人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン -廃城
-----------------------------------------------------------------------
――すぐにぜんぶ終わらせるから、それまで大人しくしていてよ。
諦めばかりを含んだ声は縋るようだったが、懇願というには命令に近すぎた。少なく
とも魔法的な響きを帯びていれば、それは簡単に凶器になり、鎖になる。だからベアト
リスの実際の意図がどうだったとしても、それに魔力を乗せてしまった時点で、もう、
強制にしかならないのだ。
いつの間にか覚醒していた意識が、ようやくそのことを認識した。
視界が飴色に濁っている。無理やり現実に現した体を動かそうとするたびに体内のど
こかで軋むような感じがしたが、それがベアトリスの魔法の効果なのか――それとも、
ただ、彼女の扱った魔力に耐えられなかったせいでひどく消耗しているのか、どちらと
も判断がつかなかった。そして、つけなければならない判断だった。でないと手遅れに
なる。
早くセラフィナさんを助けないと。周りで騒ぎが起こっている気配を感じる。冒険者
たちが動き出したのだろうか。状況を見極めるために、動かなければ。
脚に力が入らず、立ち上がれない。何故?
何を今更。動けなくて当然だ。可能だと思う方がおかしい。
傷つき、壊れた体では人間は動けない。疑うまでもないことだ。
眼球だけを動かして、周囲を見渡す。ここはどこだ。暗くてよくわからない。
深呼吸。肺に空気を取り込むと、息苦しいような錯覚を覚えた。
誰か助けてくれ。違う。僕が助けに行かないといけないんだ。
「何者だ!」
乱暴な声。階段をのぼってくる音。階段。ここはさっき、ベアトリスに会った場所だ。
彼女はどこかへ行ってしまったようだが。
「……おい、ここで何をしている」
ライは無言で目線だけを上げた。
目の前に黒いフードの男が立っていた。手に明りを持っているようだが、その光さえ
も暗く見える。視界は、砂糖を焦がす直前まで熱したような色だ。色彩がよくわからな
いが、黒と白だけはなんとなくわかりそうな気がした。
視界の右半分が霞んでいることに気づいたが、今まで両目が完全に機能していたこと
が(実際には視覚ではないが、自分が視覚だと認識している機能が生きていたことが)
不思議だった。壊れるべき体はもうないはずなのに、幻さえも少しずつ朽ちていく。何
度も嘆いた。そして、そのことにすらもう疑問を覚えなくなった。
「いつの間に入り込んだんだ? ここは領主様の建物だぞ」
そんなことは知っている。僕はここに、セラフィナさんを助けるために来たんだ。
声を出すのが億劫だったので投げやりな目で相手を見据えた。男の手元には小さな明
りがある。
男に、壁にもたれて座り込んでいるだけのライを敵と認識するだけの思い切りのよさ
はなかったらしい。更に近づいてきて、ぎょっとした顔をした。
「どうした、敵か」
「いや……」
もう一人がやってきた。声をかけられて、先に来た男は困惑したようにこちらを示す。
遠くで聞こえていた物音は減り、周囲は静まり返ろうとしている。男たちは焦っている
ようだった。何が起こっていたのかは、予想はつくが、よくわからない。だが、奇襲と
いうのは一瞬で勝負をつけるものだ。だとしたらもう結果は出ようとしているのだろう
し、目の前の二人は、幸運にも、事態から取り残されかけている。
「死体?」
「さっき、少し動いたような」
死体呼ばわりは不本意だ。ただ、動けないだけで――絶対に無理だということはない
だろうが、ひどく骨が折れそうだから動かないだけで、意識はあるし、話も聞いている。
呼吸どころか心臓が動いている様子さえない人間を何と表現するかは、死体以外にはな
いだろうが、やはり不本意だ。僕はまだ死んでいない。
気味の悪いものを見る視線が注がれるのを感じた。
「……まさか」
「なんでこんなところに。特に今は、部外者はマズいってのによ」
覗きこんでくる。無視するには鬱陶しかったので、ライはそれを諦めた。全身が重い。
水飴の中でもがくように、右腕を上げる。男は驚いたようだったが、ゆっくり動かした
はずの腕は、彼が身を引く前に、喉もとの布を掴んでいた。
「っ!」
一度動いてしまえば動けるようだった。逆の手で壁に縋って立ち上がる。
“大人しくしていてよ”――魔法に逆らったため頭痛が引き起こされるが、目の前でう
るさく言われ続けるよりも、ずっとマシだ。
「なんだ!?」
「……うるさいな。頭に響く……」
ライは、一度だけ荒く吐息した。半ば無意識のうちに体が動く。
指先で素早くフード越しの鎖骨の位置を確認して、脳裏で相手の体格を想像する。左
手に剣を握り、低い位置から斜め上へ。肋骨のすぐ下を狙って差し込む。刃が脂肪と筋
肉を貫いて肺を抉った。背中側の肋骨の表面に切っ先がぶつかる感触が掌に伝わり鳥肌
が立つ。ぞくりと背筋を駆け上がったのは、悪寒か、それとも。
剣を消し、放してやると男は倒れた。
驚愕の表情で討ちかかってきた二人目を仕留めてから、人を殺したことにようやく気
づいた。錯乱するかも知れない、と思ってから、そんな思考をすることができるなら大
丈夫だと考え直す。冷静だ。気分は冷めたまま高揚している。
これなら何人でも何十人でも殺せる。あれほど恐れていた人殺しは、自分の精神に何
の影響も与えていない。ならば大丈夫だ。いくらでも殺せる。人間だったころは数え切
れないほど殺したのだから、今更、その行為を否定していたことの方がおかしかったの
ではないか?
そうだ、今までが間違っていたのだ。我慢することなんかなかった。
どこかで常に張り詰めていた緊張の糸が切れたような気がした。血のにおいがする暗
闇の中だというのに気分が落ち着いた。或いは、血のにおいがする暗闇の中だから気分
が落ち着いた。
「……」
血濡れの刃を見下ろして露を払い、足元の死体を踏み越えて、ライは階段を降りた。
セラフィナは一階のどこかにいる。早く探し出して、邪魔があるなら排除して、彼女
を取り戻しにいこう。頭が痛いし視界は霞んでいる。体は重いし動くたびに違和感と軋
みがある。だけどまだ動けるから、早く彼女を取り戻しにいこう。
後から出てきたくせに彼女を奪おうなんて、ふざけている。僕が先に見つけたんだ。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
廊下を進みながら三人を斬り伏せた。その間に五度は斬られて、三度、体を再構築し
なおした。四度目からは再び実体化できるという自信がなかったから諦めた。
調子は最悪へ転がり落ちていく。最悪とは、最も悪いということだ。その記録は常に
更新され続けているようで限度がない。昔の自分に「その程度で最悪なんて言うな」と
か嘲笑でも降らしてやればいいのだろうか。でもそれは僕のキャラじゃない。
おぼつかない足取りで、たまに壁に手を突いて。
左の肩が痛むのはさっき長剣の一撃を避け切れなかった怪我を放置しているからで、
あまり切れ味がいいとは言えない刀身を振り下ろされた肩は、切り裂かれたというより
は砕かれたに近い。
「――!」
更に一人。
暗闇から飛び出しざまに、ためらいなく、頭部を狙って刃を走らせる。戦いのときだ
け体は俊敏に動いた。切っ先は皮膚を裂いて頬骨の表面を滑る。甲高い悲鳴が上がる。
返し刃は口腔へ。強引に突っ込んで貫く。
肉を断つ感触が金属を伝い、生々しく掌に残る。
相手は黒フードではなかったが、死体にしてしまえばおなじことだった。ここにいる
人間は、セラフィナ以外、みんな敵だ。
ふいに、何のために殺しているのだろうと疑問に思った。すぐに思い出す。そうだ、
セラフィナさんを取り返すために。彼女は殺しをよく思わないだろうが、これは、目的
こそ彼女を助けることだけど――自分のためにやっているのだ。彼女のことが欲しいか
らこんなことをしているのであって、土壇場で拒絶されたところでその意志を翻したり
はしない。浚ってでも連れて行くつもりだ。どこへ? どこでもいい。
これは恋愛感情だろうか。引き離されて相手の大切さに気づくとか、そういうのは確
かに好まれそうな設定だけど、現実は、そうそう物語じみていない。彼女を手に入れた
い。どんな形で? 自問して答えを思いつくとライは薄く笑った。
現実は物語よりも醜悪だ。
闇に包まれた古城は無音に閉ざされようとしていた。
あちこちに死人が転がっている他、戦いの音も最早途絶えた。
生き残りも誰かに殺されるか、ライが殺すかしてしまったので、生きている人間の姿
そのものも見なくなった。それほど広い建物でもないのに、それらしい場所に辿り着く
ために随分と労力を使ってしまった。
壁に縋って、剣を投げ捨て、べたべたする髪をかき上げる。返り血が手袋に付着した。
かなり血を被ってしまったらしい。浴びたのと大して変わらないくらい。
あまり気分がよくないので幻を消して再構成するか――消すのは簡単だが、作り直す
のは無理そうだ。つらくてもこのまま維持した方がいい。肩が痛む。だが痛みならばさ
っきから頭痛がすごいし、体中が鈍痛と錯覚するようなだるさを訴えている。
右目が霞むのを気にして手の甲でこする。周りの皮膚や肉が崩れるのを感じて慌てて
手を離し、手袋の甲を見ると、ぐちゃぐちゃに変色した腐肉がこびりついている。
「あーあ……またやっちゃったよ」
遅まきながら、この不調は魔法の効果が問題なのではないと確信した。
困ったなぁと苦笑しながら、またふらふらと歩き出す。
やがて、行く手に、扉のない部屋が見えた。
部屋からは明りが漏れていて、人の気配がする。
少なくとも、二人か三人。
他にもいるかも知れないが、少なくとも動いていない。
「……」
中から聞こえた話し声にセラフィナのそれが混ざっていたから、ライは、新しく剣を
握って、気配を殺した。逸る心を落ち着かせようと無駄な努力を試みながら歩き出す。
早足になって駆け足になって、飛び込む。
「セラフィナさん!」
――銀光。
横手から振るわれた剣を、辛うじて飛び退り、躱す。
ライは敵を確認すると無言で斬りかかった。
場所:港町ルクセン -廃城
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――すぐにぜんぶ終わらせるから、それまで大人しくしていてよ。
諦めばかりを含んだ声は縋るようだったが、懇願というには命令に近すぎた。少なく
とも魔法的な響きを帯びていれば、それは簡単に凶器になり、鎖になる。だからベアト
リスの実際の意図がどうだったとしても、それに魔力を乗せてしまった時点で、もう、
強制にしかならないのだ。
いつの間にか覚醒していた意識が、ようやくそのことを認識した。
視界が飴色に濁っている。無理やり現実に現した体を動かそうとするたびに体内のど
こかで軋むような感じがしたが、それがベアトリスの魔法の効果なのか――それとも、
ただ、彼女の扱った魔力に耐えられなかったせいでひどく消耗しているのか、どちらと
も判断がつかなかった。そして、つけなければならない判断だった。でないと手遅れに
なる。
早くセラフィナさんを助けないと。周りで騒ぎが起こっている気配を感じる。冒険者
たちが動き出したのだろうか。状況を見極めるために、動かなければ。
脚に力が入らず、立ち上がれない。何故?
何を今更。動けなくて当然だ。可能だと思う方がおかしい。
傷つき、壊れた体では人間は動けない。疑うまでもないことだ。
眼球だけを動かして、周囲を見渡す。ここはどこだ。暗くてよくわからない。
深呼吸。肺に空気を取り込むと、息苦しいような錯覚を覚えた。
誰か助けてくれ。違う。僕が助けに行かないといけないんだ。
「何者だ!」
乱暴な声。階段をのぼってくる音。階段。ここはさっき、ベアトリスに会った場所だ。
彼女はどこかへ行ってしまったようだが。
「……おい、ここで何をしている」
ライは無言で目線だけを上げた。
目の前に黒いフードの男が立っていた。手に明りを持っているようだが、その光さえ
も暗く見える。視界は、砂糖を焦がす直前まで熱したような色だ。色彩がよくわからな
いが、黒と白だけはなんとなくわかりそうな気がした。
視界の右半分が霞んでいることに気づいたが、今まで両目が完全に機能していたこと
が(実際には視覚ではないが、自分が視覚だと認識している機能が生きていたことが)
不思議だった。壊れるべき体はもうないはずなのに、幻さえも少しずつ朽ちていく。何
度も嘆いた。そして、そのことにすらもう疑問を覚えなくなった。
「いつの間に入り込んだんだ? ここは領主様の建物だぞ」
そんなことは知っている。僕はここに、セラフィナさんを助けるために来たんだ。
声を出すのが億劫だったので投げやりな目で相手を見据えた。男の手元には小さな明
りがある。
男に、壁にもたれて座り込んでいるだけのライを敵と認識するだけの思い切りのよさ
はなかったらしい。更に近づいてきて、ぎょっとした顔をした。
「どうした、敵か」
「いや……」
もう一人がやってきた。声をかけられて、先に来た男は困惑したようにこちらを示す。
遠くで聞こえていた物音は減り、周囲は静まり返ろうとしている。男たちは焦っている
ようだった。何が起こっていたのかは、予想はつくが、よくわからない。だが、奇襲と
いうのは一瞬で勝負をつけるものだ。だとしたらもう結果は出ようとしているのだろう
し、目の前の二人は、幸運にも、事態から取り残されかけている。
「死体?」
「さっき、少し動いたような」
死体呼ばわりは不本意だ。ただ、動けないだけで――絶対に無理だということはない
だろうが、ひどく骨が折れそうだから動かないだけで、意識はあるし、話も聞いている。
呼吸どころか心臓が動いている様子さえない人間を何と表現するかは、死体以外にはな
いだろうが、やはり不本意だ。僕はまだ死んでいない。
気味の悪いものを見る視線が注がれるのを感じた。
「……まさか」
「なんでこんなところに。特に今は、部外者はマズいってのによ」
覗きこんでくる。無視するには鬱陶しかったので、ライはそれを諦めた。全身が重い。
水飴の中でもがくように、右腕を上げる。男は驚いたようだったが、ゆっくり動かした
はずの腕は、彼が身を引く前に、喉もとの布を掴んでいた。
「っ!」
一度動いてしまえば動けるようだった。逆の手で壁に縋って立ち上がる。
“大人しくしていてよ”――魔法に逆らったため頭痛が引き起こされるが、目の前でう
るさく言われ続けるよりも、ずっとマシだ。
「なんだ!?」
「……うるさいな。頭に響く……」
ライは、一度だけ荒く吐息した。半ば無意識のうちに体が動く。
指先で素早くフード越しの鎖骨の位置を確認して、脳裏で相手の体格を想像する。左
手に剣を握り、低い位置から斜め上へ。肋骨のすぐ下を狙って差し込む。刃が脂肪と筋
肉を貫いて肺を抉った。背中側の肋骨の表面に切っ先がぶつかる感触が掌に伝わり鳥肌
が立つ。ぞくりと背筋を駆け上がったのは、悪寒か、それとも。
剣を消し、放してやると男は倒れた。
驚愕の表情で討ちかかってきた二人目を仕留めてから、人を殺したことにようやく気
づいた。錯乱するかも知れない、と思ってから、そんな思考をすることができるなら大
丈夫だと考え直す。冷静だ。気分は冷めたまま高揚している。
これなら何人でも何十人でも殺せる。あれほど恐れていた人殺しは、自分の精神に何
の影響も与えていない。ならば大丈夫だ。いくらでも殺せる。人間だったころは数え切
れないほど殺したのだから、今更、その行為を否定していたことの方がおかしかったの
ではないか?
そうだ、今までが間違っていたのだ。我慢することなんかなかった。
どこかで常に張り詰めていた緊張の糸が切れたような気がした。血のにおいがする暗
闇の中だというのに気分が落ち着いた。或いは、血のにおいがする暗闇の中だから気分
が落ち着いた。
「……」
血濡れの刃を見下ろして露を払い、足元の死体を踏み越えて、ライは階段を降りた。
セラフィナは一階のどこかにいる。早く探し出して、邪魔があるなら排除して、彼女
を取り戻しにいこう。頭が痛いし視界は霞んでいる。体は重いし動くたびに違和感と軋
みがある。だけどまだ動けるから、早く彼女を取り戻しにいこう。
後から出てきたくせに彼女を奪おうなんて、ふざけている。僕が先に見つけたんだ。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
廊下を進みながら三人を斬り伏せた。その間に五度は斬られて、三度、体を再構築し
なおした。四度目からは再び実体化できるという自信がなかったから諦めた。
調子は最悪へ転がり落ちていく。最悪とは、最も悪いということだ。その記録は常に
更新され続けているようで限度がない。昔の自分に「その程度で最悪なんて言うな」と
か嘲笑でも降らしてやればいいのだろうか。でもそれは僕のキャラじゃない。
おぼつかない足取りで、たまに壁に手を突いて。
左の肩が痛むのはさっき長剣の一撃を避け切れなかった怪我を放置しているからで、
あまり切れ味がいいとは言えない刀身を振り下ろされた肩は、切り裂かれたというより
は砕かれたに近い。
「――!」
更に一人。
暗闇から飛び出しざまに、ためらいなく、頭部を狙って刃を走らせる。戦いのときだ
け体は俊敏に動いた。切っ先は皮膚を裂いて頬骨の表面を滑る。甲高い悲鳴が上がる。
返し刃は口腔へ。強引に突っ込んで貫く。
肉を断つ感触が金属を伝い、生々しく掌に残る。
相手は黒フードではなかったが、死体にしてしまえばおなじことだった。ここにいる
人間は、セラフィナ以外、みんな敵だ。
ふいに、何のために殺しているのだろうと疑問に思った。すぐに思い出す。そうだ、
セラフィナさんを取り返すために。彼女は殺しをよく思わないだろうが、これは、目的
こそ彼女を助けることだけど――自分のためにやっているのだ。彼女のことが欲しいか
らこんなことをしているのであって、土壇場で拒絶されたところでその意志を翻したり
はしない。浚ってでも連れて行くつもりだ。どこへ? どこでもいい。
これは恋愛感情だろうか。引き離されて相手の大切さに気づくとか、そういうのは確
かに好まれそうな設定だけど、現実は、そうそう物語じみていない。彼女を手に入れた
い。どんな形で? 自問して答えを思いつくとライは薄く笑った。
現実は物語よりも醜悪だ。
闇に包まれた古城は無音に閉ざされようとしていた。
あちこちに死人が転がっている他、戦いの音も最早途絶えた。
生き残りも誰かに殺されるか、ライが殺すかしてしまったので、生きている人間の姿
そのものも見なくなった。それほど広い建物でもないのに、それらしい場所に辿り着く
ために随分と労力を使ってしまった。
壁に縋って、剣を投げ捨て、べたべたする髪をかき上げる。返り血が手袋に付着した。
かなり血を被ってしまったらしい。浴びたのと大して変わらないくらい。
あまり気分がよくないので幻を消して再構成するか――消すのは簡単だが、作り直す
のは無理そうだ。つらくてもこのまま維持した方がいい。肩が痛む。だが痛みならばさ
っきから頭痛がすごいし、体中が鈍痛と錯覚するようなだるさを訴えている。
右目が霞むのを気にして手の甲でこする。周りの皮膚や肉が崩れるのを感じて慌てて
手を離し、手袋の甲を見ると、ぐちゃぐちゃに変色した腐肉がこびりついている。
「あーあ……またやっちゃったよ」
遅まきながら、この不調は魔法の効果が問題なのではないと確信した。
困ったなぁと苦笑しながら、またふらふらと歩き出す。
やがて、行く手に、扉のない部屋が見えた。
部屋からは明りが漏れていて、人の気配がする。
少なくとも、二人か三人。
他にもいるかも知れないが、少なくとも動いていない。
「……」
中から聞こえた話し声にセラフィナのそれが混ざっていたから、ライは、新しく剣を
握って、気配を殺した。逸る心を落ち着かせようと無駄な努力を試みながら歩き出す。
早足になって駆け足になって、飛び込む。
「セラフィナさん!」
――銀光。
横手から振るわれた剣を、辛うじて飛び退り、躱す。
ライは敵を確認すると無言で斬りかかった。
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