PC:ヴィルフリード、リタルード
NPC:ハンナ、マリ(『甘味処』のおかみ)
場所:エイド(ヴァルカン地方)
-------------------------------------------------
「……彼女か?」
物置を空けた時の、ヴィルの第一声にリタは、珍しく睨んできた。ちょっとし
た冗談なのだが、それすらも許されないらしい。
逆にちょいと年をくった彼女の方は、ニッコリ笑っていた。嬉しい、とか楽し
い、とかそのような類の笑みではなく、「リタが嫌がっているのを面白がってい
る」といったような、子供が時折見せるような笑い方に見えた。
「一応、なんか来てた人は、お引取りいただいたけど」
そう言って、リタに手を差し伸べようとすると、そのカノジョの方がその手を
握ってきた。アンタじゃないんだが、と勿論そんな子供じみたことは言うわけも
なく、しょうがないので、引っ張って起き上がらせる。
「ありがとうございます。ハンナといいます。
あなたが、割引で仕事を引き受けてくださる冒険者ギルドの方?」
自力で立ち上がり、お尻をパンパンとはたいているリタに、ヴィルは困惑の表
情で問う。
「誰?」
「ハンナ。カノジョじゃないよ。ってか、ヴィルさん、”カノジョ”の発音がおっ
さん臭いよ」
さっきの発言が未だに気に触っているらしい。ヴィルの嫌いなキーワードをト
ゲを含んで使ってくるくらいに。……機嫌が悪いようだ。
「悪かったって。な? おっさんの軽いジョークだよ。
ってか、そうじゃなくて。ってか名前は今本人から聞いたし」
一呼吸して、それでリタは、自分の中の何かを入れ替えたらしい。
「……で。どこまで聞いてるの?」
「多分、全然」
「マリさん、少し、迷惑かけるかもしれないけど……もう迷惑かけちゃってるけ
ど。中、少しいい?」
マリは気持ちのよい承諾をすると、リタを案内する。それについていくリタの
背中に、ヴィルはもうひとつ、気にかかることを聞いた。
「っつーか。割引ってなんの話だ」
「つまりは、と。
追いかけられている、と。んで、追いかけられてるのが、こちらの」
顔を向けると、近距離だというのにハンナは笑顔で手を小さく振ってくれた。
「えーと。ハンナさん」
そこで、お茶を一口飲んで、あらためて、状況の整理を続ける。
「で。こちらのハンナさんは、引き受けないと仕事内容を話してくれない、と。
しかも、割引で引き受けろ、と」
笑顔で、こくりとうなずくハンナ。
ごほん、と咳払いをして、精神の安定をはかる。
「ちょいと。リタ君。こっちに来ようか」
さほど離れていない部屋の片隅に、リタをちょいちょいと手招きして呼び寄せ
る。リタは「はーい」と言いながら、ぱたぱたと足音を立てながら来てくれた。
「えーと。仕事の内容を知れない状態で値段の相場の検討もつかない状態で、さ
らに割引を要求するって、どういう神経してるのカナ? あの淑女は? いくら
リタ君の紹介だとはいえ、限度があるってこと、分かるよね?」
「えー? 冒険者って、なんかいかにも!って感じの男に、いかにも!って感じ
で駆け込んできた女性を、これまたいかにも!って感じでワケも事情も聞かず助
けて、最後にはいかにも!って感じで、『報酬はあなたの笑顔ですよ……』とか言
う職業じゃないの?」
「俺はそんな同業者、今までこのかた一人も見たことが無いんだが」
「ロマンが無い職業なのねー」
狭い部屋で、さして声のトーンを落としもしていなかったので――部屋の隅に呼
んだのは単なるポーズだ――、まる聞こえだった会話に、ハンナが加わった。
「ロマンで食ってけるか! ってことで、断る!」
途端に。ハンナの顔が少しだけ、歪んだ。余裕があると強がっている人間の、
皮がぺらりとはがれ、少しだけ覗かれた、本当に困った顔。
すぐにそのはがれた皮は張りなおされ、「あら、そ」とハンナは笑顔を作った。
――見なければよかった。ヴィルは後悔した。
あぁ、女のこういう部分が、本当に卑怯だ。だが、たまらなくそういう部分が
かわいいとさえ思う自分もいる。
「……冒険者ギルドに割引制度は、基本的に無い。ただ、割安で済ませようという
のならば、ギルドを介さずに冒険者に直接頼むことだ」
ハンナは、何を言われているのか、わからない顔をしている。
たとえ、今さっきのが演技だったとしても、その演技力に免じてやる。チク
ショウ。俺、女に騙されやすいからなぁ。
心の中でそう愚痴りながら、言葉を続けた。
「……あんたの頼みごとの内容を聞かない限り、俺で成功するかというのもわから
ないし、他の同業者を紹介することもできない。
金だけならば、必要ないと割り切ることもできるが、縁がからむ仕事には、
『信用』っつーもんが必要だ。他のヤツに紹介するとしても、そいつは俺を『信
用』してくれるから話を聞いてくれる。だから、俺自身が信用できないものなん
かを回すことなんか絶対にしちゃいけない。それに、そいつがあるからこそ、
こっちも覚悟っつーもんができる。
俺たちは、信用も覚悟もできないことに、命は賭けれない」
あぁ。言ってしまうのか、俺? 絶対めんどくさいことになるぞ? 心の中
で、ご親切にも冷静な部分の自分が忠告をしてくる。あぁ、チクショウ、わかっ
ている。わかっているとも。
けどなぁ、ここまできたら、かっこつけさせてくれよ。
「このラインだけは、譲れない。
あとは、あんた次第だ。ハンナさん」
NPC:ハンナ、マリ(『甘味処』のおかみ)
場所:エイド(ヴァルカン地方)
-------------------------------------------------
「……彼女か?」
物置を空けた時の、ヴィルの第一声にリタは、珍しく睨んできた。ちょっとし
た冗談なのだが、それすらも許されないらしい。
逆にちょいと年をくった彼女の方は、ニッコリ笑っていた。嬉しい、とか楽し
い、とかそのような類の笑みではなく、「リタが嫌がっているのを面白がってい
る」といったような、子供が時折見せるような笑い方に見えた。
「一応、なんか来てた人は、お引取りいただいたけど」
そう言って、リタに手を差し伸べようとすると、そのカノジョの方がその手を
握ってきた。アンタじゃないんだが、と勿論そんな子供じみたことは言うわけも
なく、しょうがないので、引っ張って起き上がらせる。
「ありがとうございます。ハンナといいます。
あなたが、割引で仕事を引き受けてくださる冒険者ギルドの方?」
自力で立ち上がり、お尻をパンパンとはたいているリタに、ヴィルは困惑の表
情で問う。
「誰?」
「ハンナ。カノジョじゃないよ。ってか、ヴィルさん、”カノジョ”の発音がおっ
さん臭いよ」
さっきの発言が未だに気に触っているらしい。ヴィルの嫌いなキーワードをト
ゲを含んで使ってくるくらいに。……機嫌が悪いようだ。
「悪かったって。な? おっさんの軽いジョークだよ。
ってか、そうじゃなくて。ってか名前は今本人から聞いたし」
一呼吸して、それでリタは、自分の中の何かを入れ替えたらしい。
「……で。どこまで聞いてるの?」
「多分、全然」
「マリさん、少し、迷惑かけるかもしれないけど……もう迷惑かけちゃってるけ
ど。中、少しいい?」
マリは気持ちのよい承諾をすると、リタを案内する。それについていくリタの
背中に、ヴィルはもうひとつ、気にかかることを聞いた。
「っつーか。割引ってなんの話だ」
「つまりは、と。
追いかけられている、と。んで、追いかけられてるのが、こちらの」
顔を向けると、近距離だというのにハンナは笑顔で手を小さく振ってくれた。
「えーと。ハンナさん」
そこで、お茶を一口飲んで、あらためて、状況の整理を続ける。
「で。こちらのハンナさんは、引き受けないと仕事内容を話してくれない、と。
しかも、割引で引き受けろ、と」
笑顔で、こくりとうなずくハンナ。
ごほん、と咳払いをして、精神の安定をはかる。
「ちょいと。リタ君。こっちに来ようか」
さほど離れていない部屋の片隅に、リタをちょいちょいと手招きして呼び寄せ
る。リタは「はーい」と言いながら、ぱたぱたと足音を立てながら来てくれた。
「えーと。仕事の内容を知れない状態で値段の相場の検討もつかない状態で、さ
らに割引を要求するって、どういう神経してるのカナ? あの淑女は? いくら
リタ君の紹介だとはいえ、限度があるってこと、分かるよね?」
「えー? 冒険者って、なんかいかにも!って感じの男に、いかにも!って感じ
で駆け込んできた女性を、これまたいかにも!って感じでワケも事情も聞かず助
けて、最後にはいかにも!って感じで、『報酬はあなたの笑顔ですよ……』とか言
う職業じゃないの?」
「俺はそんな同業者、今までこのかた一人も見たことが無いんだが」
「ロマンが無い職業なのねー」
狭い部屋で、さして声のトーンを落としもしていなかったので――部屋の隅に呼
んだのは単なるポーズだ――、まる聞こえだった会話に、ハンナが加わった。
「ロマンで食ってけるか! ってことで、断る!」
途端に。ハンナの顔が少しだけ、歪んだ。余裕があると強がっている人間の、
皮がぺらりとはがれ、少しだけ覗かれた、本当に困った顔。
すぐにそのはがれた皮は張りなおされ、「あら、そ」とハンナは笑顔を作った。
――見なければよかった。ヴィルは後悔した。
あぁ、女のこういう部分が、本当に卑怯だ。だが、たまらなくそういう部分が
かわいいとさえ思う自分もいる。
「……冒険者ギルドに割引制度は、基本的に無い。ただ、割安で済ませようという
のならば、ギルドを介さずに冒険者に直接頼むことだ」
ハンナは、何を言われているのか、わからない顔をしている。
たとえ、今さっきのが演技だったとしても、その演技力に免じてやる。チク
ショウ。俺、女に騙されやすいからなぁ。
心の中でそう愚痴りながら、言葉を続けた。
「……あんたの頼みごとの内容を聞かない限り、俺で成功するかというのもわから
ないし、他の同業者を紹介することもできない。
金だけならば、必要ないと割り切ることもできるが、縁がからむ仕事には、
『信用』っつーもんが必要だ。他のヤツに紹介するとしても、そいつは俺を『信
用』してくれるから話を聞いてくれる。だから、俺自身が信用できないものなん
かを回すことなんか絶対にしちゃいけない。それに、そいつがあるからこそ、
こっちも覚悟っつーもんができる。
俺たちは、信用も覚悟もできないことに、命は賭けれない」
あぁ。言ってしまうのか、俺? 絶対めんどくさいことになるぞ? 心の中
で、ご親切にも冷静な部分の自分が忠告をしてくる。あぁ、チクショウ、わかっ
ている。わかっているとも。
けどなぁ、ここまできたら、かっこつけさせてくれよ。
「このラインだけは、譲れない。
あとは、あんた次第だ。ハンナさん」
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PC:ヴィルフリード、リタルード
NPC:ハンナ、マリ(『甘味処』のおかみ)
場所:エイド(ヴァルカン地方)
-------------------------------------------------
「まぁ、一言でいうと痴情のもつれなんだけどね。ちょっと話が大きいけど」
「うわぁ、タチ悪いなぁ」
リタルードが素直な感想を言うと、ヴィルフリードが「おい」と片手を上げた。
「お前、もしかして全然話聞いてないのか?」
「うん、あんまり。やばそうって雰囲気だけしか知らない」
「それなのにここまで一緒に彼女と行動してきたと?」
「うん。ていうか僕、自分から聞いてないし」
リタルードが淡々と受け答えると、ヴィルフリードは茶を啜り、それからしみじみ
ため息をついた。
「…わっかんねぇなぁ」
「そうよねー。この子嫌よねー。
基本的に情が薄いくせに、礼に適った好意は非常識な場面でもちゃんと
示すあたりが嫌よね」
「ハンナ、話ずれてるから」
リタルードがにっこりと、冷え切った声で言う。
「ほら、これも一種の情報提供?」
「いらないから。ほんと無駄だから」
「3人の間で共通する話題で親睦を深めようと思ったのに」
「えーと、話。話続けてくれないか?」
いくらか凄みを利かせた声で、ヴィルフリードが割って入った。
年齢と冒険者という職業に裏付けられた重みに、さすがにリタルードとハンナは口
をつぐむ。
気まずい沈黙が落ち、自然とハンナの話を待つ格好となる。二人にみつめられて、
ハンナは脚を組み直し、長い髪を掻き揚げる。
コンコン。
「マリさん?」
リタが声をかける。細めに外開きのドアが開き、女主人が顔を覗かせた。手には木
でできた器の載った盆を持っている。
「あの、お話の途中でどうかとも思ったんだけど。お茶請けをお出ししてなかったと
思って」
「あ、ありがとう」
リタルードが駆け寄って、器を受け取る。
「お茶のおかわりが欲しくなったら、こっちに声をかけてね」
「うん。ごめんね、迷惑かけて」
「気にしないでー。そのへんはセーラちゃんの貸しにしとくからぁ」
不穏なセリフにリタルードが返しを思いつく前に、マリはドアを静かに閉めてし
まった。リタルードの手元には、上に扁桃を乗せた薄い焼き菓子の入った器が残る。
「え、ええと。食べる?」
器をテーブルの上に置く。
それに目を落として、ハンナが低いトーンで言う。
「セーラって誰」
「それを説明しだすと本が一冊は書けるから、今はやめといたほうがいいよ」
「冗談よ。というか、冗談言ってる場合じゃないわよね。
ごめんなさいね、おじさま。あの、マリさんって人?
まるで見計らったようなタイミグよね。
すごく勘がいいのね。それとも運がいいのかしら」
ハンナは焼き菓子を一枚摘む。整えられた長い爪には、色は塗られていない。菓子
を目の高さに持ち上げて----つまりは誰とも目を合わさないようにして、呟いた。
「まるで姉さんみたい」
その言葉は、すとんとテーブルの真ん中に落下したように、静かにしかし澄み切っ
て響く。
ハンナは、膝の上で手を組んで、まっすぐにヴィルブリードを見つめた。
「おじさま、ちゃんと話します。
私も何もどうしたらいいのかきちんとわかっていないから、話ながら整理できると
思いますし」
「ん、あぁ。そうしてくれりゃあ、ありがたいな」
女性の、場の空気を身にまとうような演技がかった言動は不得手なのだろう。真っ
直ぐにハンナに見つめられてヴィルフリードが居心地わるそうに言った。
「私の姉は、言ってみればまぁ、占い師なの。
この辺りじゃわりと有名で----まぁ、まっとうに生きていたら、名前なんか耳にも
しないような類の客層だけど」
「つまり、裏の世界の重役ばっかあいてにしてるってことか?」
「ええ。それほどたくさん仕事をしてるわけじゃないし、名を売ろうとしてるわけで
もないから、子どもの頃から知ってる人だけを相手にしてるって感じね。
というか、占い師って言っても、適切なときに適切な予言を出せるタイプの人じゃ
ないから、商業用の占いができないのよ」
「よければ、そのお姉さんの名前を教えてくれないか?
一応、このあたりの事情はそれなりに知ってる。
聞き覚えがあるかも知れねぇ」
「ええと…」
ハンナが、何故かリタルードの方を伺い見る。
ぼそぼそと飲み食いしていたリタルードは、俯いたままに言った。
「イレーヌ」
占い師というには、ありふれた短い名前だ。
「んー…、聞き覚えねぇな」
「そのあたりは気をつけてるし気をつけてもらってるもの。
ギルド関連とはほとんど関係なく生きてるしね、私たち」
「そういうもんなのか?」
「ええ、魔法使いとも守備範囲が違うから。私たち、女って付加価値がなかったらど
うにもならない生活してるもの。あ、お茶冷めちゃったわね。仕方ないか」
生地には薄く砂糖の衣がかかっているが、アーモンドは塩味を強くあしらってある
この菓子は、口の中が酷く乾く。ハンナは口の中を湿らせて、話を続ける。
「でもまぁ。それなりに人脈ってものもあってね。
何年も二人だけで生活してたんだけど、身柄を引き取るから、自分のためだけに役
に立ってくれって人が現れたの。
今までそういう人はずっと断って来たんだけど…。
私も姉さんももうそんなに若々しくもないしね。お誘いがあるうちに受けとこうっ
て話になって…。えと、リタ?」
若くはない----といいながらも、その目元はまだ肌が張っているし、手だってそれ
ほど荒れていない。ハンナの姿を観察していたら、話を降られ、ついリタルードは彼
女にきつい眼差しを向ける。
「何?」
「姉さんが媒介に使ってたもの覚えてるわよね」
「媒介っていうか、あの人の場合、頭の中に入ってくるものを浄化してもらうためで
しょ。
加工した水晶の玉、3つ使ってある髪飾りだよね」
「そうそう。3つのうち、2つは補助のための石で、要になる石は一つなんだけど…
…」
そのとき、ちらりとハンナの表情が揺らいだようにリタルードには見えた。
続く発言に合わせてどのようなポーズを取るべきか、戸惑いと苛立ちと不安が合い
混ぜになったろうな色の空気。
それは一瞬のことで、ハンナは自分の腹に手の平を当てて、きゅっと口角を吊り上
げた。
「今、それが『ココ』にあるのよねぇ」
するすると服の上から、ハンナの手が平らな自分の腹部を撫でる。
その言葉が染み渡るまでに、約数秒。
「…………………………なんで?」
先ほどとは違う意味で凍りついた空気に耐え切れず、リタルードが真っ当な問いを
発する。
「だから、痴情の縺れだって」
「何? 何がどうどれくらい縺れたの?」
核心をまった口にしないハンナに、リタルードが立ち上がって言う。
その姿勢は咽元を掴む直前のようにも見える。
「言えない」
口元は笑っていても、眼に今までに無かった本気を宿らせてハンナが返した。
その眼光に、リタルードはたじろぐ。が、同じように強い眼を返す。
「それは、『言わない』じゃなくて、『言えない』なのか?」
ヴィルフリードの問いで、二人の絡みが緩んだ。
「ええ」
ハンナが首肯する。
「『女として』ではなく、ある程度強い力を持った存在----姉さんのことですけど、
に長年仕えていた人間として、言えないってことです」
「あー…、じゃあとりあえず話続けてくれや。とりあえず最後まで、な。
痴話喧嘩されると話が終わらん」
「痴話喧嘩って」
「ハイハイハイハイ、続き。続きね」
またもや食いつきそうになったリタルードを、ハンナが適当にあしらう。
リタルードはむぅと黙る。が、内心では気持ちが少し軽くなる。
3人という人数はこういうときにありがたいのだ。
一対一より、きちんと普段自分が生きている世界に属することができる。毎日毎
日、泣いても笑っても、寝たり食べたり排泄したりする世界。
感覚の一致しすぎる人間が二人でいると、その世界から遊離したファンタジーに没
入してしまう。それは文学的価値はあるのかもしれないが、ネガティブな側面しか持
たず閉じた性質のものである場合、危険だし不毛だ。
「それでまぁ、そういうことがあったから、監禁されてたんだけどさぁ。
こういうのって、私もびっくりしたんだけど、出てこないのね。
もしかして体内に入った時点で別のものに変化してるのかしら」
「自覚できる体調の変化はないの?」
「今のところないわ。で、隙を見て逃げ出してきてここにいるわけよ」
『隙を見て』というが、こういうことに明らかに不慣れに見えるハンナがどこをど
うやって隙をついたのか。その疑問が二人の顔にありありと浮かんだのだろう。ハン
ナは付け加える。
「まぁ、姉さんが手伝ってくれたんだけどね。
追っ手が明らかにぬるいのも、手回してくれてるんでしょう。
私なんか姉さんのおまけだから、そんなに本気だして探してないのでしょうけど
ね」
そのような騒動があったというのに、脱走を手助けするとは、姉とはどのような関
係なのか。また、重要な魔道具と思われる水晶がそんな状態なのに、姉と離れていて
いいのか。
細かいということも出来ない本筋に関わる疑問は浮かぶが、とりあえずその種の問
いは、ハンナの話が終わるまで封印する。
「おじさまに、依頼します。
ヴァルカン地方、いえ、エイドの街を離れるまででいいです。護衛をお願いします
わ。ある程度離れてしまえばもう追われることはないでしょうし、いくら相手が本気
でなさそうと言っても、私一人では逃げ切れそうにありません。
私が連れ戻されるのは、姉さんも本意ではないでしょうし、戻るわけにはいかない
んです」
一言一言、はっきりと発音するハンナの顔からは、先ほどまでの塗り固められたよ
うな笑みは消え、真摯にヴィルフリードを見つめていた。
NPC:ハンナ、マリ(『甘味処』のおかみ)
場所:エイド(ヴァルカン地方)
-------------------------------------------------
「まぁ、一言でいうと痴情のもつれなんだけどね。ちょっと話が大きいけど」
「うわぁ、タチ悪いなぁ」
リタルードが素直な感想を言うと、ヴィルフリードが「おい」と片手を上げた。
「お前、もしかして全然話聞いてないのか?」
「うん、あんまり。やばそうって雰囲気だけしか知らない」
「それなのにここまで一緒に彼女と行動してきたと?」
「うん。ていうか僕、自分から聞いてないし」
リタルードが淡々と受け答えると、ヴィルフリードは茶を啜り、それからしみじみ
ため息をついた。
「…わっかんねぇなぁ」
「そうよねー。この子嫌よねー。
基本的に情が薄いくせに、礼に適った好意は非常識な場面でもちゃんと
示すあたりが嫌よね」
「ハンナ、話ずれてるから」
リタルードがにっこりと、冷え切った声で言う。
「ほら、これも一種の情報提供?」
「いらないから。ほんと無駄だから」
「3人の間で共通する話題で親睦を深めようと思ったのに」
「えーと、話。話続けてくれないか?」
いくらか凄みを利かせた声で、ヴィルフリードが割って入った。
年齢と冒険者という職業に裏付けられた重みに、さすがにリタルードとハンナは口
をつぐむ。
気まずい沈黙が落ち、自然とハンナの話を待つ格好となる。二人にみつめられて、
ハンナは脚を組み直し、長い髪を掻き揚げる。
コンコン。
「マリさん?」
リタが声をかける。細めに外開きのドアが開き、女主人が顔を覗かせた。手には木
でできた器の載った盆を持っている。
「あの、お話の途中でどうかとも思ったんだけど。お茶請けをお出ししてなかったと
思って」
「あ、ありがとう」
リタルードが駆け寄って、器を受け取る。
「お茶のおかわりが欲しくなったら、こっちに声をかけてね」
「うん。ごめんね、迷惑かけて」
「気にしないでー。そのへんはセーラちゃんの貸しにしとくからぁ」
不穏なセリフにリタルードが返しを思いつく前に、マリはドアを静かに閉めてし
まった。リタルードの手元には、上に扁桃を乗せた薄い焼き菓子の入った器が残る。
「え、ええと。食べる?」
器をテーブルの上に置く。
それに目を落として、ハンナが低いトーンで言う。
「セーラって誰」
「それを説明しだすと本が一冊は書けるから、今はやめといたほうがいいよ」
「冗談よ。というか、冗談言ってる場合じゃないわよね。
ごめんなさいね、おじさま。あの、マリさんって人?
まるで見計らったようなタイミグよね。
すごく勘がいいのね。それとも運がいいのかしら」
ハンナは焼き菓子を一枚摘む。整えられた長い爪には、色は塗られていない。菓子
を目の高さに持ち上げて----つまりは誰とも目を合わさないようにして、呟いた。
「まるで姉さんみたい」
その言葉は、すとんとテーブルの真ん中に落下したように、静かにしかし澄み切っ
て響く。
ハンナは、膝の上で手を組んで、まっすぐにヴィルブリードを見つめた。
「おじさま、ちゃんと話します。
私も何もどうしたらいいのかきちんとわかっていないから、話ながら整理できると
思いますし」
「ん、あぁ。そうしてくれりゃあ、ありがたいな」
女性の、場の空気を身にまとうような演技がかった言動は不得手なのだろう。真っ
直ぐにハンナに見つめられてヴィルフリードが居心地わるそうに言った。
「私の姉は、言ってみればまぁ、占い師なの。
この辺りじゃわりと有名で----まぁ、まっとうに生きていたら、名前なんか耳にも
しないような類の客層だけど」
「つまり、裏の世界の重役ばっかあいてにしてるってことか?」
「ええ。それほどたくさん仕事をしてるわけじゃないし、名を売ろうとしてるわけで
もないから、子どもの頃から知ってる人だけを相手にしてるって感じね。
というか、占い師って言っても、適切なときに適切な予言を出せるタイプの人じゃ
ないから、商業用の占いができないのよ」
「よければ、そのお姉さんの名前を教えてくれないか?
一応、このあたりの事情はそれなりに知ってる。
聞き覚えがあるかも知れねぇ」
「ええと…」
ハンナが、何故かリタルードの方を伺い見る。
ぼそぼそと飲み食いしていたリタルードは、俯いたままに言った。
「イレーヌ」
占い師というには、ありふれた短い名前だ。
「んー…、聞き覚えねぇな」
「そのあたりは気をつけてるし気をつけてもらってるもの。
ギルド関連とはほとんど関係なく生きてるしね、私たち」
「そういうもんなのか?」
「ええ、魔法使いとも守備範囲が違うから。私たち、女って付加価値がなかったらど
うにもならない生活してるもの。あ、お茶冷めちゃったわね。仕方ないか」
生地には薄く砂糖の衣がかかっているが、アーモンドは塩味を強くあしらってある
この菓子は、口の中が酷く乾く。ハンナは口の中を湿らせて、話を続ける。
「でもまぁ。それなりに人脈ってものもあってね。
何年も二人だけで生活してたんだけど、身柄を引き取るから、自分のためだけに役
に立ってくれって人が現れたの。
今までそういう人はずっと断って来たんだけど…。
私も姉さんももうそんなに若々しくもないしね。お誘いがあるうちに受けとこうっ
て話になって…。えと、リタ?」
若くはない----といいながらも、その目元はまだ肌が張っているし、手だってそれ
ほど荒れていない。ハンナの姿を観察していたら、話を降られ、ついリタルードは彼
女にきつい眼差しを向ける。
「何?」
「姉さんが媒介に使ってたもの覚えてるわよね」
「媒介っていうか、あの人の場合、頭の中に入ってくるものを浄化してもらうためで
しょ。
加工した水晶の玉、3つ使ってある髪飾りだよね」
「そうそう。3つのうち、2つは補助のための石で、要になる石は一つなんだけど…
…」
そのとき、ちらりとハンナの表情が揺らいだようにリタルードには見えた。
続く発言に合わせてどのようなポーズを取るべきか、戸惑いと苛立ちと不安が合い
混ぜになったろうな色の空気。
それは一瞬のことで、ハンナは自分の腹に手の平を当てて、きゅっと口角を吊り上
げた。
「今、それが『ココ』にあるのよねぇ」
するすると服の上から、ハンナの手が平らな自分の腹部を撫でる。
その言葉が染み渡るまでに、約数秒。
「…………………………なんで?」
先ほどとは違う意味で凍りついた空気に耐え切れず、リタルードが真っ当な問いを
発する。
「だから、痴情の縺れだって」
「何? 何がどうどれくらい縺れたの?」
核心をまった口にしないハンナに、リタルードが立ち上がって言う。
その姿勢は咽元を掴む直前のようにも見える。
「言えない」
口元は笑っていても、眼に今までに無かった本気を宿らせてハンナが返した。
その眼光に、リタルードはたじろぐ。が、同じように強い眼を返す。
「それは、『言わない』じゃなくて、『言えない』なのか?」
ヴィルフリードの問いで、二人の絡みが緩んだ。
「ええ」
ハンナが首肯する。
「『女として』ではなく、ある程度強い力を持った存在----姉さんのことですけど、
に長年仕えていた人間として、言えないってことです」
「あー…、じゃあとりあえず話続けてくれや。とりあえず最後まで、な。
痴話喧嘩されると話が終わらん」
「痴話喧嘩って」
「ハイハイハイハイ、続き。続きね」
またもや食いつきそうになったリタルードを、ハンナが適当にあしらう。
リタルードはむぅと黙る。が、内心では気持ちが少し軽くなる。
3人という人数はこういうときにありがたいのだ。
一対一より、きちんと普段自分が生きている世界に属することができる。毎日毎
日、泣いても笑っても、寝たり食べたり排泄したりする世界。
感覚の一致しすぎる人間が二人でいると、その世界から遊離したファンタジーに没
入してしまう。それは文学的価値はあるのかもしれないが、ネガティブな側面しか持
たず閉じた性質のものである場合、危険だし不毛だ。
「それでまぁ、そういうことがあったから、監禁されてたんだけどさぁ。
こういうのって、私もびっくりしたんだけど、出てこないのね。
もしかして体内に入った時点で別のものに変化してるのかしら」
「自覚できる体調の変化はないの?」
「今のところないわ。で、隙を見て逃げ出してきてここにいるわけよ」
『隙を見て』というが、こういうことに明らかに不慣れに見えるハンナがどこをど
うやって隙をついたのか。その疑問が二人の顔にありありと浮かんだのだろう。ハン
ナは付け加える。
「まぁ、姉さんが手伝ってくれたんだけどね。
追っ手が明らかにぬるいのも、手回してくれてるんでしょう。
私なんか姉さんのおまけだから、そんなに本気だして探してないのでしょうけど
ね」
そのような騒動があったというのに、脱走を手助けするとは、姉とはどのような関
係なのか。また、重要な魔道具と思われる水晶がそんな状態なのに、姉と離れていて
いいのか。
細かいということも出来ない本筋に関わる疑問は浮かぶが、とりあえずその種の問
いは、ハンナの話が終わるまで封印する。
「おじさまに、依頼します。
ヴァルカン地方、いえ、エイドの街を離れるまででいいです。護衛をお願いします
わ。ある程度離れてしまえばもう追われることはないでしょうし、いくら相手が本気
でなさそうと言っても、私一人では逃げ切れそうにありません。
私が連れ戻されるのは、姉さんも本意ではないでしょうし、戻るわけにはいかない
んです」
一言一言、はっきりと発音するハンナの顔からは、先ほどまでの塗り固められたよ
うな笑みは消え、真摯にヴィルフリードを見つめていた。
PC:ヴィルフリード、リタルード
NPC:ハンナ、マリ(『甘味処』のおかみ)
場所:エイド(ヴァルカン地方)
-------------------------------------------------
昼食の匂いがあちらこちらからただよってくる。
あぁ、あそこは豆のスープだ。鶏肉のスパイスソテーだ。お、あの家は、俺の
好物の豚の煮込みだ。
気を抜いてはいけないと分かっていても、鼻が思わずヒクヒと動いてしまう。
人通り多い大通りから離れた住宅街は、昼食時だと完全に人気が無い。
その道を選んだのは、相手に気づかれない為ではない。こっちが気づきやすく
するためだ。
下手糞め。それでうまく隠れているつもりか。
ヴィルフリードは胸の内で相手の追尾のつたなさを罵った。しかし、油断は決
してしない。
頭を少しかがめ、声を落として隣の人物に語りかけた。
「付けられている」
少しだけうなずくと、目深くかぶったフードから黒い髪の毛が少し洩れた。
見る限り、震えは一切無い。覚悟を決めた女性というのは、男性よりも肝が据
わっているもんだな、とヴィルフリードは思った。
その静かな通りには、その2人と見え隠れする人影の他、あの金髪の少年の姿
は無い。
* * *
「色々聞きたいことはあるが……厄介なことに、この場所が割れている。そっちの
事情なんか知らねぇから、さっきの輩は返しちまったしな。
だから、時間が惜しい。いろいろ聞くよりも場所を移動しなきゃならないのが
まず第1だ。
ここは客商売をやっている所だ。しかも、荒くれどもの集まる飲み屋なんか
じゃない。巻き込んじゃいけねぇ所だってのは分かるよな」
もう遅いかもしれないけども、と心の中で付け加え、そして申し訳ない気持ち
になる。
そんな気持ちがあろうと無かろうとコトは手遅れだ。ならば、気持ちを前に向
け、行動するしか詫びた方がマシである。
「リタ。お前はどうする?」
「え?」
「『え?』ってお前……なぁ」
クセで頭をガリガリと掻く、も、すぐさま最近の自分の頭皮の弱さを思い出
し、やめる。
「ここからは、俺の仕事だ。お前はどうするんだよ。
こちらのお嬢さんは、あっちに面が割れている。俺は、下手すると相手にギル
ド所属者がいたらバレているかもしれねぇ。
だがお前は、変装でもして出て行けば大丈夫だろ。
……あんたらの関係ってのが、顔見知りであるようではあるのは分かるけど、そ
こまで尽くせる関係だとは俺は思えない」
「あぁ、そうだよね。僕って、思えばあんまり関係ないんだよね」
今更そのことを思い出したように、リタは間の抜けた声を出した。
「なりゆきで背負ったハンナを守る役目も、もうヴィルさんに任せたし……」
「悩む時間があるなら、ここにおいてある荷物をまとめて来い。その間に、考え
る時間は短いが、どうするか決めておけ。なんならここにしばらくいるのも、…
こんなことがあったが、あの人なら喜んで受け入れてくれるだろ。
あぁ、そうだ。ついでだ、途中まで手伝ってくれ。計画は後で話す。それから
どうするかはお前に任せるよ」
部屋を出る際のリタの小さな針を含んだ視線を、ヴィルは甘んじて受けた。
あぁ、そうだ。俺は狡い。選択肢を与えるということは、自分が選択すること
から逃げることだ。それによって背負わなければいけない責任から逃げることだ。
俺がここで当然のようにお前を巻き込めば、お前は何の不満無くついて来ただ
ろう。
だが、お前は、あの時……忌まわしい6本指との対峙の時、一人で決めた。なの
に今回は人に決めてもらおうなんてムシが良すぎるんじゃねぇか?
* * *
あのときの気持ちを思い出して、ヴィルは頭を振った。あまりに大人気ない。
どっちにしろ、自分が決断と責任から逃げたのは変わりないのだから、心のう
ちとはいえ、あそこまで皮肉な理論を用いるべきではなかった。
あぁ……しかし、なんて下手糞な尾行なんだ。
自分への怒りを追尾者にスライドさせた。
素人ならばそれでも十分かもしれないが、舐められているのか? せめて、靴
底がやわらかいものに替えて来い。
先ほどから失望を抱きながらも、しかしヴィルフリードは気を緩めない。
絶対に、隣の女を守りぬかなければならないのだから。
「あそこです。マリさん」
少し張り上げた声は、後ろまで聞こえただろうか。
こんな小芝居で戻ってくれれば無事平和に万々歳なのだが。
しかし、尾行者は引き返す様子は無い。聞こえていないのか、それとも疑り深
いのか。
仕方ないので、ヴィルフリードは目的の建物を目指して歩く。尾行者は駆け足
で寄ってきた。表口から入る時間はなさそうだ。
ヴィルフリードも、少し急ぎ足で裏口へ手を引いて誘導し、戸口の中にするり
と入ったところでドアをバタンと閉めて、そこに立ちふさがった。
追いついた尾行者がヴィルフリードの胸倉をいきなり掴んだ。
「そこを退け」
「おぉ、怖い怖い。オヤジ狩りってやつかい? 生憎持ち合わせはたいしたこと
持ってない」
おどけて両手を挙げてみせる。
なるほど、尾行があまり得意そうではない。力にモノを言わせるタイプの男
だ。まともに殴り合ったら勝ち目は無い。武器は、街中では長剣は目立つから
か、腰に短刀を差している。
「狩られたくなけりゃ、さっさと退くんだな!」
掴まれた拳が右に引っ張る。が、ヴィルフリードはそんなものでは動かされな
かった。
相手が、ヴィルフリードが退く気がないことに怒る前に、言葉でふさぐ。ま
だ、時間稼ぎが必要だ。
「退いてもいいけど……甘味所の女将にどういう用件だ?」
「下手な芝居はやめろ」
「人妻のストーキングの他にやるべき仕事っていくらでもあると思うんだがなぁ……」
「ふざけるな!」
相手の掴む拳に更に力が入り、身体が浮く。
ヴィルフリードはその拳の上を、ぽんぽんと手で叩いてなだめる。
「まぁ、落ち着けよ。服が破れるだろ? あんまりいいものじゃないんだ。
俺は、お宅らの仕事の邪魔はしてない。
最近逃げ込んだ女のせいで、アンタらの仕業で甘味所の女将も怖がってね。旦
那さんは店で忙しいくて、一人で出かけるのもおちおち安心してできやしないっ
ていうから、小遣い稼ぎに護衛をしているだけだよ」
「ハン! よくもまぁ、そこまで嘘がペラペラ言えるもんだな。
じゃぁ、言ってもらおうか? 甘味屋の女将が、何故、こんな鍛冶屋に来るの
かの理由をな」
そう、ヴィルフリードが立っているのは、鍛冶屋の裏手口だった。
「そりゃちょっと言えねぇな……。業務上の秘密ってやつだ」
「こんな真昼間から若い男と浮気とかシケこんでるって噂を立てられたくなけ
りゃ、そこを退きな」
男は拳を下ろし、短刀の柄に手をかける。空気がぴりりと緊張する。もう、時
間稼ぎはできない。
間に合っているように祈りながら、ゆるゆると裏口から退く。
警戒と軽蔑を含んだ視線で睨みながら男は扉を勢いよく叩くように開けた。
「あら、美味しい。
甘い葛餅で甘い餡を包んだお菓子……暑いヴァルカンでは最適ね」
「えぇ、鍛冶場はずっと火を使うから、休憩にこれを食べて、本当にほっと落ち
着けましたね」
「そうね! 職人さんや工夫さん達にも人気が出るかもしれないわ!
美味しいお茶をその場で淹れるデリバリーサービスを始めようかしら……」
「いいっすね! それ! もしやることになったらウチでもぜひともお願いした
いっス! 親方も喜びます!!」
そこには、若い鍛冶職人の見習いとマリが、仲良く水饅頭をお茶請けにして朗
らかに会話を楽しんでいた。
「……なんだこりゃ」
そんな場違いなテンションで闖入した男が思わずそんな言葉をつぶやいた。
「なんだ……って。新商品検討商品の調査。
前の仕事で『水饅頭』って和菓子を話したら、興味を持たれて、連れて行って
と頼まれたんだ。
だから言っただろう。人妻のストーキングの他にやるべき仕事っていくらでも
あるだろうってな」
「てめぇ……! 女はどこに……!!」
再びヴィルに掴みかかろうとしたが、そうは行かなかった。
「騒がしいな! なんだてめぇは!!
お前までこのミズマンジューを食おうってのか!? なんだぁ? てめぇはこ
のミズマンジューを作れるんだろうな!! 俺はこのご婦人が作るつもりだっ
つーから……」
まだ打ちかけであろう、赤く光った鉄の棒を持ったまま、闊達とした初老の男
が奥から出てきた。
「親方!! 仕事場で暴れたら危ないです!!」
「それ、下ろしてください!!」
「とりあえず、アイツを追い出せ!!」
その後ろからは、若い者から壮年の男盛りの衆が続く。
あとは、ヴィルはひょいと壁際に寄って、短刀を持った男が外に追い出される
のを見送るだけだった。
「おい、ウィリー。こんなことになるだなんて、俺ぁ聞いてなかったぞ」
見送った後、真っ赤な鉄を弟子に渡した親方がヴィルフリードに詰め寄ってきた。
「おやっさん。今日の朝、会ったばかりだろ。名前をいい加減覚えてくれよ。
ヴィルフリードだ。ヴィルフリード。『ヴぃー』、言えるか? 爺さん。
あとな、俺だって追加注文なんて最初は聞いてなかったんだ。
……ま、いいじゃないか。これでエイドの町で気軽に水饅頭が手に入るんだ」
「まぁ、そりゃそうだがな」
「で、手紙で書いたとおり、先に来た女が来たろ。どこだ?」
「うまくいくものね」
そう言いながら奥から出てきたのはハンナだった。
それと入れ替わりに、親方はフンと鼻を鳴らし、持ち場に戻っていった。
「これでしばらくは時間が稼げる。少なくともこっちの方面は手薄になるはずだ」
「見事な手際ですね」
マリが湯飲みを両手で持ちながら、ヴィルフリードに微笑む。
「マリさんのおかげだ。あと、運が良かったのもある。……あの爺さんのおかげも
あるかもな」
* * *
「リタ」
無神経を装って、臆面無くリタの部屋を覗く。
リタは、数少ない荷物をすでにまとめ終えていた。が、顔を見ると茫洋とした
目で、まだ今後の予定は決めかねているようだ。
「すまねぇが、ついでに手伝ってくれ。
とりあえず、これに着替えてくれ」
「これ……」
「どっちにしろ、ここ出るにゃ、便利なモノだ」
衣服を受け取ったリタの表情に、少しだけ灯りが点る。久々の顔だ。
それを見て、ヴィルフリードの心も少し弾んだ。ようやく、取り戻せた。何故
だかそう思った。
「いいよ。もうちょっと付き合ってあげる。どうせ、ここを出るにしろ出ないに
しろ、宿屋に残りの荷物を取りに行かなきゃいけなかったから。
ちょっと待ってて。気合入れて着替えるから」
「ほどほどにな」
ヴィルは、隠し切れない笑みを押さえ、扉を閉めた。
数十分後、軽快に弾むように階段を降りてきたリタの姿に、ヴィルは思わず
笑った。
「うわ、なんだ、それ。似合いすぎだろ!」
「でしょ。だって僕、可愛いから、可愛いモノは何でも似合う自信あるもん」
その場でくるりと一回転する。その動きに、金色の絹糸のような髪の毛と、ひ
らひらとしたスカートの布地が一緒に舞う。
最後に、ちょこんとスカートをつまんで、ピンク色の低いヒールの靴でこつん
と床を鳴らして可憐にお辞儀。
ヴィルフリードはこらえきれず、思わず腹をかかえて笑った。
「うわぁ、リタちゃん、本当にかわいいわ!」
マリは、髪飾りなどを持ってきて、これなんかどうかしらとリタの頭にあては
じめる。
「……なんか、普通、女装って女なら喜んでいじり倒したくなるけど、この子の場
合、いじるところが無くてムカつくわ」
一方同じ女性のハンナは、少し離れたところからリタを客観的に眺めている。
「違和感ないねぇ」
小柄な老体が評した。
リタは、その老人を見て驚いた。
「ミィ爺! どうしたの!?」
ミィ爺は、グラスに盛られたデザートとを片手にしてそこにいた。そのグラス
の中には生クリームやアイスクリーム、サイコロ寒天に餡子に果物が大盛り積ま
れ、ウェハースが刺さっておりその傍らにはピンク色のさくらんぼがちょこんと
乗っかっている。それを黒蜜が満遍なくかかっている。
「呼ばれたんだ。スーパデラックスを食べにおいでって。
でも、なんかまたごたごたしてるみたいだね」
その老人はいたってのんきに、抹茶デラックス餡蜜パフェをぱくりと食べる。
「うん、この新作、おいしいね。このクセのあるソースの甘みがたまんない。ア
ンコともよくあうし」
マリは、おっとりと「ありがとう」と満面の笑みで答えた。
ミィ爺は、傍らのテーブルにそのグラスを置いて、冷菓の山に銀の匙を挿し、
ウェハースだけをとってもぐもぐ食べながら、ちょいちょい、と手招きをした。
リタとヴィルフリードとハンナが顔を見合わせると、そう、とでも言うように
ミィ爺はうなずいた。
とりあえず、リタがミィ爺の前に出る。
「かがんで。そう。そのぐらい」
ミィ爺の顔と同じくらいの高さにまでリタはかがむ。すると、ミィ爺はスッ
と、カサカサな皮膚で覆われた手を水平にリタの目の前に出す。
とん、と中指と薬指でリタの額を突く。軽く小突いた程度なのだが、リタは触
れられた辺りにじんわりと熱くなるのを感じた。
そして、ミィ爺はリタの左手を取ると、手の平に、同じようにトンと今度は中
指だけで押す。そして今度は右手の手の平には親指。
最後に、手の平をぽんと置いて、ミィ爺は「ハイ、おしまい」と締めた。
リタはしげしげと右手を見る。
「何したの?」
「魔術とかそんなたいしたもんじゃないよ。もっとあやふやなもの。
おまじないっていうのがいいかもね。幸運がありますようにっていう。
でも、結構効くみたいだよ」
ふーん、とリタは右手を裏返してまた見ている。
順に、何の抵抗無く素直にハンナが、そして少し怖気づいたような様子を見せ
ながらもヴィルフリードも同じくその『おまじない』をしてもらう。
「あ、そうだ。ミィ爺、これ」
リタが出したのは銀細工の蝶のブローチ。
「返しておくね。マリさんに預けておこうと思ってたんだけど」
「あ、私も」
ハンナも続いてブローチを取り外す。
しかし、ミィ爺は、リタのブローチをじぃっと見ていた。
「あれ? あのあと直ぐに約束やぶっちゃった?」
リタがハンナに非難の目をむけたり、何か言いかけようかと口をひらいたり
と、一瞬逡巡した。その前に、ミィ爺は答えなど求めていなかったようで、にっ
こりとまったく気にした風も無く続けた。
「まぁ、もともとそんなに長く続くようなモノじゃなかったけどね。
ありがとう。一応商売道具だから、パクられちゃったままだと困ってたんだ」
あぁ、アイスが溶けちゃう。と言ってミィ爺は再びスーパーデラックスをぱく
ついた。もうそれ以上はなにか話す様子は無く、「うぅ~ん、おいしい!」と悦
に入っている。
まだ、気になるのか、眉間のあたりをいじっていたヴィルフリードが、それで
口火を切った。
「まずは、リタ。お前はその格好で、できるだけ女性客の集団にまぎれてここを
出るんだ。
心配するな。多分、この中でお前の顔が一番ばれてない。ましてや、その格好
なら騙せる」
「おじさまもそうじゃないの?」
ハンナが聞く。
「俺は、こう見えてもBランク冒険者だぜ? あっちに冒険者にちょっと詳しい
ヤツがいたら、顔ぐらいばれてる可能性もある。
……それに、ちょっと揉め事起こしたしな」
「それで、僕はどうすればいいの?」
リタが話を促す。
「宿屋に戻って、まずは自分の荷物をまとめろ。
そして、俺の荷物も頼む。
それを冒険者ギルドのところに持って預けてくれ。俺の名前を出してくれれ
ば、大丈夫だ。中身をチェックされると思うが、それは気が済むまでさせてお
け。まだ洗ってない着替えが臭いがな。
その後は、お前の好きにしな」
「ヴィルさんは、どうするつもりなの?」
「知りたいのか?」
言外に、知った時の危険性を示す。リタは機敏にそれを察知し、「それって、
別れようとしてるの?」と目で言っている。ヴィルフリードは、表情を変えず、
それ以上何も答えなかった。
「じゃ、善は急げだ。早いほうがいい。相手の動きが大きくならないうちにな」
ぽん、とリタの肩を叩く。
非難したかのような目が、こちらを向いている。納得は明らかにしていない。
もしかして、冷めた気持ちになって諦めようとしているのかもしれない。ただ単
に、このあやふやな状況に気持ち悪さを感じているだけなのかもしれない。
だが、分別は無いわけでは無かったようだ。リタは、小さく「わかった」と承
知した。
「……にしても、本当に違和感ねぇなぁ……」
間近に見て、やはりヴィルフリードは苦笑した。
普通、男の女装をしたというのは、過剰に女性らしくあろうとしたり、男性っ
ぽさを隠しきれていなかったりと、どこかアンバランスさを感じさせるが、リタ
はそういうことが一切なかった。本当に、「そこらへんの女の子」なのだ。改め
て本当に思う。簡単にはバレはしないだろう。
「服は、返さなくてもいいから。……元気でいて。
セーラちゃんにもよろしく。
また来てね」
マリがリタをぎゅっと抱きしめ、思いついた端から素直に言葉にする。
「なんだか、ややこしいことになってるみたいだけど。
まぁ、またおいでね」
ミィ爺は、やはりスーパーデラックスを持ったままだ。
リタはその場にいる全ての人の顔を見る。
「マリさん、本当にお世話になりました。旦那さんや、ここの職人さんにも、お
礼を言っておいて。
……あ、でも、また戻ってくるかもしれないけど」
「こっちはかまわないわ。むしろ歓迎するわ」
「それじゃぁ行ってくるね」
ちょっとした散歩にでも行くかのように、軽い足取りでリタは店内へと入って
いった。
NPC:ハンナ、マリ(『甘味処』のおかみ)
場所:エイド(ヴァルカン地方)
-------------------------------------------------
昼食の匂いがあちらこちらからただよってくる。
あぁ、あそこは豆のスープだ。鶏肉のスパイスソテーだ。お、あの家は、俺の
好物の豚の煮込みだ。
気を抜いてはいけないと分かっていても、鼻が思わずヒクヒと動いてしまう。
人通り多い大通りから離れた住宅街は、昼食時だと完全に人気が無い。
その道を選んだのは、相手に気づかれない為ではない。こっちが気づきやすく
するためだ。
下手糞め。それでうまく隠れているつもりか。
ヴィルフリードは胸の内で相手の追尾のつたなさを罵った。しかし、油断は決
してしない。
頭を少しかがめ、声を落として隣の人物に語りかけた。
「付けられている」
少しだけうなずくと、目深くかぶったフードから黒い髪の毛が少し洩れた。
見る限り、震えは一切無い。覚悟を決めた女性というのは、男性よりも肝が据
わっているもんだな、とヴィルフリードは思った。
その静かな通りには、その2人と見え隠れする人影の他、あの金髪の少年の姿
は無い。
* * *
「色々聞きたいことはあるが……厄介なことに、この場所が割れている。そっちの
事情なんか知らねぇから、さっきの輩は返しちまったしな。
だから、時間が惜しい。いろいろ聞くよりも場所を移動しなきゃならないのが
まず第1だ。
ここは客商売をやっている所だ。しかも、荒くれどもの集まる飲み屋なんか
じゃない。巻き込んじゃいけねぇ所だってのは分かるよな」
もう遅いかもしれないけども、と心の中で付け加え、そして申し訳ない気持ち
になる。
そんな気持ちがあろうと無かろうとコトは手遅れだ。ならば、気持ちを前に向
け、行動するしか詫びた方がマシである。
「リタ。お前はどうする?」
「え?」
「『え?』ってお前……なぁ」
クセで頭をガリガリと掻く、も、すぐさま最近の自分の頭皮の弱さを思い出
し、やめる。
「ここからは、俺の仕事だ。お前はどうするんだよ。
こちらのお嬢さんは、あっちに面が割れている。俺は、下手すると相手にギル
ド所属者がいたらバレているかもしれねぇ。
だがお前は、変装でもして出て行けば大丈夫だろ。
……あんたらの関係ってのが、顔見知りであるようではあるのは分かるけど、そ
こまで尽くせる関係だとは俺は思えない」
「あぁ、そうだよね。僕って、思えばあんまり関係ないんだよね」
今更そのことを思い出したように、リタは間の抜けた声を出した。
「なりゆきで背負ったハンナを守る役目も、もうヴィルさんに任せたし……」
「悩む時間があるなら、ここにおいてある荷物をまとめて来い。その間に、考え
る時間は短いが、どうするか決めておけ。なんならここにしばらくいるのも、…
こんなことがあったが、あの人なら喜んで受け入れてくれるだろ。
あぁ、そうだ。ついでだ、途中まで手伝ってくれ。計画は後で話す。それから
どうするかはお前に任せるよ」
部屋を出る際のリタの小さな針を含んだ視線を、ヴィルは甘んじて受けた。
あぁ、そうだ。俺は狡い。選択肢を与えるということは、自分が選択すること
から逃げることだ。それによって背負わなければいけない責任から逃げることだ。
俺がここで当然のようにお前を巻き込めば、お前は何の不満無くついて来ただ
ろう。
だが、お前は、あの時……忌まわしい6本指との対峙の時、一人で決めた。なの
に今回は人に決めてもらおうなんてムシが良すぎるんじゃねぇか?
* * *
あのときの気持ちを思い出して、ヴィルは頭を振った。あまりに大人気ない。
どっちにしろ、自分が決断と責任から逃げたのは変わりないのだから、心のう
ちとはいえ、あそこまで皮肉な理論を用いるべきではなかった。
あぁ……しかし、なんて下手糞な尾行なんだ。
自分への怒りを追尾者にスライドさせた。
素人ならばそれでも十分かもしれないが、舐められているのか? せめて、靴
底がやわらかいものに替えて来い。
先ほどから失望を抱きながらも、しかしヴィルフリードは気を緩めない。
絶対に、隣の女を守りぬかなければならないのだから。
「あそこです。マリさん」
少し張り上げた声は、後ろまで聞こえただろうか。
こんな小芝居で戻ってくれれば無事平和に万々歳なのだが。
しかし、尾行者は引き返す様子は無い。聞こえていないのか、それとも疑り深
いのか。
仕方ないので、ヴィルフリードは目的の建物を目指して歩く。尾行者は駆け足
で寄ってきた。表口から入る時間はなさそうだ。
ヴィルフリードも、少し急ぎ足で裏口へ手を引いて誘導し、戸口の中にするり
と入ったところでドアをバタンと閉めて、そこに立ちふさがった。
追いついた尾行者がヴィルフリードの胸倉をいきなり掴んだ。
「そこを退け」
「おぉ、怖い怖い。オヤジ狩りってやつかい? 生憎持ち合わせはたいしたこと
持ってない」
おどけて両手を挙げてみせる。
なるほど、尾行があまり得意そうではない。力にモノを言わせるタイプの男
だ。まともに殴り合ったら勝ち目は無い。武器は、街中では長剣は目立つから
か、腰に短刀を差している。
「狩られたくなけりゃ、さっさと退くんだな!」
掴まれた拳が右に引っ張る。が、ヴィルフリードはそんなものでは動かされな
かった。
相手が、ヴィルフリードが退く気がないことに怒る前に、言葉でふさぐ。ま
だ、時間稼ぎが必要だ。
「退いてもいいけど……甘味所の女将にどういう用件だ?」
「下手な芝居はやめろ」
「人妻のストーキングの他にやるべき仕事っていくらでもあると思うんだがなぁ……」
「ふざけるな!」
相手の掴む拳に更に力が入り、身体が浮く。
ヴィルフリードはその拳の上を、ぽんぽんと手で叩いてなだめる。
「まぁ、落ち着けよ。服が破れるだろ? あんまりいいものじゃないんだ。
俺は、お宅らの仕事の邪魔はしてない。
最近逃げ込んだ女のせいで、アンタらの仕業で甘味所の女将も怖がってね。旦
那さんは店で忙しいくて、一人で出かけるのもおちおち安心してできやしないっ
ていうから、小遣い稼ぎに護衛をしているだけだよ」
「ハン! よくもまぁ、そこまで嘘がペラペラ言えるもんだな。
じゃぁ、言ってもらおうか? 甘味屋の女将が、何故、こんな鍛冶屋に来るの
かの理由をな」
そう、ヴィルフリードが立っているのは、鍛冶屋の裏手口だった。
「そりゃちょっと言えねぇな……。業務上の秘密ってやつだ」
「こんな真昼間から若い男と浮気とかシケこんでるって噂を立てられたくなけ
りゃ、そこを退きな」
男は拳を下ろし、短刀の柄に手をかける。空気がぴりりと緊張する。もう、時
間稼ぎはできない。
間に合っているように祈りながら、ゆるゆると裏口から退く。
警戒と軽蔑を含んだ視線で睨みながら男は扉を勢いよく叩くように開けた。
「あら、美味しい。
甘い葛餅で甘い餡を包んだお菓子……暑いヴァルカンでは最適ね」
「えぇ、鍛冶場はずっと火を使うから、休憩にこれを食べて、本当にほっと落ち
着けましたね」
「そうね! 職人さんや工夫さん達にも人気が出るかもしれないわ!
美味しいお茶をその場で淹れるデリバリーサービスを始めようかしら……」
「いいっすね! それ! もしやることになったらウチでもぜひともお願いした
いっス! 親方も喜びます!!」
そこには、若い鍛冶職人の見習いとマリが、仲良く水饅頭をお茶請けにして朗
らかに会話を楽しんでいた。
「……なんだこりゃ」
そんな場違いなテンションで闖入した男が思わずそんな言葉をつぶやいた。
「なんだ……って。新商品検討商品の調査。
前の仕事で『水饅頭』って和菓子を話したら、興味を持たれて、連れて行って
と頼まれたんだ。
だから言っただろう。人妻のストーキングの他にやるべき仕事っていくらでも
あるだろうってな」
「てめぇ……! 女はどこに……!!」
再びヴィルに掴みかかろうとしたが、そうは行かなかった。
「騒がしいな! なんだてめぇは!!
お前までこのミズマンジューを食おうってのか!? なんだぁ? てめぇはこ
のミズマンジューを作れるんだろうな!! 俺はこのご婦人が作るつもりだっ
つーから……」
まだ打ちかけであろう、赤く光った鉄の棒を持ったまま、闊達とした初老の男
が奥から出てきた。
「親方!! 仕事場で暴れたら危ないです!!」
「それ、下ろしてください!!」
「とりあえず、アイツを追い出せ!!」
その後ろからは、若い者から壮年の男盛りの衆が続く。
あとは、ヴィルはひょいと壁際に寄って、短刀を持った男が外に追い出される
のを見送るだけだった。
「おい、ウィリー。こんなことになるだなんて、俺ぁ聞いてなかったぞ」
見送った後、真っ赤な鉄を弟子に渡した親方がヴィルフリードに詰め寄ってきた。
「おやっさん。今日の朝、会ったばかりだろ。名前をいい加減覚えてくれよ。
ヴィルフリードだ。ヴィルフリード。『ヴぃー』、言えるか? 爺さん。
あとな、俺だって追加注文なんて最初は聞いてなかったんだ。
……ま、いいじゃないか。これでエイドの町で気軽に水饅頭が手に入るんだ」
「まぁ、そりゃそうだがな」
「で、手紙で書いたとおり、先に来た女が来たろ。どこだ?」
「うまくいくものね」
そう言いながら奥から出てきたのはハンナだった。
それと入れ替わりに、親方はフンと鼻を鳴らし、持ち場に戻っていった。
「これでしばらくは時間が稼げる。少なくともこっちの方面は手薄になるはずだ」
「見事な手際ですね」
マリが湯飲みを両手で持ちながら、ヴィルフリードに微笑む。
「マリさんのおかげだ。あと、運が良かったのもある。……あの爺さんのおかげも
あるかもな」
* * *
「リタ」
無神経を装って、臆面無くリタの部屋を覗く。
リタは、数少ない荷物をすでにまとめ終えていた。が、顔を見ると茫洋とした
目で、まだ今後の予定は決めかねているようだ。
「すまねぇが、ついでに手伝ってくれ。
とりあえず、これに着替えてくれ」
「これ……」
「どっちにしろ、ここ出るにゃ、便利なモノだ」
衣服を受け取ったリタの表情に、少しだけ灯りが点る。久々の顔だ。
それを見て、ヴィルフリードの心も少し弾んだ。ようやく、取り戻せた。何故
だかそう思った。
「いいよ。もうちょっと付き合ってあげる。どうせ、ここを出るにしろ出ないに
しろ、宿屋に残りの荷物を取りに行かなきゃいけなかったから。
ちょっと待ってて。気合入れて着替えるから」
「ほどほどにな」
ヴィルは、隠し切れない笑みを押さえ、扉を閉めた。
数十分後、軽快に弾むように階段を降りてきたリタの姿に、ヴィルは思わず
笑った。
「うわ、なんだ、それ。似合いすぎだろ!」
「でしょ。だって僕、可愛いから、可愛いモノは何でも似合う自信あるもん」
その場でくるりと一回転する。その動きに、金色の絹糸のような髪の毛と、ひ
らひらとしたスカートの布地が一緒に舞う。
最後に、ちょこんとスカートをつまんで、ピンク色の低いヒールの靴でこつん
と床を鳴らして可憐にお辞儀。
ヴィルフリードはこらえきれず、思わず腹をかかえて笑った。
「うわぁ、リタちゃん、本当にかわいいわ!」
マリは、髪飾りなどを持ってきて、これなんかどうかしらとリタの頭にあては
じめる。
「……なんか、普通、女装って女なら喜んでいじり倒したくなるけど、この子の場
合、いじるところが無くてムカつくわ」
一方同じ女性のハンナは、少し離れたところからリタを客観的に眺めている。
「違和感ないねぇ」
小柄な老体が評した。
リタは、その老人を見て驚いた。
「ミィ爺! どうしたの!?」
ミィ爺は、グラスに盛られたデザートとを片手にしてそこにいた。そのグラス
の中には生クリームやアイスクリーム、サイコロ寒天に餡子に果物が大盛り積ま
れ、ウェハースが刺さっておりその傍らにはピンク色のさくらんぼがちょこんと
乗っかっている。それを黒蜜が満遍なくかかっている。
「呼ばれたんだ。スーパデラックスを食べにおいでって。
でも、なんかまたごたごたしてるみたいだね」
その老人はいたってのんきに、抹茶デラックス餡蜜パフェをぱくりと食べる。
「うん、この新作、おいしいね。このクセのあるソースの甘みがたまんない。ア
ンコともよくあうし」
マリは、おっとりと「ありがとう」と満面の笑みで答えた。
ミィ爺は、傍らのテーブルにそのグラスを置いて、冷菓の山に銀の匙を挿し、
ウェハースだけをとってもぐもぐ食べながら、ちょいちょい、と手招きをした。
リタとヴィルフリードとハンナが顔を見合わせると、そう、とでも言うように
ミィ爺はうなずいた。
とりあえず、リタがミィ爺の前に出る。
「かがんで。そう。そのぐらい」
ミィ爺の顔と同じくらいの高さにまでリタはかがむ。すると、ミィ爺はスッ
と、カサカサな皮膚で覆われた手を水平にリタの目の前に出す。
とん、と中指と薬指でリタの額を突く。軽く小突いた程度なのだが、リタは触
れられた辺りにじんわりと熱くなるのを感じた。
そして、ミィ爺はリタの左手を取ると、手の平に、同じようにトンと今度は中
指だけで押す。そして今度は右手の手の平には親指。
最後に、手の平をぽんと置いて、ミィ爺は「ハイ、おしまい」と締めた。
リタはしげしげと右手を見る。
「何したの?」
「魔術とかそんなたいしたもんじゃないよ。もっとあやふやなもの。
おまじないっていうのがいいかもね。幸運がありますようにっていう。
でも、結構効くみたいだよ」
ふーん、とリタは右手を裏返してまた見ている。
順に、何の抵抗無く素直にハンナが、そして少し怖気づいたような様子を見せ
ながらもヴィルフリードも同じくその『おまじない』をしてもらう。
「あ、そうだ。ミィ爺、これ」
リタが出したのは銀細工の蝶のブローチ。
「返しておくね。マリさんに預けておこうと思ってたんだけど」
「あ、私も」
ハンナも続いてブローチを取り外す。
しかし、ミィ爺は、リタのブローチをじぃっと見ていた。
「あれ? あのあと直ぐに約束やぶっちゃった?」
リタがハンナに非難の目をむけたり、何か言いかけようかと口をひらいたり
と、一瞬逡巡した。その前に、ミィ爺は答えなど求めていなかったようで、にっ
こりとまったく気にした風も無く続けた。
「まぁ、もともとそんなに長く続くようなモノじゃなかったけどね。
ありがとう。一応商売道具だから、パクられちゃったままだと困ってたんだ」
あぁ、アイスが溶けちゃう。と言ってミィ爺は再びスーパーデラックスをぱく
ついた。もうそれ以上はなにか話す様子は無く、「うぅ~ん、おいしい!」と悦
に入っている。
まだ、気になるのか、眉間のあたりをいじっていたヴィルフリードが、それで
口火を切った。
「まずは、リタ。お前はその格好で、できるだけ女性客の集団にまぎれてここを
出るんだ。
心配するな。多分、この中でお前の顔が一番ばれてない。ましてや、その格好
なら騙せる」
「おじさまもそうじゃないの?」
ハンナが聞く。
「俺は、こう見えてもBランク冒険者だぜ? あっちに冒険者にちょっと詳しい
ヤツがいたら、顔ぐらいばれてる可能性もある。
……それに、ちょっと揉め事起こしたしな」
「それで、僕はどうすればいいの?」
リタが話を促す。
「宿屋に戻って、まずは自分の荷物をまとめろ。
そして、俺の荷物も頼む。
それを冒険者ギルドのところに持って預けてくれ。俺の名前を出してくれれ
ば、大丈夫だ。中身をチェックされると思うが、それは気が済むまでさせてお
け。まだ洗ってない着替えが臭いがな。
その後は、お前の好きにしな」
「ヴィルさんは、どうするつもりなの?」
「知りたいのか?」
言外に、知った時の危険性を示す。リタは機敏にそれを察知し、「それって、
別れようとしてるの?」と目で言っている。ヴィルフリードは、表情を変えず、
それ以上何も答えなかった。
「じゃ、善は急げだ。早いほうがいい。相手の動きが大きくならないうちにな」
ぽん、とリタの肩を叩く。
非難したかのような目が、こちらを向いている。納得は明らかにしていない。
もしかして、冷めた気持ちになって諦めようとしているのかもしれない。ただ単
に、このあやふやな状況に気持ち悪さを感じているだけなのかもしれない。
だが、分別は無いわけでは無かったようだ。リタは、小さく「わかった」と承
知した。
「……にしても、本当に違和感ねぇなぁ……」
間近に見て、やはりヴィルフリードは苦笑した。
普通、男の女装をしたというのは、過剰に女性らしくあろうとしたり、男性っ
ぽさを隠しきれていなかったりと、どこかアンバランスさを感じさせるが、リタ
はそういうことが一切なかった。本当に、「そこらへんの女の子」なのだ。改め
て本当に思う。簡単にはバレはしないだろう。
「服は、返さなくてもいいから。……元気でいて。
セーラちゃんにもよろしく。
また来てね」
マリがリタをぎゅっと抱きしめ、思いついた端から素直に言葉にする。
「なんだか、ややこしいことになってるみたいだけど。
まぁ、またおいでね」
ミィ爺は、やはりスーパーデラックスを持ったままだ。
リタはその場にいる全ての人の顔を見る。
「マリさん、本当にお世話になりました。旦那さんや、ここの職人さんにも、お
礼を言っておいて。
……あ、でも、また戻ってくるかもしれないけど」
「こっちはかまわないわ。むしろ歓迎するわ」
「それじゃぁ行ってくるね」
ちょっとした散歩にでも行くかのように、軽い足取りでリタは店内へと入って
いった。
/ヴィルフリード(フンヅワーラーPC:ヴィルフリード、リタルード
場所:エイド(ヴァルカン地方)
-------------------------------------------------
さて、どうしようか。
ギルドの窓口では、冒険者とみえる若い男が女性と軽口をたたきながらやり取りを
している。
自分に応対していたときに貼り付けていた笑顔よりよっぽどいきいきとした彼女の
表情に、リタルードはなんとなく傷つく。
自分の荷物を抱えて、ピンクの靴を履いたつま先を見つめる。
明るい色のフレアスカートやつやつやした靴は、マリの若いころのものなのだと
言っていた。
箪笥の匂いがうつって、やわらかい木の香りがする。
ヴィルフリードに頼まれた用はすでに終えていた。
冒険者の習慣なのか、彼の荷物はある程度整っていたので、まとめるのは楽だっ
た。
マリの店を出て、ギルドにつくまで何事もなかった。騒ぎを目にすることもなかっ
た。
それにしてもどうしようか。
リタルードは上着のポケットから、何度となく見返した紙を取り出した。
二つ折りにされた固めの紙に、殴り書きで文章が書いてある。
『覚悟が決まっているなら見ろ』
急いで書いたのだろう。もともとあまり整っているとは思えない大振りの字がよけ
いに乱れている。と言っても読めない程度ではない。
ヴィルフリードだ。
マリの店にいるときに滑り込ませたのだろう。
女物の服に着替えたときにはなかったら、別れ際に肩を叩いたときか。
作戦通り女性客に紛れて『甘味処』を出て、宿屋に到着してから気づいた。
中には、以前泊まったことのある宿だけが書かれていた。方角も街の名前も書いて
いない。逐一道順を覚えているわけでもないし、たどり着けないとは思わなかったの
か。それとも、それならそれでいいと考えたのか。
深く考えてのことではないだろうが、だからこそタチが悪い。
本当に全く、血は呪い、情は鎖だ。
“あんたのそういうとこって結局は、マザー・コンプレックスなんじゃない”
長い黒髪の30絡みの女にそう言われたのは、どれくらい前のことか。
お世辞にも綺麗なひとではなかった。
弱すぎる顔の皮膚はガザガザに乾いていて、とくに目の周りと口元が酷かった。長
くて細い指は、形はいいのに爪を噛む癖のせいで常に荒れていた。
なにより、目の下に刻まれた深く色の濃い隈が彼女を一回りもふた回りも年嵩に見
せていた。
何を出し抜けに、と言い返すと、彼女は心底楽しそうに肩を揺らした。
“だって今、金髪の女が見えたもの。上等な絹糸にとろとろに溶けた金を浸したみた
いな色の髪の手も足も頭も背も小さいすごく若い女よ。それってアンタの母親で
しょ”
自分のような普段のガードの固い人間のほうが、本人も自覚できないような脳に刷
り込まれた記憶が見えやすいらしい。
ふとした拍子に何かが見えたとき、彼女は低い声でねっとりと報告してくれるの
だ。
人の心の、一番やわらかい防御しようのない部分。その人がその人であることの根
幹を成している領域。そこを彼女は、言葉で確実に侵略し、傷つける。
だって、どうして、と反論を重ねても無駄なのだ。
このときだって、母親の顔なんか覚えていないだとか、それがどう関係あるのだと
か、いろいろと言い募ったが、言葉を重ねれば重ねるほど、彼女は爛々と目を輝かせ
るのだ。
そのとき彼女が触れてきたのは、腕だったのか肩だったのか、それとも首だったの
か。
手をかけて近づくと、耳元でかわいそうにと囁いた。
“だって、そんなふうに消えちゃったんだものね”
何を言われているのかさっぱりわからないにも関わらず、痛みをともなって自分の
心の一部が潰れるのを感じ、その痛みこそが彼女の言葉が紛れもない真実だという証
明だとわかった。
教養のない人だったから、彼女の使う言葉は不正確でアンバランスだった。 職業
柄、知識人とも話すこともあるから難しい言葉を聞いたことがあっても、その意味を
知らずに使うことが多かったのだ。
自分の見たものを適切に伝えることも苦手としていたから、客に見えたものを伝え
るときは、彼女の妹が伝わりやすい言葉に言い換えて話す役をしていた。
いくら薬を塗っても粉をふいている黒ずんだ口元とか、いっそ切ってしまったほう
が見苦しくないだろう荒れた髪だとか、身体のバランスの割りに長すぎる足の指だと
か。
ひとつひとつの形や触れたときの感触なんかをしっかりと思い出すことができる。
いくら遮断しようとしても頭の中に侵入してくるビジョンに蝕まれながらも、目だ
けを光らせ骨ばった両腕を抱きしめて毎日を生き抜いている彼女を、確かに愛おしい
と思っていたこともあったのだ。
彼女には、思い煩うことなく楽しく生きるために必要な資質がごっそりと欠けてい
た。自分だってある程度は彼女に近い人種なのかもしれない。
でなければ、惹かれることはなかっただろう。
にしても、どうしようか。
選択肢を突きつけられて選べばいいだけなのに、それができないということは、如
何に自分の持っているものが少ないかを思い知らされる。
ギルドのエイド支店は、ヴァルカンが近いためか待機している冒険者の入れ替わり
が早い。その反面、職にあぶれた人間がたむろしてもいるので、今のリタルードのよ
うにぼんやり座り込んでいる人間も何人かいる。
理性的な程度のざわめきや流れ者の重みの抜けた生活臭は、よるべない空虚さを抱
えた人間には心地がいいものだ。
さわさわと纏わりつくこの程度の生ぬるい温度の空気くらい、なにか合図があれば
振り切れるのに。
横切る鮮やかな色彩か。鮮烈な花の香りか。鈴の音か。高く澄み切った笛の音もい
いかもしれない。
何のきっかけもなければ、夕暮れまではここでぼんやりしていよう。
とりあえずそれだけ決めて、リタルードは荷物を抱え直した。
)
場所:エイド(ヴァルカン地方)
-------------------------------------------------
さて、どうしようか。
ギルドの窓口では、冒険者とみえる若い男が女性と軽口をたたきながらやり取りを
している。
自分に応対していたときに貼り付けていた笑顔よりよっぽどいきいきとした彼女の
表情に、リタルードはなんとなく傷つく。
自分の荷物を抱えて、ピンクの靴を履いたつま先を見つめる。
明るい色のフレアスカートやつやつやした靴は、マリの若いころのものなのだと
言っていた。
箪笥の匂いがうつって、やわらかい木の香りがする。
ヴィルフリードに頼まれた用はすでに終えていた。
冒険者の習慣なのか、彼の荷物はある程度整っていたので、まとめるのは楽だっ
た。
マリの店を出て、ギルドにつくまで何事もなかった。騒ぎを目にすることもなかっ
た。
それにしてもどうしようか。
リタルードは上着のポケットから、何度となく見返した紙を取り出した。
二つ折りにされた固めの紙に、殴り書きで文章が書いてある。
『覚悟が決まっているなら見ろ』
急いで書いたのだろう。もともとあまり整っているとは思えない大振りの字がよけ
いに乱れている。と言っても読めない程度ではない。
ヴィルフリードだ。
マリの店にいるときに滑り込ませたのだろう。
女物の服に着替えたときにはなかったら、別れ際に肩を叩いたときか。
作戦通り女性客に紛れて『甘味処』を出て、宿屋に到着してから気づいた。
中には、以前泊まったことのある宿だけが書かれていた。方角も街の名前も書いて
いない。逐一道順を覚えているわけでもないし、たどり着けないとは思わなかったの
か。それとも、それならそれでいいと考えたのか。
深く考えてのことではないだろうが、だからこそタチが悪い。
本当に全く、血は呪い、情は鎖だ。
“あんたのそういうとこって結局は、マザー・コンプレックスなんじゃない”
長い黒髪の30絡みの女にそう言われたのは、どれくらい前のことか。
お世辞にも綺麗なひとではなかった。
弱すぎる顔の皮膚はガザガザに乾いていて、とくに目の周りと口元が酷かった。長
くて細い指は、形はいいのに爪を噛む癖のせいで常に荒れていた。
なにより、目の下に刻まれた深く色の濃い隈が彼女を一回りもふた回りも年嵩に見
せていた。
何を出し抜けに、と言い返すと、彼女は心底楽しそうに肩を揺らした。
“だって今、金髪の女が見えたもの。上等な絹糸にとろとろに溶けた金を浸したみた
いな色の髪の手も足も頭も背も小さいすごく若い女よ。それってアンタの母親で
しょ”
自分のような普段のガードの固い人間のほうが、本人も自覚できないような脳に刷
り込まれた記憶が見えやすいらしい。
ふとした拍子に何かが見えたとき、彼女は低い声でねっとりと報告してくれるの
だ。
人の心の、一番やわらかい防御しようのない部分。その人がその人であることの根
幹を成している領域。そこを彼女は、言葉で確実に侵略し、傷つける。
だって、どうして、と反論を重ねても無駄なのだ。
このときだって、母親の顔なんか覚えていないだとか、それがどう関係あるのだと
か、いろいろと言い募ったが、言葉を重ねれば重ねるほど、彼女は爛々と目を輝かせ
るのだ。
そのとき彼女が触れてきたのは、腕だったのか肩だったのか、それとも首だったの
か。
手をかけて近づくと、耳元でかわいそうにと囁いた。
“だって、そんなふうに消えちゃったんだものね”
何を言われているのかさっぱりわからないにも関わらず、痛みをともなって自分の
心の一部が潰れるのを感じ、その痛みこそが彼女の言葉が紛れもない真実だという証
明だとわかった。
教養のない人だったから、彼女の使う言葉は不正確でアンバランスだった。 職業
柄、知識人とも話すこともあるから難しい言葉を聞いたことがあっても、その意味を
知らずに使うことが多かったのだ。
自分の見たものを適切に伝えることも苦手としていたから、客に見えたものを伝え
るときは、彼女の妹が伝わりやすい言葉に言い換えて話す役をしていた。
いくら薬を塗っても粉をふいている黒ずんだ口元とか、いっそ切ってしまったほう
が見苦しくないだろう荒れた髪だとか、身体のバランスの割りに長すぎる足の指だと
か。
ひとつひとつの形や触れたときの感触なんかをしっかりと思い出すことができる。
いくら遮断しようとしても頭の中に侵入してくるビジョンに蝕まれながらも、目だ
けを光らせ骨ばった両腕を抱きしめて毎日を生き抜いている彼女を、確かに愛おしい
と思っていたこともあったのだ。
彼女には、思い煩うことなく楽しく生きるために必要な資質がごっそりと欠けてい
た。自分だってある程度は彼女に近い人種なのかもしれない。
でなければ、惹かれることはなかっただろう。
にしても、どうしようか。
選択肢を突きつけられて選べばいいだけなのに、それができないということは、如
何に自分の持っているものが少ないかを思い知らされる。
ギルドのエイド支店は、ヴァルカンが近いためか待機している冒険者の入れ替わり
が早い。その反面、職にあぶれた人間がたむろしてもいるので、今のリタルードのよ
うにぼんやり座り込んでいる人間も何人かいる。
理性的な程度のざわめきや流れ者の重みの抜けた生活臭は、よるべない空虚さを抱
えた人間には心地がいいものだ。
さわさわと纏わりつくこの程度の生ぬるい温度の空気くらい、なにか合図があれば
振り切れるのに。
横切る鮮やかな色彩か。鮮烈な花の香りか。鈴の音か。高く澄み切った笛の音もい
いかもしれない。
何のきっかけもなければ、夕暮れまではここでぼんやりしていよう。
とりあえずそれだけ決めて、リタルードは荷物を抱え直した。
)
PC:ジルヴァ
NPC:男が一人と女が一人
場所:シカラグァ連合王国シカラグァ直轄領
----------------------------------
----来い魔物。俺が世界をみせてやる。
あのとき彼が手を差し伸べていなかったらだなんて仮定は、あまりにも愚かしい。
だって私はいつだって飢えてしたし怯えていたし、その上ほんのすこしの熱をなによ
りも欲していたのだから。
「いい加減それくらい譲れっつーんだよこの色ボケジジイ!」
「いーやーだーね。何しろシカラグァ直轄領名店湖水亭の月餅だからな。
そう簡単に引いたりしたら中に入ってるこってり濃厚なのにちっともしつこくなく
口の中でとろりとほどけるクルミ餡に面目がたたねぇじゃねぇか」
場所はシカラグァ連合王国シカラグァ直轄領。
その宿屋の一室で、メンチを切り合う二人の男女がいた。
方や、女はとにかく黒い。
ローブといえば聞こえがいいが、ただ実験室にあるような暗幕を戯れに子どもが頭か
ら被っているだけのようにも見える。フードを目深に被っているおかげで頭部の露出
は口元のみ、裾は明らかに引きずってあまりあるほどの長さであるし、形も体にあっ
ていないから纏っている人間の輪郭すらはっきりしない。わずかに露出した手の甲や
顎のあたりの肌は濃い褐色で、その弛んで皺のよった肌やキィキィ軋る声からその人
物が非常に小柄な老婆だとかろうじて推測できる。
方や、男はとにかく色男。
短い赤毛には白いものが混ざっているし目じりに寄るものもあるが、骨のつくりがま
ずしっかりしている。赤ひげが、やけに自信を湛えた唇の上に蓄えられている。衰え
を感じさせるよく日に焼けた肌すら、人生の年輪を感じさせる魅力とする空気がこの
男にはあった。
二人が間に挟んでいるのは、簡素な三つ足のテーブルの上に置かれたよく磨かれた木
の浅い鉢。
その鉢の中には、扁平な丸い饅頭が一つ。茶色い皮をしていて、表面には花の形をし
た紋が押されている。
つまりは、最後の一個。
「死ね好色」
「黙れ黒っ子」
ぴくりと指先を動かしたのはどちらが先だったか。
二人の腕がほぼ同時に跳ね上がると次の瞬間お互いの頬をつねりあげていた。
「はなへ~~!!」
「うっへーほっちこほ!!」
ギリギリと力をこめながらも罵り合うことはやめない。
どんな力でつねっているのか、女のほうはほとんど表情を伺うことはできないが男は
目にほんのり涙すら浮かんでいる。
間に獲物を挟んでいるため下手に暴れることもできず二人が膠着状態に陥ったとき、
第三の人物が動いた。
これもまた、黒い女。
むき出しの腕は染み一つない闇の色。編んで背中に垂らされた髪も二重の奥の瞳も、
非の打ち所のない烏玉色。若いが幼くはない。しまった肢体とちいさな頭をしてい
る。
酷く濃い闇の気配を宿しながらも、陽の光の弱い日の影のようにひっそりと隅のほう
にいた女は、音一つ立てずしかしすばやく移動すると鉢の中に手を伸ばし渦中の菓子
を掻っ攫った。
「なにしやがるだいナーナ=ニーニ!!」
態勢を立て直して布の女が食って掛かるころには、ナーナ=ニーニは掴んだ菓子を無
表情に口の中に押し込んでいた。咀嚼のためにわずかに動く唇には、白く色が引いて
ある。
「いやぁ、食われちまったなぁジルヴァ」
目に浮かんだものを拭って、赤くなった頬で男は快活に笑った。
そもそも、ジルヴァと呼んだ布の女に付き合って遊んでいただけなのだ。
「笑うじゃないよ!」
ジルヴァは男の腹を打とうとするが、速さも威力もなくあっさり手のひらで受け止め
られる。
「あっはっは、お前ほんっとうに可愛いよな!」
「ほざくなこの若作り!」
二人がじたばたと馴れ合う一方で、口の中に詰め込んだ月餅をナーナ=ニーニは飲み
下す。
そして深く息を吐き浅く吸うと、腰をひねってまっすぐに拳を床に打ち込んだ。
ゴォ。
その気配に二人がぴたりと止まると、ナーナ=ニーニの拳を中心に板張りの床にすり
鉢上の凹みが生じていた。
南の国の美人は笑顔で言い放つ。
「煩イ、黙レ」
背もたれのない丸椅子がひとつ、くぼみの端に足をとられてゆっくりと倒れた。
「……ッ!
あたしの近くで魔法使うんじゃないよ!」
ジルヴァが痛みでも感じたように両肩を抱いて後ずさる。
だが、ナーナ=ニーニはジルヴァのほうを見ずに鼻を鳴らしただけだ。
ジルヴァはナーナ=ニーニを睨めつけていたが、戸口の近くに立てかけてあった木の
杖を取ると言った。杖の先には小さな鈴でできた房飾りがついていて、動かしたとき
に軽やかな耳障りのいい音がする。
「空気がピリピリするから出かけてくる」
「おー、明日の朝までには帰ってこいよ」
男が呑気に言うと、ジルヴァの手が身近な台の上に飾られていた空の花瓶に伸びかけ
る。が、さすがに自粛して、出て行くときに激しくドアを蹴りつけるに留めておい
た。
「派手にやったなぁ…俺の財布すなわち俺らの財政に中々のダメージだぞコレ。
見つかる前に逃げるのが懸命かぁ?」
布ずれと鈴の音が遠ざかってから、男は床の損傷の側にしゃがみこむ。
床の傷はさほど深くはないが、敷物をする習慣のほとんどないシカラグァではごまか
しようがない。
「お前なぁ…今のは駄目だろ。さすがに。
なぁにがそんなに気に入らなかったんだ? ん?」
下からナーナ=ニーニの顔を覗き込んで、男は言う。
「あいつちゃんと手加減してたじゃねぇか。
ジルが本気出したら、今頃俺のわき腹抉れてるぞ」
「違ッ…」
「じゃあなんだよ」
沈黙するナーナ=ニーニを男がにやにやと見上げているのは、彼女が自分の気持ちを
適切に表現するほどの語彙を持たないことを、よく知っているからだ。
進退窮まったナーナ=ニーニの手か足かが出る前に、男は彼女の腕を掴むと自分のほ
うに引き寄せた。
「もうちっとだから我慢してくれよナーナ」
近づいた頭に腕を伸ばして、首筋にわずかに触れる。
「言っといただろう? 海にでるときは、俺たちだけだって」
口の端に笑みを浮かべたままゆるゆると指を這わせて、一言ずつ男は言った。
「あいつは、ここで、置いていく」
NPC:男が一人と女が一人
場所:シカラグァ連合王国シカラグァ直轄領
----------------------------------
----来い魔物。俺が世界をみせてやる。
あのとき彼が手を差し伸べていなかったらだなんて仮定は、あまりにも愚かしい。
だって私はいつだって飢えてしたし怯えていたし、その上ほんのすこしの熱をなによ
りも欲していたのだから。
「いい加減それくらい譲れっつーんだよこの色ボケジジイ!」
「いーやーだーね。何しろシカラグァ直轄領名店湖水亭の月餅だからな。
そう簡単に引いたりしたら中に入ってるこってり濃厚なのにちっともしつこくなく
口の中でとろりとほどけるクルミ餡に面目がたたねぇじゃねぇか」
場所はシカラグァ連合王国シカラグァ直轄領。
その宿屋の一室で、メンチを切り合う二人の男女がいた。
方や、女はとにかく黒い。
ローブといえば聞こえがいいが、ただ実験室にあるような暗幕を戯れに子どもが頭か
ら被っているだけのようにも見える。フードを目深に被っているおかげで頭部の露出
は口元のみ、裾は明らかに引きずってあまりあるほどの長さであるし、形も体にあっ
ていないから纏っている人間の輪郭すらはっきりしない。わずかに露出した手の甲や
顎のあたりの肌は濃い褐色で、その弛んで皺のよった肌やキィキィ軋る声からその人
物が非常に小柄な老婆だとかろうじて推測できる。
方や、男はとにかく色男。
短い赤毛には白いものが混ざっているし目じりに寄るものもあるが、骨のつくりがま
ずしっかりしている。赤ひげが、やけに自信を湛えた唇の上に蓄えられている。衰え
を感じさせるよく日に焼けた肌すら、人生の年輪を感じさせる魅力とする空気がこの
男にはあった。
二人が間に挟んでいるのは、簡素な三つ足のテーブルの上に置かれたよく磨かれた木
の浅い鉢。
その鉢の中には、扁平な丸い饅頭が一つ。茶色い皮をしていて、表面には花の形をし
た紋が押されている。
つまりは、最後の一個。
「死ね好色」
「黙れ黒っ子」
ぴくりと指先を動かしたのはどちらが先だったか。
二人の腕がほぼ同時に跳ね上がると次の瞬間お互いの頬をつねりあげていた。
「はなへ~~!!」
「うっへーほっちこほ!!」
ギリギリと力をこめながらも罵り合うことはやめない。
どんな力でつねっているのか、女のほうはほとんど表情を伺うことはできないが男は
目にほんのり涙すら浮かんでいる。
間に獲物を挟んでいるため下手に暴れることもできず二人が膠着状態に陥ったとき、
第三の人物が動いた。
これもまた、黒い女。
むき出しの腕は染み一つない闇の色。編んで背中に垂らされた髪も二重の奥の瞳も、
非の打ち所のない烏玉色。若いが幼くはない。しまった肢体とちいさな頭をしてい
る。
酷く濃い闇の気配を宿しながらも、陽の光の弱い日の影のようにひっそりと隅のほう
にいた女は、音一つ立てずしかしすばやく移動すると鉢の中に手を伸ばし渦中の菓子
を掻っ攫った。
「なにしやがるだいナーナ=ニーニ!!」
態勢を立て直して布の女が食って掛かるころには、ナーナ=ニーニは掴んだ菓子を無
表情に口の中に押し込んでいた。咀嚼のためにわずかに動く唇には、白く色が引いて
ある。
「いやぁ、食われちまったなぁジルヴァ」
目に浮かんだものを拭って、赤くなった頬で男は快活に笑った。
そもそも、ジルヴァと呼んだ布の女に付き合って遊んでいただけなのだ。
「笑うじゃないよ!」
ジルヴァは男の腹を打とうとするが、速さも威力もなくあっさり手のひらで受け止め
られる。
「あっはっは、お前ほんっとうに可愛いよな!」
「ほざくなこの若作り!」
二人がじたばたと馴れ合う一方で、口の中に詰め込んだ月餅をナーナ=ニーニは飲み
下す。
そして深く息を吐き浅く吸うと、腰をひねってまっすぐに拳を床に打ち込んだ。
ゴォ。
その気配に二人がぴたりと止まると、ナーナ=ニーニの拳を中心に板張りの床にすり
鉢上の凹みが生じていた。
南の国の美人は笑顔で言い放つ。
「煩イ、黙レ」
背もたれのない丸椅子がひとつ、くぼみの端に足をとられてゆっくりと倒れた。
「……ッ!
あたしの近くで魔法使うんじゃないよ!」
ジルヴァが痛みでも感じたように両肩を抱いて後ずさる。
だが、ナーナ=ニーニはジルヴァのほうを見ずに鼻を鳴らしただけだ。
ジルヴァはナーナ=ニーニを睨めつけていたが、戸口の近くに立てかけてあった木の
杖を取ると言った。杖の先には小さな鈴でできた房飾りがついていて、動かしたとき
に軽やかな耳障りのいい音がする。
「空気がピリピリするから出かけてくる」
「おー、明日の朝までには帰ってこいよ」
男が呑気に言うと、ジルヴァの手が身近な台の上に飾られていた空の花瓶に伸びかけ
る。が、さすがに自粛して、出て行くときに激しくドアを蹴りつけるに留めておい
た。
「派手にやったなぁ…俺の財布すなわち俺らの財政に中々のダメージだぞコレ。
見つかる前に逃げるのが懸命かぁ?」
布ずれと鈴の音が遠ざかってから、男は床の損傷の側にしゃがみこむ。
床の傷はさほど深くはないが、敷物をする習慣のほとんどないシカラグァではごまか
しようがない。
「お前なぁ…今のは駄目だろ。さすがに。
なぁにがそんなに気に入らなかったんだ? ん?」
下からナーナ=ニーニの顔を覗き込んで、男は言う。
「あいつちゃんと手加減してたじゃねぇか。
ジルが本気出したら、今頃俺のわき腹抉れてるぞ」
「違ッ…」
「じゃあなんだよ」
沈黙するナーナ=ニーニを男がにやにやと見上げているのは、彼女が自分の気持ちを
適切に表現するほどの語彙を持たないことを、よく知っているからだ。
進退窮まったナーナ=ニーニの手か足かが出る前に、男は彼女の腕を掴むと自分のほ
うに引き寄せた。
「もうちっとだから我慢してくれよナーナ」
近づいた頭に腕を伸ばして、首筋にわずかに触れる。
「言っといただろう? 海にでるときは、俺たちだけだって」
口の端に笑みを浮かべたままゆるゆると指を這わせて、一言ずつ男は言った。
「あいつは、ここで、置いていく」