人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン -廃城
-----------------------------------------------------------------------
――すぐにぜんぶ終わらせるから、それまで大人しくしていてよ。
諦めばかりを含んだ声は縋るようだったが、懇願というには命令に近すぎた。少なく
とも魔法的な響きを帯びていれば、それは簡単に凶器になり、鎖になる。だからベアト
リスの実際の意図がどうだったとしても、それに魔力を乗せてしまった時点で、もう、
強制にしかならないのだ。
いつの間にか覚醒していた意識が、ようやくそのことを認識した。
視界が飴色に濁っている。無理やり現実に現した体を動かそうとするたびに体内のど
こかで軋むような感じがしたが、それがベアトリスの魔法の効果なのか――それとも、
ただ、彼女の扱った魔力に耐えられなかったせいでひどく消耗しているのか、どちらと
も判断がつかなかった。そして、つけなければならない判断だった。でないと手遅れに
なる。
早くセラフィナさんを助けないと。周りで騒ぎが起こっている気配を感じる。冒険者
たちが動き出したのだろうか。状況を見極めるために、動かなければ。
脚に力が入らず、立ち上がれない。何故?
何を今更。動けなくて当然だ。可能だと思う方がおかしい。
傷つき、壊れた体では人間は動けない。疑うまでもないことだ。
眼球だけを動かして、周囲を見渡す。ここはどこだ。暗くてよくわからない。
深呼吸。肺に空気を取り込むと、息苦しいような錯覚を覚えた。
誰か助けてくれ。違う。僕が助けに行かないといけないんだ。
「何者だ!」
乱暴な声。階段をのぼってくる音。階段。ここはさっき、ベアトリスに会った場所だ。
彼女はどこかへ行ってしまったようだが。
「……おい、ここで何をしている」
ライは無言で目線だけを上げた。
目の前に黒いフードの男が立っていた。手に明りを持っているようだが、その光さえ
も暗く見える。視界は、砂糖を焦がす直前まで熱したような色だ。色彩がよくわからな
いが、黒と白だけはなんとなくわかりそうな気がした。
視界の右半分が霞んでいることに気づいたが、今まで両目が完全に機能していたこと
が(実際には視覚ではないが、自分が視覚だと認識している機能が生きていたことが)
不思議だった。壊れるべき体はもうないはずなのに、幻さえも少しずつ朽ちていく。何
度も嘆いた。そして、そのことにすらもう疑問を覚えなくなった。
「いつの間に入り込んだんだ? ここは領主様の建物だぞ」
そんなことは知っている。僕はここに、セラフィナさんを助けるために来たんだ。
声を出すのが億劫だったので投げやりな目で相手を見据えた。男の手元には小さな明
りがある。
男に、壁にもたれて座り込んでいるだけのライを敵と認識するだけの思い切りのよさ
はなかったらしい。更に近づいてきて、ぎょっとした顔をした。
「どうした、敵か」
「いや……」
もう一人がやってきた。声をかけられて、先に来た男は困惑したようにこちらを示す。
遠くで聞こえていた物音は減り、周囲は静まり返ろうとしている。男たちは焦っている
ようだった。何が起こっていたのかは、予想はつくが、よくわからない。だが、奇襲と
いうのは一瞬で勝負をつけるものだ。だとしたらもう結果は出ようとしているのだろう
し、目の前の二人は、幸運にも、事態から取り残されかけている。
「死体?」
「さっき、少し動いたような」
死体呼ばわりは不本意だ。ただ、動けないだけで――絶対に無理だということはない
だろうが、ひどく骨が折れそうだから動かないだけで、意識はあるし、話も聞いている。
呼吸どころか心臓が動いている様子さえない人間を何と表現するかは、死体以外にはな
いだろうが、やはり不本意だ。僕はまだ死んでいない。
気味の悪いものを見る視線が注がれるのを感じた。
「……まさか」
「なんでこんなところに。特に今は、部外者はマズいってのによ」
覗きこんでくる。無視するには鬱陶しかったので、ライはそれを諦めた。全身が重い。
水飴の中でもがくように、右腕を上げる。男は驚いたようだったが、ゆっくり動かした
はずの腕は、彼が身を引く前に、喉もとの布を掴んでいた。
「っ!」
一度動いてしまえば動けるようだった。逆の手で壁に縋って立ち上がる。
“大人しくしていてよ”――魔法に逆らったため頭痛が引き起こされるが、目の前でう
るさく言われ続けるよりも、ずっとマシだ。
「なんだ!?」
「……うるさいな。頭に響く……」
ライは、一度だけ荒く吐息した。半ば無意識のうちに体が動く。
指先で素早くフード越しの鎖骨の位置を確認して、脳裏で相手の体格を想像する。左
手に剣を握り、低い位置から斜め上へ。肋骨のすぐ下を狙って差し込む。刃が脂肪と筋
肉を貫いて肺を抉った。背中側の肋骨の表面に切っ先がぶつかる感触が掌に伝わり鳥肌
が立つ。ぞくりと背筋を駆け上がったのは、悪寒か、それとも。
剣を消し、放してやると男は倒れた。
驚愕の表情で討ちかかってきた二人目を仕留めてから、人を殺したことにようやく気
づいた。錯乱するかも知れない、と思ってから、そんな思考をすることができるなら大
丈夫だと考え直す。冷静だ。気分は冷めたまま高揚している。
これなら何人でも何十人でも殺せる。あれほど恐れていた人殺しは、自分の精神に何
の影響も与えていない。ならば大丈夫だ。いくらでも殺せる。人間だったころは数え切
れないほど殺したのだから、今更、その行為を否定していたことの方がおかしかったの
ではないか?
そうだ、今までが間違っていたのだ。我慢することなんかなかった。
どこかで常に張り詰めていた緊張の糸が切れたような気がした。血のにおいがする暗
闇の中だというのに気分が落ち着いた。或いは、血のにおいがする暗闇の中だから気分
が落ち着いた。
「……」
血濡れの刃を見下ろして露を払い、足元の死体を踏み越えて、ライは階段を降りた。
セラフィナは一階のどこかにいる。早く探し出して、邪魔があるなら排除して、彼女
を取り戻しにいこう。頭が痛いし視界は霞んでいる。体は重いし動くたびに違和感と軋
みがある。だけどまだ動けるから、早く彼女を取り戻しにいこう。
後から出てきたくせに彼女を奪おうなんて、ふざけている。僕が先に見つけたんだ。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
廊下を進みながら三人を斬り伏せた。その間に五度は斬られて、三度、体を再構築し
なおした。四度目からは再び実体化できるという自信がなかったから諦めた。
調子は最悪へ転がり落ちていく。最悪とは、最も悪いということだ。その記録は常に
更新され続けているようで限度がない。昔の自分に「その程度で最悪なんて言うな」と
か嘲笑でも降らしてやればいいのだろうか。でもそれは僕のキャラじゃない。
おぼつかない足取りで、たまに壁に手を突いて。
左の肩が痛むのはさっき長剣の一撃を避け切れなかった怪我を放置しているからで、
あまり切れ味がいいとは言えない刀身を振り下ろされた肩は、切り裂かれたというより
は砕かれたに近い。
「――!」
更に一人。
暗闇から飛び出しざまに、ためらいなく、頭部を狙って刃を走らせる。戦いのときだ
け体は俊敏に動いた。切っ先は皮膚を裂いて頬骨の表面を滑る。甲高い悲鳴が上がる。
返し刃は口腔へ。強引に突っ込んで貫く。
肉を断つ感触が金属を伝い、生々しく掌に残る。
相手は黒フードではなかったが、死体にしてしまえばおなじことだった。ここにいる
人間は、セラフィナ以外、みんな敵だ。
ふいに、何のために殺しているのだろうと疑問に思った。すぐに思い出す。そうだ、
セラフィナさんを取り返すために。彼女は殺しをよく思わないだろうが、これは、目的
こそ彼女を助けることだけど――自分のためにやっているのだ。彼女のことが欲しいか
らこんなことをしているのであって、土壇場で拒絶されたところでその意志を翻したり
はしない。浚ってでも連れて行くつもりだ。どこへ? どこでもいい。
これは恋愛感情だろうか。引き離されて相手の大切さに気づくとか、そういうのは確
かに好まれそうな設定だけど、現実は、そうそう物語じみていない。彼女を手に入れた
い。どんな形で? 自問して答えを思いつくとライは薄く笑った。
現実は物語よりも醜悪だ。
闇に包まれた古城は無音に閉ざされようとしていた。
あちこちに死人が転がっている他、戦いの音も最早途絶えた。
生き残りも誰かに殺されるか、ライが殺すかしてしまったので、生きている人間の姿
そのものも見なくなった。それほど広い建物でもないのに、それらしい場所に辿り着く
ために随分と労力を使ってしまった。
壁に縋って、剣を投げ捨て、べたべたする髪をかき上げる。返り血が手袋に付着した。
かなり血を被ってしまったらしい。浴びたのと大して変わらないくらい。
あまり気分がよくないので幻を消して再構成するか――消すのは簡単だが、作り直す
のは無理そうだ。つらくてもこのまま維持した方がいい。肩が痛む。だが痛みならばさ
っきから頭痛がすごいし、体中が鈍痛と錯覚するようなだるさを訴えている。
右目が霞むのを気にして手の甲でこする。周りの皮膚や肉が崩れるのを感じて慌てて
手を離し、手袋の甲を見ると、ぐちゃぐちゃに変色した腐肉がこびりついている。
「あーあ……またやっちゃったよ」
遅まきながら、この不調は魔法の効果が問題なのではないと確信した。
困ったなぁと苦笑しながら、またふらふらと歩き出す。
やがて、行く手に、扉のない部屋が見えた。
部屋からは明りが漏れていて、人の気配がする。
少なくとも、二人か三人。
他にもいるかも知れないが、少なくとも動いていない。
「……」
中から聞こえた話し声にセラフィナのそれが混ざっていたから、ライは、新しく剣を
握って、気配を殺した。逸る心を落ち着かせようと無駄な努力を試みながら歩き出す。
早足になって駆け足になって、飛び込む。
「セラフィナさん!」
――銀光。
横手から振るわれた剣を、辛うじて飛び退り、躱す。
ライは敵を確認すると無言で斬りかかった。
場所:港町ルクセン -廃城
-----------------------------------------------------------------------
――すぐにぜんぶ終わらせるから、それまで大人しくしていてよ。
諦めばかりを含んだ声は縋るようだったが、懇願というには命令に近すぎた。少なく
とも魔法的な響きを帯びていれば、それは簡単に凶器になり、鎖になる。だからベアト
リスの実際の意図がどうだったとしても、それに魔力を乗せてしまった時点で、もう、
強制にしかならないのだ。
いつの間にか覚醒していた意識が、ようやくそのことを認識した。
視界が飴色に濁っている。無理やり現実に現した体を動かそうとするたびに体内のど
こかで軋むような感じがしたが、それがベアトリスの魔法の効果なのか――それとも、
ただ、彼女の扱った魔力に耐えられなかったせいでひどく消耗しているのか、どちらと
も判断がつかなかった。そして、つけなければならない判断だった。でないと手遅れに
なる。
早くセラフィナさんを助けないと。周りで騒ぎが起こっている気配を感じる。冒険者
たちが動き出したのだろうか。状況を見極めるために、動かなければ。
脚に力が入らず、立ち上がれない。何故?
何を今更。動けなくて当然だ。可能だと思う方がおかしい。
傷つき、壊れた体では人間は動けない。疑うまでもないことだ。
眼球だけを動かして、周囲を見渡す。ここはどこだ。暗くてよくわからない。
深呼吸。肺に空気を取り込むと、息苦しいような錯覚を覚えた。
誰か助けてくれ。違う。僕が助けに行かないといけないんだ。
「何者だ!」
乱暴な声。階段をのぼってくる音。階段。ここはさっき、ベアトリスに会った場所だ。
彼女はどこかへ行ってしまったようだが。
「……おい、ここで何をしている」
ライは無言で目線だけを上げた。
目の前に黒いフードの男が立っていた。手に明りを持っているようだが、その光さえ
も暗く見える。視界は、砂糖を焦がす直前まで熱したような色だ。色彩がよくわからな
いが、黒と白だけはなんとなくわかりそうな気がした。
視界の右半分が霞んでいることに気づいたが、今まで両目が完全に機能していたこと
が(実際には視覚ではないが、自分が視覚だと認識している機能が生きていたことが)
不思議だった。壊れるべき体はもうないはずなのに、幻さえも少しずつ朽ちていく。何
度も嘆いた。そして、そのことにすらもう疑問を覚えなくなった。
「いつの間に入り込んだんだ? ここは領主様の建物だぞ」
そんなことは知っている。僕はここに、セラフィナさんを助けるために来たんだ。
声を出すのが億劫だったので投げやりな目で相手を見据えた。男の手元には小さな明
りがある。
男に、壁にもたれて座り込んでいるだけのライを敵と認識するだけの思い切りのよさ
はなかったらしい。更に近づいてきて、ぎょっとした顔をした。
「どうした、敵か」
「いや……」
もう一人がやってきた。声をかけられて、先に来た男は困惑したようにこちらを示す。
遠くで聞こえていた物音は減り、周囲は静まり返ろうとしている。男たちは焦っている
ようだった。何が起こっていたのかは、予想はつくが、よくわからない。だが、奇襲と
いうのは一瞬で勝負をつけるものだ。だとしたらもう結果は出ようとしているのだろう
し、目の前の二人は、幸運にも、事態から取り残されかけている。
「死体?」
「さっき、少し動いたような」
死体呼ばわりは不本意だ。ただ、動けないだけで――絶対に無理だということはない
だろうが、ひどく骨が折れそうだから動かないだけで、意識はあるし、話も聞いている。
呼吸どころか心臓が動いている様子さえない人間を何と表現するかは、死体以外にはな
いだろうが、やはり不本意だ。僕はまだ死んでいない。
気味の悪いものを見る視線が注がれるのを感じた。
「……まさか」
「なんでこんなところに。特に今は、部外者はマズいってのによ」
覗きこんでくる。無視するには鬱陶しかったので、ライはそれを諦めた。全身が重い。
水飴の中でもがくように、右腕を上げる。男は驚いたようだったが、ゆっくり動かした
はずの腕は、彼が身を引く前に、喉もとの布を掴んでいた。
「っ!」
一度動いてしまえば動けるようだった。逆の手で壁に縋って立ち上がる。
“大人しくしていてよ”――魔法に逆らったため頭痛が引き起こされるが、目の前でう
るさく言われ続けるよりも、ずっとマシだ。
「なんだ!?」
「……うるさいな。頭に響く……」
ライは、一度だけ荒く吐息した。半ば無意識のうちに体が動く。
指先で素早くフード越しの鎖骨の位置を確認して、脳裏で相手の体格を想像する。左
手に剣を握り、低い位置から斜め上へ。肋骨のすぐ下を狙って差し込む。刃が脂肪と筋
肉を貫いて肺を抉った。背中側の肋骨の表面に切っ先がぶつかる感触が掌に伝わり鳥肌
が立つ。ぞくりと背筋を駆け上がったのは、悪寒か、それとも。
剣を消し、放してやると男は倒れた。
驚愕の表情で討ちかかってきた二人目を仕留めてから、人を殺したことにようやく気
づいた。錯乱するかも知れない、と思ってから、そんな思考をすることができるなら大
丈夫だと考え直す。冷静だ。気分は冷めたまま高揚している。
これなら何人でも何十人でも殺せる。あれほど恐れていた人殺しは、自分の精神に何
の影響も与えていない。ならば大丈夫だ。いくらでも殺せる。人間だったころは数え切
れないほど殺したのだから、今更、その行為を否定していたことの方がおかしかったの
ではないか?
そうだ、今までが間違っていたのだ。我慢することなんかなかった。
どこかで常に張り詰めていた緊張の糸が切れたような気がした。血のにおいがする暗
闇の中だというのに気分が落ち着いた。或いは、血のにおいがする暗闇の中だから気分
が落ち着いた。
「……」
血濡れの刃を見下ろして露を払い、足元の死体を踏み越えて、ライは階段を降りた。
セラフィナは一階のどこかにいる。早く探し出して、邪魔があるなら排除して、彼女
を取り戻しにいこう。頭が痛いし視界は霞んでいる。体は重いし動くたびに違和感と軋
みがある。だけどまだ動けるから、早く彼女を取り戻しにいこう。
後から出てきたくせに彼女を奪おうなんて、ふざけている。僕が先に見つけたんだ。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
廊下を進みながら三人を斬り伏せた。その間に五度は斬られて、三度、体を再構築し
なおした。四度目からは再び実体化できるという自信がなかったから諦めた。
調子は最悪へ転がり落ちていく。最悪とは、最も悪いということだ。その記録は常に
更新され続けているようで限度がない。昔の自分に「その程度で最悪なんて言うな」と
か嘲笑でも降らしてやればいいのだろうか。でもそれは僕のキャラじゃない。
おぼつかない足取りで、たまに壁に手を突いて。
左の肩が痛むのはさっき長剣の一撃を避け切れなかった怪我を放置しているからで、
あまり切れ味がいいとは言えない刀身を振り下ろされた肩は、切り裂かれたというより
は砕かれたに近い。
「――!」
更に一人。
暗闇から飛び出しざまに、ためらいなく、頭部を狙って刃を走らせる。戦いのときだ
け体は俊敏に動いた。切っ先は皮膚を裂いて頬骨の表面を滑る。甲高い悲鳴が上がる。
返し刃は口腔へ。強引に突っ込んで貫く。
肉を断つ感触が金属を伝い、生々しく掌に残る。
相手は黒フードではなかったが、死体にしてしまえばおなじことだった。ここにいる
人間は、セラフィナ以外、みんな敵だ。
ふいに、何のために殺しているのだろうと疑問に思った。すぐに思い出す。そうだ、
セラフィナさんを取り返すために。彼女は殺しをよく思わないだろうが、これは、目的
こそ彼女を助けることだけど――自分のためにやっているのだ。彼女のことが欲しいか
らこんなことをしているのであって、土壇場で拒絶されたところでその意志を翻したり
はしない。浚ってでも連れて行くつもりだ。どこへ? どこでもいい。
これは恋愛感情だろうか。引き離されて相手の大切さに気づくとか、そういうのは確
かに好まれそうな設定だけど、現実は、そうそう物語じみていない。彼女を手に入れた
い。どんな形で? 自問して答えを思いつくとライは薄く笑った。
現実は物語よりも醜悪だ。
闇に包まれた古城は無音に閉ざされようとしていた。
あちこちに死人が転がっている他、戦いの音も最早途絶えた。
生き残りも誰かに殺されるか、ライが殺すかしてしまったので、生きている人間の姿
そのものも見なくなった。それほど広い建物でもないのに、それらしい場所に辿り着く
ために随分と労力を使ってしまった。
壁に縋って、剣を投げ捨て、べたべたする髪をかき上げる。返り血が手袋に付着した。
かなり血を被ってしまったらしい。浴びたのと大して変わらないくらい。
あまり気分がよくないので幻を消して再構成するか――消すのは簡単だが、作り直す
のは無理そうだ。つらくてもこのまま維持した方がいい。肩が痛む。だが痛みならばさ
っきから頭痛がすごいし、体中が鈍痛と錯覚するようなだるさを訴えている。
右目が霞むのを気にして手の甲でこする。周りの皮膚や肉が崩れるのを感じて慌てて
手を離し、手袋の甲を見ると、ぐちゃぐちゃに変色した腐肉がこびりついている。
「あーあ……またやっちゃったよ」
遅まきながら、この不調は魔法の効果が問題なのではないと確信した。
困ったなぁと苦笑しながら、またふらふらと歩き出す。
やがて、行く手に、扉のない部屋が見えた。
部屋からは明りが漏れていて、人の気配がする。
少なくとも、二人か三人。
他にもいるかも知れないが、少なくとも動いていない。
「……」
中から聞こえた話し声にセラフィナのそれが混ざっていたから、ライは、新しく剣を
握って、気配を殺した。逸る心を落ち着かせようと無駄な努力を試みながら歩き出す。
早足になって駆け足になって、飛び込む。
「セラフィナさん!」
――銀光。
横手から振るわれた剣を、辛うじて飛び退り、躱す。
ライは敵を確認すると無言で斬りかかった。
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人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン -廃城
------------------------------------------------------------------------
いきなり斬りかかったキャプテンの攻撃を踏み込むことで逸らし、バーゼラルドは
体を捻った。キャプテンの剣が宙を舞い、部屋の隅に突き刺さる。
「へぇ、やるじゃない」
キャプテンが口角を上げた。
武器を失ったのに楽しそうなのははったりだろうか。それとも……?
「今度はソッチから? 早く来なヨ」
挑発するように手招きをする姿を前に、バーゼラルドは明らかに戸惑っていた。
壁を背に立つセラフィナは、バーゼラルドの背中が不自然に揺れるのを見た気がし
た。
「えっ」
とっさに左に踏み込み、体を反らす。
頬を生暖かいものが伝わり、セラフィナは目を見開く。
最初、セラフィナには何が起こったのか分からなかった。
振り返ったバーゼラルドの剣には鮮やかな朱がしたたり、右手でゆっくり頬に触れ
ると、鉄臭い匂いにむせ返る。頬が焼けるように熱い。バーゼラルドは舌打ちし、も
う一度剣で薙ごうと振りかぶるが、キャプテンからの回し蹴りを避けるために寸前で
体を伏せ、剣をもう一度構え直す。
彼ハ、私ヲ、殺ソウトシタ?
弾けたようにさっと緊張が走る。
さっきの脅しにも関わらず、セラフィナは今まで命の危険を感じていなかった。
少なくとも交渉の場でこういう形で、とは思っていなかったのだ。
「綺麗なお嬢さんを傷つけるたぁ、覚悟は出来て居るんだろうネェ?」
綺麗な顔に青筋を立てて、表情が無くなっていくキャプテンの怒り様は凄まじい。
続けざまに手刀を繰り出し、バーゼラルドが防戦一方になっている。重い剣を構え直
すことも、しまうこともままならない。ただ、どれも致命傷にならないのは流石と言
えた。
その二人を、セラフィナはただ見ていることしかできなかった。
没収され、手元に針もなく、自分の力量では介入できないであろう応酬の中で、自
分に今何が出来るのかを必死になって考える。
集中力を乱す頬の傷に手を当て、僅かに目を細めて、手の平からの暖かい流れをイ
メージする。血を止め、傷を塞がねばなるまい。
ヒュッ
セラフィナは手を頬に翳したまま、ぺたんとしりもちを付いた。頭上の壁には剣が
刺さり、取り残された髪が切れ、はらはらと降ってくる。
今、剣が刺さっているのは、恐らくセラフィナの首があった高さであろう。傷を完
全に塞ぐまでは至っていなかったが、なんとか血を止めた頬から手を離し、次の攻撃
を避けるべく左へ転がる。
手刀が途切れるごくごく小さな隙を、バーゼラルドは待っていたのだ。
ガッ
壁に刺さった剣に飛びつくように、バーゼラルドが振り下ろす。セラフィナが振り
返ると、石の壁を抉る傷跡が床まで続いていた。
「ナメた真似を……」
キャプテンが飛ばされた剣を拾い、構え直して立っていた。
バーゼラルドも、一度に二人を相手にするのは無理だと判断したのだろう、キャプ
テンに向き直り、懐から小剣を取り出した。
……石の床に刺さった剣は、もう使いものになりそうもない。
「オマエが足掻いたところで、始末されることは決まっていたんだヨ」
キャプテンはすぅっと目を細める。
「実質的な護衛はココにいるボクだけ、残りはオマエタチを始末するためダケに来て
いたんだからネ」
なるほど、さっきの音は黒ローブ達が抵抗していた音なのかもしれない。
「向こうが終わったら駆けつけてくるだろうネ、それまでにらめっこでもするカ
イ?」
二人は剣を構え、距離をとって相対している。どちらも動かない。どちらも、相手
の目を見据え、ピリピリとした殺気が部屋を覆い尽くす。
「どうして……」
セラフィナは跡が付くほど強く、ブローチを握りしめていた。
沈黙したままの緊迫した対峙。
ドアのない入り口はセラフィナから遠く、二人をすり抜けて逃げるのは無理そう
だ。
「セラフィナさん!」
部屋に駆け込んできたのは、返り血で全身を朱に染めたライだった。
間髪入れずにバーゼラルドが小剣を薙ぐも、ライは辛うじて飛び退り、無言で斬り
かかる。ライの眼球を狙う突きも、首筋を狙う返しも、バーゼラルドはいなし続け
る。
「……ライさんっ!」
セラフィナの悲鳴にも近い声とほぼ同時に繰り出されたバーゼラルドの攻撃は、ラ
イの腹部を抉ることなく空を斬った。ライが引いてかわしたことで距離が空き、それ
ぞれが再び体勢を立て直す。
「セラフィナさん、待ってて。今助けるから」
そう言うライが僅かにぐらついた。無理を重ねているのが傍目にも分かる。右目付
近は爛れた皮膚が剥がれ、もう少しで骨まで見えそうな惨状だったし、虚ろな両目に
は危険な光を孕んでいる。
来て、くれた……。
セラフィナはそれだけで、泣きそうになった。
未だ終わっていない。緊張を解くには早すぎる。と、理性は警告するけれど。こみ
上げる感情を押さえることが出来ない。自覚もないままに目が潤む。胸が、潰されそ
うになる。
そんな中、傍観していたキャプテンがライに声を掛けた。
「ソイツは彼女を殺したいらしいヨ。コッチは彼女を守りたい。
どう、今だけ手を組んでみるっていうのもアリなんじゃない?」
バーゼラルドが舌打ちする。
ライはキャプテンを嫌そうに一瞥すると、バーゼラルドに向き直った。
「手を組むのは嫌いなんだ。いつ裏切られるか、分からないからね」
キャプテンは予想していたとおりだという風に楽しげに笑う。
「そりゃないんじゃない? 死に損ない」
「何とでも言えよパティ」
間髪入れずに返されたライの言葉は、キャプテンを苛立たせるには充分だった。
「二度とその名前で呼ぶんじゃない。次はオマエをミンチにするヨ」
「その話はコイツを始末してからにしてよ。ついでにベティも彼女を狙ってるんだ」
「って、なんでベティが!」
「知るか! コッチが聞きたいよ!」
喋るのも億劫だと言いたげに、ライはバーゼラルドに斬りかかる。同調するように
キャプテンが繰り出す剣は、舞を舞っているかのように優美な動きだった。
「チッ、ここまでか……」
見る間に追いつめられていくバーゼラルドの様子からして、意外にコンビネーショ
ンはいいのかもしれない。キャプテンが振り下ろした剣を避けるためにバランスを崩
したバーゼラルドは、すかさずライの剣によって眼球を貫かれた。
今までの死闘が嘘のようなあっけない幕切れ。物言わぬ肉塊と化したバーゼラルド
の本当の名前はもう分からない。セラフィナは、駆け寄って治療をしても間に合わな
い、完全な死が彼に訪れたことを感じていた。
「大人しくしていてって言ったのに」
突然、部屋の隅が揺らいだ。拗ねたようにそう言ったのはベアトリス。
ライは剣を構えたものの体を強張らせ、セラフィナには何が何だか分からない。
「……ティリー?」
「ねえ、セラフィナさん。私とライのためなら死んでくれるよね?」
笑顔と共にティリーの手に光が収束する。
場所:港町ルクセン -廃城
------------------------------------------------------------------------
いきなり斬りかかったキャプテンの攻撃を踏み込むことで逸らし、バーゼラルドは
体を捻った。キャプテンの剣が宙を舞い、部屋の隅に突き刺さる。
「へぇ、やるじゃない」
キャプテンが口角を上げた。
武器を失ったのに楽しそうなのははったりだろうか。それとも……?
「今度はソッチから? 早く来なヨ」
挑発するように手招きをする姿を前に、バーゼラルドは明らかに戸惑っていた。
壁を背に立つセラフィナは、バーゼラルドの背中が不自然に揺れるのを見た気がし
た。
「えっ」
とっさに左に踏み込み、体を反らす。
頬を生暖かいものが伝わり、セラフィナは目を見開く。
最初、セラフィナには何が起こったのか分からなかった。
振り返ったバーゼラルドの剣には鮮やかな朱がしたたり、右手でゆっくり頬に触れ
ると、鉄臭い匂いにむせ返る。頬が焼けるように熱い。バーゼラルドは舌打ちし、も
う一度剣で薙ごうと振りかぶるが、キャプテンからの回し蹴りを避けるために寸前で
体を伏せ、剣をもう一度構え直す。
彼ハ、私ヲ、殺ソウトシタ?
弾けたようにさっと緊張が走る。
さっきの脅しにも関わらず、セラフィナは今まで命の危険を感じていなかった。
少なくとも交渉の場でこういう形で、とは思っていなかったのだ。
「綺麗なお嬢さんを傷つけるたぁ、覚悟は出来て居るんだろうネェ?」
綺麗な顔に青筋を立てて、表情が無くなっていくキャプテンの怒り様は凄まじい。
続けざまに手刀を繰り出し、バーゼラルドが防戦一方になっている。重い剣を構え直
すことも、しまうこともままならない。ただ、どれも致命傷にならないのは流石と言
えた。
その二人を、セラフィナはただ見ていることしかできなかった。
没収され、手元に針もなく、自分の力量では介入できないであろう応酬の中で、自
分に今何が出来るのかを必死になって考える。
集中力を乱す頬の傷に手を当て、僅かに目を細めて、手の平からの暖かい流れをイ
メージする。血を止め、傷を塞がねばなるまい。
ヒュッ
セラフィナは手を頬に翳したまま、ぺたんとしりもちを付いた。頭上の壁には剣が
刺さり、取り残された髪が切れ、はらはらと降ってくる。
今、剣が刺さっているのは、恐らくセラフィナの首があった高さであろう。傷を完
全に塞ぐまでは至っていなかったが、なんとか血を止めた頬から手を離し、次の攻撃
を避けるべく左へ転がる。
手刀が途切れるごくごく小さな隙を、バーゼラルドは待っていたのだ。
ガッ
壁に刺さった剣に飛びつくように、バーゼラルドが振り下ろす。セラフィナが振り
返ると、石の壁を抉る傷跡が床まで続いていた。
「ナメた真似を……」
キャプテンが飛ばされた剣を拾い、構え直して立っていた。
バーゼラルドも、一度に二人を相手にするのは無理だと判断したのだろう、キャプ
テンに向き直り、懐から小剣を取り出した。
……石の床に刺さった剣は、もう使いものになりそうもない。
「オマエが足掻いたところで、始末されることは決まっていたんだヨ」
キャプテンはすぅっと目を細める。
「実質的な護衛はココにいるボクだけ、残りはオマエタチを始末するためダケに来て
いたんだからネ」
なるほど、さっきの音は黒ローブ達が抵抗していた音なのかもしれない。
「向こうが終わったら駆けつけてくるだろうネ、それまでにらめっこでもするカ
イ?」
二人は剣を構え、距離をとって相対している。どちらも動かない。どちらも、相手
の目を見据え、ピリピリとした殺気が部屋を覆い尽くす。
「どうして……」
セラフィナは跡が付くほど強く、ブローチを握りしめていた。
沈黙したままの緊迫した対峙。
ドアのない入り口はセラフィナから遠く、二人をすり抜けて逃げるのは無理そう
だ。
「セラフィナさん!」
部屋に駆け込んできたのは、返り血で全身を朱に染めたライだった。
間髪入れずにバーゼラルドが小剣を薙ぐも、ライは辛うじて飛び退り、無言で斬り
かかる。ライの眼球を狙う突きも、首筋を狙う返しも、バーゼラルドはいなし続け
る。
「……ライさんっ!」
セラフィナの悲鳴にも近い声とほぼ同時に繰り出されたバーゼラルドの攻撃は、ラ
イの腹部を抉ることなく空を斬った。ライが引いてかわしたことで距離が空き、それ
ぞれが再び体勢を立て直す。
「セラフィナさん、待ってて。今助けるから」
そう言うライが僅かにぐらついた。無理を重ねているのが傍目にも分かる。右目付
近は爛れた皮膚が剥がれ、もう少しで骨まで見えそうな惨状だったし、虚ろな両目に
は危険な光を孕んでいる。
来て、くれた……。
セラフィナはそれだけで、泣きそうになった。
未だ終わっていない。緊張を解くには早すぎる。と、理性は警告するけれど。こみ
上げる感情を押さえることが出来ない。自覚もないままに目が潤む。胸が、潰されそ
うになる。
そんな中、傍観していたキャプテンがライに声を掛けた。
「ソイツは彼女を殺したいらしいヨ。コッチは彼女を守りたい。
どう、今だけ手を組んでみるっていうのもアリなんじゃない?」
バーゼラルドが舌打ちする。
ライはキャプテンを嫌そうに一瞥すると、バーゼラルドに向き直った。
「手を組むのは嫌いなんだ。いつ裏切られるか、分からないからね」
キャプテンは予想していたとおりだという風に楽しげに笑う。
「そりゃないんじゃない? 死に損ない」
「何とでも言えよパティ」
間髪入れずに返されたライの言葉は、キャプテンを苛立たせるには充分だった。
「二度とその名前で呼ぶんじゃない。次はオマエをミンチにするヨ」
「その話はコイツを始末してからにしてよ。ついでにベティも彼女を狙ってるんだ」
「って、なんでベティが!」
「知るか! コッチが聞きたいよ!」
喋るのも億劫だと言いたげに、ライはバーゼラルドに斬りかかる。同調するように
キャプテンが繰り出す剣は、舞を舞っているかのように優美な動きだった。
「チッ、ここまでか……」
見る間に追いつめられていくバーゼラルドの様子からして、意外にコンビネーショ
ンはいいのかもしれない。キャプテンが振り下ろした剣を避けるためにバランスを崩
したバーゼラルドは、すかさずライの剣によって眼球を貫かれた。
今までの死闘が嘘のようなあっけない幕切れ。物言わぬ肉塊と化したバーゼラルド
の本当の名前はもう分からない。セラフィナは、駆け寄って治療をしても間に合わな
い、完全な死が彼に訪れたことを感じていた。
「大人しくしていてって言ったのに」
突然、部屋の隅が揺らいだ。拗ねたようにそう言ったのはベアトリス。
ライは剣を構えたものの体を強張らせ、セラフィナには何が何だか分からない。
「……ティリー?」
「ねえ、セラフィナさん。私とライのためなら死んでくれるよね?」
笑顔と共にティリーの手に光が収束する。
人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン -廃城
-----------------------------------------------------------------------
「――巫山戯るな!」
ライの叫び声に、ベアトリスはびくりと体を強張らせたが、魔法を中断させることは
なかった。容赦なく白光は放たれて、セラフィナが小さな声を――否、悲鳴を上げた。
恐らく反射的に顔を庇った彼女の腕に光が届くより早く。
魔法の光は空中で爆発、光と衝撃を撒き散らす。
「なによっ!?」
爆風に髪をなぶられながら、ベアトリスが声を上げる。それに重なるように、キィン
と乾いた音を立てて床に落ちたのは、ひしゃげた銀の短剣だった。
「だから、ボクは、そのお嬢さんを守るんだって。
キミといえども邪魔はさせないよ?」
「……」
どこか引きつった笑みを浮かべるパトリシア。それに答えるようにベアトリスが浮か
べた表情は、純粋な憎悪というには複雑すぎるものだった。悲壮、信頼、欺瞞、親愛、
悪意、羨望、拒絶――ああ、あれは、と、悟る。ライはその表情を知っていた。
薄れつつある遠い日の記憶。幼い目で見た風景。
遊び疲れた夕暮れ、石畳の帰路。
弟の手を引いて歩いた家への道。
振り向くことができなかったのは、
――彼がどんな表情をしているか、僕は知っていたからだ。
ぞくり。怖気が背筋を這い上がる。
あの表情は――あの感情は。どうしようもなく絶望的で、どうしようにも手遅れで。
近い場所で育ったもの同士の間にしか芽生えようのない感情だ。二人の関係が実際にど
ういうものなのかは知らないが、少なくとも、見に覚えのある過去と重なる要素があっ
ただろうことは予想ついた。
ライは無意識のうちに何かを言いかけたが、そのことを意識してしまったせいで、言
葉はどこかへ消えてしまった。何を言おうとした?
ベアトリスの視線を真正面から受けるパトリシアが信じられなくて、ライは目を逸ら
す。代わりに何をするべきか。一瞬だけ悩む。
「……セラフィナさん」
剣を持ったまま、手を差し伸べる。腕も手袋もべったりと血に濡れていた。漂う血臭
が理性を繋ぎとめる。だからまだ狂わない。セラフィナに届くには距離がありすぎた。
それでも、意図を伝えるだけならば十分すぎるほど近かった。
妙に気分が醒めてしまっていたので、ライは冷たい声で言った。
「こんなくだらないことに付き合ってないで、帰ろう」
「駄目ッ!」
声を上げたのはベアトリスだった。セラフィナは驚いた顔で、ライは苛ついた顔で、
彼女を見やる。少女は後ろめたそうに後退ったが、壁に背がついた。
「……くだらなくなんか、ないわよ」
「そうかな」
「くだらないワケないじゃない!」
激昂。ベアトリスは唇を噛み締めた。
それを眺めるパトリシアは、ただ、おもしろいものを見る顔つきで、唇の端を吊り上
げていた。彼女はベアトリスの真意を――いや、行動そのものを――知らないようだっ
た。それを、今、見極めようとしているのだろう。
ライはため息をついた。足元に転がる死骸に視線を落とし、天井を見上げる目があま
りにも恨めしげだったので、靴の裏で蹴って、うつ伏せに転がす。
「私はっ! セラフィナさんにいてほしくないのよ」
「だから、どうして?」
ライではなくてセラフィナが問うべきことだとは思ったが、彼女は、座り込んだまま
呆然としている。言葉を忘れてしまったように、状況を瞳に映している。胸元に手をや
って、何かを握っているようだ。指の関節が白くなっている。強く握り続けているのだ
ろう。
ベアトリスは喉に言葉を詰まらせた。頬に朱が差し、わずかに目を伏せる。
その様子を見たパトリシアは、何かに感づいたのかクスクスと笑った。
「ベティ……キミは相変わらず男の趣味が悪いネ。
そんな死にぞこないのどこがいいんだい?」
「うるさいわね」
ベアトリスは吐き捨てた。
ライは、どうやら話題に上っているのは自分のようだとぼんやり思いながらも、いつ
の間にか状況に置き去りにされてしまっているらしいことに不満を感じた。
しかし、動こうにも動けないのが現状だ。セラフィナは壁際に座り込んでいる。ベア
トリスは部屋の隅。問題は最後の一人で――出口をふさぐように立ちふさがっている女。
その位置を取っているからこそパトリシアは余裕のある態度で会話をしているのだろう。
ライは思考の中だけで彼女を突破できるか考えたが、途中でベアトリスに邪魔される
だろうということに気づいて諦めた。彼女の魔法はまだこちらを縛っている。今はなん
とか動けるが、これ以上重ねられたら抵抗しようがなくなってしまう。
「イイ歳してガキみたいなあなたに言われたくない。
男みたいな格好して、男みたいに剣を振って、お姫様を助けたら、そのお姫様と幸せ
になれるとでも思ってるの? それで自分のこと格好いいと思ってるなら馬鹿みたい」
男装の麗人は黙って聞いている。
ベアトリスは口の端を引きつらせた。
「だけどね! いくら飾り付けたって、あなたはただの中途半端な貴族の娘よ。
王子さまなんかじゃないし、お姫さまにもなれない。
政略結婚でつまらない男と結婚してつまらない人生を送るのがお似合いなのに、子供
みたいに現実逃避してさ、馬鹿じゃないの?
男の趣味なんて語れない立場のクセに……!」
「そうだとしても、キミの悪趣味さとは関係ないだろう?」
パトリシアはちらりとライを横目にした。ということは、悪趣味呼ばわりされている
のは自分のことらしいが、そうすると、今の会話の流れでは――まるで。
「ティリー…?」
むしろ呆然と呟く。ベアトリスは肩を震わせたが振り返らなかった。
他人から好意を向けられる、ということをライは信じられない。それも、恋愛感情に
分類されるものとなれば尚更だ。気まぐれで、理由がなくて、衝動的な感情。
初めて向けられたそれは、やがて醜い執着と独占欲に取って変わった。
「一緒に朽ちていきましょう」。暗い部屋、ベッドの上で振るわれた魔法のナイフ。反
射的に掴み止めようとした右掌を裂きながら滑り左頬を掠め、治らない傷を刻まれた。
無理だよ、ごめんと、夜が明けるまで泣いて詫びた。後ろ手に閉めた扉の向こうで毒
をあおった女のことを思い出してしまうから、愛とかそういうものは知らないふりをし
てきたのに。上辺だけ取り繕ってわずかな距離を悟らせず、親しいように、ただし触れ
られないように。
考えるたびに恐くなるのだ。あの女は――魔性のように美しかった恋人は、僕に、共
に冥府へ旅立つだけの価値を本当に見出してくれていたのか、と。だとしたらひどく裏
切ってしまった。僕は誰かの愛情に応えることはできない。
だからライは途方に暮れてしまった。
ベアトリスとパトリシアは、まだ何かを言い合っている。少女の一方的な糾弾を、女
が嘲弄しながら躱している。どちらが追い詰められているのかは明確だった。
ライはゆっくりとセラフィナに近づいた。言い争っている二人は――少なくともその
うち片方は――、もうこちらのことを気にしていないようだった。
今度こそ、届く位置で右腕を差し伸べる。
右手はべっとりと血にまみれていたし剣も持ったままだったから一瞬だけ躊躇したが、
左肩は上がらない。
「立てる?」
「……大丈夫です……」
セラフィナは躊躇いながら手を取ってくれた。革の表面で乾いた血が彼女の掌に擦れ
て粉になる。弱々しい笑顔。どういう表情を返していいか悩み、結局、曖昧に微笑む。
彼女が胸元から手を離したせいで、そこに止められたブローチが目に付いた。
つややかな黄金。繊細な曲線は、草の蔓にも鳥の翼にも見えた。
「セラフィナさん、そのブローチ」
「あのお屋敷でもらったものです。ちゃんと直りました」
何を言えばいい? 言葉が出てこない。頭が痛い。
それは僕のものだ。いや、そっくりだけど違うはずだ。
僕がなくしたアレだったら、あの屋敷に落ちていたはずがない。
「…………似合ってるよ」
喉の奥から言葉を搾り出す。セラフィナはブローチを見下ろして微笑んだ。
その笑顔に、もう危険はぜんぶ終わってしまったような錯覚をしかけて、ライは目を
擦った。
「駄目です! 擦るともっとひどくなりますよ」
「ああ…ごめん」
この体が多少傷ついたところで大したことはないのだが、セラフィナに指摘されると
気をつけようという気になる。彼女は心配そうな表情でこちらを見つめる。「大丈夫」
とだけ応えて、部屋の入り口に意識を戻す。
――廊下の向こうから走る足音が聞こえてきたのはその時だ。
真っ先に敵を見ただろうパトリシアが、毒々しい笑みを浮かべた。
「ベティ、キミがボクをどう思っているかはよぉくわかったヨ。
敵が来た。さっさと片付けてしまうからボクの邪魔をするなよ?」
「ふざけないで」
ベアトリスが壁際から部屋の中心へ歩を進めた。
彼女が横目でこちらを見たような気がしたことこそ錯覚か。
「……私の邪魔するヤツは許さないんだから……
パティもセラフィナさんも他の誰にも、絶対に邪魔はさせない」
足音は二つ。男と女だろう、と、なんとなく、ライはそう思った。
ぐらりと視界が大きく揺れた。取り落とした剣が実体を失い消える。
魔法のにおい。
助けてと声が聞こえた。あのときみたいに私を守ってよ。私だけを。
これも錯覚か、いや――
意識の何処かを書き換えるように、悲痛な声の魔法が感情を上塗りしていく。
抗おうと思ったが、どうすればいいのかわからなかった。
頭が痛い。眩暈が酷い。くらくらして何が何だかわからなくなる。
何故だろう、どうしたらいい? とりあえず乱入者たちを殺してから考えよう。
「セラフィナさん……さがってて」
「え?」
「危ないから」
ライはうわ言のように呟いた。実際にどこか上の空だった。
握った掌の中に新しい剣が現れる。それだけでひどく疲れる。
だが白けていた気分が高揚していくから、その熱に理性を溶かすことにした。
場所:港町ルクセン -廃城
-----------------------------------------------------------------------
「――巫山戯るな!」
ライの叫び声に、ベアトリスはびくりと体を強張らせたが、魔法を中断させることは
なかった。容赦なく白光は放たれて、セラフィナが小さな声を――否、悲鳴を上げた。
恐らく反射的に顔を庇った彼女の腕に光が届くより早く。
魔法の光は空中で爆発、光と衝撃を撒き散らす。
「なによっ!?」
爆風に髪をなぶられながら、ベアトリスが声を上げる。それに重なるように、キィン
と乾いた音を立てて床に落ちたのは、ひしゃげた銀の短剣だった。
「だから、ボクは、そのお嬢さんを守るんだって。
キミといえども邪魔はさせないよ?」
「……」
どこか引きつった笑みを浮かべるパトリシア。それに答えるようにベアトリスが浮か
べた表情は、純粋な憎悪というには複雑すぎるものだった。悲壮、信頼、欺瞞、親愛、
悪意、羨望、拒絶――ああ、あれは、と、悟る。ライはその表情を知っていた。
薄れつつある遠い日の記憶。幼い目で見た風景。
遊び疲れた夕暮れ、石畳の帰路。
弟の手を引いて歩いた家への道。
振り向くことができなかったのは、
――彼がどんな表情をしているか、僕は知っていたからだ。
ぞくり。怖気が背筋を這い上がる。
あの表情は――あの感情は。どうしようもなく絶望的で、どうしようにも手遅れで。
近い場所で育ったもの同士の間にしか芽生えようのない感情だ。二人の関係が実際にど
ういうものなのかは知らないが、少なくとも、見に覚えのある過去と重なる要素があっ
ただろうことは予想ついた。
ライは無意識のうちに何かを言いかけたが、そのことを意識してしまったせいで、言
葉はどこかへ消えてしまった。何を言おうとした?
ベアトリスの視線を真正面から受けるパトリシアが信じられなくて、ライは目を逸ら
す。代わりに何をするべきか。一瞬だけ悩む。
「……セラフィナさん」
剣を持ったまま、手を差し伸べる。腕も手袋もべったりと血に濡れていた。漂う血臭
が理性を繋ぎとめる。だからまだ狂わない。セラフィナに届くには距離がありすぎた。
それでも、意図を伝えるだけならば十分すぎるほど近かった。
妙に気分が醒めてしまっていたので、ライは冷たい声で言った。
「こんなくだらないことに付き合ってないで、帰ろう」
「駄目ッ!」
声を上げたのはベアトリスだった。セラフィナは驚いた顔で、ライは苛ついた顔で、
彼女を見やる。少女は後ろめたそうに後退ったが、壁に背がついた。
「……くだらなくなんか、ないわよ」
「そうかな」
「くだらないワケないじゃない!」
激昂。ベアトリスは唇を噛み締めた。
それを眺めるパトリシアは、ただ、おもしろいものを見る顔つきで、唇の端を吊り上
げていた。彼女はベアトリスの真意を――いや、行動そのものを――知らないようだっ
た。それを、今、見極めようとしているのだろう。
ライはため息をついた。足元に転がる死骸に視線を落とし、天井を見上げる目があま
りにも恨めしげだったので、靴の裏で蹴って、うつ伏せに転がす。
「私はっ! セラフィナさんにいてほしくないのよ」
「だから、どうして?」
ライではなくてセラフィナが問うべきことだとは思ったが、彼女は、座り込んだまま
呆然としている。言葉を忘れてしまったように、状況を瞳に映している。胸元に手をや
って、何かを握っているようだ。指の関節が白くなっている。強く握り続けているのだ
ろう。
ベアトリスは喉に言葉を詰まらせた。頬に朱が差し、わずかに目を伏せる。
その様子を見たパトリシアは、何かに感づいたのかクスクスと笑った。
「ベティ……キミは相変わらず男の趣味が悪いネ。
そんな死にぞこないのどこがいいんだい?」
「うるさいわね」
ベアトリスは吐き捨てた。
ライは、どうやら話題に上っているのは自分のようだとぼんやり思いながらも、いつ
の間にか状況に置き去りにされてしまっているらしいことに不満を感じた。
しかし、動こうにも動けないのが現状だ。セラフィナは壁際に座り込んでいる。ベア
トリスは部屋の隅。問題は最後の一人で――出口をふさぐように立ちふさがっている女。
その位置を取っているからこそパトリシアは余裕のある態度で会話をしているのだろう。
ライは思考の中だけで彼女を突破できるか考えたが、途中でベアトリスに邪魔される
だろうということに気づいて諦めた。彼女の魔法はまだこちらを縛っている。今はなん
とか動けるが、これ以上重ねられたら抵抗しようがなくなってしまう。
「イイ歳してガキみたいなあなたに言われたくない。
男みたいな格好して、男みたいに剣を振って、お姫様を助けたら、そのお姫様と幸せ
になれるとでも思ってるの? それで自分のこと格好いいと思ってるなら馬鹿みたい」
男装の麗人は黙って聞いている。
ベアトリスは口の端を引きつらせた。
「だけどね! いくら飾り付けたって、あなたはただの中途半端な貴族の娘よ。
王子さまなんかじゃないし、お姫さまにもなれない。
政略結婚でつまらない男と結婚してつまらない人生を送るのがお似合いなのに、子供
みたいに現実逃避してさ、馬鹿じゃないの?
男の趣味なんて語れない立場のクセに……!」
「そうだとしても、キミの悪趣味さとは関係ないだろう?」
パトリシアはちらりとライを横目にした。ということは、悪趣味呼ばわりされている
のは自分のことらしいが、そうすると、今の会話の流れでは――まるで。
「ティリー…?」
むしろ呆然と呟く。ベアトリスは肩を震わせたが振り返らなかった。
他人から好意を向けられる、ということをライは信じられない。それも、恋愛感情に
分類されるものとなれば尚更だ。気まぐれで、理由がなくて、衝動的な感情。
初めて向けられたそれは、やがて醜い執着と独占欲に取って変わった。
「一緒に朽ちていきましょう」。暗い部屋、ベッドの上で振るわれた魔法のナイフ。反
射的に掴み止めようとした右掌を裂きながら滑り左頬を掠め、治らない傷を刻まれた。
無理だよ、ごめんと、夜が明けるまで泣いて詫びた。後ろ手に閉めた扉の向こうで毒
をあおった女のことを思い出してしまうから、愛とかそういうものは知らないふりをし
てきたのに。上辺だけ取り繕ってわずかな距離を悟らせず、親しいように、ただし触れ
られないように。
考えるたびに恐くなるのだ。あの女は――魔性のように美しかった恋人は、僕に、共
に冥府へ旅立つだけの価値を本当に見出してくれていたのか、と。だとしたらひどく裏
切ってしまった。僕は誰かの愛情に応えることはできない。
だからライは途方に暮れてしまった。
ベアトリスとパトリシアは、まだ何かを言い合っている。少女の一方的な糾弾を、女
が嘲弄しながら躱している。どちらが追い詰められているのかは明確だった。
ライはゆっくりとセラフィナに近づいた。言い争っている二人は――少なくともその
うち片方は――、もうこちらのことを気にしていないようだった。
今度こそ、届く位置で右腕を差し伸べる。
右手はべっとりと血にまみれていたし剣も持ったままだったから一瞬だけ躊躇したが、
左肩は上がらない。
「立てる?」
「……大丈夫です……」
セラフィナは躊躇いながら手を取ってくれた。革の表面で乾いた血が彼女の掌に擦れ
て粉になる。弱々しい笑顔。どういう表情を返していいか悩み、結局、曖昧に微笑む。
彼女が胸元から手を離したせいで、そこに止められたブローチが目に付いた。
つややかな黄金。繊細な曲線は、草の蔓にも鳥の翼にも見えた。
「セラフィナさん、そのブローチ」
「あのお屋敷でもらったものです。ちゃんと直りました」
何を言えばいい? 言葉が出てこない。頭が痛い。
それは僕のものだ。いや、そっくりだけど違うはずだ。
僕がなくしたアレだったら、あの屋敷に落ちていたはずがない。
「…………似合ってるよ」
喉の奥から言葉を搾り出す。セラフィナはブローチを見下ろして微笑んだ。
その笑顔に、もう危険はぜんぶ終わってしまったような錯覚をしかけて、ライは目を
擦った。
「駄目です! 擦るともっとひどくなりますよ」
「ああ…ごめん」
この体が多少傷ついたところで大したことはないのだが、セラフィナに指摘されると
気をつけようという気になる。彼女は心配そうな表情でこちらを見つめる。「大丈夫」
とだけ応えて、部屋の入り口に意識を戻す。
――廊下の向こうから走る足音が聞こえてきたのはその時だ。
真っ先に敵を見ただろうパトリシアが、毒々しい笑みを浮かべた。
「ベティ、キミがボクをどう思っているかはよぉくわかったヨ。
敵が来た。さっさと片付けてしまうからボクの邪魔をするなよ?」
「ふざけないで」
ベアトリスが壁際から部屋の中心へ歩を進めた。
彼女が横目でこちらを見たような気がしたことこそ錯覚か。
「……私の邪魔するヤツは許さないんだから……
パティもセラフィナさんも他の誰にも、絶対に邪魔はさせない」
足音は二つ。男と女だろう、と、なんとなく、ライはそう思った。
ぐらりと視界が大きく揺れた。取り落とした剣が実体を失い消える。
魔法のにおい。
助けてと声が聞こえた。あのときみたいに私を守ってよ。私だけを。
これも錯覚か、いや――
意識の何処かを書き換えるように、悲痛な声の魔法が感情を上塗りしていく。
抗おうと思ったが、どうすればいいのかわからなかった。
頭が痛い。眩暈が酷い。くらくらして何が何だかわからなくなる。
何故だろう、どうしたらいい? とりあえず乱入者たちを殺してから考えよう。
「セラフィナさん……さがってて」
「え?」
「危ないから」
ライはうわ言のように呟いた。実際にどこか上の空だった。
握った掌の中に新しい剣が現れる。それだけでひどく疲れる。
だが白けていた気分が高揚していくから、その熱に理性を溶かすことにした。
人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン -廃城
------------------------------------------------------------------------
尋常ではない雰囲気を感じ取り、冒険者達は走り出していた。
襲撃には未だ早い。予定では、罠を仕掛けた上で帰り際の安心しているところを襲
う、そうなっていた筈だった。それなのに。
この血生臭さと悲鳴はあまりに異様だ。
「どうなってるんだよ、幽霊が暴走でもしたか?」
血の匂いに顔をしかめながら、男が呟く。
それでも足を止めないのは、やはり場慣れしているせいなのだろうか。
「そうかもね、敵も味方も関係ないみたいだし」
敵になるはずだった黒マントの死体を飛び越えながら、黒い僧衣の女は答える。
さっき、味方だった冒険者の遺体も見かけたばかりだ。太刀筋はおそらく同じ刃
物。
「お姫様は無事かな」
器用に血溜まりを避けると、バジルが問う。
リズは困ったように笑った。
「無事なうちに助け出すんだろ?」
二人は血の臭いの充満する石の廊下を、足音の響くことなどお構いなしに走り抜け
る。
◇ ◆ ◇
「セラフィナさん……さがってて」
「え?」
「危ないから」
ライがうわ言のように呟いた。セラフィナは部屋の入り口に向けた視線をライに戻
したが、彼はこちらを向くことはなく、何かに惹かれるように歩き出した。
よろりと一度ぐらつくが、まるで気にする様子もなく足音の方へ歩を進める。
「ライさん!?」
セラフィナが悲痛な声をあげるが、ライには届かない。
一瞬覗いた顔には、むしろ狂気を孕む楽しげな表情が浮かんでいる。
「ライ……さ……」
呼びかける声が途切れる。
彼であって彼でない、その違和感がセラフィナの思考を止める。
「ほら、見てよ。ライは私の為だけに戦ってくれるんだから」
ベアトリスは、真新しい剣を握るライの姿をウットリと見つめた。返り血で真紅を
通り越したどす黒い赤のシルエットに、唯一返り血を浴びていない抜き身の剣の光
沢。彼女の幼い顔が、勝ち誇ったように口角を上げる。
一方、パトリシアという名の男装の麗人は、セラフィナを守る気はあってもライを
守る気などないのだろう。脇に退いて、ライに道を譲った。
面白そうに傍観しながら。
ライはパトリシアのそんな行動に気付いた様子もなく、ゆっくり、だが確実に入り
口へ近づいていく。セラフィナからは未だ見ることが出来ないが、駆けてくる足音は
近い。
「何でこんな酷いこと……」
セラフィナはきつくブローチを握りしめると、ベアトリスをキッと睨み付けた。
「セラフィナさんも黙って見ててよ……殺すのはその後にしてあげる」
やっとセラフィナに視線を向け、嘲るような目でベアトリスが笑う。
それは酷く冷淡に見え、セラフィナは背筋に冷たいものを感じた。
ベアトリスの目を見据えて、生唾を飲み込む。
「ライさんを本当に好きなら、こんなことは出来ないはずでしょう?」
おそらくライは「支配」されたのだ。他でもないベアトリスに。
そしてソフィニアで出会った死霊使いよりも、もっと強い呪縛をかけた。
絶対服従の呪縛。
それは物質化に対しての制限のみならず、自由な意志をも奪うモノである。
セラフィナは怒りよりも悲しみが胸を占めていることに動揺した。
もっと彼女に怒りを感じ、憎んでもおかしくない状況にも関わらず、である。
半日前まで談笑していた彼女に、何故こんなコトが出来るのか。
この間にも、ライは入り口へと到達する。
「好きだからよ。セラフィナさんにも誰にも渡したくないもの」
何を言っているんだろう、この人。
ベアトリスの表情には純粋な疑問が浮かんでいた。
「……ねぇティリー、貴女が好きになったのは人形なの?
海で貴女を守ってくれた、優しい心を持った人じゃないの?」
セラフィナの静かに語りかける言葉に、ベアトリスは片方だけ、眉を動かす。
「甘いわ。あなた恋って知ってる?
全部手に入れなきゃイヤなの。自分を見てくれなきゃイヤなの。
側に自分以外の女が居るのが許せないの。その為には手段なんて選んでられない」
ベアトリスはライの後ろ姿を一瞥し、セラフィナに向き直った。
自分を正しいと信じている揺らぎのない目が、挑むようにセラフィナを射抜く。
「ただの通りすがりなら見逃してあげた。
成り行きで一緒に旅をしてても、別れてそれでおしまいなら我慢もできた。
でもなんなの? どうしてよ!
危険を承知で助けに来るなんて、そんなの許せない!」
嫉妬。
肌がピリピリと痛いくらいに露わになった強い激しい感情。
ベアトリスの目には涙が溜まっていた。
そして。
セラフィナの目に哀れみの光を見た気がしたのか、ベアトリスはそっと目を逸らし
た。
「やさしいやさしいセラフィナさん。
あなたとライみたいな関係って、もどかしくて叩き壊したくなるのよ。
恋愛感情抜きで一緒にいるなんておかしいとおもわない? 不自然でしょう?
いっそどっちかが激しい恋をして、自滅してくれれば良かったのにっ!」
最後の方は、吐き出すような叫び。
セラフィナは「でも……」と言おうとして、言葉を飲み込んだ。
彼女に共感するコトは出来ない。そんなに激しい恋を、セラフィナは知らないのだ
から。
ライが部屋を一歩出た辺りで歩みを止めた。
走って近づいてきた足音が止まり、誰かが何かを叫んだが、ライには届かない。
ライは答えのかわりに真新しい剣を翻し、無言で廊下へ切り込んでいく。
「邪魔が居なくなったら、今度こそセラフィナさんを殺してあげる」
ベアトリスが笑った。
◇ ◆ ◇
バジルとリズの目に、扉のない入り口が見えた。
事前情報からしても現状の血の痕からしても、ココが目的地に違いない。
「大人しくできないんだったら、捕まえておくんだったか?」
リズが面白いことを言った幽霊を思い出す。
彼の返答次第では、本当に拘束してしまおうかと思っていたが、元冒険者とはい
え、ああいう状況でああいう切り返しが出来る彼を、面白いと思ってしまったのだ。
部屋から漏れ出す明かりを目指して、足音が響く。
これだけ隠さずに走ってきたのだ。気付かれているのは承知の上だ。
「例の死霊使いが、あいつを取り込んだかな」
「だとしたら、この新鮮な死体どもがこっちのの邪魔をしてもおかしくないけどね。
……部屋の中で何が起こっているんだか」
部屋まであと少し。
走る速度を落としたときに、血塗れのライは姿を現した。
「って、オイ、何があった!?」
バジルがつい声を掛けるが、ライの耳には届かない。薄く笑って斬りかかる。
ライの後方で、場違いな少女と美形の男がこちらを傍観していたが、今はソレを気
にしている場合ではなさそうだ。反射的に剣を抜き、バジルが応戦した。剣がぶつか
った拍子に小さな火花が飛ぶ。
しかし、それなりに広いとはいえ通路での戦闘となると、全力で剣を振るうのは困
難となる。ライが突き出す剣を跳ね上げ、バジルは当て身を食らわせようと一歩踏み
込んだ。
「うわっ!」
バジルの体が硬直する。
体を近づけると同時に、ライがバジルの首へと右手を伸ばしたのだ。
ライは目を細め、バジルの眼前で笑った。それは獲物を手にした捕食者の笑み。
急激にバジルの体から「何か」が奪われてゆく……。
一瞬の出来事なのに、バジルには何分も何時間もに感じられた。迫り来る死の恐
怖。思い出が走馬燈のように駆けめぐる。幼い頃の友人や両親、仕事仲間などが次々
に入れ替わり、リズの番になったときにそのイメージは止まった。「考えなしで悪い
な」……浮かぶ言葉も伝えられそうにない。最後にリズを振り返ろうにも体が硬直し
て抵抗できない。本格的に死を覚悟したとき、視界が白に染まった。
リズが放った光が、ライの二の腕を薄く抉ったのだ。
ライから体を剥がされ、ようやく自由を取り戻したバジルは、なんとか後退しなが
ら剣を構え直した。力がうまく入らないが、どうやら自分は助かったらしい。
「考えなしに突っ込むな」
リズが後ろからバジルに声を掛ける。ライは腕の上がらなくなった左手を気にする
素振りすら見せず、右手で再び剣を振るった。
「次はもうちょっと早めに頼む」
後ろで新たな呪文を構築しているリズに一声掛けて、バジルは再びライに向かって
剣を突き出す。もうさっきの言葉を言うつもりは微塵もなかった。
◇ ◆ ◇
廊下で何かが始まった。ベアトリスはそちらへ注意を向ける。
セラフィナの位置からでは見ることが出来ないが、ベアトリスとパトリシアは、状
況を見渡せる位置にいるらしい。
「……ベティー、邪魔な死に損ないを下げてヨ」
パトリシアが廊下から視線を外さずに言った。声に緊迫感が感じられる。
「五月蠅いわね、パティーは黙ってて」
パトリシアを睨み付けてライに視線を戻す。
途端にベアトリスの表情が青ざめ、一瞬の躊躇の後、大きな声をあげた。
「ライ、戻って!」
よろけたライの頭上を光の帯が走る。
間一髪でそれを避けたライは、パトリシアと入れ替わるように室内に戻ってきた。
……満身創痍。
他にどんな言葉を使えばいいのだろう?
ライの服には無数の傷が入り、腕の数カ所からはくすんだ骨が露わになっている。
特に左の二の腕などは抉られ、繋がっているのが不思議なほどだ。
剣に血糊はついているが、致命傷を負わせたと言うほどの出血量ではなかったのだ
ろう。ということは苦戦していたのだろうか。
そして……彼の目にセラフィナは映っていない。
「魔剣持ちと司祭、ね。まるで私の情報が流れていたみたいじゃないの」
ベアトリスが悔しそうに舌打ちし、目の前で立ち止まったライの頬にそっと触れ
た。
「ライ、私が仇をとってあげる」
小さいが力強い詠唱がライの瞼を落とす。
いや、眠らせようというのではないのだろう。彼は酷くだるそうに倒れ込むと、ゆ
っくりとベアトリスを見上げた。
「今度こそ、大人しく待っててね」
コクリ、ライの頭が上下する。それを満足そうに見ると、ベアトリスは入り口に向
き直り、巨大な火球を宙に形作る。
「パティー、避けないと死ぬわよ」
そう言うとベアトリスは。
伏せて辛うじて避けれるか否かの火球を、入り口に向かって躊躇無く放った。
場所:港町ルクセン -廃城
------------------------------------------------------------------------
尋常ではない雰囲気を感じ取り、冒険者達は走り出していた。
襲撃には未だ早い。予定では、罠を仕掛けた上で帰り際の安心しているところを襲
う、そうなっていた筈だった。それなのに。
この血生臭さと悲鳴はあまりに異様だ。
「どうなってるんだよ、幽霊が暴走でもしたか?」
血の匂いに顔をしかめながら、男が呟く。
それでも足を止めないのは、やはり場慣れしているせいなのだろうか。
「そうかもね、敵も味方も関係ないみたいだし」
敵になるはずだった黒マントの死体を飛び越えながら、黒い僧衣の女は答える。
さっき、味方だった冒険者の遺体も見かけたばかりだ。太刀筋はおそらく同じ刃
物。
「お姫様は無事かな」
器用に血溜まりを避けると、バジルが問う。
リズは困ったように笑った。
「無事なうちに助け出すんだろ?」
二人は血の臭いの充満する石の廊下を、足音の響くことなどお構いなしに走り抜け
る。
◇ ◆ ◇
「セラフィナさん……さがってて」
「え?」
「危ないから」
ライがうわ言のように呟いた。セラフィナは部屋の入り口に向けた視線をライに戻
したが、彼はこちらを向くことはなく、何かに惹かれるように歩き出した。
よろりと一度ぐらつくが、まるで気にする様子もなく足音の方へ歩を進める。
「ライさん!?」
セラフィナが悲痛な声をあげるが、ライには届かない。
一瞬覗いた顔には、むしろ狂気を孕む楽しげな表情が浮かんでいる。
「ライ……さ……」
呼びかける声が途切れる。
彼であって彼でない、その違和感がセラフィナの思考を止める。
「ほら、見てよ。ライは私の為だけに戦ってくれるんだから」
ベアトリスは、真新しい剣を握るライの姿をウットリと見つめた。返り血で真紅を
通り越したどす黒い赤のシルエットに、唯一返り血を浴びていない抜き身の剣の光
沢。彼女の幼い顔が、勝ち誇ったように口角を上げる。
一方、パトリシアという名の男装の麗人は、セラフィナを守る気はあってもライを
守る気などないのだろう。脇に退いて、ライに道を譲った。
面白そうに傍観しながら。
ライはパトリシアのそんな行動に気付いた様子もなく、ゆっくり、だが確実に入り
口へ近づいていく。セラフィナからは未だ見ることが出来ないが、駆けてくる足音は
近い。
「何でこんな酷いこと……」
セラフィナはきつくブローチを握りしめると、ベアトリスをキッと睨み付けた。
「セラフィナさんも黙って見ててよ……殺すのはその後にしてあげる」
やっとセラフィナに視線を向け、嘲るような目でベアトリスが笑う。
それは酷く冷淡に見え、セラフィナは背筋に冷たいものを感じた。
ベアトリスの目を見据えて、生唾を飲み込む。
「ライさんを本当に好きなら、こんなことは出来ないはずでしょう?」
おそらくライは「支配」されたのだ。他でもないベアトリスに。
そしてソフィニアで出会った死霊使いよりも、もっと強い呪縛をかけた。
絶対服従の呪縛。
それは物質化に対しての制限のみならず、自由な意志をも奪うモノである。
セラフィナは怒りよりも悲しみが胸を占めていることに動揺した。
もっと彼女に怒りを感じ、憎んでもおかしくない状況にも関わらず、である。
半日前まで談笑していた彼女に、何故こんなコトが出来るのか。
この間にも、ライは入り口へと到達する。
「好きだからよ。セラフィナさんにも誰にも渡したくないもの」
何を言っているんだろう、この人。
ベアトリスの表情には純粋な疑問が浮かんでいた。
「……ねぇティリー、貴女が好きになったのは人形なの?
海で貴女を守ってくれた、優しい心を持った人じゃないの?」
セラフィナの静かに語りかける言葉に、ベアトリスは片方だけ、眉を動かす。
「甘いわ。あなた恋って知ってる?
全部手に入れなきゃイヤなの。自分を見てくれなきゃイヤなの。
側に自分以外の女が居るのが許せないの。その為には手段なんて選んでられない」
ベアトリスはライの後ろ姿を一瞥し、セラフィナに向き直った。
自分を正しいと信じている揺らぎのない目が、挑むようにセラフィナを射抜く。
「ただの通りすがりなら見逃してあげた。
成り行きで一緒に旅をしてても、別れてそれでおしまいなら我慢もできた。
でもなんなの? どうしてよ!
危険を承知で助けに来るなんて、そんなの許せない!」
嫉妬。
肌がピリピリと痛いくらいに露わになった強い激しい感情。
ベアトリスの目には涙が溜まっていた。
そして。
セラフィナの目に哀れみの光を見た気がしたのか、ベアトリスはそっと目を逸らし
た。
「やさしいやさしいセラフィナさん。
あなたとライみたいな関係って、もどかしくて叩き壊したくなるのよ。
恋愛感情抜きで一緒にいるなんておかしいとおもわない? 不自然でしょう?
いっそどっちかが激しい恋をして、自滅してくれれば良かったのにっ!」
最後の方は、吐き出すような叫び。
セラフィナは「でも……」と言おうとして、言葉を飲み込んだ。
彼女に共感するコトは出来ない。そんなに激しい恋を、セラフィナは知らないのだ
から。
ライが部屋を一歩出た辺りで歩みを止めた。
走って近づいてきた足音が止まり、誰かが何かを叫んだが、ライには届かない。
ライは答えのかわりに真新しい剣を翻し、無言で廊下へ切り込んでいく。
「邪魔が居なくなったら、今度こそセラフィナさんを殺してあげる」
ベアトリスが笑った。
◇ ◆ ◇
バジルとリズの目に、扉のない入り口が見えた。
事前情報からしても現状の血の痕からしても、ココが目的地に違いない。
「大人しくできないんだったら、捕まえておくんだったか?」
リズが面白いことを言った幽霊を思い出す。
彼の返答次第では、本当に拘束してしまおうかと思っていたが、元冒険者とはい
え、ああいう状況でああいう切り返しが出来る彼を、面白いと思ってしまったのだ。
部屋から漏れ出す明かりを目指して、足音が響く。
これだけ隠さずに走ってきたのだ。気付かれているのは承知の上だ。
「例の死霊使いが、あいつを取り込んだかな」
「だとしたら、この新鮮な死体どもがこっちのの邪魔をしてもおかしくないけどね。
……部屋の中で何が起こっているんだか」
部屋まであと少し。
走る速度を落としたときに、血塗れのライは姿を現した。
「って、オイ、何があった!?」
バジルがつい声を掛けるが、ライの耳には届かない。薄く笑って斬りかかる。
ライの後方で、場違いな少女と美形の男がこちらを傍観していたが、今はソレを気
にしている場合ではなさそうだ。反射的に剣を抜き、バジルが応戦した。剣がぶつか
った拍子に小さな火花が飛ぶ。
しかし、それなりに広いとはいえ通路での戦闘となると、全力で剣を振るうのは困
難となる。ライが突き出す剣を跳ね上げ、バジルは当て身を食らわせようと一歩踏み
込んだ。
「うわっ!」
バジルの体が硬直する。
体を近づけると同時に、ライがバジルの首へと右手を伸ばしたのだ。
ライは目を細め、バジルの眼前で笑った。それは獲物を手にした捕食者の笑み。
急激にバジルの体から「何か」が奪われてゆく……。
一瞬の出来事なのに、バジルには何分も何時間もに感じられた。迫り来る死の恐
怖。思い出が走馬燈のように駆けめぐる。幼い頃の友人や両親、仕事仲間などが次々
に入れ替わり、リズの番になったときにそのイメージは止まった。「考えなしで悪い
な」……浮かぶ言葉も伝えられそうにない。最後にリズを振り返ろうにも体が硬直し
て抵抗できない。本格的に死を覚悟したとき、視界が白に染まった。
リズが放った光が、ライの二の腕を薄く抉ったのだ。
ライから体を剥がされ、ようやく自由を取り戻したバジルは、なんとか後退しなが
ら剣を構え直した。力がうまく入らないが、どうやら自分は助かったらしい。
「考えなしに突っ込むな」
リズが後ろからバジルに声を掛ける。ライは腕の上がらなくなった左手を気にする
素振りすら見せず、右手で再び剣を振るった。
「次はもうちょっと早めに頼む」
後ろで新たな呪文を構築しているリズに一声掛けて、バジルは再びライに向かって
剣を突き出す。もうさっきの言葉を言うつもりは微塵もなかった。
◇ ◆ ◇
廊下で何かが始まった。ベアトリスはそちらへ注意を向ける。
セラフィナの位置からでは見ることが出来ないが、ベアトリスとパトリシアは、状
況を見渡せる位置にいるらしい。
「……ベティー、邪魔な死に損ないを下げてヨ」
パトリシアが廊下から視線を外さずに言った。声に緊迫感が感じられる。
「五月蠅いわね、パティーは黙ってて」
パトリシアを睨み付けてライに視線を戻す。
途端にベアトリスの表情が青ざめ、一瞬の躊躇の後、大きな声をあげた。
「ライ、戻って!」
よろけたライの頭上を光の帯が走る。
間一髪でそれを避けたライは、パトリシアと入れ替わるように室内に戻ってきた。
……満身創痍。
他にどんな言葉を使えばいいのだろう?
ライの服には無数の傷が入り、腕の数カ所からはくすんだ骨が露わになっている。
特に左の二の腕などは抉られ、繋がっているのが不思議なほどだ。
剣に血糊はついているが、致命傷を負わせたと言うほどの出血量ではなかったのだ
ろう。ということは苦戦していたのだろうか。
そして……彼の目にセラフィナは映っていない。
「魔剣持ちと司祭、ね。まるで私の情報が流れていたみたいじゃないの」
ベアトリスが悔しそうに舌打ちし、目の前で立ち止まったライの頬にそっと触れ
た。
「ライ、私が仇をとってあげる」
小さいが力強い詠唱がライの瞼を落とす。
いや、眠らせようというのではないのだろう。彼は酷くだるそうに倒れ込むと、ゆ
っくりとベアトリスを見上げた。
「今度こそ、大人しく待っててね」
コクリ、ライの頭が上下する。それを満足そうに見ると、ベアトリスは入り口に向
き直り、巨大な火球を宙に形作る。
「パティー、避けないと死ぬわよ」
そう言うとベアトリスは。
伏せて辛うじて避けれるか否かの火球を、入り口に向かって躊躇無く放った。
人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン -廃城
-----------------------------------------------------------------------
「――“情けをかけろ”ッ!」
リズは悲鳴に似た声で呪文を叫んだ。輝く障壁が焔を受け、爆音と光を半減させる。
疾走で二人の間を抜けて難を逃れた金髪の男が小さく口笛を吹いた。
「さすが容赦ない」
「てめえはっ!?」
「もちろん、敵ダヨ」
刃が刃を滑る音。間髪いれず、二度目の爆音が障壁を揺るがした。
リズは舌打ちして、戦うバジルを横目に見る。三度目の炎。これでは援護できない。
彼は幽霊に随分と体力を奪われた。二人目の敵は手練だ。勝てる?
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
仇をとってあげるとか、そんな、まだ死んだわけじゃないんだから。
動けるだろうか? ベアトリスの魔法は強くない。冒険者と戦うことには別に不満は
なかったというか自分もそうしたかったからしなかったが、抵抗しようと思えばできな
いことはないだろうし、彼女がもっと魔法を強くすることは多分ないだろう。今の状態
が、恐らく、ライが耐えることができる限界だ。これ以上は……
眠くて頭がはたらかない。あのときのように目を閉じて意識を闇にゆだねてしまえば
楽になれるのだろうが、それがたぶん致命的な結果に繋がることは予想できていた。
よく覚えていないけど、あのときも――冗談みたいな量の血を吸った絨毯に倒れたま
ま、傷の痛みは麻痺して、寒さは眠気を誘って、立ち上がれたかも知れないのに、何も
かもすべてがどうでもよくなり、目を閉じた。ただ気が済むまで深く眠りたいという、
取り返しのつかない気の迷い。おなじ間違いを繰り返すわけにはいかない。一人ならと
もかく、今はセラフィナがいるのだから。
爆発音、剣戟。戦いの音はやまない。炎の熱気が髪を揺らす。
ライはゆっくりと顔を上げた。どちらが圧倒的に有利かは一目でわかった。仲が悪い
わりに連携はいい。速攻戦にして持久戦。前衛、後衛、どちらが力負けしても決着がつ
く。有効といえば有効だけど、自信がないとできない戦い方だ。
そんなことを考えながら眺めていると、ふいに、霞んでいた左の視界にノイズが走り、
鈍い痛みを覚えた。反射的に手で押さえる。崩れた眼窩からずり落ちかけていた眼球が
掌に圧迫されて、腐肉の間に押し込まれた。その感触に鳥肌が立つ。
「ライさん……?」
吐き気を堪えてうめく。セラフィナが小さく呼びかけるのが聞こえた。
喉の奥からこみ上げてきた何かを強引に飲み下し、何と答えようか迷いながら、首を
振る。セラフィナはベアトリスの様子を横目にしてから静かに駆け寄ってきた。
「……ひどい」
何が? ああ、この傷か。こんなものは……
ライは一瞬だけ実体を消して像を結びなおした。被っていた血がびちゃりと音を立て
て石の床を撥ね、血溜まりを作った。立った状態で実体を作り直したが、平衡感覚が狂
って膝が力を失う。床に手をついて倒れることはなくうずくまり、舌打ち。
床に接した服がすぐに赤黒く染められていく。
全身の痛みが消えたことで、痛みを感じていたのかと気がついた。
セラフィナが傍らに膝をついて、覗き込んできた。
「ライさん? 私の声が聞こえますか?」
「…聞こえ、て…るよ」
聞こえなかったことなどない。喋ると、喉が、ひどく乾いているときのように痛んだ。
口の中がべたべたして気持ち悪い。声は掠れていたが、聞き取れないことはなさそうだ
から気にしないことにしよう。
セラフィナは、ほっとしたように「よかった」と呟いた。
なんで僕が心配されているんだろう? ライはどうしようもなく困ってしまって、小
さく「大丈夫?」とだけ訊いた。セラフィナは泣き出しそうに表情を崩しで頷いた。
ライは目を逸らす。彼女が泣くはずがない。そんなことはわかっている。
悲鳴が聞こえた。女の高い声。剣のぶつかる音が絶えた。
ベアトリスが魔法を中断して目を凝らした。光で廊下の様子は見えなかったのだ。
「バジル!」
確かリズといったか――彼女の声だ。剣を片手に立つパトリシアと、その足元で膝を
つく男のシルエット。駆け寄るリズにパトリシアは剣を突きつけたがリズは退かなかっ
た。バジルの肩に手を置き、早口に唱える。
「“願いの声を聞き我々の前に道を示せ則を変え我々を――」
「逃がすと思うかい?」
酷薄な笑い声。パトリシアが細い剣を振るった。
ギィン、と音を立てて弾いたのはバジルの剣。魔力が残像を引き、パトリシアの刃を
半ばでへし折る。彼女の顔から笑みが消えたのが後姿しか見えなくてもわかった。
乾いた笑い声はバジルのものだ。してやったりという笑みは、一瞬だけパトリシアを
逸れてライと視線を合わせた。そこに本物の殺意を見つけてライはたじろいだ。
「――祈りの声を聞き我々の前に道を開け則を超え我々を連れて行け”!」
白い閃光。
光は一瞬で消え去った。廊下には、腕を翳して目を庇ったパトリシア。
その場から、冒険者たちの姿だけが忽然と消えていた。
「チクショウ!」
罵声を上げたのはベアトリスだった。少女が口にするにはあまり相応しくない罵りを
二、三言吐き捨て、彼女は振り返る。その表情がいっきに険しくなった。
「……セラフィナさん、何してるの?」
パトリシアが手にした剣を放り捨て、うつ伏せに倒れる男の死体から変わりを取り上
げた。彼女はベアトリスを横目で眺めたまま、まだ様子を窺うつもりのようだった。も
うとりあえずの敵はいなくなった。しばらくは邪魔が入らないだろう。
「いくら心配したって、セラフィナさんには何もできないでしょ!
それとも、ライのために死んでくれるって言うの? だったらすぐに殺してあげる。
あなた一人じゃぜんぜん足りないけど、いないよりはマシかも知れないわ」
「どういう意味、ですか?」
ベアトリスは嘲弄の表情を浮かべた。或いは些細な優越感。相手が知らないことを知
っていることへの。
「知らないの? 亡霊は人を喰らうのよ。人を殺して、その魂を自分の命に変えるの。
ライがこんなに弱ってるのは、それをしなかったからよ。近くにいるあなたが人が死
ぬのを嫌がったから我慢してたに決まってるわ。私だったら無理やりにでも――」
「……勘弁してよ、ティリー」
的外れではあったが、滴るような悪意の言葉。疲れた声でライが呟くと、彼女は虚を
突かれたように言葉を失った。歪んだ表情は、どこか泣きそうにも見えたが。
さっき、一瞬だけ彼女の様子に記憶の中の弟を重ねてしまったことを思い出す。だか
ら見捨てきれないのか? どう考えても、もう彼女とは道を違えてしまったというのに。
「ガキじゃないんだから」
ガキじゃないんだからそのくらいは自分でやるよ、という意味ではあったが、ガキじ
ゃないんだから我侭ばかり言うな、という意図がまったくないわけではなかった。
ベアトリスはどちらかの――或いは他の意味を読み取ってうつむき、顔を上げる。そ
の背後でパトリシアが動くのが見えた。
「……今すぐセラフィナさんを殺してみせてよ」
「それはダメだ、ベティ」
振り返った少女の首元に、ひたり、と、冷たい刃が当てられる。
パトリシアは相変わらずの余裕を感じさせる表情で言う。しかし彼女の手元には、剣
を握ることに慣れた者にしかわからないくらいわずかな躊躇があった。
「ボクはお姫さまに用があるんだって言ってるだろ?
それに……おもしろい見世物だったから見学していたケド、そろそろ飽きたな」
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
「バジル」
治癒の魔法は効果をあげて傷はふさがったが、失った体力はどうしようもない。壁に
背を預けたままのバジルはリズの声に反応しない。だが、彼が意識を保っているのは
確かだった。うつむきぎみの顔、虹彩の細い紫の瞳は宙を睨み続けている。彼が何を考
えているのかはわかりきっている。
暗闇に浮かぶ小さな魔法の光。日はとうに暮れてしまっている。
古城の二階。遠い距離を転移することはできなかった。一人なら、町まで帰れたかも
知れないが……そんなことに何の意味がある?
「バジル、しかたなかったんだ」
「そんなはずはない! 予定が狂ったんだ。
俺たちのうち誰かひとりでも欠けるような計画じゃなかった」
「失敗したんだ」
「まだだ」
双眸を不吉に底光りさせて、バジルはうめく。
リズは目を伏せた。何を言えばいいのだろう? 妹のように懐いてきた盗賊少女が、
いなくなってしまったというのに。
「……せめて仕事だけでも終わらせないと。
お姫さまを手に入れて、リフィラの復讐をしないと……終われない」
バジルは壁と剣の助けで立ち上がった。
どうするの、とリズは目で問いかける。
「門で罠にかける。奥に仕掛けてた火薬を外して使って、結界も張ってくれ。
もしも間に合いそうになかったら俺が時間を稼ぐから」
うなずくしかないことは、もうわかっている。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
ベアトリスは奇妙なまでの無表情で、目だけを動かして刃を見下ろした。
男装の麗人は唇の端を歪めて言葉を続ける。
「ここで延々と喋ってても仕方ナイだろ? いい加減に結論を出しなよ。
死に損ないをどうしようが知ったことじゃないケド、お嬢さんに手を出そうっていう
ならボクが黙っていないよ」
「……」
「ついでに言うと、帰還した以上はボクも貴族の一員だ…残念ながらね。
ここにいるのは秘密裏とは言え、表向きにはウチと交流のあるこの町で、騒ぎを起こ
させるワケにはいかない。市民は時によって搾取される以上、常に保護されるべきだ。
たとえば…そう、たとえば、魔物が一人にでも被害を及ぼすとか」
「昔っからそうやって、都合のいいときばっかり」
「何を今更」
ライは黙り込んだままのセラフィナを横目にした。ひどく青ざめている。咄嗟に思い
ついて彼女の手を強く握ると、「あっ」と小さな声を上げて、痛そうに顔を歪めた。
「大丈夫だ。何が大丈夫なのかわからないけど、とにかく大丈夫。
今の状況も僕のことも、何も問題ない。早く帰ろう」
「でも」
問題のないことなんか一つもない。そんなことはわかっている。
セラフィナの表情を見てライは目を見開いた。彼女はこんなに弱かっただろうか。そ
んなはずはない。そう見えるとしたらライの錯覚に違いなかった。
ライは握った手を放し、立ち上がろうと膝を立てた。
「ごめんなさい……私がさらわれたりしなければ、こんなことにはならなかったのに。
私と一緒にいなければ……」
「そういうのは、後で、気が済むまで話し合おうか。
今は全部に反論する時間がなさそうだから」
曖昧に笑って立ち上がる。足元の血溜まりでブーツの裏が湿った音を立てた。
とりあえず誤魔化すためにカッコよさげなこと言ってみたけど、さてどうしよう。
目の前の二人をなんとかしないとな。なんとかってつまり、説得以外の方法しか通じ
そうにないけど。思いつきその一、実力行使。その二、実力行使。駄目だ、案が出ない。
セラフィナさんの前だから、できるだけ穏便に。
できなければ穏便でない方法でも構わない。何か考えないと……
「そうだ、セラフィナさん。前、針を使って人の動きを止めて、たよね」
「何をコソコソ話してるんだい?」
聞きつけたパトリシアが嗤った。ベアトリスは弾かれたように振り返った。パトリシ
アが剣を動かさなかったら、首は深く切れてしまっていただろう。皮膚の表面だけを掠
めた刃が、薄く赤い線を引く。彼女は「いやよ」とだけ叫んで手の中に光を生み出した。
「……悪いネ、ベティ。キミがいると話が進まないんだ」
柄と刃の握りを反転させたパトリシアが、その首筋に柄頭を叩き込んで昏倒させたの
はその一瞬後。倒れる彼女を抱きとめようと、セラフィナが飛び出した。
場所:港町ルクセン -廃城
-----------------------------------------------------------------------
「――“情けをかけろ”ッ!」
リズは悲鳴に似た声で呪文を叫んだ。輝く障壁が焔を受け、爆音と光を半減させる。
疾走で二人の間を抜けて難を逃れた金髪の男が小さく口笛を吹いた。
「さすが容赦ない」
「てめえはっ!?」
「もちろん、敵ダヨ」
刃が刃を滑る音。間髪いれず、二度目の爆音が障壁を揺るがした。
リズは舌打ちして、戦うバジルを横目に見る。三度目の炎。これでは援護できない。
彼は幽霊に随分と体力を奪われた。二人目の敵は手練だ。勝てる?
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
仇をとってあげるとか、そんな、まだ死んだわけじゃないんだから。
動けるだろうか? ベアトリスの魔法は強くない。冒険者と戦うことには別に不満は
なかったというか自分もそうしたかったからしなかったが、抵抗しようと思えばできな
いことはないだろうし、彼女がもっと魔法を強くすることは多分ないだろう。今の状態
が、恐らく、ライが耐えることができる限界だ。これ以上は……
眠くて頭がはたらかない。あのときのように目を閉じて意識を闇にゆだねてしまえば
楽になれるのだろうが、それがたぶん致命的な結果に繋がることは予想できていた。
よく覚えていないけど、あのときも――冗談みたいな量の血を吸った絨毯に倒れたま
ま、傷の痛みは麻痺して、寒さは眠気を誘って、立ち上がれたかも知れないのに、何も
かもすべてがどうでもよくなり、目を閉じた。ただ気が済むまで深く眠りたいという、
取り返しのつかない気の迷い。おなじ間違いを繰り返すわけにはいかない。一人ならと
もかく、今はセラフィナがいるのだから。
爆発音、剣戟。戦いの音はやまない。炎の熱気が髪を揺らす。
ライはゆっくりと顔を上げた。どちらが圧倒的に有利かは一目でわかった。仲が悪い
わりに連携はいい。速攻戦にして持久戦。前衛、後衛、どちらが力負けしても決着がつ
く。有効といえば有効だけど、自信がないとできない戦い方だ。
そんなことを考えながら眺めていると、ふいに、霞んでいた左の視界にノイズが走り、
鈍い痛みを覚えた。反射的に手で押さえる。崩れた眼窩からずり落ちかけていた眼球が
掌に圧迫されて、腐肉の間に押し込まれた。その感触に鳥肌が立つ。
「ライさん……?」
吐き気を堪えてうめく。セラフィナが小さく呼びかけるのが聞こえた。
喉の奥からこみ上げてきた何かを強引に飲み下し、何と答えようか迷いながら、首を
振る。セラフィナはベアトリスの様子を横目にしてから静かに駆け寄ってきた。
「……ひどい」
何が? ああ、この傷か。こんなものは……
ライは一瞬だけ実体を消して像を結びなおした。被っていた血がびちゃりと音を立て
て石の床を撥ね、血溜まりを作った。立った状態で実体を作り直したが、平衡感覚が狂
って膝が力を失う。床に手をついて倒れることはなくうずくまり、舌打ち。
床に接した服がすぐに赤黒く染められていく。
全身の痛みが消えたことで、痛みを感じていたのかと気がついた。
セラフィナが傍らに膝をついて、覗き込んできた。
「ライさん? 私の声が聞こえますか?」
「…聞こえ、て…るよ」
聞こえなかったことなどない。喋ると、喉が、ひどく乾いているときのように痛んだ。
口の中がべたべたして気持ち悪い。声は掠れていたが、聞き取れないことはなさそうだ
から気にしないことにしよう。
セラフィナは、ほっとしたように「よかった」と呟いた。
なんで僕が心配されているんだろう? ライはどうしようもなく困ってしまって、小
さく「大丈夫?」とだけ訊いた。セラフィナは泣き出しそうに表情を崩しで頷いた。
ライは目を逸らす。彼女が泣くはずがない。そんなことはわかっている。
悲鳴が聞こえた。女の高い声。剣のぶつかる音が絶えた。
ベアトリスが魔法を中断して目を凝らした。光で廊下の様子は見えなかったのだ。
「バジル!」
確かリズといったか――彼女の声だ。剣を片手に立つパトリシアと、その足元で膝を
つく男のシルエット。駆け寄るリズにパトリシアは剣を突きつけたがリズは退かなかっ
た。バジルの肩に手を置き、早口に唱える。
「“願いの声を聞き我々の前に道を示せ則を変え我々を――」
「逃がすと思うかい?」
酷薄な笑い声。パトリシアが細い剣を振るった。
ギィン、と音を立てて弾いたのはバジルの剣。魔力が残像を引き、パトリシアの刃を
半ばでへし折る。彼女の顔から笑みが消えたのが後姿しか見えなくてもわかった。
乾いた笑い声はバジルのものだ。してやったりという笑みは、一瞬だけパトリシアを
逸れてライと視線を合わせた。そこに本物の殺意を見つけてライはたじろいだ。
「――祈りの声を聞き我々の前に道を開け則を超え我々を連れて行け”!」
白い閃光。
光は一瞬で消え去った。廊下には、腕を翳して目を庇ったパトリシア。
その場から、冒険者たちの姿だけが忽然と消えていた。
「チクショウ!」
罵声を上げたのはベアトリスだった。少女が口にするにはあまり相応しくない罵りを
二、三言吐き捨て、彼女は振り返る。その表情がいっきに険しくなった。
「……セラフィナさん、何してるの?」
パトリシアが手にした剣を放り捨て、うつ伏せに倒れる男の死体から変わりを取り上
げた。彼女はベアトリスを横目で眺めたまま、まだ様子を窺うつもりのようだった。も
うとりあえずの敵はいなくなった。しばらくは邪魔が入らないだろう。
「いくら心配したって、セラフィナさんには何もできないでしょ!
それとも、ライのために死んでくれるって言うの? だったらすぐに殺してあげる。
あなた一人じゃぜんぜん足りないけど、いないよりはマシかも知れないわ」
「どういう意味、ですか?」
ベアトリスは嘲弄の表情を浮かべた。或いは些細な優越感。相手が知らないことを知
っていることへの。
「知らないの? 亡霊は人を喰らうのよ。人を殺して、その魂を自分の命に変えるの。
ライがこんなに弱ってるのは、それをしなかったからよ。近くにいるあなたが人が死
ぬのを嫌がったから我慢してたに決まってるわ。私だったら無理やりにでも――」
「……勘弁してよ、ティリー」
的外れではあったが、滴るような悪意の言葉。疲れた声でライが呟くと、彼女は虚を
突かれたように言葉を失った。歪んだ表情は、どこか泣きそうにも見えたが。
さっき、一瞬だけ彼女の様子に記憶の中の弟を重ねてしまったことを思い出す。だか
ら見捨てきれないのか? どう考えても、もう彼女とは道を違えてしまったというのに。
「ガキじゃないんだから」
ガキじゃないんだからそのくらいは自分でやるよ、という意味ではあったが、ガキじ
ゃないんだから我侭ばかり言うな、という意図がまったくないわけではなかった。
ベアトリスはどちらかの――或いは他の意味を読み取ってうつむき、顔を上げる。そ
の背後でパトリシアが動くのが見えた。
「……今すぐセラフィナさんを殺してみせてよ」
「それはダメだ、ベティ」
振り返った少女の首元に、ひたり、と、冷たい刃が当てられる。
パトリシアは相変わらずの余裕を感じさせる表情で言う。しかし彼女の手元には、剣
を握ることに慣れた者にしかわからないくらいわずかな躊躇があった。
「ボクはお姫さまに用があるんだって言ってるだろ?
それに……おもしろい見世物だったから見学していたケド、そろそろ飽きたな」
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
「バジル」
治癒の魔法は効果をあげて傷はふさがったが、失った体力はどうしようもない。壁に
背を預けたままのバジルはリズの声に反応しない。だが、彼が意識を保っているのは
確かだった。うつむきぎみの顔、虹彩の細い紫の瞳は宙を睨み続けている。彼が何を考
えているのかはわかりきっている。
暗闇に浮かぶ小さな魔法の光。日はとうに暮れてしまっている。
古城の二階。遠い距離を転移することはできなかった。一人なら、町まで帰れたかも
知れないが……そんなことに何の意味がある?
「バジル、しかたなかったんだ」
「そんなはずはない! 予定が狂ったんだ。
俺たちのうち誰かひとりでも欠けるような計画じゃなかった」
「失敗したんだ」
「まだだ」
双眸を不吉に底光りさせて、バジルはうめく。
リズは目を伏せた。何を言えばいいのだろう? 妹のように懐いてきた盗賊少女が、
いなくなってしまったというのに。
「……せめて仕事だけでも終わらせないと。
お姫さまを手に入れて、リフィラの復讐をしないと……終われない」
バジルは壁と剣の助けで立ち上がった。
どうするの、とリズは目で問いかける。
「門で罠にかける。奥に仕掛けてた火薬を外して使って、結界も張ってくれ。
もしも間に合いそうになかったら俺が時間を稼ぐから」
うなずくしかないことは、もうわかっている。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
ベアトリスは奇妙なまでの無表情で、目だけを動かして刃を見下ろした。
男装の麗人は唇の端を歪めて言葉を続ける。
「ここで延々と喋ってても仕方ナイだろ? いい加減に結論を出しなよ。
死に損ないをどうしようが知ったことじゃないケド、お嬢さんに手を出そうっていう
ならボクが黙っていないよ」
「……」
「ついでに言うと、帰還した以上はボクも貴族の一員だ…残念ながらね。
ここにいるのは秘密裏とは言え、表向きにはウチと交流のあるこの町で、騒ぎを起こ
させるワケにはいかない。市民は時によって搾取される以上、常に保護されるべきだ。
たとえば…そう、たとえば、魔物が一人にでも被害を及ぼすとか」
「昔っからそうやって、都合のいいときばっかり」
「何を今更」
ライは黙り込んだままのセラフィナを横目にした。ひどく青ざめている。咄嗟に思い
ついて彼女の手を強く握ると、「あっ」と小さな声を上げて、痛そうに顔を歪めた。
「大丈夫だ。何が大丈夫なのかわからないけど、とにかく大丈夫。
今の状況も僕のことも、何も問題ない。早く帰ろう」
「でも」
問題のないことなんか一つもない。そんなことはわかっている。
セラフィナの表情を見てライは目を見開いた。彼女はこんなに弱かっただろうか。そ
んなはずはない。そう見えるとしたらライの錯覚に違いなかった。
ライは握った手を放し、立ち上がろうと膝を立てた。
「ごめんなさい……私がさらわれたりしなければ、こんなことにはならなかったのに。
私と一緒にいなければ……」
「そういうのは、後で、気が済むまで話し合おうか。
今は全部に反論する時間がなさそうだから」
曖昧に笑って立ち上がる。足元の血溜まりでブーツの裏が湿った音を立てた。
とりあえず誤魔化すためにカッコよさげなこと言ってみたけど、さてどうしよう。
目の前の二人をなんとかしないとな。なんとかってつまり、説得以外の方法しか通じ
そうにないけど。思いつきその一、実力行使。その二、実力行使。駄目だ、案が出ない。
セラフィナさんの前だから、できるだけ穏便に。
できなければ穏便でない方法でも構わない。何か考えないと……
「そうだ、セラフィナさん。前、針を使って人の動きを止めて、たよね」
「何をコソコソ話してるんだい?」
聞きつけたパトリシアが嗤った。ベアトリスは弾かれたように振り返った。パトリシ
アが剣を動かさなかったら、首は深く切れてしまっていただろう。皮膚の表面だけを掠
めた刃が、薄く赤い線を引く。彼女は「いやよ」とだけ叫んで手の中に光を生み出した。
「……悪いネ、ベティ。キミがいると話が進まないんだ」
柄と刃の握りを反転させたパトリシアが、その首筋に柄頭を叩き込んで昏倒させたの
はその一瞬後。倒れる彼女を抱きとめようと、セラフィナが飛び出した。