人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン -廃城
------------------------------------------------------------------------
セラフィナは、崩れ落ちるベアトリスを支えようと思わず飛び出す。ライも、パト
リシアもそれを止めようとはしない。一度膝を突いた後、スローモーションのような
緩慢さで前に倒れ込んでくるベアトリスを辛うじて抱き留めるセラフィナ。顔に安堵
の色が浮かぶ。
「殺されかけたばかりだというのに、お嬢さんは優しいネ」
パトリシアが皮肉混じりに笑う。セラフィナは出来るだけ衝撃を受けないようにベ
アトリスを床に寝かせ、パトリシアを見上げながら自嘲気味に顔を歪めた。
「今治療することは出来ない……分かっているつもりでも、体は動くんですよ」
セラフィナは、一度ベアトリスに視線を落として、彼女の乱れた髪をそっと撫で、
そしてゆっくりと立ち上がる。ライを手の僅かな動きで制し、パトリシアに向き合お
うと背筋をピンと伸ばしてみせる。
「貴方がここにいるのは偶然ではないのでしょう?
……ご用件をお伺いします」
辺りに立ちこめるのは生々しい血の匂い。見える範囲にも転がり、見えないところ
まで併せればきっと山が出来るだろうというおびただしい骸の数。立っている三人以
外に動く者はなく、ねっとりとした静寂がその場を埋め尽くす。
「キミが気に入ったからネ、殺したくなかっただけだヨ」
パトリシアは肩を竦めておどけてみせた。
「キミを守ってあげる……ネェ、ボクの人形になろうヨ」
セラフィナが身を固くする。パトリシアが一歩近づいてセラフィナに触れようとし
たとき、動いたのはセラフィナではなくライの方だった。
「……彼女に触るな」
「ボロボロの死に損ないに何が出来るっていうんだい?」
ライはセラフィナの右前方に立ち、右手に持つ剣をパトリシアとセラフィナの間に
割り込ませたのだ。身体の半分はセラフィナ側を向いているのに、顔は真っ直ぐパト
リシアへと向けているライ。パトリシアとの間に火花が散る。
「そんな身体で何が出来る?
オマエはお姫様を守る騎士でもなければ、ヒトですらないんだヨ?」
パトリシアが剣を抜く。
「相手になってもオマエの勝てる見込みなんて万が一にもないけどネ!」
「……やめて!」
パトリシアの言葉を遮るように、セラフィナが悲痛な声をあげた。
「やめてください……どうして」
「最初から気に入らない、理由なんてそれで充分ダロ?」
「気が合うなぁ、僕も最初から気に入らなかったんだ……セラフィナさん、下がって
て」
ライがパトリシアに向き直る。が。
「駄目、です……」
ライの左腕にセラフィナがしがみつく。
ライが振り返り、見上げるセラフィナと目があったとき、彼女の頬を何かが伝っ
た。
(……え!?)
今の動揺はライのものであったかセラフィナのものであったか。
何故止まらないのか分からない涙に、セラフィナは思わず顔を伏せた。
「セラフィナ……さん?」
困ったようなライの声。ライがこちらを向こうとしたのか、それとも離れようとし
たのか分からない。ただ、一歩引こうとしたのでつい、離れないように抱きついてし
まった。
とにかく涙は止まらない。働かない頭を何とか動かそうと試みる。
「……ないで」
「……ぇ?」
「死なないで、お願い……私が悲しむから、だから、あなたは生きていて……」
一度死んだ人間に生きろとは。頭が働かないにも程がある。でも。
それは紛れもない素直な感情で、他に言いようもなくて。
きゅっと腕に力を込めると、微かに「めきゃ」という不自然な音がした。
「ごめ……なさ……」
慌てて離れようとするセラフィナ。でも、ライは具現化させていた剣を消し、唯一
自由の利くその右手で、セラフィナの頭を自分の左肩に押しつけた。
もしかしたら、涙を見たくなかったのかもしれない。
「うん……まだ消えないから、大丈夫だよ……」
根拠なんて無い。でも、それでも心配させまいとライが言ってくれた事が嬉しかっ
た。
セラフィナの涙は止まらない。
随分と泣いたことなんて無かった。
泣き方なんて、泣きやみ方なんて知らない。
少し落ち着いてきたような気がしても、笑おうとするだけでまた、涙が出る。
どうしていいか分からなくて、少しだけ加減をしながら、もう一度そっと抱きしめ
た。
「……もうイイかナァ?
ボクをムシしてイチャイチャするのも、いいかげんにしてヨ」
パトリシアがからかうように声を掛ける。
そして急に表情を冷たくすると、こう言い放った。
「お嬢さん、ソイツを死なせたくなかったら、自分の足で、コッチに来れるよネ?」
セラフィナはそれしかないんだろうと思っていた。だから、ライに回していた手を
離し、両手でライの身体を押す。ライは右手を離して、セラフィナを解放する。
セラフィナはゆっくり身体を離して、ライを見上げた。
「ありがとう……ごめんなさい」
セラフィナは泣きながら笑っていた。ライは動く右手だけでセラフィナの肩を掴む
と、吐き出すように悲痛な声をあげた。
「……謝るな!!
何でセラフィナさんは笑うんだ! 無理して笑わなくてもいいんだよ!?」
セラフィナは少し困ったような顔をしたが、それでも笑顔を浮かべ、肩を掴む手を
そっと外した。その革手袋の右手を両手で包み、小さくもう一度「ありがとう」と呟
く。
頬が乾かないまま、セラフィナはパトリシアに向き直った。
「私を連れてきた人の懐から、取り上げられたものを返してもらっても良いですか」
「……コッチに来るカイ?」
「ええ」
「セラフィナさん!?」
「……いいんです」
ライに一度顔を向けて、首をゆっくりと横に振る。ライが何も言えないまま、セラ
フィナはバーゼラルドを呼んだ男の遺体の脇に膝をついた。
「で、ソレは何かな?」
「治療用の針です。痛み止めとか、色々使えるんですよ」
「ふぅん、まあイイけどネ、……ああ、変な真似はしないことだヨ」
セラフィナからライの方に視線を戻し、パトリシアが釘を打つ。
セラフィナがゆっくりと自分の方へ歩いてくるのを確認して、満足げに笑った。
「毎日違う服を着せてあげよう、毎日綺麗に飾ってあげよう」
パトリシアの芝居がかった言葉に、セラフィナは曖昧に笑う。
「そういうの、苦手なんです」
「すぐに気に入るヨ」
パトリシアの目は優しい。何故だかよく分からないが、本当にセラフィナを気に入
ってくれているのだろう。
「あの……」
「さあ、おいで」
「……ごめんなさい」
セラフィナが視線を逸らした。パトリシアが覗き込もうと身を屈める。そして。
「……っ!」
パトリシアが崩れ落ちた。
「この針は……運動能力を奪うことも、出来るんですよ」
「セラフィナさん!」
不意打ちだったためか、それとももう抵抗はないだろうと油断したのか。パトリシ
アは反応できなかった。ライがセラフィナの元に駆け寄る。
「行こう」
「……はい」
返事をしたものの、なかなか足が動かないセラフィナの手を取って、ライは外に向
かって走り出した。
まだ、外は見えない。
場所:港町ルクセン -廃城
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セラフィナは、崩れ落ちるベアトリスを支えようと思わず飛び出す。ライも、パト
リシアもそれを止めようとはしない。一度膝を突いた後、スローモーションのような
緩慢さで前に倒れ込んでくるベアトリスを辛うじて抱き留めるセラフィナ。顔に安堵
の色が浮かぶ。
「殺されかけたばかりだというのに、お嬢さんは優しいネ」
パトリシアが皮肉混じりに笑う。セラフィナは出来るだけ衝撃を受けないようにベ
アトリスを床に寝かせ、パトリシアを見上げながら自嘲気味に顔を歪めた。
「今治療することは出来ない……分かっているつもりでも、体は動くんですよ」
セラフィナは、一度ベアトリスに視線を落として、彼女の乱れた髪をそっと撫で、
そしてゆっくりと立ち上がる。ライを手の僅かな動きで制し、パトリシアに向き合お
うと背筋をピンと伸ばしてみせる。
「貴方がここにいるのは偶然ではないのでしょう?
……ご用件をお伺いします」
辺りに立ちこめるのは生々しい血の匂い。見える範囲にも転がり、見えないところ
まで併せればきっと山が出来るだろうというおびただしい骸の数。立っている三人以
外に動く者はなく、ねっとりとした静寂がその場を埋め尽くす。
「キミが気に入ったからネ、殺したくなかっただけだヨ」
パトリシアは肩を竦めておどけてみせた。
「キミを守ってあげる……ネェ、ボクの人形になろうヨ」
セラフィナが身を固くする。パトリシアが一歩近づいてセラフィナに触れようとし
たとき、動いたのはセラフィナではなくライの方だった。
「……彼女に触るな」
「ボロボロの死に損ないに何が出来るっていうんだい?」
ライはセラフィナの右前方に立ち、右手に持つ剣をパトリシアとセラフィナの間に
割り込ませたのだ。身体の半分はセラフィナ側を向いているのに、顔は真っ直ぐパト
リシアへと向けているライ。パトリシアとの間に火花が散る。
「そんな身体で何が出来る?
オマエはお姫様を守る騎士でもなければ、ヒトですらないんだヨ?」
パトリシアが剣を抜く。
「相手になってもオマエの勝てる見込みなんて万が一にもないけどネ!」
「……やめて!」
パトリシアの言葉を遮るように、セラフィナが悲痛な声をあげた。
「やめてください……どうして」
「最初から気に入らない、理由なんてそれで充分ダロ?」
「気が合うなぁ、僕も最初から気に入らなかったんだ……セラフィナさん、下がって
て」
ライがパトリシアに向き直る。が。
「駄目、です……」
ライの左腕にセラフィナがしがみつく。
ライが振り返り、見上げるセラフィナと目があったとき、彼女の頬を何かが伝っ
た。
(……え!?)
今の動揺はライのものであったかセラフィナのものであったか。
何故止まらないのか分からない涙に、セラフィナは思わず顔を伏せた。
「セラフィナ……さん?」
困ったようなライの声。ライがこちらを向こうとしたのか、それとも離れようとし
たのか分からない。ただ、一歩引こうとしたのでつい、離れないように抱きついてし
まった。
とにかく涙は止まらない。働かない頭を何とか動かそうと試みる。
「……ないで」
「……ぇ?」
「死なないで、お願い……私が悲しむから、だから、あなたは生きていて……」
一度死んだ人間に生きろとは。頭が働かないにも程がある。でも。
それは紛れもない素直な感情で、他に言いようもなくて。
きゅっと腕に力を込めると、微かに「めきゃ」という不自然な音がした。
「ごめ……なさ……」
慌てて離れようとするセラフィナ。でも、ライは具現化させていた剣を消し、唯一
自由の利くその右手で、セラフィナの頭を自分の左肩に押しつけた。
もしかしたら、涙を見たくなかったのかもしれない。
「うん……まだ消えないから、大丈夫だよ……」
根拠なんて無い。でも、それでも心配させまいとライが言ってくれた事が嬉しかっ
た。
セラフィナの涙は止まらない。
随分と泣いたことなんて無かった。
泣き方なんて、泣きやみ方なんて知らない。
少し落ち着いてきたような気がしても、笑おうとするだけでまた、涙が出る。
どうしていいか分からなくて、少しだけ加減をしながら、もう一度そっと抱きしめ
た。
「……もうイイかナァ?
ボクをムシしてイチャイチャするのも、いいかげんにしてヨ」
パトリシアがからかうように声を掛ける。
そして急に表情を冷たくすると、こう言い放った。
「お嬢さん、ソイツを死なせたくなかったら、自分の足で、コッチに来れるよネ?」
セラフィナはそれしかないんだろうと思っていた。だから、ライに回していた手を
離し、両手でライの身体を押す。ライは右手を離して、セラフィナを解放する。
セラフィナはゆっくり身体を離して、ライを見上げた。
「ありがとう……ごめんなさい」
セラフィナは泣きながら笑っていた。ライは動く右手だけでセラフィナの肩を掴む
と、吐き出すように悲痛な声をあげた。
「……謝るな!!
何でセラフィナさんは笑うんだ! 無理して笑わなくてもいいんだよ!?」
セラフィナは少し困ったような顔をしたが、それでも笑顔を浮かべ、肩を掴む手を
そっと外した。その革手袋の右手を両手で包み、小さくもう一度「ありがとう」と呟
く。
頬が乾かないまま、セラフィナはパトリシアに向き直った。
「私を連れてきた人の懐から、取り上げられたものを返してもらっても良いですか」
「……コッチに来るカイ?」
「ええ」
「セラフィナさん!?」
「……いいんです」
ライに一度顔を向けて、首をゆっくりと横に振る。ライが何も言えないまま、セラ
フィナはバーゼラルドを呼んだ男の遺体の脇に膝をついた。
「で、ソレは何かな?」
「治療用の針です。痛み止めとか、色々使えるんですよ」
「ふぅん、まあイイけどネ、……ああ、変な真似はしないことだヨ」
セラフィナからライの方に視線を戻し、パトリシアが釘を打つ。
セラフィナがゆっくりと自分の方へ歩いてくるのを確認して、満足げに笑った。
「毎日違う服を着せてあげよう、毎日綺麗に飾ってあげよう」
パトリシアの芝居がかった言葉に、セラフィナは曖昧に笑う。
「そういうの、苦手なんです」
「すぐに気に入るヨ」
パトリシアの目は優しい。何故だかよく分からないが、本当にセラフィナを気に入
ってくれているのだろう。
「あの……」
「さあ、おいで」
「……ごめんなさい」
セラフィナが視線を逸らした。パトリシアが覗き込もうと身を屈める。そして。
「……っ!」
パトリシアが崩れ落ちた。
「この針は……運動能力を奪うことも、出来るんですよ」
「セラフィナさん!」
不意打ちだったためか、それとももう抵抗はないだろうと油断したのか。パトリシ
アは反応できなかった。ライがセラフィナの元に駆け寄る。
「行こう」
「……はい」
返事をしたものの、なかなか足が動かないセラフィナの手を取って、ライは外に向
かって走り出した。
まだ、外は見えない。
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人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン -廃城
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眩暈も頭痛も気にしないことにした。
終わりの予感にも目をつぶることにした。
石の床を叩く二人分の足音。一筋の光もない。通り過ぎた狭い窓は、夜の色に塗りつ
ぶされていた。周囲の木々が月光も遮るのだろう。ざあ、と、風が駆け抜ける音が、嫌
に不吉な印象でもって意識に焼きついた。
「……あっ」
早足の歩みを止める小さな声。セラフィナが躓いたことに、彼女の手首を握った手が
引っ張られたことで気づく。
ライはセラフィナを捕まえていた手を離し、無言で上着の上ポケットを探ってペンラ
イトを取り出した。ソフィニアで買った異界からの流入品を幻で再現したものだ。
スイッチを指で探って押したが、光は生まれない。カチカチと三、四回、小気味のい
い音をさせて、やっと弱々しい灯りが周囲を照らした。
「ごめん、灯り使うの忘れてた」
橙がかった光にぼんやりと浮かんだセラフィナは、ひどく憔悴してるようだった。
ライはその様子に罪悪感のようなものを覚えて「ごめんね」と繰り返す。
「大丈夫ですよ」
照らし出された石の壁と床は、あちこちが血で汚れていた。酸素を吸ってどす黒く変
色した液体は中途半端に乾きかけている。
行く手、光が届くか届かないかのあたりに腕が転がっているのが見えた。掌を上に、
脱力しきった細い腕。セラフィナが駆け寄るのをやめさせようと左腕を伸ばしかけ、二
の腕に鈍痛を感じて思わず怯む。苦鳴を飲み込み、ゆっくりと追いかける。
「……死んでるよ」
一目でそうわかった。十五か、十六か。地方によっては成人しているだろうが、まだ
幼いと言われることもある歳の少女だ。頬をざっくりと切り裂かれ、口元が、ひどく吐
血したように生乾きの血で汚れている。おびただしい量の血は彼女の周りの床、敷き詰
められた石と石の間を流れて奇怪な模様を描いている。
格好からして……領主の手下、ではなくて、冒険者の仲間だろう。
革のベスト。編み上げブーツの靴裏にはフェルトを縫いつけてある。ベルトにぶらさ
げられたポーチは開いていて、小さな投げ短剣が零れ出ている。
さっきのことを思い出す。闇の中、飛び出して切り伏せた、黒装束ではない誰か。
甲高い悲鳴を上げられたので、黙らせるために、口腔に刃を突き込んだ。
「ひどい……」
子供の死体。セラフィナが思い出すのはあの事件だろう。
ライは口の中がひどく乾いているのを感じながら、粘つく舌を動かして答えた。
「冒険者の末路なんて、こんなものだよ」
「そんな言い方、ないでしょう!?」
睨みつけられて、ライは思わず言葉を失った。
反論できない。たとえば、じゃあおなじような歳でおなじような状況でくたばった僕
のことも今みたいに憐れんでくれるのか、とか。
今までさんざん一緒にいて、彼女の、憐れみではない優しさに気づかないほど鈍感で
はない。その上で貪欲に彼女の憐憫だとか苦悩だとかを望むのは、あまりにも愚か過ぎ
る。本当はどこまでも欲しいのだけれど。
「だって……」
言葉を探すが見つからない。
セラフィナはまた少女の死体へと視線を戻す。
そうっと瞼をとじさせる指先は白い。優しい手つきで死者の視界を奪う。
「どうして私は、いつも助けられないんでしょうね」
ため息まじりの言葉は自嘲の笑みすら伴っていた。
それこそあの事件のことを言っているのかも知れなかったし――自分のことを言われ
たのかも知れなかった。それとも、置いてきたベアトリスのこと? 或いは……ライが
知らない過去のことかもわからない。慰める言葉は見つからない。
「……行きましょう」
少しうつむいて歩く彼女の横に並べず、ライは半歩後ろを続く。
やがて行く手に、四角く切り取られた夜闇が現れた。出口。建物の中に沈殿する漆黒
色の暗さとは違って、星の光を僅かに含んだやわらかな暗さは、あそこに辿り着けば、
今日起こったすべてが終わるに違いないと根拠のない確信を誘った。
「やっと帰れるね」
「ええ」
少し緊張の抜けた声が帰ってきたことに安堵する。
「残念だけど荷物は諦めて、今夜は町の外に隠れようか。
追手がかかるとしても夜のうちに逃げたと思うだろうから、やり過ごせるはず」
「あの、ライさん」
「何?」
「助けに来てくれて、ありがとうございます」
「――うん」
改めて言われると気恥ずかしいような感じがする。ライは苦笑いして「あんまり役に
立たなかったけどね」と言い訳した。セラフィナはクスクス笑ったが何も言わない。い
じけたフリなんかしてみせながら笑い返す。
ふいに体から力が抜けた。がくりと膝が崩れ、ぺたりとしりもちをつく。
「ライさん……?」
「…あれ?」
手の中でライトが掻き消え周囲が闇に包まれる。
足を止めがセラフィナが不思議そうに見下ろしてきた。ライは立ち上がろうとしたが
体がうまく動かなかった。自然と口元が引きつった笑みを刻む。
ついに限界? こんなところで? だが、それにしては……
なんだ、嫌な感じがする。致命的な何かがある。触れてはいけない何かが。
背筋を寒気が這い上がり後頭部に重く折り重なっていく。
この人に触れてはいけない。――誰に?
僕は何に怯えている? これに似たことが前にもあったと思ったが。
砂を踏む音。四角い夜闇を背負って現れたシルエット。
光が灯されて、浮かびあがったのは司祭服の女。
セラフィナがはっとして彼女を見つめる。
「お姫さまを連れてでてくるのが亡霊だったら魔法を、人間だったら爆薬を。
どちらでも対応できるように準備していたんだ。まさか、あれで退いたと思った?」
「……あなたたちも、私のことを?」
それに対する返事は、背後から。
「そのとおり。セラフィナ・カフューを連れ帰るのが俺達の役目だ」
弾かれたように振り返るセラフィナ。立っているのは間違いなくあの男。
ライはゆっくりと近づいてくるリズを複雑な表情で見上げたが、彼女は小さく首を横
に振っただけだった。
「……お断りします」
「今更、諦められるかよ! 無理やりにでも来てもらう」
刃が鞘を脱ぐ音が聞こえた。立ち上がり、戦わなければならない。
どうすればいいと考えながら見下ろした床はうっすらと濡れていた。
ああ、なるほど。聖水で魔法円を描いてあるのか。
神の力ならば恐ろしくないはずがない。亡霊が神を恐れるのは、どうしようもない自
然の摂理だ。奥歯を噛み締める。
「こんな適当な魔法円で捕まえられるとは思わなかった」
「じゃあ…逃がしてくれるつもりで手加減してた、のかな?」
「駆け落ちなら本当に見逃してやってもいいかなとは思ってた。
せっかくの好意が通じなくて残念だ」
それはつまり、もう逃がしはしないということ。
リズは小さな声で神の言葉を唱えた。ブツン、と、鼓膜が破れる音と錯覚するような
耳鳴り。視界がブラックアウトしたことで実体を消されたと気がついた。直接触れる世
界の情報は、人間の感覚器官を通したそれとはあまりにも異質すぎて、意図的でない急
な切り替えに精神が混乱する。
上げた悲鳴は音にならない。掠れた波紋が空の裏に広がるだけ。
霧散しかけた意識を強引に纏め、なんとか周囲を把握する。
ひどい吐き気がするが嘔吐はできない。
「――ライさん!?」
数歩の距離を走り寄ろうとするセラフィナ。その腕をバジルが捕まえて引き寄せる。
セラフィナは逃れようと身をよじりながらこちらの姿を探そうとしたようだったが、
一瞬、確かに視線が合ったはずの彼女の目には誰も映らない。
バジルは舌打ちした。彼は嫌悪の目をちらりと向ける。
「殺しちゃいねぇよ。そいつだって、うまく捕縛すれば賞金が手に入るんだ」
「……」
「そしたら、墓くらい立ててやれるだろ…?」
「でも、私は行けません!」
誰のことを言っているのかという詮索も、わずかに伏せていた瞳にあった迷いも、な
かった。セラフィナは叫んで体を反転させた。手首を回し、束縛をほどいてみせる。虚
をつかれた冒険者が再び手を伸ばしたときには彼女は数歩後じさり、ライの横で針を構
えている。無理やりつくった強気な笑みはいっそ痛々しかった。
「バジル、何して」
「るっせえ! 油断しただけだ」
リズの声を遮って怒鳴りつけるバジル。彼は剣の切っ先を上げてセラフィナに向けた。
薄ぼんやりと輝く魔法の軌跡。怒りを含んだ男の声は押し殺されていた。
「……なら、多少の怪我は覚悟してもらうぞ」
闇の奥に影が差した。
魔剣を振るう予備動作。
――絶叫。
ライは思わず飛び出した。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
「バジルっ!!」
リズが絶叫した。魔法が揺らぎ、効果が弱まる。
ライがセラフィナを突き飛ばすのと、闇の中から振り下ろされた白刃がバジルの背に
突き立ったのは同時だった。勢いで振り抜かれた剣はライの右腕を掠め、持ち主の手か
ら離れてがらがらと音を立て床を滑った。
膝を突いたバジルの背後に立っているのは――この場にふさわしくない人物だった。
理由もなく卑しいという言葉を連想させるような中年の男。薄汚れた高価な生地、この
場の全員を見下ろすような尊大な目。身分の高い人間だという判断はただの直感だが、
間違いないだろう。
「テメェ…は!」
「その女は私のものだ!」
歪んだ笑みを浮かべて男は引き攣った声を絞り出した。
見覚えがあるような気がするが思い出せない。何故、こんなところにこんな人間が?
と、考えて、ふいに思い当たった。魔法使いと手を組んだのはこの町の領主の息子。
こいつがセラフィナさんを危ない目に遭わせた張本人?
「――バジルっ、退くぞ」
「馬鹿言うな!」
「馬鹿はお前だ! 仕事は失敗したんだよ!」
リズが駆け寄る。誰も反応できないうちに魔法は完成し、閃光と共に二人に姿は掻き
消える。一瞬遅く振り下ろされた剣が石の床を叩き、その衝撃で男は剣を取り落とした。
冒険者が消えて、彼女が灯した光も消えた。
訪れた闇は光に慣れた目には黒く塗りつぶされたように見えただろう。セラフィナが
困ると思ったのでライは再びライトを具現させて光を灯した。
「……ライさん…?」
「大丈夫」
男は聞くに耐えない罵詈雑言を吐き散らし、剣を拾うと、セラフィナに向き直る。今
すぐにでも殺してやろうかと思ったが、セラフィナが嫌がることを彼女の目の前でやる
のは気が進まない。
「さあ、セラフィナ姫。一緒に来てもらおうか」
なんだこの寸劇は。冒険者やら黒ずくめやらに比べれば(海賊船の船長だの屍霊術師
だのには比べることもできない)、こんな男は何の問題でもない。どうとでもできる。
なのに本人はそんなことにはまったく気づかないで、王手をかけたつもりになっている
のだから、滑稽すぎて逆にどうすればいいのか反応に困ってしまう。
やたら偉そうなことを喋り続けているものの、興味がないので聞き流す。
ついでに男のことを思い出した。さっき、セラフィナがいた部屋に転がっていたよう
な気がする。死体だと思って気にもとめなかったのは、失敗だったのか幸運だったのか。
ライは、とりあえず、近くに転がっていた魔剣を拾った。
「散々邪魔が入ったが……いや、あの女は惜しかった……」
「!?」
セラフィナが顔色を変えた。ライも、ある可能性に気づいて男の手にした剣を見やる。
刃は血で濡れていた。あまり深く刺さらなかっただろうバジルの血にしては多いほどの。
男はどこに倒れていた? あの部屋だ。では、そこには、誰と、誰が、いた?
「まさか……っ!」
灯りもなしで、闇の奥へ駆け出そうとするセラフィナ。問うように視線を向けられて、
ライは頷く。二つ目の灯りを投げ渡し、黒髪が揺れる背中を見送る。
追いかけようとする行く手に割り込むと、男は始めてこちらの存在を気にしたようだ
った。虫ケラでも見るような目が気に入らないが、貴族とはこういう胸糞悪い人種だ。
今更改めて思うことはない。
「なんだ、お前は」
それに――パトリシアはどうでもいいがベアトリスに何かがあったかも知れないのな
ら、こいつを殺す動機は増える。むしろ生かしておく理由がない。
「誰かには、あの皇女様の番犬みたいだって言われたけど」
「金ならいくらでもくれてやる。失せろ」
うわ会話が成立しないし。まぁいい、まだ予想の範疇だ。
と、男が眉をひそめた。
「――いや、どこかで見たことがあるな」
せめて“会ったことが”と言え。もちろん覚えはないが。
いい加減に相手をするのも疲れたので、剣を軽く翻して男の武器を弾き飛ばす。素人
相手なら、多少は難しく見えることもできたりする。実戦で使えるほど上手くないが。
「この剣いいなぁ…」
魔法のにおいには酔いそうになるが、刃を追って魔力が軌跡を残すのが気に入った。
慌てて武器を拾おうとする男の首元に切っ先を当てて、ため息をついてみる。
「貴様、メルホルンの若造に飼われている亡霊だな」
ポポルの大商、メルホルン商会。意外な名前を聞いてライはきょとんとした。
なんでこいつが知っているんだろうと思ったが、そういえばあの人はコールベルへの
進出を考えていたからその関係で知り合ったのかも知れない。客の相手をさせられたこ
とは何度かある。そのときに覚えられたのなら、確かに“会った”ではなくて“見た”
で正解だ。
「貴様がいるということは、あの若造も皇女を狙っているのか?」
「最近、会ってないから知らないよ。
あの人が捜索願いでも出してくれたら帰るけどさぁ」
とボヤいてみても、相手がこちらの事情を知っているとは思えない。手配されている
ことくらいは知っているだろうが……いや、そもそも、あの飼い主も状況を正しく理解
しているのか? 気がつけばソフィニアにいて、しかも指名手配をされていた。まった
くワケがわからないが、ひょっとしたら。
――あの人が何かの不利益を免れるために僕を切り捨てたのではないか?
いや、それはないと信じたい。そうされない程度には気にいられていたはずだから。
自分より先に捨て駒にされる人間は沢山いる。このまま、あの手配書が完全に忘れ去ら
れるまで逃げ続けるのもいいが……真相を調べるために帰ってみるのもいいかも知れな
い。下手したら、一方的に失踪したことになっているのかも知れないし。
背後でがらがらと車輪の音が近づいてくるのが聞こえて、刃は動かさないまま、顔だ
け振りかえる。男が勝ち誇った声で言った。
「私の帰りが少しでも遅れれば、兵をここに送るようにしてある」
「馬車一台? たかが五、六人で何ができるの?」
剣を首筋から引き、放り投げる。がらんと盛大な音。外で馬車が止まり、ばたばたと
何人かが降りる気配。彼らが持っている灯りが外でちらついた。
背後で男の名らしき単語を叫ぶ声が聞こえた。明らかな不審者の姿を認めて、鞘走り、
踏み込む音。ライは身を捻って新たな敵の突進を躱し、横手から男の首筋に、手袋を消
した右手を伸ばした。喉を引っ掴まれた男の体が一瞬にして力を失い、冷たくなって倒
れ伏す。
「……ああ、なるほど……こうやればいいのか……」
ライは右手を見下ろして小さく呟いた。他人には説明しようがない感覚だが、今みた
いにやれば、人の命を奪うことができるのか。今まではやり方がよくわからなかったが、
切羽詰れば思いつく――或いは思い出すものらしい。
「貴様!」
追加された残りの四人は、予想外のことに立ち止まって身構えた。精鋭のつもりだっ
たのだろう。さっきの黒尽くめたちよりも装備がいい。それを一瞬で倒されれば、警戒
するどころではないはずだ。
男が喉の奥で引き攣った悲鳴を上げたのが、妙に勘に障った。
燥いた井戸に冷たい水を注ぎ込むのに似ている。渇いた喉が際限なく水を欲するのに
似ている。じくじくと内臓を溶かすような飢えを思い出す。ああもう我慢できない。
こいつら全部、食っちまってもいいか……大した足しにはならないだろうが。
そして貴女を目にしたら、僕は なたを欲 る 。
らか を強 抱 絞め、その 温 命を のも した る ろう。
屍を き泣 て ようか、 姫。
――ああ、だけど、彼女を殺してはいけない。
場所:港町ルクセン -廃城
-----------------------------------------------------------------------
眩暈も頭痛も気にしないことにした。
終わりの予感にも目をつぶることにした。
石の床を叩く二人分の足音。一筋の光もない。通り過ぎた狭い窓は、夜の色に塗りつ
ぶされていた。周囲の木々が月光も遮るのだろう。ざあ、と、風が駆け抜ける音が、嫌
に不吉な印象でもって意識に焼きついた。
「……あっ」
早足の歩みを止める小さな声。セラフィナが躓いたことに、彼女の手首を握った手が
引っ張られたことで気づく。
ライはセラフィナを捕まえていた手を離し、無言で上着の上ポケットを探ってペンラ
イトを取り出した。ソフィニアで買った異界からの流入品を幻で再現したものだ。
スイッチを指で探って押したが、光は生まれない。カチカチと三、四回、小気味のい
い音をさせて、やっと弱々しい灯りが周囲を照らした。
「ごめん、灯り使うの忘れてた」
橙がかった光にぼんやりと浮かんだセラフィナは、ひどく憔悴してるようだった。
ライはその様子に罪悪感のようなものを覚えて「ごめんね」と繰り返す。
「大丈夫ですよ」
照らし出された石の壁と床は、あちこちが血で汚れていた。酸素を吸ってどす黒く変
色した液体は中途半端に乾きかけている。
行く手、光が届くか届かないかのあたりに腕が転がっているのが見えた。掌を上に、
脱力しきった細い腕。セラフィナが駆け寄るのをやめさせようと左腕を伸ばしかけ、二
の腕に鈍痛を感じて思わず怯む。苦鳴を飲み込み、ゆっくりと追いかける。
「……死んでるよ」
一目でそうわかった。十五か、十六か。地方によっては成人しているだろうが、まだ
幼いと言われることもある歳の少女だ。頬をざっくりと切り裂かれ、口元が、ひどく吐
血したように生乾きの血で汚れている。おびただしい量の血は彼女の周りの床、敷き詰
められた石と石の間を流れて奇怪な模様を描いている。
格好からして……領主の手下、ではなくて、冒険者の仲間だろう。
革のベスト。編み上げブーツの靴裏にはフェルトを縫いつけてある。ベルトにぶらさ
げられたポーチは開いていて、小さな投げ短剣が零れ出ている。
さっきのことを思い出す。闇の中、飛び出して切り伏せた、黒装束ではない誰か。
甲高い悲鳴を上げられたので、黙らせるために、口腔に刃を突き込んだ。
「ひどい……」
子供の死体。セラフィナが思い出すのはあの事件だろう。
ライは口の中がひどく乾いているのを感じながら、粘つく舌を動かして答えた。
「冒険者の末路なんて、こんなものだよ」
「そんな言い方、ないでしょう!?」
睨みつけられて、ライは思わず言葉を失った。
反論できない。たとえば、じゃあおなじような歳でおなじような状況でくたばった僕
のことも今みたいに憐れんでくれるのか、とか。
今までさんざん一緒にいて、彼女の、憐れみではない優しさに気づかないほど鈍感で
はない。その上で貪欲に彼女の憐憫だとか苦悩だとかを望むのは、あまりにも愚か過ぎ
る。本当はどこまでも欲しいのだけれど。
「だって……」
言葉を探すが見つからない。
セラフィナはまた少女の死体へと視線を戻す。
そうっと瞼をとじさせる指先は白い。優しい手つきで死者の視界を奪う。
「どうして私は、いつも助けられないんでしょうね」
ため息まじりの言葉は自嘲の笑みすら伴っていた。
それこそあの事件のことを言っているのかも知れなかったし――自分のことを言われ
たのかも知れなかった。それとも、置いてきたベアトリスのこと? 或いは……ライが
知らない過去のことかもわからない。慰める言葉は見つからない。
「……行きましょう」
少しうつむいて歩く彼女の横に並べず、ライは半歩後ろを続く。
やがて行く手に、四角く切り取られた夜闇が現れた。出口。建物の中に沈殿する漆黒
色の暗さとは違って、星の光を僅かに含んだやわらかな暗さは、あそこに辿り着けば、
今日起こったすべてが終わるに違いないと根拠のない確信を誘った。
「やっと帰れるね」
「ええ」
少し緊張の抜けた声が帰ってきたことに安堵する。
「残念だけど荷物は諦めて、今夜は町の外に隠れようか。
追手がかかるとしても夜のうちに逃げたと思うだろうから、やり過ごせるはず」
「あの、ライさん」
「何?」
「助けに来てくれて、ありがとうございます」
「――うん」
改めて言われると気恥ずかしいような感じがする。ライは苦笑いして「あんまり役に
立たなかったけどね」と言い訳した。セラフィナはクスクス笑ったが何も言わない。い
じけたフリなんかしてみせながら笑い返す。
ふいに体から力が抜けた。がくりと膝が崩れ、ぺたりとしりもちをつく。
「ライさん……?」
「…あれ?」
手の中でライトが掻き消え周囲が闇に包まれる。
足を止めがセラフィナが不思議そうに見下ろしてきた。ライは立ち上がろうとしたが
体がうまく動かなかった。自然と口元が引きつった笑みを刻む。
ついに限界? こんなところで? だが、それにしては……
なんだ、嫌な感じがする。致命的な何かがある。触れてはいけない何かが。
背筋を寒気が這い上がり後頭部に重く折り重なっていく。
この人に触れてはいけない。――誰に?
僕は何に怯えている? これに似たことが前にもあったと思ったが。
砂を踏む音。四角い夜闇を背負って現れたシルエット。
光が灯されて、浮かびあがったのは司祭服の女。
セラフィナがはっとして彼女を見つめる。
「お姫さまを連れてでてくるのが亡霊だったら魔法を、人間だったら爆薬を。
どちらでも対応できるように準備していたんだ。まさか、あれで退いたと思った?」
「……あなたたちも、私のことを?」
それに対する返事は、背後から。
「そのとおり。セラフィナ・カフューを連れ帰るのが俺達の役目だ」
弾かれたように振り返るセラフィナ。立っているのは間違いなくあの男。
ライはゆっくりと近づいてくるリズを複雑な表情で見上げたが、彼女は小さく首を横
に振っただけだった。
「……お断りします」
「今更、諦められるかよ! 無理やりにでも来てもらう」
刃が鞘を脱ぐ音が聞こえた。立ち上がり、戦わなければならない。
どうすればいいと考えながら見下ろした床はうっすらと濡れていた。
ああ、なるほど。聖水で魔法円を描いてあるのか。
神の力ならば恐ろしくないはずがない。亡霊が神を恐れるのは、どうしようもない自
然の摂理だ。奥歯を噛み締める。
「こんな適当な魔法円で捕まえられるとは思わなかった」
「じゃあ…逃がしてくれるつもりで手加減してた、のかな?」
「駆け落ちなら本当に見逃してやってもいいかなとは思ってた。
せっかくの好意が通じなくて残念だ」
それはつまり、もう逃がしはしないということ。
リズは小さな声で神の言葉を唱えた。ブツン、と、鼓膜が破れる音と錯覚するような
耳鳴り。視界がブラックアウトしたことで実体を消されたと気がついた。直接触れる世
界の情報は、人間の感覚器官を通したそれとはあまりにも異質すぎて、意図的でない急
な切り替えに精神が混乱する。
上げた悲鳴は音にならない。掠れた波紋が空の裏に広がるだけ。
霧散しかけた意識を強引に纏め、なんとか周囲を把握する。
ひどい吐き気がするが嘔吐はできない。
「――ライさん!?」
数歩の距離を走り寄ろうとするセラフィナ。その腕をバジルが捕まえて引き寄せる。
セラフィナは逃れようと身をよじりながらこちらの姿を探そうとしたようだったが、
一瞬、確かに視線が合ったはずの彼女の目には誰も映らない。
バジルは舌打ちした。彼は嫌悪の目をちらりと向ける。
「殺しちゃいねぇよ。そいつだって、うまく捕縛すれば賞金が手に入るんだ」
「……」
「そしたら、墓くらい立ててやれるだろ…?」
「でも、私は行けません!」
誰のことを言っているのかという詮索も、わずかに伏せていた瞳にあった迷いも、な
かった。セラフィナは叫んで体を反転させた。手首を回し、束縛をほどいてみせる。虚
をつかれた冒険者が再び手を伸ばしたときには彼女は数歩後じさり、ライの横で針を構
えている。無理やりつくった強気な笑みはいっそ痛々しかった。
「バジル、何して」
「るっせえ! 油断しただけだ」
リズの声を遮って怒鳴りつけるバジル。彼は剣の切っ先を上げてセラフィナに向けた。
薄ぼんやりと輝く魔法の軌跡。怒りを含んだ男の声は押し殺されていた。
「……なら、多少の怪我は覚悟してもらうぞ」
闇の奥に影が差した。
魔剣を振るう予備動作。
――絶叫。
ライは思わず飛び出した。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
「バジルっ!!」
リズが絶叫した。魔法が揺らぎ、効果が弱まる。
ライがセラフィナを突き飛ばすのと、闇の中から振り下ろされた白刃がバジルの背に
突き立ったのは同時だった。勢いで振り抜かれた剣はライの右腕を掠め、持ち主の手か
ら離れてがらがらと音を立て床を滑った。
膝を突いたバジルの背後に立っているのは――この場にふさわしくない人物だった。
理由もなく卑しいという言葉を連想させるような中年の男。薄汚れた高価な生地、この
場の全員を見下ろすような尊大な目。身分の高い人間だという判断はただの直感だが、
間違いないだろう。
「テメェ…は!」
「その女は私のものだ!」
歪んだ笑みを浮かべて男は引き攣った声を絞り出した。
見覚えがあるような気がするが思い出せない。何故、こんなところにこんな人間が?
と、考えて、ふいに思い当たった。魔法使いと手を組んだのはこの町の領主の息子。
こいつがセラフィナさんを危ない目に遭わせた張本人?
「――バジルっ、退くぞ」
「馬鹿言うな!」
「馬鹿はお前だ! 仕事は失敗したんだよ!」
リズが駆け寄る。誰も反応できないうちに魔法は完成し、閃光と共に二人に姿は掻き
消える。一瞬遅く振り下ろされた剣が石の床を叩き、その衝撃で男は剣を取り落とした。
冒険者が消えて、彼女が灯した光も消えた。
訪れた闇は光に慣れた目には黒く塗りつぶされたように見えただろう。セラフィナが
困ると思ったのでライは再びライトを具現させて光を灯した。
「……ライさん…?」
「大丈夫」
男は聞くに耐えない罵詈雑言を吐き散らし、剣を拾うと、セラフィナに向き直る。今
すぐにでも殺してやろうかと思ったが、セラフィナが嫌がることを彼女の目の前でやる
のは気が進まない。
「さあ、セラフィナ姫。一緒に来てもらおうか」
なんだこの寸劇は。冒険者やら黒ずくめやらに比べれば(海賊船の船長だの屍霊術師
だのには比べることもできない)、こんな男は何の問題でもない。どうとでもできる。
なのに本人はそんなことにはまったく気づかないで、王手をかけたつもりになっている
のだから、滑稽すぎて逆にどうすればいいのか反応に困ってしまう。
やたら偉そうなことを喋り続けているものの、興味がないので聞き流す。
ついでに男のことを思い出した。さっき、セラフィナがいた部屋に転がっていたよう
な気がする。死体だと思って気にもとめなかったのは、失敗だったのか幸運だったのか。
ライは、とりあえず、近くに転がっていた魔剣を拾った。
「散々邪魔が入ったが……いや、あの女は惜しかった……」
「!?」
セラフィナが顔色を変えた。ライも、ある可能性に気づいて男の手にした剣を見やる。
刃は血で濡れていた。あまり深く刺さらなかっただろうバジルの血にしては多いほどの。
男はどこに倒れていた? あの部屋だ。では、そこには、誰と、誰が、いた?
「まさか……っ!」
灯りもなしで、闇の奥へ駆け出そうとするセラフィナ。問うように視線を向けられて、
ライは頷く。二つ目の灯りを投げ渡し、黒髪が揺れる背中を見送る。
追いかけようとする行く手に割り込むと、男は始めてこちらの存在を気にしたようだ
った。虫ケラでも見るような目が気に入らないが、貴族とはこういう胸糞悪い人種だ。
今更改めて思うことはない。
「なんだ、お前は」
それに――パトリシアはどうでもいいがベアトリスに何かがあったかも知れないのな
ら、こいつを殺す動機は増える。むしろ生かしておく理由がない。
「誰かには、あの皇女様の番犬みたいだって言われたけど」
「金ならいくらでもくれてやる。失せろ」
うわ会話が成立しないし。まぁいい、まだ予想の範疇だ。
と、男が眉をひそめた。
「――いや、どこかで見たことがあるな」
せめて“会ったことが”と言え。もちろん覚えはないが。
いい加減に相手をするのも疲れたので、剣を軽く翻して男の武器を弾き飛ばす。素人
相手なら、多少は難しく見えることもできたりする。実戦で使えるほど上手くないが。
「この剣いいなぁ…」
魔法のにおいには酔いそうになるが、刃を追って魔力が軌跡を残すのが気に入った。
慌てて武器を拾おうとする男の首元に切っ先を当てて、ため息をついてみる。
「貴様、メルホルンの若造に飼われている亡霊だな」
ポポルの大商、メルホルン商会。意外な名前を聞いてライはきょとんとした。
なんでこいつが知っているんだろうと思ったが、そういえばあの人はコールベルへの
進出を考えていたからその関係で知り合ったのかも知れない。客の相手をさせられたこ
とは何度かある。そのときに覚えられたのなら、確かに“会った”ではなくて“見た”
で正解だ。
「貴様がいるということは、あの若造も皇女を狙っているのか?」
「最近、会ってないから知らないよ。
あの人が捜索願いでも出してくれたら帰るけどさぁ」
とボヤいてみても、相手がこちらの事情を知っているとは思えない。手配されている
ことくらいは知っているだろうが……いや、そもそも、あの飼い主も状況を正しく理解
しているのか? 気がつけばソフィニアにいて、しかも指名手配をされていた。まった
くワケがわからないが、ひょっとしたら。
――あの人が何かの不利益を免れるために僕を切り捨てたのではないか?
いや、それはないと信じたい。そうされない程度には気にいられていたはずだから。
自分より先に捨て駒にされる人間は沢山いる。このまま、あの手配書が完全に忘れ去ら
れるまで逃げ続けるのもいいが……真相を調べるために帰ってみるのもいいかも知れな
い。下手したら、一方的に失踪したことになっているのかも知れないし。
背後でがらがらと車輪の音が近づいてくるのが聞こえて、刃は動かさないまま、顔だ
け振りかえる。男が勝ち誇った声で言った。
「私の帰りが少しでも遅れれば、兵をここに送るようにしてある」
「馬車一台? たかが五、六人で何ができるの?」
剣を首筋から引き、放り投げる。がらんと盛大な音。外で馬車が止まり、ばたばたと
何人かが降りる気配。彼らが持っている灯りが外でちらついた。
背後で男の名らしき単語を叫ぶ声が聞こえた。明らかな不審者の姿を認めて、鞘走り、
踏み込む音。ライは身を捻って新たな敵の突進を躱し、横手から男の首筋に、手袋を消
した右手を伸ばした。喉を引っ掴まれた男の体が一瞬にして力を失い、冷たくなって倒
れ伏す。
「……ああ、なるほど……こうやればいいのか……」
ライは右手を見下ろして小さく呟いた。他人には説明しようがない感覚だが、今みた
いにやれば、人の命を奪うことができるのか。今まではやり方がよくわからなかったが、
切羽詰れば思いつく――或いは思い出すものらしい。
「貴様!」
追加された残りの四人は、予想外のことに立ち止まって身構えた。精鋭のつもりだっ
たのだろう。さっきの黒尽くめたちよりも装備がいい。それを一瞬で倒されれば、警戒
するどころではないはずだ。
男が喉の奥で引き攣った悲鳴を上げたのが、妙に勘に障った。
燥いた井戸に冷たい水を注ぎ込むのに似ている。渇いた喉が際限なく水を欲するのに
似ている。じくじくと内臓を溶かすような飢えを思い出す。ああもう我慢できない。
こいつら全部、食っちまってもいいか……大した足しにはならないだろうが。
そして貴女を目にしたら、僕は なたを欲 る 。
らか を強 抱 絞め、その 温 命を のも した る ろう。
屍を き泣 て ようか、 姫。
――ああ、だけど、彼女を殺してはいけない。
人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン -廃城
------------------------------------------------------------------------
灯りを片手に、暗い廊下を駆け戻る。廊下に時折血溜まりがあり、全速力で走れな
いのがもどかしい。足下に注意しつつ慎重に走りながら、セラフィナは薄く下唇を噛
んだ。
心の中で謝罪しながら死体を飛び越え、目指す部屋は間近。生々しい血の匂いは既
に頭を幾分麻痺させているようで、嫌悪感は感じるものの、嘔吐の兆候はあらわれな
い。
部屋にあった灯りはまだ煌々としていて、入り口の外まで光の帯が延びている。そ
の帯に足を踏み入れ、セラフィナは目を疑った。
「居ない……!?」
彼女たちが居ないのだ。居るはずの場所に。
ベアトリスを寝かせた付近にただならぬ血痕が見て取れる。側にはパトリシアの剣
が転がり、細い血の痕が引きずるように入り口へ伸びている。
血を流した本人が残せる痕跡ではない。おそらく滴らせるほどに血塗れた剣を引き
ずるように歩いた別の人間……領主の息子か。そこまで考えて吐き気がした。
パトリシアはまだ麻痺が残っていたはずだ。無理すれば動けなくもなかったかもし
れないが、個人差があるとはいえ、完全な状態だったとは考えにくい。ベアトリスの
体格でこの出血量ならほぼ即死だろう。パトリシアであったとしても致命傷には変わ
りない。もし息があったとしても、早く出血を止めないと死は時間の問題だ。
「……ぁ!!」
押し殺したような、悲痛な声が聞こえた。
声は恐らく二階からだろう、セラフィナが走り出す。
声は女性の声だった。ベアトリスだろうか?
もしそうでなかったとしても、声がするということは生存者がいるということ。
未だ助けられる命があるなら助けたい。
セラフィナは切に願った。
どうにか二階への階段を見つけ、人の気配を探して走るものの、声はもう聞こえな
い。
諦めそうになる度に自分を励ましながら、セラフィナは耳を澄ます。
「……」
誰か、いる。そう思った。
ライから受け取った灯りを部屋の隅へと向ける。
そこでうずくまっていたのは。
「……なんで戻ってきたのよ!」
ナイフを構え、服の乱れた血塗れのベアトリスの姿だった。
「怪我は!?」
セラフィナが駆け寄ろうとすると、ベアトリスが何かを庇うようにナイフを突き出
す。
丁度影になる位置から覗くのは、パトリシアの服の裾のように見えた。
「治療はしたんですか!? 急がないと命が……」
「分かってるわよ!
でも、二人で転移する魔法なんて初めてで、治療魔法も上手くいかなくて……」
「退いて下さい、わたしがやります」
「パティーが悪いのよ、私、助けてなんて云ってないのに!」
「……退きなさい!」
セラフィナの剣幕にベアトリスが怯む。
セラフィナはベアトリスを軽く押しのけると、背中に大きな刀傷のあるパトリシア
に無言で手を翳した。
「知らないわよ、あんたなんか、あんたなんか、いつだって刺せるんだからっ!」
「…………」
「……何か言ったらどうなのよ!?」
セラフィナにだって、そのくらいのことは解っていた。しかし、瀕死の重症患者を
前に、背を向ける事なんて出来はしない。
「いつでも刺せるのなら、今じゃなくてもいいでしょう。
出来ればその前に、どういう経緯で怪我をしたのか、教えてくれませんか」
静かに問うセラフィナに、ベアトリスは動揺した。
「……気が付いたら目の前に……イヤだって言ったのに…………」
自らの肩を抱くようにベアトリスが震える。ベアトリスは多くを語らなかったが、
セラフィナは嫌悪感に思わず眉をひそめた。……あの男、か。
ベアトリスが口を閉ざした以上、勝手な想像でしかないのだが、「ベアトリスに迫
る中年男」が容易に浮かぶのだ。麻痺の残る身体にも関わらず、ベアトリスを庇うた
めにパトリシアが飛び出したとしたら、あの男は容赦なく邪魔者を斬るだろう。
セラフィナは、胸が痛んだ。
パトリシアの自由を奪ったのは、他でもない、自分だからだ。しかも他に手段が思
いつかなかったからとはいえ、気絶していたあの男と一緒に部屋に置き去りにしたの
だから。
手当の効果はあったのだろうか。パトリシアの呼吸は、弱々しいながらも安定して
きたように見える。ゆっくりと一つ深呼吸をすると、セラフィナはベアトリスに向き
直った。
「私に出来ることはこのくらいです。側にいてあげて下さい」
心配そうに覗き込んでいたベアトリスは、慌ててナイフを構え直すと、セラフィナ
を睨み付けた。
「あなたに指図は受けないわ。
……でも、そうね。このまま死なれると後味が悪いから死なせてあげない。
殺してもいいのは私だけなんだから」
言い訳をしながらも、パトリシアを死なせないとベアトリスは言い切った。だか
ら、きっともう大丈夫だろうとセラフィナは思う。今は疲労で魔法が上手く使えなく
ても、ベアトリスはパトリシアをちゃんと治療してくれるだろう。憎しみの中にもち
ゃんと愛情が混在していて、複雑な家族環境が伺える……余所から見れば、何処も同
じなのかもしれないが。
「ティリー、私もう行くね」
「……自分だけ何事もなく帰れると思ってるの!?」
「御免なさい。でも、私は無事に帰らなきゃ……」
言いながらセラフィナは立ち上がる。ベアトリスがナイフを投げつけるが、セラフ
ィナは余裕で避け、悲しげに笑った。ナイフが乾いた音を立て、虚しく転がる。
「あなたの腕では当たらないわ……。
それにね、助けに来てくれた人のためにも、私は自分を大切にしなきゃならない
の」
ベアトリスは弱々しく膝から崩れた。身も心も疲れ切ってしまったのだろうか。そ
れとも、安心して気が抜けたのだろうか? 口元に微かに笑みが浮かぶ。
「次は、絶対に外さないんだから。
次に遭うときには、殺してやるんだから……!!」
セラフィナはベアトリスの言葉を背中で聞きながら、その場を後にした。
急ごう、ライさんが待っている。
階段を駆け下りると、廊下にちらちらと灯りが見えた。こちらに向かって走ってき
ているのか。警戒で一旦灯りを隠し、足を止めて様子を窺う。
「……ィナさーん!」
「ライさん!?」
あわてて向こうに見えるようにと灯りを揺らし、こちらからも駆け寄る。
息も切らさず走ってきたのは、やはりライの姿だった。幾分輪郭がハッキリ見える
のは気のせいだろうか。
「無事なの!?」
心配そうに尋ねられて、セラフィナは曖昧な笑顔を向けた。
「ティリーに怪我はありませんでした。疲れているようでしたが、大丈夫です」
「そう……よかった」
二人は出口に向かって並んで歩き出す。
「……って、そうじゃなくて。遅かったからセラフィナさんの心配してたんだよ」
「ふふ、心配かけてご免なさい」
「いきなり走って行っちゃうしさー」
血の匂いと暗い廊下に場違いなほど和やかな空気が流れる。
終わったのか。セラフィナは深呼吸しようとして、思わず血の匂いにむせた。
「行こう、セラフィナさん」
「はい」
廊下を走り抜け、出口へと急ぐ。外からの光が凄く懐かしいものに見えた。
刀傷もないまま生気無く倒れた男達が気にならなかったとは言わない。一目で死ん
でいると解る……しかしどこかで、気絶しているだけだと思いたかったのは本当だ。
セラフィナは小さく頭を下げて走り抜けた。口を開くとライを責めてしまいそう
で、口の端を強く引き結ぶ。
帰ろう。何処へ?
すぐにでも古城を後にするのだ。
町からも離れよう。なるべく早く。
当面の目的地は知られているだろう。残念だがコールベルまでは行けそうにない。
外に止まっていた馬車は三台。最後に駆けつけた援軍の乗って馬車から馬を一頭外
す。
一番丈夫そうで、おとなしそうな馬を選んだ。町を抜けるまでの足になって貰お
う。
「乗って下さい、この馬車では目立ちすぎますから、馬で町を抜けましょう」
「えーと、大丈夫かな?」
「掴まって下さい、手綱は私が持ちます」
一頭の馬が町を駆け抜けた。
気にとめるものはいなかった。
場所:港町ルクセン -廃城
------------------------------------------------------------------------
灯りを片手に、暗い廊下を駆け戻る。廊下に時折血溜まりがあり、全速力で走れな
いのがもどかしい。足下に注意しつつ慎重に走りながら、セラフィナは薄く下唇を噛
んだ。
心の中で謝罪しながら死体を飛び越え、目指す部屋は間近。生々しい血の匂いは既
に頭を幾分麻痺させているようで、嫌悪感は感じるものの、嘔吐の兆候はあらわれな
い。
部屋にあった灯りはまだ煌々としていて、入り口の外まで光の帯が延びている。そ
の帯に足を踏み入れ、セラフィナは目を疑った。
「居ない……!?」
彼女たちが居ないのだ。居るはずの場所に。
ベアトリスを寝かせた付近にただならぬ血痕が見て取れる。側にはパトリシアの剣
が転がり、細い血の痕が引きずるように入り口へ伸びている。
血を流した本人が残せる痕跡ではない。おそらく滴らせるほどに血塗れた剣を引き
ずるように歩いた別の人間……領主の息子か。そこまで考えて吐き気がした。
パトリシアはまだ麻痺が残っていたはずだ。無理すれば動けなくもなかったかもし
れないが、個人差があるとはいえ、完全な状態だったとは考えにくい。ベアトリスの
体格でこの出血量ならほぼ即死だろう。パトリシアであったとしても致命傷には変わ
りない。もし息があったとしても、早く出血を止めないと死は時間の問題だ。
「……ぁ!!」
押し殺したような、悲痛な声が聞こえた。
声は恐らく二階からだろう、セラフィナが走り出す。
声は女性の声だった。ベアトリスだろうか?
もしそうでなかったとしても、声がするということは生存者がいるということ。
未だ助けられる命があるなら助けたい。
セラフィナは切に願った。
どうにか二階への階段を見つけ、人の気配を探して走るものの、声はもう聞こえな
い。
諦めそうになる度に自分を励ましながら、セラフィナは耳を澄ます。
「……」
誰か、いる。そう思った。
ライから受け取った灯りを部屋の隅へと向ける。
そこでうずくまっていたのは。
「……なんで戻ってきたのよ!」
ナイフを構え、服の乱れた血塗れのベアトリスの姿だった。
「怪我は!?」
セラフィナが駆け寄ろうとすると、ベアトリスが何かを庇うようにナイフを突き出
す。
丁度影になる位置から覗くのは、パトリシアの服の裾のように見えた。
「治療はしたんですか!? 急がないと命が……」
「分かってるわよ!
でも、二人で転移する魔法なんて初めてで、治療魔法も上手くいかなくて……」
「退いて下さい、わたしがやります」
「パティーが悪いのよ、私、助けてなんて云ってないのに!」
「……退きなさい!」
セラフィナの剣幕にベアトリスが怯む。
セラフィナはベアトリスを軽く押しのけると、背中に大きな刀傷のあるパトリシア
に無言で手を翳した。
「知らないわよ、あんたなんか、あんたなんか、いつだって刺せるんだからっ!」
「…………」
「……何か言ったらどうなのよ!?」
セラフィナにだって、そのくらいのことは解っていた。しかし、瀕死の重症患者を
前に、背を向ける事なんて出来はしない。
「いつでも刺せるのなら、今じゃなくてもいいでしょう。
出来ればその前に、どういう経緯で怪我をしたのか、教えてくれませんか」
静かに問うセラフィナに、ベアトリスは動揺した。
「……気が付いたら目の前に……イヤだって言ったのに…………」
自らの肩を抱くようにベアトリスが震える。ベアトリスは多くを語らなかったが、
セラフィナは嫌悪感に思わず眉をひそめた。……あの男、か。
ベアトリスが口を閉ざした以上、勝手な想像でしかないのだが、「ベアトリスに迫
る中年男」が容易に浮かぶのだ。麻痺の残る身体にも関わらず、ベアトリスを庇うた
めにパトリシアが飛び出したとしたら、あの男は容赦なく邪魔者を斬るだろう。
セラフィナは、胸が痛んだ。
パトリシアの自由を奪ったのは、他でもない、自分だからだ。しかも他に手段が思
いつかなかったからとはいえ、気絶していたあの男と一緒に部屋に置き去りにしたの
だから。
手当の効果はあったのだろうか。パトリシアの呼吸は、弱々しいながらも安定して
きたように見える。ゆっくりと一つ深呼吸をすると、セラフィナはベアトリスに向き
直った。
「私に出来ることはこのくらいです。側にいてあげて下さい」
心配そうに覗き込んでいたベアトリスは、慌ててナイフを構え直すと、セラフィナ
を睨み付けた。
「あなたに指図は受けないわ。
……でも、そうね。このまま死なれると後味が悪いから死なせてあげない。
殺してもいいのは私だけなんだから」
言い訳をしながらも、パトリシアを死なせないとベアトリスは言い切った。だか
ら、きっともう大丈夫だろうとセラフィナは思う。今は疲労で魔法が上手く使えなく
ても、ベアトリスはパトリシアをちゃんと治療してくれるだろう。憎しみの中にもち
ゃんと愛情が混在していて、複雑な家族環境が伺える……余所から見れば、何処も同
じなのかもしれないが。
「ティリー、私もう行くね」
「……自分だけ何事もなく帰れると思ってるの!?」
「御免なさい。でも、私は無事に帰らなきゃ……」
言いながらセラフィナは立ち上がる。ベアトリスがナイフを投げつけるが、セラフ
ィナは余裕で避け、悲しげに笑った。ナイフが乾いた音を立て、虚しく転がる。
「あなたの腕では当たらないわ……。
それにね、助けに来てくれた人のためにも、私は自分を大切にしなきゃならない
の」
ベアトリスは弱々しく膝から崩れた。身も心も疲れ切ってしまったのだろうか。そ
れとも、安心して気が抜けたのだろうか? 口元に微かに笑みが浮かぶ。
「次は、絶対に外さないんだから。
次に遭うときには、殺してやるんだから……!!」
セラフィナはベアトリスの言葉を背中で聞きながら、その場を後にした。
急ごう、ライさんが待っている。
階段を駆け下りると、廊下にちらちらと灯りが見えた。こちらに向かって走ってき
ているのか。警戒で一旦灯りを隠し、足を止めて様子を窺う。
「……ィナさーん!」
「ライさん!?」
あわてて向こうに見えるようにと灯りを揺らし、こちらからも駆け寄る。
息も切らさず走ってきたのは、やはりライの姿だった。幾分輪郭がハッキリ見える
のは気のせいだろうか。
「無事なの!?」
心配そうに尋ねられて、セラフィナは曖昧な笑顔を向けた。
「ティリーに怪我はありませんでした。疲れているようでしたが、大丈夫です」
「そう……よかった」
二人は出口に向かって並んで歩き出す。
「……って、そうじゃなくて。遅かったからセラフィナさんの心配してたんだよ」
「ふふ、心配かけてご免なさい」
「いきなり走って行っちゃうしさー」
血の匂いと暗い廊下に場違いなほど和やかな空気が流れる。
終わったのか。セラフィナは深呼吸しようとして、思わず血の匂いにむせた。
「行こう、セラフィナさん」
「はい」
廊下を走り抜け、出口へと急ぐ。外からの光が凄く懐かしいものに見えた。
刀傷もないまま生気無く倒れた男達が気にならなかったとは言わない。一目で死ん
でいると解る……しかしどこかで、気絶しているだけだと思いたかったのは本当だ。
セラフィナは小さく頭を下げて走り抜けた。口を開くとライを責めてしまいそう
で、口の端を強く引き結ぶ。
帰ろう。何処へ?
すぐにでも古城を後にするのだ。
町からも離れよう。なるべく早く。
当面の目的地は知られているだろう。残念だがコールベルまでは行けそうにない。
外に止まっていた馬車は三台。最後に駆けつけた援軍の乗って馬車から馬を一頭外
す。
一番丈夫そうで、おとなしそうな馬を選んだ。町を抜けるまでの足になって貰お
う。
「乗って下さい、この馬車では目立ちすぎますから、馬で町を抜けましょう」
「えーと、大丈夫かな?」
「掴まって下さい、手綱は私が持ちます」
一頭の馬が町を駆け抜けた。
気にとめるものはいなかった。
人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン近辺
-----------------------------------------------------------------------
町と野を別つ高い壁、その閉門の鐘の音が響き渡る。
黒馬は疾風のように町を駆け抜けた。いっそ不吉じみた嘶きを上げ疾駆する。
かたい蹄が地を蹴る軽快なリズム。夜風になびく服と髪。見上げた星空はどこまでも
どこまでも広がっている。ライは頭上に手を伸ばしてみたいと思ったが、馬から転がり
落ちるのは嫌だったから我慢した。
「二人乗りの後ろは恥ずかしいなぁ」
まだ宵の口。それでも賑やかな道を避ければ人の姿はほとんど見えない。
時折通り過ぎる路地の向こうから、深夜まで消えないだろう灯と行き支う人々の姿が
垣間見える。
過ぎ去って行く明りは妙に眩しい。馬が向かうのは街の外。
あの雑踏に紛れ込んですべてを忘れてしまえたら、もっと楽しく笑えるのに。
そろそろ逃亡生活はうんざりだ。あの時だって……あれ? いつのことだ?
「でも、馬には乗れないんでしょう?」
「んー?」
まぁいいか。思い出せないことは仕方がない。
今は閉門前に町を出ることだけを考えればいいのだ。いくらセラフィナに任せきりで
後ろでぼーっとしていても大丈夫だといって、実際にそうしているのも阿呆みたいだ。
ところでセラフィナにつかまっていないと転げ落ちそうだが、女性の体のどこを触ら
ないようにすれば問題が起こらないのだろうか。そっと、肩の上から腕を回してみる。
風のせいで声を聞き取りづらいから、身を乗り出してみる。
「それきっと僕じゃないよ」
「……そうでしたね」
くだらない話をしながら、少しだけ顔をしかめる。
誰と間違えられたのかなんとなく想像がついた。
「ぜんぜん似てないのに……」
「え?」
「なんでもない」
砂利道、前方に町を囲う城壁の黒い影。
黒馬が加速し始めた。門に詰めていた兵士達が蹄の音に気づいて騒ぐが、反応するに
は遅すぎる。セラフィナは巧みに手綱を操り、人と人の間をすり抜ける。
まさに風のように、一瞬以下で町を飛び出す。
「……意外と大胆だね」
「何のことです?」
「あ、自覚ないんだ」
目の前に夜の世界が広がっている。
街の中よりも温度の低い風に揺らされる草の音、その中に潜む虫の声。
なだらかに続く丘は月明かりに照らされて、奇妙に幻想的だった。
振りかえればその景色を寸断する町の影が立ち塞がっている。
その向こうには海が広がっているはずだ。
背の低い草が一面に丘を覆っている。こういった風景を海に喩える言葉を何度も聞い
たことがあるが、そういった気にはなれなかった。
満月に少し足りない月が草の葉を白く浮かび上がらせているのは、海というより――
「隠れられる場所はないみたいですね」
「え? ああ、うん……どうしよう。このままどっか遠くへ逃げようか」
ぼうっとしてたせいで慌てて答えると、どう考えても頭の悪い返事になった。
まるで駆け落ちの誘い文句みたい。別にそれでもいいけど。
――あんまり、よくもないか。このひとは本当のお姫さまだ。本当だったら手も届か
ないどころか姿を見ることもなかったような相手。さらっていく度胸はない。いや、あ
るかも知れない。
やっぱりそれもいいかも知れない。
ただ問題は、触れている彼女の体があまりにも温かくて、今も首にまわしたままの腕
に今すぐ力を篭めてしまう可能性を完全に否定できない自分の浅ましさ。すぐ目の前の
首筋の白さに気づいて視線を逸らす。
まだ食い足りない。あの程度の人数では話にならない。
でも、だからといって、セラフィナに手を出すようなことだけはあってはいけない。
いつまで我慢できるだろうか。今日は大丈夫、明日もきっと大丈夫。明後日だって、明
々後日だって――では、半月後は? 一月後は? わからない。
「それもいいですね」
「冗談だよ。疲れてるでしょ、休まないと」
馬はゆっくりと、草原の中に続く道を進んで行く。
気がつけば振り向いても町は見えなくなり、あたりに木々が増え始めていた。
森と呼ぶほど深くはないが、梢が夜空を遮って、月の光が斑に落ちる。仰いだ空はち
らちらと瞬いて見えた。雲一つない。月はもう移ろって、少しずつ降りていこうとして
いる。
セラフィナが馬をとめるのを待たずに、ライはひらりと飛び降りた。つんのめって転
びそうになりながら着地する。馬上から心配する声がかかるのに軽く笑い返し、
「ちょっとまわり見てくる」
言ってふらふらと歩き出す。随分と遠くまで来たし道からも外れているから、誰かに
見つかる心配はないだろう。だから探すのはセラフィナが休みやすそうな場所とか、も
しも近くにいたら大変な、猛獣や魔物の痕跡とか。
灯りを絞ったペンライトを片手に木の根元だの茂みだのをがさごそ覗きこみながら動
き回っていると、小さな水音が聞こえた。川があるのならありがたい。どこから聞こえ
るのか探そうと思ったが、元の場所に帰れなくなりそうだからやめた。
とりあえず大きな生き物はいないらしいと確認。これで満足することにしよう。
少し広くなっている場所を見つけて、灯りを回しながらセラフィナを手招きする。
「こっちにしようよ」
「わかりました」
人が二人と馬がおさまるにはちょうどいい感じな気がする。
セラフィナは伏せさせた馬の手綱を近くの枝にかけ、自分も腰をおろす。
ライは軽く伸びをした後で、木の根元に座って幹によりかかった。
灯りを真ん中に転がす。
白々しい光がゆっくりと動くのに合わせて周囲の影が退いた。
虫の声が聞こえる。わずかな風が心地いいが、もう眠気は感じなかった。妙に意識が
冴えていて、周囲の余計なことまでが気に留まる。
「おつかれ」と言いあって、そこでいきなり会話が止まった。
さっきのことはまだ話題にしづらいし、別のことを話し始めるのもなんか不自然。か
といって、まったく関係のないことを喋りだしても滑る気がするし……結局、無難に切
り出す。
「コールベル観光は無理みたいだね」
「ごめんなさい、ライさん、楽しみにしてたのに……」
うわぜんぜん無難じゃなかった。
ライは本気で慌てて首を横に振った。
「セラフィナさんのせいじゃないから! 悪いのはあの男と――ええと、あと世界とか
運命とか偶然とかそういうの。それに僕は別にコールベルなんてどうでもよかったし、
ぶっちゃけ船の上あたりで興味なくしかけてたから、セラフィナさんが気にすることな
んて何一つこれっぽっちもなくて」
クスクスという笑い声。言い訳を探して森の中に目を走らせていたライがセラフィナ
を見ると、彼女は、おかしそうなような、ちょっと困ったような、どちらともわからな
い表情で笑っていた。
「ライさんは、本当に優しいんですね」
そう言われて今の自分の滑稽さを自覚した。言葉が喉に詰まる。
頭を抱えたくなるのを我慢して、とりあえず何かを取り繕おうと無意味に笑い返すが、
かなり情けない笑顔になった。
「……空回りしてるだけだよ。
コールベルに行こうって言ったのだって……別に、大した意味なんてなくてさ、ただ
の思いつきだったんだ。なんとなく行ってみようって、一人だったら絶対に途中で飽き
て、どっか別の場所を目指してたよ。で、それも途中で飽きるんだ」
がっくり肩を落とす。
上目遣いでセラフィナを見て、なんとか情けなくない笑顔をつくるために口の端をつ
りあげてみたが、これもやっぱりうまくいった自信はなかった。
「だからさ、本当のこと言うと、大変なことに巻き込まれて、それは大変だったけど、
とにかく……ええと、コールベルに着けなくてよかった」
「……え?」
セラフィナは信じられないというように瞬きした。
「私は……ライさんが一度見てみたかったって言ったから……私も、コールベルに……」
「違う! そういう意味じゃなくて……」
思わず大声を出してしまってから、ライは気不味さに視線を落とした。
誤解されるのは嫌だ。面白半分で引きずり回していたとか、そういうのではなくて、
二人であの町を見たかったと思ったことは、確かに何度もあったんだ。
「いや、行きたいことは行きたいんだけど、今は、無理しても、あまり人前に出れない
し……今日なんか消えてたはずなのに追いかけられたし……もう、人のたくさんいる場
所には近づきたくないんだ……けど」
口ごもる。本当に言ってもいいのか、これは?
一瞬だけ冷静になった意識が周囲の音を拾う。森を駆け抜ける静かな風の音。
「セラフィナさんと“コールベルまで一緒に行く”って約束したから、せめて、ぎりぎ
りまでは……って思ってた。だけど着いちゃったら、町の外で、バイバイって言うのが
いいんだろうけど、きっと言えないし……そしたら迷惑かけそうだし。だから着かなく
てよかったよ」
でもその代わりにここで終わるのかも知れない。
一緒にいられない理由は、数えてみればいくらでもあるのだ。ただ、それらのひとつ
ひとつが、決定的ではないというだけで。
このままでは何か致命的な問題が起こるまで、ずるずると今の状態を維持しようとし
てしまう。気づいた時に終わらせなければ――
港についたとき、コールベルが近づいたことを実感して覚えた漠然とした不安が、今
やはっきりとしたものに変わっている。胸の奥で黒くわだかまってひどく重い。思わず
服の胸元を掴むと、セラフィナに「やっぱり調子が悪いんですか?」と覗きこまれて、
ますます気分が複雑になる。
「ライさん?」
「だからコールベルのことは、もう気にするのやめよう」
うなだれる。うなだれながらぼんやりと考える。
やっぱり、ポポルに帰って、あの手配の理由を確認しなければいけない。そうじゃな
いと、余計に誰とも一緒にいられない。そして、今までとまったく反対方向への旅に、
セラフィナを誘うことがあまりにも自分勝手だということもわかっている。
うなだれたまま目を閉じる。
「……ライさんは、あの……これからどうするつもりなんですか…?」
聞かれて少し考えてみる。ポポルへ行くのは間違いないが、せっかくここまで来て、
このまま引き返すのはどうかと思ったりもする。何か用事ないかな……ああ、そうだ。
「いちど家に帰るよ。留守番してたはずの弟がサボって遊びに行ってるみたいだから、
たまには様子見ないとね。もう誰も帰らないのかも知れないけど……」
なんだか自分がひどい馬鹿に思えてきた。木の幹に寄りかかって、ずるずるとずり落
ちる。ジャケットの背中が傷ついたがそんなことは無視。後でいくらでもなおせる。
やっぱり無理だ。今じゃなくてもいいじゃないか。
なんでいきなり、そんなことを考えたんだ。コールベルが無理なら――
いつか我慢できなくなってこの人を食らうかも知れない。だけどそれは今日でも明日
でも、ない。先のことは考えなければいい。そんな簡単なこと。
だけどもう最初の目的は消えてしまって、一緒にいる理由はない。
覚悟を決めろ。喉の奥で、痙攣するような笑い声を上げる。
「……ライさん? 本当に大丈夫なんですか?」
「ねぇ、セラフィナさん」
顔を上げて――睨むよりも真摯にじっと見据えると、セラフィナは、わけもわからな
いままに驚いたようだった。
「……僕の家はサメクにあるんだ。そんなに遠くない。
よかったらさ、セラフィナさんも一緒に来てくれない?」
「え?」
「コールベルほど大きくないけど、静かで綺麗な町だ。
森の中にあって外との交流が少ないから、しばらく身を潜めるにもちょうどいい」
何でもいい、頷いてもらうための言葉。惨めったらしく同情を引いてでも、“二人の
目的地”に辿り着けなくなってしまったなら、その代わりがあればいいんだろ? 無理
にでもつくってやる。嘘泣きとかそういうのだっていくらでもやってみせる。
彼女の笑顔を見るのも、声を聞くのも、まだ足りない。まだ別れたくない。
これは恋愛感情だろうか? きっと違う。違うはずだ。いま目の前にあるものを手放
したくないという執着心。そういうものに違いない。
「空っぽの家に一人で帰るのは嫌だよ……」
呟いて、うつむく。
ライトが不安定に点滅して、また元の明るさに戻った。
場所:港町ルクセン近辺
-----------------------------------------------------------------------
町と野を別つ高い壁、その閉門の鐘の音が響き渡る。
黒馬は疾風のように町を駆け抜けた。いっそ不吉じみた嘶きを上げ疾駆する。
かたい蹄が地を蹴る軽快なリズム。夜風になびく服と髪。見上げた星空はどこまでも
どこまでも広がっている。ライは頭上に手を伸ばしてみたいと思ったが、馬から転がり
落ちるのは嫌だったから我慢した。
「二人乗りの後ろは恥ずかしいなぁ」
まだ宵の口。それでも賑やかな道を避ければ人の姿はほとんど見えない。
時折通り過ぎる路地の向こうから、深夜まで消えないだろう灯と行き支う人々の姿が
垣間見える。
過ぎ去って行く明りは妙に眩しい。馬が向かうのは街の外。
あの雑踏に紛れ込んですべてを忘れてしまえたら、もっと楽しく笑えるのに。
そろそろ逃亡生活はうんざりだ。あの時だって……あれ? いつのことだ?
「でも、馬には乗れないんでしょう?」
「んー?」
まぁいいか。思い出せないことは仕方がない。
今は閉門前に町を出ることだけを考えればいいのだ。いくらセラフィナに任せきりで
後ろでぼーっとしていても大丈夫だといって、実際にそうしているのも阿呆みたいだ。
ところでセラフィナにつかまっていないと転げ落ちそうだが、女性の体のどこを触ら
ないようにすれば問題が起こらないのだろうか。そっと、肩の上から腕を回してみる。
風のせいで声を聞き取りづらいから、身を乗り出してみる。
「それきっと僕じゃないよ」
「……そうでしたね」
くだらない話をしながら、少しだけ顔をしかめる。
誰と間違えられたのかなんとなく想像がついた。
「ぜんぜん似てないのに……」
「え?」
「なんでもない」
砂利道、前方に町を囲う城壁の黒い影。
黒馬が加速し始めた。門に詰めていた兵士達が蹄の音に気づいて騒ぐが、反応するに
は遅すぎる。セラフィナは巧みに手綱を操り、人と人の間をすり抜ける。
まさに風のように、一瞬以下で町を飛び出す。
「……意外と大胆だね」
「何のことです?」
「あ、自覚ないんだ」
目の前に夜の世界が広がっている。
街の中よりも温度の低い風に揺らされる草の音、その中に潜む虫の声。
なだらかに続く丘は月明かりに照らされて、奇妙に幻想的だった。
振りかえればその景色を寸断する町の影が立ち塞がっている。
その向こうには海が広がっているはずだ。
背の低い草が一面に丘を覆っている。こういった風景を海に喩える言葉を何度も聞い
たことがあるが、そういった気にはなれなかった。
満月に少し足りない月が草の葉を白く浮かび上がらせているのは、海というより――
「隠れられる場所はないみたいですね」
「え? ああ、うん……どうしよう。このままどっか遠くへ逃げようか」
ぼうっとしてたせいで慌てて答えると、どう考えても頭の悪い返事になった。
まるで駆け落ちの誘い文句みたい。別にそれでもいいけど。
――あんまり、よくもないか。このひとは本当のお姫さまだ。本当だったら手も届か
ないどころか姿を見ることもなかったような相手。さらっていく度胸はない。いや、あ
るかも知れない。
やっぱりそれもいいかも知れない。
ただ問題は、触れている彼女の体があまりにも温かくて、今も首にまわしたままの腕
に今すぐ力を篭めてしまう可能性を完全に否定できない自分の浅ましさ。すぐ目の前の
首筋の白さに気づいて視線を逸らす。
まだ食い足りない。あの程度の人数では話にならない。
でも、だからといって、セラフィナに手を出すようなことだけはあってはいけない。
いつまで我慢できるだろうか。今日は大丈夫、明日もきっと大丈夫。明後日だって、明
々後日だって――では、半月後は? 一月後は? わからない。
「それもいいですね」
「冗談だよ。疲れてるでしょ、休まないと」
馬はゆっくりと、草原の中に続く道を進んで行く。
気がつけば振り向いても町は見えなくなり、あたりに木々が増え始めていた。
森と呼ぶほど深くはないが、梢が夜空を遮って、月の光が斑に落ちる。仰いだ空はち
らちらと瞬いて見えた。雲一つない。月はもう移ろって、少しずつ降りていこうとして
いる。
セラフィナが馬をとめるのを待たずに、ライはひらりと飛び降りた。つんのめって転
びそうになりながら着地する。馬上から心配する声がかかるのに軽く笑い返し、
「ちょっとまわり見てくる」
言ってふらふらと歩き出す。随分と遠くまで来たし道からも外れているから、誰かに
見つかる心配はないだろう。だから探すのはセラフィナが休みやすそうな場所とか、も
しも近くにいたら大変な、猛獣や魔物の痕跡とか。
灯りを絞ったペンライトを片手に木の根元だの茂みだのをがさごそ覗きこみながら動
き回っていると、小さな水音が聞こえた。川があるのならありがたい。どこから聞こえ
るのか探そうと思ったが、元の場所に帰れなくなりそうだからやめた。
とりあえず大きな生き物はいないらしいと確認。これで満足することにしよう。
少し広くなっている場所を見つけて、灯りを回しながらセラフィナを手招きする。
「こっちにしようよ」
「わかりました」
人が二人と馬がおさまるにはちょうどいい感じな気がする。
セラフィナは伏せさせた馬の手綱を近くの枝にかけ、自分も腰をおろす。
ライは軽く伸びをした後で、木の根元に座って幹によりかかった。
灯りを真ん中に転がす。
白々しい光がゆっくりと動くのに合わせて周囲の影が退いた。
虫の声が聞こえる。わずかな風が心地いいが、もう眠気は感じなかった。妙に意識が
冴えていて、周囲の余計なことまでが気に留まる。
「おつかれ」と言いあって、そこでいきなり会話が止まった。
さっきのことはまだ話題にしづらいし、別のことを話し始めるのもなんか不自然。か
といって、まったく関係のないことを喋りだしても滑る気がするし……結局、無難に切
り出す。
「コールベル観光は無理みたいだね」
「ごめんなさい、ライさん、楽しみにしてたのに……」
うわぜんぜん無難じゃなかった。
ライは本気で慌てて首を横に振った。
「セラフィナさんのせいじゃないから! 悪いのはあの男と――ええと、あと世界とか
運命とか偶然とかそういうの。それに僕は別にコールベルなんてどうでもよかったし、
ぶっちゃけ船の上あたりで興味なくしかけてたから、セラフィナさんが気にすることな
んて何一つこれっぽっちもなくて」
クスクスという笑い声。言い訳を探して森の中に目を走らせていたライがセラフィナ
を見ると、彼女は、おかしそうなような、ちょっと困ったような、どちらともわからな
い表情で笑っていた。
「ライさんは、本当に優しいんですね」
そう言われて今の自分の滑稽さを自覚した。言葉が喉に詰まる。
頭を抱えたくなるのを我慢して、とりあえず何かを取り繕おうと無意味に笑い返すが、
かなり情けない笑顔になった。
「……空回りしてるだけだよ。
コールベルに行こうって言ったのだって……別に、大した意味なんてなくてさ、ただ
の思いつきだったんだ。なんとなく行ってみようって、一人だったら絶対に途中で飽き
て、どっか別の場所を目指してたよ。で、それも途中で飽きるんだ」
がっくり肩を落とす。
上目遣いでセラフィナを見て、なんとか情けなくない笑顔をつくるために口の端をつ
りあげてみたが、これもやっぱりうまくいった自信はなかった。
「だからさ、本当のこと言うと、大変なことに巻き込まれて、それは大変だったけど、
とにかく……ええと、コールベルに着けなくてよかった」
「……え?」
セラフィナは信じられないというように瞬きした。
「私は……ライさんが一度見てみたかったって言ったから……私も、コールベルに……」
「違う! そういう意味じゃなくて……」
思わず大声を出してしまってから、ライは気不味さに視線を落とした。
誤解されるのは嫌だ。面白半分で引きずり回していたとか、そういうのではなくて、
二人であの町を見たかったと思ったことは、確かに何度もあったんだ。
「いや、行きたいことは行きたいんだけど、今は、無理しても、あまり人前に出れない
し……今日なんか消えてたはずなのに追いかけられたし……もう、人のたくさんいる場
所には近づきたくないんだ……けど」
口ごもる。本当に言ってもいいのか、これは?
一瞬だけ冷静になった意識が周囲の音を拾う。森を駆け抜ける静かな風の音。
「セラフィナさんと“コールベルまで一緒に行く”って約束したから、せめて、ぎりぎ
りまでは……って思ってた。だけど着いちゃったら、町の外で、バイバイって言うのが
いいんだろうけど、きっと言えないし……そしたら迷惑かけそうだし。だから着かなく
てよかったよ」
でもその代わりにここで終わるのかも知れない。
一緒にいられない理由は、数えてみればいくらでもあるのだ。ただ、それらのひとつ
ひとつが、決定的ではないというだけで。
このままでは何か致命的な問題が起こるまで、ずるずると今の状態を維持しようとし
てしまう。気づいた時に終わらせなければ――
港についたとき、コールベルが近づいたことを実感して覚えた漠然とした不安が、今
やはっきりとしたものに変わっている。胸の奥で黒くわだかまってひどく重い。思わず
服の胸元を掴むと、セラフィナに「やっぱり調子が悪いんですか?」と覗きこまれて、
ますます気分が複雑になる。
「ライさん?」
「だからコールベルのことは、もう気にするのやめよう」
うなだれる。うなだれながらぼんやりと考える。
やっぱり、ポポルに帰って、あの手配の理由を確認しなければいけない。そうじゃな
いと、余計に誰とも一緒にいられない。そして、今までとまったく反対方向への旅に、
セラフィナを誘うことがあまりにも自分勝手だということもわかっている。
うなだれたまま目を閉じる。
「……ライさんは、あの……これからどうするつもりなんですか…?」
聞かれて少し考えてみる。ポポルへ行くのは間違いないが、せっかくここまで来て、
このまま引き返すのはどうかと思ったりもする。何か用事ないかな……ああ、そうだ。
「いちど家に帰るよ。留守番してたはずの弟がサボって遊びに行ってるみたいだから、
たまには様子見ないとね。もう誰も帰らないのかも知れないけど……」
なんだか自分がひどい馬鹿に思えてきた。木の幹に寄りかかって、ずるずるとずり落
ちる。ジャケットの背中が傷ついたがそんなことは無視。後でいくらでもなおせる。
やっぱり無理だ。今じゃなくてもいいじゃないか。
なんでいきなり、そんなことを考えたんだ。コールベルが無理なら――
いつか我慢できなくなってこの人を食らうかも知れない。だけどそれは今日でも明日
でも、ない。先のことは考えなければいい。そんな簡単なこと。
だけどもう最初の目的は消えてしまって、一緒にいる理由はない。
覚悟を決めろ。喉の奥で、痙攣するような笑い声を上げる。
「……ライさん? 本当に大丈夫なんですか?」
「ねぇ、セラフィナさん」
顔を上げて――睨むよりも真摯にじっと見据えると、セラフィナは、わけもわからな
いままに驚いたようだった。
「……僕の家はサメクにあるんだ。そんなに遠くない。
よかったらさ、セラフィナさんも一緒に来てくれない?」
「え?」
「コールベルほど大きくないけど、静かで綺麗な町だ。
森の中にあって外との交流が少ないから、しばらく身を潜めるにもちょうどいい」
何でもいい、頷いてもらうための言葉。惨めったらしく同情を引いてでも、“二人の
目的地”に辿り着けなくなってしまったなら、その代わりがあればいいんだろ? 無理
にでもつくってやる。嘘泣きとかそういうのだっていくらでもやってみせる。
彼女の笑顔を見るのも、声を聞くのも、まだ足りない。まだ別れたくない。
これは恋愛感情だろうか? きっと違う。違うはずだ。いま目の前にあるものを手放
したくないという執着心。そういうものに違いない。
「空っぽの家に一人で帰るのは嫌だよ……」
呟いて、うつむく。
ライトが不安定に点滅して、また元の明るさに戻った。
人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン近辺→サメクの南
------------------------------------------------------------------------
ライトの点滅が、揺れる自分の心のようだった。
ただ、元の明るさに戻った灯りとは違い、気持ちはなかなか定まらない。
「……私でいいんですか?」
冗談めかして笑顔を浮かべた。ソレが成功しているかはよく分からかったけれど。
駆け落ちの誘い文句にも聞こえかねないということに、彼はきっと気付いていな
い。
自分と一緒にいることが危険だと知っているのに、知らないフリをしてくれてい
る。
気を使われないように上手に気を使って、道化のフリさえしてみせる。
ああ、なんて優しい人なんだろう。
このまま、ずっと甘えていられたら……。
そこまで考えて、彼が何か言う前に言葉を発する。
「それもいいかもしれませんね」
ライが顔をほころばせた。
ああ、こんな風に笑ってくれるのなら、もうしばらく甘えているのもいいかもしれ
ない。
自然に笑顔が浮かぶのが分かる。作り物じゃない本当の笑顔。
お互いに笑いあえる。そんなささやかな幸せが、きっと一番尊いのだ。
無償の笑顔に期待なんてしてはいけない。
自分だけを見てくれるんじゃないかと、錯覚を起こしてはならない。
彼から私に向けられているのは、恋愛感情じゃないだろう。
ティリーのような激しい感情は向けられていないしと思うし、向けていないのだか
ら。
友達を心配するのは当たり前のことで、気遣ってくれるのを勘繰るのは失礼だ。
優しい言葉で気持ちが揺らぐのは、きっと今、自分の心が弱っているから。
優しくされたくて、癒されたくて、勘違いしてしまいたくなるのは本当だけれど。
彼は私にとって大切な友達、特別な友達だから。だから、そんな考えを頭から追い
出す。
「ゆっくり休んで。見張りくらいやるよ?」
立ち上がったライの言葉に頷くが、頭が冴えて眠くならない。
馬に寄りかかっても側で横になっても、睡魔はなかなか訪れそうにない。
だからこっそりと、ライを見上げた。
幾分輪郭がハッキリとしてきたライは木によりかかり、遠くを見つめている。
切り取って、ずっと見ていたい様な気がした。
自分が目を覚ましたときに不安にならないように。きっとそれだけの理由で姿を消
さず彼はそこにいるのだ。胸がじんわり暖かくなる。
視線の先はルクセンだろうか、それともサメクだろうか?
遠くを見つめる彼の目に映る光景を、一緒に見ることが出来たら、そう思った。
「……あれ、眠れない?」
ライに笑い掛けられて、見ていたことが何となく恥ずかしくなって、曖昧に笑い返
す。
体を起こして座り直すと、ライも木にもたれるように座った。
「まあ、無理して眠れとは言わないけど、身体は休めなきゃね」
「そうですね。そう思うんですけど」
苦笑して髪を撫でつけた。見ていたことが何となく後ろめたい。顔が上げられな
い。
「土の上に直接は冷えるかもね……何か出来ることある?」
枯れ葉が溜まる時期でもないし、木の枝はかえって痛くて眠れなさそうだし……
と、ライが呟くように言うのを聞きながら、ふと、思いついた。
ソレはとても魅力的で、でも、断られたら立ち直れないかもしれなくて。
言いかけて、やめる。彼がそんなことに気付かないはずはないのに。
「……側にいると寝付けないとか?」
「違っ、そうじゃなくて……」
顔を上げて、視線が交差した。
少し困ったような笑顔にどきりとする。
「……あの、肩をお借りしても……」
「あー、うん。いいけど」
拍子抜けするほどにあっさりと返事が返ってくる。
ライはすたすたと隣まで来て、ひょいっと身軽な動きで腰を下ろした。
ああ、やっぱり何とも思われていないのかな、と寂しいような複雑な思いがよぎる
が、断られなかったことがほんのりと嬉しかったりして、口元が笑う。
「これでいい?」
「ありがとうございます」
覗き込むように聞いてくるライに、またどきりとしてしまう。
こんなに近くで顔を見たことがあったかしら。
にっこり笑って即答するも、ドキドキが治まらなくて、すぐに目を逸らした。
遠慮がちに借りた肩は骨っぽくて、暖かくもなくて。外気のように冷えて行かない
ことが不思議なくらいで……それでも落ち着くのは何故だろうか。
以前に一度、肩を借りたことがあったな、と思い出す。
ソフィニアを出てすぐ、あれは馬車の中だった。
疲れていたし、すぐに眠ってしまったけれど、不思議と深く眠れたような気がす
る。
その頃は特に気負いもなく肩を借りたような気がするな、とくすくす笑った。
「どうしたの?」
ライから声を掛けられたが、何となく狸寝入りを決めこんだ。
このまま、自分の体温でライさんまで温められたらいいのに。
そんなことを考えながら、意識はとろりとまどろんでゆくのだった……。
小鳥の鳴き声がチチチと聞こえる。葉陰から漏れる朝日に瞼の裏が明るく染まる。
寝返りを打とうとして初めて、自分が横になっていたことに気付いた。
「え……あっ」
慌てて目を開けると、目の前でひらひらと革手袋が踊る。
「おはよー、セラフィナさん」
横になったまま見上げて、ようやく自分が何処にいるのか分かった。
足を投げ出して座っていたライの膝を枕にしていたらしい。
「おはようございます」
笑いかけると笑い返してくれる。それが凄く嬉しくて、セラフィナはまた笑った。
ライが近くで見つけてきた小川で顔を洗い、馬に水を飲ませる。朝食を摂って一息
つきたいところだが、追っ手が来ているかもしれない今、ゆっくりしてはいられな
い。
「セラフィナさんが起きる前に、何か食べられそうなモノを探しておけば良かった
ね」
ライは小さく肩を竦めて見せたが、セラフィナは笑って首を振る。
彼が動けなかったのは自分が枕にしてしまったせいで……という恐縮よりも、純粋
にその心遣いが嬉しかった。
馬に跨り、野を駆ける。
街道と呼べるほどの道はなるべく避けて、獣道や荒野を進む。時々ライに方角を確
認する以外はセラフィナもライもあまり喋ることもしない。
二人とも、昨日のことには触れなかった。
あまりにも生々しすぎて別れる理由を思い出してしまうから……無意識に避けたの
かもしれなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
馬に疲れの色が見え始めた頃には、もう日は真上辺りまで昇っていた。
コールベルよりも東に位置するこじんまりとした町に、東の門から入る。
手間のかかることだが、追っ手が情報収集に来た時の捜索条件に当てはまる可能性
が西側から入るよりも減るという配慮だ。
厩で馬を交換してもらい、浮いた金で日持ちのしそうなパンやチーズを幾つか買っ
た。宝石の換金も考えたが、小さな町では目立ちすぎると断念。手持ちの硬貨で毛布
などの買い物を済ませ、馬に積む。
セラフィナは黒のマントを質入れし、丈夫そうな町娘の普段着に着替えていた。髪
は編み上げていて、遠目に見てもセラフィナとは判別できないだろう。
馬もマントも、本当はどこかに隠すか捨てるかするべきだったのかもしれない。
買い物中に「どこまでいくの?」と聞かれたときには「コールベルまで観光です」
と答え、西の門から出た。
わかっている、気休めだ。でも、追っ手を混乱させることが出来ればそれで充分だ
った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あれから何日経ったのだろう。もうじき二ヶ月程になるだろうか。
コールベルの北側を迂回し、コーネリア王国の南を抜け、時々食料を切らさないよ
うに小さな町へ立ち寄っては、サメクを目指す。何度か服を取り替え、髪型を変え、
巡り巡って今は元の恰好になっている。追っ手は諦めたのだろうか、最初の一週間は
聞いた噂も、すっかり聞かなくなって久しい。目的地までは……更に北へ一週間くら
いだろうか?
二人は見晴らしのいい丘で休憩を挟むことにした。麓の小川では馬に草と水を与
え、丘を登る。今のところ追っ手の気配は感じなかったが、先に気付けば対処しやす
いだろうと理由を付け、景色を眺めに来たのだ。
「わぁ……!!」
眼下に広がるは一面の草原。ここから北へ向かうとこういう景色にはお目にかかれ
ないのだとライが笑った。
針葉樹と雪の世界。……まあ、今年はまだ雪の季節ではないかもしれないけれど。
草の海を眺めながら、果物を一かじりする。途中の町で買ったリンゴだ。甘酸っぱ
い香りと汁気の多い果肉が口の中に広がる。
「あー、これで手配書が増えてるんだろうなぁ」
ライが少し遅れて腰を下ろしながら笑った。
「……手配書?」
「うん、なんか大きな事件の濡れ衣がかけられててね、手配がかかっているみたい。
……言うの初めてだっけ」
こんな風に自分のことを話してくれるのは初めてかも知れなかった。
何だかくすぐったくて、目を細めて笑う。
「セラフィナさん誘拐とルクセン古城殺人事件の容疑者にはなってそうだよね」
ちょっと茶化すような口調だが、言っている内容は深刻だった。
手配の範囲は分からない。もしかしたらコールベル近郊のみの手配かもしれない
し、大陸全土に渡る大がかりなモノかもしれない。確実に手配がかかっているという
わけでもないが、その可能性は非常に大きいように思えた。
今まで避けてきた話題だっただけに、ライが「しまった」という表情を浮かべ、取
り繕おうと口を開くが、人差し指を口の前に立て、もう片方の手で手招きして囁い
た。
「いいえ、むしろ私が皇女を騙る偽物として手配されているかもしれませんよ?」
顔を寄せ、小声で囁いたものだから。
二人とも可笑しくなって、声をあげて笑う。
「はははっ……セラフィナさんも、そういうこと言うんだね」
「ふふっ、変ですか?」
「ちょっとね。今までからじゃ想像付かない」
ライが大の字になって空を見上げた。
「いい天気だね……こんな時でも気持ちよくお昼寝できないのは残念だよ」
「……そうですね」
一緒になって空を見上げる。
ソフィニアで窓から見た時と同じ色の鳥が飛んでいた。なんという名の鳥なのだろ
う。二羽がとても仲睦まじく、楽しそうに飛んでいる。
「あの鳥、この辺りにもいるんですね」
「どうなんだろう、珍しい気もするけど」
ライが思い切り伸びをするが、小さく「ぃてっ」と呻き、頭を押さえて体を起こし
た。
「~っ、油断すると小石が痛かったりするよね」
頭頂部付近を撫でながら言う姿が可愛らしくて、思わず吹き出す。
慌てて口元を隠すが、ライにじとーっと見られて、慌てて誤魔化そうと膝を叩い
た。
「ライさん、ほら、ここにいい枕がありますよ」
笑顔で言っておきながら、早速後悔。
人に膝を貸した事なんて一度もないし、一体何をどうしていいのかすらわからな
い。
笑顔がひきつってきたのが分かったのか、ライは溜め息をついて見せた。
「はぁ~、無理しなくてもいいよ」
そしてちょっと寂しそうに背中を向ける。
「ああ、もう。お願いライさん、拗ねないで。
膝を貸してもらったことがあったでしょう? そのお礼。そのお返し。ね?」
「……本当に?」
まだ疑いの目でライが振り返ったので、コクコクと無言で頷いてみせる。
「わーい!」
子供のように笑って、ライが頭を預けてきた。
人の頭は本来かなり重いものなのに、ライの頭の軽さにどきりとする。そしてやは
り暖かくないのだ。普通の人との明確な違いを思い出して、胸が痛んだ。
「こんなの、何年ぶりだろう」
ライが満面の笑みで呟く。
頬を撫でる風と柔らかい草の匂いを、彼は凄く楽しんでいるように見えた。……そ
う見えるだけで、本当は匂いの感覚があるのかも知らないのだけれど。
あんまり気持ちよさそうで、幸せそうで。胸がほっこりと暖かくなるのが分かる。
ああ、やっぱり好きだ。
自然と気持ちが落ち着いた単語は、以前に何度も否定し続けてきた言葉だった。
いつからこの人を好きだったんだろう? もしかしたらずっと前から気付かずにい
ただけなのかもしれない。それとも気付かないようにしていたのか。
あんまり自分が滑稽で、小さく苦笑する。見上げてきたライが眩しくて、僅かに視
線を逸らした。
……自覚すると、こんなに恥ずかしいモノだとは知らなかった。
「足、伸ばしましょうか。あんまり高いと首が痛くなるでしょう?」
「いいよ、このままがいい」
目をうっとりと閉じたライの顔を、ずっと見ていた。
このまま、時が止まればいいと思った。幸せな時間のままで、ずっとずっといられ
たら。
どのくらい、そうしていただろう。ふと顔を上げたとき、地平線のあたりから黒い
馬に乗った黒い服の一行がやってくるのが見えた。身体がびくっと震えるのが分か
る。その反応に、ライは膝から飛び起きた。
「ライ、さん……」
続く言葉が見つからなかった。
立ち上がったモノの、足が震えて動けない。
「大丈夫、まだ見つかってないよ。真っ直ぐこっちに向かっていないみたいだ。
もしかしたら紛らわしいだけの関係ない一行かもしれないしね」
手を引かれて丘を降りる。馬のところまで来て、もう一度足が止まった。
北へ向かうには丘の影から出て、一行の前を横切らなくてはならない事に気付いた
のだ。
「サメクへ行くのは後回しかな?」
「……やっぱり、一緒には行けない……」
ずっと避け続けてきた。ずっと考えすぎだと思うようにしていた。でも
「ライさんの帰るところを奪ってしまうのは、イヤです」
きっぱり。
襟元のブローチを握りしめながら、彼を見上げる。
「一人にしないでよ、セラフィナさん……」
弱々しく笑うライの姿が胸を突く。
一緒にいたいから、その為にも自分の立場をきちんと清算する必要があるのだ。
その思いが、身体を突き動かす。
「ライさん、あなたにお話ししていないことがあるんです。
……聞いてくれますか?」
「後でいくらでも聞くよ。だから、今は一緒に行こう!
あいつらは追っ手かもしれない、そうじゃないかもしれない。
だったら、そうじゃないって分かってからでもいいじゃないか」
彼は自分から目を逸らすと、馬の手綱を引く。
聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない。
背中がそう叫んでいるように見えた。
一刻を争うかもしれないのに、自分は一体何をやっているんだろう。
そんな思いが頭をよぎる。
「じゃあ一言だけ。
おねがい、三つ数える間だけ目を閉じて」
何でこんなに必死なんだろう。
何で今じゃなくちゃいけないんだろう。
でも。どうしても、言っておきたいことがあるから。
「……わかったよ」
ライが渋々目を閉じた。
そっと近づき、正面に立つ。
「一」
彼に触れないようにそっと背伸びをして、
「二」
唇に触れるか触れないかのところで、囁く。
「好きです」
「!?」
ライは驚いて手綱から手を離し、目を開いた。どんな表情だったかまでは知らな
い。
その一瞬の間に、自分は馬上にいたのだ。
「まだ数え終わっていませんよ、ライさん。
返事は次にあったときに聞きますから、考えておいて下さいね」
馬上から彼を見下ろす。
振り返った彼は、眩しそうにこちらを見上げた。
「行っちゃうんだ」
「ええ。帰ってくるために行くんです」
不思議と、涙は出なかった。
晴れ晴れとした笑顔で返事をし、馬の鼻先を南へ向けた。
「また、会えるよね」
「信じていれば、会えますよ」
一番の笑顔を彼に向けて、振り返らず。単身、南へと馬を駆った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あれが追っ手だったかどうか、私は知らない。
一人残された彼が、その後どうしたのかも知らない。
でも。
「また、会えるよね」
あの一言で、自分は頑張れる。
さあ、故国へ戻って、しがらみを置いてこよう。
笑って、再び再会するために。
fin.
場所:港町ルクセン近辺→サメクの南
------------------------------------------------------------------------
ライトの点滅が、揺れる自分の心のようだった。
ただ、元の明るさに戻った灯りとは違い、気持ちはなかなか定まらない。
「……私でいいんですか?」
冗談めかして笑顔を浮かべた。ソレが成功しているかはよく分からかったけれど。
駆け落ちの誘い文句にも聞こえかねないということに、彼はきっと気付いていな
い。
自分と一緒にいることが危険だと知っているのに、知らないフリをしてくれてい
る。
気を使われないように上手に気を使って、道化のフリさえしてみせる。
ああ、なんて優しい人なんだろう。
このまま、ずっと甘えていられたら……。
そこまで考えて、彼が何か言う前に言葉を発する。
「それもいいかもしれませんね」
ライが顔をほころばせた。
ああ、こんな風に笑ってくれるのなら、もうしばらく甘えているのもいいかもしれ
ない。
自然に笑顔が浮かぶのが分かる。作り物じゃない本当の笑顔。
お互いに笑いあえる。そんなささやかな幸せが、きっと一番尊いのだ。
無償の笑顔に期待なんてしてはいけない。
自分だけを見てくれるんじゃないかと、錯覚を起こしてはならない。
彼から私に向けられているのは、恋愛感情じゃないだろう。
ティリーのような激しい感情は向けられていないしと思うし、向けていないのだか
ら。
友達を心配するのは当たり前のことで、気遣ってくれるのを勘繰るのは失礼だ。
優しい言葉で気持ちが揺らぐのは、きっと今、自分の心が弱っているから。
優しくされたくて、癒されたくて、勘違いしてしまいたくなるのは本当だけれど。
彼は私にとって大切な友達、特別な友達だから。だから、そんな考えを頭から追い
出す。
「ゆっくり休んで。見張りくらいやるよ?」
立ち上がったライの言葉に頷くが、頭が冴えて眠くならない。
馬に寄りかかっても側で横になっても、睡魔はなかなか訪れそうにない。
だからこっそりと、ライを見上げた。
幾分輪郭がハッキリとしてきたライは木によりかかり、遠くを見つめている。
切り取って、ずっと見ていたい様な気がした。
自分が目を覚ましたときに不安にならないように。きっとそれだけの理由で姿を消
さず彼はそこにいるのだ。胸がじんわり暖かくなる。
視線の先はルクセンだろうか、それともサメクだろうか?
遠くを見つめる彼の目に映る光景を、一緒に見ることが出来たら、そう思った。
「……あれ、眠れない?」
ライに笑い掛けられて、見ていたことが何となく恥ずかしくなって、曖昧に笑い返
す。
体を起こして座り直すと、ライも木にもたれるように座った。
「まあ、無理して眠れとは言わないけど、身体は休めなきゃね」
「そうですね。そう思うんですけど」
苦笑して髪を撫でつけた。見ていたことが何となく後ろめたい。顔が上げられな
い。
「土の上に直接は冷えるかもね……何か出来ることある?」
枯れ葉が溜まる時期でもないし、木の枝はかえって痛くて眠れなさそうだし……
と、ライが呟くように言うのを聞きながら、ふと、思いついた。
ソレはとても魅力的で、でも、断られたら立ち直れないかもしれなくて。
言いかけて、やめる。彼がそんなことに気付かないはずはないのに。
「……側にいると寝付けないとか?」
「違っ、そうじゃなくて……」
顔を上げて、視線が交差した。
少し困ったような笑顔にどきりとする。
「……あの、肩をお借りしても……」
「あー、うん。いいけど」
拍子抜けするほどにあっさりと返事が返ってくる。
ライはすたすたと隣まで来て、ひょいっと身軽な動きで腰を下ろした。
ああ、やっぱり何とも思われていないのかな、と寂しいような複雑な思いがよぎる
が、断られなかったことがほんのりと嬉しかったりして、口元が笑う。
「これでいい?」
「ありがとうございます」
覗き込むように聞いてくるライに、またどきりとしてしまう。
こんなに近くで顔を見たことがあったかしら。
にっこり笑って即答するも、ドキドキが治まらなくて、すぐに目を逸らした。
遠慮がちに借りた肩は骨っぽくて、暖かくもなくて。外気のように冷えて行かない
ことが不思議なくらいで……それでも落ち着くのは何故だろうか。
以前に一度、肩を借りたことがあったな、と思い出す。
ソフィニアを出てすぐ、あれは馬車の中だった。
疲れていたし、すぐに眠ってしまったけれど、不思議と深く眠れたような気がす
る。
その頃は特に気負いもなく肩を借りたような気がするな、とくすくす笑った。
「どうしたの?」
ライから声を掛けられたが、何となく狸寝入りを決めこんだ。
このまま、自分の体温でライさんまで温められたらいいのに。
そんなことを考えながら、意識はとろりとまどろんでゆくのだった……。
小鳥の鳴き声がチチチと聞こえる。葉陰から漏れる朝日に瞼の裏が明るく染まる。
寝返りを打とうとして初めて、自分が横になっていたことに気付いた。
「え……あっ」
慌てて目を開けると、目の前でひらひらと革手袋が踊る。
「おはよー、セラフィナさん」
横になったまま見上げて、ようやく自分が何処にいるのか分かった。
足を投げ出して座っていたライの膝を枕にしていたらしい。
「おはようございます」
笑いかけると笑い返してくれる。それが凄く嬉しくて、セラフィナはまた笑った。
ライが近くで見つけてきた小川で顔を洗い、馬に水を飲ませる。朝食を摂って一息
つきたいところだが、追っ手が来ているかもしれない今、ゆっくりしてはいられな
い。
「セラフィナさんが起きる前に、何か食べられそうなモノを探しておけば良かった
ね」
ライは小さく肩を竦めて見せたが、セラフィナは笑って首を振る。
彼が動けなかったのは自分が枕にしてしまったせいで……という恐縮よりも、純粋
にその心遣いが嬉しかった。
馬に跨り、野を駆ける。
街道と呼べるほどの道はなるべく避けて、獣道や荒野を進む。時々ライに方角を確
認する以外はセラフィナもライもあまり喋ることもしない。
二人とも、昨日のことには触れなかった。
あまりにも生々しすぎて別れる理由を思い出してしまうから……無意識に避けたの
かもしれなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
馬に疲れの色が見え始めた頃には、もう日は真上辺りまで昇っていた。
コールベルよりも東に位置するこじんまりとした町に、東の門から入る。
手間のかかることだが、追っ手が情報収集に来た時の捜索条件に当てはまる可能性
が西側から入るよりも減るという配慮だ。
厩で馬を交換してもらい、浮いた金で日持ちのしそうなパンやチーズを幾つか買っ
た。宝石の換金も考えたが、小さな町では目立ちすぎると断念。手持ちの硬貨で毛布
などの買い物を済ませ、馬に積む。
セラフィナは黒のマントを質入れし、丈夫そうな町娘の普段着に着替えていた。髪
は編み上げていて、遠目に見てもセラフィナとは判別できないだろう。
馬もマントも、本当はどこかに隠すか捨てるかするべきだったのかもしれない。
買い物中に「どこまでいくの?」と聞かれたときには「コールベルまで観光です」
と答え、西の門から出た。
わかっている、気休めだ。でも、追っ手を混乱させることが出来ればそれで充分だ
った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あれから何日経ったのだろう。もうじき二ヶ月程になるだろうか。
コールベルの北側を迂回し、コーネリア王国の南を抜け、時々食料を切らさないよ
うに小さな町へ立ち寄っては、サメクを目指す。何度か服を取り替え、髪型を変え、
巡り巡って今は元の恰好になっている。追っ手は諦めたのだろうか、最初の一週間は
聞いた噂も、すっかり聞かなくなって久しい。目的地までは……更に北へ一週間くら
いだろうか?
二人は見晴らしのいい丘で休憩を挟むことにした。麓の小川では馬に草と水を与
え、丘を登る。今のところ追っ手の気配は感じなかったが、先に気付けば対処しやす
いだろうと理由を付け、景色を眺めに来たのだ。
「わぁ……!!」
眼下に広がるは一面の草原。ここから北へ向かうとこういう景色にはお目にかかれ
ないのだとライが笑った。
針葉樹と雪の世界。……まあ、今年はまだ雪の季節ではないかもしれないけれど。
草の海を眺めながら、果物を一かじりする。途中の町で買ったリンゴだ。甘酸っぱ
い香りと汁気の多い果肉が口の中に広がる。
「あー、これで手配書が増えてるんだろうなぁ」
ライが少し遅れて腰を下ろしながら笑った。
「……手配書?」
「うん、なんか大きな事件の濡れ衣がかけられててね、手配がかかっているみたい。
……言うの初めてだっけ」
こんな風に自分のことを話してくれるのは初めてかも知れなかった。
何だかくすぐったくて、目を細めて笑う。
「セラフィナさん誘拐とルクセン古城殺人事件の容疑者にはなってそうだよね」
ちょっと茶化すような口調だが、言っている内容は深刻だった。
手配の範囲は分からない。もしかしたらコールベル近郊のみの手配かもしれない
し、大陸全土に渡る大がかりなモノかもしれない。確実に手配がかかっているという
わけでもないが、その可能性は非常に大きいように思えた。
今まで避けてきた話題だっただけに、ライが「しまった」という表情を浮かべ、取
り繕おうと口を開くが、人差し指を口の前に立て、もう片方の手で手招きして囁い
た。
「いいえ、むしろ私が皇女を騙る偽物として手配されているかもしれませんよ?」
顔を寄せ、小声で囁いたものだから。
二人とも可笑しくなって、声をあげて笑う。
「はははっ……セラフィナさんも、そういうこと言うんだね」
「ふふっ、変ですか?」
「ちょっとね。今までからじゃ想像付かない」
ライが大の字になって空を見上げた。
「いい天気だね……こんな時でも気持ちよくお昼寝できないのは残念だよ」
「……そうですね」
一緒になって空を見上げる。
ソフィニアで窓から見た時と同じ色の鳥が飛んでいた。なんという名の鳥なのだろ
う。二羽がとても仲睦まじく、楽しそうに飛んでいる。
「あの鳥、この辺りにもいるんですね」
「どうなんだろう、珍しい気もするけど」
ライが思い切り伸びをするが、小さく「ぃてっ」と呻き、頭を押さえて体を起こし
た。
「~っ、油断すると小石が痛かったりするよね」
頭頂部付近を撫でながら言う姿が可愛らしくて、思わず吹き出す。
慌てて口元を隠すが、ライにじとーっと見られて、慌てて誤魔化そうと膝を叩い
た。
「ライさん、ほら、ここにいい枕がありますよ」
笑顔で言っておきながら、早速後悔。
人に膝を貸した事なんて一度もないし、一体何をどうしていいのかすらわからな
い。
笑顔がひきつってきたのが分かったのか、ライは溜め息をついて見せた。
「はぁ~、無理しなくてもいいよ」
そしてちょっと寂しそうに背中を向ける。
「ああ、もう。お願いライさん、拗ねないで。
膝を貸してもらったことがあったでしょう? そのお礼。そのお返し。ね?」
「……本当に?」
まだ疑いの目でライが振り返ったので、コクコクと無言で頷いてみせる。
「わーい!」
子供のように笑って、ライが頭を預けてきた。
人の頭は本来かなり重いものなのに、ライの頭の軽さにどきりとする。そしてやは
り暖かくないのだ。普通の人との明確な違いを思い出して、胸が痛んだ。
「こんなの、何年ぶりだろう」
ライが満面の笑みで呟く。
頬を撫でる風と柔らかい草の匂いを、彼は凄く楽しんでいるように見えた。……そ
う見えるだけで、本当は匂いの感覚があるのかも知らないのだけれど。
あんまり気持ちよさそうで、幸せそうで。胸がほっこりと暖かくなるのが分かる。
ああ、やっぱり好きだ。
自然と気持ちが落ち着いた単語は、以前に何度も否定し続けてきた言葉だった。
いつからこの人を好きだったんだろう? もしかしたらずっと前から気付かずにい
ただけなのかもしれない。それとも気付かないようにしていたのか。
あんまり自分が滑稽で、小さく苦笑する。見上げてきたライが眩しくて、僅かに視
線を逸らした。
……自覚すると、こんなに恥ずかしいモノだとは知らなかった。
「足、伸ばしましょうか。あんまり高いと首が痛くなるでしょう?」
「いいよ、このままがいい」
目をうっとりと閉じたライの顔を、ずっと見ていた。
このまま、時が止まればいいと思った。幸せな時間のままで、ずっとずっといられ
たら。
どのくらい、そうしていただろう。ふと顔を上げたとき、地平線のあたりから黒い
馬に乗った黒い服の一行がやってくるのが見えた。身体がびくっと震えるのが分か
る。その反応に、ライは膝から飛び起きた。
「ライ、さん……」
続く言葉が見つからなかった。
立ち上がったモノの、足が震えて動けない。
「大丈夫、まだ見つかってないよ。真っ直ぐこっちに向かっていないみたいだ。
もしかしたら紛らわしいだけの関係ない一行かもしれないしね」
手を引かれて丘を降りる。馬のところまで来て、もう一度足が止まった。
北へ向かうには丘の影から出て、一行の前を横切らなくてはならない事に気付いた
のだ。
「サメクへ行くのは後回しかな?」
「……やっぱり、一緒には行けない……」
ずっと避け続けてきた。ずっと考えすぎだと思うようにしていた。でも
「ライさんの帰るところを奪ってしまうのは、イヤです」
きっぱり。
襟元のブローチを握りしめながら、彼を見上げる。
「一人にしないでよ、セラフィナさん……」
弱々しく笑うライの姿が胸を突く。
一緒にいたいから、その為にも自分の立場をきちんと清算する必要があるのだ。
その思いが、身体を突き動かす。
「ライさん、あなたにお話ししていないことがあるんです。
……聞いてくれますか?」
「後でいくらでも聞くよ。だから、今は一緒に行こう!
あいつらは追っ手かもしれない、そうじゃないかもしれない。
だったら、そうじゃないって分かってからでもいいじゃないか」
彼は自分から目を逸らすと、馬の手綱を引く。
聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない。
背中がそう叫んでいるように見えた。
一刻を争うかもしれないのに、自分は一体何をやっているんだろう。
そんな思いが頭をよぎる。
「じゃあ一言だけ。
おねがい、三つ数える間だけ目を閉じて」
何でこんなに必死なんだろう。
何で今じゃなくちゃいけないんだろう。
でも。どうしても、言っておきたいことがあるから。
「……わかったよ」
ライが渋々目を閉じた。
そっと近づき、正面に立つ。
「一」
彼に触れないようにそっと背伸びをして、
「二」
唇に触れるか触れないかのところで、囁く。
「好きです」
「!?」
ライは驚いて手綱から手を離し、目を開いた。どんな表情だったかまでは知らな
い。
その一瞬の間に、自分は馬上にいたのだ。
「まだ数え終わっていませんよ、ライさん。
返事は次にあったときに聞きますから、考えておいて下さいね」
馬上から彼を見下ろす。
振り返った彼は、眩しそうにこちらを見上げた。
「行っちゃうんだ」
「ええ。帰ってくるために行くんです」
不思議と、涙は出なかった。
晴れ晴れとした笑顔で返事をし、馬の鼻先を南へ向けた。
「また、会えるよね」
「信じていれば、会えますよ」
一番の笑顔を彼に向けて、振り返らず。単身、南へと馬を駆った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あれが追っ手だったかどうか、私は知らない。
一人残された彼が、その後どうしたのかも知らない。
でも。
「また、会えるよね」
あの一言で、自分は頑張れる。
さあ、故国へ戻って、しがらみを置いてこよう。
笑って、再び再会するために。
fin.