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人物:ライ セラフィナ
場所:港町デルクリフ
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「この町で一番の宿です」
案内された建物を見上げて驚いた。どう見てもこじんまりとしたこの町には似合わ
ない高級感が感じられたからだ。豪奢[ごうしゃ]ではないが品のある佇[たたず]
まい、おそらく使われている材質から違うだろうと思われる玄関までの石畳。
「あの、ここはどなたかの私宅なのでは」
宿と言うよりはよほどしっくりくる答えだった。しかし、男は得意そうに満面の笑
みを浮かべて答えるのだ。
「あの丘の上にありますエッカルト邸は始終慌ただしくしておりますので、大切なお
客様をもてなすための静かな宿も当然必要とされるのです」
ライとセラフィナが顔を見合わせる。
「私はトリステン家の使いとしてエッカルト邸に所用がありますので、何かご用があ
りましたら宿のモノに使いを頼めんでいただければばすぐにでも駆けつけ」
「特別扱いは無用です」
「……出過ぎた真似を申し訳ありません」
セラフィナの有無を言わせぬ言葉の挟み方に、男は深々と頭を下げた。
そして、失態を取り返そうとしてか、少し陽気に言葉を続ける。
「ここはとても眺めがいいことで評判なんですよ、窓から海が見渡せます」
セラフィナは表情を少し和らげると言葉を返した。
「いろいろありがとう。お仕事に戻って下さい」
「宿の方には私どもから口添えさせていただきますのでご心配なく」
もう一度深く頭を下げ、後ろ髪を本当に引かれているんじゃないかというような素
振りで男の乗った馬車は去っていった。
「セラフィナさんの周りって、いつもあんな?」
うんざりした顔でライが頭をかく。セラフィナは苦い笑いを浮かべて何も言わなか
った。もう一度宿を見上げて、二人で小さくため息を付いた。
宿の対応はさすがだった。トリステンの客人(身分はどうやら伏せてくれたらし
い)として海の見える部屋へ通され、静かに過ごしたいというこちらの要望通り、波
の音しか聞こえない。
宿にはいるときに「人外の方はちょっと……」「あ、ペットですからお気遣いな
く」「……ライさん」「……左様ですか」「え、だって食事いらないし」「そうじゃ
ないでしょう?」「あの、お客様……?」「彼は私の友人で、彼と一緒が無理なら他
を探します」「そこまで言わなくても……」「……畏[かしこ]まりました。お部屋
へご案内いたします」というやりとりがあったのは余談だ。
セラフィナは窓辺に立ち、ライは部屋中央のイスに腰掛けている。
「海を見るの、初めてなんです」
目をわずかに細め、セラフィナが外を眺める。潮風が頬をくすぐり、独特の香りを
運んでくるのが面白い。湖面の静かな淡水湖とは違い、潮の香りと騒々しさが海の躍
動感を象徴しているような気さえする。
港には大きな帆船が6隻と、一回り小さな帆船が十数隻見えた。あれがいろいろな
港町を往復するのかと思うとわくわくしてくるから不思議だ。
「セラフィナさん、少し休んでおいた方がよくない?」
ライがテーブルに頬杖をつくような形で声をかける。きっと声をかけられなかった
らずっと海を見ていただろうと思うと、なんだか気恥ずかしかった。
「ふふっ、そうですね。しばらく休みます」
おとなしくベッドへ移動し、ちょっと考える。
「ライさんは休まなくてもいいんですか?」
「うーん、眠れるワケじゃないからね」
セラフィナの顔が少し曇る。ライは気にするなと、手をひらひら振って続けた。
「でも、ちょっと消えとこうかな。さすがに彼の相手は疲れたよ」
彼のことを思い出してまたちょっとうんざりした表情を浮かべるライ。その表情が
なんだかとても微笑ましくて、セラフィナはくすくすと笑った。
少し休んで、セラフィナは下のテラスで食事をとることにした。部屋に運んでもら
うこともできたが、夜の海を見ながら食事をしてみたかったのだ。一人での食事は味
気ないからと付き合ってもらったライは、向かいの席に座って、手に持ったグラスで
遊んでいる。
「綺麗ですね……」
波に照り返されて揺れる光を見ながら、セラフィナはうっとりと呟いた。髪を高い
位置で一つに結った姿は、今までと少し違う印象を与える。白いうなじがほんのりと
色付いているのは、手にしたワインのせいだろうか。
「……っ、…………!」
言い争うような声が聞こえて、眉を寄せる。なんと言っているかまでは分からない
が、どうも女が相手を詰[なじ]っているらしい。
気にしてはいけないと思った矢先、ガラス製の何かが割れるような音と、男の呻く
ような声が聞こえた。風に乗って届いたのは血の臭い。
「セラフィナさん?!」
考えるよりも先に体が動いた。潮の匂いに紛れず、これだけ強い鉄臭さが届くとい
うのは相当な出血だろう。風上の、声がした方角の柵を躊躇[ためら]いなく飛び越
える。着地の時に傷口が悲鳴を上げたが、お構いなしに立ち上がり、再び走りだす。
顔を押さえて膝をつく男と、振り返ることなく走り去る女がすぐに目に入った。男
は壮年だが女は若い。一見したところ痴情のもつれというところか。男の足下には割
れたグラスと血溜まりがみえた。怪我をしたらしい男に駆け寄り、声をかける。
「何物だ……」
「お話は後にしていただきます。血を止めますので黙って」
額[ひたい]、ちょうど眉間の間あたりをすっぱりと斬られていて、吹き出す血を
手で押さえているらしい。傷口を直接圧迫してもこの出血量ということは、命に別状
はないとも言い切れなくなってくる。
セラフィナは男の手を退けず、男の手の上に重ねるように手を翳[かざ]した。
「助かった、礼を言う」
出血が収まり、閉じていた目を開けて初めて、男は自分の出血の多さに驚いた様子
だった。追ってきたライに水とタオルの調達を頼んで、セラフィナは手当てを続け
る。
「礼などいいですから、水分と肉類をしっかり取って下さいね。私は体に本来備わっ
た力を高めることしかしていません。足りない血は自分の中で作るしかないんです」
手を傷口に重ねたまま、セラフィナは言った。男は小さく肩を竦[すく]めた。
「君は始めて見る顔だな」
「今日ついたばかりですから」
にっこりと笑顔を作るが素っ気ない。
「これからここで働くのかね」
「……何故です?」
警戒からか、セラフィナの目がすぅっと細くなった。
ライが水とタオルを手に戻ってきたので、血で汚れた自分の手を洗い、濡らしたタ
オルで男の顔の血糊を拭き取る。その間、セラフィナは一言も発しなかった。
「警戒させてしまったようですまない。私はライゼル、君は?」
握手を求める手に濡れタオルを握らせ、セラフィナは笑顔で答える。
「セラフィナです。片づけてきますから、手はご自分でお拭きになって下さいね」
そういうと相手の返事を待たずに立ち上がった。
「何か礼がしたい、どうすれば連絡が取れる?」
「礼が欲しくてやったことではありませんから」
軽く会釈するとセラフィナは水が血に染まった洗面器を持って立ち去る。
「ふむ、私は何か悪いことを言ったのかな」
「さあ、そうかもね」
男をその場へ一人残し、ライはセラフィナの後を追った。
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