人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン -廃城
-----------------------------------------------------------------------
「――“情けをかけろ”ッ!」
リズは悲鳴に似た声で呪文を叫んだ。輝く障壁が焔を受け、爆音と光を半減させる。
疾走で二人の間を抜けて難を逃れた金髪の男が小さく口笛を吹いた。
「さすが容赦ない」
「てめえはっ!?」
「もちろん、敵ダヨ」
刃が刃を滑る音。間髪いれず、二度目の爆音が障壁を揺るがした。
リズは舌打ちして、戦うバジルを横目に見る。三度目の炎。これでは援護できない。
彼は幽霊に随分と体力を奪われた。二人目の敵は手練だ。勝てる?
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
仇をとってあげるとか、そんな、まだ死んだわけじゃないんだから。
動けるだろうか? ベアトリスの魔法は強くない。冒険者と戦うことには別に不満は
なかったというか自分もそうしたかったからしなかったが、抵抗しようと思えばできな
いことはないだろうし、彼女がもっと魔法を強くすることは多分ないだろう。今の状態
が、恐らく、ライが耐えることができる限界だ。これ以上は……
眠くて頭がはたらかない。あのときのように目を閉じて意識を闇にゆだねてしまえば
楽になれるのだろうが、それがたぶん致命的な結果に繋がることは予想できていた。
よく覚えていないけど、あのときも――冗談みたいな量の血を吸った絨毯に倒れたま
ま、傷の痛みは麻痺して、寒さは眠気を誘って、立ち上がれたかも知れないのに、何も
かもすべてがどうでもよくなり、目を閉じた。ただ気が済むまで深く眠りたいという、
取り返しのつかない気の迷い。おなじ間違いを繰り返すわけにはいかない。一人ならと
もかく、今はセラフィナがいるのだから。
爆発音、剣戟。戦いの音はやまない。炎の熱気が髪を揺らす。
ライはゆっくりと顔を上げた。どちらが圧倒的に有利かは一目でわかった。仲が悪い
わりに連携はいい。速攻戦にして持久戦。前衛、後衛、どちらが力負けしても決着がつ
く。有効といえば有効だけど、自信がないとできない戦い方だ。
そんなことを考えながら眺めていると、ふいに、霞んでいた左の視界にノイズが走り、
鈍い痛みを覚えた。反射的に手で押さえる。崩れた眼窩からずり落ちかけていた眼球が
掌に圧迫されて、腐肉の間に押し込まれた。その感触に鳥肌が立つ。
「ライさん……?」
吐き気を堪えてうめく。セラフィナが小さく呼びかけるのが聞こえた。
喉の奥からこみ上げてきた何かを強引に飲み下し、何と答えようか迷いながら、首を
振る。セラフィナはベアトリスの様子を横目にしてから静かに駆け寄ってきた。
「……ひどい」
何が? ああ、この傷か。こんなものは……
ライは一瞬だけ実体を消して像を結びなおした。被っていた血がびちゃりと音を立て
て石の床を撥ね、血溜まりを作った。立った状態で実体を作り直したが、平衡感覚が狂
って膝が力を失う。床に手をついて倒れることはなくうずくまり、舌打ち。
床に接した服がすぐに赤黒く染められていく。
全身の痛みが消えたことで、痛みを感じていたのかと気がついた。
セラフィナが傍らに膝をついて、覗き込んできた。
「ライさん? 私の声が聞こえますか?」
「…聞こえ、て…るよ」
聞こえなかったことなどない。喋ると、喉が、ひどく乾いているときのように痛んだ。
口の中がべたべたして気持ち悪い。声は掠れていたが、聞き取れないことはなさそうだ
から気にしないことにしよう。
セラフィナは、ほっとしたように「よかった」と呟いた。
なんで僕が心配されているんだろう? ライはどうしようもなく困ってしまって、小
さく「大丈夫?」とだけ訊いた。セラフィナは泣き出しそうに表情を崩しで頷いた。
ライは目を逸らす。彼女が泣くはずがない。そんなことはわかっている。
悲鳴が聞こえた。女の高い声。剣のぶつかる音が絶えた。
ベアトリスが魔法を中断して目を凝らした。光で廊下の様子は見えなかったのだ。
「バジル!」
確かリズといったか――彼女の声だ。剣を片手に立つパトリシアと、その足元で膝を
つく男のシルエット。駆け寄るリズにパトリシアは剣を突きつけたがリズは退かなかっ
た。バジルの肩に手を置き、早口に唱える。
「“願いの声を聞き我々の前に道を示せ則を変え我々を――」
「逃がすと思うかい?」
酷薄な笑い声。パトリシアが細い剣を振るった。
ギィン、と音を立てて弾いたのはバジルの剣。魔力が残像を引き、パトリシアの刃を
半ばでへし折る。彼女の顔から笑みが消えたのが後姿しか見えなくてもわかった。
乾いた笑い声はバジルのものだ。してやったりという笑みは、一瞬だけパトリシアを
逸れてライと視線を合わせた。そこに本物の殺意を見つけてライはたじろいだ。
「――祈りの声を聞き我々の前に道を開け則を超え我々を連れて行け”!」
白い閃光。
光は一瞬で消え去った。廊下には、腕を翳して目を庇ったパトリシア。
その場から、冒険者たちの姿だけが忽然と消えていた。
「チクショウ!」
罵声を上げたのはベアトリスだった。少女が口にするにはあまり相応しくない罵りを
二、三言吐き捨て、彼女は振り返る。その表情がいっきに険しくなった。
「……セラフィナさん、何してるの?」
パトリシアが手にした剣を放り捨て、うつ伏せに倒れる男の死体から変わりを取り上
げた。彼女はベアトリスを横目で眺めたまま、まだ様子を窺うつもりのようだった。も
うとりあえずの敵はいなくなった。しばらくは邪魔が入らないだろう。
「いくら心配したって、セラフィナさんには何もできないでしょ!
それとも、ライのために死んでくれるって言うの? だったらすぐに殺してあげる。
あなた一人じゃぜんぜん足りないけど、いないよりはマシかも知れないわ」
「どういう意味、ですか?」
ベアトリスは嘲弄の表情を浮かべた。或いは些細な優越感。相手が知らないことを知
っていることへの。
「知らないの? 亡霊は人を喰らうのよ。人を殺して、その魂を自分の命に変えるの。
ライがこんなに弱ってるのは、それをしなかったからよ。近くにいるあなたが人が死
ぬのを嫌がったから我慢してたに決まってるわ。私だったら無理やりにでも――」
「……勘弁してよ、ティリー」
的外れではあったが、滴るような悪意の言葉。疲れた声でライが呟くと、彼女は虚を
突かれたように言葉を失った。歪んだ表情は、どこか泣きそうにも見えたが。
さっき、一瞬だけ彼女の様子に記憶の中の弟を重ねてしまったことを思い出す。だか
ら見捨てきれないのか? どう考えても、もう彼女とは道を違えてしまったというのに。
「ガキじゃないんだから」
ガキじゃないんだからそのくらいは自分でやるよ、という意味ではあったが、ガキじ
ゃないんだから我侭ばかり言うな、という意図がまったくないわけではなかった。
ベアトリスはどちらかの――或いは他の意味を読み取ってうつむき、顔を上げる。そ
の背後でパトリシアが動くのが見えた。
「……今すぐセラフィナさんを殺してみせてよ」
「それはダメだ、ベティ」
振り返った少女の首元に、ひたり、と、冷たい刃が当てられる。
パトリシアは相変わらずの余裕を感じさせる表情で言う。しかし彼女の手元には、剣
を握ることに慣れた者にしかわからないくらいわずかな躊躇があった。
「ボクはお姫さまに用があるんだって言ってるだろ?
それに……おもしろい見世物だったから見学していたケド、そろそろ飽きたな」
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
「バジル」
治癒の魔法は効果をあげて傷はふさがったが、失った体力はどうしようもない。壁に
背を預けたままのバジルはリズの声に反応しない。だが、彼が意識を保っているのは
確かだった。うつむきぎみの顔、虹彩の細い紫の瞳は宙を睨み続けている。彼が何を考
えているのかはわかりきっている。
暗闇に浮かぶ小さな魔法の光。日はとうに暮れてしまっている。
古城の二階。遠い距離を転移することはできなかった。一人なら、町まで帰れたかも
知れないが……そんなことに何の意味がある?
「バジル、しかたなかったんだ」
「そんなはずはない! 予定が狂ったんだ。
俺たちのうち誰かひとりでも欠けるような計画じゃなかった」
「失敗したんだ」
「まだだ」
双眸を不吉に底光りさせて、バジルはうめく。
リズは目を伏せた。何を言えばいいのだろう? 妹のように懐いてきた盗賊少女が、
いなくなってしまったというのに。
「……せめて仕事だけでも終わらせないと。
お姫さまを手に入れて、リフィラの復讐をしないと……終われない」
バジルは壁と剣の助けで立ち上がった。
どうするの、とリズは目で問いかける。
「門で罠にかける。奥に仕掛けてた火薬を外して使って、結界も張ってくれ。
もしも間に合いそうになかったら俺が時間を稼ぐから」
うなずくしかないことは、もうわかっている。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
ベアトリスは奇妙なまでの無表情で、目だけを動かして刃を見下ろした。
男装の麗人は唇の端を歪めて言葉を続ける。
「ここで延々と喋ってても仕方ナイだろ? いい加減に結論を出しなよ。
死に損ないをどうしようが知ったことじゃないケド、お嬢さんに手を出そうっていう
ならボクが黙っていないよ」
「……」
「ついでに言うと、帰還した以上はボクも貴族の一員だ…残念ながらね。
ここにいるのは秘密裏とは言え、表向きにはウチと交流のあるこの町で、騒ぎを起こ
させるワケにはいかない。市民は時によって搾取される以上、常に保護されるべきだ。
たとえば…そう、たとえば、魔物が一人にでも被害を及ぼすとか」
「昔っからそうやって、都合のいいときばっかり」
「何を今更」
ライは黙り込んだままのセラフィナを横目にした。ひどく青ざめている。咄嗟に思い
ついて彼女の手を強く握ると、「あっ」と小さな声を上げて、痛そうに顔を歪めた。
「大丈夫だ。何が大丈夫なのかわからないけど、とにかく大丈夫。
今の状況も僕のことも、何も問題ない。早く帰ろう」
「でも」
問題のないことなんか一つもない。そんなことはわかっている。
セラフィナの表情を見てライは目を見開いた。彼女はこんなに弱かっただろうか。そ
んなはずはない。そう見えるとしたらライの錯覚に違いなかった。
ライは握った手を放し、立ち上がろうと膝を立てた。
「ごめんなさい……私がさらわれたりしなければ、こんなことにはならなかったのに。
私と一緒にいなければ……」
「そういうのは、後で、気が済むまで話し合おうか。
今は全部に反論する時間がなさそうだから」
曖昧に笑って立ち上がる。足元の血溜まりでブーツの裏が湿った音を立てた。
とりあえず誤魔化すためにカッコよさげなこと言ってみたけど、さてどうしよう。
目の前の二人をなんとかしないとな。なんとかってつまり、説得以外の方法しか通じ
そうにないけど。思いつきその一、実力行使。その二、実力行使。駄目だ、案が出ない。
セラフィナさんの前だから、できるだけ穏便に。
できなければ穏便でない方法でも構わない。何か考えないと……
「そうだ、セラフィナさん。前、針を使って人の動きを止めて、たよね」
「何をコソコソ話してるんだい?」
聞きつけたパトリシアが嗤った。ベアトリスは弾かれたように振り返った。パトリシ
アが剣を動かさなかったら、首は深く切れてしまっていただろう。皮膚の表面だけを掠
めた刃が、薄く赤い線を引く。彼女は「いやよ」とだけ叫んで手の中に光を生み出した。
「……悪いネ、ベティ。キミがいると話が進まないんだ」
柄と刃の握りを反転させたパトリシアが、その首筋に柄頭を叩き込んで昏倒させたの
はその一瞬後。倒れる彼女を抱きとめようと、セラフィナが飛び出した。
場所:港町ルクセン -廃城
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「――“情けをかけろ”ッ!」
リズは悲鳴に似た声で呪文を叫んだ。輝く障壁が焔を受け、爆音と光を半減させる。
疾走で二人の間を抜けて難を逃れた金髪の男が小さく口笛を吹いた。
「さすが容赦ない」
「てめえはっ!?」
「もちろん、敵ダヨ」
刃が刃を滑る音。間髪いれず、二度目の爆音が障壁を揺るがした。
リズは舌打ちして、戦うバジルを横目に見る。三度目の炎。これでは援護できない。
彼は幽霊に随分と体力を奪われた。二人目の敵は手練だ。勝てる?
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
仇をとってあげるとか、そんな、まだ死んだわけじゃないんだから。
動けるだろうか? ベアトリスの魔法は強くない。冒険者と戦うことには別に不満は
なかったというか自分もそうしたかったからしなかったが、抵抗しようと思えばできな
いことはないだろうし、彼女がもっと魔法を強くすることは多分ないだろう。今の状態
が、恐らく、ライが耐えることができる限界だ。これ以上は……
眠くて頭がはたらかない。あのときのように目を閉じて意識を闇にゆだねてしまえば
楽になれるのだろうが、それがたぶん致命的な結果に繋がることは予想できていた。
よく覚えていないけど、あのときも――冗談みたいな量の血を吸った絨毯に倒れたま
ま、傷の痛みは麻痺して、寒さは眠気を誘って、立ち上がれたかも知れないのに、何も
かもすべてがどうでもよくなり、目を閉じた。ただ気が済むまで深く眠りたいという、
取り返しのつかない気の迷い。おなじ間違いを繰り返すわけにはいかない。一人ならと
もかく、今はセラフィナがいるのだから。
爆発音、剣戟。戦いの音はやまない。炎の熱気が髪を揺らす。
ライはゆっくりと顔を上げた。どちらが圧倒的に有利かは一目でわかった。仲が悪い
わりに連携はいい。速攻戦にして持久戦。前衛、後衛、どちらが力負けしても決着がつ
く。有効といえば有効だけど、自信がないとできない戦い方だ。
そんなことを考えながら眺めていると、ふいに、霞んでいた左の視界にノイズが走り、
鈍い痛みを覚えた。反射的に手で押さえる。崩れた眼窩からずり落ちかけていた眼球が
掌に圧迫されて、腐肉の間に押し込まれた。その感触に鳥肌が立つ。
「ライさん……?」
吐き気を堪えてうめく。セラフィナが小さく呼びかけるのが聞こえた。
喉の奥からこみ上げてきた何かを強引に飲み下し、何と答えようか迷いながら、首を
振る。セラフィナはベアトリスの様子を横目にしてから静かに駆け寄ってきた。
「……ひどい」
何が? ああ、この傷か。こんなものは……
ライは一瞬だけ実体を消して像を結びなおした。被っていた血がびちゃりと音を立て
て石の床を撥ね、血溜まりを作った。立った状態で実体を作り直したが、平衡感覚が狂
って膝が力を失う。床に手をついて倒れることはなくうずくまり、舌打ち。
床に接した服がすぐに赤黒く染められていく。
全身の痛みが消えたことで、痛みを感じていたのかと気がついた。
セラフィナが傍らに膝をついて、覗き込んできた。
「ライさん? 私の声が聞こえますか?」
「…聞こえ、て…るよ」
聞こえなかったことなどない。喋ると、喉が、ひどく乾いているときのように痛んだ。
口の中がべたべたして気持ち悪い。声は掠れていたが、聞き取れないことはなさそうだ
から気にしないことにしよう。
セラフィナは、ほっとしたように「よかった」と呟いた。
なんで僕が心配されているんだろう? ライはどうしようもなく困ってしまって、小
さく「大丈夫?」とだけ訊いた。セラフィナは泣き出しそうに表情を崩しで頷いた。
ライは目を逸らす。彼女が泣くはずがない。そんなことはわかっている。
悲鳴が聞こえた。女の高い声。剣のぶつかる音が絶えた。
ベアトリスが魔法を中断して目を凝らした。光で廊下の様子は見えなかったのだ。
「バジル!」
確かリズといったか――彼女の声だ。剣を片手に立つパトリシアと、その足元で膝を
つく男のシルエット。駆け寄るリズにパトリシアは剣を突きつけたがリズは退かなかっ
た。バジルの肩に手を置き、早口に唱える。
「“願いの声を聞き我々の前に道を示せ則を変え我々を――」
「逃がすと思うかい?」
酷薄な笑い声。パトリシアが細い剣を振るった。
ギィン、と音を立てて弾いたのはバジルの剣。魔力が残像を引き、パトリシアの刃を
半ばでへし折る。彼女の顔から笑みが消えたのが後姿しか見えなくてもわかった。
乾いた笑い声はバジルのものだ。してやったりという笑みは、一瞬だけパトリシアを
逸れてライと視線を合わせた。そこに本物の殺意を見つけてライはたじろいだ。
「――祈りの声を聞き我々の前に道を開け則を超え我々を連れて行け”!」
白い閃光。
光は一瞬で消え去った。廊下には、腕を翳して目を庇ったパトリシア。
その場から、冒険者たちの姿だけが忽然と消えていた。
「チクショウ!」
罵声を上げたのはベアトリスだった。少女が口にするにはあまり相応しくない罵りを
二、三言吐き捨て、彼女は振り返る。その表情がいっきに険しくなった。
「……セラフィナさん、何してるの?」
パトリシアが手にした剣を放り捨て、うつ伏せに倒れる男の死体から変わりを取り上
げた。彼女はベアトリスを横目で眺めたまま、まだ様子を窺うつもりのようだった。も
うとりあえずの敵はいなくなった。しばらくは邪魔が入らないだろう。
「いくら心配したって、セラフィナさんには何もできないでしょ!
それとも、ライのために死んでくれるって言うの? だったらすぐに殺してあげる。
あなた一人じゃぜんぜん足りないけど、いないよりはマシかも知れないわ」
「どういう意味、ですか?」
ベアトリスは嘲弄の表情を浮かべた。或いは些細な優越感。相手が知らないことを知
っていることへの。
「知らないの? 亡霊は人を喰らうのよ。人を殺して、その魂を自分の命に変えるの。
ライがこんなに弱ってるのは、それをしなかったからよ。近くにいるあなたが人が死
ぬのを嫌がったから我慢してたに決まってるわ。私だったら無理やりにでも――」
「……勘弁してよ、ティリー」
的外れではあったが、滴るような悪意の言葉。疲れた声でライが呟くと、彼女は虚を
突かれたように言葉を失った。歪んだ表情は、どこか泣きそうにも見えたが。
さっき、一瞬だけ彼女の様子に記憶の中の弟を重ねてしまったことを思い出す。だか
ら見捨てきれないのか? どう考えても、もう彼女とは道を違えてしまったというのに。
「ガキじゃないんだから」
ガキじゃないんだからそのくらいは自分でやるよ、という意味ではあったが、ガキじ
ゃないんだから我侭ばかり言うな、という意図がまったくないわけではなかった。
ベアトリスはどちらかの――或いは他の意味を読み取ってうつむき、顔を上げる。そ
の背後でパトリシアが動くのが見えた。
「……今すぐセラフィナさんを殺してみせてよ」
「それはダメだ、ベティ」
振り返った少女の首元に、ひたり、と、冷たい刃が当てられる。
パトリシアは相変わらずの余裕を感じさせる表情で言う。しかし彼女の手元には、剣
を握ることに慣れた者にしかわからないくらいわずかな躊躇があった。
「ボクはお姫さまに用があるんだって言ってるだろ?
それに……おもしろい見世物だったから見学していたケド、そろそろ飽きたな」
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
「バジル」
治癒の魔法は効果をあげて傷はふさがったが、失った体力はどうしようもない。壁に
背を預けたままのバジルはリズの声に反応しない。だが、彼が意識を保っているのは
確かだった。うつむきぎみの顔、虹彩の細い紫の瞳は宙を睨み続けている。彼が何を考
えているのかはわかりきっている。
暗闇に浮かぶ小さな魔法の光。日はとうに暮れてしまっている。
古城の二階。遠い距離を転移することはできなかった。一人なら、町まで帰れたかも
知れないが……そんなことに何の意味がある?
「バジル、しかたなかったんだ」
「そんなはずはない! 予定が狂ったんだ。
俺たちのうち誰かひとりでも欠けるような計画じゃなかった」
「失敗したんだ」
「まだだ」
双眸を不吉に底光りさせて、バジルはうめく。
リズは目を伏せた。何を言えばいいのだろう? 妹のように懐いてきた盗賊少女が、
いなくなってしまったというのに。
「……せめて仕事だけでも終わらせないと。
お姫さまを手に入れて、リフィラの復讐をしないと……終われない」
バジルは壁と剣の助けで立ち上がった。
どうするの、とリズは目で問いかける。
「門で罠にかける。奥に仕掛けてた火薬を外して使って、結界も張ってくれ。
もしも間に合いそうになかったら俺が時間を稼ぐから」
うなずくしかないことは、もうわかっている。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
ベアトリスは奇妙なまでの無表情で、目だけを動かして刃を見下ろした。
男装の麗人は唇の端を歪めて言葉を続ける。
「ここで延々と喋ってても仕方ナイだろ? いい加減に結論を出しなよ。
死に損ないをどうしようが知ったことじゃないケド、お嬢さんに手を出そうっていう
ならボクが黙っていないよ」
「……」
「ついでに言うと、帰還した以上はボクも貴族の一員だ…残念ながらね。
ここにいるのは秘密裏とは言え、表向きにはウチと交流のあるこの町で、騒ぎを起こ
させるワケにはいかない。市民は時によって搾取される以上、常に保護されるべきだ。
たとえば…そう、たとえば、魔物が一人にでも被害を及ぼすとか」
「昔っからそうやって、都合のいいときばっかり」
「何を今更」
ライは黙り込んだままのセラフィナを横目にした。ひどく青ざめている。咄嗟に思い
ついて彼女の手を強く握ると、「あっ」と小さな声を上げて、痛そうに顔を歪めた。
「大丈夫だ。何が大丈夫なのかわからないけど、とにかく大丈夫。
今の状況も僕のことも、何も問題ない。早く帰ろう」
「でも」
問題のないことなんか一つもない。そんなことはわかっている。
セラフィナの表情を見てライは目を見開いた。彼女はこんなに弱かっただろうか。そ
んなはずはない。そう見えるとしたらライの錯覚に違いなかった。
ライは握った手を放し、立ち上がろうと膝を立てた。
「ごめんなさい……私がさらわれたりしなければ、こんなことにはならなかったのに。
私と一緒にいなければ……」
「そういうのは、後で、気が済むまで話し合おうか。
今は全部に反論する時間がなさそうだから」
曖昧に笑って立ち上がる。足元の血溜まりでブーツの裏が湿った音を立てた。
とりあえず誤魔化すためにカッコよさげなこと言ってみたけど、さてどうしよう。
目の前の二人をなんとかしないとな。なんとかってつまり、説得以外の方法しか通じ
そうにないけど。思いつきその一、実力行使。その二、実力行使。駄目だ、案が出ない。
セラフィナさんの前だから、できるだけ穏便に。
できなければ穏便でない方法でも構わない。何か考えないと……
「そうだ、セラフィナさん。前、針を使って人の動きを止めて、たよね」
「何をコソコソ話してるんだい?」
聞きつけたパトリシアが嗤った。ベアトリスは弾かれたように振り返った。パトリシ
アが剣を動かさなかったら、首は深く切れてしまっていただろう。皮膚の表面だけを掠
めた刃が、薄く赤い線を引く。彼女は「いやよ」とだけ叫んで手の中に光を生み出した。
「……悪いネ、ベティ。キミがいると話が進まないんだ」
柄と刃の握りを反転させたパトリシアが、その首筋に柄頭を叩き込んで昏倒させたの
はその一瞬後。倒れる彼女を抱きとめようと、セラフィナが飛び出した。
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