに睨み
付ける。それは団子っ鼻が失禁するには十分な恐怖だった。
「キャプテンと呼ばなければ、オマエ、シメるよ?」
どう見ても美声年のキャプテンは、冷ややかに笑った。