人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン
------------------------------------------------------------------------
がちゃがちゃがちゃがちゃ
貧相な装備のドワーフ親爺が港へ向かって走る。
通り過ぎる町の人は、またか、と呆れた顔で彼を見送る。
この街ではそう珍しいことではないのだ。キャサリン金貨勲章を持つ彫金師のギラ
ムが妄想気味のロマンを追っている姿なんて、恒例行事のようなモノなのだから。
風物詩だよなぁとか呟く鍛冶屋や純粋に驚く観光客を後目に、ギラムは遅いながら
も頑張って走り続けているのだ。
がちゃがちゃがちゃがちゃ
通りを行き交う人々に悠々と追い越されながらも、けしてやめようとしない。
後方から顔見知りの青年が近づいてきたときもそんなことには気付かず、ギラムは
懸命に走っていたのだった。
「お、ギラムさんじゃん。今日はどんなロマンが待ってるの?」
ロバに荷を引かせた青年ノマが、速度を落としながら声をかける。
「ワシは、コレを、届けねば、なら……のじゃ」
ギラムは荒い呼吸で途切れ途切れながらも律儀に答えた。視線は前を向き、足は動
き続けている。
目的地はどうも同じ方角らしい、と気付いたノマ。にんまり笑ってこう続けた。
「港まで行くんだけど、途中まで乗ってくかい?」
「おお、ありがたい」
ギラムはようやく足を止め、ロバの引く荷車に座る青年を見た。
「お礼はそのロマンの詳細でいいからさ」
ノマはギラムのロマン話が小さな頃から好きだった。ろくに本も読めず、まあ本自
体あまり見かけないのだけれど、空想物語に飢えた彼にはすごく魅力的なモノだった
のだ。
「いい話だったら荷を降ろしてから手伝っちゃうしさ」
旅は道連れ、世は情け。
この言葉もギラムに教えてもらったなぁと、ノマは笑った。
場所は変わって倉庫街。
その中でも一際静かな一角に、セラフィナは閉じこめられていた。
目の前には特異な能力を持つ少女。
「ここから出たいとは思わないんですか?」
セラフィナは眼前の少女に問う。
「思わないですね。私は飼われているのですから」
少女は答える。
「でも、自由は利かないでしょう」
少し目が慣れた部屋を見回し、セラフィナは首を傾げた。
「どんな環境でも不自由はありますからね。
それに、脅威の目で見られ、蔑まれ、虐げられるよりはずっと快適ですよ」
少女は立ち上がった。
「時々面白いこともありますしね」
そういうと、部屋の入り口を軽くノックし、外に向かって声をかける。
「彼女を捜している人が此方に向かっているようですよ」
はっきりとは聞き取れないが、向こう側からは驚きと焦りの声が聞こえた。
何かに躓いたのか、痛そうな悲鳴とガコンという木箱らしき音も聞こえる。
「ほら、面白いでしょう?」
少女は笑った。
「あなたが探していた人ではないのが残念ですけど」
で、再びギラムさん。
ノマは目立つ馬車の行き先を町人に尋ねつつ、倉庫街の方へ向かっていた。
「ギラムさーん、もう少しで倉庫街だけど、その後はどうするの?」
ロバに荷を引かせながら、ノマはのんびりと訊ねた。
荷は途中で降ろし、今日の午後は気ままに過ごせるのだ。
「うむ、あのお嬢さんを捜すに決まっとる」
「でも、倉庫街って広いの知ってる? 当てがあるわけじゃないんでしょ?」
ガタゴトガタゴトガタゴト
「片っ端から見て回るさ」
ギラムはやはり前を見据えている。
一方、セラフィナは「時間切れです」の一言で、再び猿轡を咬まされていた。
それは迎えが近いからなのか、探しに来たという人物の為なのか分からなかったの
だが。
(ライさんでないとすると……誰だろう?
宿に戻ったティリーなのかしら。
誰かが目撃していたとすれば、あの馬車を追うのは難しくない気もするけれ
ど……)
会話が無くなり、考えることしかできない。
さっきまで眼前にいた彼女は部屋の隅の暗闇に紛れ、今では姿が見えなくなってい
る。
セラフィナは、歯痒さに眉根を寄せた。
で、またまたギラムさん一行。
「ねえ、凄い早さで走ってきた馬車の行方、知らない?」
ノマは地道に情報収集を続けていた。
まあ、通りすがりに片っ端から声を掛けていただけともいうが。
「ああ、領主様の客だろ?マナーがなってないよな、ありゃ」
思い出しただけで機嫌が悪くなったらしい海の男に礼を言うと、ノマは頭を掻い
た。
「あちゃー、もう領主様の家に帰っちゃったなら手出しは出来ないよ?」
しかしギラムはあきらめない。
「用もなくこんな反対方向へ来るはずがないんじゃ。おるに決まっとるわい」
「はぁ……まあ、ギラムさんらしいけどね」
聞こえるように大げさに溜め息をついてノマは呟いた。
「”捜し物は、あると思って探すこと”……コレが捜し物を見つける極意じゃ」
ノマは満足げに頷くギラムを見て、長くなりそうだと苦笑した。
場所:港町ルクセン
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がちゃがちゃがちゃがちゃ
貧相な装備のドワーフ親爺が港へ向かって走る。
通り過ぎる町の人は、またか、と呆れた顔で彼を見送る。
この街ではそう珍しいことではないのだ。キャサリン金貨勲章を持つ彫金師のギラ
ムが妄想気味のロマンを追っている姿なんて、恒例行事のようなモノなのだから。
風物詩だよなぁとか呟く鍛冶屋や純粋に驚く観光客を後目に、ギラムは遅いながら
も頑張って走り続けているのだ。
がちゃがちゃがちゃがちゃ
通りを行き交う人々に悠々と追い越されながらも、けしてやめようとしない。
後方から顔見知りの青年が近づいてきたときもそんなことには気付かず、ギラムは
懸命に走っていたのだった。
「お、ギラムさんじゃん。今日はどんなロマンが待ってるの?」
ロバに荷を引かせた青年ノマが、速度を落としながら声をかける。
「ワシは、コレを、届けねば、なら……のじゃ」
ギラムは荒い呼吸で途切れ途切れながらも律儀に答えた。視線は前を向き、足は動
き続けている。
目的地はどうも同じ方角らしい、と気付いたノマ。にんまり笑ってこう続けた。
「港まで行くんだけど、途中まで乗ってくかい?」
「おお、ありがたい」
ギラムはようやく足を止め、ロバの引く荷車に座る青年を見た。
「お礼はそのロマンの詳細でいいからさ」
ノマはギラムのロマン話が小さな頃から好きだった。ろくに本も読めず、まあ本自
体あまり見かけないのだけれど、空想物語に飢えた彼にはすごく魅力的なモノだった
のだ。
「いい話だったら荷を降ろしてから手伝っちゃうしさ」
旅は道連れ、世は情け。
この言葉もギラムに教えてもらったなぁと、ノマは笑った。
場所は変わって倉庫街。
その中でも一際静かな一角に、セラフィナは閉じこめられていた。
目の前には特異な能力を持つ少女。
「ここから出たいとは思わないんですか?」
セラフィナは眼前の少女に問う。
「思わないですね。私は飼われているのですから」
少女は答える。
「でも、自由は利かないでしょう」
少し目が慣れた部屋を見回し、セラフィナは首を傾げた。
「どんな環境でも不自由はありますからね。
それに、脅威の目で見られ、蔑まれ、虐げられるよりはずっと快適ですよ」
少女は立ち上がった。
「時々面白いこともありますしね」
そういうと、部屋の入り口を軽くノックし、外に向かって声をかける。
「彼女を捜している人が此方に向かっているようですよ」
はっきりとは聞き取れないが、向こう側からは驚きと焦りの声が聞こえた。
何かに躓いたのか、痛そうな悲鳴とガコンという木箱らしき音も聞こえる。
「ほら、面白いでしょう?」
少女は笑った。
「あなたが探していた人ではないのが残念ですけど」
で、再びギラムさん。
ノマは目立つ馬車の行き先を町人に尋ねつつ、倉庫街の方へ向かっていた。
「ギラムさーん、もう少しで倉庫街だけど、その後はどうするの?」
ロバに荷を引かせながら、ノマはのんびりと訊ねた。
荷は途中で降ろし、今日の午後は気ままに過ごせるのだ。
「うむ、あのお嬢さんを捜すに決まっとる」
「でも、倉庫街って広いの知ってる? 当てがあるわけじゃないんでしょ?」
ガタゴトガタゴトガタゴト
「片っ端から見て回るさ」
ギラムはやはり前を見据えている。
一方、セラフィナは「時間切れです」の一言で、再び猿轡を咬まされていた。
それは迎えが近いからなのか、探しに来たという人物の為なのか分からなかったの
だが。
(ライさんでないとすると……誰だろう?
宿に戻ったティリーなのかしら。
誰かが目撃していたとすれば、あの馬車を追うのは難しくない気もするけれ
ど……)
会話が無くなり、考えることしかできない。
さっきまで眼前にいた彼女は部屋の隅の暗闇に紛れ、今では姿が見えなくなってい
る。
セラフィナは、歯痒さに眉根を寄せた。
で、またまたギラムさん一行。
「ねえ、凄い早さで走ってきた馬車の行方、知らない?」
ノマは地道に情報収集を続けていた。
まあ、通りすがりに片っ端から声を掛けていただけともいうが。
「ああ、領主様の客だろ?マナーがなってないよな、ありゃ」
思い出しただけで機嫌が悪くなったらしい海の男に礼を言うと、ノマは頭を掻い
た。
「あちゃー、もう領主様の家に帰っちゃったなら手出しは出来ないよ?」
しかしギラムはあきらめない。
「用もなくこんな反対方向へ来るはずがないんじゃ。おるに決まっとるわい」
「はぁ……まあ、ギラムさんらしいけどね」
聞こえるように大げさに溜め息をついてノマは呟いた。
「”捜し物は、あると思って探すこと”……コレが捜し物を見つける極意じゃ」
ノマは満足げに頷くギラムを見て、長くなりそうだと苦笑した。
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人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン -廃城
------------------------------------------------------------------------
がらがらと砂利を蹴立てる音を森に響かせて、黒塗りの馬車が城門を潜った。
茜色に染まろうとする空、木々はうっすらと赤みを帯びてきた陽光に陰影を深くし始
めている。その風景に妙に浮いた黒が、なんとなく不気味に見えた。
「……あれは?」
好きに動いていいと言われたものの状況がわからないと動きようがないので、邪魔だ
どこか行ってろ近づくなと嫌がるバジルについて回ることにしたのだ。イヤガラセにも
なって一石二鳥。
それに、いまのところ、最も注意するべきはこの男だ。
誰にも悟られずに行動できるという決定的な要素が通用しない相手に会ったのは初め
てだ。それにしても、怪奇現象が見えるなんてかなり苦労の多い生活をしていそうだ。
「領主サマの遣いの馬車だよ」
バジルはぶっきらぼうに答えた。ライは「ふぅん」と相槌を打って、馬車をまじまじ
と眺める。装飾もなく、質素。金具まで漆黒という偏執的な色使いを除けば、一見して
普通の馬車だが――
「固めてるねぇ」
車両部分を完全に金属板で囲い、黒馬には毛と同じ色の鎧が着せられている。
ミニチュアー・クロスボウの矢を打ち出すための小さな穴もあるだろう。
黒一色で一つの影のように見えるせいで、違和感が目立たない。
「まるで死神馬車だな。
酔った勢いとかで領主の悪口を言うと」
「黒塗りの馬車がやってきて、その人を連れて行っちゃうんでしょ?
で、二度と戻ってこない……と。結構どこにでもあるよね、その噂」
「まぁ、有名だってことは、どっかで実際にやってたんだろ」
「今時こんなハデなのは珍しいね。演出かな」
バジルは小馬鹿にするように鼻を鳴らした。彼は、見つからないように、窓際の壁に
張り付くようにして外を窺っている。
ライは面倒になると姿を消して窓から身を乗り出したりしていたが、バジルに「お前
だけ楽してんじゃねぇ」と理不尽な文句をつけられたので、いちおう彼に倣って影に潜
んでいる。
「今更だけど……隠密行動したことあるのか、お前?」
不満そうに訊いたバジルに、ライは虚を突かれて瞬きした。
嫌なスリルが心臓に悪くて好きじゃないけど、とりあえず見つかったことはない。そ
う答えると、バジルは複雑な表情をした。
「壁に寄りかかってポケットに手ェ入れてるのは、どうなんだ」
「見つからなければいいんじゃない?」
「盗賊稼業ナメんじゃねぇぞ!」
「はいはい大声出さないの」
黒フードの人影が三つ、馬車から吐き出される。
それぞれに帯剣しているのがシルエットからわかった。
そのうち一人がふいに顔を上げた。無意識に身を乗り出して注視していたライは慌て
隠れる。バジルが小声で「馬鹿」と罵ったが、黒フードは何にも気づいた風なく、周囲
に警戒の視線を巡らせていた。
「……見つかってないみたいだな」
「だから、見つかったことないってば」
壁に寄りかかって座り込みながら、剣の柄を探る。
見つかった。今のは絶対に見つかった。いや、それは好都合ではないか? 相手が侵
入者に気づいたとしても、知らないフリをしていてくれるのなら、バジルたちの動きは
制限されるが、その分、姿を消していれば絶対に見つからないライには有利になる。
――の、だが。問題が一つ。
ぞるりと丈の長い黒ローブのせいで体格はわからないが、それなりに長身のあの人影。
整った面立ちと鋭い眼光、そしてフードからわずかに零れた黄金色の髪には、見覚えが。
明らかに知り合いだった。それも、明らかに好ましくない類の。
(なんであいつがここにいるんだ……)
相手もこちらの正体に気づいたかどうか。
ここは暗がりだが、相手が相手だ。どちらとも判断がつかない。
とりあえず悪い方に考えておけばいいのか、そうか。
「……おい、見とけ」
ライは姿を消して窓から外を見やった。見つかったのがわかっているのにわざわざ隠
れるのが面倒になったのだ。
馬車から更に人が出てきた。中年と壮年の狭間、平凡な容姿の男だ。やはり黒い服を
着ているが、顔を隠していないのが他の三人と違っている。彼は黒フードたちに向けて
何かを言った。
「聞こえないな。ちょっとあっち行ってこい」
ワガママ。胸のうちだけで呟いておいて、その注文は黙殺。
敵になる可能性が高い相手の手伝いをするものか――というよりも、急に協力的な態
度を取ったら逆に怪しまれるだろうと思ったのだ。バジルは器用に、音を立てずに舌打
ちした。
やがて黒ずくめの一行は城内へと消えた。
バジルが壁から体を離して伸びをする。
「仲間に報告に行ってくる。
お姫様の方が来るかも知れないから見といてくれよ」
「……」
「下にはリズ――さっきの女がいるから、抜け駆けしたら命ねェぞ」
言い捨てて、バジルは廊下を駆けて行った。
ライは見送り剣を握りしめる。貴族様とケンカするのは初めてではない。人間だった
頃にはよくあったことだ。権力に屈さないとか、そんな格好のいいことではない。気に
入らなければ誰にでも刃向かい、奪われたものは奪い返す、ただそれだけのことなのだ。
背後にある財宝と権力、突きつけられた刃の切っ先。どちらが勝つのか知っている。
セラフィナさんは僕のお気に入りだから殺してでも奪い取る、ただそれだけのことな
のだ。
場所:港町ルクセン -廃城
------------------------------------------------------------------------
がらがらと砂利を蹴立てる音を森に響かせて、黒塗りの馬車が城門を潜った。
茜色に染まろうとする空、木々はうっすらと赤みを帯びてきた陽光に陰影を深くし始
めている。その風景に妙に浮いた黒が、なんとなく不気味に見えた。
「……あれは?」
好きに動いていいと言われたものの状況がわからないと動きようがないので、邪魔だ
どこか行ってろ近づくなと嫌がるバジルについて回ることにしたのだ。イヤガラセにも
なって一石二鳥。
それに、いまのところ、最も注意するべきはこの男だ。
誰にも悟られずに行動できるという決定的な要素が通用しない相手に会ったのは初め
てだ。それにしても、怪奇現象が見えるなんてかなり苦労の多い生活をしていそうだ。
「領主サマの遣いの馬車だよ」
バジルはぶっきらぼうに答えた。ライは「ふぅん」と相槌を打って、馬車をまじまじ
と眺める。装飾もなく、質素。金具まで漆黒という偏執的な色使いを除けば、一見して
普通の馬車だが――
「固めてるねぇ」
車両部分を完全に金属板で囲い、黒馬には毛と同じ色の鎧が着せられている。
ミニチュアー・クロスボウの矢を打ち出すための小さな穴もあるだろう。
黒一色で一つの影のように見えるせいで、違和感が目立たない。
「まるで死神馬車だな。
酔った勢いとかで領主の悪口を言うと」
「黒塗りの馬車がやってきて、その人を連れて行っちゃうんでしょ?
で、二度と戻ってこない……と。結構どこにでもあるよね、その噂」
「まぁ、有名だってことは、どっかで実際にやってたんだろ」
「今時こんなハデなのは珍しいね。演出かな」
バジルは小馬鹿にするように鼻を鳴らした。彼は、見つからないように、窓際の壁に
張り付くようにして外を窺っている。
ライは面倒になると姿を消して窓から身を乗り出したりしていたが、バジルに「お前
だけ楽してんじゃねぇ」と理不尽な文句をつけられたので、いちおう彼に倣って影に潜
んでいる。
「今更だけど……隠密行動したことあるのか、お前?」
不満そうに訊いたバジルに、ライは虚を突かれて瞬きした。
嫌なスリルが心臓に悪くて好きじゃないけど、とりあえず見つかったことはない。そ
う答えると、バジルは複雑な表情をした。
「壁に寄りかかってポケットに手ェ入れてるのは、どうなんだ」
「見つからなければいいんじゃない?」
「盗賊稼業ナメんじゃねぇぞ!」
「はいはい大声出さないの」
黒フードの人影が三つ、馬車から吐き出される。
それぞれに帯剣しているのがシルエットからわかった。
そのうち一人がふいに顔を上げた。無意識に身を乗り出して注視していたライは慌て
隠れる。バジルが小声で「馬鹿」と罵ったが、黒フードは何にも気づいた風なく、周囲
に警戒の視線を巡らせていた。
「……見つかってないみたいだな」
「だから、見つかったことないってば」
壁に寄りかかって座り込みながら、剣の柄を探る。
見つかった。今のは絶対に見つかった。いや、それは好都合ではないか? 相手が侵
入者に気づいたとしても、知らないフリをしていてくれるのなら、バジルたちの動きは
制限されるが、その分、姿を消していれば絶対に見つからないライには有利になる。
――の、だが。問題が一つ。
ぞるりと丈の長い黒ローブのせいで体格はわからないが、それなりに長身のあの人影。
整った面立ちと鋭い眼光、そしてフードからわずかに零れた黄金色の髪には、見覚えが。
明らかに知り合いだった。それも、明らかに好ましくない類の。
(なんであいつがここにいるんだ……)
相手もこちらの正体に気づいたかどうか。
ここは暗がりだが、相手が相手だ。どちらとも判断がつかない。
とりあえず悪い方に考えておけばいいのか、そうか。
「……おい、見とけ」
ライは姿を消して窓から外を見やった。見つかったのがわかっているのにわざわざ隠
れるのが面倒になったのだ。
馬車から更に人が出てきた。中年と壮年の狭間、平凡な容姿の男だ。やはり黒い服を
着ているが、顔を隠していないのが他の三人と違っている。彼は黒フードたちに向けて
何かを言った。
「聞こえないな。ちょっとあっち行ってこい」
ワガママ。胸のうちだけで呟いておいて、その注文は黙殺。
敵になる可能性が高い相手の手伝いをするものか――というよりも、急に協力的な態
度を取ったら逆に怪しまれるだろうと思ったのだ。バジルは器用に、音を立てずに舌打
ちした。
やがて黒ずくめの一行は城内へと消えた。
バジルが壁から体を離して伸びをする。
「仲間に報告に行ってくる。
お姫様の方が来るかも知れないから見といてくれよ」
「……」
「下にはリズ――さっきの女がいるから、抜け駆けしたら命ねェぞ」
言い捨てて、バジルは廊下を駆けて行った。
ライは見送り剣を握りしめる。貴族様とケンカするのは初めてではない。人間だった
頃にはよくあったことだ。権力に屈さないとか、そんな格好のいいことではない。気に
入らなければ誰にでも刃向かい、奪われたものは奪い返す、ただそれだけのことなのだ。
背後にある財宝と権力、突きつけられた刃の切っ先。どちらが勝つのか知っている。
セラフィナさんは僕のお気に入りだから殺してでも奪い取る、ただそれだけのことな
のだ。
人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン
------------------------------------------------------------------------
「……彼をおとなしくさせて下さい」
レイアと名乗った少女は、セラフィナの猿轡を再び外しながらそう言った。
表ではギラムと名乗る男と倉庫番の二人との口論が延々と続いている。セラフィナ
の耳に届くだけでもかなりの大音量だ。彼女には耐え難い苦痛なのだろう。
「ただし、余計なことを言ったりすれば、貴女だけでなく彼等にも危害が及ぶことを
お忘れなく」
外し終わった猿轡をその場にぽとりと落とすと、レイアは両手を耳に当てながらそ
う言った。
「お前達は何を隠しておるんじゃ!?」
ギラムは詰め寄り、ノマは半ば諦めた表情で見守っている。
「だから何も知らないって!」
答え続ける方も大変だ。
そろそろ迎えがやって来るというのに、こんな邪魔が入ってしまっては面倒なこと
になりかねない。というか、既に十分面倒なことになっているような気もするのだ
が。
とかなんとか思いながら、既に半刻以上が過ぎてしまった。かなり日が傾いてきて
いる。
「お前達の目線は、確実に何かを隠す意図があったとしか思えん」
通りすがりのノマの問いに、彼らは「知らない」と答えたのだ。視線を逸らしなが
ら。
「元々嘘は得意ではないと見た!」
「そんな無茶苦茶なぁ」
もうどうしようもなくて泣きそうだ。
でも、そんなこと、ギラムさんはお構いなし。
「ワシはお前さん等に本当のことを言ってもらうまで、動くつもりはないからな」
とうとうどっかり座り込む始末である。
「彼等が穏便に去らなければ、もうじき来る迎えが何をするかしれません」
耳を塞いだままのレイアが言う。
「貴女は命を狙われていて、そのことを知ったある方が匿ってくれたのです。いいで
すか、貴女の身柄を狙っているのは別にも居るんですよ。その後の貴女の態度次第で
どう変わるかはまで知りませんが、そこまでは概ね本当のことです」
事情も知らせず拉致することを匿うというのか。そして、そこに自分の意志が介在
する余地はあるのか……セラフィナは目を細め、口の端だけで冷たく笑う。
それはカフールを出てからしばらく忘れていた、籠の鳥としての笑みだった。
「だ~か~ら~」
勘弁してよとノマに目で訴えるが、僕じゃ無理、とやはり視線だけで返される倉庫
番。
避難した相方は、奥まった倉庫の一室から、レイアの合図を聞いた。
「どうしたの、もう迎えが来るの?」
扉を二回ノックして、女は声を掛ける。
「ええ、かなり近いようですよ。彼女を表に出しましょう」
面倒臭そうに髪を弄っていた女が、ギクリと身を竦めた。
「い、今、表にヒトがいるんだけど……」
「ええ、知っています。だから急がないと」
一拍おいて、レイアは続ける。
「今迎えが来ると貴方達も信用を落とすでしょうね。私は今の生活をそれなりに気に
入っているけれど、それも続けられないかもしれない。……だから彼女に追い返して
もらうんですよ」
深読みするとこうだ。
彼らが居座っている状況で迎えが到着すると、これから裏の仕事は来なくなるだろ
う。それどころか、悪くすると今までの仕事を取り上げられるだけでなく、口を封じ
られるかも知れない。だから彼女に追い返させるのだと。
「……ちゃんと言い含めてあるんでしょうね?」
「何をです? 彼女は彼らの安全のために不利益なことはしませんよ」
つまり、彼らの安全を傘に脅したということか。
女は背中に寒いモノを感じ、鍵を慌てて開ける。
やはり彼女は化け物だ、と思いながら……。
「あ」
ノマが倉庫番の後ろを見た。
その声に倉庫番は振り向き、ギラムさんは座った姿勢を傾けるようにして覗き込
む。
「もういいんです、ありがとう」
倉庫番に声を掛けたのは、セラフィナ本人だった。
呆気にとられる倉庫番とノマ、それ見たことかと立ち上がるギラムさん。
その反応がおかしくて、セラフィナは少し表情を和らげた。
「探しとったんじゃ」
慌ててポケットを探り、金細工のブローチを取り出すギラムさんにセラフィナは向
き直る。そして取り出したモノを見ると、驚き、喜び、そして微笑んだ。
「……大切なモノなんじゃろう?」
下から覗き込むように差し出すギラムさんからブローチを受け取り、セラフィナは
襟元に止める。そしてそっと手を重ねると深々と頭を下げた。
「わざわざありがとうございます。本当に……なんとお礼を言ったらいいか」
「そんなものいいんじゃ。それより、困っているんじゃないのかね?」
倉庫番を不審そうに見やり、ギラムさんは小声で付け足した。
「実は、身の危険を避けるためにココに匿っていただいたんです」
「なんと! ソレはただ事ではないじゃないか!」
「……ええ、そうですね」
セラフィナはそっと目を伏せる。
「だから、私のことやココのことは忘れて、早くお帰りになって下さい」
「……力にはなれんのかい?」
ギラムさんは静かに言った。優しい声だった。
「詳しいことは何も話せないんです。ただ……」
ブローチに重ねた手を握りしめるように、セラフィナは言葉を紡ぐ。
「私は一人じゃありませんから。きっと大丈夫です」
セラフィナが微笑む。
ギラムさんは眩しそうに見上げると、ノマのところへ黙って戻った。
「……えーと、アレで良かったの? ギラムさん」
帰りの道すがら、ノマがギラムさんに尋ねる。
ギラムさんは遠くを見ながら、こう呟いた。
「いいんじゃ。ワシはあのお嬢さんのように、ブローチの送り主が助けに来てくれる
ことを信じとるからな」
ギラムさんの傍らでは、使うことの無かった戦斧が寂しげに佇んでいる。
「……ロマンだよね」
「……ロマンじゃ」
夕日に空が紅く染まる。
「お迎えに上がりました」
恭しい態度で馬車から降りてきた男の声は、彼女を気絶させた男のモノだった。
違いがあるとするならば、身なりの良い従者の格好に着替え、質素な黒塗りの馬車
であることくらいだろうか。
「今抵抗するつもりはありません。何処へ向かうのか、何を目的としているのか
は……聞いてもお答えいただけないのでしょうね」
セラフィナはおとなしく指示に従いながら冷笑を浮かべた。
「今から行く先で、お尋ねのことも明らかになるでしょう」
上辺だけの、敬意を感じられない態度に、皇女としての記憶が蘇る。
冷たい距離感のある人間関係。養父母や幼なじみとのギャップがずっと苦痛だっ
た。
「当分お目付役は貴方が?」
「ご不満でしょうがご理解下さい」
目線も合わせず男は答える。
顔に見覚えはないが、立ち振る舞いに馴染みがあるような気がするのは気のせいだ
ろうか? ……だとすると彼もまた、カフールの出なのかもしれない。
馬車は静かに走り始める。
行き先を、セラフィナはまだ知らない。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
セラフィナは窓も塞がれた馬車に揺られながら馬車の中に素早く視線を走らせた。
無数の小さな穴は、明かり取りのない室内に不思議な幾筋もの影を作り出してい
る。
備え付けてある小型のクロスボウは全部で八つ。しかも、おそらく取り外しが利く
のだろう。無数の穴すべてがクロスボウ備え付けの穴と同じ形状をしている。予備の
矢らしきモノの量を見ても、籠もって応戦すれば結構な時間を無傷でやり過ごせそう
な作りだ。
男の数はさっきの男を含め三人。セラフィナも渡された黒いマントを身につけてい
たが、無言の男達はさらにフードの付いた丈の長いローブを身につけているようだっ
た。
「……名前を聞いておきたいですね」
唯一顔の覗くお目付役を名乗る男は、ちらりとセラフィナを見ると恭しく頭を下げ
てみせた。
「お好きなように」
ソレは答えるつもりがないということか。
予想はしていたが、それでも聞こえるようにセラフィナは溜め息をついた。
「それでは、クリス、サイ、バーゼラルド。どれにしましょうか」
男の眉が僅かに上がる。
「すべて武器の名称とはイイご趣味だ」
「貴方には似合いでしょう」
皮肉な笑みが自然と浮かぶ。
「ではバーゼラルドと。名を頂けて光栄です」
バーゼラルドは相変わらず敬意を感じさせない恭しさで大袈裟に礼をした。
場所:港町ルクセン
------------------------------------------------------------------------
「……彼をおとなしくさせて下さい」
レイアと名乗った少女は、セラフィナの猿轡を再び外しながらそう言った。
表ではギラムと名乗る男と倉庫番の二人との口論が延々と続いている。セラフィナ
の耳に届くだけでもかなりの大音量だ。彼女には耐え難い苦痛なのだろう。
「ただし、余計なことを言ったりすれば、貴女だけでなく彼等にも危害が及ぶことを
お忘れなく」
外し終わった猿轡をその場にぽとりと落とすと、レイアは両手を耳に当てながらそ
う言った。
「お前達は何を隠しておるんじゃ!?」
ギラムは詰め寄り、ノマは半ば諦めた表情で見守っている。
「だから何も知らないって!」
答え続ける方も大変だ。
そろそろ迎えがやって来るというのに、こんな邪魔が入ってしまっては面倒なこと
になりかねない。というか、既に十分面倒なことになっているような気もするのだ
が。
とかなんとか思いながら、既に半刻以上が過ぎてしまった。かなり日が傾いてきて
いる。
「お前達の目線は、確実に何かを隠す意図があったとしか思えん」
通りすがりのノマの問いに、彼らは「知らない」と答えたのだ。視線を逸らしなが
ら。
「元々嘘は得意ではないと見た!」
「そんな無茶苦茶なぁ」
もうどうしようもなくて泣きそうだ。
でも、そんなこと、ギラムさんはお構いなし。
「ワシはお前さん等に本当のことを言ってもらうまで、動くつもりはないからな」
とうとうどっかり座り込む始末である。
「彼等が穏便に去らなければ、もうじき来る迎えが何をするかしれません」
耳を塞いだままのレイアが言う。
「貴女は命を狙われていて、そのことを知ったある方が匿ってくれたのです。いいで
すか、貴女の身柄を狙っているのは別にも居るんですよ。その後の貴女の態度次第で
どう変わるかはまで知りませんが、そこまでは概ね本当のことです」
事情も知らせず拉致することを匿うというのか。そして、そこに自分の意志が介在
する余地はあるのか……セラフィナは目を細め、口の端だけで冷たく笑う。
それはカフールを出てからしばらく忘れていた、籠の鳥としての笑みだった。
「だ~か~ら~」
勘弁してよとノマに目で訴えるが、僕じゃ無理、とやはり視線だけで返される倉庫
番。
避難した相方は、奥まった倉庫の一室から、レイアの合図を聞いた。
「どうしたの、もう迎えが来るの?」
扉を二回ノックして、女は声を掛ける。
「ええ、かなり近いようですよ。彼女を表に出しましょう」
面倒臭そうに髪を弄っていた女が、ギクリと身を竦めた。
「い、今、表にヒトがいるんだけど……」
「ええ、知っています。だから急がないと」
一拍おいて、レイアは続ける。
「今迎えが来ると貴方達も信用を落とすでしょうね。私は今の生活をそれなりに気に
入っているけれど、それも続けられないかもしれない。……だから彼女に追い返して
もらうんですよ」
深読みするとこうだ。
彼らが居座っている状況で迎えが到着すると、これから裏の仕事は来なくなるだろ
う。それどころか、悪くすると今までの仕事を取り上げられるだけでなく、口を封じ
られるかも知れない。だから彼女に追い返させるのだと。
「……ちゃんと言い含めてあるんでしょうね?」
「何をです? 彼女は彼らの安全のために不利益なことはしませんよ」
つまり、彼らの安全を傘に脅したということか。
女は背中に寒いモノを感じ、鍵を慌てて開ける。
やはり彼女は化け物だ、と思いながら……。
「あ」
ノマが倉庫番の後ろを見た。
その声に倉庫番は振り向き、ギラムさんは座った姿勢を傾けるようにして覗き込
む。
「もういいんです、ありがとう」
倉庫番に声を掛けたのは、セラフィナ本人だった。
呆気にとられる倉庫番とノマ、それ見たことかと立ち上がるギラムさん。
その反応がおかしくて、セラフィナは少し表情を和らげた。
「探しとったんじゃ」
慌ててポケットを探り、金細工のブローチを取り出すギラムさんにセラフィナは向
き直る。そして取り出したモノを見ると、驚き、喜び、そして微笑んだ。
「……大切なモノなんじゃろう?」
下から覗き込むように差し出すギラムさんからブローチを受け取り、セラフィナは
襟元に止める。そしてそっと手を重ねると深々と頭を下げた。
「わざわざありがとうございます。本当に……なんとお礼を言ったらいいか」
「そんなものいいんじゃ。それより、困っているんじゃないのかね?」
倉庫番を不審そうに見やり、ギラムさんは小声で付け足した。
「実は、身の危険を避けるためにココに匿っていただいたんです」
「なんと! ソレはただ事ではないじゃないか!」
「……ええ、そうですね」
セラフィナはそっと目を伏せる。
「だから、私のことやココのことは忘れて、早くお帰りになって下さい」
「……力にはなれんのかい?」
ギラムさんは静かに言った。優しい声だった。
「詳しいことは何も話せないんです。ただ……」
ブローチに重ねた手を握りしめるように、セラフィナは言葉を紡ぐ。
「私は一人じゃありませんから。きっと大丈夫です」
セラフィナが微笑む。
ギラムさんは眩しそうに見上げると、ノマのところへ黙って戻った。
「……えーと、アレで良かったの? ギラムさん」
帰りの道すがら、ノマがギラムさんに尋ねる。
ギラムさんは遠くを見ながら、こう呟いた。
「いいんじゃ。ワシはあのお嬢さんのように、ブローチの送り主が助けに来てくれる
ことを信じとるからな」
ギラムさんの傍らでは、使うことの無かった戦斧が寂しげに佇んでいる。
「……ロマンだよね」
「……ロマンじゃ」
夕日に空が紅く染まる。
「お迎えに上がりました」
恭しい態度で馬車から降りてきた男の声は、彼女を気絶させた男のモノだった。
違いがあるとするならば、身なりの良い従者の格好に着替え、質素な黒塗りの馬車
であることくらいだろうか。
「今抵抗するつもりはありません。何処へ向かうのか、何を目的としているのか
は……聞いてもお答えいただけないのでしょうね」
セラフィナはおとなしく指示に従いながら冷笑を浮かべた。
「今から行く先で、お尋ねのことも明らかになるでしょう」
上辺だけの、敬意を感じられない態度に、皇女としての記憶が蘇る。
冷たい距離感のある人間関係。養父母や幼なじみとのギャップがずっと苦痛だっ
た。
「当分お目付役は貴方が?」
「ご不満でしょうがご理解下さい」
目線も合わせず男は答える。
顔に見覚えはないが、立ち振る舞いに馴染みがあるような気がするのは気のせいだ
ろうか? ……だとすると彼もまた、カフールの出なのかもしれない。
馬車は静かに走り始める。
行き先を、セラフィナはまだ知らない。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
セラフィナは窓も塞がれた馬車に揺られながら馬車の中に素早く視線を走らせた。
無数の小さな穴は、明かり取りのない室内に不思議な幾筋もの影を作り出してい
る。
備え付けてある小型のクロスボウは全部で八つ。しかも、おそらく取り外しが利く
のだろう。無数の穴すべてがクロスボウ備え付けの穴と同じ形状をしている。予備の
矢らしきモノの量を見ても、籠もって応戦すれば結構な時間を無傷でやり過ごせそう
な作りだ。
男の数はさっきの男を含め三人。セラフィナも渡された黒いマントを身につけてい
たが、無言の男達はさらにフードの付いた丈の長いローブを身につけているようだっ
た。
「……名前を聞いておきたいですね」
唯一顔の覗くお目付役を名乗る男は、ちらりとセラフィナを見ると恭しく頭を下げ
てみせた。
「お好きなように」
ソレは答えるつもりがないということか。
予想はしていたが、それでも聞こえるようにセラフィナは溜め息をついた。
「それでは、クリス、サイ、バーゼラルド。どれにしましょうか」
男の眉が僅かに上がる。
「すべて武器の名称とはイイご趣味だ」
「貴方には似合いでしょう」
皮肉な笑みが自然と浮かぶ。
「ではバーゼラルドと。名を頂けて光栄です」
バーゼラルドは相変わらず敬意を感じさせない恭しさで大袈裟に礼をした。
人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン -廃城
------------------------------------------------------------------------
二台目の馬車はまだ来ない。
好きにしていていいと言われたのに体よく見張りを押し付けられたライは、もちろん
そんな役目を果たすことなどなく、廊下の突き当たり、窓のある壁を背にして座り込ん
でいた。
手には剣。折りたたみナイフに似た形状だが、刃を伸ばした状態での全長は小剣ほど。
隠し持つことに特化したその武器には余計な装飾などなく、無愛想な機能美だけが心を
惹き付ける。鋭い刃、直線から繋がる曲線、金属の冷たい感触、柄に埋め込まれた滑り
止めゴムの黒さと弾力、柄と刃を繋ぐ繊細な金具の輝き。事務用品にも似たシンプルな
繊細さ。殺し屋が使う暗器武器。
死んだ父の書斎から無断で持ち出した。そして恐らく父が使ったのは別の方法で、自
分も何度もこれを振るった。生きていた頃も、死んでしまった後も。
本物はどこかへ無くしてしまった。今、手の中にあるのは質量を持つ幻でしかない。
それでもあの剣のことは鮮明に思い出せる。滑らかな直線と曲線で構成された刃物。切
り刻み、貫き、抉り、殺すためだけにある武器。父の形見にして自分の形見。
力なく空を切るように刃を振り、そして翳して、窓からの光が反射するのを眺める。
刀身に映るのは石造りの壁か床か天井。そして、照り返しの光。外には夕闇が舞い降り
ようとしている。光は白ではなく、だからといって夕日色は血の色にも似ていなく、た
だいたずらに目を灼く強烈な橙色だった。限りなく本物に近い幻は本物ではないのだろ
うか。
廊下の奥は完全な闇。光の忍び込みようもなく頑強に造られた建物だからだ。
昼なお暗い。明かりなしに歩き回るのは人間には難しい。だからこそ、陰謀だの何だ
のに使われるのだろう。闇よりも人を恐れる人種というのは存在する。他者が近づかな
い場所を求めれば闇に行き着くのは当然のことだ。
ガラガラ――
車輪が砂利を蹴る音を聞きつけて、ライは立ち上がった。
己の体を空に溶かす。それから振り返り、先ほど到着したのと同じ漆黒の馬車が現れ
るのを見た。窓枠に寄りかかり、身を乗り出すようにして。しかし絶対に見つからない。
馬車の中から吐き出されたのはさっきと同じ黒ローブの集団だ。
ゆったりとした布を被っているせいで、遠目には体格がよくわからない。夕闇の中、
黒い布は、空間把握力を狂わせる。
「さてと……」
馬車の扉は閉じられ、御者だけを残して黒ローブたちが歩き始める。小声で何かを話
す声。セラフィナのものが混じっていたのを聞いて、表情を剣呑に。集中すると視界が
黒く染まった。知覚する膨大な情報のうち一部、人間なら視覚に相当する部分を切り捨
て、音を拾う――聞こえないはずがない。物理的に存在しない僕には距離なんか意味が
ない。第六感に引っかかるものはすべて知覚できる。聴覚でなくてもいい。だから、聞
こえないはずがない。思い込みがすべてだ。信じれば聞こえる。
「――…こは? 一体、…こ……です?」
「…ちの外れの古城…す。今は使わ…て――」
聞こえた。毅然とした、しかしどこか不安そうな声はセラフィナのものだ。
さすがに都合よくすべてを聞き取れはしないようだが、ここに彼女がいるのがわかれ
ば構わない。比較的細身の黒ローブが、周りを囲んだ者たちに追いたてられるように歩
き出すのが見えた。間違いない。あれが彼女だ。
他の連中には興味がない。セラフィナを確認できればそれでいい。
闇に隠れて体を実体化し、視覚を甦らせる。夕日の残滓が鋭く目の奥に突き刺さって、
思わずうめき声を漏らした。少し目が回っているみたいにクラクラする。壁に手をつき、
きつく瞼を下ろし、数秒。開いた目に、闇に沈む石造りの廊下がはっきりと見えること
を確認し、ライは歩き出した。
コツンコツンとブーツの裏が石を叩く小さな音を意識しながら、深呼吸。酸素を取り
込む必要はない。心を落ち着かせるための儀式。刃を眺め、柄を握る。
革手袋は冷たい金属の温度を遮断するし、肉のない手のひらは温度を感じない。
二階にあがってくる足音は聞こえない。
取引だか何だか知らないが、とにかくセラフィナを使って悪巧みをしようとしている
連中は、どうやら一階に集まっているらしい。この城はあまり普通とはいえない構造を
しているようで、客を招く広間のようなものもない。使用人のための食堂も狭く、大人
数が集まることが出来る場所は限られている。
最初から一階にいればよかったかなと思いながら階段へ向かう。
二階にいたのには、見晴らしがいいからという以外の理由はない。
あと、人がいないから――か。我侭を言っている場合ではないとはわかっているが、
今、人間の姿を見たら、思わず切りかかってしまうかも知れない。刃物を持つとはそう
いうことだ。
気が早っている。階段へ辿り着く。もう一度深呼吸。冷静に行動しろと自分に言い聞
かせる。階段に灯りがあるはずもなく、ただただ暗い闇だけが目の前に広がっている。
「……」
その中に人の気配を感じて、ライは眉をひそめた。
見張りだろうか。何故、こんなところに? 上からの侵入者を警戒する状況ではない
はずだ。踊り場あたりに誰かがいる。衣擦れ、呼吸する音、不自然な空気の流れ。人間
の気配というのは明確な知覚で判断するには足りないそういったものの集合だ。
「セラフィナさんを助けに来たの?」
闇が言葉を発した。正確には、踊り場に立っているらしい人物が。
聞き覚えのある声だ。まだ大人には届かない少女の――
「……ティリー?」
魔法の灯りが浮かび上がり、ベアトリスの姿を照らし出した。彼女の足元に、何か模
様のような赤い線が引かれている。
ライは軽い眩暈を起こして顔をしかめた。。
僕の近くで魔法は使わないでって言ったのに。
「そうだよ」
何故、この子がここにいるんだろう。
困惑したまま答える。
「ティリーは……なんで、こんなところに」
彼女も同じ目的でここに来たのだろうか。いや、違う。
真面目に見張っていなかったとはいえ、入り口を見下ろす場所にいたのだ。誰かが来
れば気づくはず。しかしベアトリスが訪れたのは見なかった。別の場所から入り込んだ
のか、それとも――もっと前からここにいたのか。
この町に到着するなり、約束があると言って消えた少女。ここで誰かを待っていたと
したら? 冒険者の仲間なら、隠れている必要はない。となれば。
「知り合いに会う約束をしてたの。
ソフィニアの仕事の報酬ももらわなきゃいけないしね」
「え?」
ああ、そういえば、彼女もソフィニアにいたと言っていた。
だったら不自然では……不自然すぎる。ここで待ち合わせをする知り合いとは誰だ?
危険だ。意識が警鐘を鳴らす。
ライは反射的に剣を構えて後退った。
ベアトリスはあきれたような口調で言った。
「ここの領主の息子はね、とても馬鹿な男なの。
ちょっと邪魔な政敵を殺すためだけにわざわざ私にソフィニアであんな派手なことを
やらせるし。今度は、小国のお姫様が近くにいるってことを知ったら、彼女を利用して
陰謀を巡らそうなんて」
あんな派手なこと?
――何人もが死んだ事件。残酷で、陰惨な。
「……ティリー?」
困惑が深まる。どういうことだろう。
ベアトリスは、なんともいえない表情で立ち尽くすライに続けて言った。
「でも、それを阻止したい動きもある。
パティーたちはセラフィナさんを逃がせばいいと思ってるみたいだけど」
「……パティーって」
何から言えばいいのだろう。とりあえず率直な疑問を口にすると、ベアトリスは少し
だけ嫌な顔をした。
「パトリシアよ」
「ちょっと待って、なんでその名前が出てくる?」
印象に残りすぎていて忘れられない。やたら男前だった、海賊船の女船長――パトリ
シア。やはりさっきのは見間違いではなかった。どうやらどこかの令嬢らしかったが、
この町の権力者と繋がっていた、ということだろうか。
「でも私は殺しちゃっても構わないと思うわ。
お姫様を利用させないためには、お姫様がいなくなるのが一番だもの。
だけど、まだしばらくは、あの馬鹿息子の味方のフリをしなきゃね。邪魔を全部片付
けるまでは……」
ついさっきまで仲良く会話していた人間の言葉とは思えない。
ライは絶句する。動揺で剣先が揺れた。刃が光をつややかに照り返す。
「……敵?」
ソフィニアのあれは、ベアトリスの仕業?
彼女の言葉が本当ならば、儀式めいた要素はフェイクで、標的は一人だったことにな
る。あのとき、自警団の男達が言葉を濁したのも、そういった陰謀が関わっていたから
だとすれば納得できる。
素人の犯行、最終的には呼び出した亡者に歯向かわれ死亡。そう報じられた。
その“素人”が、その政敵とやらだったなら? 本当は別の犯人がいて……
……それが、ベアトリス?
理解が追いつかない。目の前の少女と、あの惨劇。結びつかないにも程がある。
だがベアトリスは今何と言った? セラフィナさんを、殺してしまっても構わない?
馬鹿言え。たとえ誰だろうと、そんなことは許さない。
思考を切り替える。目の前の少女――ベアトリスは敵だ。
ライは声を搾り出すように問いかける。
「なんで、そんなことを?」
「私だってセラフィナさんのことは逃がしてあげようかと思ったけど!
ライがあまりに彼女のことを気にするんだもの」
「当たり前だろ! 心配するに決まってる」
何を言っているんだ、この子は?
剣を向ける。まだ割り切れない。脅す以上のことはできそうにない。どうにか納得し
てくれないだろうか。無茶だとはわかっているが、それでも。
「…………」
ベアトリスは暗い目でライを睨みつけた。
彼女が小声で「もういい」と呟いた。どういう意味なのか聞ける雰囲気ではなくて、
口をつぐむ。目の前の少女がソフィニアの実行犯だと知った瞬間、自分はもっと激昂す
るかと思ったが、そんなことはなかった。奇妙に冷静だ。殺された少女のことも、襲っ
てきた亡霊のことも鮮明に覚えている。それでも怒りが湧かないのは――
怒りよりも――ただ、恐い。ソフィニアの実行犯が、目の前に?
あれだけ強力な亡霊を完全に支配化に置いて操ってみせた術者を相手にしようとして
いる。背筋を悪寒が這い上がる。そういう専門の人間には太刀打ちができない。そうい
う風になっている。
誰だって、どれだけ憤っていたとしても、ナイフを持った人殺しが目の前に立ったと
して、果たして怒りが湧き起こるだろうか。そんな余裕はないはずだ。自分が次の獲物
にならないことを祈るのに精一杯で。それと同じだ。何をどうしても勝てないならば尚
更。だけど、セラフィナを助けるためには倒さなければならない。
姿を消す。その次の瞬間には、少女の背後にいる。
振り向かない彼女を見下ろしながら剣を振り上げた。前に海賊船でやったように、柄
頭で昏倒させられればいいのだけど。ただ、技術はないから完全な力技だ。怪我をさせ
ないように気をつけて。
そんなことを考えていたのは、ごくごく一瞬のことだったが、その間に、踊り場の床
に広がる赤い線が、鮮やかに輝くのが見えた。ヤバい。何が? わからない、でも間違
いなく、何か、致命的な――
「……好きなのに」
誰が、何を?
ひどい眠気 が
嘘だろこん な 簡単に
取り落とした剣 乾いた音
世界が暗くなっていく
そうだ ずっと眠かった ん
――どさ、という音はせずに彼の体は色を失い消える。
場所:港町ルクセン -廃城
------------------------------------------------------------------------
二台目の馬車はまだ来ない。
好きにしていていいと言われたのに体よく見張りを押し付けられたライは、もちろん
そんな役目を果たすことなどなく、廊下の突き当たり、窓のある壁を背にして座り込ん
でいた。
手には剣。折りたたみナイフに似た形状だが、刃を伸ばした状態での全長は小剣ほど。
隠し持つことに特化したその武器には余計な装飾などなく、無愛想な機能美だけが心を
惹き付ける。鋭い刃、直線から繋がる曲線、金属の冷たい感触、柄に埋め込まれた滑り
止めゴムの黒さと弾力、柄と刃を繋ぐ繊細な金具の輝き。事務用品にも似たシンプルな
繊細さ。殺し屋が使う暗器武器。
死んだ父の書斎から無断で持ち出した。そして恐らく父が使ったのは別の方法で、自
分も何度もこれを振るった。生きていた頃も、死んでしまった後も。
本物はどこかへ無くしてしまった。今、手の中にあるのは質量を持つ幻でしかない。
それでもあの剣のことは鮮明に思い出せる。滑らかな直線と曲線で構成された刃物。切
り刻み、貫き、抉り、殺すためだけにある武器。父の形見にして自分の形見。
力なく空を切るように刃を振り、そして翳して、窓からの光が反射するのを眺める。
刀身に映るのは石造りの壁か床か天井。そして、照り返しの光。外には夕闇が舞い降り
ようとしている。光は白ではなく、だからといって夕日色は血の色にも似ていなく、た
だいたずらに目を灼く強烈な橙色だった。限りなく本物に近い幻は本物ではないのだろ
うか。
廊下の奥は完全な闇。光の忍び込みようもなく頑強に造られた建物だからだ。
昼なお暗い。明かりなしに歩き回るのは人間には難しい。だからこそ、陰謀だの何だ
のに使われるのだろう。闇よりも人を恐れる人種というのは存在する。他者が近づかな
い場所を求めれば闇に行き着くのは当然のことだ。
ガラガラ――
車輪が砂利を蹴る音を聞きつけて、ライは立ち上がった。
己の体を空に溶かす。それから振り返り、先ほど到着したのと同じ漆黒の馬車が現れ
るのを見た。窓枠に寄りかかり、身を乗り出すようにして。しかし絶対に見つからない。
馬車の中から吐き出されたのはさっきと同じ黒ローブの集団だ。
ゆったりとした布を被っているせいで、遠目には体格がよくわからない。夕闇の中、
黒い布は、空間把握力を狂わせる。
「さてと……」
馬車の扉は閉じられ、御者だけを残して黒ローブたちが歩き始める。小声で何かを話
す声。セラフィナのものが混じっていたのを聞いて、表情を剣呑に。集中すると視界が
黒く染まった。知覚する膨大な情報のうち一部、人間なら視覚に相当する部分を切り捨
て、音を拾う――聞こえないはずがない。物理的に存在しない僕には距離なんか意味が
ない。第六感に引っかかるものはすべて知覚できる。聴覚でなくてもいい。だから、聞
こえないはずがない。思い込みがすべてだ。信じれば聞こえる。
「――…こは? 一体、…こ……です?」
「…ちの外れの古城…す。今は使わ…て――」
聞こえた。毅然とした、しかしどこか不安そうな声はセラフィナのものだ。
さすがに都合よくすべてを聞き取れはしないようだが、ここに彼女がいるのがわかれ
ば構わない。比較的細身の黒ローブが、周りを囲んだ者たちに追いたてられるように歩
き出すのが見えた。間違いない。あれが彼女だ。
他の連中には興味がない。セラフィナを確認できればそれでいい。
闇に隠れて体を実体化し、視覚を甦らせる。夕日の残滓が鋭く目の奥に突き刺さって、
思わずうめき声を漏らした。少し目が回っているみたいにクラクラする。壁に手をつき、
きつく瞼を下ろし、数秒。開いた目に、闇に沈む石造りの廊下がはっきりと見えること
を確認し、ライは歩き出した。
コツンコツンとブーツの裏が石を叩く小さな音を意識しながら、深呼吸。酸素を取り
込む必要はない。心を落ち着かせるための儀式。刃を眺め、柄を握る。
革手袋は冷たい金属の温度を遮断するし、肉のない手のひらは温度を感じない。
二階にあがってくる足音は聞こえない。
取引だか何だか知らないが、とにかくセラフィナを使って悪巧みをしようとしている
連中は、どうやら一階に集まっているらしい。この城はあまり普通とはいえない構造を
しているようで、客を招く広間のようなものもない。使用人のための食堂も狭く、大人
数が集まることが出来る場所は限られている。
最初から一階にいればよかったかなと思いながら階段へ向かう。
二階にいたのには、見晴らしがいいからという以外の理由はない。
あと、人がいないから――か。我侭を言っている場合ではないとはわかっているが、
今、人間の姿を見たら、思わず切りかかってしまうかも知れない。刃物を持つとはそう
いうことだ。
気が早っている。階段へ辿り着く。もう一度深呼吸。冷静に行動しろと自分に言い聞
かせる。階段に灯りがあるはずもなく、ただただ暗い闇だけが目の前に広がっている。
「……」
その中に人の気配を感じて、ライは眉をひそめた。
見張りだろうか。何故、こんなところに? 上からの侵入者を警戒する状況ではない
はずだ。踊り場あたりに誰かがいる。衣擦れ、呼吸する音、不自然な空気の流れ。人間
の気配というのは明確な知覚で判断するには足りないそういったものの集合だ。
「セラフィナさんを助けに来たの?」
闇が言葉を発した。正確には、踊り場に立っているらしい人物が。
聞き覚えのある声だ。まだ大人には届かない少女の――
「……ティリー?」
魔法の灯りが浮かび上がり、ベアトリスの姿を照らし出した。彼女の足元に、何か模
様のような赤い線が引かれている。
ライは軽い眩暈を起こして顔をしかめた。。
僕の近くで魔法は使わないでって言ったのに。
「そうだよ」
何故、この子がここにいるんだろう。
困惑したまま答える。
「ティリーは……なんで、こんなところに」
彼女も同じ目的でここに来たのだろうか。いや、違う。
真面目に見張っていなかったとはいえ、入り口を見下ろす場所にいたのだ。誰かが来
れば気づくはず。しかしベアトリスが訪れたのは見なかった。別の場所から入り込んだ
のか、それとも――もっと前からここにいたのか。
この町に到着するなり、約束があると言って消えた少女。ここで誰かを待っていたと
したら? 冒険者の仲間なら、隠れている必要はない。となれば。
「知り合いに会う約束をしてたの。
ソフィニアの仕事の報酬ももらわなきゃいけないしね」
「え?」
ああ、そういえば、彼女もソフィニアにいたと言っていた。
だったら不自然では……不自然すぎる。ここで待ち合わせをする知り合いとは誰だ?
危険だ。意識が警鐘を鳴らす。
ライは反射的に剣を構えて後退った。
ベアトリスはあきれたような口調で言った。
「ここの領主の息子はね、とても馬鹿な男なの。
ちょっと邪魔な政敵を殺すためだけにわざわざ私にソフィニアであんな派手なことを
やらせるし。今度は、小国のお姫様が近くにいるってことを知ったら、彼女を利用して
陰謀を巡らそうなんて」
あんな派手なこと?
――何人もが死んだ事件。残酷で、陰惨な。
「……ティリー?」
困惑が深まる。どういうことだろう。
ベアトリスは、なんともいえない表情で立ち尽くすライに続けて言った。
「でも、それを阻止したい動きもある。
パティーたちはセラフィナさんを逃がせばいいと思ってるみたいだけど」
「……パティーって」
何から言えばいいのだろう。とりあえず率直な疑問を口にすると、ベアトリスは少し
だけ嫌な顔をした。
「パトリシアよ」
「ちょっと待って、なんでその名前が出てくる?」
印象に残りすぎていて忘れられない。やたら男前だった、海賊船の女船長――パトリ
シア。やはりさっきのは見間違いではなかった。どうやらどこかの令嬢らしかったが、
この町の権力者と繋がっていた、ということだろうか。
「でも私は殺しちゃっても構わないと思うわ。
お姫様を利用させないためには、お姫様がいなくなるのが一番だもの。
だけど、まだしばらくは、あの馬鹿息子の味方のフリをしなきゃね。邪魔を全部片付
けるまでは……」
ついさっきまで仲良く会話していた人間の言葉とは思えない。
ライは絶句する。動揺で剣先が揺れた。刃が光をつややかに照り返す。
「……敵?」
ソフィニアのあれは、ベアトリスの仕業?
彼女の言葉が本当ならば、儀式めいた要素はフェイクで、標的は一人だったことにな
る。あのとき、自警団の男達が言葉を濁したのも、そういった陰謀が関わっていたから
だとすれば納得できる。
素人の犯行、最終的には呼び出した亡者に歯向かわれ死亡。そう報じられた。
その“素人”が、その政敵とやらだったなら? 本当は別の犯人がいて……
……それが、ベアトリス?
理解が追いつかない。目の前の少女と、あの惨劇。結びつかないにも程がある。
だがベアトリスは今何と言った? セラフィナさんを、殺してしまっても構わない?
馬鹿言え。たとえ誰だろうと、そんなことは許さない。
思考を切り替える。目の前の少女――ベアトリスは敵だ。
ライは声を搾り出すように問いかける。
「なんで、そんなことを?」
「私だってセラフィナさんのことは逃がしてあげようかと思ったけど!
ライがあまりに彼女のことを気にするんだもの」
「当たり前だろ! 心配するに決まってる」
何を言っているんだ、この子は?
剣を向ける。まだ割り切れない。脅す以上のことはできそうにない。どうにか納得し
てくれないだろうか。無茶だとはわかっているが、それでも。
「…………」
ベアトリスは暗い目でライを睨みつけた。
彼女が小声で「もういい」と呟いた。どういう意味なのか聞ける雰囲気ではなくて、
口をつぐむ。目の前の少女がソフィニアの実行犯だと知った瞬間、自分はもっと激昂す
るかと思ったが、そんなことはなかった。奇妙に冷静だ。殺された少女のことも、襲っ
てきた亡霊のことも鮮明に覚えている。それでも怒りが湧かないのは――
怒りよりも――ただ、恐い。ソフィニアの実行犯が、目の前に?
あれだけ強力な亡霊を完全に支配化に置いて操ってみせた術者を相手にしようとして
いる。背筋を悪寒が這い上がる。そういう専門の人間には太刀打ちができない。そうい
う風になっている。
誰だって、どれだけ憤っていたとしても、ナイフを持った人殺しが目の前に立ったと
して、果たして怒りが湧き起こるだろうか。そんな余裕はないはずだ。自分が次の獲物
にならないことを祈るのに精一杯で。それと同じだ。何をどうしても勝てないならば尚
更。だけど、セラフィナを助けるためには倒さなければならない。
姿を消す。その次の瞬間には、少女の背後にいる。
振り向かない彼女を見下ろしながら剣を振り上げた。前に海賊船でやったように、柄
頭で昏倒させられればいいのだけど。ただ、技術はないから完全な力技だ。怪我をさせ
ないように気をつけて。
そんなことを考えていたのは、ごくごく一瞬のことだったが、その間に、踊り場の床
に広がる赤い線が、鮮やかに輝くのが見えた。ヤバい。何が? わからない、でも間違
いなく、何か、致命的な――
「……好きなのに」
誰が、何を?
ひどい眠気 が
嘘だろこん な 簡単に
取り落とした剣 乾いた音
世界が暗くなっていく
そうだ ずっと眠かった ん
――どさ、という音はせずに彼の体は色を失い消える。
人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン -廃城
------------------------------------------------------------------------
ガクン、と少し大きな衝撃を合図に馬車は止まった。顔の見えない黒ローブ達が、
先に降りて辺りを警戒する。先に同型の馬車が到着していたせいだろうか、思ったほ
どソレは長く続かなかった。
「さあ、お降り下さい」
セラフィナは促されるままに馬車を降り、思わず目の前の建物を見上げた。
大きく切り出した石を積み上げて作られた城。その堅牢な造りは、砦と言うよりも
むしろ文字通りの牢獄を思わせる。沈みかけて紅く染まる夕日を背に立つ生活感のか
けらもないその姿は、人々が権力や武力を傘に簡単に殺されていった姿と血の匂いま
でもを想像させて、セラフィナは顔をしかめた。
「こちらです」
セラフィナの三方を囲むように誘導する黒ローブ達。先導するのはバーゼラルド
だ。
物々しい雰囲気とこれから先の不安で、セラフィナは僅かに体を堅くする。
「それで、ここは? 一体、ここはどこです?」
声が思ったほど出ていない。セラフィナは僅かに眉根を寄せた。
自分はこんな事で落ち着きを失うのか。緊張など、今までにうんざりするほど経験
したはずなのに。命の危険だって一度や二度じゃない。大丈夫、落ち着ける。
セラフィナは自分にそう言い聞かせながら金細工のブローチに触れ、口元を引き締
めた。
「町の外れの古城です。今は使われていません」
バーゼラルドの簡潔で素っ気ない説明。見れば分かるような説明を求めているわけ
ではないのに、敢えてそういう形の返事しかしないつもりなのだろう。他の黒ローブ
達に歩調を合わせながら、返事の間も速度を落とすことなく建物を目指す。
自分がここにいることを知らないであろう連れにまた心配を掛けているのだろうな
ぁと思うと、セラフィナの顔に自嘲の笑みが浮かぶ。力になりたいと思っていても、
結局いつも助けられる側にいるのは、どこかに過信や甘えがあるからなのだろうか。
(ソフィニアの時も、私がいなければライさんは危険を冒さずに済んだかもしれな
い)
出会って何年も経ったわけではないのに、その思い出には危険や面倒が付き纏う。
(私が付き合ってくれと言わなかったら……)
馬車に乗って嫌な思いをすることもなかっただろうし、そもそもあの船には乗らな
かったのではないか? ……海賊に襲われたのは不運といえなくもないが、海賊に狙
われる規模の輸送船に乗ることになったのは、自分の責任が大きいだろう。
(あの時だって)
どういう偶然が重なったのか、上手くいったから良かったモノの、噂の幽霊屋敷で
自分たちもシラと同じような目にあっていたかも知れない。
(そして、今)
自分ときちんと向き合わず、放棄してきたはずの皇位の為に、私はココに囚われて
いる。
足が止まりそうになり、後ろから背を押され、また歩き出す。
二、三言、何か尋ねてみたが、欲しい答えなんて返ってこない。
ココで命を落とすか、それとも国で傀儡となるのか。どちらも望むところではない
のは分かっている。ならば……?
一瞬、封魔布に手が伸びそうになって自制する。
ダメだ。コントロール出来ない力は、破壊しか生まない。
いつしか無言で歩きながら、ブローチをきつく握りしめる事しかできなかっ
た……。
建物の入り口まで来ると、バーゼラルドは相変わらず敬意を感じさせない恭しさで
大袈裟に礼をした。
「お入り下さい、皇女様」
どういう真意があるのか知らないが、嫌味にしか聞こえない。実際、蔑まれている
ような気さえする。
「どなたがお待ちなのかしら」
礼には一瞥もくれずにセラフィナが問うと、バーゼラルドは二人のの黒ローブにな
にやら指示を出し、入り口の警護に張り付かせた。
「ここから先は私が一人でご案内します」
これで二人。少しは動きがとれるかも知れない。
セラフィナの思いを察したかのように、バーゼラルドは冷笑する。
「逃げようなんて思わないことです。貴女が逃亡を図った場合、生死は問わない
と……」
言葉の途中で先導して歩いていたバーゼラルドが振り返る。
「……依頼人も言っています」
バーゼラルドの瞳が楽しげに揺れた。
祖国の危機に笑っていられるこの男が、セラフィナには理解できなかった。
それとも皇女など居ない方が国は平和だと思っているのだろうか?
「貴方はカフールの出ではないのですか?」
セラフィナが、ずっと気になっていたことだった。
「……確かにカフールで育ちましたが、そんなことは貴女に関係ないでしょう」
僅かに動揺したのか、不自然なタイミングで再び背を向けるバーゼラルド。
カフール育ちということを隠しきっているつもりだったのだろうか。
「私を殺したいほど憎いのですか」
バーゼラルドの背に投げかけたその声は黙殺された。
セラフィナは言葉を続ける。
「私が生身であれ遺体であれ、国に帰るとなると騒動になるんでしょうね」
バーゼラルドはぼそりと言った。
「カフールは貧しい……」
それはセラフィナも感じていた。
外に出て初めて分かったことではあるが、カフールは他の国との交易のための材料
に乏しかった。国内で賄うには充分だったとはいえ、余りあるほどの農地があるわけ
でもなく、以前は随分豊かだった銀山も底をつき始めているという話だった。
魔法を「頼るべきではない、人間には過ぎた力」を認識しているにもかかわらず、
カフールが希少な封魔布をソフィニアに輸出していたのには、やはりその辺の事情が
大きい。
武術を身につけた者達が「傭兵」として出稼ぎに出ることもそう珍しいことではな
く、ギルドに登録している人数も相当数の筈だった。
「国など……くそくらえだ」
最後の方など、よほど気をつけていないと聞こえない、溜め息に紛れたような小さ
な声だった。
「さあ、お入り下さい」
バーゼラルドが立ち止まったのは、ランプらしき明かりの漏れ出す扉のない部屋の
入り口だった。今まで薄暗い通路を歩いてきたせいか、逆行で室内がよく見えない。
「ぉぉぉぉぉおお!!」
感嘆の声と共に、部屋の中で唯一座っていた中年の男が立ち上がった。
脇に立つ護衛は一人。そういう取り決めでもあったのだろうか。
「カフール皇家第二皇女にして第一位の皇位継承者、セラフィナ様をお連れしまし
た」
バーゼラルドが片膝を付いて頭を垂れる。
これはカフールでの「主に対する」正式な礼であった。眼前の男が依頼主なのだろ
う。
だが、セラフィナはその事実よりも気になる部分があった。
第一位の皇位継承者とは? 一体何があったというのか。
「貴女の後ろ盾になる者ですよ、ご挨拶を」
わざと相手にも聞こえるように、バーゼラルドが言っているのがわかった。
男は不躾な視線で舐め回すようにセラフィナを見ている。
値踏み……政治的な価値だけでなく異性としての期待を込めたいやらしい目。
セラフィナは反吐が出そうだった。
それでも何とかローブを外し、口元に笑みをたたえ、僅かに膝を曲げて会釈する。
「恐れおののいて青ざめた人形が連れられてくると思ったが……いや、すばらしい」
男はセラフィナに近づき、顎を掴もうと手を伸ばした。
が、寸前でセラフィナが一歩引いたため、右手が虚しく空振りする。
「まあ、一晩ゆっくり語り合えば、貴女にも自分の立場がすぐにわかる」
自信ありげに男はそう言った。
自分の言った言葉が気に入ったのか、ぶつぶつと「一晩ゆっくり……」「いや、ご
希望とあれば幾晩でも……」とにやけてみせる。
その時、下から突き上げられるような衝撃が古城を襲った。
男が慌てて自分の護衛に視線を走らせると、護衛は部屋から走り出ると見せかけて
男に突進、男が現状を理解する前に鮮やかに昏倒させた。
部屋に残っていたバーゼラルドは、セラフィナを背に立ち、腰の剣を引き抜く。
対峙した二人は、邪魔だとばかりにローブを外して臨戦態勢に入った。
「な……ぜ」
セラフィナはそれ以上言葉が出なかった。
明るい金の髪と、見間違えようのない顔……海賊船の船長が目の前にいるのだ。
「こんなところで再会するなんて、運命を感じるかい? 美しいお嬢さん」
視線はバーゼラルドに向けたまま、涼しい顔で笑うキャプテン。
状況が飲み込めずにセラフィナの目が泳ぐ。
一体外では何が始まったのか、時折の爆発音と途切れそうで途切れない金属のぶつ
かり合う音が続いている。悲鳴のような声まで聞こえた。かすかな怒声もあるよう
だ。
「ああ、そうそう、例の死に損ないも来ているみたいだったよ」
何かのついでのように、キャプテンは言った。
バーゼラルドとの睨み合いは、未だ続いている。
もしかすると、責めあぐねるほど双方が強いのかも知れなかった。
「アイツは気に入らないけど、君のことは気に入っててね」
セラフィナにウィンクすると、キャプテンはいきなりバーゼラルド斬りかかった。
場所:港町ルクセン -廃城
------------------------------------------------------------------------
ガクン、と少し大きな衝撃を合図に馬車は止まった。顔の見えない黒ローブ達が、
先に降りて辺りを警戒する。先に同型の馬車が到着していたせいだろうか、思ったほ
どソレは長く続かなかった。
「さあ、お降り下さい」
セラフィナは促されるままに馬車を降り、思わず目の前の建物を見上げた。
大きく切り出した石を積み上げて作られた城。その堅牢な造りは、砦と言うよりも
むしろ文字通りの牢獄を思わせる。沈みかけて紅く染まる夕日を背に立つ生活感のか
けらもないその姿は、人々が権力や武力を傘に簡単に殺されていった姿と血の匂いま
でもを想像させて、セラフィナは顔をしかめた。
「こちらです」
セラフィナの三方を囲むように誘導する黒ローブ達。先導するのはバーゼラルド
だ。
物々しい雰囲気とこれから先の不安で、セラフィナは僅かに体を堅くする。
「それで、ここは? 一体、ここはどこです?」
声が思ったほど出ていない。セラフィナは僅かに眉根を寄せた。
自分はこんな事で落ち着きを失うのか。緊張など、今までにうんざりするほど経験
したはずなのに。命の危険だって一度や二度じゃない。大丈夫、落ち着ける。
セラフィナは自分にそう言い聞かせながら金細工のブローチに触れ、口元を引き締
めた。
「町の外れの古城です。今は使われていません」
バーゼラルドの簡潔で素っ気ない説明。見れば分かるような説明を求めているわけ
ではないのに、敢えてそういう形の返事しかしないつもりなのだろう。他の黒ローブ
達に歩調を合わせながら、返事の間も速度を落とすことなく建物を目指す。
自分がここにいることを知らないであろう連れにまた心配を掛けているのだろうな
ぁと思うと、セラフィナの顔に自嘲の笑みが浮かぶ。力になりたいと思っていても、
結局いつも助けられる側にいるのは、どこかに過信や甘えがあるからなのだろうか。
(ソフィニアの時も、私がいなければライさんは危険を冒さずに済んだかもしれな
い)
出会って何年も経ったわけではないのに、その思い出には危険や面倒が付き纏う。
(私が付き合ってくれと言わなかったら……)
馬車に乗って嫌な思いをすることもなかっただろうし、そもそもあの船には乗らな
かったのではないか? ……海賊に襲われたのは不運といえなくもないが、海賊に狙
われる規模の輸送船に乗ることになったのは、自分の責任が大きいだろう。
(あの時だって)
どういう偶然が重なったのか、上手くいったから良かったモノの、噂の幽霊屋敷で
自分たちもシラと同じような目にあっていたかも知れない。
(そして、今)
自分ときちんと向き合わず、放棄してきたはずの皇位の為に、私はココに囚われて
いる。
足が止まりそうになり、後ろから背を押され、また歩き出す。
二、三言、何か尋ねてみたが、欲しい答えなんて返ってこない。
ココで命を落とすか、それとも国で傀儡となるのか。どちらも望むところではない
のは分かっている。ならば……?
一瞬、封魔布に手が伸びそうになって自制する。
ダメだ。コントロール出来ない力は、破壊しか生まない。
いつしか無言で歩きながら、ブローチをきつく握りしめる事しかできなかっ
た……。
建物の入り口まで来ると、バーゼラルドは相変わらず敬意を感じさせない恭しさで
大袈裟に礼をした。
「お入り下さい、皇女様」
どういう真意があるのか知らないが、嫌味にしか聞こえない。実際、蔑まれている
ような気さえする。
「どなたがお待ちなのかしら」
礼には一瞥もくれずにセラフィナが問うと、バーゼラルドは二人のの黒ローブにな
にやら指示を出し、入り口の警護に張り付かせた。
「ここから先は私が一人でご案内します」
これで二人。少しは動きがとれるかも知れない。
セラフィナの思いを察したかのように、バーゼラルドは冷笑する。
「逃げようなんて思わないことです。貴女が逃亡を図った場合、生死は問わない
と……」
言葉の途中で先導して歩いていたバーゼラルドが振り返る。
「……依頼人も言っています」
バーゼラルドの瞳が楽しげに揺れた。
祖国の危機に笑っていられるこの男が、セラフィナには理解できなかった。
それとも皇女など居ない方が国は平和だと思っているのだろうか?
「貴方はカフールの出ではないのですか?」
セラフィナが、ずっと気になっていたことだった。
「……確かにカフールで育ちましたが、そんなことは貴女に関係ないでしょう」
僅かに動揺したのか、不自然なタイミングで再び背を向けるバーゼラルド。
カフール育ちということを隠しきっているつもりだったのだろうか。
「私を殺したいほど憎いのですか」
バーゼラルドの背に投げかけたその声は黙殺された。
セラフィナは言葉を続ける。
「私が生身であれ遺体であれ、国に帰るとなると騒動になるんでしょうね」
バーゼラルドはぼそりと言った。
「カフールは貧しい……」
それはセラフィナも感じていた。
外に出て初めて分かったことではあるが、カフールは他の国との交易のための材料
に乏しかった。国内で賄うには充分だったとはいえ、余りあるほどの農地があるわけ
でもなく、以前は随分豊かだった銀山も底をつき始めているという話だった。
魔法を「頼るべきではない、人間には過ぎた力」を認識しているにもかかわらず、
カフールが希少な封魔布をソフィニアに輸出していたのには、やはりその辺の事情が
大きい。
武術を身につけた者達が「傭兵」として出稼ぎに出ることもそう珍しいことではな
く、ギルドに登録している人数も相当数の筈だった。
「国など……くそくらえだ」
最後の方など、よほど気をつけていないと聞こえない、溜め息に紛れたような小さ
な声だった。
「さあ、お入り下さい」
バーゼラルドが立ち止まったのは、ランプらしき明かりの漏れ出す扉のない部屋の
入り口だった。今まで薄暗い通路を歩いてきたせいか、逆行で室内がよく見えない。
「ぉぉぉぉぉおお!!」
感嘆の声と共に、部屋の中で唯一座っていた中年の男が立ち上がった。
脇に立つ護衛は一人。そういう取り決めでもあったのだろうか。
「カフール皇家第二皇女にして第一位の皇位継承者、セラフィナ様をお連れしまし
た」
バーゼラルドが片膝を付いて頭を垂れる。
これはカフールでの「主に対する」正式な礼であった。眼前の男が依頼主なのだろ
う。
だが、セラフィナはその事実よりも気になる部分があった。
第一位の皇位継承者とは? 一体何があったというのか。
「貴女の後ろ盾になる者ですよ、ご挨拶を」
わざと相手にも聞こえるように、バーゼラルドが言っているのがわかった。
男は不躾な視線で舐め回すようにセラフィナを見ている。
値踏み……政治的な価値だけでなく異性としての期待を込めたいやらしい目。
セラフィナは反吐が出そうだった。
それでも何とかローブを外し、口元に笑みをたたえ、僅かに膝を曲げて会釈する。
「恐れおののいて青ざめた人形が連れられてくると思ったが……いや、すばらしい」
男はセラフィナに近づき、顎を掴もうと手を伸ばした。
が、寸前でセラフィナが一歩引いたため、右手が虚しく空振りする。
「まあ、一晩ゆっくり語り合えば、貴女にも自分の立場がすぐにわかる」
自信ありげに男はそう言った。
自分の言った言葉が気に入ったのか、ぶつぶつと「一晩ゆっくり……」「いや、ご
希望とあれば幾晩でも……」とにやけてみせる。
その時、下から突き上げられるような衝撃が古城を襲った。
男が慌てて自分の護衛に視線を走らせると、護衛は部屋から走り出ると見せかけて
男に突進、男が現状を理解する前に鮮やかに昏倒させた。
部屋に残っていたバーゼラルドは、セラフィナを背に立ち、腰の剣を引き抜く。
対峙した二人は、邪魔だとばかりにローブを外して臨戦態勢に入った。
「な……ぜ」
セラフィナはそれ以上言葉が出なかった。
明るい金の髪と、見間違えようのない顔……海賊船の船長が目の前にいるのだ。
「こんなところで再会するなんて、運命を感じるかい? 美しいお嬢さん」
視線はバーゼラルドに向けたまま、涼しい顔で笑うキャプテン。
状況が飲み込めずにセラフィナの目が泳ぐ。
一体外では何が始まったのか、時折の爆発音と途切れそうで途切れない金属のぶつ
かり合う音が続いている。悲鳴のような声まで聞こえた。かすかな怒声もあるよう
だ。
「ああ、そうそう、例の死に損ないも来ているみたいだったよ」
何かのついでのように、キャプテンは言った。
バーゼラルドとの睨み合いは、未だ続いている。
もしかすると、責めあぐねるほど双方が強いのかも知れなかった。
「アイツは気に入らないけど、君のことは気に入っててね」
セラフィナにウィンクすると、キャプテンはいきなりバーゼラルド斬りかかった。