時間の流れが速い人間は、後悔をしては、死にたがることがあるという。
死にたい、という思想など、理解できなかった。自分の種族の寿命のせいでもあるだろう。これからの時間はまだまだ存在し、「取り返しのつかないこと」など、そんなには存在しなかった。
だが、しかし。今、イェルヒは、理解した。
これは「死にたい」というよりも、そう。「消えてこの空間に存在していたくない」というものに近い。
今見たものの情報整理ができていないのに、それは、来た。
バタバタという遠慮のない足音が目の前で止まって足だけが見える。首を上げて見上げる気力も、起きない。
「やあやあお兄さん、こんなところで一体何をしているのだにだ?」
なんなのだ、その語尾は。なぜ、同一の濁音ではさむという、わざわざ言いにくい発音のパターンをねじ込むのか。不自然極まりない。
頭の片隅で、か細く響いたが、それを口に出すのは億劫だった。
その後、男は何か続けて言っているのをぼんやり聞いていたが、理解できなかった。あぁ、なにか理解できる世界はここには存在しないのだろうか。
すぐに、今度はドタドタと品の無い足音がやってきた。こちらは聞き覚えのある声。
罵声、罵声、罵声。
女の声も混じっていた。声のトーンが割と落ち着いていたので、かすかな期待がよぎったが、チラリと瞼を持ち上げて見やると、裾が広がった鮮やかな色のスカートが見えた。かすかな期待は光速で過ぎ去り、イェルヒはすぐまた、その鮮やかさを視界から追いやった。
こんな場所ではあり得ない服装だ。学校にいる、オールドミスを連想させる服装だが、ファッションにこだわりをもつあの女史でさえも、このような場所では服装を考えるというのに。
イェルヒは、知らず知らずのうちに、喉からうめき声を洩らしていたことに気づいた。
また、新たな足音。しかし、音が違う。たし、たし、という、間の抜けた足音で……どことなく頼りない。そして……音の質が、明らかに違う。そして……ガラガラという、異質な音。
疑問を持つト同時に、思わず頭を上げた。
まず、目に入ってくるのは、裸体。いや、かろうじて半裸である。顔は長い前髪によって遮られ、ほぼ、見えない。歩調はそんなに早くもないのだが、息が既に絶え絶えである。わずかに覗く顔色が明らかに悪い。
イェルヒは、決して、人の顔を覚えがいい方ではない。だが、この人物のインパクトさを忘れるほど、覚えが悪いというわけでもない。半裸、虚弱、馬鹿でかいキャスター付魔道書……。
「せ……先生ッ!?」
思わず、声を上げる。
「半裸の生徒!?」
と、すぐに、女の声が反応する。
なんだか、侮辱されているようで、イェルヒは苦い顔をするが、馬鹿共に囲まれているドレス女なんかよりも、面識のある半裸の方が、自分の知っている世界を保障しているような気がしたので、周囲のことはあまり気にしないようにした。……が、やはり、イェルヒの眉間には皺が寄っている。
イェルヒに声をかけた男は、間の抜けた顔をしており、ルーク達二人は、まるで今、リクラゼットの存在に気づいたかのように「ハンラ!?」などと女の復唱をしている。
「先生」
立ち上がり、リクラゼット前に立つ。
リクラゼットは、ぜーはーと、息を切らせながらわずかに顔を上げる。前髪の隙間から、光を反射させている瞳がこちらに向けられた。
あぁ、これだ。イェルヒは、先ほどの絶望から回復していくのを自覚した。そう、まともな事象があってこそ、まともな思考の足掛かりになるのだ。
「君は……」
「覚えていらっしゃるでしょうか……? 専攻も違いますが、一期だけ、講義を受けたことがあるだけなんですけども。
イェルヒと言います」
「あぁ、いや……覚えて、いる」
死にそうな声で、死にそうに呼吸をしながら……そしてその呼吸もあまりに過度で、その呼吸が原因でこれまた死にそうな……。ともかく、リクラゼットは、死にそうな様子で、必死で返事を返した。
「……大丈夫ですか?」
背中に手をやろうとしたが、失礼にあたるかもしれないと思って、イェルヒは中途半端なところで手を止めた。
あまりの、息も絶え絶えな様子に、周囲もある一定の距離をとりながらも、リクラゼットの周囲を囲むように近寄ってきた。
「……せま、くて……まどー……しょに、の、れなく、て。
でも……なん、か……いそ、が……」
「もう、喋らないで下さい」
イェルヒは苛立ちを押さえようとして……しかし、完全にはできず、逆に不快さが強調された声で、言った。「うわぁ……」などという声が後ろから聞こえた。この声はイマツあたりだろう。軽く見やると、睨まれたとでも思ったのか、イマツは軽くのけぞった。……目つきが悪いのは、生まれつきだ、となんとなく心の中で抗議するだけにとどめたのだが、顔は素直なもので、すぐさま眉間に皺が寄った。それを見て、イマツはルークの後ろに隠れる。
「お兄さん、これ、飲む? 水」
小さめの水筒を三つも肩にかけている男が、そのうちの一つをコップに入れて差し出してきた。先ほどイェルヒに声をかけた男だ。
思わず受け取ってしまい、イェルヒはどうしたものかと思って……とりあえず匂いをかいだ。
「うわっ! 傷つく!」
男は大仰に反応した。……受け取っておいてなんだが、イェルヒは「この男は、生理的に受け付けない」と、思った。
コップの中身は無色透明で、いたって普通の水のような匂いであったが、念のために、イェルヒは聞いた。
「……他は?」
と、顎で水筒をさす。
「全部一緒だに」
意味が分からない。それならばサイズの大きな水筒にまとめればいいだろうに。
これを飲んだ後に死なれたらすごい寝覚めが悪いだろうな、と思いつつ、とりあえず、リクラゼットに手渡す。自分の手で飲ませるより、自身の手で飲んで倒れる方が、きっと寝覚めは良いからだ。
無言で、喉を鳴らしながらリクラゼットはそれを飲む。時折、げほぉ、げふぉ、などと病床の老人のような咳をしていたけども、とりあえず、苦しんでいる様子はない。
とりあえず、落ち着いて、改めてあたりを見回す。
水筒を差し出してきた、語尾がおかしな男。その隣には、赤い派手な……ドレスとも言える様なデザインのワンピースを着た、ふてぶてしい顔つきの女。少し離れて、面長で無駄な生真面目さを持ったルーク。その後ろに、平凡さと実直さをうるさいほどに主張しているイマツ。そして、目の前には、死にかけている元講師リクラゼット。
立ちくらみをおこしかけたが、あのドアの先の光景を思い出して、無理矢理立ち直らせる。
「……とりあえず。状況を、把握させてくれないか……」
なんだか、この台詞を言うと同時に、イェルヒにどっと疲れが襲い掛かってきた。なんで、こんな連中と接点を持たざるを得ないのか。あんなにも、避けてきたのに。
「とりあえず……俺は、魔術学院在籍のイェルヒで……。
……ボランティアが、目的でここに来たんだが……。
とりあえず……説明が長くなるから、地図をそれぞれ出してくれないか……」
何を言うべきで、何を言わないべきかを考えながら、途切れ途切れに言う。とりあえず、自分の地図……二枚重ねの上がわの部分のみを、出す。右下に「男の浪漫、ここにあり」などと書いてある地図だ。
イマツとルークは顔を見合わせて、どうしようかを探っている。が、そんな周囲の状況など構わず、水筒男が身を乗り出して自己紹介を始めた。
「夢とロマンを追う永遠の狩人クラークだぞなもし」
語尾が変わっている。しかし誰も指摘しない。きっとそれで……いや、それ「が」、正解なのだろう。
「って、なんで、お兄さん、オレの地図持ってんの?」
と言いつつ、クラークは地図を差し出した。女が「あ」などと言う。ルークとイマツは「え?」と間抜けた声を出す。そして、イェルヒも、地図を見て、声を上げそうになった。
差し出されたのは、二枚重ねの隠された方の地図の写し。しかも、かなり精巧に。
イェルヒは、クラークの顔を思わず見る。クラークは、かすかに意味深に笑ってみせた……ように見えた。この男の場合、この笑みに意味があるのか、無いのかがまったく分からない。ただ、雰囲気的にそうしてみせた可能性も十分ありえる。
「で、こっちのお姉さんが夕飯に釣られてオレに雇われている人で……あれ? 名前なんだっけ?」
くるりと首をひねり、女に顔を向けるクラーク。女は、舌打ちをして、苦々しい顔をした。
「……気づいたか。最後の砦だ。守らせろ」
お世辞にも、二人は仲がいいとは言い難いようだ。
「んじゃぁ、ジュリアってことで」
「なんで知ってるの!?」
「え? 勘だけど合ってた? わーい」
どうやら、クラークは、イェルヒ以外にとっても不条理な存在らしい。
「で、こっちが弟のルークと、その下僕のイマツ」
クラークは勝手に紹介し始め、様子を探っていたルーク達はアクションを起こさずにはいられなくなった。
「イマツは下僕ではない! 我が友だ!」
「ルーク様……!! 一介の従者である私なんかを友と仰っては……!」
「……いいんだ、イマツ……お前は、従者以上に私の……」
コントが始まりそうだ。おそろしく、つまらないコントが。
「地図」
イェルヒは、その生ぬるくてベタベタした交流を、氷の斧で断ち切るように断絶させた。今度はクラークが「お姉さん以上に、冷たいツッコミーだね」などとほざく。
ルークは陶酔を邪魔されたのが気に食わないのか、渋々、というように差し出した。そして、それをイェルヒは引っつかんで奪った。
「あ!」
「泥棒!」
「非道!」
「オニ!」
「悪魔!」
「おまえのかーちゃん、でーべそ!」
周囲から絶えることなく、イェルヒに襲い掛かる罵詈讒謗の波。先ほどまで罵言を浴びせあっていたのに、なんと息の合っていることか。
「こ、れ、は、元は俺の物だ! ここ! これを見ろ!!
魔術学院の正式印だ! 文句あるか!?」
「出たよ、お上の権力」
はーぁ、とわざとらしく肩をすくめてクラークが言った。魔術学院は国家や都市での行政で活躍する人材を多く輩出するので、つながりは全く無いとは言い切れない。が、国の権力の象徴というわけでもない。それを説明するのも、もう面倒くさかったので、イェルヒは続ける。
「で……これは、誰のだ」
『ハイ』
二人手を挙げる。クラークとイマツだ。クラークはイマツの顔を見て、ルークに向いた。
「盗んだ物を、被害者の前でも自分のものだと言い張るお友達は、お兄ちゃん感心できないなぁ」
「兄さんこそ、我が家から勝手に持ち出したんじゃないかっ!!」
さっきまで自分の事を泥棒と言って罵っていたことを、是非とも思い出していただきたいものだとイェルヒは思った。が、巻き込まれたくないので口にしない。
「ルーク様!」
「なんだ?」
「……今現在、地図を持っていないのは私たちだけです! なんとしてもあれを手に入れなければ……と!」
「は! そうであったか!」
本人達としては囁きあっているつもりなのだろう。だが、声を潜めているのに、ここまで見事に筒抜けに聞こえるのもめずらしい。というか、それに気づかない二人の脳内には蛆が沸いているとしか思えない。
ルークは無駄に意気込んで目を輝かしながらこちらに顔を向けた。何か言おうとルークが口を開いた途端、イェルヒは、地図を即座にルークに渡した。
「……地図が無いんじゃしょうがない。あっちは写しがあるみたいだし」
本音ではない。彼らは、地図なんか関係なくここに来ているのだからこんなものは必要ない。というか、今現在の場所はあの地図に載っていないのだから。素直に渡した本当の理由は、単にルークが鬱陶しく、交流を最小限にしたかったからである。
げほ、げほ、と大分落ち着いてきたリクラゼットが……それでも、まだ息は乱れているものの……話に参加してきた。
「……イェルヒ君は……なんでこんなところに……」
何か、色々と説明しようとして、迷った挙句、イェルヒはこう答えた。
「…………事故です。
……先生は」
あぁ、そうだ。この人だ。イェルヒは思い出した。リクラゼット教師が、唯一ここに可能性を見出した人だった。
「……前からこちらに興味がありましたもんね」
にょき、とクラークが話題に無理矢理混ざる。
「こっちは、秘宝が目当てなのにゃりーん」
リクラゼットが身を乗り出す。
「……!! やはり、真の種が……」
「世界征服のできる魔剣ぐむぁもぁ!」
「兄さん! 我が家に伝わる秘事を軽々しく吹聴するんじゃない!」
ルークが、クラークの口を塞ぐ。
世界征服。馬鹿げている。いや、真実、こいつらは馬鹿なのだ。気にするまい。と、イェルヒはさっさと流した。が、リクラゼットは反応した。
「やはり……! パジオは種に対する信仰の派生系で、生と死を分断し、莫大で負なるものの封印装置として遺跡があるのか……! そして、枝分かれを決定的にしたものの可能性が高いのは、古代文字の思想との融合……相反する思想の融合起点がこれからの研究課題か……」
イェルヒは、こんな興奮しているリクラゼットの姿を見るのは初めてだった。
あぁ、この人は学院をやめても未だに。
イェルヒの心の内が何か、震えた。
「……すると、今まで見過ごされていた種信仰の遺跡の見直しも必要に……」
ポソリ、とイェルヒは呟いた。リクラゼットは輝いた瞳をこちらに向け、頷いた。
「そうだ……。大々的な、遺跡の見直しが必要になってくる」
胸の震えが、熱をもってくる。
「感動しているところ、悪いけど」
しらけた顔で、女……ジュリアが割って入る。
「何で世界征服するんだっけ?」
待ってました、とばかりにクラークは、自慢するかのように言った。
「チャーハンで」
……チャーハンで。
周囲ではルークが「兄さん!! 我が家に伝わる秘密を!!」と世界の終わりを嘆くかのように叫んでいる。そしてそれに負けない声でイマツが叫んで慰めている。ジュリアは何か疲れた顔をしている。クラークは何故だが誇らしげだ。リクラゼットにいたっては、「米はすなわち種……」などと思考の迷路に入っている。
イェルヒは、固まっていた。
チャーハン……。チャーハン……何かが、引っかかる。
イェルヒの認識する世界に受け入れられず、無意識的に削除してしまった記憶が、復活しようとしていたとき。
扉は開いた。比喩などではなく、そのままの意味で。
「そこで騒がないでくれ! 修行の邪魔だ!!」
怒りの形相で、男がドアの隙間からこちらを睨んで、そう叫んだ。
バタン! と、勢いよくドアは閉まった。
初めて、この遺跡が静寂に包まれた。
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