キャスト:ジュリア リクラゼット
場所:ソフィニア近郊 -遺跡パジオ、内部
--------------------------------------------------------------------------
がらがらがらがら――
手押し車か何か、そういったものの車輪が回るのを連想させる音が聞こえて、ジュリアは部屋の奥に視線を転じた。
開かれていない扉。ここに訪れたのとは逆の方向。
たった今まで、正面の壁が壁でなく扉であることにさえ気づかなかった。明かりが地面に置かれた室内用ランプ一つしかないのと、いい加減に注意力が散漫になっていたので。
「……おい」
「どしたのお姉さん?」
地図と、懐から取り出した紙切れを熱心に見ながら、クラークが上の空な返事をした。
ジュリアはその態度に舌打ちでもしたい気分になったが我慢する。その代わり、眉間に浅くしわを寄せて、馬鹿の背中を拳で叩いた。
「何か来る」
「そりゃダンジョンだからね。モンスターの一匹や二匹いるでしょ」
「車輪が――」
クラークは。
二枚の紙切れから視線を上げてゆっくりと振り返った。
「本当だ。意外と早かったなぁ」
今までになく真面目な視線で真正面から見据えられ、ジュリアは思わず睨み返す。
「心当たりが?」
「おなじ目的でここに来るライバルがいたりいなかったり」
相手の緑色の瞳は、初めて会ったときと同じで、色だけは綺麗だった。くたびれたような年齢不詳の外見――何かを勘違いしているとしか表現できない大げさな探検家ルックは色あせていて、色のあせたモノクロの中で、その緑だけが酷く場違いだ。
困ったようにクラークは唸り、「すぐに開けられるだろうな」と言った。
「さて、ここからが依頼だ西の魔女……引き受けてもらえるかな」
「今までは慈善事業?」
首をかしげ、軽く細めた目で見上げたまま口の端を吊り上げる。
実際には別に金銭にこだわるつもりはなかった。面白ければなんでもいい。馬鹿馬鹿しい呪いのナイフとやらが実在するなら一目見るのも悪くないだろうし、ただ歩き回る単調な時間が終わって変化が起こったのだから、やっと少し面白みも出てきたのだ。
「報酬は……君を無事に地上まで案内することでどうだろう」
脅迫まがいの言葉は予想していたので、ジュリアは感覚だけで時間を計った。
「……帰ったら夕方か」
「だねぃ」
「昼食とりそこねた」
「じゃあ、案内と夕飯で取引成立」
ジュリアはうなずいて続きを促した。クラークは苦笑して奥の扉を見る。
ぼんやりと、扉の表面に淡い光が浮いていた。文様のような――いや、あれは、文字。見たこともない記号だったが、何等かの意味と力を持った言葉であると知れた。
「それで、依頼の内容は?」
「やり方に何も口を出さないけど、達成条件は一つだけ」
「何?」
クラークは薄く、薄く、笑った。
「――“遺跡の宝はオレのものだ”」
くつくつという笑い声。色だけは綺麗な緑の双眸。
くすんだ男が、まだどこか誠実そうに見えたのは、それだけの根拠に過ぎなかった。だが不誠実にも見えない。彼をあらわす言葉は“馬鹿”と“無意味”である。
ゆっくりと扉が開き始めたのでジュリアはそちらを見ながら、最後に訊いた。
「世界征服、やる?」
「とりあえず弟に見せびらかして自慢してから考えやぅ」
ぎぢぎぢと軋みながら重い両扉が動く。その振動で遺跡全体が揺れているように感じた。塵が落ちる。ランプの光が奥へ続いている通路を照らしていく。
見えたのは――恐らく人間だった。何か大きな四角いものを隣に置いている。
「クラーク!」
ジュリアは悲鳴のような声を上げた。名前を呼んでしまったが、そんなことはもう、どうでもよかった。大荷物を背負った探検家は、相変わらずのほほんとしていた。恨めしさよりも憎悪に近いものをおぼえ、町に帰ったら酷い目に遭わせてやると心の中で恫喝する。
現れた人影の方も、ここに人がいることなど想像していなかったのだろう。それも、変な格好の馬鹿とワンピースの女の二人連れ。そんな組み合わせは意味不明だ。
それともいきなり悲鳴を上げられたせいかも知れないが、困ったように立ち尽くしている。
だからその隙にジュリアは雇い主に文句を突きつけた。
「なんでこんなところに半裸の男がいる!? 脈絡がナイにも程があるだろう!」
「いやぁビックリだね。ここってワンダーランドだったんだ」
驚いているようには見えない。言っている意味もまったくわからない。
ジュリアは復讐――あるいは八つ当たり――の内容を直前に考えていたよりもえげつないものに変更することを決めながら、現れた男を観察した。
なんていうか半裸だ。だからといって人様に見せびらかすほどの肉体美ではない。むしろ逆で……虚弱、という言葉の定義そのものが人間の形をしているようだ。インドア派なんて印象は生ぬるい。風が吹かなくても倒れそうだ。
どうやってここまで辿り着いたものか、まったく想像がつかなかった。
髪はたぶん黄色っぽい色で、それに隠れて顔はよく見えないが、少なくともクラークよりは老けているように見えた。ひどい猫背。でもたぶん長身だろう。痩せすぎていてそう見えるという可能性もあるが、決して短躯ではないことは間違いない。
大きな羽ペンのようなものも持っているが、あんな大きな羽ペンは見たことないので、きっと何か違う用途に使うものなのだろう。
「追いついたぞぉぉおぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」
ばたばたと足音が聞こえた。
振り返るとジュリアたちが来た方の開いていた扉から、すごい剣幕で男が走りこんできた。少し面長の顔が、悪鬼のように歪められている。その後ろにもう一人いるようだがそんなものは目に入らない。
ジュリアがぎょっとして部屋の隅に逃れるのには目もくれず、クラークは晴れやかな笑顔で両腕を広げた。
「久しいな我が弟、ルークよ!」
「弟っ!? 弟も馬鹿なの!!?」
「だって兄弟だから!」
何故か自信満々にクラークは頷いて、突進してくる弟の前に出る。
そして彼は全力疾走の勢いを十分に乗せた一撃を顔面にもらって吹っ飛んだ。
「へブォしッ!!!!」
「倒したぞおおおおおお!」
「やりましたねルーク様!」
叫んだのは、走ってきた二人目だった。だがそんなことはもうどうでもいい。ここは本当にワンダーランドとかそういうところなのかも知れない。
ここにはマトモな人は一人もいない。馬鹿兄弟とかその仲間とか半裸とかしかいない世界に迷い込んでしまったのなら。
――早く現実に帰らなければならない!!
ジュリアは静かに深呼吸して戦闘態勢を整えた。
場所:ソフィニア近郊 -遺跡パジオ、内部
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がらがらがらがら――
手押し車か何か、そういったものの車輪が回るのを連想させる音が聞こえて、ジュリアは部屋の奥に視線を転じた。
開かれていない扉。ここに訪れたのとは逆の方向。
たった今まで、正面の壁が壁でなく扉であることにさえ気づかなかった。明かりが地面に置かれた室内用ランプ一つしかないのと、いい加減に注意力が散漫になっていたので。
「……おい」
「どしたのお姉さん?」
地図と、懐から取り出した紙切れを熱心に見ながら、クラークが上の空な返事をした。
ジュリアはその態度に舌打ちでもしたい気分になったが我慢する。その代わり、眉間に浅くしわを寄せて、馬鹿の背中を拳で叩いた。
「何か来る」
「そりゃダンジョンだからね。モンスターの一匹や二匹いるでしょ」
「車輪が――」
クラークは。
二枚の紙切れから視線を上げてゆっくりと振り返った。
「本当だ。意外と早かったなぁ」
今までになく真面目な視線で真正面から見据えられ、ジュリアは思わず睨み返す。
「心当たりが?」
「おなじ目的でここに来るライバルがいたりいなかったり」
相手の緑色の瞳は、初めて会ったときと同じで、色だけは綺麗だった。くたびれたような年齢不詳の外見――何かを勘違いしているとしか表現できない大げさな探検家ルックは色あせていて、色のあせたモノクロの中で、その緑だけが酷く場違いだ。
困ったようにクラークは唸り、「すぐに開けられるだろうな」と言った。
「さて、ここからが依頼だ西の魔女……引き受けてもらえるかな」
「今までは慈善事業?」
首をかしげ、軽く細めた目で見上げたまま口の端を吊り上げる。
実際には別に金銭にこだわるつもりはなかった。面白ければなんでもいい。馬鹿馬鹿しい呪いのナイフとやらが実在するなら一目見るのも悪くないだろうし、ただ歩き回る単調な時間が終わって変化が起こったのだから、やっと少し面白みも出てきたのだ。
「報酬は……君を無事に地上まで案内することでどうだろう」
脅迫まがいの言葉は予想していたので、ジュリアは感覚だけで時間を計った。
「……帰ったら夕方か」
「だねぃ」
「昼食とりそこねた」
「じゃあ、案内と夕飯で取引成立」
ジュリアはうなずいて続きを促した。クラークは苦笑して奥の扉を見る。
ぼんやりと、扉の表面に淡い光が浮いていた。文様のような――いや、あれは、文字。見たこともない記号だったが、何等かの意味と力を持った言葉であると知れた。
「それで、依頼の内容は?」
「やり方に何も口を出さないけど、達成条件は一つだけ」
「何?」
クラークは薄く、薄く、笑った。
「――“遺跡の宝はオレのものだ”」
くつくつという笑い声。色だけは綺麗な緑の双眸。
くすんだ男が、まだどこか誠実そうに見えたのは、それだけの根拠に過ぎなかった。だが不誠実にも見えない。彼をあらわす言葉は“馬鹿”と“無意味”である。
ゆっくりと扉が開き始めたのでジュリアはそちらを見ながら、最後に訊いた。
「世界征服、やる?」
「とりあえず弟に見せびらかして自慢してから考えやぅ」
ぎぢぎぢと軋みながら重い両扉が動く。その振動で遺跡全体が揺れているように感じた。塵が落ちる。ランプの光が奥へ続いている通路を照らしていく。
見えたのは――恐らく人間だった。何か大きな四角いものを隣に置いている。
「クラーク!」
ジュリアは悲鳴のような声を上げた。名前を呼んでしまったが、そんなことはもう、どうでもよかった。大荷物を背負った探検家は、相変わらずのほほんとしていた。恨めしさよりも憎悪に近いものをおぼえ、町に帰ったら酷い目に遭わせてやると心の中で恫喝する。
現れた人影の方も、ここに人がいることなど想像していなかったのだろう。それも、変な格好の馬鹿とワンピースの女の二人連れ。そんな組み合わせは意味不明だ。
それともいきなり悲鳴を上げられたせいかも知れないが、困ったように立ち尽くしている。
だからその隙にジュリアは雇い主に文句を突きつけた。
「なんでこんなところに半裸の男がいる!? 脈絡がナイにも程があるだろう!」
「いやぁビックリだね。ここってワンダーランドだったんだ」
驚いているようには見えない。言っている意味もまったくわからない。
ジュリアは復讐――あるいは八つ当たり――の内容を直前に考えていたよりもえげつないものに変更することを決めながら、現れた男を観察した。
なんていうか半裸だ。だからといって人様に見せびらかすほどの肉体美ではない。むしろ逆で……虚弱、という言葉の定義そのものが人間の形をしているようだ。インドア派なんて印象は生ぬるい。風が吹かなくても倒れそうだ。
どうやってここまで辿り着いたものか、まったく想像がつかなかった。
髪はたぶん黄色っぽい色で、それに隠れて顔はよく見えないが、少なくともクラークよりは老けているように見えた。ひどい猫背。でもたぶん長身だろう。痩せすぎていてそう見えるという可能性もあるが、決して短躯ではないことは間違いない。
大きな羽ペンのようなものも持っているが、あんな大きな羽ペンは見たことないので、きっと何か違う用途に使うものなのだろう。
「追いついたぞぉぉおぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」
ばたばたと足音が聞こえた。
振り返るとジュリアたちが来た方の開いていた扉から、すごい剣幕で男が走りこんできた。少し面長の顔が、悪鬼のように歪められている。その後ろにもう一人いるようだがそんなものは目に入らない。
ジュリアがぎょっとして部屋の隅に逃れるのには目もくれず、クラークは晴れやかな笑顔で両腕を広げた。
「久しいな我が弟、ルークよ!」
「弟っ!? 弟も馬鹿なの!!?」
「だって兄弟だから!」
何故か自信満々にクラークは頷いて、突進してくる弟の前に出る。
そして彼は全力疾走の勢いを十分に乗せた一撃を顔面にもらって吹っ飛んだ。
「へブォしッ!!!!」
「倒したぞおおおおおお!」
「やりましたねルーク様!」
叫んだのは、走ってきた二人目だった。だがそんなことはもうどうでもいい。ここは本当にワンダーランドとかそういうところなのかも知れない。
ここにはマトモな人は一人もいない。馬鹿兄弟とかその仲間とか半裸とかしかいない世界に迷い込んでしまったのなら。
――早く現実に帰らなければならない!!
ジュリアは静かに深呼吸して戦闘態勢を整えた。
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キャスト:イェルヒ
シーン:ソフィニア近郊 -遺跡パジオ、内部、最下層
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「……に半裸の男がいる!?」
「……ぅとっ!? ……も馬鹿なの!!?」
「……兄弟だから!」
「へブォしッ!!!!」
「……ぉしたぞおおおおおお!」
「……ゥク様!」
耳を澄ますまでも無い。
阿鼻叫喚が反響効果を得て、不気味に響き渡った。
女の絶叫のようなものも混じっているようだが、それは更なる不気味さを煽るだけのものにしかならなかった。
……ここはどこなんだ。
別次元に来たのか。
別次元世界であれば、それはそれで問題であるが。
この音が、自分が今まで生活していた世界と繋がっているのであれば、それはそれ以上に問題が山積みになる。
人が、いるのだろう。少なくとも、人に近いものがいるのだろう。あれが何かの鳴き声であるには、発音の種類が多様すぎる。
希望的予測として、別次元としてみよう。別次元であれば……研究意欲に逃げることが出来る。
絶望的予測として、同次元としてみよう。自分の存在する世界と同一であれば……先ほどの言語は、私の認識している言語と一致している可能性が著しく高くなるということであり。「半裸」などという言葉も、自分の思っている通りの意味として受け取らなければならないだろう。
さて。
今、自分がなぜこうも全力疾走をしているのかの答えを考えよう。
聞き覚えのある声があったからだ。紛れもない、あの入り口で見た二人の声だ。
通常ならば、異空間に飛ばされたのであればきっと駆け寄ったに違いない。だが、あんな奇妙な音……「へブォしッ!!!!」などという人間が発生し得ないような音……が聞こえた後では、別次元だろうが関係ない。
本能の取る行動は、時として理性を超える。
そして、イェルヒはその生物の持つ生存本能に感謝しながら、走っていた。
足音など気にしない。というか、あの騒ぎで聞き取れるはずが無い。……その結論も、先行く本能を追いかける理性によるものだ。
あぁ、とイェルヒはそこで気づいた。
これは、本能の働きが理性を越しているのではない。理性の働きがいつもより遅れているのだ。
恐怖は、思考能力を低下させているのだ。
イェルヒは更に恐怖した。考える能力を奪われるのは、自分の積み重ねの崩壊だ。
だが、すぐに、自覚した恐怖をなだめるように努める。大抵のストレスは、自覚し、把握してしまえば効果は半減する。
恐怖を自覚したイェルヒは、少しだけ泣きそうになっている自分に気づいた。
あぁ、いっそ無力であれば、全てを現状に身を任してしまい、楽になれるのかもしれない。などと、自身ではできもしないと分かっている夢想を、少しだけした。
と、自分に対しての思考をし、どうやらまともな把握能力が戻ってきたらしいイェルヒは、あることに気づいた。
緩やかではあるが、傾斜がある。そして、どうやら螺旋を描いており、ゆっくりと螺旋の中心部分にあたる場所へと続いているようだ。
パジオの、唯一の特徴。
「種」に対する信仰。
地中深くには「死」があり、それが時とともに浮上し「生」になる。
いわば、これは……。
死に続く螺旋スロープ
息が上がってきたこともあるが、それ以上の理由でイェルヒは緩やかになる。
体温が上がっているというのに、先ほどよりも空気が冷えているように感じた。
しかし、歩みは止まらない。
興味が勝った……部分もあるが、現実はそう美しいものばかりで出来ている訳では無い。実際のところの理由は、背後からおどろおどろしく響く音が、イェルヒを追いやっていたというのが大きい。
どちらにしろ、関わりあいたくないことが分かりきっている方向へ行くのと、知的好奇心を騒がせる可能性を持ったものへ近づくのとでは、後者を選ぶに決まっている。
意を決し、緩やかになっていた歩調を、通常の速さに戻す。
と、イェルヒは気づいた。
……背後から、奇妙な音の発生源が、近づいてきているような気がしたのだ。(……音がだんだん大きくなっているという、それまた恐ろしいことで無ければの話だが)
『気がした』という表現をしたのは、いい加減自分が狂ってしまって恐ろしい幻聴が聞こえてきたのかなぁ、などという冷静に考えての判断を含んでいたからだ。……その可能性にすがりたいという欲望もあったが。
イェルヒは、走った。
そんな冷静に判断できる自分が『狂っている』とは思えなかったからだ。
自らによって、残された希望を打ち砕いたイェルヒは、またひとつ大人になった。
だんだんと、壁のカーブが急になってゆく。円の中心に近づいているのだ。
そこで初めて、イェルヒはこのまま行き止まりという可能性もあることに気づいた。
『袋の鼠』という不吉な言葉が頭をよぎる。
胃の中が不安に満ちて吐きそうになった時、突き当たりが見えた。そこには、鉄の扉があった。
飛びつくように、扉に手をかける。が、ガコンという音を立てるだけで、扉は開かない。背後の音声はおぞましい響きを帯びつつ近づく(ような気がした、とまだあがいてみせる)。
パニックに陥りそうな脳を駆使して、急いで開錠の呪文を唱えるイェルヒ。
息切れと焦りで呪文の発音がうまくいかなかったので、失敗したのではないかと思ったが、祈るように扉を押すと、すんなり開いた。
内側に充満していた湿り気を含んだ熱気が、開けられた扉の隙間から逃げてゆく。
円形の部屋には炎に対峙している一人の男がいた。
時折見える男の目は、この部屋の暑さ以上に熱いものがある。誰もが慄くその情熱の強さがその眼の内側にあった。
じっとりとした空気に高温。当然、男の顔には汗が玉になって浮かんでいる。が、男はそれに気にも留めず、黙々と自分の行為に集中している。
男は、一心不乱に鉄鍋を振って、米を躍らせていた。
それは、ある種の芸術性を放ちながら。
イェルヒは、静かに扉を閉め、そして、静かにその場に打ち崩れた。
シーン:ソフィニア近郊 -遺跡パジオ、内部、最下層
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「……に半裸の男がいる!?」
「……ぅとっ!? ……も馬鹿なの!!?」
「……兄弟だから!」
「へブォしッ!!!!」
「……ぉしたぞおおおおおお!」
「……ゥク様!」
耳を澄ますまでも無い。
阿鼻叫喚が反響効果を得て、不気味に響き渡った。
女の絶叫のようなものも混じっているようだが、それは更なる不気味さを煽るだけのものにしかならなかった。
……ここはどこなんだ。
別次元に来たのか。
別次元世界であれば、それはそれで問題であるが。
この音が、自分が今まで生活していた世界と繋がっているのであれば、それはそれ以上に問題が山積みになる。
人が、いるのだろう。少なくとも、人に近いものがいるのだろう。あれが何かの鳴き声であるには、発音の種類が多様すぎる。
希望的予測として、別次元としてみよう。別次元であれば……研究意欲に逃げることが出来る。
絶望的予測として、同次元としてみよう。自分の存在する世界と同一であれば……先ほどの言語は、私の認識している言語と一致している可能性が著しく高くなるということであり。「半裸」などという言葉も、自分の思っている通りの意味として受け取らなければならないだろう。
さて。
今、自分がなぜこうも全力疾走をしているのかの答えを考えよう。
聞き覚えのある声があったからだ。紛れもない、あの入り口で見た二人の声だ。
通常ならば、異空間に飛ばされたのであればきっと駆け寄ったに違いない。だが、あんな奇妙な音……「へブォしッ!!!!」などという人間が発生し得ないような音……が聞こえた後では、別次元だろうが関係ない。
本能の取る行動は、時として理性を超える。
そして、イェルヒはその生物の持つ生存本能に感謝しながら、走っていた。
足音など気にしない。というか、あの騒ぎで聞き取れるはずが無い。……その結論も、先行く本能を追いかける理性によるものだ。
あぁ、とイェルヒはそこで気づいた。
これは、本能の働きが理性を越しているのではない。理性の働きがいつもより遅れているのだ。
恐怖は、思考能力を低下させているのだ。
イェルヒは更に恐怖した。考える能力を奪われるのは、自分の積み重ねの崩壊だ。
だが、すぐに、自覚した恐怖をなだめるように努める。大抵のストレスは、自覚し、把握してしまえば効果は半減する。
恐怖を自覚したイェルヒは、少しだけ泣きそうになっている自分に気づいた。
あぁ、いっそ無力であれば、全てを現状に身を任してしまい、楽になれるのかもしれない。などと、自身ではできもしないと分かっている夢想を、少しだけした。
と、自分に対しての思考をし、どうやらまともな把握能力が戻ってきたらしいイェルヒは、あることに気づいた。
緩やかではあるが、傾斜がある。そして、どうやら螺旋を描いており、ゆっくりと螺旋の中心部分にあたる場所へと続いているようだ。
パジオの、唯一の特徴。
「種」に対する信仰。
地中深くには「死」があり、それが時とともに浮上し「生」になる。
いわば、これは……。
死に続く螺旋スロープ
息が上がってきたこともあるが、それ以上の理由でイェルヒは緩やかになる。
体温が上がっているというのに、先ほどよりも空気が冷えているように感じた。
しかし、歩みは止まらない。
興味が勝った……部分もあるが、現実はそう美しいものばかりで出来ている訳では無い。実際のところの理由は、背後からおどろおどろしく響く音が、イェルヒを追いやっていたというのが大きい。
どちらにしろ、関わりあいたくないことが分かりきっている方向へ行くのと、知的好奇心を騒がせる可能性を持ったものへ近づくのとでは、後者を選ぶに決まっている。
意を決し、緩やかになっていた歩調を、通常の速さに戻す。
と、イェルヒは気づいた。
……背後から、奇妙な音の発生源が、近づいてきているような気がしたのだ。(……音がだんだん大きくなっているという、それまた恐ろしいことで無ければの話だが)
『気がした』という表現をしたのは、いい加減自分が狂ってしまって恐ろしい幻聴が聞こえてきたのかなぁ、などという冷静に考えての判断を含んでいたからだ。……その可能性にすがりたいという欲望もあったが。
イェルヒは、走った。
そんな冷静に判断できる自分が『狂っている』とは思えなかったからだ。
自らによって、残された希望を打ち砕いたイェルヒは、またひとつ大人になった。
だんだんと、壁のカーブが急になってゆく。円の中心に近づいているのだ。
そこで初めて、イェルヒはこのまま行き止まりという可能性もあることに気づいた。
『袋の鼠』という不吉な言葉が頭をよぎる。
胃の中が不安に満ちて吐きそうになった時、突き当たりが見えた。そこには、鉄の扉があった。
飛びつくように、扉に手をかける。が、ガコンという音を立てるだけで、扉は開かない。背後の音声はおぞましい響きを帯びつつ近づく(ような気がした、とまだあがいてみせる)。
パニックに陥りそうな脳を駆使して、急いで開錠の呪文を唱えるイェルヒ。
息切れと焦りで呪文の発音がうまくいかなかったので、失敗したのではないかと思ったが、祈るように扉を押すと、すんなり開いた。
内側に充満していた湿り気を含んだ熱気が、開けられた扉の隙間から逃げてゆく。
円形の部屋には炎に対峙している一人の男がいた。
時折見える男の目は、この部屋の暑さ以上に熱いものがある。誰もが慄くその情熱の強さがその眼の内側にあった。
じっとりとした空気に高温。当然、男の顔には汗が玉になって浮かんでいる。が、男はそれに気にも留めず、黙々と自分の行為に集中している。
男は、一心不乱に鉄鍋を振って、米を躍らせていた。
それは、ある種の芸術性を放ちながら。
イェルヒは、静かに扉を閉め、そして、静かにその場に打ち崩れた。
キャスト:ジュリア リクラゼット イェルヒ
場所:ソフィニア近郊 -遺跡パジオ、内部
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現代において“魔法”とは、理路整然とした一つの技術だが。
では過去には何だった? “魔”とは神の律に反するものであり、即ち、神が創りたもうた世界の一部を勝手に書き換える業。
ある魔法使いは言った。我々は芸術を持って世界と戦う者だと。
神の絵画を書き換える、大それた芸術家どもが振るう絵筆が魔法だと。
だから、魔力を行使するときには、一つの完成した絵画に好きな色の絵の具を塗りたくる様を想像してみればいい。きっと上手くいく。
「地下ならば根を伸ばせ、闇ならば蔓を伸ばせ。
お前に届かない場所はない、茨よ、来たれ、来たれ、――!」
無意識に師の教えを思い出しながら、ジュリアは呪文を叫んでいた。内容に意味はない。だから意味が通っていなくても構わない。ただ、思いつくままに、言葉[フデ]で魔力[エノグ]を叩きつける。
何もない空中から、茨の蔓が顕現する。かすかな魔力の匂い。
蔓は馬鹿弟とその付き人に忍び寄って絡み取る。
「なっなんだ、何をしたんだ兄さんッ!!」
「ルーク様になんて姑息な真似を!」
縛り倒された二人が喚いたが――別の人にやつあたりしてくれたから聞き流す。ジュリアは息を吐いて、吹き飛んだクラークの方を見た。いない。
「思い知ったか!」
振り返ると、いつの間にか復活した彼が勝ち誇りながら弟を足蹴にしていた。
「やはり追ってきていたか、弟よ。しかしお前に至宝を渡す気はない。
半裸まで雇ったというのに残念だったな」
「雇われ…?」
半裸の男が疑問の声を発したのをジュリアは聞いていた。無関係だろう、無関係なのだろう。格好は怪しいが、馬鹿兄弟とその付き人よりは話が通じそうな気がする。
しかし縋る目を向けかけ、いや待てよ、と考え直す。何故なら、彼は半裸だからだ。こんな場所に半裸で登場する意味がわからない。よって怪しい。
「というわけで先へ進むわよ西の魔女!」
何故かカマ言葉で叫んでクラークは部屋から飛び出した。彼と一緒に行動するのも嫌だったが、ここに残るのも嫌だったので、ジュリアは慌てて追いかける。
「あ、待てっ、コラ! 貴様に渡すわけにはいかない!!」
弟一味の怒鳴り声は華麗にスルー。
前のクラークは、大荷物を背負っているにも関わらず、やたら軽快なスキップで闇の奥へ直進していく。ジュリアが走るのと同じような速度だ。
確かに運動は苦手だが……スキップしている相手に追いつけないほどではないはず。ああ、ここは、やはり異次元なのか、そうなのか。悪夢だったらそろそろ醒めてくれ。
悪夢ではないのだとしたら、いっそ世界が滅んで欲しい。やたら世界を滅ぼしたがる大魔王とかの気持ちが少しだけわかった。
「……天使様、浄化の日は、いつですか?」
「魔女ってシューキョー信じるの?」
「まったく全然」
走りながら喋ったせいで息が切れる。脚に絡みつくスカートが鬱陶しい。
こんな格好をしてきたのは失敗かも知れないと思いながら、同時に、そう後悔したところで改めたりはしないだろうとも思った。ジュリエッタ・ローザンハインは変化を嫌う。訪れてしまえば享受するが――自分から望むことは、ない。
「じゃあ何を信じる?」
クラークの声は笑っていた。悪意も揶揄も忍ばせようがないほど純粋に明るく。
背後から騒ぎ声と、数人が走る音が聞こえてきた。意外と早かった。
「別に」
息が切れる。ぜいぜいと肺に空気を送り込む。返事は恐らく言葉にならなかった。何も信じないわけではない。信じるものがあるわけではない。つまり、そこらへんに転がっている自称無神論者よりは誠実で、自称敬虔な信徒よりは正直だということだ。
今、信じられないものはただ一つ。
“いちど手にすると、ことあるごとにチャーハンを作りたくなる呪いのナイフ”などというよくわからないもののために、馬鹿と遺跡にもぐって、しかもライバルが出現して、挙句の果てにそのライバルも馬鹿だという、どうしようもないこの現実だ。
すべて嘘だったらいいのに。作り事だったらいいのに。
誰か「これ全部ジョークでした」ってタネ明かしをしにしてくれないだろうか。そうしたら笑ってやる。そいつを捕まえて燃して潰して刻んで埋めてから。
「あ、誰かいる」
「え?」
キキキーッ! と、ありえない音を立ててクラークが急停止した。ジュリアは足を止め、肩を上下させながら振り返った。前は馬鹿が見ているから、馬鹿なりに対処するだろう。後ろからは馬鹿が追ってくるから、近づかれる前に処理しなければいけない。
「やあやあお兄さん、こんなところで一体何をしているのだにだ?
この奥には秘宝があって、弟に自慢した跡でチャーハンが世界を滅ぼす予定」
……後ろは気にしないことにする。ちょっと可哀想な気もしたが、こんなところに一人でいるのだから、やっぱり不審人物だろう。二人や三人でも怪しいが。いっそ、自分以外は全員が怪しいということでいいか。
馬鹿弟が追いついてきた。
ジュリアは口を開いた。
「そこで止まれ。馬鹿同士で鉢合わせたら面倒だから」
「なんだお前は!」
「遅っ」
今まで眼中になかったということか。いっそ見られないままのほうがよかったかも知れない、なんて少しだけ思う。いや、嘘だ。少しどころではない。一言目を発した時点でいきなり後悔しながら、ジュリアは半眼でルークとその連れを見た。
「ええと……後ろの馬鹿に雇われた。
お前らを亡き者にしつつ、馬鹿がくっだらないナイフを手に入れるのを手伝う」
後ろから声がかかった。
「いちおう弟だから生かしといてくれると嬉しいなり」
「……さっき、手段は選ばなくていいと言ったのに……まぁいいや」
どうしても殺したいということはない。存在ごと抹消したい気分がまったくないとは言わないが、いちいち実行していたら犯罪者だ。
ジュリアはわざとらしく咳払いして、ルークに指を向けた。
「そういうわけでお前ら帰れ」
「…………ふざけるなっ」
「ルーク様に向かってなんてことを!」
二人組は一瞬だけ黙った後、わかりやすいほど顔を真っ赤にして激昂した。
口々に言い返してくる。その間にも後ろで馬鹿が何か言っていて――何やら絶望しきったうめき声のようなものが聞こえたが、気にしないことにしよう。
二人組の背後に、歩いて追いついてきた、半裸の男が現れた。
もう、何がなんだかわからない。
場所:ソフィニア近郊 -遺跡パジオ、内部
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現代において“魔法”とは、理路整然とした一つの技術だが。
では過去には何だった? “魔”とは神の律に反するものであり、即ち、神が創りたもうた世界の一部を勝手に書き換える業。
ある魔法使いは言った。我々は芸術を持って世界と戦う者だと。
神の絵画を書き換える、大それた芸術家どもが振るう絵筆が魔法だと。
だから、魔力を行使するときには、一つの完成した絵画に好きな色の絵の具を塗りたくる様を想像してみればいい。きっと上手くいく。
「地下ならば根を伸ばせ、闇ならば蔓を伸ばせ。
お前に届かない場所はない、茨よ、来たれ、来たれ、――!」
無意識に師の教えを思い出しながら、ジュリアは呪文を叫んでいた。内容に意味はない。だから意味が通っていなくても構わない。ただ、思いつくままに、言葉[フデ]で魔力[エノグ]を叩きつける。
何もない空中から、茨の蔓が顕現する。かすかな魔力の匂い。
蔓は馬鹿弟とその付き人に忍び寄って絡み取る。
「なっなんだ、何をしたんだ兄さんッ!!」
「ルーク様になんて姑息な真似を!」
縛り倒された二人が喚いたが――別の人にやつあたりしてくれたから聞き流す。ジュリアは息を吐いて、吹き飛んだクラークの方を見た。いない。
「思い知ったか!」
振り返ると、いつの間にか復活した彼が勝ち誇りながら弟を足蹴にしていた。
「やはり追ってきていたか、弟よ。しかしお前に至宝を渡す気はない。
半裸まで雇ったというのに残念だったな」
「雇われ…?」
半裸の男が疑問の声を発したのをジュリアは聞いていた。無関係だろう、無関係なのだろう。格好は怪しいが、馬鹿兄弟とその付き人よりは話が通じそうな気がする。
しかし縋る目を向けかけ、いや待てよ、と考え直す。何故なら、彼は半裸だからだ。こんな場所に半裸で登場する意味がわからない。よって怪しい。
「というわけで先へ進むわよ西の魔女!」
何故かカマ言葉で叫んでクラークは部屋から飛び出した。彼と一緒に行動するのも嫌だったが、ここに残るのも嫌だったので、ジュリアは慌てて追いかける。
「あ、待てっ、コラ! 貴様に渡すわけにはいかない!!」
弟一味の怒鳴り声は華麗にスルー。
前のクラークは、大荷物を背負っているにも関わらず、やたら軽快なスキップで闇の奥へ直進していく。ジュリアが走るのと同じような速度だ。
確かに運動は苦手だが……スキップしている相手に追いつけないほどではないはず。ああ、ここは、やはり異次元なのか、そうなのか。悪夢だったらそろそろ醒めてくれ。
悪夢ではないのだとしたら、いっそ世界が滅んで欲しい。やたら世界を滅ぼしたがる大魔王とかの気持ちが少しだけわかった。
「……天使様、浄化の日は、いつですか?」
「魔女ってシューキョー信じるの?」
「まったく全然」
走りながら喋ったせいで息が切れる。脚に絡みつくスカートが鬱陶しい。
こんな格好をしてきたのは失敗かも知れないと思いながら、同時に、そう後悔したところで改めたりはしないだろうとも思った。ジュリエッタ・ローザンハインは変化を嫌う。訪れてしまえば享受するが――自分から望むことは、ない。
「じゃあ何を信じる?」
クラークの声は笑っていた。悪意も揶揄も忍ばせようがないほど純粋に明るく。
背後から騒ぎ声と、数人が走る音が聞こえてきた。意外と早かった。
「別に」
息が切れる。ぜいぜいと肺に空気を送り込む。返事は恐らく言葉にならなかった。何も信じないわけではない。信じるものがあるわけではない。つまり、そこらへんに転がっている自称無神論者よりは誠実で、自称敬虔な信徒よりは正直だということだ。
今、信じられないものはただ一つ。
“いちど手にすると、ことあるごとにチャーハンを作りたくなる呪いのナイフ”などというよくわからないもののために、馬鹿と遺跡にもぐって、しかもライバルが出現して、挙句の果てにそのライバルも馬鹿だという、どうしようもないこの現実だ。
すべて嘘だったらいいのに。作り事だったらいいのに。
誰か「これ全部ジョークでした」ってタネ明かしをしにしてくれないだろうか。そうしたら笑ってやる。そいつを捕まえて燃して潰して刻んで埋めてから。
「あ、誰かいる」
「え?」
キキキーッ! と、ありえない音を立ててクラークが急停止した。ジュリアは足を止め、肩を上下させながら振り返った。前は馬鹿が見ているから、馬鹿なりに対処するだろう。後ろからは馬鹿が追ってくるから、近づかれる前に処理しなければいけない。
「やあやあお兄さん、こんなところで一体何をしているのだにだ?
この奥には秘宝があって、弟に自慢した跡でチャーハンが世界を滅ぼす予定」
……後ろは気にしないことにする。ちょっと可哀想な気もしたが、こんなところに一人でいるのだから、やっぱり不審人物だろう。二人や三人でも怪しいが。いっそ、自分以外は全員が怪しいということでいいか。
馬鹿弟が追いついてきた。
ジュリアは口を開いた。
「そこで止まれ。馬鹿同士で鉢合わせたら面倒だから」
「なんだお前は!」
「遅っ」
今まで眼中になかったということか。いっそ見られないままのほうがよかったかも知れない、なんて少しだけ思う。いや、嘘だ。少しどころではない。一言目を発した時点でいきなり後悔しながら、ジュリアは半眼でルークとその連れを見た。
「ええと……後ろの馬鹿に雇われた。
お前らを亡き者にしつつ、馬鹿がくっだらないナイフを手に入れるのを手伝う」
後ろから声がかかった。
「いちおう弟だから生かしといてくれると嬉しいなり」
「……さっき、手段は選ばなくていいと言ったのに……まぁいいや」
どうしても殺したいということはない。存在ごと抹消したい気分がまったくないとは言わないが、いちいち実行していたら犯罪者だ。
ジュリアはわざとらしく咳払いして、ルークに指を向けた。
「そういうわけでお前ら帰れ」
「…………ふざけるなっ」
「ルーク様に向かってなんてことを!」
二人組は一瞬だけ黙った後、わかりやすいほど顔を真っ赤にして激昂した。
口々に言い返してくる。その間にも後ろで馬鹿が何か言っていて――何やら絶望しきったうめき声のようなものが聞こえたが、気にしないことにしよう。
二人組の背後に、歩いて追いついてきた、半裸の男が現れた。
もう、何がなんだかわからない。
時間の流れが速い人間は、後悔をしては、死にたがることがあるという。
死にたい、という思想など、理解できなかった。自分の種族の寿命のせいでもあるだろう。これからの時間はまだまだ存在し、「取り返しのつかないこと」など、そんなには存在しなかった。
だが、しかし。今、イェルヒは、理解した。
これは「死にたい」というよりも、そう。「消えてこの空間に存在していたくない」というものに近い。
今見たものの情報整理ができていないのに、それは、来た。
バタバタという遠慮のない足音が目の前で止まって足だけが見える。首を上げて見上げる気力も、起きない。
「やあやあお兄さん、こんなところで一体何をしているのだにだ?」
なんなのだ、その語尾は。なぜ、同一の濁音ではさむという、わざわざ言いにくい発音のパターンをねじ込むのか。不自然極まりない。
頭の片隅で、か細く響いたが、それを口に出すのは億劫だった。
その後、男は何か続けて言っているのをぼんやり聞いていたが、理解できなかった。あぁ、なにか理解できる世界はここには存在しないのだろうか。
すぐに、今度はドタドタと品の無い足音がやってきた。こちらは聞き覚えのある声。
罵声、罵声、罵声。
女の声も混じっていた。声のトーンが割と落ち着いていたので、かすかな期待がよぎったが、チラリと瞼を持ち上げて見やると、裾が広がった鮮やかな色のスカートが見えた。かすかな期待は光速で過ぎ去り、イェルヒはすぐまた、その鮮やかさを視界から追いやった。
こんな場所ではあり得ない服装だ。学校にいる、オールドミスを連想させる服装だが、ファッションにこだわりをもつあの女史でさえも、このような場所では服装を考えるというのに。
イェルヒは、知らず知らずのうちに、喉からうめき声を洩らしていたことに気づいた。
また、新たな足音。しかし、音が違う。たし、たし、という、間の抜けた足音で……どことなく頼りない。そして……音の質が、明らかに違う。そして……ガラガラという、異質な音。
疑問を持つト同時に、思わず頭を上げた。
まず、目に入ってくるのは、裸体。いや、かろうじて半裸である。顔は長い前髪によって遮られ、ほぼ、見えない。歩調はそんなに早くもないのだが、息が既に絶え絶えである。わずかに覗く顔色が明らかに悪い。
イェルヒは、決して、人の顔を覚えがいい方ではない。だが、この人物のインパクトさを忘れるほど、覚えが悪いというわけでもない。半裸、虚弱、馬鹿でかいキャスター付魔道書……。
「せ……先生ッ!?」
思わず、声を上げる。
「半裸の生徒!?」
と、すぐに、女の声が反応する。
なんだか、侮辱されているようで、イェルヒは苦い顔をするが、馬鹿共に囲まれているドレス女なんかよりも、面識のある半裸の方が、自分の知っている世界を保障しているような気がしたので、周囲のことはあまり気にしないようにした。……が、やはり、イェルヒの眉間には皺が寄っている。
イェルヒに声をかけた男は、間の抜けた顔をしており、ルーク達二人は、まるで今、リクラゼットの存在に気づいたかのように「ハンラ!?」などと女の復唱をしている。
「先生」
立ち上がり、リクラゼット前に立つ。
リクラゼットは、ぜーはーと、息を切らせながらわずかに顔を上げる。前髪の隙間から、光を反射させている瞳がこちらに向けられた。
あぁ、これだ。イェルヒは、先ほどの絶望から回復していくのを自覚した。そう、まともな事象があってこそ、まともな思考の足掛かりになるのだ。
「君は……」
「覚えていらっしゃるでしょうか……? 専攻も違いますが、一期だけ、講義を受けたことがあるだけなんですけども。
イェルヒと言います」
「あぁ、いや……覚えて、いる」
死にそうな声で、死にそうに呼吸をしながら……そしてその呼吸もあまりに過度で、その呼吸が原因でこれまた死にそうな……。ともかく、リクラゼットは、死にそうな様子で、必死で返事を返した。
「……大丈夫ですか?」
背中に手をやろうとしたが、失礼にあたるかもしれないと思って、イェルヒは中途半端なところで手を止めた。
あまりの、息も絶え絶えな様子に、周囲もある一定の距離をとりながらも、リクラゼットの周囲を囲むように近寄ってきた。
「……せま、くて……まどー……しょに、の、れなく、て。
でも……なん、か……いそ、が……」
「もう、喋らないで下さい」
イェルヒは苛立ちを押さえようとして……しかし、完全にはできず、逆に不快さが強調された声で、言った。「うわぁ……」などという声が後ろから聞こえた。この声はイマツあたりだろう。軽く見やると、睨まれたとでも思ったのか、イマツは軽くのけぞった。……目つきが悪いのは、生まれつきだ、となんとなく心の中で抗議するだけにとどめたのだが、顔は素直なもので、すぐさま眉間に皺が寄った。それを見て、イマツはルークの後ろに隠れる。
「お兄さん、これ、飲む? 水」
小さめの水筒を三つも肩にかけている男が、そのうちの一つをコップに入れて差し出してきた。先ほどイェルヒに声をかけた男だ。
思わず受け取ってしまい、イェルヒはどうしたものかと思って……とりあえず匂いをかいだ。
「うわっ! 傷つく!」
男は大仰に反応した。……受け取っておいてなんだが、イェルヒは「この男は、生理的に受け付けない」と、思った。
コップの中身は無色透明で、いたって普通の水のような匂いであったが、念のために、イェルヒは聞いた。
「……他は?」
と、顎で水筒をさす。
「全部一緒だに」
意味が分からない。それならばサイズの大きな水筒にまとめればいいだろうに。
これを飲んだ後に死なれたらすごい寝覚めが悪いだろうな、と思いつつ、とりあえず、リクラゼットに手渡す。自分の手で飲ませるより、自身の手で飲んで倒れる方が、きっと寝覚めは良いからだ。
無言で、喉を鳴らしながらリクラゼットはそれを飲む。時折、げほぉ、げふぉ、などと病床の老人のような咳をしていたけども、とりあえず、苦しんでいる様子はない。
とりあえず、落ち着いて、改めてあたりを見回す。
水筒を差し出してきた、語尾がおかしな男。その隣には、赤い派手な……ドレスとも言える様なデザインのワンピースを着た、ふてぶてしい顔つきの女。少し離れて、面長で無駄な生真面目さを持ったルーク。その後ろに、平凡さと実直さをうるさいほどに主張しているイマツ。そして、目の前には、死にかけている元講師リクラゼット。
立ちくらみをおこしかけたが、あのドアの先の光景を思い出して、無理矢理立ち直らせる。
「……とりあえず。状況を、把握させてくれないか……」
なんだか、この台詞を言うと同時に、イェルヒにどっと疲れが襲い掛かってきた。なんで、こんな連中と接点を持たざるを得ないのか。あんなにも、避けてきたのに。
「とりあえず……俺は、魔術学院在籍のイェルヒで……。
……ボランティアが、目的でここに来たんだが……。
とりあえず……説明が長くなるから、地図をそれぞれ出してくれないか……」
何を言うべきで、何を言わないべきかを考えながら、途切れ途切れに言う。とりあえず、自分の地図……二枚重ねの上がわの部分のみを、出す。右下に「男の浪漫、ここにあり」などと書いてある地図だ。
イマツとルークは顔を見合わせて、どうしようかを探っている。が、そんな周囲の状況など構わず、水筒男が身を乗り出して自己紹介を始めた。
「夢とロマンを追う永遠の狩人クラークだぞなもし」
語尾が変わっている。しかし誰も指摘しない。きっとそれで……いや、それ「が」、正解なのだろう。
「って、なんで、お兄さん、オレの地図持ってんの?」
と言いつつ、クラークは地図を差し出した。女が「あ」などと言う。ルークとイマツは「え?」と間抜けた声を出す。そして、イェルヒも、地図を見て、声を上げそうになった。
差し出されたのは、二枚重ねの隠された方の地図の写し。しかも、かなり精巧に。
イェルヒは、クラークの顔を思わず見る。クラークは、かすかに意味深に笑ってみせた……ように見えた。この男の場合、この笑みに意味があるのか、無いのかがまったく分からない。ただ、雰囲気的にそうしてみせた可能性も十分ありえる。
「で、こっちのお姉さんが夕飯に釣られてオレに雇われている人で……あれ? 名前なんだっけ?」
くるりと首をひねり、女に顔を向けるクラーク。女は、舌打ちをして、苦々しい顔をした。
「……気づいたか。最後の砦だ。守らせろ」
お世辞にも、二人は仲がいいとは言い難いようだ。
「んじゃぁ、ジュリアってことで」
「なんで知ってるの!?」
「え? 勘だけど合ってた? わーい」
どうやら、クラークは、イェルヒ以外にとっても不条理な存在らしい。
「で、こっちが弟のルークと、その下僕のイマツ」
クラークは勝手に紹介し始め、様子を探っていたルーク達はアクションを起こさずにはいられなくなった。
「イマツは下僕ではない! 我が友だ!」
「ルーク様……!! 一介の従者である私なんかを友と仰っては……!」
「……いいんだ、イマツ……お前は、従者以上に私の……」
コントが始まりそうだ。おそろしく、つまらないコントが。
「地図」
イェルヒは、その生ぬるくてベタベタした交流を、氷の斧で断ち切るように断絶させた。今度はクラークが「お姉さん以上に、冷たいツッコミーだね」などとほざく。
ルークは陶酔を邪魔されたのが気に食わないのか、渋々、というように差し出した。そして、それをイェルヒは引っつかんで奪った。
「あ!」
「泥棒!」
「非道!」
「オニ!」
「悪魔!」
「おまえのかーちゃん、でーべそ!」
周囲から絶えることなく、イェルヒに襲い掛かる罵詈讒謗の波。先ほどまで罵言を浴びせあっていたのに、なんと息の合っていることか。
「こ、れ、は、元は俺の物だ! ここ! これを見ろ!!
魔術学院の正式印だ! 文句あるか!?」
「出たよ、お上の権力」
はーぁ、とわざとらしく肩をすくめてクラークが言った。魔術学院は国家や都市での行政で活躍する人材を多く輩出するので、つながりは全く無いとは言い切れない。が、国の権力の象徴というわけでもない。それを説明するのも、もう面倒くさかったので、イェルヒは続ける。
「で……これは、誰のだ」
『ハイ』
二人手を挙げる。クラークとイマツだ。クラークはイマツの顔を見て、ルークに向いた。
「盗んだ物を、被害者の前でも自分のものだと言い張るお友達は、お兄ちゃん感心できないなぁ」
「兄さんこそ、我が家から勝手に持ち出したんじゃないかっ!!」
さっきまで自分の事を泥棒と言って罵っていたことを、是非とも思い出していただきたいものだとイェルヒは思った。が、巻き込まれたくないので口にしない。
「ルーク様!」
「なんだ?」
「……今現在、地図を持っていないのは私たちだけです! なんとしてもあれを手に入れなければ……と!」
「は! そうであったか!」
本人達としては囁きあっているつもりなのだろう。だが、声を潜めているのに、ここまで見事に筒抜けに聞こえるのもめずらしい。というか、それに気づかない二人の脳内には蛆が沸いているとしか思えない。
ルークは無駄に意気込んで目を輝かしながらこちらに顔を向けた。何か言おうとルークが口を開いた途端、イェルヒは、地図を即座にルークに渡した。
「……地図が無いんじゃしょうがない。あっちは写しがあるみたいだし」
本音ではない。彼らは、地図なんか関係なくここに来ているのだからこんなものは必要ない。というか、今現在の場所はあの地図に載っていないのだから。素直に渡した本当の理由は、単にルークが鬱陶しく、交流を最小限にしたかったからである。
げほ、げほ、と大分落ち着いてきたリクラゼットが……それでも、まだ息は乱れているものの……話に参加してきた。
「……イェルヒ君は……なんでこんなところに……」
何か、色々と説明しようとして、迷った挙句、イェルヒはこう答えた。
「…………事故です。
……先生は」
あぁ、そうだ。この人だ。イェルヒは思い出した。リクラゼット教師が、唯一ここに可能性を見出した人だった。
「……前からこちらに興味がありましたもんね」
にょき、とクラークが話題に無理矢理混ざる。
「こっちは、秘宝が目当てなのにゃりーん」
リクラゼットが身を乗り出す。
「……!! やはり、真の種が……」
「世界征服のできる魔剣ぐむぁもぁ!」
「兄さん! 我が家に伝わる秘事を軽々しく吹聴するんじゃない!」
ルークが、クラークの口を塞ぐ。
世界征服。馬鹿げている。いや、真実、こいつらは馬鹿なのだ。気にするまい。と、イェルヒはさっさと流した。が、リクラゼットは反応した。
「やはり……! パジオは種に対する信仰の派生系で、生と死を分断し、莫大で負なるものの封印装置として遺跡があるのか……! そして、枝分かれを決定的にしたものの可能性が高いのは、古代文字の思想との融合……相反する思想の融合起点がこれからの研究課題か……」
イェルヒは、こんな興奮しているリクラゼットの姿を見るのは初めてだった。
あぁ、この人は学院をやめても未だに。
イェルヒの心の内が何か、震えた。
「……すると、今まで見過ごされていた種信仰の遺跡の見直しも必要に……」
ポソリ、とイェルヒは呟いた。リクラゼットは輝いた瞳をこちらに向け、頷いた。
「そうだ……。大々的な、遺跡の見直しが必要になってくる」
胸の震えが、熱をもってくる。
「感動しているところ、悪いけど」
しらけた顔で、女……ジュリアが割って入る。
「何で世界征服するんだっけ?」
待ってました、とばかりにクラークは、自慢するかのように言った。
「チャーハンで」
……チャーハンで。
周囲ではルークが「兄さん!! 我が家に伝わる秘密を!!」と世界の終わりを嘆くかのように叫んでいる。そしてそれに負けない声でイマツが叫んで慰めている。ジュリアは何か疲れた顔をしている。クラークは何故だが誇らしげだ。リクラゼットにいたっては、「米はすなわち種……」などと思考の迷路に入っている。
イェルヒは、固まっていた。
チャーハン……。チャーハン……何かが、引っかかる。
イェルヒの認識する世界に受け入れられず、無意識的に削除してしまった記憶が、復活しようとしていたとき。
扉は開いた。比喩などではなく、そのままの意味で。
「そこで騒がないでくれ! 修行の邪魔だ!!」
怒りの形相で、男がドアの隙間からこちらを睨んで、そう叫んだ。
バタン! と、勢いよくドアは閉まった。
初めて、この遺跡が静寂に包まれた。
キャスト:ジュリア リクラゼット イェルヒ
場所:ソフィニア近郊 -遺跡パジオ、内部
-----------------------------------------------------------------------
「……帰ろう」
そう呟いたのは、エルフか、それとも自分だったのか。
クラーク、ルーク、イマツの三馬鹿トリオではないことは根拠もなく確信できる。
暗い遺跡。目の前には重そうな大きな扉。表面には古めかしい模様が彫りこまれてるが、一体それが何なのかはわからない。石造りの表面を指でなでながらブツブツ呟き始めた半裸は、模様の意味を解こうとしているようにも、ただ単に現実逃避をしているようにも見えた。
だとすればさっきの呟きはエルフか自分だと判断。
常識人か、或いは同士を見つけたような希望に縋ってエルフを見ると、相手もおなじ結論に達したのか、ジュリアを見ていた。だがその目がたちまちのうちに曇って、クラークたちを見るのと同種類の視線になった。失礼この上ない。
目を逸らすのも同時。
駄目だ、ここには味方がいない。
軽く唇を噛んで黙考する。どうしよう。
どうしようと言っても、行くか引くかの二択しかないのだが。
馬鹿を黙らせる等の一時的な解決方法は、どちらかの付属物でしかない。
というか、問題はこの扉の向こうだ。何故、人がいるんだろう。
「おい!」
あくまでも名前は呼ばずに――クラークを怒鳴りつける。彼はルークたちと異世界語をやりとりしていたようだが、あっさりと振り返った。
「どうしたの?」
「どうかしまくってる。何、今の?」
「ああ、今のはねー」
何でもないことにように間延びした声だ。
クラークは無邪気に笑いながら、少しの間を置いて答えた。
「魔剣を守るチャーハン大魔王なんだな」
「「さあ、帰ろうか」」
エルフとジュリアの声が綺麗に重なった。双方共に、嫌な顔をしてそっぽを向く。
やっぱり味方はいない。それにしても、唯一話の通じそうな彼が人間ではないとは、他の連中は何なのだろう。同族(おなじ種類の生き物だと認めたくないが)不信になりそうだ。
「……チャーハン大魔王?」
半裸が扉から目を離してクラークを見た。髪に隠れたその表情は限りなく真剣に見える。真実を模索する研究者の目。手がかりを逃すまいと、危険な鋭ささえも滲ませて。もちろん、半裸だといういう時点でいろいろなものが危険だが。
「魔剣を守ってるのさー。人の手に渡ると危険だからね。
いや、それ以前に、彼自身が魔剣の魅力に取り憑かれてしまっているのかも知れない。この深い深い地下で誰にも邪魔されず、究極のチャーハンを作るために……!」
言っていることがちぐはぐだが、クラークの声はだんだんと熱を帯びていく。
半裸は熱心に聴いている。エルフは空虚な表情ですべてを聞き流している。
ルークとイマツは、馬鹿の発言が真実だというように頷いている。
ジュリアは――何をするにしろ出遅れてしまったので、呟いた。
「材料はどこから?」
「そんなものなくたって!」
「無理だし」
勢いで納得させられると思ったら大間違いだ。
くじけそうになっているだけで、判断力はまだ失われていない。
クラークが「ノリ悪いなぁ」と文句を言ってきたが、無視。
ため息をついて目の前の扉を見上げる。大きくて古い扉。それ以外の何でもない。半裸は模様の、文字のような部分を解読しようとしているらしい。エルフは手伝うフリをしながらウンザリしている。世界の常識的な部分を半裸に求めようとしている風にも見えるし、ただ単に、現実以外のことを考えることで精神を保とうとしている風にも見えた。
その様子を見ていると、クラークが軽快なスキップで扉に駆け寄った。
先にその場にいた二人が「何を」と問う隙もない。躊躇なく扉を開け放ったのだ。
その場にいる全員が硬直した。
扉の向こうはもうもうと湯気の立ち込める空間だった。空腹を思い出させる香ばしい湯気だ。何かが弾けるような音が、鍋の中の油だとすぐにわかったのは、予備知識があったからだろう。できればわかりたくなかった。
轟々と燃え盛る炎。逞しい背中。激しく振られる鉄鍋の中で米が踊る。
男の目には執念のようなものが滾り、ひたすらに米を睨みつけている。
扉が開かれたことにも気づいていないようだ。
彼の興味はチャーハンだけにある。
男のいる部屋は円形だった。燃え盛る炎と男。調理台にはチャーハンの具。無造作に置かれた包丁の刃には丸い穴が並んでいる。男は扉が開けられたことにも気づかない様子で、ただただ調理を続けている。
クラークがすすすっと扉の中へ滑り込んで、包丁を持って出てきた。
ぱたむ、と、扉が閉められる。熱気と光が遮られ、冷え冷えとした空気が戻る。
誰もが呆気に取られて見守る中、彼は、誇らしげに包丁を掲げた。
「念願のチャーハンソードを手に入れたぞ!」
「嘘ぉっ!?」
思わずツッコむ。それで我に返る。
ジュリアは異世界の生き物を見る目でクラークを見た。彼は小動物でも抱いているようなうっとりした顔で包丁に頬ずりし始めた。気味が悪い。
「……ルーク様を出し抜いてなんてことを!」
「そっ、そうだ! それを返せ、兄さん! 本当に世界を滅ぼすつもりなのか!?
いいや、そんなことはさせない! 貴様の野望はここで阻止してくれる!」
イマツの声で現実に帰ってきたらしいルークが声を張り上げたが、言っている内容は相変わらず異世界のことだった。
それとも、事態はそれだけ切迫しているのだろうか。チャーハンで。
「ひょーほほほほほほほほほーっ」
クラークはその場で一回転。なにやら怪しげな奇声を上げながらバックステップで通路の闇へと消えて行った。止める間もない、不自然なまでの素早さだった。
それを追ってルークとイマツが走り去っていく。残されたのはジュリアとエルフと半裸。この二人は、少なくとも意味不明なことを言って意味不明な行動をしたりはしない。
久しぶりに現実が(少なくとも現実に近いものが)手元に帰ってきたような気がした。
場所:ソフィニア近郊 -遺跡パジオ、内部
-----------------------------------------------------------------------
「……帰ろう」
そう呟いたのは、エルフか、それとも自分だったのか。
クラーク、ルーク、イマツの三馬鹿トリオではないことは根拠もなく確信できる。
暗い遺跡。目の前には重そうな大きな扉。表面には古めかしい模様が彫りこまれてるが、一体それが何なのかはわからない。石造りの表面を指でなでながらブツブツ呟き始めた半裸は、模様の意味を解こうとしているようにも、ただ単に現実逃避をしているようにも見えた。
だとすればさっきの呟きはエルフか自分だと判断。
常識人か、或いは同士を見つけたような希望に縋ってエルフを見ると、相手もおなじ結論に達したのか、ジュリアを見ていた。だがその目がたちまちのうちに曇って、クラークたちを見るのと同種類の視線になった。失礼この上ない。
目を逸らすのも同時。
駄目だ、ここには味方がいない。
軽く唇を噛んで黙考する。どうしよう。
どうしようと言っても、行くか引くかの二択しかないのだが。
馬鹿を黙らせる等の一時的な解決方法は、どちらかの付属物でしかない。
というか、問題はこの扉の向こうだ。何故、人がいるんだろう。
「おい!」
あくまでも名前は呼ばずに――クラークを怒鳴りつける。彼はルークたちと異世界語をやりとりしていたようだが、あっさりと振り返った。
「どうしたの?」
「どうかしまくってる。何、今の?」
「ああ、今のはねー」
何でもないことにように間延びした声だ。
クラークは無邪気に笑いながら、少しの間を置いて答えた。
「魔剣を守るチャーハン大魔王なんだな」
「「さあ、帰ろうか」」
エルフとジュリアの声が綺麗に重なった。双方共に、嫌な顔をしてそっぽを向く。
やっぱり味方はいない。それにしても、唯一話の通じそうな彼が人間ではないとは、他の連中は何なのだろう。同族(おなじ種類の生き物だと認めたくないが)不信になりそうだ。
「……チャーハン大魔王?」
半裸が扉から目を離してクラークを見た。髪に隠れたその表情は限りなく真剣に見える。真実を模索する研究者の目。手がかりを逃すまいと、危険な鋭ささえも滲ませて。もちろん、半裸だといういう時点でいろいろなものが危険だが。
「魔剣を守ってるのさー。人の手に渡ると危険だからね。
いや、それ以前に、彼自身が魔剣の魅力に取り憑かれてしまっているのかも知れない。この深い深い地下で誰にも邪魔されず、究極のチャーハンを作るために……!」
言っていることがちぐはぐだが、クラークの声はだんだんと熱を帯びていく。
半裸は熱心に聴いている。エルフは空虚な表情ですべてを聞き流している。
ルークとイマツは、馬鹿の発言が真実だというように頷いている。
ジュリアは――何をするにしろ出遅れてしまったので、呟いた。
「材料はどこから?」
「そんなものなくたって!」
「無理だし」
勢いで納得させられると思ったら大間違いだ。
くじけそうになっているだけで、判断力はまだ失われていない。
クラークが「ノリ悪いなぁ」と文句を言ってきたが、無視。
ため息をついて目の前の扉を見上げる。大きくて古い扉。それ以外の何でもない。半裸は模様の、文字のような部分を解読しようとしているらしい。エルフは手伝うフリをしながらウンザリしている。世界の常識的な部分を半裸に求めようとしている風にも見えるし、ただ単に、現実以外のことを考えることで精神を保とうとしている風にも見えた。
その様子を見ていると、クラークが軽快なスキップで扉に駆け寄った。
先にその場にいた二人が「何を」と問う隙もない。躊躇なく扉を開け放ったのだ。
その場にいる全員が硬直した。
扉の向こうはもうもうと湯気の立ち込める空間だった。空腹を思い出させる香ばしい湯気だ。何かが弾けるような音が、鍋の中の油だとすぐにわかったのは、予備知識があったからだろう。できればわかりたくなかった。
轟々と燃え盛る炎。逞しい背中。激しく振られる鉄鍋の中で米が踊る。
男の目には執念のようなものが滾り、ひたすらに米を睨みつけている。
扉が開かれたことにも気づいていないようだ。
彼の興味はチャーハンだけにある。
男のいる部屋は円形だった。燃え盛る炎と男。調理台にはチャーハンの具。無造作に置かれた包丁の刃には丸い穴が並んでいる。男は扉が開けられたことにも気づかない様子で、ただただ調理を続けている。
クラークがすすすっと扉の中へ滑り込んで、包丁を持って出てきた。
ぱたむ、と、扉が閉められる。熱気と光が遮られ、冷え冷えとした空気が戻る。
誰もが呆気に取られて見守る中、彼は、誇らしげに包丁を掲げた。
「念願のチャーハンソードを手に入れたぞ!」
「嘘ぉっ!?」
思わずツッコむ。それで我に返る。
ジュリアは異世界の生き物を見る目でクラークを見た。彼は小動物でも抱いているようなうっとりした顔で包丁に頬ずりし始めた。気味が悪い。
「……ルーク様を出し抜いてなんてことを!」
「そっ、そうだ! それを返せ、兄さん! 本当に世界を滅ぼすつもりなのか!?
いいや、そんなことはさせない! 貴様の野望はここで阻止してくれる!」
イマツの声で現実に帰ってきたらしいルークが声を張り上げたが、言っている内容は相変わらず異世界のことだった。
それとも、事態はそれだけ切迫しているのだろうか。チャーハンで。
「ひょーほほほほほほほほほーっ」
クラークはその場で一回転。なにやら怪しげな奇声を上げながらバックステップで通路の闇へと消えて行った。止める間もない、不自然なまでの素早さだった。
それを追ってルークとイマツが走り去っていく。残されたのはジュリアとエルフと半裸。この二人は、少なくとも意味不明なことを言って意味不明な行動をしたりはしない。
久しぶりに現実が(少なくとも現実に近いものが)手元に帰ってきたような気がした。