***************************************************************
『 易 し い ギ ル ド 入 門 【12】』
~ 続く障害 ~
場所 :ソフィニア
PC :エンジュ シエル
NPC:パリス ベルベッド イルラン
※ベルベッドに対してエンジュはアンジェラという偽名と使っている。
****************************************************************
ベルベッドの後ろで、エンジュはこっそりと胸を撫で下ろした。
まさか、こんなに早い段階でシエルとベルベッドのバトルが繰り広げられるとは思っても見なかった。シエルの芝居は、ベルベッドからアンジェラの注意を逸らすことが目的である。これで、エンジュが上手くベルベッドに近づき、捕らわれた魔法生物を奪還できれば、あの恋人たちはソフィニアを逃げることが出来るというわけだ
。
不機嫌そうな顔で爪を噛むベルベッドの横に並ぶと、エンジュは明るい声で彼女の肩をたたいた。
「ねぇ、魔法生物を見せてもらった後、何処か飲みに行かない?嫌なことなんて忘れてしまいましょうよ」
「悪いけど、用事が出来たわ」
「え!?」
「明日、明日会いましょう!受付で私の研究室を聞いて頂戴。一日いるから」
それだけ言うと、ベルベッドは早足で行ってしまった。エンジュはそれを呆然と見送る。
「もしかして、逃げられた…?」
追いかけることも出来る。しかし、今の段階でベルベッドに警戒心を抱かれては折角の接触が台無しだ。明日会う約束は取り付けたのだ、今回は引き下がったほうが良いだろう。
「お腹もすいちゃったしね」
エンジュの独り言に同意するように、お腹が鳴った。
もしこのまま学院の食堂に向かえば、発情期エルフに迫られるシエルに出くわすことになったのだが、幸か不幸か、エンジュはすぐにでもこの硬苦しい学院から立ち去ることしか頭に無かった。どうも、こういった場所は肌に合わないようだ。
「仕事でなければ近づきたくないところよね」
* * * * *
腹ごしらえをする為に、ふらりと立ち寄った酒場。
有無を言わずに、奥から三番目の席に案内された。
そして、したり顔のマスターに出されたのは何故か野菜炒めセット。
「んー……」
どうやらこの店にはエルフの常連でもいるようだ。しかも、古い習慣を守る質素な食事を好むタイプの。
出されたものを返すわけにもいかず、荒く切られたキャベツを頬張る。塩コショウの利いた味付けはエルフの好みとは少々外れるところがあったが、物足りないという点では、隣のおばさんお手製のザワークラウトを思い起こさせた。この席に座るエルフも妥協した結果なのだろうと何となく思った。
「でもやっぱり足らないから、牛肉とブロッコリーの炒め物と、トマトとベーコンサンドと林檎のコンポート追加ね」
フォークにキャベツを突き刺したまま、エンジュはメニューを広げ、オーダーする。学生らしき若者たちが、目を丸くしてこちらを見ていたが、エンジュにとっては日常的な事で、特に注意を払ったりはしなかった。
「あの…」
しかし、そんな客に交じってこちらを見ていた一人の女が席を立ってエンジュに近づいた。エンジュが顔を上げると、そこには見覚えのある顔があった。
「アンジェラ…?」
「エンジュさん、でしたよね」
パリスの本当の恋人でジグラッドの民アンジェラは、一度だけ会っただけのハンターの名前を不安そうに口にした。
エンジュは隣の空席を勧めると、改めてアンジェラを観察した。彼女はエンジュのテーブルに置かれた一人分には多すぎる食事を不思議そうに眺めている。
大柄な女が二人並ぶと、酒場の隅っこだというのにやけに目立った。しかし、男を寄せ付けないタイプの美女二人に声をかけようという強者は今のところいなかった。さすが魔法都市ソフィニア、とエンジュはわけも分からず感心した。
「パリスは、うまくやってますか?」
「えぇ、まぁ、ね」
先ほどの光景を思い出して、エンジュは渋い顔をした。その顔を見て、アンジェラは察したのだろう、深いため息をつく。
「パリスは優しい人ですから」
「優しいねぇ…」
単に女に甘いだけなような気もするのだが。
「本当は、私が彼女と直接対峙するのが一番なのでしょう。一応戦いの心得はあります」
そう言いながら、アンジェラは外を気にしだした。そうだ、彼女は夜になると獣人に変身する一族だった。人狼の姿の彼女なら魔法使いのベルベッドから強引にパティの居場所を聞き出すことも可能だろう。
しかし、出来ない理由がある。
「一族のためにも、ソールズベリー大聖堂に近いこのソフィニアで騒ぎを起す事はできません」
それは彼女たち一族の背負う過去にあった。
これはシエルから聞いたことなのだが、かつて凶暴な人狼を抹消するためにイムヌス教の人間によってジグラッドの一族はひどい迫害を受けた、それが彼らを砂漠へと追いやった理由なのだという。
「大丈夫よ、必ずパティの居場所はつかむわ!明日もまたこの時間に酒場で会いましょう」
エンジュは自信を持ってアンジェラを励ました。
一人で人間の住む町にいることは心細いことだろう、エンジュにもその気持ちは十分理解できた。
できれば、彼女たちには幸せになってほしいと祈らずにはいられない。
『 易 し い ギ ル ド 入 門 【12】』
~ 続く障害 ~
場所 :ソフィニア
PC :エンジュ シエル
NPC:パリス ベルベッド イルラン
※ベルベッドに対してエンジュはアンジェラという偽名と使っている。
****************************************************************
ベルベッドの後ろで、エンジュはこっそりと胸を撫で下ろした。
まさか、こんなに早い段階でシエルとベルベッドのバトルが繰り広げられるとは思っても見なかった。シエルの芝居は、ベルベッドからアンジェラの注意を逸らすことが目的である。これで、エンジュが上手くベルベッドに近づき、捕らわれた魔法生物を奪還できれば、あの恋人たちはソフィニアを逃げることが出来るというわけだ
。
不機嫌そうな顔で爪を噛むベルベッドの横に並ぶと、エンジュは明るい声で彼女の肩をたたいた。
「ねぇ、魔法生物を見せてもらった後、何処か飲みに行かない?嫌なことなんて忘れてしまいましょうよ」
「悪いけど、用事が出来たわ」
「え!?」
「明日、明日会いましょう!受付で私の研究室を聞いて頂戴。一日いるから」
それだけ言うと、ベルベッドは早足で行ってしまった。エンジュはそれを呆然と見送る。
「もしかして、逃げられた…?」
追いかけることも出来る。しかし、今の段階でベルベッドに警戒心を抱かれては折角の接触が台無しだ。明日会う約束は取り付けたのだ、今回は引き下がったほうが良いだろう。
「お腹もすいちゃったしね」
エンジュの独り言に同意するように、お腹が鳴った。
もしこのまま学院の食堂に向かえば、発情期エルフに迫られるシエルに出くわすことになったのだが、幸か不幸か、エンジュはすぐにでもこの硬苦しい学院から立ち去ることしか頭に無かった。どうも、こういった場所は肌に合わないようだ。
「仕事でなければ近づきたくないところよね」
* * * * *
腹ごしらえをする為に、ふらりと立ち寄った酒場。
有無を言わずに、奥から三番目の席に案内された。
そして、したり顔のマスターに出されたのは何故か野菜炒めセット。
「んー……」
どうやらこの店にはエルフの常連でもいるようだ。しかも、古い習慣を守る質素な食事を好むタイプの。
出されたものを返すわけにもいかず、荒く切られたキャベツを頬張る。塩コショウの利いた味付けはエルフの好みとは少々外れるところがあったが、物足りないという点では、隣のおばさんお手製のザワークラウトを思い起こさせた。この席に座るエルフも妥協した結果なのだろうと何となく思った。
「でもやっぱり足らないから、牛肉とブロッコリーの炒め物と、トマトとベーコンサンドと林檎のコンポート追加ね」
フォークにキャベツを突き刺したまま、エンジュはメニューを広げ、オーダーする。学生らしき若者たちが、目を丸くしてこちらを見ていたが、エンジュにとっては日常的な事で、特に注意を払ったりはしなかった。
「あの…」
しかし、そんな客に交じってこちらを見ていた一人の女が席を立ってエンジュに近づいた。エンジュが顔を上げると、そこには見覚えのある顔があった。
「アンジェラ…?」
「エンジュさん、でしたよね」
パリスの本当の恋人でジグラッドの民アンジェラは、一度だけ会っただけのハンターの名前を不安そうに口にした。
エンジュは隣の空席を勧めると、改めてアンジェラを観察した。彼女はエンジュのテーブルに置かれた一人分には多すぎる食事を不思議そうに眺めている。
大柄な女が二人並ぶと、酒場の隅っこだというのにやけに目立った。しかし、男を寄せ付けないタイプの美女二人に声をかけようという強者は今のところいなかった。さすが魔法都市ソフィニア、とエンジュはわけも分からず感心した。
「パリスは、うまくやってますか?」
「えぇ、まぁ、ね」
先ほどの光景を思い出して、エンジュは渋い顔をした。その顔を見て、アンジェラは察したのだろう、深いため息をつく。
「パリスは優しい人ですから」
「優しいねぇ…」
単に女に甘いだけなような気もするのだが。
「本当は、私が彼女と直接対峙するのが一番なのでしょう。一応戦いの心得はあります」
そう言いながら、アンジェラは外を気にしだした。そうだ、彼女は夜になると獣人に変身する一族だった。人狼の姿の彼女なら魔法使いのベルベッドから強引にパティの居場所を聞き出すことも可能だろう。
しかし、出来ない理由がある。
「一族のためにも、ソールズベリー大聖堂に近いこのソフィニアで騒ぎを起す事はできません」
それは彼女たち一族の背負う過去にあった。
これはシエルから聞いたことなのだが、かつて凶暴な人狼を抹消するためにイムヌス教の人間によってジグラッドの一族はひどい迫害を受けた、それが彼らを砂漠へと追いやった理由なのだという。
「大丈夫よ、必ずパティの居場所はつかむわ!明日もまたこの時間に酒場で会いましょう」
エンジュは自信を持ってアンジェラを励ました。
一人で人間の住む町にいることは心細いことだろう、エンジュにもその気持ちは十分理解できた。
できれば、彼女たちには幸せになってほしいと祈らずにはいられない。
PR
****************************************************************
『 易 し い ギ ル ド 入 門 【14】』
~ 芝居放棄 ~
場所 :ソフィニア
PC :エンジュ シエル
NPC:パリス イルラン
****************************************************************
「ああ、やはり運命だ!」
隠れようとしたシエルを目聡く見つけると、足早に近づいてイルランは言った。
「コレをどうぞ。あなたに似合うと思って、つい買ってしまいました」
イルランに差し出された大輪の白百合は、食堂のどの匂いも押しのけるほど強い香
りを放っていた。シエルはこの男を花束ごと風で吹き飛ばしたくなったが、眉間に深
く皺を刻むことで何とか自制。こんな調子ではあまり保たないだろうが、今暴れるわ
けにもいかないという苦渋の選択だ。一体何処までこの男は邪魔をするのか……。
「今度こそ名前を」
イルランの言葉に、食堂のどこかから冷やかしの口笛が響いた。シエルがキッと横
目で睨むと、冷やかした青年はコソコソと逃げるように去っていく。それを一瞥し、
同じ様な調子でイルランを睨み付けたが、逃げる代わりに嬉しそうな笑顔を向けてき
た。
「迷惑だからやめて」
イライラを隠そうともせずにシエルは言い放つ。しかし、イルランはめげない。
「あなたの事が頭から離れないんです」
純粋なエルフは、左右の均整の取れた神秘的な外見をしている……そう聞いたこと
があったが、こんなに目をキラキラさせて神秘も何もあったモンじゃない。細いとい
うより薄い体躯は貧弱で、どうやらエンジュよりも少し背は低そうだった。
「私は興味を持たれることが凄く不本意だわ」
「人の言葉では『嫌よ嫌よも好きのうち』というのでしょう?」
「本気で嫌なのがわからない!?」
「ああ、怒った顔も魅力的ですね」
どうしよう、話が通じない。会話が成立しない理由を文化の違いで済ませていいの
もなのかすらわからない。異常事態だ。
「アナタはもっと人の感情表現を学ぶべきだわ」
シエルの冷たく突き放したような皮肉は、当然のように通じない。イルランは嬉し
そうに微笑むとゆっくりと頷いた。
「仰る通り、私はまだまだ未熟な若輩者です。でも、人の寿命が我々に比べとても短
いことは知っています」
ああ、話が明らかにズレている。
「だから、少しでもあなたと一緒に過ごせるよう、あなたから色々学ぶのが論理的だ
と思います。私に色々教えてくれませんか?」
だーかーらー。勘弁して下さい。そんな論理飛躍は聞いたことがありません。全く
もって非論理的に聞こえます。って、こっちの感情棚上げとは何事だ!?
シエルが怒りに肩を震わせ始めた頃になって、始めてパリスが動きを見せた。間に
立ち塞がり、イルランを見下ろしたのだ。
「君、彼女が迷惑だと言ってるだろ? 僕を無視して話を進めないでくれ」
シエルは「遅いっ!!」と思うだけでなんとか口に出さずに済んだ。
存在を忘れられるほどの遅い登場なんて必要ない。目の前の女が口説かれているの
に放っておく男なんてアンジェラに振られてしまえばいい。だが、一応は仕事。しか
もギルドランクやら諸々の都合もあって放り出すわけにもいかないのだからイライラ
は募る。
「きみは彼女の何なんですか。私は彼女と話をしている」
イルランは意外なほどクールにパリスを見上げた。さっきの目を輝かせた姿からは
別人のようなその態度に、思わずパリスも怯む。
「彼は結婚相手よ。もう関わらないで」
シエルが出した助け船は「誰の」を指す重要な単語が意図的に抜かれていた。もう
半ば芝居自体がどうでもよくなっていたシエルにとって、イルランが早く去るのな
ら、依頼人だろうがギルドの仕事だろうが利用できるモノは全て、道具以外の何でも
ない。
さて、驚いたのはパリスの方である。打ち合わせには「学院内で周囲に親密さを見
せつける」→「親に報告」という流れしかなかったのだから。
「と、とりあえずそういうことだから!」
パリスの口から苦し紛れに出た言葉はそれだけで。イルランが顔をしかめた。
「……本当に彼と結婚するつもりですか?」
コレはやめた方が……と言いたいのは分かる。凄くよく分かる。シエルも心からそ
う思っていたから、一拍おいて、返事の代わりに重々しく頷いた。
頷きは幸か不幸か質問に対する肯定と取られ、イルランの眉間に深い皺を刻む。
「では……」
イルランはガサゴソと懐を探ると、取り出した白く薄い手袋を握りしめ……
「決闘です。彼女は私にこそ相応しい」
パリスに投げつけたのだ。シエルは深い深ーい溜息を吐いた。
イルランがパリスに何やら決闘のルールなるモノを説明し始めたので、シエルは黒
い頭巾を取り出し、おもむろに被り始めた。アッという間に分かり易い不審者の出来
上がり。ギャラリーの中にどよめきが広がる。
「あ……どこへ」
イルランが気付いて声を掛けるが、シエルの返事は行動を伴ったモノだった。
「帰るの。さよなら」
返事と一緒に歩き出す。顔を隠すと何でこんなに胡散臭くなるのだろうか。全身黒
づくめのシエルが歩くと、皆が一歩引いて道を空けた。
「待って!」
イルランが後ろから声を掛けるが、シエルは無視。私は何も聞こえない、私は何も
聞こえない……と頭の中で反芻しながら、徐々に歩速も上がって行く。
慌てて走ってきた彼の持つ強い香りに阻まれ足を止めたのは、建物を出てすぐだっ
た。
「突然の話で驚かせてしまって申し訳ない。でも、顔を伏せても尚、気高さを失わな
いこの花を一目見て、まるであなたのようだと、どうしてもあなたのことが知りたい
と改めて思ったんです。……花に罪はありません。是非受け取って下さい」
頭を垂れて差し出される花束。なんかもう受け取らないと帰れないんじゃないかと
思う気持ちと、受け取ると縁が切れないんじゃないかと思う気持ちとの狭間で心が揺
れる。揺れすぎて船酔いを連想して、本気で気持ちが悪くなってくるくらいに。
「……シエルさーん!もう帰ってしまうんですかー!?」
恐らく呆気にとられていたのだろう、遅れて走ってきながらパリスがそう声を掛け
た。
「こんの……バカ!」
芝居なんてもう頭になかった。精一杯の大声で罵声を浴びせると、風を呼ぶ。
「<クードヴァン>!」
風に乗ってアッという間にシエルが去ると、何故怒鳴られたのか分からないパリス
と、花束を抱きしめるイルランが残された。
「シエル……素敵な名だ」
そう呟くと、イルランはウットリと空を見上げる。空には白い月が浮かんでいた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あーっもう、やってらんないわ!」
エンジュが宿に戻ると、珍しくシエルが酒を飲んで荒れていた。風に乗って先回り
したとはいえ、既にビンが転がっているところを見ると相当なペースで飲んでいたら
しい。
「ちょ、ちょっと、どうしたのよシエル……」
「パリスはダメよ。全然ダメ。分かれた方がアンジェラの為よ、きっと」
赤い顔で眼は虚ろ、机に上半身を投げ出しながらも酒の入ったグラスはしっかり握
っているシエル。いつもは静かに飲むのを知っているだけに、初めて見るその醜態に
ただ驚く。仕事が上手くいかなかったのかもしれないが、それだけが荒れている理由
だろうか?
「何か、あったのね?」
パリスがシエルに手を出したのかと眉をひそめるエンジュに返ってきたのは、眉間
にもっと深い皺を刻んだシエルの意外な返事だった。
「……話の通じない馬鹿エルフ」
「なぁんですって!?」
軽口を叩くことはあっても、こんなに心底嫌そうに暴言を吐いたことは今までに一
度もなかったはずだ。ただただ驚くエンジュの肩にもたれかかるように、シエルが小
さな小さな声で呟いた。
「……助けて」
シエルの肩は小刻みに震えていた。事情が分からないまま、エンジュはシエルの頭
を優しく撫で続けた。
『 易 し い ギ ル ド 入 門 【14】』
~ 芝居放棄 ~
場所 :ソフィニア
PC :エンジュ シエル
NPC:パリス イルラン
****************************************************************
「ああ、やはり運命だ!」
隠れようとしたシエルを目聡く見つけると、足早に近づいてイルランは言った。
「コレをどうぞ。あなたに似合うと思って、つい買ってしまいました」
イルランに差し出された大輪の白百合は、食堂のどの匂いも押しのけるほど強い香
りを放っていた。シエルはこの男を花束ごと風で吹き飛ばしたくなったが、眉間に深
く皺を刻むことで何とか自制。こんな調子ではあまり保たないだろうが、今暴れるわ
けにもいかないという苦渋の選択だ。一体何処までこの男は邪魔をするのか……。
「今度こそ名前を」
イルランの言葉に、食堂のどこかから冷やかしの口笛が響いた。シエルがキッと横
目で睨むと、冷やかした青年はコソコソと逃げるように去っていく。それを一瞥し、
同じ様な調子でイルランを睨み付けたが、逃げる代わりに嬉しそうな笑顔を向けてき
た。
「迷惑だからやめて」
イライラを隠そうともせずにシエルは言い放つ。しかし、イルランはめげない。
「あなたの事が頭から離れないんです」
純粋なエルフは、左右の均整の取れた神秘的な外見をしている……そう聞いたこと
があったが、こんなに目をキラキラさせて神秘も何もあったモンじゃない。細いとい
うより薄い体躯は貧弱で、どうやらエンジュよりも少し背は低そうだった。
「私は興味を持たれることが凄く不本意だわ」
「人の言葉では『嫌よ嫌よも好きのうち』というのでしょう?」
「本気で嫌なのがわからない!?」
「ああ、怒った顔も魅力的ですね」
どうしよう、話が通じない。会話が成立しない理由を文化の違いで済ませていいの
もなのかすらわからない。異常事態だ。
「アナタはもっと人の感情表現を学ぶべきだわ」
シエルの冷たく突き放したような皮肉は、当然のように通じない。イルランは嬉し
そうに微笑むとゆっくりと頷いた。
「仰る通り、私はまだまだ未熟な若輩者です。でも、人の寿命が我々に比べとても短
いことは知っています」
ああ、話が明らかにズレている。
「だから、少しでもあなたと一緒に過ごせるよう、あなたから色々学ぶのが論理的だ
と思います。私に色々教えてくれませんか?」
だーかーらー。勘弁して下さい。そんな論理飛躍は聞いたことがありません。全く
もって非論理的に聞こえます。って、こっちの感情棚上げとは何事だ!?
シエルが怒りに肩を震わせ始めた頃になって、始めてパリスが動きを見せた。間に
立ち塞がり、イルランを見下ろしたのだ。
「君、彼女が迷惑だと言ってるだろ? 僕を無視して話を進めないでくれ」
シエルは「遅いっ!!」と思うだけでなんとか口に出さずに済んだ。
存在を忘れられるほどの遅い登場なんて必要ない。目の前の女が口説かれているの
に放っておく男なんてアンジェラに振られてしまえばいい。だが、一応は仕事。しか
もギルドランクやら諸々の都合もあって放り出すわけにもいかないのだからイライラ
は募る。
「きみは彼女の何なんですか。私は彼女と話をしている」
イルランは意外なほどクールにパリスを見上げた。さっきの目を輝かせた姿からは
別人のようなその態度に、思わずパリスも怯む。
「彼は結婚相手よ。もう関わらないで」
シエルが出した助け船は「誰の」を指す重要な単語が意図的に抜かれていた。もう
半ば芝居自体がどうでもよくなっていたシエルにとって、イルランが早く去るのな
ら、依頼人だろうがギルドの仕事だろうが利用できるモノは全て、道具以外の何でも
ない。
さて、驚いたのはパリスの方である。打ち合わせには「学院内で周囲に親密さを見
せつける」→「親に報告」という流れしかなかったのだから。
「と、とりあえずそういうことだから!」
パリスの口から苦し紛れに出た言葉はそれだけで。イルランが顔をしかめた。
「……本当に彼と結婚するつもりですか?」
コレはやめた方が……と言いたいのは分かる。凄くよく分かる。シエルも心からそ
う思っていたから、一拍おいて、返事の代わりに重々しく頷いた。
頷きは幸か不幸か質問に対する肯定と取られ、イルランの眉間に深い皺を刻む。
「では……」
イルランはガサゴソと懐を探ると、取り出した白く薄い手袋を握りしめ……
「決闘です。彼女は私にこそ相応しい」
パリスに投げつけたのだ。シエルは深い深ーい溜息を吐いた。
イルランがパリスに何やら決闘のルールなるモノを説明し始めたので、シエルは黒
い頭巾を取り出し、おもむろに被り始めた。アッという間に分かり易い不審者の出来
上がり。ギャラリーの中にどよめきが広がる。
「あ……どこへ」
イルランが気付いて声を掛けるが、シエルの返事は行動を伴ったモノだった。
「帰るの。さよなら」
返事と一緒に歩き出す。顔を隠すと何でこんなに胡散臭くなるのだろうか。全身黒
づくめのシエルが歩くと、皆が一歩引いて道を空けた。
「待って!」
イルランが後ろから声を掛けるが、シエルは無視。私は何も聞こえない、私は何も
聞こえない……と頭の中で反芻しながら、徐々に歩速も上がって行く。
慌てて走ってきた彼の持つ強い香りに阻まれ足を止めたのは、建物を出てすぐだっ
た。
「突然の話で驚かせてしまって申し訳ない。でも、顔を伏せても尚、気高さを失わな
いこの花を一目見て、まるであなたのようだと、どうしてもあなたのことが知りたい
と改めて思ったんです。……花に罪はありません。是非受け取って下さい」
頭を垂れて差し出される花束。なんかもう受け取らないと帰れないんじゃないかと
思う気持ちと、受け取ると縁が切れないんじゃないかと思う気持ちとの狭間で心が揺
れる。揺れすぎて船酔いを連想して、本気で気持ちが悪くなってくるくらいに。
「……シエルさーん!もう帰ってしまうんですかー!?」
恐らく呆気にとられていたのだろう、遅れて走ってきながらパリスがそう声を掛け
た。
「こんの……バカ!」
芝居なんてもう頭になかった。精一杯の大声で罵声を浴びせると、風を呼ぶ。
「<クードヴァン>!」
風に乗ってアッという間にシエルが去ると、何故怒鳴られたのか分からないパリス
と、花束を抱きしめるイルランが残された。
「シエル……素敵な名だ」
そう呟くと、イルランはウットリと空を見上げる。空には白い月が浮かんでいた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あーっもう、やってらんないわ!」
エンジュが宿に戻ると、珍しくシエルが酒を飲んで荒れていた。風に乗って先回り
したとはいえ、既にビンが転がっているところを見ると相当なペースで飲んでいたら
しい。
「ちょ、ちょっと、どうしたのよシエル……」
「パリスはダメよ。全然ダメ。分かれた方がアンジェラの為よ、きっと」
赤い顔で眼は虚ろ、机に上半身を投げ出しながらも酒の入ったグラスはしっかり握
っているシエル。いつもは静かに飲むのを知っているだけに、初めて見るその醜態に
ただ驚く。仕事が上手くいかなかったのかもしれないが、それだけが荒れている理由
だろうか?
「何か、あったのね?」
パリスがシエルに手を出したのかと眉をひそめるエンジュに返ってきたのは、眉間
にもっと深い皺を刻んだシエルの意外な返事だった。
「……話の通じない馬鹿エルフ」
「なぁんですって!?」
軽口を叩くことはあっても、こんなに心底嫌そうに暴言を吐いたことは今までに一
度もなかったはずだ。ただただ驚くエンジュの肩にもたれかかるように、シエルが小
さな小さな声で呟いた。
「……助けて」
シエルの肩は小刻みに震えていた。事情が分からないまま、エンジュはシエルの頭
を優しく撫で続けた。
****************************************************************
『 易 し い ギ ル ド 入 門 【15】』
~ 夜の訪問者は騒がしく ~
場所 :ソフィニア
PC :エンジュ シエル
NPC:パリス シダ
****************************************************************
その夜は一段と闇が濃かった。
空には月さえ浮かばず、ソフィニアの苦学生たちは、蝋燭代すら惜しんで早々と床につく。
パリスは、煌煌と灯りをともし続けるヴァデラッシュ邸の書斎で書物をめくっていた。
はぁ。
一人ため息。
頭によぎる女性は、赤い髪の婚約者でも、しなやかな肢体を持つ獣人の恋人でもなく、
今は厚い雲に隠された月のように儚げで凛とした美しさをもつ白きハンターだった。
「シエルさん・・・」
彼の呟きに答えるかのように、勢いよく二階の窓が開け放たれた。
「見つけたわよ、パリス!」
「なっ!? わっ、いてっ」
ガタン!!
突然、自分に向かって言葉を投げつけられた女の声。
パリスは思わず逃げ出そうと立ち上がり、椅子につまずいて腰を打った。
あきれる様に鼻から息を吐くと、その人物は外から華麗に室内へと侵入した。
「アンタ、一体シエルに何をしたの?」
光の下で、改めて突然の侵入者を見ると、パリスは安心して長い息を吐いた。
シエルの相棒だというエルフではないか。
「なんだ、エンジュさんじゃないか。驚かさないで下さいよ」
「それはこっちのセリフよ」
エンジュは腰を抜かしているパリスの襟元を掴むと一気に引き上げた。
そのまま足元が浮くほど持ち上げて、エンジュは睨み付けた。
二人の身長はそう変わらないので、自分より高い場所に顔のある相手をエンジュは睨み上げるかたちとなる。
パリスはこのエルフの女性の何処にこんな力があるのだろう、と頭の端で思いながらも、その鋭い薄紅色の瞳に睨まれて縮みあがっていた。
「おーい、エンジュ。一応こっちは不法侵入なんだから、怪我はさせるなよー」
窓の外にはもう一つの人影があった。
動物のお面を被った謎の男だ。
しかし、その頭の上から突き出した黒い耳だけは間違いなく本物。
獣人・・・アンジェラの仲間だろうか。
パリスはシダの事を忘れていたので、そんなことを思った。
エンジュは仕方なく、といった様子でパリスを解放する。
喉をさすりながら、パリスは先ほどのエンジュの言葉を訊きとがめた。
「シエルさんがどうしたんですか?僕だって、急に彼女が魔法で姿を消してしまって困惑していたんですよ」
「アンタが何かやらかしたんじゃないの?」
「そんな!あの邪魔者エルフが来るまではとても良い雰囲気だったのに」
『話の通じない馬鹿エルフ』
ようやく合点がいった。
シエルの暴言は、あのイルランとか言うエルフに向けられたものだったのか。
エンジュは泥酔したシエルをそのまま部屋まで連れて行くと、シダからパリスの居場所を聞き出した。
その為、シエルがあれほど荒れていた理由については分からずにここまで来ていたのだ。
ちなみに、シダはエンジュがパリスに実力行使に出ないか心配でついてきたりする。
依頼人に怪我をさせて下がるのは、今後のシエルの評価だ。
「しかも、あのエルフは僕に決闘を申し込んできたんです」
エンジュの勘違いが分かってほっとしたのか、勢いづいたパリスは昼間のことを説明しだした。
その内容に、エンジュもまた頭がくらくらしてきた。
何となく、シエルの飲みでもしなきゃやってられない気持が分かってきた。
「ねぇ、シダ。エルフの村にそんな習慣あったかしら・・・」
「んー、少なくとも手袋投げつけて、先に相手に傷を一つでも負わせたら勝ちなんて勝負は聞かないね」
人のことは言えないが随分と人間かぶれなエルフではないか。
「その、決闘うけるの?」
「まさか!」
いっそ清清しいほどに、パリスは否定した。
確かに、アンジェラとパリスが駆け落ちするのに、危険を犯してまでシエルの為に決闘する必要などかけらもない。
「いっそ、エンジュが決闘うけてきたら?」
「ある意味そうしたわね」
シダの無責任な提案に、エンジュは大いに頷く。
「私は明日ベルベットの研究室に行くわ」
「本当ですか!?きっとパティーはそこに・・・」
パリスが思わず身を乗り出したところで、今度は扉の方から新たな人物が登場した。
「パリス!一体こんな夜中に何を騒いでおる!!」
「と、父さん」
息子に喝を入れた男は、じろりとエンジュに視線を向けた。
「お前の婚約者が夕方尋ねてきた。お前に新しい恋人が出来たとな。獣人の次はエルフか、まったくお前はわが家に異種の血を混ぜる気か」
「ち、違うよ。彼女は・・・」
これが二人の仲を引き裂き、ベルベットと手を組んだパリスの父親というわけだ。
パリスの甘いマスクとは正反対の四角い顔には、整ったヒゲが生えていたが、どうにも嫌味を感じさせた。
「こんばんわ。ヴァデラッシュさん」
エンジュも余裕たっぷりで微笑んでみせる。
(暴れちゃ駄目だよー)
窓の外で隠れているシダが小さな声で囁いてきた。
「私はベルベットの友達です。彼があまりに女性に不誠実なので彼に説教しにきたのよ」
「こんな夜中にか。非常識な」
「非常識なのは誰かしら」
「何だと・・・?」
エンジュはそれだけいうと、窓際まで戻り、最後に振り返った。
「パリス、あんたも男なんだからいい加減なんとかしなさいよね」
それだけ言うと、エンジュはそのまま闇へと飛び込んだ。
『 易 し い ギ ル ド 入 門 【15】』
~ 夜の訪問者は騒がしく ~
場所 :ソフィニア
PC :エンジュ シエル
NPC:パリス シダ
****************************************************************
その夜は一段と闇が濃かった。
空には月さえ浮かばず、ソフィニアの苦学生たちは、蝋燭代すら惜しんで早々と床につく。
パリスは、煌煌と灯りをともし続けるヴァデラッシュ邸の書斎で書物をめくっていた。
はぁ。
一人ため息。
頭によぎる女性は、赤い髪の婚約者でも、しなやかな肢体を持つ獣人の恋人でもなく、
今は厚い雲に隠された月のように儚げで凛とした美しさをもつ白きハンターだった。
「シエルさん・・・」
彼の呟きに答えるかのように、勢いよく二階の窓が開け放たれた。
「見つけたわよ、パリス!」
「なっ!? わっ、いてっ」
ガタン!!
突然、自分に向かって言葉を投げつけられた女の声。
パリスは思わず逃げ出そうと立ち上がり、椅子につまずいて腰を打った。
あきれる様に鼻から息を吐くと、その人物は外から華麗に室内へと侵入した。
「アンタ、一体シエルに何をしたの?」
光の下で、改めて突然の侵入者を見ると、パリスは安心して長い息を吐いた。
シエルの相棒だというエルフではないか。
「なんだ、エンジュさんじゃないか。驚かさないで下さいよ」
「それはこっちのセリフよ」
エンジュは腰を抜かしているパリスの襟元を掴むと一気に引き上げた。
そのまま足元が浮くほど持ち上げて、エンジュは睨み付けた。
二人の身長はそう変わらないので、自分より高い場所に顔のある相手をエンジュは睨み上げるかたちとなる。
パリスはこのエルフの女性の何処にこんな力があるのだろう、と頭の端で思いながらも、その鋭い薄紅色の瞳に睨まれて縮みあがっていた。
「おーい、エンジュ。一応こっちは不法侵入なんだから、怪我はさせるなよー」
窓の外にはもう一つの人影があった。
動物のお面を被った謎の男だ。
しかし、その頭の上から突き出した黒い耳だけは間違いなく本物。
獣人・・・アンジェラの仲間だろうか。
パリスはシダの事を忘れていたので、そんなことを思った。
エンジュは仕方なく、といった様子でパリスを解放する。
喉をさすりながら、パリスは先ほどのエンジュの言葉を訊きとがめた。
「シエルさんがどうしたんですか?僕だって、急に彼女が魔法で姿を消してしまって困惑していたんですよ」
「アンタが何かやらかしたんじゃないの?」
「そんな!あの邪魔者エルフが来るまではとても良い雰囲気だったのに」
『話の通じない馬鹿エルフ』
ようやく合点がいった。
シエルの暴言は、あのイルランとか言うエルフに向けられたものだったのか。
エンジュは泥酔したシエルをそのまま部屋まで連れて行くと、シダからパリスの居場所を聞き出した。
その為、シエルがあれほど荒れていた理由については分からずにここまで来ていたのだ。
ちなみに、シダはエンジュがパリスに実力行使に出ないか心配でついてきたりする。
依頼人に怪我をさせて下がるのは、今後のシエルの評価だ。
「しかも、あのエルフは僕に決闘を申し込んできたんです」
エンジュの勘違いが分かってほっとしたのか、勢いづいたパリスは昼間のことを説明しだした。
その内容に、エンジュもまた頭がくらくらしてきた。
何となく、シエルの飲みでもしなきゃやってられない気持が分かってきた。
「ねぇ、シダ。エルフの村にそんな習慣あったかしら・・・」
「んー、少なくとも手袋投げつけて、先に相手に傷を一つでも負わせたら勝ちなんて勝負は聞かないね」
人のことは言えないが随分と人間かぶれなエルフではないか。
「その、決闘うけるの?」
「まさか!」
いっそ清清しいほどに、パリスは否定した。
確かに、アンジェラとパリスが駆け落ちするのに、危険を犯してまでシエルの為に決闘する必要などかけらもない。
「いっそ、エンジュが決闘うけてきたら?」
「ある意味そうしたわね」
シダの無責任な提案に、エンジュは大いに頷く。
「私は明日ベルベットの研究室に行くわ」
「本当ですか!?きっとパティーはそこに・・・」
パリスが思わず身を乗り出したところで、今度は扉の方から新たな人物が登場した。
「パリス!一体こんな夜中に何を騒いでおる!!」
「と、父さん」
息子に喝を入れた男は、じろりとエンジュに視線を向けた。
「お前の婚約者が夕方尋ねてきた。お前に新しい恋人が出来たとな。獣人の次はエルフか、まったくお前はわが家に異種の血を混ぜる気か」
「ち、違うよ。彼女は・・・」
これが二人の仲を引き裂き、ベルベットと手を組んだパリスの父親というわけだ。
パリスの甘いマスクとは正反対の四角い顔には、整ったヒゲが生えていたが、どうにも嫌味を感じさせた。
「こんばんわ。ヴァデラッシュさん」
エンジュも余裕たっぷりで微笑んでみせる。
(暴れちゃ駄目だよー)
窓の外で隠れているシダが小さな声で囁いてきた。
「私はベルベットの友達です。彼があまりに女性に不誠実なので彼に説教しにきたのよ」
「こんな夜中にか。非常識な」
「非常識なのは誰かしら」
「何だと・・・?」
エンジュはそれだけいうと、窓際まで戻り、最後に振り返った。
「パリス、あんたも男なんだからいい加減なんとかしなさいよね」
それだけ言うと、エンジュはそのまま闇へと飛び込んだ。
****************************************************************
『 易 し い ギ ル ド 入 門 【16】』
~ 衝突注意 ~
場所 :ソフィニア
PC :エンジュ シエル
NPC:イルラン
****************************************************************
シエルは激しい頭痛に叩き起こされた。ズキズキと脈打つ音すら頭に響き、やたら
喉が渇いて仕方がない。体を起こそうにも頭が重く、グラグラしてしまう。
(えーと……ああ、酒を飲みながらエンジュの帰りを待とうとしたんだっけ)
霞がかかったような記憶を手繰るように引き出しつつ、ベッド脇の水差しに手を延
ばした。思うように体が動かない。まだ酔いが残っているとでも言うのだろうか。這
うようにベッド脇に近づき、少しだけ体を起こして、慎重に水差しとグラスを引き寄
せる。何とか大丈夫そうだ。水を注ぎ、喉を鳴らしながら飲んで、また水を注ぎ、三
杯ほど飲み干したところでようやく人心地付いたように再びベットへ身を投げ出し
た。
「ふぅ……」
天井を見上げ、ぅわんぅわんと止まない耳鳴りに眉根を寄せる。それもこれもみん
なあの馬鹿エルフが悪いのだ。きっとそうだ。八つ当たりでも何でもいい。話が通じ
ない相手は考えも推測できないから何をどう対処していいかが分からない。想像力を
越えた相手を前にして、他の人だったらどう対応するのだろう。例えばエンジュは?
「あら、起きたの?」
身支度を整えて顔でも洗ってきたのだろうか、丁度部屋に入ってきたエンジュに片
手を挙げて答える。まだ頭を上げるのが億劫だ。
「昨日、迷惑かけたわね……ぃたたたた」
顔だけ彼女に向けて声を掛けるが、こめかみがずきりと痛んで手を当てる。
「例の馬鹿エルフとやらに会ったら張り倒してやるから安心して寝てなさい」
エンジュが笑って頭を撫でた。
エンジュはシエルによく触れる。普段触られることに抵抗があるシエルが髪まで触
らせるのはエンジュくらいなモノなのだが、慣れなのか安心なのか、どちらにしても
居心地が良かった。
大人しく撫でられるがままでいたら、ふと自分が飼い慣らされた野生動物のような
気がしてきて可笑しくなった。不意に笑うシエルを覗き込んで、エンジュも笑った。
「少し元気が出た?
じゃあ私は魔術学院へ行ってベルベッドに会ってくるから」
ぽんぽんと二度ほど頭の上に手を置くと、エンジュはシエルから離れた。書き置き
でもして行くつもりだったのだろう、側に紙とペンも用意してあった。
「……昨日、何か変なこと言わなかったかしら」
シエルが痛む頭を抱えながら体を起こすと、エンジュは扉に手を掛け、肩を竦め
た。
「あまり話さないまま寝ちゃったからね。
あ、食事がてらアンジェラとも会うんだけど、気分が良くなったらいらっしゃい
よ。
ココに場所をメモしておくから」
ああ、彼女は知っているのだ。と、シエルは思う。
理由を問いただされるかと思っていたのに。エンジュが気にしないはずはないか
ら、聞いてこないということは、事情を多かれ少なかれ把握しているということなの
だろう。
ユークリッドがいなくてもしっかり情報を押さえている彼女は、やはりBランクの
冒険者なのだ。
「悪いわね、いろいろと」
「シエルの為なら」
その言葉とウインク一つ残して、エンジュは出かけていった。
そのまま少し寝て、起きて。シエルはぼーっと天井を見上げていた。
ここは「クラウンクロウ」という宿だ。シダに宿の名前を聞いた時の予想を裏切る
普通の宿。仕事で使いやすいだろうと思ったからか、それとも、予約なしで泊まれる
とのことだったからか。理由は忘れたが、実際に来るまでは冒険者の宿だと思ってい
たのだ。
値段も手頃で、立地条件も悪くない。普段ならもっと客がいるだろうに、ソフィニ
ア入りする直前に起こった連続殺人事件のせいで客が逃げたらしい。まあ、そのお陰
で宿が取れた、というのもあるのだが……あまり気分のいい事件ではないのは確かだ
った。
「お陰で静かなのは助かるけどね……」
頭痛が少し収まってきたせいか、随分気分は良くなった。横になるのも飽きたし、
何か食べておかなくてはなるまい。部屋まで食事を運んでもらうか、下で食事をとる
必要があるだろう。当初はエンジュと一緒に下で食べることにしていたから、運んで
もらうにしても一度降りて、頼まなくてはならないのだ。
体を起こすと、まだ辛かった。頭に手を当てつつ、薄い黒布を頭から被っただけで
部屋を出る。
伏し目がちに歩いていたら、階段の手前で人に衝突しそうになって思わず体が硬直
した。
「……大丈夫?」
事前に足元が見えたから、実際にはぶつかっていない。でも、ビクッと震えたのを
驚かせてしまったのだと思ったのか、男は声を掛けてきた。シエルは顔を上げて、相
手の顔を見て、心底安堵の溜め息をもらす。
イルランじゃなくてよかった。イルランと同じ目をしていなくて良かった、と。
「……ええ、平気よ」
「最近物騒なことが続いてるからねー。何もしないから安心して」
そう笑って一番奥の部屋に入っていったのは本当に人だったのだろうか?
少し輪郭が滲んで見えたのが自分の体調が原因なのか、分からなかった。
シエルは学院の側を通りたくないという理由で遠回りを繰り返していた。時間を見
計らって宿を出たのだが、一向に目的地に着く気配はない。
「遅れるわね、このままじゃ」
路地裏に入り込んでしまい、仕方なく地図を広げる。シエルの予想では次の交差点
を左折するハズなのだが、その交差点が見つからないのだ。
「人に聞くしかないかしら……」
見渡すと壁に黙々と記号らしきモノを書き殴っている男がいる。というか、他に人
が見あたらない。話しかけようと近づくが、一向にこちらに気付く気配もない。
「あの、道をお聞きしたいんですが」
声を掛けるが無反応。何やら大きな記号を書こうと腕を振り上げ、ぶつかりそうに
なる。
何でそんなに人にぶつかりそうになるのだろうか。イルランの呪いか何かなのか。
仕方なく心細い思いをしながらも、細い路地を抜け、ようやく目的地に到着した。
入ろうとして、中を覗き、店員が野菜炒めを持っていく先を見て唖然とする。
エンジュもアンジェラも見あたらない。見えたのは生粋のエルフ。
「……なんだっていうのよ」
やっぱり呪いという字が頭に浮かぶ。気付かれる前に逃げ出そうと振り返り、走り
出したところで大きな胸にぶつかった。見上げると、驚いた顔のエンジュ。
「シエル?」
店内からの只ならぬ視線を感じて、シエルはエンジュの後ろに身を隠した。
『 易 し い ギ ル ド 入 門 【16】』
~ 衝突注意 ~
場所 :ソフィニア
PC :エンジュ シエル
NPC:イルラン
****************************************************************
シエルは激しい頭痛に叩き起こされた。ズキズキと脈打つ音すら頭に響き、やたら
喉が渇いて仕方がない。体を起こそうにも頭が重く、グラグラしてしまう。
(えーと……ああ、酒を飲みながらエンジュの帰りを待とうとしたんだっけ)
霞がかかったような記憶を手繰るように引き出しつつ、ベッド脇の水差しに手を延
ばした。思うように体が動かない。まだ酔いが残っているとでも言うのだろうか。這
うようにベッド脇に近づき、少しだけ体を起こして、慎重に水差しとグラスを引き寄
せる。何とか大丈夫そうだ。水を注ぎ、喉を鳴らしながら飲んで、また水を注ぎ、三
杯ほど飲み干したところでようやく人心地付いたように再びベットへ身を投げ出し
た。
「ふぅ……」
天井を見上げ、ぅわんぅわんと止まない耳鳴りに眉根を寄せる。それもこれもみん
なあの馬鹿エルフが悪いのだ。きっとそうだ。八つ当たりでも何でもいい。話が通じ
ない相手は考えも推測できないから何をどう対処していいかが分からない。想像力を
越えた相手を前にして、他の人だったらどう対応するのだろう。例えばエンジュは?
「あら、起きたの?」
身支度を整えて顔でも洗ってきたのだろうか、丁度部屋に入ってきたエンジュに片
手を挙げて答える。まだ頭を上げるのが億劫だ。
「昨日、迷惑かけたわね……ぃたたたた」
顔だけ彼女に向けて声を掛けるが、こめかみがずきりと痛んで手を当てる。
「例の馬鹿エルフとやらに会ったら張り倒してやるから安心して寝てなさい」
エンジュが笑って頭を撫でた。
エンジュはシエルによく触れる。普段触られることに抵抗があるシエルが髪まで触
らせるのはエンジュくらいなモノなのだが、慣れなのか安心なのか、どちらにしても
居心地が良かった。
大人しく撫でられるがままでいたら、ふと自分が飼い慣らされた野生動物のような
気がしてきて可笑しくなった。不意に笑うシエルを覗き込んで、エンジュも笑った。
「少し元気が出た?
じゃあ私は魔術学院へ行ってベルベッドに会ってくるから」
ぽんぽんと二度ほど頭の上に手を置くと、エンジュはシエルから離れた。書き置き
でもして行くつもりだったのだろう、側に紙とペンも用意してあった。
「……昨日、何か変なこと言わなかったかしら」
シエルが痛む頭を抱えながら体を起こすと、エンジュは扉に手を掛け、肩を竦め
た。
「あまり話さないまま寝ちゃったからね。
あ、食事がてらアンジェラとも会うんだけど、気分が良くなったらいらっしゃい
よ。
ココに場所をメモしておくから」
ああ、彼女は知っているのだ。と、シエルは思う。
理由を問いただされるかと思っていたのに。エンジュが気にしないはずはないか
ら、聞いてこないということは、事情を多かれ少なかれ把握しているということなの
だろう。
ユークリッドがいなくてもしっかり情報を押さえている彼女は、やはりBランクの
冒険者なのだ。
「悪いわね、いろいろと」
「シエルの為なら」
その言葉とウインク一つ残して、エンジュは出かけていった。
そのまま少し寝て、起きて。シエルはぼーっと天井を見上げていた。
ここは「クラウンクロウ」という宿だ。シダに宿の名前を聞いた時の予想を裏切る
普通の宿。仕事で使いやすいだろうと思ったからか、それとも、予約なしで泊まれる
とのことだったからか。理由は忘れたが、実際に来るまでは冒険者の宿だと思ってい
たのだ。
値段も手頃で、立地条件も悪くない。普段ならもっと客がいるだろうに、ソフィニ
ア入りする直前に起こった連続殺人事件のせいで客が逃げたらしい。まあ、そのお陰
で宿が取れた、というのもあるのだが……あまり気分のいい事件ではないのは確かだ
った。
「お陰で静かなのは助かるけどね……」
頭痛が少し収まってきたせいか、随分気分は良くなった。横になるのも飽きたし、
何か食べておかなくてはなるまい。部屋まで食事を運んでもらうか、下で食事をとる
必要があるだろう。当初はエンジュと一緒に下で食べることにしていたから、運んで
もらうにしても一度降りて、頼まなくてはならないのだ。
体を起こすと、まだ辛かった。頭に手を当てつつ、薄い黒布を頭から被っただけで
部屋を出る。
伏し目がちに歩いていたら、階段の手前で人に衝突しそうになって思わず体が硬直
した。
「……大丈夫?」
事前に足元が見えたから、実際にはぶつかっていない。でも、ビクッと震えたのを
驚かせてしまったのだと思ったのか、男は声を掛けてきた。シエルは顔を上げて、相
手の顔を見て、心底安堵の溜め息をもらす。
イルランじゃなくてよかった。イルランと同じ目をしていなくて良かった、と。
「……ええ、平気よ」
「最近物騒なことが続いてるからねー。何もしないから安心して」
そう笑って一番奥の部屋に入っていったのは本当に人だったのだろうか?
少し輪郭が滲んで見えたのが自分の体調が原因なのか、分からなかった。
シエルは学院の側を通りたくないという理由で遠回りを繰り返していた。時間を見
計らって宿を出たのだが、一向に目的地に着く気配はない。
「遅れるわね、このままじゃ」
路地裏に入り込んでしまい、仕方なく地図を広げる。シエルの予想では次の交差点
を左折するハズなのだが、その交差点が見つからないのだ。
「人に聞くしかないかしら……」
見渡すと壁に黙々と記号らしきモノを書き殴っている男がいる。というか、他に人
が見あたらない。話しかけようと近づくが、一向にこちらに気付く気配もない。
「あの、道をお聞きしたいんですが」
声を掛けるが無反応。何やら大きな記号を書こうと腕を振り上げ、ぶつかりそうに
なる。
何でそんなに人にぶつかりそうになるのだろうか。イルランの呪いか何かなのか。
仕方なく心細い思いをしながらも、細い路地を抜け、ようやく目的地に到着した。
入ろうとして、中を覗き、店員が野菜炒めを持っていく先を見て唖然とする。
エンジュもアンジェラも見あたらない。見えたのは生粋のエルフ。
「……なんだっていうのよ」
やっぱり呪いという字が頭に浮かぶ。気付かれる前に逃げ出そうと振り返り、走り
出したところで大きな胸にぶつかった。見上げると、驚いた顔のエンジュ。
「シエル?」
店内からの只ならぬ視線を感じて、シエルはエンジュの後ろに身を隠した。
****************************************************************
『 易 し い ギ ル ド 入 門 【17】』
~ 解放 ~
場所 :ソフィニア
PC :エンジュ シエル 謎の金髪エルフ
NPC:ベルベッド アンジェラ パティー
※エンジュはベルベッドに対してアンジェラという偽名を使っている。
****************************************************************
「よく来たわね、アンジェラ」
そういってエンジュを出迎えたベルベッドの顔色は余り良くなかった。
パリスの父親との昨晩の話し合いは上手くいかなかったのだろう。
「お邪魔するわね」
研究室は狭く、机の上には山のような書物と剥製が交互に並んでいた。
辺りを見回して、パティーの居場所を探す。
赤い布に包まれ、鎖で何重にも縛られた四角い箱が、部屋の奥で異彩を放っ
ていた。
布には様々な文字が縫い描かれており、いかにも魔法がかかった箱だった。
「今、お茶を出すわね」
その箱を凝視するエンジュに背を向けて、ベルベッドがお茶を入れる支度を
始めた。
(とりあえず、脱出経路は後ろのドアと窓の二つ…か)
これからの作戦を練りながらエンジュは唸る。
正直言って、大雑把な自分にはこういう仕事は向いていないのだ。
普段ならユークリッドが全てを手配してくれるから楽なのだが。
しかも、場所は警備を普段よりも強化させた魔術学院の真っ只中。
あまり騒ぎを起すわけにもいかない。
「どうぞ。あの、アンジェラ・・・」
お茶をテーブルに置くと、ベルベッドは少し疲れた声で話を切り出した。
「ねぇ。どこに魔法生物がいるの?楽しみだわ!」
しかし、そんなベルベッドの話を無視してエンジュは声を上げた。
彼女がエンジュにパリスの事を相談したがっているのは一目で分かった。
しかし、目的のパティーが目の前にある今、彼女と友達ゴッコをするつもり
はなかった。
ベルベッドは気が乗らない様子だったが、立ち上がると例の箱へと足を進め
た。
「―― Open 」
ベルベッドの言葉に幾重にも巻かれていた鎖が解けた。
赤い布を取り払うと、中には空色の羽根をもつ一匹の鳥が入っている。
「これがパ…魔法生物なの?どーみても唯の鳥じゃない」
気の抜けたエンジュの声に、ベルベッドはクスリと笑う。
「魔法生物は人語を解し、主の武器となるのよ。もっとも重要な点は、親から
生まれるのではなく、魔法によって作り出される事なのよ」
「へぇ・・・」
人の言葉を理解する。
それは好都合だ。
檻の中に捕らわれた鳥、パティーはベルベッドに威嚇のポーズをとった。
その様子を鼻で笑ってベルベッドは言う。
「無駄よ。檻の中ではそうやって羽根を広げるだけが精一杯なんだから」
「喋らないの?」
「五月蝿いから喋れないようにしてるの」
「そうなの?でも、このままじゃこの鳥が魔法生物だって何一つ分からないじ
ゃない」
「あ、アンジェラ・・・?」
ベルベッドは困ったようにエンジュを見た。
「出してみてくれない?」
にっこりと笑顔のままエンジュは提案した。
「私も、貴女もいるし、大丈夫よ」
「・・・・・・」
ベルベッドは暫く沈黙していた。
彼女は慎重な性格だ。
さすがに無理だろうか。
笑顔を維持するのが苦痛になってきた頃、ベルベッドが折れた。
「いいわよ、でも気をつけてね」
分厚い手袋をはめると、ベルベッドは檻の中に手を入れた。
くちばしで攻撃しようとしたパティの頭を慣れた手つきでつかみ動きを封じ
る。
「よくもアタイをこんなところに閉じ込めたわね!!この性悪魔女めッ!!見
てなさいよ!!」
外に出た瞬間、パティーはもの凄い剣幕で喋り始めた。
「こんな薄暗い場所にアタイを押し込めて!!アタイの美しい青い羽根がくす
んじゃうじゃない!」
「うるさいから、さっさと戻すわよ」
「あ、ちょっとまって!」
「先生ちょっと質問が…」
2人と一羽の声に交じって新たな声が一つ加わった。
二人ははっとして動きを止める。
その瞬間を狙ったかのように、パティーは二人の手から逃れた。
「え!?」
呆然とする生徒の足元をパティーがすり抜けていった。
「貴女、追いかけて!!」
「あ、はい・・・」
エンジュに鋭くいわれ、少女は慌てて廊下へと姿をけした。
「アタシたちも一緒に」
「私に任せて。あなたはここで待ってて」
絶好のチャンスにエンジュはベルベッドを引き止める。
そのままパティーを捕まえて逃げてしまえばこっちの勝ちだ。
逡巡したのち、ベルベッドはエンジュの腕をつかんで言った。
「アンジェラ」
それは、普段のベルベッドの声とは全く異なる声だった。
低く、低く、不思議な発音でエンジュの名前を呼ぶ。
「あの鳥を捕まえたら、すぐに、戻ってきてちょうだいね」
「ええ」
頷くと、ベルベッドの手の力が弱まって、エンジュは逃げるように部屋を出
た。
「ふーっ。危ない危ない」
額に浮いた汗を拭いながら、エンジュは女生徒とパティーの姿を追った。
「本名だったらやばかったかも…」
さっきのは、魔法だ。
いや、呪いといったほうが近いかもしれない。
名前と言葉で人の行動を制約する術だ。
まるでベルベッドに縄で繋がれたような感覚に首の辺りをさすった。
「ま、まってぇ~」
少女のか細い声で、二人の居場所は直ぐに知れた。
パティーは頭をぐんと前に出し、地面を疾走していた。
飛ぶ気配はない。
(怪我をしているの…?)
それにしては、その速さは尋常でない。
廊下から庭に飛び出し先回りすると、エンジュは叫んだ。
「パティー!私の元へ、アンジェラの元へ帰りなさい!!」
「!」
パティーの顔が、クンッとこちらに向いた。
「乙女の細腕 絡めよ絡め 愛しき者に 柔らかなる束縛を 『蕾鎖』 」
エンジュが捕縛の魔法をかけ、すかさず少女が捕まえるが、パティーは暴れ
、その腕から逃れようとする。
「ちょっと!放しなさいってば!!」
「ありがとうね」
女生徒からパティーを受け取ると、エンジュは少女を見つめた。
見た目は美しいエルフのエンジュに、少女はぼーっとしたような表情になる
。
「あなた、ベルベッドの元に戻るの?」
「え…、その、私のせいでこの鳥が逃げちゃったんですから、謝らなきゃ」
素直な少女の言葉には好感が持てたが、エンジュがパティーを手に入れた事
が直ぐにばれるとまずい。
「でも彼女きっとすごく怖いわよ。私がかわりに謝ってあげるから今日は辞め
ておきなさいよ」
渋々ながら頷いて後を去ろうとした少女にエンジュが思い出したように尋ね
た。
「ところで、パリス・ヴァデラッシュって男が今何処にいるか分かるかしら」
*********
パリスは、友人のグレイスとお茶を飲んでいた。
しかし、彼はしきりに自分の懐中時計の針を気にし、席を立った。
「そろそろ授業の時間だ。すまないけれど失礼するよ」
「あぁ、サイズマンは時間に厳しいものね」
青年はすこし困ったような笑顔を返してパリスの部屋を後にした。
パリスもベルベッドもグレイスも、みな研究生という立場だったが彼らとパ
リスの学院生活は少々異なっていた。
パリスは彼らのように教授の助手をすることなく、研究に没頭できた。
それも父親という資金源があるからである。
これがベルベッドが彼をよく思わない理由でもあったのだが、元々のんきな
性格の彼は、一人窓の外を流れる雲を眺めながらぼんやりとお茶の時間をくつ
ろいでいた。
「…リス?」
遠慮がちに小さな声がかけられた。
「どなたですか?」
「わたしよ」
扉を開けると、そこには布でくるんだ何かを腕に持ったエンジュが立ってい
た。
「どうぞ入ってください」
人目を気にしているのか、入る前にさりげなく辺りを見回したエンジュは、
今度はパリスの言葉を待たずにどっかりとイスに背を預けた。
「その中身は…もしかして」
パリスの声に応えるように麻の布から青い鳥が転がり出た。
「アタイよアタイ!アンジェラの有能な相棒にして、世界一美しい青い羽を持
つパティーちゃんよ!!」
「でもアンタその羽飛べないじゃない」
「アタイの羽は鑑賞用なのよ!あんなじめじめした場所に押し込められてなき
ゃあんな小娘すぐにまいてやったのに。キィーーー!!」
「パティー…取り戻してくれたんですね」
騒がしい魔法生物を見下ろしながらパリスは薄く笑みを浮かべた。
(あら…?)
その笑みは、他に浮かべる表情がなく仕方なく作ったようなぎこちなさがあ
った。
「本当は今日夕方にアンジェラに会う予定だったけど、今すぐパティーを連れ
て彼女のところに行ってやりなさいよ。きっと心配してるわ」
「そうですね。有難うございます。報酬の方は…」
「この依頼を受けたのはシエルだからね。でも急ぐんならギルドを経由したら
どう?」
「ええ、そうします」
「じゃあ、私はもう帰るわね。ベルベッドが怪しむのも時間の問題だから、さ
っさと学院から逃げないと」
首の辺りを再びさすると、エンジュは立ち上がって出口へと向かった。
そして、扉を開ける前に振り返って一言。
「お幸せに!」
パリスも頷きながら彼女を見送った。
「さぁさぁ!あの魔女が来る前にとっととアタイたちも行くだわさ!あぁ、ア
ンジェラに会うのは何日ぶりかしら!」
パティーが興奮して羽根をばたつかせると、机に青い羽根が散った。
しかし、その羽は机に広がるより先に霧のように消えてなくなる。
不思議な生き物だ。
ベルベッドが研究したがるのもよく分かった。
パリスは白衣を脱いで上着を羽織ると、机の引き出しにしまってあった指輪
を取り出した。
指輪の内部には二人の名前が彫られている。
じっくりとその文字を眺めた後、ケースごとポケットにつっこんだ。
「そうだね。アンジェラに会いに行こう…」
*******
「やあ、アンジェラ」
「パリス?どうしたの?必要以上に近づかないって言ってたのに…」
アンジェラが滞在していたのはソフィニア郊外の一軒屋だった。
パリスの友人が所有する別荘だった。
彼女はここの管理人の手伝いをしながらパリスの連絡を待っていた。
「パティーを取り返したよ。」
「アンジェラ!!」
「パティー!!」
久しぶりの再会に、主と魔法生物は抱き合った。
「有難う、あなたが取り戻してくれたの?」
「いいや、エンジュさんだよ」
「あぁ、パリス!直ぐにでもソフィニアを立ちましょう?また邪魔が入らない
うちに!!」
アンジェラは身に着けていたエプロンを脱ぐと叫んだ。
閉鎖的な砂漠の民である彼女にはここでの生活は我慢の連続だったのだろう
。
「…じゃあ、君は今日にでもソフィニアを離れてくれ」
「あなたはどうするの…?」
パリスの言葉に、アンジェラが不安げに首を傾げた。
その仕草を愛しく感じながらも、パリスは首を振った。
「僕は、いけない」
「…どういうこと?」
「僕は…君といけない」
ポケットに入れた指輪のケースを触れながら、パリスは目をそらせて答えた
。
都合の悪い事を話すとき、目を合わせないのは彼の癖だった。
「僕は、シエルさんのことが好きになってしまったんだ」
*******
仕事を終えたエンジュは軽い足取りで約束の酒場へと向かっていた。
今頃アンジェラはパリスと一緒だろうから、この場には来ないかもしれない
が、シエルが来る可能性もあったし、誰も来なければ夜まで時間を潰せばいい
だろう。
店に入る前に、シエルが出てきた。
「シエル?」
彼女はエンジュの顔を見ると、ほっと表情を緩ませてエンジュの後ろに回っ
た。
「いるみたいなの」
誰が、とは言わない。
でも、だいたい想像がついて、エンジュはシエルを待たすと店の中へ入って
いった。
先日、エンジュが座っていた席に、金髪の男の姿があった――後姿でも一目
で分かる。
エルフだ。
しかし、近づいてみて、人違いだと分かった。
同じ金髪ではあったが、雰囲気も年齢も全く違った。
もっとも人間のシエルからみたら、エルフはみな同じに見えるのかもしれな
い。
かつて人間との生活を始めたときの自分がそうだったように。
「……?」
視線に気がついたのだろう、男が振り向きこちらを見た。
「ごめんなさい。エルフ違いだったみたい」
肩をすくめて見せると、男は直ぐに興味を失ったのか再び食事を始める。
外では珍しい同種族だったが、向こうも馴れ合う気いようだ。
「シエル…違ったわよ」
店からでて、彼女を探すが、いつの間にかシエルの姿は消えていた。
よほどあのエルフに不愉快な目にあったのだろう。
「さて、どーするか…」
シエルを探してソフィニアをさまようか、再び店に戻って来るか分からない
依頼人を待つかエンジュは店先で頭を悩ませた。
『 易 し い ギ ル ド 入 門 【17】』
~ 解放 ~
場所 :ソフィニア
PC :エンジュ シエル 謎の金髪エルフ
NPC:ベルベッド アンジェラ パティー
※エンジュはベルベッドに対してアンジェラという偽名を使っている。
****************************************************************
「よく来たわね、アンジェラ」
そういってエンジュを出迎えたベルベッドの顔色は余り良くなかった。
パリスの父親との昨晩の話し合いは上手くいかなかったのだろう。
「お邪魔するわね」
研究室は狭く、机の上には山のような書物と剥製が交互に並んでいた。
辺りを見回して、パティーの居場所を探す。
赤い布に包まれ、鎖で何重にも縛られた四角い箱が、部屋の奥で異彩を放っ
ていた。
布には様々な文字が縫い描かれており、いかにも魔法がかかった箱だった。
「今、お茶を出すわね」
その箱を凝視するエンジュに背を向けて、ベルベッドがお茶を入れる支度を
始めた。
(とりあえず、脱出経路は後ろのドアと窓の二つ…か)
これからの作戦を練りながらエンジュは唸る。
正直言って、大雑把な自分にはこういう仕事は向いていないのだ。
普段ならユークリッドが全てを手配してくれるから楽なのだが。
しかも、場所は警備を普段よりも強化させた魔術学院の真っ只中。
あまり騒ぎを起すわけにもいかない。
「どうぞ。あの、アンジェラ・・・」
お茶をテーブルに置くと、ベルベッドは少し疲れた声で話を切り出した。
「ねぇ。どこに魔法生物がいるの?楽しみだわ!」
しかし、そんなベルベッドの話を無視してエンジュは声を上げた。
彼女がエンジュにパリスの事を相談したがっているのは一目で分かった。
しかし、目的のパティーが目の前にある今、彼女と友達ゴッコをするつもり
はなかった。
ベルベッドは気が乗らない様子だったが、立ち上がると例の箱へと足を進め
た。
「―― Open 」
ベルベッドの言葉に幾重にも巻かれていた鎖が解けた。
赤い布を取り払うと、中には空色の羽根をもつ一匹の鳥が入っている。
「これがパ…魔法生物なの?どーみても唯の鳥じゃない」
気の抜けたエンジュの声に、ベルベッドはクスリと笑う。
「魔法生物は人語を解し、主の武器となるのよ。もっとも重要な点は、親から
生まれるのではなく、魔法によって作り出される事なのよ」
「へぇ・・・」
人の言葉を理解する。
それは好都合だ。
檻の中に捕らわれた鳥、パティーはベルベッドに威嚇のポーズをとった。
その様子を鼻で笑ってベルベッドは言う。
「無駄よ。檻の中ではそうやって羽根を広げるだけが精一杯なんだから」
「喋らないの?」
「五月蝿いから喋れないようにしてるの」
「そうなの?でも、このままじゃこの鳥が魔法生物だって何一つ分からないじ
ゃない」
「あ、アンジェラ・・・?」
ベルベッドは困ったようにエンジュを見た。
「出してみてくれない?」
にっこりと笑顔のままエンジュは提案した。
「私も、貴女もいるし、大丈夫よ」
「・・・・・・」
ベルベッドは暫く沈黙していた。
彼女は慎重な性格だ。
さすがに無理だろうか。
笑顔を維持するのが苦痛になってきた頃、ベルベッドが折れた。
「いいわよ、でも気をつけてね」
分厚い手袋をはめると、ベルベッドは檻の中に手を入れた。
くちばしで攻撃しようとしたパティの頭を慣れた手つきでつかみ動きを封じ
る。
「よくもアタイをこんなところに閉じ込めたわね!!この性悪魔女めッ!!見
てなさいよ!!」
外に出た瞬間、パティーはもの凄い剣幕で喋り始めた。
「こんな薄暗い場所にアタイを押し込めて!!アタイの美しい青い羽根がくす
んじゃうじゃない!」
「うるさいから、さっさと戻すわよ」
「あ、ちょっとまって!」
「先生ちょっと質問が…」
2人と一羽の声に交じって新たな声が一つ加わった。
二人ははっとして動きを止める。
その瞬間を狙ったかのように、パティーは二人の手から逃れた。
「え!?」
呆然とする生徒の足元をパティーがすり抜けていった。
「貴女、追いかけて!!」
「あ、はい・・・」
エンジュに鋭くいわれ、少女は慌てて廊下へと姿をけした。
「アタシたちも一緒に」
「私に任せて。あなたはここで待ってて」
絶好のチャンスにエンジュはベルベッドを引き止める。
そのままパティーを捕まえて逃げてしまえばこっちの勝ちだ。
逡巡したのち、ベルベッドはエンジュの腕をつかんで言った。
「アンジェラ」
それは、普段のベルベッドの声とは全く異なる声だった。
低く、低く、不思議な発音でエンジュの名前を呼ぶ。
「あの鳥を捕まえたら、すぐに、戻ってきてちょうだいね」
「ええ」
頷くと、ベルベッドの手の力が弱まって、エンジュは逃げるように部屋を出
た。
「ふーっ。危ない危ない」
額に浮いた汗を拭いながら、エンジュは女生徒とパティーの姿を追った。
「本名だったらやばかったかも…」
さっきのは、魔法だ。
いや、呪いといったほうが近いかもしれない。
名前と言葉で人の行動を制約する術だ。
まるでベルベッドに縄で繋がれたような感覚に首の辺りをさすった。
「ま、まってぇ~」
少女のか細い声で、二人の居場所は直ぐに知れた。
パティーは頭をぐんと前に出し、地面を疾走していた。
飛ぶ気配はない。
(怪我をしているの…?)
それにしては、その速さは尋常でない。
廊下から庭に飛び出し先回りすると、エンジュは叫んだ。
「パティー!私の元へ、アンジェラの元へ帰りなさい!!」
「!」
パティーの顔が、クンッとこちらに向いた。
「乙女の細腕 絡めよ絡め 愛しき者に 柔らかなる束縛を 『蕾鎖』 」
エンジュが捕縛の魔法をかけ、すかさず少女が捕まえるが、パティーは暴れ
、その腕から逃れようとする。
「ちょっと!放しなさいってば!!」
「ありがとうね」
女生徒からパティーを受け取ると、エンジュは少女を見つめた。
見た目は美しいエルフのエンジュに、少女はぼーっとしたような表情になる
。
「あなた、ベルベッドの元に戻るの?」
「え…、その、私のせいでこの鳥が逃げちゃったんですから、謝らなきゃ」
素直な少女の言葉には好感が持てたが、エンジュがパティーを手に入れた事
が直ぐにばれるとまずい。
「でも彼女きっとすごく怖いわよ。私がかわりに謝ってあげるから今日は辞め
ておきなさいよ」
渋々ながら頷いて後を去ろうとした少女にエンジュが思い出したように尋ね
た。
「ところで、パリス・ヴァデラッシュって男が今何処にいるか分かるかしら」
*********
パリスは、友人のグレイスとお茶を飲んでいた。
しかし、彼はしきりに自分の懐中時計の針を気にし、席を立った。
「そろそろ授業の時間だ。すまないけれど失礼するよ」
「あぁ、サイズマンは時間に厳しいものね」
青年はすこし困ったような笑顔を返してパリスの部屋を後にした。
パリスもベルベッドもグレイスも、みな研究生という立場だったが彼らとパ
リスの学院生活は少々異なっていた。
パリスは彼らのように教授の助手をすることなく、研究に没頭できた。
それも父親という資金源があるからである。
これがベルベッドが彼をよく思わない理由でもあったのだが、元々のんきな
性格の彼は、一人窓の外を流れる雲を眺めながらぼんやりとお茶の時間をくつ
ろいでいた。
「…リス?」
遠慮がちに小さな声がかけられた。
「どなたですか?」
「わたしよ」
扉を開けると、そこには布でくるんだ何かを腕に持ったエンジュが立ってい
た。
「どうぞ入ってください」
人目を気にしているのか、入る前にさりげなく辺りを見回したエンジュは、
今度はパリスの言葉を待たずにどっかりとイスに背を預けた。
「その中身は…もしかして」
パリスの声に応えるように麻の布から青い鳥が転がり出た。
「アタイよアタイ!アンジェラの有能な相棒にして、世界一美しい青い羽を持
つパティーちゃんよ!!」
「でもアンタその羽飛べないじゃない」
「アタイの羽は鑑賞用なのよ!あんなじめじめした場所に押し込められてなき
ゃあんな小娘すぐにまいてやったのに。キィーーー!!」
「パティー…取り戻してくれたんですね」
騒がしい魔法生物を見下ろしながらパリスは薄く笑みを浮かべた。
(あら…?)
その笑みは、他に浮かべる表情がなく仕方なく作ったようなぎこちなさがあ
った。
「本当は今日夕方にアンジェラに会う予定だったけど、今すぐパティーを連れ
て彼女のところに行ってやりなさいよ。きっと心配してるわ」
「そうですね。有難うございます。報酬の方は…」
「この依頼を受けたのはシエルだからね。でも急ぐんならギルドを経由したら
どう?」
「ええ、そうします」
「じゃあ、私はもう帰るわね。ベルベッドが怪しむのも時間の問題だから、さ
っさと学院から逃げないと」
首の辺りを再びさすると、エンジュは立ち上がって出口へと向かった。
そして、扉を開ける前に振り返って一言。
「お幸せに!」
パリスも頷きながら彼女を見送った。
「さぁさぁ!あの魔女が来る前にとっととアタイたちも行くだわさ!あぁ、ア
ンジェラに会うのは何日ぶりかしら!」
パティーが興奮して羽根をばたつかせると、机に青い羽根が散った。
しかし、その羽は机に広がるより先に霧のように消えてなくなる。
不思議な生き物だ。
ベルベッドが研究したがるのもよく分かった。
パリスは白衣を脱いで上着を羽織ると、机の引き出しにしまってあった指輪
を取り出した。
指輪の内部には二人の名前が彫られている。
じっくりとその文字を眺めた後、ケースごとポケットにつっこんだ。
「そうだね。アンジェラに会いに行こう…」
*******
「やあ、アンジェラ」
「パリス?どうしたの?必要以上に近づかないって言ってたのに…」
アンジェラが滞在していたのはソフィニア郊外の一軒屋だった。
パリスの友人が所有する別荘だった。
彼女はここの管理人の手伝いをしながらパリスの連絡を待っていた。
「パティーを取り返したよ。」
「アンジェラ!!」
「パティー!!」
久しぶりの再会に、主と魔法生物は抱き合った。
「有難う、あなたが取り戻してくれたの?」
「いいや、エンジュさんだよ」
「あぁ、パリス!直ぐにでもソフィニアを立ちましょう?また邪魔が入らない
うちに!!」
アンジェラは身に着けていたエプロンを脱ぐと叫んだ。
閉鎖的な砂漠の民である彼女にはここでの生活は我慢の連続だったのだろう
。
「…じゃあ、君は今日にでもソフィニアを離れてくれ」
「あなたはどうするの…?」
パリスの言葉に、アンジェラが不安げに首を傾げた。
その仕草を愛しく感じながらも、パリスは首を振った。
「僕は、いけない」
「…どういうこと?」
「僕は…君といけない」
ポケットに入れた指輪のケースを触れながら、パリスは目をそらせて答えた
。
都合の悪い事を話すとき、目を合わせないのは彼の癖だった。
「僕は、シエルさんのことが好きになってしまったんだ」
*******
仕事を終えたエンジュは軽い足取りで約束の酒場へと向かっていた。
今頃アンジェラはパリスと一緒だろうから、この場には来ないかもしれない
が、シエルが来る可能性もあったし、誰も来なければ夜まで時間を潰せばいい
だろう。
店に入る前に、シエルが出てきた。
「シエル?」
彼女はエンジュの顔を見ると、ほっと表情を緩ませてエンジュの後ろに回っ
た。
「いるみたいなの」
誰が、とは言わない。
でも、だいたい想像がついて、エンジュはシエルを待たすと店の中へ入って
いった。
先日、エンジュが座っていた席に、金髪の男の姿があった――後姿でも一目
で分かる。
エルフだ。
しかし、近づいてみて、人違いだと分かった。
同じ金髪ではあったが、雰囲気も年齢も全く違った。
もっとも人間のシエルからみたら、エルフはみな同じに見えるのかもしれな
い。
かつて人間との生活を始めたときの自分がそうだったように。
「……?」
視線に気がついたのだろう、男が振り向きこちらを見た。
「ごめんなさい。エルフ違いだったみたい」
肩をすくめて見せると、男は直ぐに興味を失ったのか再び食事を始める。
外では珍しい同種族だったが、向こうも馴れ合う気いようだ。
「シエル…違ったわよ」
店からでて、彼女を探すが、いつの間にかシエルの姿は消えていた。
よほどあのエルフに不愉快な目にあったのだろう。
「さて、どーするか…」
シエルを探してソフィニアをさまようか、再び店に戻って来るか分からない
依頼人を待つかエンジュは店先で頭を悩ませた。