PC:スーシャ ロンシュタット
NPC:バルデラス 自警団長 団員
場所:セーラムの街 宿屋
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ドアを開けて、一番最初に入って来たのは団長だった。
スーシャは自分でもびっくりするほど、そのことに落胆していた。
「やあ、スーシャ。少しばかり話を聞かせてもらいたいんだが、いいかな?」
入るなり、団長はそう言って少しだけ身を屈めてくる。
「いやだ」という答えは認めないような、妙な威圧感があった。
続いてスーシャをかくまってくれた団員が、ひどくばつの悪そうな、すまなそうな顔
をして入ってくる。
彼はスーシャを見ると、気の毒がるような目をした。
最後に入って来たのはロンシュタットだ。
出会った時とほとんど変わらない無表情で入ってくると、壁に寄りかかって立った。
まるで観察するかのような態度である。
「さっそく話を始めよう。スーシャ、君は彼の名を知っていたのかな?」
「彼、って……」
スーシャはやたらビクビクしながら答えた。
団長を前にすると、どうしてか足が震えるのだ。
「ロンシュタット。あの青年のことだよ」
「あの」のところで団長はロンシュタットをあごで指した。
「は、はい。知ってます」
「いつ、彼の名を知った?」
いつ、というと……。
「あ、あの……」
唐突に、「剣がしゃべったのだ」と正直に言って、信じてもらえるだろうかという不
安がこみ上げてきた。
おそらく信じてはもらえないだろう。
そういえば自分はすんなり受け入れているが、剣がしゃべるなんて、本当はあまりに
突飛な話だ。
「バルデラスさんに教えてもらったんです」
「ほう」
団長がわずかに眉を動かす。
「それは誰かね。この街に、そんな名前の人間はいなかったと思うが」
「あの、ロンシュタットさんと一緒にいて……」
――わたしがロンシュタットさんの名前を知っているのが、そんなに問題なのかな。
スーシャは不意に違和感を覚えたが、わざわざ口に出して言えるほど、強気ではな
かった。
「団長、もういいじゃありませんか」
スーシャを匿った団員が、たまりかねたように声を上げる。
ゆっくりと、団長がそちらに視線を向けた。
「少し落ちついて下さいよ。一体どうしたんですか。いつもの団長らしくないです
よ、名前ぐらいでムキになって、小さい女の子相手にネチネチ聞き出すなんて。かわ
いそうに、怖がってるじゃないですか」
「らしくない……か。君はなかなか鋭いね」
団員の顔に緊張が走る。
たった今答えた団長の声に、別の誰かの声が混ざって聞こえたのだ。
異常を感じ、いぶかしげな表情を浮かべながらなおも何かを言おうとすると。
「ああ、怖がらなくていいんだよ。あともう少しだけ話を――」
出し抜けに、団長の大きな手が、スーシャのやせ細った小さな肩をつかんだ。
スーシャは目を見開き、ひくっ、と呼吸を止めた。
その途端のことだった。
「……っぐ、ぐあああああっっ」
肉の焦げる嫌な匂いとともに、団長の巨躯がその場に崩れた。
手を押さえ、苦しげなうめき声を上げ続けている。
――見ると、スーシャの肩をつかんだ団長の手が、黒く焦げていた。
「あ……があ……!」
――どうしてこんなことになったのか、わからない。
苦しむ団長を前に、スーシャはひたすらおろおろするばかりだった。
何もしていないのに、団長が大やけどを負ってしまった。
自分のせいだろうか。
でもわたしは何もしてない。
こう言っては悪いような気がするけれど、勝手にやけどを負ったのだ。
でも、謝らなくちゃいけないのかな。
少し前まで日常的に行動を支配していた思考の癖が、頭をもたげてくる。
団長が、顔を上げる。
わかりやす過ぎるほどの憤怒の表情が浮かび、まるで悪鬼のようだった。
「おのれぇ……っ! おとなしく体を引き裂かれていれば良いものを、無駄な抵抗を
!」
団長の声に混ざっている別の声が、さっきよりも大きく聞こえる。
「小娘と思って油断していたぞ。よくもこんなことを……」
全身の筋肉がぶるぶる震えながら、盛り上がる。
団長の腕は、まるで丸太みたいに太くなって見えた。
わたしをこれで引き裂こうとしていたのか、と思うと、スーシャの体を寒気が襲う。
――唐突に、人影が動いた。
「おい、あんた! スーシャちゃんを連れて逃げろ!」
団員が、素早く後ろに回って団長の体を羽交い締めにし、ロンシュタットに叫んでい
た。
ロンシュタットはすでに、壁から身を離していた。
だが、臨戦体勢というわけではなく、腕組みをしていた。
「団長はもう、おれ達の知ってる団長じゃない! 早く逃げろ、ここはおれが抑える
!」
「……よせ」
叫ぶ団員に、ロンシュタットがぽつりと呟いた。
「な……馬鹿野郎、早くしろよ! おれじゃそんなにもたないぞ!」
「そうだな。よくわかっている」
ひた、と見据えられて、団員は、どういう意味だ、という表情を浮かべた。
「お前ではそいつを抑えられない」
冷静にロンシュタットが告げた、そのほんの一瞬の後。
団長が、背中に貼りついていた団員の体を引っつかみ、床に叩きつけた。
その勢いはすさまじく、団員の頭は完全に床にめりこんでいた。
床から生えた団員の体が、ビクビクと痙攣している。
どうやら彼の頭は床を突き抜けているらしい。
――階下から、悲鳴と絶叫と怒号が沸いてきた。
「っかー。馬鹿だねぇ。ここまで隠して来れたんだから、最後まで隠しておきゃいい
のに。詰め甘いんじゃねえ?」
バルデラスのからかうような声に、『団長』は血走って真っ赤になった目をむいた。
「何だと……?」
その声は、すでに団長自身のものではなくなりつつあった。
妙にしゃがれて低い、嫌な響きの声が、彼の口から漏れている。
「おーおー。ナマイキ」
バルデラスがケタケタと楽しそうに――どこが楽しいのかさっぱり不明だが、実に楽
しそうに笑い声を上げた。
「いるんだよな、時たま。実体化できねえ低級の奴が、人間の体乗っ取って悪さすん
だよ。なあ、お前、その程度だもんな。ザコだよザコ。どんだけすごいのがいるかと
思ったら、まさかこんなザコだったとはなぁ!」
「愚弄する気か!」
咆哮にも似た叫びが、団長の口から発せられる。
その凄まじいこと。
宿屋全体が、ビリビリと揺れた。
スーシャは、青白い顔で浅い呼吸を繰り返しながら、ただ、団員のことだけを考えて
いた。
助けに行きたい。
もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。
だが――彼は、団長の足元にいるから、近寄れない。
彼の痙攣は、しだいに間隔を長く置いて引き起こされるようになっていた。
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NPC:バルデラス 自警団長 団員
場所:セーラムの街 宿屋
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ドアを開けて、一番最初に入って来たのは団長だった。
スーシャは自分でもびっくりするほど、そのことに落胆していた。
「やあ、スーシャ。少しばかり話を聞かせてもらいたいんだが、いいかな?」
入るなり、団長はそう言って少しだけ身を屈めてくる。
「いやだ」という答えは認めないような、妙な威圧感があった。
続いてスーシャをかくまってくれた団員が、ひどくばつの悪そうな、すまなそうな顔
をして入ってくる。
彼はスーシャを見ると、気の毒がるような目をした。
最後に入って来たのはロンシュタットだ。
出会った時とほとんど変わらない無表情で入ってくると、壁に寄りかかって立った。
まるで観察するかのような態度である。
「さっそく話を始めよう。スーシャ、君は彼の名を知っていたのかな?」
「彼、って……」
スーシャはやたらビクビクしながら答えた。
団長を前にすると、どうしてか足が震えるのだ。
「ロンシュタット。あの青年のことだよ」
「あの」のところで団長はロンシュタットをあごで指した。
「は、はい。知ってます」
「いつ、彼の名を知った?」
いつ、というと……。
「あ、あの……」
唐突に、「剣がしゃべったのだ」と正直に言って、信じてもらえるだろうかという不
安がこみ上げてきた。
おそらく信じてはもらえないだろう。
そういえば自分はすんなり受け入れているが、剣がしゃべるなんて、本当はあまりに
突飛な話だ。
「バルデラスさんに教えてもらったんです」
「ほう」
団長がわずかに眉を動かす。
「それは誰かね。この街に、そんな名前の人間はいなかったと思うが」
「あの、ロンシュタットさんと一緒にいて……」
――わたしがロンシュタットさんの名前を知っているのが、そんなに問題なのかな。
スーシャは不意に違和感を覚えたが、わざわざ口に出して言えるほど、強気ではな
かった。
「団長、もういいじゃありませんか」
スーシャを匿った団員が、たまりかねたように声を上げる。
ゆっくりと、団長がそちらに視線を向けた。
「少し落ちついて下さいよ。一体どうしたんですか。いつもの団長らしくないです
よ、名前ぐらいでムキになって、小さい女の子相手にネチネチ聞き出すなんて。かわ
いそうに、怖がってるじゃないですか」
「らしくない……か。君はなかなか鋭いね」
団員の顔に緊張が走る。
たった今答えた団長の声に、別の誰かの声が混ざって聞こえたのだ。
異常を感じ、いぶかしげな表情を浮かべながらなおも何かを言おうとすると。
「ああ、怖がらなくていいんだよ。あともう少しだけ話を――」
出し抜けに、団長の大きな手が、スーシャのやせ細った小さな肩をつかんだ。
スーシャは目を見開き、ひくっ、と呼吸を止めた。
その途端のことだった。
「……っぐ、ぐあああああっっ」
肉の焦げる嫌な匂いとともに、団長の巨躯がその場に崩れた。
手を押さえ、苦しげなうめき声を上げ続けている。
――見ると、スーシャの肩をつかんだ団長の手が、黒く焦げていた。
「あ……があ……!」
――どうしてこんなことになったのか、わからない。
苦しむ団長を前に、スーシャはひたすらおろおろするばかりだった。
何もしていないのに、団長が大やけどを負ってしまった。
自分のせいだろうか。
でもわたしは何もしてない。
こう言っては悪いような気がするけれど、勝手にやけどを負ったのだ。
でも、謝らなくちゃいけないのかな。
少し前まで日常的に行動を支配していた思考の癖が、頭をもたげてくる。
団長が、顔を上げる。
わかりやす過ぎるほどの憤怒の表情が浮かび、まるで悪鬼のようだった。
「おのれぇ……っ! おとなしく体を引き裂かれていれば良いものを、無駄な抵抗を
!」
団長の声に混ざっている別の声が、さっきよりも大きく聞こえる。
「小娘と思って油断していたぞ。よくもこんなことを……」
全身の筋肉がぶるぶる震えながら、盛り上がる。
団長の腕は、まるで丸太みたいに太くなって見えた。
わたしをこれで引き裂こうとしていたのか、と思うと、スーシャの体を寒気が襲う。
――唐突に、人影が動いた。
「おい、あんた! スーシャちゃんを連れて逃げろ!」
団員が、素早く後ろに回って団長の体を羽交い締めにし、ロンシュタットに叫んでい
た。
ロンシュタットはすでに、壁から身を離していた。
だが、臨戦体勢というわけではなく、腕組みをしていた。
「団長はもう、おれ達の知ってる団長じゃない! 早く逃げろ、ここはおれが抑える
!」
「……よせ」
叫ぶ団員に、ロンシュタットがぽつりと呟いた。
「な……馬鹿野郎、早くしろよ! おれじゃそんなにもたないぞ!」
「そうだな。よくわかっている」
ひた、と見据えられて、団員は、どういう意味だ、という表情を浮かべた。
「お前ではそいつを抑えられない」
冷静にロンシュタットが告げた、そのほんの一瞬の後。
団長が、背中に貼りついていた団員の体を引っつかみ、床に叩きつけた。
その勢いはすさまじく、団員の頭は完全に床にめりこんでいた。
床から生えた団員の体が、ビクビクと痙攣している。
どうやら彼の頭は床を突き抜けているらしい。
――階下から、悲鳴と絶叫と怒号が沸いてきた。
「っかー。馬鹿だねぇ。ここまで隠して来れたんだから、最後まで隠しておきゃいい
のに。詰め甘いんじゃねえ?」
バルデラスのからかうような声に、『団長』は血走って真っ赤になった目をむいた。
「何だと……?」
その声は、すでに団長自身のものではなくなりつつあった。
妙にしゃがれて低い、嫌な響きの声が、彼の口から漏れている。
「おーおー。ナマイキ」
バルデラスがケタケタと楽しそうに――どこが楽しいのかさっぱり不明だが、実に楽
しそうに笑い声を上げた。
「いるんだよな、時たま。実体化できねえ低級の奴が、人間の体乗っ取って悪さすん
だよ。なあ、お前、その程度だもんな。ザコだよザコ。どんだけすごいのがいるかと
思ったら、まさかこんなザコだったとはなぁ!」
「愚弄する気か!」
咆哮にも似た叫びが、団長の口から発せられる。
その凄まじいこと。
宿屋全体が、ビリビリと揺れた。
スーシャは、青白い顔で浅い呼吸を繰り返しながら、ただ、団員のことだけを考えて
いた。
助けに行きたい。
もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。
だが――彼は、団長の足元にいるから、近寄れない。
彼の痙攣は、しだいに間隔を長く置いて引き起こされるようになっていた。
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PC:スーシャ、ロンシュタット
NPC:バルデラス
場所:セーラムの街、宿屋前の大通り
痙攣を繰り返す団員。
彼を心配するスーシャをよそに、室内に入った僅かの人間の思惑は様々だった。
何だ、こいつは?──疑問を抱く者。
一体、何が起きているんだ?──目の前の現実が理解できない者。
この暴力が、自分に向かって来たらどうなる?──己の身を案ずる者。
この3つの思考が入り混じり混迷の度合いを深めていく中、ただひとり、殺意を持って明確な行動に出たのは、ロンシュタットだった。
喋る剣、という明らかにおかしな物があるのに、誰一人それに言及しないのは、ただ異形となった、団長を恐れるがゆえだ。
扉近くの壁にいた、と思った瞬間、バネでも仕込んであるように一足飛びで悪魔の目の前に踏み込む。
既に両手に握られた長剣バルデラスは引き下げられ、踏み込んだ足に釣られて回転する腰、肩、腕に伝わる力が頂点になったところで命中した。
今度は悪魔が弾かれたように吹き飛び、鎧戸を突き破って2階から外へと落ちて行く──悲鳴を上げる間もないうちに。
振り切った体勢からゆっくり剣を背中へ戻し、焦る風でもなく窓へ近づいて行くロンシュタット。
彼を見た一同は、全く同じ事を感じた。
──こいつも、悪魔か?
畏怖に満ちた視線が集中するのを背中で弾き返しながら、室内から叩き出した悪魔を見るために、破れた窓から顔を出した。
お願い、死なないで。
その想いだけで痙攣を繰り返している団員の側へ行こうとした時、彼女は自らにも畏怖に満ちた視線が突き刺さるのを敏感に感じた。
悪魔の手を、触れただけで焼くものも、やはり、ただものではない。
あれは勝手に悪魔が触れて、何もしていないのに火傷になっただけで、スーシャの意思とも行動とも無関係だ。
だが、触れたものを焼く、というその事実が、決定的な心の壁を相手の中に作ることになった。
その視線が自分に向けられた理由は分からないが、それの意味するところはわかる──彼らは、自分の事も同じ悪魔か何か、その仲間だとでも思っているに違いない。
その証拠に、団員に近づこうとすると、止めろ、と相手の口が開きかかる。
言葉になる事は無い──自分に触れられたら、自分が焼けるからだ。
だが、倒れている仲間の団員に触れられれば、今度は仲間の命が無い。
とんでもないこの誤解が、酷くスーシャを傷つけた。
そして、その思考は互いに思っても見なかった同じ着地点に到達する。すなわち、
──俺たちの近くに、こんな悪魔が潜んでいたのか!
生活を脅かされる怒りと、命の危険を察知した彼らの恐怖が鋭く見えない槍となって、スーシャの心臓を貫いた。
彼女自身、何と言葉にしていいのか分からない、暗く、冷たい感覚が全身を包む。
ただ一言、それを表すなら、間違いなくこうなる。
「絶望」
と。
彼らにされてきた冷たい仕打ちからでも、内気な性格からでもない。
スーシャは恐らく始めて向けられたであろう、殺意と決して相容れない、飛び越えることのできない心の溝で傷つけられ、言葉を失った。それは、ロンシュタットと出会う前、ひとり雨に濡れていた時よりも、冷たく心を侵食し、決して逃れられることの無い業のように思えた。
ロンシュタットは視線を落とし、地面に転がっているはずの悪魔を見る。
しかし、そこに悪魔はいなかった。
スーシャから引き離すためにバットを振るう要領で叩き出したとはいえ、相当の深手を負っているのは手応えで分かる。
その姿が無い。
いるのは、2階から何か大きなものが降ってきたと知った、宿の中に避難している街人たちだけで、彼らも通りに何もないのを知って、不思議そうに顔を見合わせている。
少し街人たちと同じ様に通りを見ていたが、彼は室内に向き直ると、そのまま硬直しているスーシャと街人たちのところへ歩み寄る。
石になったように、互いに動かないのを見て、ロンシュタットが声をかけようと口を開きかけたとき、口元が急に締まり、床を見る。
いや、見ているのは床ではなく、視点はもっと奥に合っている。
悪魔が近づいて来る。それも、急速に。
しかし、眼には(正確には、彼の感覚では)さほど大きさは変わっていないようにしか見えない。
数呼吸ほどのあいだ、彼はそうしていたが、唐突に固まっているスーシャの腰に腕を回し、今度は自分が破れた窓から飛び出した。
いきなり目の前の風景が変わったスーシャはびっくりする間もなく、急な重力の変化を感じ、気がついたら宿屋の前の通りにいた。もちろん、ロンシュタットに抱えられていることもよく分からない。
まだあの部屋には、怪我をした動けない団員がいる。自分を庇ってくれた人がいる。
助けに行きたい、と言ったが、誰の耳にも届かなかった。
轟音と共に、部屋の窓から滝のように水が溢れ出て来る。
部屋の中にいた街人も、ロンシュタットの荷物もみんな流されて出て来る。
水に乗って、団員が足元に流れ着いた時、聞き慣れた声がした。
「こいつ、運がいいな」
呆れた声を出したのはバルデラスだ。
そうだ、彼(?)もいたんだと、スーシャは思った。
「あ、あの」
と声をかける。
「この人を助けたいんです。お、下ろしてもらえませんか?」
バルデラスの視線がロンシュタットに向く。
「俺はまぁ、こんなやつ放っておいても助かるんじゃないか、と思うんだが……あ、いやいや、そんな悲しそうな顔しないでよ、スーシャちゃん。俺はもちろん、賛成。でも、こいつが何ていうか」
コイツ呼ばわりされたロンシュタットは気にする風でもなく、無言のまま再び地面を見ている。
何も言わない、目も合わせないロンシュタットに、どうして答えてくれないの? と思うスーシャだが、答えはすぐに出た。
再び、ロンシュタットが人間離れした跳躍を見せ、一瞬で数メートルも移動する。
その刹那、今までいた場所から水が出る。
その勢いは、まるで間欠泉のようだ。熱湯ではなく水なのだが、まともに浴びれば吹き飛ばされるのは間違いない。
水は出てきた時と同じ様に唐突に止む。まるで水が地面に潜ったようだ。
するとすぐにロンシュタットが次の跳躍に移る。
やはり同じ様に、水の槍がロンシュタットのいた場所から突き出してきた。
等身大になった猫のように、ひょいひょいと柵、壁、屋根、と飛び移り、あっという間に家の屋上に降り立つ。
水の槍は今度は当てずっぽうのようにあちこちから飛び出していたが、どこにもいない、命中しないのを知ると、地面に引っ込む。
それきり、何も怪異は起こらない。
突然の出来事にずぶ濡れになった街人は多いが、誰も顔にかかる水滴を払おうとはせず、心の中でこれ以上何も起きるなと祈った。
だが。
「来るぞ」
ロンシュタットが言ったのか、あるいはバルデラスの呟きか。
その言葉に違わず、今度は地面が揺れ始める。
地震などほとんど経験したことの無い街人は一体何が起こっているのか理解できず、地面が揺れるという出来事に強いショックを受け、一斉に理性を失ってしまった。
そしてそれに追い討ちをかけるように、地震を起こした源である水が、今度は巨大な一本の柱となって、通りから噴出した。
もうそれはただの水ではない。
本来、重力に引かれて地面に落ちるはずの飛沫は一滴も無く、その形を崩さず、陽光を反射して輝いた。
表面から中を通して反対側まで視線が通る。柱としてそこにあるため、表面から水の流れがはっきりわかる。ゆらゆらと姿を少しずつ歪めてはいるが、森の木々より遥かに高い水の柱であることに変わりは無い。
あっけにとられて見ている街人のひとりが、急に悲鳴を上げて尻餅をついた。訳の分からぬ、言葉になり損ねた悲鳴を上げる。
その声が、あちこちから上がった。
どうして悲鳴を上げるのか分からないスーシャ。
柱を見ても何も、水の流れしか見えない。
しかし。
木に茂る葉が、幾重にも複雑に折り重なり、偶然人の顔に見えるように、水面が人の顔に見えた。
始めはぼんやりと、人の顔に見える程度だった。
だが、水面の流れに見えるそれのあちこちで、上へ下へと流動しながら幾つも浮かんでは消え、消えては浮かんで来たらどうだ。
スーシャも怖かった。あそこに浮かんでいる顔の全ては苦悶に歪み、ゆっくりと流れて行く。
悪魔のこけおどしかとも思えたが、その顔の中に、見覚えのある顔が急に浮かんで来た。
自分をいじめた仕立て屋一家。
殺されたと言われた医者。
その他、スーシャも知っているこの街の人達の顔が。
そして、はっきり分かった。
彼らは行方不明になったのではない。
悪魔に殺され、あるいは喰われ、もう既にこの世にいないのだと。
そしてこの悪魔に喰われたら、悪魔の一部として、ああして延々と苦しみ続けるしかないのだと。
恐らく、その魂が発狂でもして、何もかも分からなくなるまで。
それは、喰らわれた魂の永劫の牢獄。
スーシャは悲鳴を上げることもできず、ただただ、震えた。
NPC:バルデラス
場所:セーラムの街、宿屋前の大通り
痙攣を繰り返す団員。
彼を心配するスーシャをよそに、室内に入った僅かの人間の思惑は様々だった。
何だ、こいつは?──疑問を抱く者。
一体、何が起きているんだ?──目の前の現実が理解できない者。
この暴力が、自分に向かって来たらどうなる?──己の身を案ずる者。
この3つの思考が入り混じり混迷の度合いを深めていく中、ただひとり、殺意を持って明確な行動に出たのは、ロンシュタットだった。
喋る剣、という明らかにおかしな物があるのに、誰一人それに言及しないのは、ただ異形となった、団長を恐れるがゆえだ。
扉近くの壁にいた、と思った瞬間、バネでも仕込んであるように一足飛びで悪魔の目の前に踏み込む。
既に両手に握られた長剣バルデラスは引き下げられ、踏み込んだ足に釣られて回転する腰、肩、腕に伝わる力が頂点になったところで命中した。
今度は悪魔が弾かれたように吹き飛び、鎧戸を突き破って2階から外へと落ちて行く──悲鳴を上げる間もないうちに。
振り切った体勢からゆっくり剣を背中へ戻し、焦る風でもなく窓へ近づいて行くロンシュタット。
彼を見た一同は、全く同じ事を感じた。
──こいつも、悪魔か?
畏怖に満ちた視線が集中するのを背中で弾き返しながら、室内から叩き出した悪魔を見るために、破れた窓から顔を出した。
お願い、死なないで。
その想いだけで痙攣を繰り返している団員の側へ行こうとした時、彼女は自らにも畏怖に満ちた視線が突き刺さるのを敏感に感じた。
悪魔の手を、触れただけで焼くものも、やはり、ただものではない。
あれは勝手に悪魔が触れて、何もしていないのに火傷になっただけで、スーシャの意思とも行動とも無関係だ。
だが、触れたものを焼く、というその事実が、決定的な心の壁を相手の中に作ることになった。
その視線が自分に向けられた理由は分からないが、それの意味するところはわかる──彼らは、自分の事も同じ悪魔か何か、その仲間だとでも思っているに違いない。
その証拠に、団員に近づこうとすると、止めろ、と相手の口が開きかかる。
言葉になる事は無い──自分に触れられたら、自分が焼けるからだ。
だが、倒れている仲間の団員に触れられれば、今度は仲間の命が無い。
とんでもないこの誤解が、酷くスーシャを傷つけた。
そして、その思考は互いに思っても見なかった同じ着地点に到達する。すなわち、
──俺たちの近くに、こんな悪魔が潜んでいたのか!
生活を脅かされる怒りと、命の危険を察知した彼らの恐怖が鋭く見えない槍となって、スーシャの心臓を貫いた。
彼女自身、何と言葉にしていいのか分からない、暗く、冷たい感覚が全身を包む。
ただ一言、それを表すなら、間違いなくこうなる。
「絶望」
と。
彼らにされてきた冷たい仕打ちからでも、内気な性格からでもない。
スーシャは恐らく始めて向けられたであろう、殺意と決して相容れない、飛び越えることのできない心の溝で傷つけられ、言葉を失った。それは、ロンシュタットと出会う前、ひとり雨に濡れていた時よりも、冷たく心を侵食し、決して逃れられることの無い業のように思えた。
ロンシュタットは視線を落とし、地面に転がっているはずの悪魔を見る。
しかし、そこに悪魔はいなかった。
スーシャから引き離すためにバットを振るう要領で叩き出したとはいえ、相当の深手を負っているのは手応えで分かる。
その姿が無い。
いるのは、2階から何か大きなものが降ってきたと知った、宿の中に避難している街人たちだけで、彼らも通りに何もないのを知って、不思議そうに顔を見合わせている。
少し街人たちと同じ様に通りを見ていたが、彼は室内に向き直ると、そのまま硬直しているスーシャと街人たちのところへ歩み寄る。
石になったように、互いに動かないのを見て、ロンシュタットが声をかけようと口を開きかけたとき、口元が急に締まり、床を見る。
いや、見ているのは床ではなく、視点はもっと奥に合っている。
悪魔が近づいて来る。それも、急速に。
しかし、眼には(正確には、彼の感覚では)さほど大きさは変わっていないようにしか見えない。
数呼吸ほどのあいだ、彼はそうしていたが、唐突に固まっているスーシャの腰に腕を回し、今度は自分が破れた窓から飛び出した。
いきなり目の前の風景が変わったスーシャはびっくりする間もなく、急な重力の変化を感じ、気がついたら宿屋の前の通りにいた。もちろん、ロンシュタットに抱えられていることもよく分からない。
まだあの部屋には、怪我をした動けない団員がいる。自分を庇ってくれた人がいる。
助けに行きたい、と言ったが、誰の耳にも届かなかった。
轟音と共に、部屋の窓から滝のように水が溢れ出て来る。
部屋の中にいた街人も、ロンシュタットの荷物もみんな流されて出て来る。
水に乗って、団員が足元に流れ着いた時、聞き慣れた声がした。
「こいつ、運がいいな」
呆れた声を出したのはバルデラスだ。
そうだ、彼(?)もいたんだと、スーシャは思った。
「あ、あの」
と声をかける。
「この人を助けたいんです。お、下ろしてもらえませんか?」
バルデラスの視線がロンシュタットに向く。
「俺はまぁ、こんなやつ放っておいても助かるんじゃないか、と思うんだが……あ、いやいや、そんな悲しそうな顔しないでよ、スーシャちゃん。俺はもちろん、賛成。でも、こいつが何ていうか」
コイツ呼ばわりされたロンシュタットは気にする風でもなく、無言のまま再び地面を見ている。
何も言わない、目も合わせないロンシュタットに、どうして答えてくれないの? と思うスーシャだが、答えはすぐに出た。
再び、ロンシュタットが人間離れした跳躍を見せ、一瞬で数メートルも移動する。
その刹那、今までいた場所から水が出る。
その勢いは、まるで間欠泉のようだ。熱湯ではなく水なのだが、まともに浴びれば吹き飛ばされるのは間違いない。
水は出てきた時と同じ様に唐突に止む。まるで水が地面に潜ったようだ。
するとすぐにロンシュタットが次の跳躍に移る。
やはり同じ様に、水の槍がロンシュタットのいた場所から突き出してきた。
等身大になった猫のように、ひょいひょいと柵、壁、屋根、と飛び移り、あっという間に家の屋上に降り立つ。
水の槍は今度は当てずっぽうのようにあちこちから飛び出していたが、どこにもいない、命中しないのを知ると、地面に引っ込む。
それきり、何も怪異は起こらない。
突然の出来事にずぶ濡れになった街人は多いが、誰も顔にかかる水滴を払おうとはせず、心の中でこれ以上何も起きるなと祈った。
だが。
「来るぞ」
ロンシュタットが言ったのか、あるいはバルデラスの呟きか。
その言葉に違わず、今度は地面が揺れ始める。
地震などほとんど経験したことの無い街人は一体何が起こっているのか理解できず、地面が揺れるという出来事に強いショックを受け、一斉に理性を失ってしまった。
そしてそれに追い討ちをかけるように、地震を起こした源である水が、今度は巨大な一本の柱となって、通りから噴出した。
もうそれはただの水ではない。
本来、重力に引かれて地面に落ちるはずの飛沫は一滴も無く、その形を崩さず、陽光を反射して輝いた。
表面から中を通して反対側まで視線が通る。柱としてそこにあるため、表面から水の流れがはっきりわかる。ゆらゆらと姿を少しずつ歪めてはいるが、森の木々より遥かに高い水の柱であることに変わりは無い。
あっけにとられて見ている街人のひとりが、急に悲鳴を上げて尻餅をついた。訳の分からぬ、言葉になり損ねた悲鳴を上げる。
その声が、あちこちから上がった。
どうして悲鳴を上げるのか分からないスーシャ。
柱を見ても何も、水の流れしか見えない。
しかし。
木に茂る葉が、幾重にも複雑に折り重なり、偶然人の顔に見えるように、水面が人の顔に見えた。
始めはぼんやりと、人の顔に見える程度だった。
だが、水面の流れに見えるそれのあちこちで、上へ下へと流動しながら幾つも浮かんでは消え、消えては浮かんで来たらどうだ。
スーシャも怖かった。あそこに浮かんでいる顔の全ては苦悶に歪み、ゆっくりと流れて行く。
悪魔のこけおどしかとも思えたが、その顔の中に、見覚えのある顔が急に浮かんで来た。
自分をいじめた仕立て屋一家。
殺されたと言われた医者。
その他、スーシャも知っているこの街の人達の顔が。
そして、はっきり分かった。
彼らは行方不明になったのではない。
悪魔に殺され、あるいは喰われ、もう既にこの世にいないのだと。
そしてこの悪魔に喰われたら、悪魔の一部として、ああして延々と苦しみ続けるしかないのだと。
恐らく、その魂が発狂でもして、何もかも分からなくなるまで。
それは、喰らわれた魂の永劫の牢獄。
スーシャは悲鳴を上げることもできず、ただただ、震えた。
PC:スーシャ ロンシュタット
NPC:バルデラス 自警団の団員(マッド)
場所:セーラムの街 宿屋前の大通り
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「こ、この、水って……」
スーシャは、ぺたりと座り込んだ。
足の力が抜けたのだ。
「あの、悪魔が化けてるんですか」
水柱の中にゆらゆらと見えた、苦悶に満ちた人の顔が頭をよぎり、スーシャは震え
た。
「違う。乗っ取っているだけだ」
ロンシュタットは静かに答えた。
出会った時と変わらない冷静さは、ほんの少しだけ安心感を与える。
おかげでスーシャは余計な混乱をしたりせず、浅い呼吸を繰り返すのみで済んでい
た。
もし一人だったなら、恐ろしく泣き喚いたりしていたことだろう。
「あの、乗っ取ってる、って……?」
「大丈夫だって」
軽い口調で答えるのは、バルデラスだ。
「あの低級に大した力はねえよ、安心しな」
さてと、とバルデラスは話を変える。
「どうする、ロン。あの低級をあぶり出しにかかるか?」
ロンシュタットはその問いには答えない。
座り込んだままのスーシャを見つめている。
「……しばらくしたら戻る。ここで待っていろ」
ロンシュタットは気付いただろうか。
その言葉を聞いたスーシャの目をよぎった、悲しみの感情に。
目の前にいる彼が引き起こしたのではない、過去の記憶が引き起こした感情の揺れ
に。
こくん。
スーシャはうなずき、そのままうつむいた。
ブーツの足音が遠ざかるのを聞きながら、自分はもしかしたら「待っていろ」という
言葉を嫌っているかもしれない、とスーシャは思った。
しばらく経ってから視線を巡らせると、あちらこちらで負傷者の手当てをする人々の
姿があった。
水柱は脅威に違いないが、今のところさほど被害はなさそうだと考えての行動らし
い。
野次馬根性の高い連中など、水柱に近付いて何やら話をしながら見ている。
怖いもの見たさ、ということだろう。
見知った顔がちらつく水など、あんまり近くで見たいものじゃない。
スーシャは水柱から視線を逸らした。
……その時、近くの小屋に、人間が引っ掛かっていることに、スーシャは気付いた。
ぎょとしてよく見ると、その人間のズボンのベルトが、小屋の屋根に続く木製のはし
ごに引っかかっている。
おそらく、先ほどの洪水で流されてきて、引っかかったのだろう。
気絶しているのか、ピクリともしない。
目をこらして、スーシャは「あっ」と声を上げた。
重傷を負って痙攣していた、あの自警団員だ。
スーシャは慌てて立ち上がる。
何とかしたい。
優しくしてくれた人を見捨てるなんて、できない。
さっきは色々あって助けられなかったが、今ならきっと助けられる。
ここから小屋までは、屋根の低い家がさほど間を置かずに並んでいる。
高さもさほど変わらない。
なんとかなる……かも知れない。
スーシャは、震える足を励ましながら、屋根の端へと移動した。
――彼は、魚になった夢を見ていた。
夢の中での彼は、激流にもまれた挙句岸に打ち上げられ、死にかかった魚だ。
ウロコがはがれ、ひれを動かすことすらままならぬ、弱りきった魚。
死にかけた体を、太陽がジリジリ焼いている。
きっと嫌な臭いがしているんだろうな、と彼はぼんやり考えた。
その魚に、好奇心からか、子供の手が伸びる。
彼は、その手を甘んじて受けた。
避けようにも、もう体は動かないのだ。
「うわ、くっせえ」なんて地面に落とされたって恨みはすまい、などと奇妙な覚悟を
決めた。
子供の手は、哀れむように彼の顔に触れる。
触れられると、妙に心地良かった。
ふっと力を抜くと、何かが薄布のように、体を柔らかく包んでくれる。
五感が急に鮮明さを取り戻し、ぼんやりしていた世界をはっきりと描き出した。
その時、遠くから声がした。
「マッド!」
「しっかりしろ、今助けるからなっ」
仲間の自警団員達だ、と気付いた瞬間、おそろしい激痛が体を刺し貫いた。
――自分がまだ生きていることを、彼は嫌というほど自覚した。
スーシャは、あたふたと元いた屋上に座り込んだ。
ひざがガクガク震えて、我ながらみっともない。
ただ、逃げたという罪悪感だけがあった。
あの団員――マッドは、引っかかっていたはしごから降ろされ、わあわあ大騒ぎしな
がら仲間の団員達に処置を施されている。
半端に傷を治されて、痛くて痛くて仕方ないのだろう。
本当はちゃんと治したかったのだが、団員達を遠くに見かけた時、先ほど向けられた
目が怖くて、またあんな風に見られたらと思うと悲しくなって、治している途中で逃
げてしまったのだ。
ごめんなさい、とスーシャは胸を痛めた。
臆病なくせに、「助けられる」なんて、思い上がりも甚だしい。
かえって苦痛を味わせているなんて、自分は何をしているんだろう。
ロンシュタットはまだ戻らない。
水柱にも、変化はない。
苦悶の表情を浮かべる顔も、相変わらずゆらゆらと浮かんでは消え、消えては浮かん
でを繰り返している。
スーシャはスカートのポケットから、束ねたししゅう用の糸を取り出した。
ししゅう糸は、半分ぐらいのところまで三つ編みになっている。
それを見つめて、ため息をつく。
そんなことしたって、何の足しにもなりゃしない……。
いつだったか、養母に罵られたことを思い出す。
――何の足しにもなりゃしない。
その言葉が、今は自分に向けられている気がする。
待っているだけしかできない自分。
大したこともできない自分。
――強くなりたい。
スーシャは痛切に思った。
「うわああああ!」
誰かの叫び声がして、スーシャはビクッと震えた。
その拍子に指の間をすり抜けて、ししゅう糸が落ちてしまった。
「あ、あ、あ」
拾い上げようと慌てて伸ばした指先をもすり抜けて、ししゅう糸は風に揺られて頼り
なく地面に落ちてしまった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
NPC:バルデラス 自警団の団員(マッド)
場所:セーラムの街 宿屋前の大通り
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「こ、この、水って……」
スーシャは、ぺたりと座り込んだ。
足の力が抜けたのだ。
「あの、悪魔が化けてるんですか」
水柱の中にゆらゆらと見えた、苦悶に満ちた人の顔が頭をよぎり、スーシャは震え
た。
「違う。乗っ取っているだけだ」
ロンシュタットは静かに答えた。
出会った時と変わらない冷静さは、ほんの少しだけ安心感を与える。
おかげでスーシャは余計な混乱をしたりせず、浅い呼吸を繰り返すのみで済んでい
た。
もし一人だったなら、恐ろしく泣き喚いたりしていたことだろう。
「あの、乗っ取ってる、って……?」
「大丈夫だって」
軽い口調で答えるのは、バルデラスだ。
「あの低級に大した力はねえよ、安心しな」
さてと、とバルデラスは話を変える。
「どうする、ロン。あの低級をあぶり出しにかかるか?」
ロンシュタットはその問いには答えない。
座り込んだままのスーシャを見つめている。
「……しばらくしたら戻る。ここで待っていろ」
ロンシュタットは気付いただろうか。
その言葉を聞いたスーシャの目をよぎった、悲しみの感情に。
目の前にいる彼が引き起こしたのではない、過去の記憶が引き起こした感情の揺れ
に。
こくん。
スーシャはうなずき、そのままうつむいた。
ブーツの足音が遠ざかるのを聞きながら、自分はもしかしたら「待っていろ」という
言葉を嫌っているかもしれない、とスーシャは思った。
しばらく経ってから視線を巡らせると、あちらこちらで負傷者の手当てをする人々の
姿があった。
水柱は脅威に違いないが、今のところさほど被害はなさそうだと考えての行動らし
い。
野次馬根性の高い連中など、水柱に近付いて何やら話をしながら見ている。
怖いもの見たさ、ということだろう。
見知った顔がちらつく水など、あんまり近くで見たいものじゃない。
スーシャは水柱から視線を逸らした。
……その時、近くの小屋に、人間が引っ掛かっていることに、スーシャは気付いた。
ぎょとしてよく見ると、その人間のズボンのベルトが、小屋の屋根に続く木製のはし
ごに引っかかっている。
おそらく、先ほどの洪水で流されてきて、引っかかったのだろう。
気絶しているのか、ピクリともしない。
目をこらして、スーシャは「あっ」と声を上げた。
重傷を負って痙攣していた、あの自警団員だ。
スーシャは慌てて立ち上がる。
何とかしたい。
優しくしてくれた人を見捨てるなんて、できない。
さっきは色々あって助けられなかったが、今ならきっと助けられる。
ここから小屋までは、屋根の低い家がさほど間を置かずに並んでいる。
高さもさほど変わらない。
なんとかなる……かも知れない。
スーシャは、震える足を励ましながら、屋根の端へと移動した。
――彼は、魚になった夢を見ていた。
夢の中での彼は、激流にもまれた挙句岸に打ち上げられ、死にかかった魚だ。
ウロコがはがれ、ひれを動かすことすらままならぬ、弱りきった魚。
死にかけた体を、太陽がジリジリ焼いている。
きっと嫌な臭いがしているんだろうな、と彼はぼんやり考えた。
その魚に、好奇心からか、子供の手が伸びる。
彼は、その手を甘んじて受けた。
避けようにも、もう体は動かないのだ。
「うわ、くっせえ」なんて地面に落とされたって恨みはすまい、などと奇妙な覚悟を
決めた。
子供の手は、哀れむように彼の顔に触れる。
触れられると、妙に心地良かった。
ふっと力を抜くと、何かが薄布のように、体を柔らかく包んでくれる。
五感が急に鮮明さを取り戻し、ぼんやりしていた世界をはっきりと描き出した。
その時、遠くから声がした。
「マッド!」
「しっかりしろ、今助けるからなっ」
仲間の自警団員達だ、と気付いた瞬間、おそろしい激痛が体を刺し貫いた。
――自分がまだ生きていることを、彼は嫌というほど自覚した。
スーシャは、あたふたと元いた屋上に座り込んだ。
ひざがガクガク震えて、我ながらみっともない。
ただ、逃げたという罪悪感だけがあった。
あの団員――マッドは、引っかかっていたはしごから降ろされ、わあわあ大騒ぎしな
がら仲間の団員達に処置を施されている。
半端に傷を治されて、痛くて痛くて仕方ないのだろう。
本当はちゃんと治したかったのだが、団員達を遠くに見かけた時、先ほど向けられた
目が怖くて、またあんな風に見られたらと思うと悲しくなって、治している途中で逃
げてしまったのだ。
ごめんなさい、とスーシャは胸を痛めた。
臆病なくせに、「助けられる」なんて、思い上がりも甚だしい。
かえって苦痛を味わせているなんて、自分は何をしているんだろう。
ロンシュタットはまだ戻らない。
水柱にも、変化はない。
苦悶の表情を浮かべる顔も、相変わらずゆらゆらと浮かんでは消え、消えては浮かん
でを繰り返している。
スーシャはスカートのポケットから、束ねたししゅう用の糸を取り出した。
ししゅう糸は、半分ぐらいのところまで三つ編みになっている。
それを見つめて、ため息をつく。
そんなことしたって、何の足しにもなりゃしない……。
いつだったか、養母に罵られたことを思い出す。
――何の足しにもなりゃしない。
その言葉が、今は自分に向けられている気がする。
待っているだけしかできない自分。
大したこともできない自分。
――強くなりたい。
スーシャは痛切に思った。
「うわああああ!」
誰かの叫び声がして、スーシャはビクッと震えた。
その拍子に指の間をすり抜けて、ししゅう糸が落ちてしまった。
「あ、あ、あ」
拾い上げようと慌てて伸ばした指先をもすり抜けて、ししゅう糸は風に揺られて頼り
なく地面に落ちてしまった。
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PC:スーシャ、ロンシュタット
NPC:バルデラス、喰らわれた魂の永劫の牢獄(悪魔)
場所:セーラムの街、宿屋前の大通り
悲鳴はすぐ金切り声に変わった。
水が植物の蔦のように伸びてきて、近くにいた女の脚に巻きついた。
女はそれを振りほどこうとしたが叶わず、逆に益々力強く絡みつく。
街人がぎょっとして一歩離れると、蔦は女を本体である水柱へ引きずっていく。
何が起こるのか分からないが、あの中に入ったら御終いだと、女は直感的に理解した。
何とか逃れようと地面に手を付くが、女の力では(男の力でも)どうしようもない。ただ地面の土を掴むだけで、水柱へ近づく速さは微塵も落ちなかった。
近づくにつれ女の形相は強張る。
自分も近づいたらどうなるのか分かった街人が誰一人助けに来ないのを見た女は、絶望しながらも、生にしがみつこうと、地面に爪を立てる。
何度も何度も懇願の視線だけを向けながら、ずるずると引きずられる女。
爪が剥がれ、それでもなお死に抵抗しようと腕を振り回すが、悪魔が一度捕えた獲物を逃すことは無い。
やがて水柱まで引きずられた女は、ゆっくりずぶずぶと柱に飲み込まれていく。
誰かに引っ張ってくれ、死にたくないと腕を精一杯伸ばすが、誰も取ろうとはしない。
腰が、胸が、顔が、最後に伸ばしてがくがく震える腕が飲み込まれ、女の死が決まった。地面に十本の細い血の跡だけを残して。
だが、女はただでは死ねなかった。
強い酸の中で溶かされているように、肉が剥離していく。
頬の肉がごっそり削げ落ち、横から歯が見えたと思ったら、腹部が一度に取れ、勢いで上半身と下半身が割れた。水に流されているのか、まだ動いているのか、腕と脚がじたばたしている。
しかし、それも長くなかった。
最後まで残っていた首の肉が一度に溶け、悲鳴を上げるように、骸骨だけとなった頭が歯をがちがち鳴らすと、動きは止まり、流れに乗って外に吐き出された。
一連の捕食が終わると、水の表面に、今飲み込まれた女の顔が苦悶に歪みつつ浮かんだが、これも他の顔と溶け合って沈んでいく。
一斉に悲鳴と怒号が飛び交った。
堰を切ったように我先にと柱から遠ざかる。
自警団も背を向け、街人は蜘蛛の子を散らしたように放射状に逃げ出していく。
その逃げ出す人の群れを割るように、ロンシュタットだけが微動だにせず向かい合っていた。
それどころか、自分から悪魔に歩いていく。掴らない自信があるのか、掴っても振りほどく事ができるのか?
……いや、どちらも違うだろう。ただ彼は、剣の届く位置まで行かなければ倒せないから近づいているだけだ。
「分かっていても、普通はやらないぜ、こんな事。本当にお前はおっかない奴だよ」
バルデラスが笑いながら話しかけるが、持ち主の返答は無い。
柱から無数に蔦が伸び、ロンシュタット目掛けて振り下ろされた。
身軽に飛び退き、あるいは踏み込み、四方八方からの攻撃に掠ることなく、瞬く間に柱まで到達するその動きは正に電光石火。
踏み込む勢いを殺すことなく、長大な剣を横殴りに柱に叩きつける。
まるで爆発でもしたように水が爆ぜ、飛沫が舞うが、水でできている身体は、すぐ元通り柱に戻る。
水で物に穴を開けたり切ることはできても、水を切ることはできない。
柱の周りをステップを踏んで移動しながら何度も切りつけるロンシュタット。だが、その攻撃に見合うだけの傷を悪魔に負わせることができない。
一方、悪魔も散々蔦を伸ばし追い込もうとするが、ロンシュタットを捕えられない。
それも当然のことだ。悪魔の存在を完全に把握できるロンシュタットは、こんな蔦など見なくても位置が分かる。眼は本体を見据えたままで、あらゆる攻撃を避けながら執拗に攻撃を仕掛ける。
ならば、と作戦を変えたのか、蔦が何本も街人に向けられ伸びていく。
再度上がる悲鳴と怒号。
だが最初に逃げていたおかげで、捕えられることは無い。
たったふたり、逃げ遅れた団長の子供と、逃げ場の無かった屋上にいるスーシャを除いて。
背を向けて走り出そうとするふたりを、蔦はやすやすと捕える事ができた。
今度は引きずらず、持ち上げて飲み込もうとする。
幼い男女の悲鳴が上がる。
その内、団長の息子の悲鳴はすぐに途切れた。
取って返したロンシュタットが、また人間離れした跳躍をし、今まさに飲み込まれんとする子供を捉える蔦に剣を振り下ろしたのだ。
水を切ることは出来なくとも、爆ぜさせることは出来る。
飛び散る水と一緒に拘束を解かれた子供が落ちてくるのを、先に着地した彼は地面で受け止めた。
ロンシュタットを見上げ、助かったことが分かった息子は脱兎のごとく、遠巻きに成り行きを、この世ならぬ戦いを見ている街人たちの所へ逃げ出した。
しかし、彼を助けた事で、スーシャが飲み込まれるのを防ぐことは出来なかった。
水の中で溺れるスーシャは、殺される恐怖よりも、息苦しい、ということしか感じられなかった。皮膚がひりひりするのも分からない。
呼吸が出来ず、息を止めていられなくなった彼女は口を大きく開ける。そこに水が勢いよく侵入し、気管から胃に入る。
その時、ふっと力が抜けた。
身体が楽になり、浮遊を感じると、思考は少しだけ働いた。
私も、死んじゃうのかなぁ?(あの女の人みたいに)
このまま死ぬと、どうなっちゃうんだろう? やっぱりここに捕えられるのかな? でも、ここにいたって、何の足しにもなりゃしないよ(仕立て屋の人はみんな言ってた)
わたし……駄目なんだなぁ。
強くなりたかったなぁ。(でも、どうやって? そもそも強いわたしってどんなの?)
目の前がいよいよ暗くなり、思考は停滞を見せ……。
いきなり濁流に飲み込まれたように、身体に強い衝撃が走る。
その衝撃が遠ざかる意識を鮮明にして、彼女は目の前が明るい事に気付いた。
気付くと同時に、苦しさが再び襲いかかって来て、彼女は溜まらず水を吐き出す。吐き出された水の代わりに肺に入って来たのは、土と石の匂いのする湿った空気。咳き込んで飲み込んでしまった水を全て出すと、ようやく見回すことができた。
ロンシュタットが、立っている。片手に剣を持ち、悪魔に向かい合い。
だが、その左腕は皮膚が剥がれ肉が削げ落ち、骨が見えている。
自分の服にその血が残るのを見て、ロンシュタットが柱に腕を入れ、力任せに引き抜いたのだと理解した。
私は助かった、でも、あの腕じゃ……。
彼の腕は力なく垂れ下がったままだが、それでも残る右腕で剣を振るい、蔦と柱を切り続ける。
相変わらず馬鹿げた破壊力を持つ一撃だが、それでも両腕で振るうより力が劣る。
どうしよう、と心配するスーシャは、ロンシュタットの左腕に蔦が巻き付くのを見る。
あっ、と声に出す暇もあればこそ、ロンシュタットは飛び込むように柱に飲み込まれた。
心配することが精一杯のスーシャは、どうすればいいのか見当も付かない。
行けばまた飲み込まれるし、何もしなければロンシュタットが殺されてしまう。
くるり、と振り向くと助けを求めて街人を見た。
だが、彼らもこの人外の戦いをどうしていいのか分からない。怯えた表情でひたすら見ているだけで、誰も助けようとは思っていない。
女の人の時と同じだ。わたしの時と同じだ。
誰も、助けてくれない。
ぽかんと助けを呼ぶ形に口は開いたまま、目から涙がこぼれた。
涙が頬を伝い、地面に落ちると、ドン! と音がした。
びっくりしながら、その音は前にどこかで聞いた音なのを思い出す。そう、あれは昨日の夜。雨に打たれていた時だ。
街人が一斉に表情を変える。指差し、口に手をあて、皆、ああ、とうめく。
後で起きている事を想像すると、振り返ることは出来ない。
間を置かずに音がする。そして自分の影が夕方でもないのに長く伸びる。耳には聞いた事も無い、弾ける様な音が入る。
はっとして振り返るスーシャは、街人と同じく、発光している柱を見た。
いや、それは正確ではない。紫電に絡みつかれ、伸びる蔦の全てが内から放電されている柱だ。
蔦は逃れるように伸び、地面へ潜るが、電撃はそれと同じ速さで追いかける。蔦の先から柱の頂点まで、悪魔の体内で雷が暴れ狂っている。
柱は苦悶するように身をよじり、何とか逃げようとするが、紫電は更に大きく、太く、光の濁流となって悪魔を食い尽くしていく。
浮かぶ顔が見れなくなるほどまぶしく光り、荒れ狂う雷は水面を突き破って所構わず放電を開始する。
悪魔の生命力がバルデラスを退けるか、それとも力を解放したバルデラスの魔力が悪魔の身体を破壊するのが先か?
長く続く命の奪い合いが激しさを増し、雷鳴にも似た轟音が響き渡る。本物の嵐を呼びかねない迫力で繰り広げられた闘争はしかし、急にバルデラスの放電の終了という形で幕を閉じた。
愕然とする街人と、中にいるロンシュタットのことが心配なスーシャ。柱の中にいる以上、彼もあの電撃を受け続けているのだ。
まさか、と思う。
待っていろ、と彼女に言った青年は、戻って来れなくなってしまったのではないだろうか?
柱は最初に形成された時と同じく、水面を揺らしながら立っている。
その様を見守るスーシャの口から、苦しみと悲しみの入り混じる吐息が吐き出されようとしたその瞬間。
轟!
と耳を塞がずにはいられない爆音と同時に、柱と蔦は内側から一斉に爆散する。
辺り一面に飛び散る水しぶきは、もう悪魔の身体ではなく、ただの水であった。
降り注ぐスコールに全身を濡らし、長い髪を頬に纏い付かせるスーシャの前に、黒く長い剣を持った男が、爆心から歩んで来る。
「ロ……ロンシュタット……」
昨夜、宿屋で言うことが出来なかった彼の名前を、スーシャは口にすることが出来た。
名を呼ばれた青年ロンシュタットは、うっすら浮かび上がる虹を背にして、スーシャの元まで戻って来た。
NPC:バルデラス、喰らわれた魂の永劫の牢獄(悪魔)
場所:セーラムの街、宿屋前の大通り
悲鳴はすぐ金切り声に変わった。
水が植物の蔦のように伸びてきて、近くにいた女の脚に巻きついた。
女はそれを振りほどこうとしたが叶わず、逆に益々力強く絡みつく。
街人がぎょっとして一歩離れると、蔦は女を本体である水柱へ引きずっていく。
何が起こるのか分からないが、あの中に入ったら御終いだと、女は直感的に理解した。
何とか逃れようと地面に手を付くが、女の力では(男の力でも)どうしようもない。ただ地面の土を掴むだけで、水柱へ近づく速さは微塵も落ちなかった。
近づくにつれ女の形相は強張る。
自分も近づいたらどうなるのか分かった街人が誰一人助けに来ないのを見た女は、絶望しながらも、生にしがみつこうと、地面に爪を立てる。
何度も何度も懇願の視線だけを向けながら、ずるずると引きずられる女。
爪が剥がれ、それでもなお死に抵抗しようと腕を振り回すが、悪魔が一度捕えた獲物を逃すことは無い。
やがて水柱まで引きずられた女は、ゆっくりずぶずぶと柱に飲み込まれていく。
誰かに引っ張ってくれ、死にたくないと腕を精一杯伸ばすが、誰も取ろうとはしない。
腰が、胸が、顔が、最後に伸ばしてがくがく震える腕が飲み込まれ、女の死が決まった。地面に十本の細い血の跡だけを残して。
だが、女はただでは死ねなかった。
強い酸の中で溶かされているように、肉が剥離していく。
頬の肉がごっそり削げ落ち、横から歯が見えたと思ったら、腹部が一度に取れ、勢いで上半身と下半身が割れた。水に流されているのか、まだ動いているのか、腕と脚がじたばたしている。
しかし、それも長くなかった。
最後まで残っていた首の肉が一度に溶け、悲鳴を上げるように、骸骨だけとなった頭が歯をがちがち鳴らすと、動きは止まり、流れに乗って外に吐き出された。
一連の捕食が終わると、水の表面に、今飲み込まれた女の顔が苦悶に歪みつつ浮かんだが、これも他の顔と溶け合って沈んでいく。
一斉に悲鳴と怒号が飛び交った。
堰を切ったように我先にと柱から遠ざかる。
自警団も背を向け、街人は蜘蛛の子を散らしたように放射状に逃げ出していく。
その逃げ出す人の群れを割るように、ロンシュタットだけが微動だにせず向かい合っていた。
それどころか、自分から悪魔に歩いていく。掴らない自信があるのか、掴っても振りほどく事ができるのか?
……いや、どちらも違うだろう。ただ彼は、剣の届く位置まで行かなければ倒せないから近づいているだけだ。
「分かっていても、普通はやらないぜ、こんな事。本当にお前はおっかない奴だよ」
バルデラスが笑いながら話しかけるが、持ち主の返答は無い。
柱から無数に蔦が伸び、ロンシュタット目掛けて振り下ろされた。
身軽に飛び退き、あるいは踏み込み、四方八方からの攻撃に掠ることなく、瞬く間に柱まで到達するその動きは正に電光石火。
踏み込む勢いを殺すことなく、長大な剣を横殴りに柱に叩きつける。
まるで爆発でもしたように水が爆ぜ、飛沫が舞うが、水でできている身体は、すぐ元通り柱に戻る。
水で物に穴を開けたり切ることはできても、水を切ることはできない。
柱の周りをステップを踏んで移動しながら何度も切りつけるロンシュタット。だが、その攻撃に見合うだけの傷を悪魔に負わせることができない。
一方、悪魔も散々蔦を伸ばし追い込もうとするが、ロンシュタットを捕えられない。
それも当然のことだ。悪魔の存在を完全に把握できるロンシュタットは、こんな蔦など見なくても位置が分かる。眼は本体を見据えたままで、あらゆる攻撃を避けながら執拗に攻撃を仕掛ける。
ならば、と作戦を変えたのか、蔦が何本も街人に向けられ伸びていく。
再度上がる悲鳴と怒号。
だが最初に逃げていたおかげで、捕えられることは無い。
たったふたり、逃げ遅れた団長の子供と、逃げ場の無かった屋上にいるスーシャを除いて。
背を向けて走り出そうとするふたりを、蔦はやすやすと捕える事ができた。
今度は引きずらず、持ち上げて飲み込もうとする。
幼い男女の悲鳴が上がる。
その内、団長の息子の悲鳴はすぐに途切れた。
取って返したロンシュタットが、また人間離れした跳躍をし、今まさに飲み込まれんとする子供を捉える蔦に剣を振り下ろしたのだ。
水を切ることは出来なくとも、爆ぜさせることは出来る。
飛び散る水と一緒に拘束を解かれた子供が落ちてくるのを、先に着地した彼は地面で受け止めた。
ロンシュタットを見上げ、助かったことが分かった息子は脱兎のごとく、遠巻きに成り行きを、この世ならぬ戦いを見ている街人たちの所へ逃げ出した。
しかし、彼を助けた事で、スーシャが飲み込まれるのを防ぐことは出来なかった。
水の中で溺れるスーシャは、殺される恐怖よりも、息苦しい、ということしか感じられなかった。皮膚がひりひりするのも分からない。
呼吸が出来ず、息を止めていられなくなった彼女は口を大きく開ける。そこに水が勢いよく侵入し、気管から胃に入る。
その時、ふっと力が抜けた。
身体が楽になり、浮遊を感じると、思考は少しだけ働いた。
私も、死んじゃうのかなぁ?(あの女の人みたいに)
このまま死ぬと、どうなっちゃうんだろう? やっぱりここに捕えられるのかな? でも、ここにいたって、何の足しにもなりゃしないよ(仕立て屋の人はみんな言ってた)
わたし……駄目なんだなぁ。
強くなりたかったなぁ。(でも、どうやって? そもそも強いわたしってどんなの?)
目の前がいよいよ暗くなり、思考は停滞を見せ……。
いきなり濁流に飲み込まれたように、身体に強い衝撃が走る。
その衝撃が遠ざかる意識を鮮明にして、彼女は目の前が明るい事に気付いた。
気付くと同時に、苦しさが再び襲いかかって来て、彼女は溜まらず水を吐き出す。吐き出された水の代わりに肺に入って来たのは、土と石の匂いのする湿った空気。咳き込んで飲み込んでしまった水を全て出すと、ようやく見回すことができた。
ロンシュタットが、立っている。片手に剣を持ち、悪魔に向かい合い。
だが、その左腕は皮膚が剥がれ肉が削げ落ち、骨が見えている。
自分の服にその血が残るのを見て、ロンシュタットが柱に腕を入れ、力任せに引き抜いたのだと理解した。
私は助かった、でも、あの腕じゃ……。
彼の腕は力なく垂れ下がったままだが、それでも残る右腕で剣を振るい、蔦と柱を切り続ける。
相変わらず馬鹿げた破壊力を持つ一撃だが、それでも両腕で振るうより力が劣る。
どうしよう、と心配するスーシャは、ロンシュタットの左腕に蔦が巻き付くのを見る。
あっ、と声に出す暇もあればこそ、ロンシュタットは飛び込むように柱に飲み込まれた。
心配することが精一杯のスーシャは、どうすればいいのか見当も付かない。
行けばまた飲み込まれるし、何もしなければロンシュタットが殺されてしまう。
くるり、と振り向くと助けを求めて街人を見た。
だが、彼らもこの人外の戦いをどうしていいのか分からない。怯えた表情でひたすら見ているだけで、誰も助けようとは思っていない。
女の人の時と同じだ。わたしの時と同じだ。
誰も、助けてくれない。
ぽかんと助けを呼ぶ形に口は開いたまま、目から涙がこぼれた。
涙が頬を伝い、地面に落ちると、ドン! と音がした。
びっくりしながら、その音は前にどこかで聞いた音なのを思い出す。そう、あれは昨日の夜。雨に打たれていた時だ。
街人が一斉に表情を変える。指差し、口に手をあて、皆、ああ、とうめく。
後で起きている事を想像すると、振り返ることは出来ない。
間を置かずに音がする。そして自分の影が夕方でもないのに長く伸びる。耳には聞いた事も無い、弾ける様な音が入る。
はっとして振り返るスーシャは、街人と同じく、発光している柱を見た。
いや、それは正確ではない。紫電に絡みつかれ、伸びる蔦の全てが内から放電されている柱だ。
蔦は逃れるように伸び、地面へ潜るが、電撃はそれと同じ速さで追いかける。蔦の先から柱の頂点まで、悪魔の体内で雷が暴れ狂っている。
柱は苦悶するように身をよじり、何とか逃げようとするが、紫電は更に大きく、太く、光の濁流となって悪魔を食い尽くしていく。
浮かぶ顔が見れなくなるほどまぶしく光り、荒れ狂う雷は水面を突き破って所構わず放電を開始する。
悪魔の生命力がバルデラスを退けるか、それとも力を解放したバルデラスの魔力が悪魔の身体を破壊するのが先か?
長く続く命の奪い合いが激しさを増し、雷鳴にも似た轟音が響き渡る。本物の嵐を呼びかねない迫力で繰り広げられた闘争はしかし、急にバルデラスの放電の終了という形で幕を閉じた。
愕然とする街人と、中にいるロンシュタットのことが心配なスーシャ。柱の中にいる以上、彼もあの電撃を受け続けているのだ。
まさか、と思う。
待っていろ、と彼女に言った青年は、戻って来れなくなってしまったのではないだろうか?
柱は最初に形成された時と同じく、水面を揺らしながら立っている。
その様を見守るスーシャの口から、苦しみと悲しみの入り混じる吐息が吐き出されようとしたその瞬間。
轟!
と耳を塞がずにはいられない爆音と同時に、柱と蔦は内側から一斉に爆散する。
辺り一面に飛び散る水しぶきは、もう悪魔の身体ではなく、ただの水であった。
降り注ぐスコールに全身を濡らし、長い髪を頬に纏い付かせるスーシャの前に、黒く長い剣を持った男が、爆心から歩んで来る。
「ロ……ロンシュタット……」
昨夜、宿屋で言うことが出来なかった彼の名前を、スーシャは口にすることが出来た。
名を呼ばれた青年ロンシュタットは、うっすら浮かび上がる虹を背にして、スーシャの元まで戻って来た。
件名:
MLNo. [tera_roma_2:0892]
差出人: まっつぁんさん
"周防 松"
送信日時: 2008/07/12 23:34
本文: PC:スーシャ ロンシュタット
NPC:バルデラス 街の人達
場所:セーラムの街 宿屋前の大通り
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あ、悪魔だ!」
どこからか、男の声がした。
――それは、雫といって良かった。
言うなれば、なみなみと水をたたえた湖の上に落ちた、小さな雫。
だがその雫は、自身の大きさをはるかに越えた波紋を広げる。
湖の大きさに比例して、どこまでも、どこまでも。
ざあっと、人々の間に緊張と恐怖が伝染するのを、スーシャは感じ取った。
振り向くと、人々が全員、一人の男に注目している。
注目されているのは、色あせたシャツによれよれのズボンの、農夫とおぼしきやせた
男だ。
男は、震える指でロンシュタットを指差した。
「考えてみろ。全部、こ、こいつが来てから起きたことじゃないか! 仕立て屋の一
家が殺されたのだって、団長がおかしくなったのだって、こいつがこの街に来てから
なんだろう!?」
男は目を見開き、口からつばを飛ばしながらロンシュタットを糾弾する。
「こいつも悪魔なんだ!」
対するロンシュタットは表情一つ変わらない。
これだけ糾弾されれば不快そうな顔の一つもしそうなものだが、『事実ではないから
気にしていない』というよりも、『そもそもこの男に関心がない』というような態度
である。
「そうだわ!」
太った中年女が、自分の子供をぎゅっと抱き寄せながら同調する。
「今まで、この街は何の問題もなかったじゃない! 平和で、安心して暮らしていた
のに、一体どうしてこんなことに……」
平和で、安心して暮らしていたのに――。
その言葉が、スーシャの胸を突き刺した。
朝起きて朝食の仕度をし、夫と子供を起こして食べさせて、掃除と洗濯にいそしみな
がら夕飯の献立に悩み、夜になったら子供を寝かしつけ、夫と少し話をした後で眠り
につく。
退屈ながらも、何事もなく平和に過ぎていく毎日。
何の不安もない、心配事とは無縁な日々。
彼女にとってはそうなのかもしれない。
だが、自分にとっては……。
「悪魔め!」
じわり、と恐ろしいものが伝染していく。
「きっと、さっきのやつの仲間なんだ」
「何もかもこいつのせいだ」
「こいつが街に災いを呼んだんだ」
数人の男が女・子供を後ろにかばうようにして進み出る。
進み出てきたのは、さっきは背を向けて逃げ出した、自警団員達だった。
わけのわからないもの相手に剣を振るうのは怖いが、人間の見た目をしている相手な
ら怖くない、というわけだろうか。
やめて。
やめて。
やめて。やめて。
やめて――。
「や……やめてくださいっ」
スーシャは、一瞬遅れてから、自分が何をしているかを理解した。
ロンシュタットの前に立ち、か細い両腕をピンと広げ、震える足で地面に踏ん張って
いる。
まるで、街の人間から彼をかばうように。
「何をしてるんだ、そいつは悪魔なんだぞ」
スーシャはぶんぶんと首を横に振った。
本当は、「違います」と大声で言いたかったが、いつもいつも黙って耐えてきたせい
で癖がついたのか、どうしても喉が開かなかった。
「どきなさい、危険だよ」
「そうだよ。さ、こっちおいで」
「殺されるかもしれないんだぞ」
ロンシュタットさんは、そんなことしない――。
スーシャは、愕然とした。
彼らは、先ほどのロンシュタットの行動を見ていなかったのだろうか?
水柱に飲まれるスーシャと団長の子供を助け出した、彼の行動を。
街の人を守るためにいるはずの自警団員でさえ、命が惜しいとばかりに逃げ出した、
恐ろしい水柱にただ一人立ち向かった男。
ほめられるべきはロンシュタットだ。
それなのに、怖いものから逃げ出した者が、逆に立ち向かっていった男相手に、どう
して平然と正義ヅラをさらしていられる?
嫌悪感が、ぞわぞわと背すじをはい上がって来た。
「逃げた、くせ、に……」
心の中から押し出されてきた言葉に、唇が震えた。
聞き取れそうにない小さな声だったけれど、自分の気持ちを吐き出したのは、ずいぶ
んと久しぶりだった。
本心をさらけ出すのは、とてもとても怖いことだ。
傷つかないためには、やらない方がいい。
いつの間にか身につけた、彼女なりの処世術。
しかし、もう、止められない。
今言わなかったら、自分は一生後悔する。
「なんだって?」
自警団員の一人に聞き返された瞬間、スーシャの中で何かが爆発した。
「知らないふり、したくせに! 見ないふり、したくせに! 助けてくれなかったく
せに!」
痛いほど、周りがしいんと静まり返った。
自警団員の中には、目をそらす者もいた。
「ロンシュタットさんは、助けてくれたもの。恩人なんだもの……だから、だから、
ののしったら、わたしっ、みんなのこと、軽蔑します!」
たかがちっぽけな小娘が一人、街の人達を軽蔑したところで痛くもかゆくもないだろ
う。
冷静に考えれば、思いあがりも甚だしい台詞だ。
だが――これが偽らざる気持ち、だった。
――もう、この街にはいられない。
スーシャは、覚悟を決めた。
この街を出て、どこか別のところでなんとかやっていこう。
武器を振るって怖いものに立ち向かうほどの強さはないけれど、一人でもちゃんと生
きていけるほどの強さなら、手が届くかもしれない。
自分の足で、しっかり立って、生きる。
それだって、強さの一つに違いない。
――じゃり。
後方から、砂を踏む音がした。
見ると、ロンシュタットがこちらに背を向けて歩き出していた。
その足は、街の外へと向かっている。
気まずいから逃げる、というような歩き方ではない。
仕事を終えた職人が帰宅する時のような、そんな足取りだった。
「あ……」
まだ、ちゃんとお礼を言ってない。
スーシャはロンシュタットの後を追いかけた。
――街の人達がどんな目で自分を見ていたとしても、もう気にならなかった。
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MLNo. [tera_roma_2:0892]
差出人: まっつぁんさん
"周防 松"
送信日時: 2008/07/12 23:34
本文: PC:スーシャ ロンシュタット
NPC:バルデラス 街の人達
場所:セーラムの街 宿屋前の大通り
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「あ、悪魔だ!」
どこからか、男の声がした。
――それは、雫といって良かった。
言うなれば、なみなみと水をたたえた湖の上に落ちた、小さな雫。
だがその雫は、自身の大きさをはるかに越えた波紋を広げる。
湖の大きさに比例して、どこまでも、どこまでも。
ざあっと、人々の間に緊張と恐怖が伝染するのを、スーシャは感じ取った。
振り向くと、人々が全員、一人の男に注目している。
注目されているのは、色あせたシャツによれよれのズボンの、農夫とおぼしきやせた
男だ。
男は、震える指でロンシュタットを指差した。
「考えてみろ。全部、こ、こいつが来てから起きたことじゃないか! 仕立て屋の一
家が殺されたのだって、団長がおかしくなったのだって、こいつがこの街に来てから
なんだろう!?」
男は目を見開き、口からつばを飛ばしながらロンシュタットを糾弾する。
「こいつも悪魔なんだ!」
対するロンシュタットは表情一つ変わらない。
これだけ糾弾されれば不快そうな顔の一つもしそうなものだが、『事実ではないから
気にしていない』というよりも、『そもそもこの男に関心がない』というような態度
である。
「そうだわ!」
太った中年女が、自分の子供をぎゅっと抱き寄せながら同調する。
「今まで、この街は何の問題もなかったじゃない! 平和で、安心して暮らしていた
のに、一体どうしてこんなことに……」
平和で、安心して暮らしていたのに――。
その言葉が、スーシャの胸を突き刺した。
朝起きて朝食の仕度をし、夫と子供を起こして食べさせて、掃除と洗濯にいそしみな
がら夕飯の献立に悩み、夜になったら子供を寝かしつけ、夫と少し話をした後で眠り
につく。
退屈ながらも、何事もなく平和に過ぎていく毎日。
何の不安もない、心配事とは無縁な日々。
彼女にとってはそうなのかもしれない。
だが、自分にとっては……。
「悪魔め!」
じわり、と恐ろしいものが伝染していく。
「きっと、さっきのやつの仲間なんだ」
「何もかもこいつのせいだ」
「こいつが街に災いを呼んだんだ」
数人の男が女・子供を後ろにかばうようにして進み出る。
進み出てきたのは、さっきは背を向けて逃げ出した、自警団員達だった。
わけのわからないもの相手に剣を振るうのは怖いが、人間の見た目をしている相手な
ら怖くない、というわけだろうか。
やめて。
やめて。
やめて。やめて。
やめて――。
「や……やめてくださいっ」
スーシャは、一瞬遅れてから、自分が何をしているかを理解した。
ロンシュタットの前に立ち、か細い両腕をピンと広げ、震える足で地面に踏ん張って
いる。
まるで、街の人間から彼をかばうように。
「何をしてるんだ、そいつは悪魔なんだぞ」
スーシャはぶんぶんと首を横に振った。
本当は、「違います」と大声で言いたかったが、いつもいつも黙って耐えてきたせい
で癖がついたのか、どうしても喉が開かなかった。
「どきなさい、危険だよ」
「そうだよ。さ、こっちおいで」
「殺されるかもしれないんだぞ」
ロンシュタットさんは、そんなことしない――。
スーシャは、愕然とした。
彼らは、先ほどのロンシュタットの行動を見ていなかったのだろうか?
水柱に飲まれるスーシャと団長の子供を助け出した、彼の行動を。
街の人を守るためにいるはずの自警団員でさえ、命が惜しいとばかりに逃げ出した、
恐ろしい水柱にただ一人立ち向かった男。
ほめられるべきはロンシュタットだ。
それなのに、怖いものから逃げ出した者が、逆に立ち向かっていった男相手に、どう
して平然と正義ヅラをさらしていられる?
嫌悪感が、ぞわぞわと背すじをはい上がって来た。
「逃げた、くせ、に……」
心の中から押し出されてきた言葉に、唇が震えた。
聞き取れそうにない小さな声だったけれど、自分の気持ちを吐き出したのは、ずいぶ
んと久しぶりだった。
本心をさらけ出すのは、とてもとても怖いことだ。
傷つかないためには、やらない方がいい。
いつの間にか身につけた、彼女なりの処世術。
しかし、もう、止められない。
今言わなかったら、自分は一生後悔する。
「なんだって?」
自警団員の一人に聞き返された瞬間、スーシャの中で何かが爆発した。
「知らないふり、したくせに! 見ないふり、したくせに! 助けてくれなかったく
せに!」
痛いほど、周りがしいんと静まり返った。
自警団員の中には、目をそらす者もいた。
「ロンシュタットさんは、助けてくれたもの。恩人なんだもの……だから、だから、
ののしったら、わたしっ、みんなのこと、軽蔑します!」
たかがちっぽけな小娘が一人、街の人達を軽蔑したところで痛くもかゆくもないだろ
う。
冷静に考えれば、思いあがりも甚だしい台詞だ。
だが――これが偽らざる気持ち、だった。
――もう、この街にはいられない。
スーシャは、覚悟を決めた。
この街を出て、どこか別のところでなんとかやっていこう。
武器を振るって怖いものに立ち向かうほどの強さはないけれど、一人でもちゃんと生
きていけるほどの強さなら、手が届くかもしれない。
自分の足で、しっかり立って、生きる。
それだって、強さの一つに違いない。
――じゃり。
後方から、砂を踏む音がした。
見ると、ロンシュタットがこちらに背を向けて歩き出していた。
その足は、街の外へと向かっている。
気まずいから逃げる、というような歩き方ではない。
仕事を終えた職人が帰宅する時のような、そんな足取りだった。
「あ……」
まだ、ちゃんとお礼を言ってない。
スーシャはロンシュタットの後を追いかけた。
――街の人達がどんな目で自分を見ていたとしても、もう気にならなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・