人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン近辺
-----------------------------------------------------------------------
町と野を別つ高い壁、その閉門の鐘の音が響き渡る。
黒馬は疾風のように町を駆け抜けた。いっそ不吉じみた嘶きを上げ疾駆する。
かたい蹄が地を蹴る軽快なリズム。夜風になびく服と髪。見上げた星空はどこまでも
どこまでも広がっている。ライは頭上に手を伸ばしてみたいと思ったが、馬から転がり
落ちるのは嫌だったから我慢した。
「二人乗りの後ろは恥ずかしいなぁ」
まだ宵の口。それでも賑やかな道を避ければ人の姿はほとんど見えない。
時折通り過ぎる路地の向こうから、深夜まで消えないだろう灯と行き支う人々の姿が
垣間見える。
過ぎ去って行く明りは妙に眩しい。馬が向かうのは街の外。
あの雑踏に紛れ込んですべてを忘れてしまえたら、もっと楽しく笑えるのに。
そろそろ逃亡生活はうんざりだ。あの時だって……あれ? いつのことだ?
「でも、馬には乗れないんでしょう?」
「んー?」
まぁいいか。思い出せないことは仕方がない。
今は閉門前に町を出ることだけを考えればいいのだ。いくらセラフィナに任せきりで
後ろでぼーっとしていても大丈夫だといって、実際にそうしているのも阿呆みたいだ。
ところでセラフィナにつかまっていないと転げ落ちそうだが、女性の体のどこを触ら
ないようにすれば問題が起こらないのだろうか。そっと、肩の上から腕を回してみる。
風のせいで声を聞き取りづらいから、身を乗り出してみる。
「それきっと僕じゃないよ」
「……そうでしたね」
くだらない話をしながら、少しだけ顔をしかめる。
誰と間違えられたのかなんとなく想像がついた。
「ぜんぜん似てないのに……」
「え?」
「なんでもない」
砂利道、前方に町を囲う城壁の黒い影。
黒馬が加速し始めた。門に詰めていた兵士達が蹄の音に気づいて騒ぐが、反応するに
は遅すぎる。セラフィナは巧みに手綱を操り、人と人の間をすり抜ける。
まさに風のように、一瞬以下で町を飛び出す。
「……意外と大胆だね」
「何のことです?」
「あ、自覚ないんだ」
目の前に夜の世界が広がっている。
街の中よりも温度の低い風に揺らされる草の音、その中に潜む虫の声。
なだらかに続く丘は月明かりに照らされて、奇妙に幻想的だった。
振りかえればその景色を寸断する町の影が立ち塞がっている。
その向こうには海が広がっているはずだ。
背の低い草が一面に丘を覆っている。こういった風景を海に喩える言葉を何度も聞い
たことがあるが、そういった気にはなれなかった。
満月に少し足りない月が草の葉を白く浮かび上がらせているのは、海というより――
「隠れられる場所はないみたいですね」
「え? ああ、うん……どうしよう。このままどっか遠くへ逃げようか」
ぼうっとしてたせいで慌てて答えると、どう考えても頭の悪い返事になった。
まるで駆け落ちの誘い文句みたい。別にそれでもいいけど。
――あんまり、よくもないか。このひとは本当のお姫さまだ。本当だったら手も届か
ないどころか姿を見ることもなかったような相手。さらっていく度胸はない。いや、あ
るかも知れない。
やっぱりそれもいいかも知れない。
ただ問題は、触れている彼女の体があまりにも温かくて、今も首にまわしたままの腕
に今すぐ力を篭めてしまう可能性を完全に否定できない自分の浅ましさ。すぐ目の前の
首筋の白さに気づいて視線を逸らす。
まだ食い足りない。あの程度の人数では話にならない。
でも、だからといって、セラフィナに手を出すようなことだけはあってはいけない。
いつまで我慢できるだろうか。今日は大丈夫、明日もきっと大丈夫。明後日だって、明
々後日だって――では、半月後は? 一月後は? わからない。
「それもいいですね」
「冗談だよ。疲れてるでしょ、休まないと」
馬はゆっくりと、草原の中に続く道を進んで行く。
気がつけば振り向いても町は見えなくなり、あたりに木々が増え始めていた。
森と呼ぶほど深くはないが、梢が夜空を遮って、月の光が斑に落ちる。仰いだ空はち
らちらと瞬いて見えた。雲一つない。月はもう移ろって、少しずつ降りていこうとして
いる。
セラフィナが馬をとめるのを待たずに、ライはひらりと飛び降りた。つんのめって転
びそうになりながら着地する。馬上から心配する声がかかるのに軽く笑い返し、
「ちょっとまわり見てくる」
言ってふらふらと歩き出す。随分と遠くまで来たし道からも外れているから、誰かに
見つかる心配はないだろう。だから探すのはセラフィナが休みやすそうな場所とか、も
しも近くにいたら大変な、猛獣や魔物の痕跡とか。
灯りを絞ったペンライトを片手に木の根元だの茂みだのをがさごそ覗きこみながら動
き回っていると、小さな水音が聞こえた。川があるのならありがたい。どこから聞こえ
るのか探そうと思ったが、元の場所に帰れなくなりそうだからやめた。
とりあえず大きな生き物はいないらしいと確認。これで満足することにしよう。
少し広くなっている場所を見つけて、灯りを回しながらセラフィナを手招きする。
「こっちにしようよ」
「わかりました」
人が二人と馬がおさまるにはちょうどいい感じな気がする。
セラフィナは伏せさせた馬の手綱を近くの枝にかけ、自分も腰をおろす。
ライは軽く伸びをした後で、木の根元に座って幹によりかかった。
灯りを真ん中に転がす。
白々しい光がゆっくりと動くのに合わせて周囲の影が退いた。
虫の声が聞こえる。わずかな風が心地いいが、もう眠気は感じなかった。妙に意識が
冴えていて、周囲の余計なことまでが気に留まる。
「おつかれ」と言いあって、そこでいきなり会話が止まった。
さっきのことはまだ話題にしづらいし、別のことを話し始めるのもなんか不自然。か
といって、まったく関係のないことを喋りだしても滑る気がするし……結局、無難に切
り出す。
「コールベル観光は無理みたいだね」
「ごめんなさい、ライさん、楽しみにしてたのに……」
うわぜんぜん無難じゃなかった。
ライは本気で慌てて首を横に振った。
「セラフィナさんのせいじゃないから! 悪いのはあの男と――ええと、あと世界とか
運命とか偶然とかそういうの。それに僕は別にコールベルなんてどうでもよかったし、
ぶっちゃけ船の上あたりで興味なくしかけてたから、セラフィナさんが気にすることな
んて何一つこれっぽっちもなくて」
クスクスという笑い声。言い訳を探して森の中に目を走らせていたライがセラフィナ
を見ると、彼女は、おかしそうなような、ちょっと困ったような、どちらともわからな
い表情で笑っていた。
「ライさんは、本当に優しいんですね」
そう言われて今の自分の滑稽さを自覚した。言葉が喉に詰まる。
頭を抱えたくなるのを我慢して、とりあえず何かを取り繕おうと無意味に笑い返すが、
かなり情けない笑顔になった。
「……空回りしてるだけだよ。
コールベルに行こうって言ったのだって……別に、大した意味なんてなくてさ、ただ
の思いつきだったんだ。なんとなく行ってみようって、一人だったら絶対に途中で飽き
て、どっか別の場所を目指してたよ。で、それも途中で飽きるんだ」
がっくり肩を落とす。
上目遣いでセラフィナを見て、なんとか情けなくない笑顔をつくるために口の端をつ
りあげてみたが、これもやっぱりうまくいった自信はなかった。
「だからさ、本当のこと言うと、大変なことに巻き込まれて、それは大変だったけど、
とにかく……ええと、コールベルに着けなくてよかった」
「……え?」
セラフィナは信じられないというように瞬きした。
「私は……ライさんが一度見てみたかったって言ったから……私も、コールベルに……」
「違う! そういう意味じゃなくて……」
思わず大声を出してしまってから、ライは気不味さに視線を落とした。
誤解されるのは嫌だ。面白半分で引きずり回していたとか、そういうのではなくて、
二人であの町を見たかったと思ったことは、確かに何度もあったんだ。
「いや、行きたいことは行きたいんだけど、今は、無理しても、あまり人前に出れない
し……今日なんか消えてたはずなのに追いかけられたし……もう、人のたくさんいる場
所には近づきたくないんだ……けど」
口ごもる。本当に言ってもいいのか、これは?
一瞬だけ冷静になった意識が周囲の音を拾う。森を駆け抜ける静かな風の音。
「セラフィナさんと“コールベルまで一緒に行く”って約束したから、せめて、ぎりぎ
りまでは……って思ってた。だけど着いちゃったら、町の外で、バイバイって言うのが
いいんだろうけど、きっと言えないし……そしたら迷惑かけそうだし。だから着かなく
てよかったよ」
でもその代わりにここで終わるのかも知れない。
一緒にいられない理由は、数えてみればいくらでもあるのだ。ただ、それらのひとつ
ひとつが、決定的ではないというだけで。
このままでは何か致命的な問題が起こるまで、ずるずると今の状態を維持しようとし
てしまう。気づいた時に終わらせなければ――
港についたとき、コールベルが近づいたことを実感して覚えた漠然とした不安が、今
やはっきりとしたものに変わっている。胸の奥で黒くわだかまってひどく重い。思わず
服の胸元を掴むと、セラフィナに「やっぱり調子が悪いんですか?」と覗きこまれて、
ますます気分が複雑になる。
「ライさん?」
「だからコールベルのことは、もう気にするのやめよう」
うなだれる。うなだれながらぼんやりと考える。
やっぱり、ポポルに帰って、あの手配の理由を確認しなければいけない。そうじゃな
いと、余計に誰とも一緒にいられない。そして、今までとまったく反対方向への旅に、
セラフィナを誘うことがあまりにも自分勝手だということもわかっている。
うなだれたまま目を閉じる。
「……ライさんは、あの……これからどうするつもりなんですか…?」
聞かれて少し考えてみる。ポポルへ行くのは間違いないが、せっかくここまで来て、
このまま引き返すのはどうかと思ったりもする。何か用事ないかな……ああ、そうだ。
「いちど家に帰るよ。留守番してたはずの弟がサボって遊びに行ってるみたいだから、
たまには様子見ないとね。もう誰も帰らないのかも知れないけど……」
なんだか自分がひどい馬鹿に思えてきた。木の幹に寄りかかって、ずるずるとずり落
ちる。ジャケットの背中が傷ついたがそんなことは無視。後でいくらでもなおせる。
やっぱり無理だ。今じゃなくてもいいじゃないか。
なんでいきなり、そんなことを考えたんだ。コールベルが無理なら――
いつか我慢できなくなってこの人を食らうかも知れない。だけどそれは今日でも明日
でも、ない。先のことは考えなければいい。そんな簡単なこと。
だけどもう最初の目的は消えてしまって、一緒にいる理由はない。
覚悟を決めろ。喉の奥で、痙攣するような笑い声を上げる。
「……ライさん? 本当に大丈夫なんですか?」
「ねぇ、セラフィナさん」
顔を上げて――睨むよりも真摯にじっと見据えると、セラフィナは、わけもわからな
いままに驚いたようだった。
「……僕の家はサメクにあるんだ。そんなに遠くない。
よかったらさ、セラフィナさんも一緒に来てくれない?」
「え?」
「コールベルほど大きくないけど、静かで綺麗な町だ。
森の中にあって外との交流が少ないから、しばらく身を潜めるにもちょうどいい」
何でもいい、頷いてもらうための言葉。惨めったらしく同情を引いてでも、“二人の
目的地”に辿り着けなくなってしまったなら、その代わりがあればいいんだろ? 無理
にでもつくってやる。嘘泣きとかそういうのだっていくらでもやってみせる。
彼女の笑顔を見るのも、声を聞くのも、まだ足りない。まだ別れたくない。
これは恋愛感情だろうか? きっと違う。違うはずだ。いま目の前にあるものを手放
したくないという執着心。そういうものに違いない。
「空っぽの家に一人で帰るのは嫌だよ……」
呟いて、うつむく。
ライトが不安定に点滅して、また元の明るさに戻った。
場所:港町ルクセン近辺
-----------------------------------------------------------------------
町と野を別つ高い壁、その閉門の鐘の音が響き渡る。
黒馬は疾風のように町を駆け抜けた。いっそ不吉じみた嘶きを上げ疾駆する。
かたい蹄が地を蹴る軽快なリズム。夜風になびく服と髪。見上げた星空はどこまでも
どこまでも広がっている。ライは頭上に手を伸ばしてみたいと思ったが、馬から転がり
落ちるのは嫌だったから我慢した。
「二人乗りの後ろは恥ずかしいなぁ」
まだ宵の口。それでも賑やかな道を避ければ人の姿はほとんど見えない。
時折通り過ぎる路地の向こうから、深夜まで消えないだろう灯と行き支う人々の姿が
垣間見える。
過ぎ去って行く明りは妙に眩しい。馬が向かうのは街の外。
あの雑踏に紛れ込んですべてを忘れてしまえたら、もっと楽しく笑えるのに。
そろそろ逃亡生活はうんざりだ。あの時だって……あれ? いつのことだ?
「でも、馬には乗れないんでしょう?」
「んー?」
まぁいいか。思い出せないことは仕方がない。
今は閉門前に町を出ることだけを考えればいいのだ。いくらセラフィナに任せきりで
後ろでぼーっとしていても大丈夫だといって、実際にそうしているのも阿呆みたいだ。
ところでセラフィナにつかまっていないと転げ落ちそうだが、女性の体のどこを触ら
ないようにすれば問題が起こらないのだろうか。そっと、肩の上から腕を回してみる。
風のせいで声を聞き取りづらいから、身を乗り出してみる。
「それきっと僕じゃないよ」
「……そうでしたね」
くだらない話をしながら、少しだけ顔をしかめる。
誰と間違えられたのかなんとなく想像がついた。
「ぜんぜん似てないのに……」
「え?」
「なんでもない」
砂利道、前方に町を囲う城壁の黒い影。
黒馬が加速し始めた。門に詰めていた兵士達が蹄の音に気づいて騒ぐが、反応するに
は遅すぎる。セラフィナは巧みに手綱を操り、人と人の間をすり抜ける。
まさに風のように、一瞬以下で町を飛び出す。
「……意外と大胆だね」
「何のことです?」
「あ、自覚ないんだ」
目の前に夜の世界が広がっている。
街の中よりも温度の低い風に揺らされる草の音、その中に潜む虫の声。
なだらかに続く丘は月明かりに照らされて、奇妙に幻想的だった。
振りかえればその景色を寸断する町の影が立ち塞がっている。
その向こうには海が広がっているはずだ。
背の低い草が一面に丘を覆っている。こういった風景を海に喩える言葉を何度も聞い
たことがあるが、そういった気にはなれなかった。
満月に少し足りない月が草の葉を白く浮かび上がらせているのは、海というより――
「隠れられる場所はないみたいですね」
「え? ああ、うん……どうしよう。このままどっか遠くへ逃げようか」
ぼうっとしてたせいで慌てて答えると、どう考えても頭の悪い返事になった。
まるで駆け落ちの誘い文句みたい。別にそれでもいいけど。
――あんまり、よくもないか。このひとは本当のお姫さまだ。本当だったら手も届か
ないどころか姿を見ることもなかったような相手。さらっていく度胸はない。いや、あ
るかも知れない。
やっぱりそれもいいかも知れない。
ただ問題は、触れている彼女の体があまりにも温かくて、今も首にまわしたままの腕
に今すぐ力を篭めてしまう可能性を完全に否定できない自分の浅ましさ。すぐ目の前の
首筋の白さに気づいて視線を逸らす。
まだ食い足りない。あの程度の人数では話にならない。
でも、だからといって、セラフィナに手を出すようなことだけはあってはいけない。
いつまで我慢できるだろうか。今日は大丈夫、明日もきっと大丈夫。明後日だって、明
々後日だって――では、半月後は? 一月後は? わからない。
「それもいいですね」
「冗談だよ。疲れてるでしょ、休まないと」
馬はゆっくりと、草原の中に続く道を進んで行く。
気がつけば振り向いても町は見えなくなり、あたりに木々が増え始めていた。
森と呼ぶほど深くはないが、梢が夜空を遮って、月の光が斑に落ちる。仰いだ空はち
らちらと瞬いて見えた。雲一つない。月はもう移ろって、少しずつ降りていこうとして
いる。
セラフィナが馬をとめるのを待たずに、ライはひらりと飛び降りた。つんのめって転
びそうになりながら着地する。馬上から心配する声がかかるのに軽く笑い返し、
「ちょっとまわり見てくる」
言ってふらふらと歩き出す。随分と遠くまで来たし道からも外れているから、誰かに
見つかる心配はないだろう。だから探すのはセラフィナが休みやすそうな場所とか、も
しも近くにいたら大変な、猛獣や魔物の痕跡とか。
灯りを絞ったペンライトを片手に木の根元だの茂みだのをがさごそ覗きこみながら動
き回っていると、小さな水音が聞こえた。川があるのならありがたい。どこから聞こえ
るのか探そうと思ったが、元の場所に帰れなくなりそうだからやめた。
とりあえず大きな生き物はいないらしいと確認。これで満足することにしよう。
少し広くなっている場所を見つけて、灯りを回しながらセラフィナを手招きする。
「こっちにしようよ」
「わかりました」
人が二人と馬がおさまるにはちょうどいい感じな気がする。
セラフィナは伏せさせた馬の手綱を近くの枝にかけ、自分も腰をおろす。
ライは軽く伸びをした後で、木の根元に座って幹によりかかった。
灯りを真ん中に転がす。
白々しい光がゆっくりと動くのに合わせて周囲の影が退いた。
虫の声が聞こえる。わずかな風が心地いいが、もう眠気は感じなかった。妙に意識が
冴えていて、周囲の余計なことまでが気に留まる。
「おつかれ」と言いあって、そこでいきなり会話が止まった。
さっきのことはまだ話題にしづらいし、別のことを話し始めるのもなんか不自然。か
といって、まったく関係のないことを喋りだしても滑る気がするし……結局、無難に切
り出す。
「コールベル観光は無理みたいだね」
「ごめんなさい、ライさん、楽しみにしてたのに……」
うわぜんぜん無難じゃなかった。
ライは本気で慌てて首を横に振った。
「セラフィナさんのせいじゃないから! 悪いのはあの男と――ええと、あと世界とか
運命とか偶然とかそういうの。それに僕は別にコールベルなんてどうでもよかったし、
ぶっちゃけ船の上あたりで興味なくしかけてたから、セラフィナさんが気にすることな
んて何一つこれっぽっちもなくて」
クスクスという笑い声。言い訳を探して森の中に目を走らせていたライがセラフィナ
を見ると、彼女は、おかしそうなような、ちょっと困ったような、どちらともわからな
い表情で笑っていた。
「ライさんは、本当に優しいんですね」
そう言われて今の自分の滑稽さを自覚した。言葉が喉に詰まる。
頭を抱えたくなるのを我慢して、とりあえず何かを取り繕おうと無意味に笑い返すが、
かなり情けない笑顔になった。
「……空回りしてるだけだよ。
コールベルに行こうって言ったのだって……別に、大した意味なんてなくてさ、ただ
の思いつきだったんだ。なんとなく行ってみようって、一人だったら絶対に途中で飽き
て、どっか別の場所を目指してたよ。で、それも途中で飽きるんだ」
がっくり肩を落とす。
上目遣いでセラフィナを見て、なんとか情けなくない笑顔をつくるために口の端をつ
りあげてみたが、これもやっぱりうまくいった自信はなかった。
「だからさ、本当のこと言うと、大変なことに巻き込まれて、それは大変だったけど、
とにかく……ええと、コールベルに着けなくてよかった」
「……え?」
セラフィナは信じられないというように瞬きした。
「私は……ライさんが一度見てみたかったって言ったから……私も、コールベルに……」
「違う! そういう意味じゃなくて……」
思わず大声を出してしまってから、ライは気不味さに視線を落とした。
誤解されるのは嫌だ。面白半分で引きずり回していたとか、そういうのではなくて、
二人であの町を見たかったと思ったことは、確かに何度もあったんだ。
「いや、行きたいことは行きたいんだけど、今は、無理しても、あまり人前に出れない
し……今日なんか消えてたはずなのに追いかけられたし……もう、人のたくさんいる場
所には近づきたくないんだ……けど」
口ごもる。本当に言ってもいいのか、これは?
一瞬だけ冷静になった意識が周囲の音を拾う。森を駆け抜ける静かな風の音。
「セラフィナさんと“コールベルまで一緒に行く”って約束したから、せめて、ぎりぎ
りまでは……って思ってた。だけど着いちゃったら、町の外で、バイバイって言うのが
いいんだろうけど、きっと言えないし……そしたら迷惑かけそうだし。だから着かなく
てよかったよ」
でもその代わりにここで終わるのかも知れない。
一緒にいられない理由は、数えてみればいくらでもあるのだ。ただ、それらのひとつ
ひとつが、決定的ではないというだけで。
このままでは何か致命的な問題が起こるまで、ずるずると今の状態を維持しようとし
てしまう。気づいた時に終わらせなければ――
港についたとき、コールベルが近づいたことを実感して覚えた漠然とした不安が、今
やはっきりとしたものに変わっている。胸の奥で黒くわだかまってひどく重い。思わず
服の胸元を掴むと、セラフィナに「やっぱり調子が悪いんですか?」と覗きこまれて、
ますます気分が複雑になる。
「ライさん?」
「だからコールベルのことは、もう気にするのやめよう」
うなだれる。うなだれながらぼんやりと考える。
やっぱり、ポポルに帰って、あの手配の理由を確認しなければいけない。そうじゃな
いと、余計に誰とも一緒にいられない。そして、今までとまったく反対方向への旅に、
セラフィナを誘うことがあまりにも自分勝手だということもわかっている。
うなだれたまま目を閉じる。
「……ライさんは、あの……これからどうするつもりなんですか…?」
聞かれて少し考えてみる。ポポルへ行くのは間違いないが、せっかくここまで来て、
このまま引き返すのはどうかと思ったりもする。何か用事ないかな……ああ、そうだ。
「いちど家に帰るよ。留守番してたはずの弟がサボって遊びに行ってるみたいだから、
たまには様子見ないとね。もう誰も帰らないのかも知れないけど……」
なんだか自分がひどい馬鹿に思えてきた。木の幹に寄りかかって、ずるずるとずり落
ちる。ジャケットの背中が傷ついたがそんなことは無視。後でいくらでもなおせる。
やっぱり無理だ。今じゃなくてもいいじゃないか。
なんでいきなり、そんなことを考えたんだ。コールベルが無理なら――
いつか我慢できなくなってこの人を食らうかも知れない。だけどそれは今日でも明日
でも、ない。先のことは考えなければいい。そんな簡単なこと。
だけどもう最初の目的は消えてしまって、一緒にいる理由はない。
覚悟を決めろ。喉の奥で、痙攣するような笑い声を上げる。
「……ライさん? 本当に大丈夫なんですか?」
「ねぇ、セラフィナさん」
顔を上げて――睨むよりも真摯にじっと見据えると、セラフィナは、わけもわからな
いままに驚いたようだった。
「……僕の家はサメクにあるんだ。そんなに遠くない。
よかったらさ、セラフィナさんも一緒に来てくれない?」
「え?」
「コールベルほど大きくないけど、静かで綺麗な町だ。
森の中にあって外との交流が少ないから、しばらく身を潜めるにもちょうどいい」
何でもいい、頷いてもらうための言葉。惨めったらしく同情を引いてでも、“二人の
目的地”に辿り着けなくなってしまったなら、その代わりがあればいいんだろ? 無理
にでもつくってやる。嘘泣きとかそういうのだっていくらでもやってみせる。
彼女の笑顔を見るのも、声を聞くのも、まだ足りない。まだ別れたくない。
これは恋愛感情だろうか? きっと違う。違うはずだ。いま目の前にあるものを手放
したくないという執着心。そういうものに違いない。
「空っぽの家に一人で帰るのは嫌だよ……」
呟いて、うつむく。
ライトが不安定に点滅して、また元の明るさに戻った。
PR
トラックバック
トラックバックURL: