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2024/11/01 07:56 |
銀の針と翳の意図 97/ライ(小林悠輝)
人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン -廃城
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 眩暈も頭痛も気にしないことにした。
 終わりの予感にも目をつぶることにした。





 石の床を叩く二人分の足音。一筋の光もない。通り過ぎた狭い窓は、夜の色に塗りつ
ぶされていた。周囲の木々が月光も遮るのだろう。ざあ、と、風が駆け抜ける音が、嫌
に不吉な印象でもって意識に焼きついた。

「……あっ」

 早足の歩みを止める小さな声。セラフィナが躓いたことに、彼女の手首を握った手が
引っ張られたことで気づく。
 ライはセラフィナを捕まえていた手を離し、無言で上着の上ポケットを探ってペンラ
イトを取り出した。ソフィニアで買った異界からの流入品を幻で再現したものだ。

 スイッチを指で探って押したが、光は生まれない。カチカチと三、四回、小気味のい
い音をさせて、やっと弱々しい灯りが周囲を照らした。

「ごめん、灯り使うの忘れてた」

 橙がかった光にぼんやりと浮かんだセラフィナは、ひどく憔悴してるようだった。
 ライはその様子に罪悪感のようなものを覚えて「ごめんね」と繰り返す。

「大丈夫ですよ」

 照らし出された石の壁と床は、あちこちが血で汚れていた。酸素を吸ってどす黒く変
色した液体は中途半端に乾きかけている。

 行く手、光が届くか届かないかのあたりに腕が転がっているのが見えた。掌を上に、
脱力しきった細い腕。セラフィナが駆け寄るのをやめさせようと左腕を伸ばしかけ、二
の腕に鈍痛を感じて思わず怯む。苦鳴を飲み込み、ゆっくりと追いかける。

「……死んでるよ」

 一目でそうわかった。十五か、十六か。地方によっては成人しているだろうが、まだ
幼いと言われることもある歳の少女だ。頬をざっくりと切り裂かれ、口元が、ひどく吐
血したように生乾きの血で汚れている。おびただしい量の血は彼女の周りの床、敷き詰
められた石と石の間を流れて奇怪な模様を描いている。

 格好からして……領主の手下、ではなくて、冒険者の仲間だろう。
 革のベスト。編み上げブーツの靴裏にはフェルトを縫いつけてある。ベルトにぶらさ
げられたポーチは開いていて、小さな投げ短剣が零れ出ている。

 さっきのことを思い出す。闇の中、飛び出して切り伏せた、黒装束ではない誰か。
 甲高い悲鳴を上げられたので、黙らせるために、口腔に刃を突き込んだ。

「ひどい……」

 子供の死体。セラフィナが思い出すのはあの事件だろう。
 ライは口の中がひどく乾いているのを感じながら、粘つく舌を動かして答えた。

「冒険者の末路なんて、こんなものだよ」

「そんな言い方、ないでしょう!?」

 睨みつけられて、ライは思わず言葉を失った。
 反論できない。たとえば、じゃあおなじような歳でおなじような状況でくたばった僕
のことも今みたいに憐れんでくれるのか、とか。

 今までさんざん一緒にいて、彼女の、憐れみではない優しさに気づかないほど鈍感で
はない。その上で貪欲に彼女の憐憫だとか苦悩だとかを望むのは、あまりにも愚か過ぎ
る。本当はどこまでも欲しいのだけれど。

「だって……」

 言葉を探すが見つからない。
 セラフィナはまた少女の死体へと視線を戻す。
 そうっと瞼をとじさせる指先は白い。優しい手つきで死者の視界を奪う。

「どうして私は、いつも助けられないんでしょうね」

 ため息まじりの言葉は自嘲の笑みすら伴っていた。
 それこそあの事件のことを言っているのかも知れなかったし――自分のことを言われ
たのかも知れなかった。それとも、置いてきたベアトリスのこと? 或いは……ライが
知らない過去のことかもわからない。慰める言葉は見つからない。

「……行きましょう」

 少しうつむいて歩く彼女の横に並べず、ライは半歩後ろを続く。

 やがて行く手に、四角く切り取られた夜闇が現れた。出口。建物の中に沈殿する漆黒
色の暗さとは違って、星の光を僅かに含んだやわらかな暗さは、あそこに辿り着けば、
今日起こったすべてが終わるに違いないと根拠のない確信を誘った。

「やっと帰れるね」

「ええ」

 少し緊張の抜けた声が帰ってきたことに安堵する。

「残念だけど荷物は諦めて、今夜は町の外に隠れようか。
 追手がかかるとしても夜のうちに逃げたと思うだろうから、やり過ごせるはず」

「あの、ライさん」

「何?」

「助けに来てくれて、ありがとうございます」

「――うん」

 改めて言われると気恥ずかしいような感じがする。ライは苦笑いして「あんまり役に
立たなかったけどね」と言い訳した。セラフィナはクスクス笑ったが何も言わない。い
じけたフリなんかしてみせながら笑い返す。


 ふいに体から力が抜けた。がくりと膝が崩れ、ぺたりとしりもちをつく。

「ライさん……?」

「…あれ?」

 手の中でライトが掻き消え周囲が闇に包まれる。

 足を止めがセラフィナが不思議そうに見下ろしてきた。ライは立ち上がろうとしたが
体がうまく動かなかった。自然と口元が引きつった笑みを刻む。
 ついに限界? こんなところで? だが、それにしては……

 なんだ、嫌な感じがする。致命的な何かがある。触れてはいけない何かが。
 背筋を寒気が這い上がり後頭部に重く折り重なっていく。
 この人に触れてはいけない。――誰に?

 僕は何に怯えている? これに似たことが前にもあったと思ったが。

 砂を踏む音。四角い夜闇を背負って現れたシルエット。
 光が灯されて、浮かびあがったのは司祭服の女。

 セラフィナがはっとして彼女を見つめる。

「お姫さまを連れてでてくるのが亡霊だったら魔法を、人間だったら爆薬を。
 どちらでも対応できるように準備していたんだ。まさか、あれで退いたと思った?」

「……あなたたちも、私のことを?」

 それに対する返事は、背後から。

「そのとおり。セラフィナ・カフューを連れ帰るのが俺達の役目だ」

 弾かれたように振り返るセラフィナ。立っているのは間違いなくあの男。
 ライはゆっくりと近づいてくるリズを複雑な表情で見上げたが、彼女は小さく首を横
に振っただけだった。

「……お断りします」

「今更、諦められるかよ! 無理やりにでも来てもらう」

 刃が鞘を脱ぐ音が聞こえた。立ち上がり、戦わなければならない。
 どうすればいいと考えながら見下ろした床はうっすらと濡れていた。

 ああ、なるほど。聖水で魔法円を描いてあるのか。
 神の力ならば恐ろしくないはずがない。亡霊が神を恐れるのは、どうしようもない自
然の摂理だ。奥歯を噛み締める。

「こんな適当な魔法円で捕まえられるとは思わなかった」

「じゃあ…逃がしてくれるつもりで手加減してた、のかな?」

「駆け落ちなら本当に見逃してやってもいいかなとは思ってた。
 せっかくの好意が通じなくて残念だ」

 それはつまり、もう逃がしはしないということ。
 リズは小さな声で神の言葉を唱えた。ブツン、と、鼓膜が破れる音と錯覚するような
耳鳴り。視界がブラックアウトしたことで実体を消されたと気がついた。直接触れる世
界の情報は、人間の感覚器官を通したそれとはあまりにも異質すぎて、意図的でない急
な切り替えに精神が混乱する。

 上げた悲鳴は音にならない。掠れた波紋が空の裏に広がるだけ。

 霧散しかけた意識を強引に纏め、なんとか周囲を把握する。
 ひどい吐き気がするが嘔吐はできない。

「――ライさん!?」

 数歩の距離を走り寄ろうとするセラフィナ。その腕をバジルが捕まえて引き寄せる。
 セラフィナは逃れようと身をよじりながらこちらの姿を探そうとしたようだったが、
一瞬、確かに視線が合ったはずの彼女の目には誰も映らない。
 バジルは舌打ちした。彼は嫌悪の目をちらりと向ける。

「殺しちゃいねぇよ。そいつだって、うまく捕縛すれば賞金が手に入るんだ」

「……」

「そしたら、墓くらい立ててやれるだろ…?」

「でも、私は行けません!」

 誰のことを言っているのかという詮索も、わずかに伏せていた瞳にあった迷いも、な
かった。セラフィナは叫んで体を反転させた。手首を回し、束縛をほどいてみせる。虚
をつかれた冒険者が再び手を伸ばしたときには彼女は数歩後じさり、ライの横で針を構
えている。無理やりつくった強気な笑みはいっそ痛々しかった。

「バジル、何して」

「るっせえ! 油断しただけだ」

 リズの声を遮って怒鳴りつけるバジル。彼は剣の切っ先を上げてセラフィナに向けた。
薄ぼんやりと輝く魔法の軌跡。怒りを含んだ男の声は押し殺されていた。

「……なら、多少の怪我は覚悟してもらうぞ」

 闇の奥に影が差した。
 魔剣を振るう予備動作。

 ――絶叫。
 ライは思わず飛び出した。


      ☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆


「バジルっ!!」

 リズが絶叫した。魔法が揺らぎ、効果が弱まる。
 ライがセラフィナを突き飛ばすのと、闇の中から振り下ろされた白刃がバジルの背に
突き立ったのは同時だった。勢いで振り抜かれた剣はライの右腕を掠め、持ち主の手か
ら離れてがらがらと音を立て床を滑った。

 膝を突いたバジルの背後に立っているのは――この場にふさわしくない人物だった。
理由もなく卑しいという言葉を連想させるような中年の男。薄汚れた高価な生地、この
場の全員を見下ろすような尊大な目。身分の高い人間だという判断はただの直感だが、
間違いないだろう。

「テメェ…は!」

「その女は私のものだ!」

 歪んだ笑みを浮かべて男は引き攣った声を絞り出した。
 見覚えがあるような気がするが思い出せない。何故、こんなところにこんな人間が?
と、考えて、ふいに思い当たった。魔法使いと手を組んだのはこの町の領主の息子。
 こいつがセラフィナさんを危ない目に遭わせた張本人?

「――バジルっ、退くぞ」

「馬鹿言うな!」

「馬鹿はお前だ! 仕事は失敗したんだよ!」

 リズが駆け寄る。誰も反応できないうちに魔法は完成し、閃光と共に二人に姿は掻き
消える。一瞬遅く振り下ろされた剣が石の床を叩き、その衝撃で男は剣を取り落とした。

 冒険者が消えて、彼女が灯した光も消えた。
 訪れた闇は光に慣れた目には黒く塗りつぶされたように見えただろう。セラフィナが
困ると思ったのでライは再びライトを具現させて光を灯した。

「……ライさん…?」

「大丈夫」

 男は聞くに耐えない罵詈雑言を吐き散らし、剣を拾うと、セラフィナに向き直る。今
すぐにでも殺してやろうかと思ったが、セラフィナが嫌がることを彼女の目の前でやる
のは気が進まない。

「さあ、セラフィナ姫。一緒に来てもらおうか」

 なんだこの寸劇は。冒険者やら黒ずくめやらに比べれば(海賊船の船長だの屍霊術師
だのには比べることもできない)、こんな男は何の問題でもない。どうとでもできる。
なのに本人はそんなことにはまったく気づかないで、王手をかけたつもりになっている
のだから、滑稽すぎて逆にどうすればいいのか反応に困ってしまう。

 やたら偉そうなことを喋り続けているものの、興味がないので聞き流す。
 ついでに男のことを思い出した。さっき、セラフィナがいた部屋に転がっていたよう
な気がする。死体だと思って気にもとめなかったのは、失敗だったのか幸運だったのか。

 ライは、とりあえず、近くに転がっていた魔剣を拾った。

「散々邪魔が入ったが……いや、あの女は惜しかった……」

「!?」

 セラフィナが顔色を変えた。ライも、ある可能性に気づいて男の手にした剣を見やる。
刃は血で濡れていた。あまり深く刺さらなかっただろうバジルの血にしては多いほどの。
男はどこに倒れていた? あの部屋だ。では、そこには、誰と、誰が、いた?

「まさか……っ!」

 灯りもなしで、闇の奥へ駆け出そうとするセラフィナ。問うように視線を向けられて、
ライは頷く。二つ目の灯りを投げ渡し、黒髪が揺れる背中を見送る。

 追いかけようとする行く手に割り込むと、男は始めてこちらの存在を気にしたようだ
った。虫ケラでも見るような目が気に入らないが、貴族とはこういう胸糞悪い人種だ。
今更改めて思うことはない。

「なんだ、お前は」

 それに――パトリシアはどうでもいいがベアトリスに何かがあったかも知れないのな
ら、こいつを殺す動機は増える。むしろ生かしておく理由がない。

「誰かには、あの皇女様の番犬みたいだって言われたけど」

「金ならいくらでもくれてやる。失せろ」

 うわ会話が成立しないし。まぁいい、まだ予想の範疇だ。
 と、男が眉をひそめた。

「――いや、どこかで見たことがあるな」

 せめて“会ったことが”と言え。もちろん覚えはないが。
 いい加減に相手をするのも疲れたので、剣を軽く翻して男の武器を弾き飛ばす。素人
相手なら、多少は難しく見えることもできたりする。実戦で使えるほど上手くないが。

「この剣いいなぁ…」

 魔法のにおいには酔いそうになるが、刃を追って魔力が軌跡を残すのが気に入った。
 慌てて武器を拾おうとする男の首元に切っ先を当てて、ため息をついてみる。

「貴様、メルホルンの若造に飼われている亡霊だな」

 ポポルの大商、メルホルン商会。意外な名前を聞いてライはきょとんとした。
 なんでこいつが知っているんだろうと思ったが、そういえばあの人はコールベルへの
進出を考えていたからその関係で知り合ったのかも知れない。客の相手をさせられたこ
とは何度かある。そのときに覚えられたのなら、確かに“会った”ではなくて“見た”
で正解だ。

「貴様がいるということは、あの若造も皇女を狙っているのか?」

「最近、会ってないから知らないよ。
 あの人が捜索願いでも出してくれたら帰るけどさぁ」

 とボヤいてみても、相手がこちらの事情を知っているとは思えない。手配されている
ことくらいは知っているだろうが……いや、そもそも、あの飼い主も状況を正しく理解
しているのか? 気がつけばソフィニアにいて、しかも指名手配をされていた。まった
くワケがわからないが、ひょっとしたら。

 ――あの人が何かの不利益を免れるために僕を切り捨てたのではないか?

 いや、それはないと信じたい。そうされない程度には気にいられていたはずだから。
自分より先に捨て駒にされる人間は沢山いる。このまま、あの手配書が完全に忘れ去ら
れるまで逃げ続けるのもいいが……真相を調べるために帰ってみるのもいいかも知れな
い。下手したら、一方的に失踪したことになっているのかも知れないし。

 背後でがらがらと車輪の音が近づいてくるのが聞こえて、刃は動かさないまま、顔だ
け振りかえる。男が勝ち誇った声で言った。

「私の帰りが少しでも遅れれば、兵をここに送るようにしてある」

「馬車一台? たかが五、六人で何ができるの?」

 剣を首筋から引き、放り投げる。がらんと盛大な音。外で馬車が止まり、ばたばたと
何人かが降りる気配。彼らが持っている灯りが外でちらついた。

 背後で男の名らしき単語を叫ぶ声が聞こえた。明らかな不審者の姿を認めて、鞘走り、
踏み込む音。ライは身を捻って新たな敵の突進を躱し、横手から男の首筋に、手袋を消
した右手を伸ばした。喉を引っ掴まれた男の体が一瞬にして力を失い、冷たくなって倒
れ伏す。

「……ああ、なるほど……こうやればいいのか……」

 ライは右手を見下ろして小さく呟いた。他人には説明しようがない感覚だが、今みた
いにやれば、人の命を奪うことができるのか。今まではやり方がよくわからなかったが、
切羽詰れば思いつく――或いは思い出すものらしい。

「貴様!」

 追加された残りの四人は、予想外のことに立ち止まって身構えた。精鋭のつもりだっ
たのだろう。さっきの黒尽くめたちよりも装備がいい。それを一瞬で倒されれば、警戒
するどころではないはずだ。
 男が喉の奥で引き攣った悲鳴を上げたのが、妙に勘に障った。

 燥いた井戸に冷たい水を注ぎ込むのに似ている。渇いた喉が際限なく水を欲するのに
似ている。じくじくと内臓を溶かすような飢えを思い出す。ああもう我慢できない。

 こいつら全部、食っちまってもいいか……大した足しにはならないだろうが。





 そして貴女を目にしたら、僕は なたを欲 る   。
  らか  を強 抱 絞め、その 温 命を のも  した る ろう。

 屍を き泣 て  ようか、 姫。


 ――ああ、だけど、彼女を殺してはいけない。
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2006/11/30 23:52 | Comments(0) | TrackBack() | ●銀の針と翳の意図

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