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人物:ライ セラフィナ
場所:海上(バイコーク⇔ルクセン)
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いなくなったという船員が見つかることはなかった。
深夜を回ってからようやく、船員たちは「何かあったんじゃないか」と騒ぎ始め、ば
たばたと慌しく探し回り始めた。セラフィナが二つとってくれた客室の片方で部屋全体
を占拠している狭い寝台に寝転がったまま、ライはその騒ぎを聞いていた。
枕元はすぐ壁になっており、小さな丸窓から真夜中の海を覗くことができた。
分厚いガラスの向こうには墨を流したような夜闇が広がっている。月光を受けた波が
時折ちらちらと白く輝いて見えるのは、或いは幻想的なのかも知れなかった。
左手の手袋の中指の先を口に銜えて引っ張る。
しばらく外気に触れていなかった手が、船室の空気に寒さを訴えるのを無視して、窓
ガラスに触れる。
地上で冬の朝にそうしたかのように、ガラスは冷たかった。
そうか、やっぱり、このすぐ向こうには海があるんだな――船旅も悪くないね。
なんとなく満足して、そのまま、ぱたりと手を下ろし、寝返りをうって仰向けに天井
を見上げる。意識がまどろむことはなかったが気にならなかった。
こういう心地のいい夜ならば、長く続いてもいい。
ぎしぎしと小さな音を立てて木材が軋んでいる。建物であれば、それは家の呼吸なの
だ、と聞いた覚えがあったが、船もそうなのだろうか。
これだけ大きな乗り物に“生きている”という比喩を使うのは奇妙だ、と、苦笑する。
天井ちかくに備え付けられた小さな灯りは獣脂を使っているらしく、消したあともし
ばらくは、独特の臭いが充満していた。慣れてしまったのか、木材のわずかな隙間から
逃げていってしまったのか、今はもう感じない。
すぐ近くにあるはずの海の波音は、遠くからのもののように小さく聞こえた。
船はただ揺れるだけにしか感じられず、人間が走るよりもよっぽど速く、海の上を滑
るように移動しているとはとても思えなかった。だが常識でそれを知っているから、実
体を消すことができない。海の真ん中で取り残されたらあまりにも間抜けだ。
「……疲れた……」
気がつけば、さっきまで騒がしかった船員たちは静かになっていた。探し人が見つか
ったのだろうか。一種の閉鎖空間であるここで、本当に誰かがいなくなる、ということ
は起こり得ないのだ。海にでも飛び込まない限り。
ふいに、扉が小さくノックされた。鍵のついていない扉は、返事を待つ間もなく開か
れる。ライが闇の中で身を起こして「どなたですか」と問うと、蝋燭を持った船員は、
一瞬だけびくりと体を強張らせた。
「あ……起きてたか」
何かに怯えるように彼は小声で言う。その感情は自分に向けられているのかと思った
が、違うようだ。彼はきょろきょろと廊下を見渡し、口の前に人差し指を立てる、所謂
「しー」のジェスチャーを見せた。
「しばらくの間、絶対に灯りを点けないでいてください」
言い方に違和感を感じて眉をひそめる。
立ち上がりかけながらライは問い返した。
「何かあったんですか?」
「なんでもないんだけど……とにかくお願い!」
慌てて扉が閉められる。
続いて、隣の部屋の扉が同じように叩かれるのが聞こえた。
なんだったんだ、と呟いて、寝台の上で上半身を起こしたまま頭を掻く。
嫌な予感に根拠などなかったが、音がしないように注意して、ゆっくりと扉に手をか
けた。少しだけ開けた扉の隙間に体を通し、そうっと閉じる。
さっきの船員が、まだ見回っている灯りが少し離れた場所に見えた。自分以外は殆ど
が眠っていたようで、声は聞こえない。彼は部屋の明かりが消えていることだけを確認
している。
甲板では低い騒ぎが起こっていた。どこか張り詰めたような雰囲気で、嫌な予感は当
たったと確信する。船室から続く階段の闇に身を潜めて――こういうことをするのは久
しぶりだ――、なんとか話を聞こうとする。
自分たちに関係のないことであれば、船員同士のいざかざでもなんでも、やらせてお
けばいい。サボっていた仲間をリンチにしようがなんだろうが、勝手にしていればいい
のだ。もしもセラフィナに言えば顔を曇らせるような考えだろうが。
集まった船員たちの間で交される囁き声の内容はよく聞き取れない。
ただ、声を潜めて慌しく行き来する彼らは、頻繁に海の一点を見ているようだった。
――なんだ? あそこに何かあるのか?
よく見れば甲板の灯りも落とされて、星と月の光のみを頼りにしている。
急に風が強くなっていったように感じたのは、船の速度が上がったからかも知れない。
「逃げ切れねぇよ! 明かりをつけて応戦するしかない!」
「馬鹿言え!」
いきなり上がった叫び声は、この緊張に耐えかねたかのようだったが、一喝されて押
し黙る。
嫌な予感が予感でなくなる。今ので何が起きたのかよくわかった。昼間にセラフィナ
が見た黒い船が連想される。
「――うわあっ! あんた、ここで何してんだ」
隠れてはいたが、やましいことをしているつもりはなかったので、下に降りてこよう
とした一人に見つけられても、ライは慌てなかった。ただ、近くにいた船員たちの視線
が一気に集中したのは少し怖かったが。
「騒がしかったから……何かあったのかと思って」
「何もないんだ! 気にしないで部屋に戻ってくれ」
まじまじ見れば恐慌に近い表情で、彼は強くこちらの体を押し返そうとした。暗闇の
中で、ずるりと足元が滑って踏み外しかける。
擦れて変色した真鍮の手すりに掴まって転げ落ちずに済み、それでも相手に対して瞬
間的に怒りがわいて、ライは逆にその船員を強引に押しやって甲板に出た。
物陰で猫が瞳を光らせている。
見渡すと、夜の海に不気味な光が浮いていた。
大きなシルエットをぼんやりと現し、少しずつ迫ってくるそれは――
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