人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン -廃城
------------------------------------------------------------------------
二台目の馬車はまだ来ない。
好きにしていていいと言われたのに体よく見張りを押し付けられたライは、もちろん
そんな役目を果たすことなどなく、廊下の突き当たり、窓のある壁を背にして座り込ん
でいた。
手には剣。折りたたみナイフに似た形状だが、刃を伸ばした状態での全長は小剣ほど。
隠し持つことに特化したその武器には余計な装飾などなく、無愛想な機能美だけが心を
惹き付ける。鋭い刃、直線から繋がる曲線、金属の冷たい感触、柄に埋め込まれた滑り
止めゴムの黒さと弾力、柄と刃を繋ぐ繊細な金具の輝き。事務用品にも似たシンプルな
繊細さ。殺し屋が使う暗器武器。
死んだ父の書斎から無断で持ち出した。そして恐らく父が使ったのは別の方法で、自
分も何度もこれを振るった。生きていた頃も、死んでしまった後も。
本物はどこかへ無くしてしまった。今、手の中にあるのは質量を持つ幻でしかない。
それでもあの剣のことは鮮明に思い出せる。滑らかな直線と曲線で構成された刃物。切
り刻み、貫き、抉り、殺すためだけにある武器。父の形見にして自分の形見。
力なく空を切るように刃を振り、そして翳して、窓からの光が反射するのを眺める。
刀身に映るのは石造りの壁か床か天井。そして、照り返しの光。外には夕闇が舞い降り
ようとしている。光は白ではなく、だからといって夕日色は血の色にも似ていなく、た
だいたずらに目を灼く強烈な橙色だった。限りなく本物に近い幻は本物ではないのだろ
うか。
廊下の奥は完全な闇。光の忍び込みようもなく頑強に造られた建物だからだ。
昼なお暗い。明かりなしに歩き回るのは人間には難しい。だからこそ、陰謀だの何だ
のに使われるのだろう。闇よりも人を恐れる人種というのは存在する。他者が近づかな
い場所を求めれば闇に行き着くのは当然のことだ。
ガラガラ――
車輪が砂利を蹴る音を聞きつけて、ライは立ち上がった。
己の体を空に溶かす。それから振り返り、先ほど到着したのと同じ漆黒の馬車が現れ
るのを見た。窓枠に寄りかかり、身を乗り出すようにして。しかし絶対に見つからない。
馬車の中から吐き出されたのはさっきと同じ黒ローブの集団だ。
ゆったりとした布を被っているせいで、遠目には体格がよくわからない。夕闇の中、
黒い布は、空間把握力を狂わせる。
「さてと……」
馬車の扉は閉じられ、御者だけを残して黒ローブたちが歩き始める。小声で何かを話
す声。セラフィナのものが混じっていたのを聞いて、表情を剣呑に。集中すると視界が
黒く染まった。知覚する膨大な情報のうち一部、人間なら視覚に相当する部分を切り捨
て、音を拾う――聞こえないはずがない。物理的に存在しない僕には距離なんか意味が
ない。第六感に引っかかるものはすべて知覚できる。聴覚でなくてもいい。だから、聞
こえないはずがない。思い込みがすべてだ。信じれば聞こえる。
「――…こは? 一体、…こ……です?」
「…ちの外れの古城…す。今は使わ…て――」
聞こえた。毅然とした、しかしどこか不安そうな声はセラフィナのものだ。
さすがに都合よくすべてを聞き取れはしないようだが、ここに彼女がいるのがわかれ
ば構わない。比較的細身の黒ローブが、周りを囲んだ者たちに追いたてられるように歩
き出すのが見えた。間違いない。あれが彼女だ。
他の連中には興味がない。セラフィナを確認できればそれでいい。
闇に隠れて体を実体化し、視覚を甦らせる。夕日の残滓が鋭く目の奥に突き刺さって、
思わずうめき声を漏らした。少し目が回っているみたいにクラクラする。壁に手をつき、
きつく瞼を下ろし、数秒。開いた目に、闇に沈む石造りの廊下がはっきりと見えること
を確認し、ライは歩き出した。
コツンコツンとブーツの裏が石を叩く小さな音を意識しながら、深呼吸。酸素を取り
込む必要はない。心を落ち着かせるための儀式。刃を眺め、柄を握る。
革手袋は冷たい金属の温度を遮断するし、肉のない手のひらは温度を感じない。
二階にあがってくる足音は聞こえない。
取引だか何だか知らないが、とにかくセラフィナを使って悪巧みをしようとしている
連中は、どうやら一階に集まっているらしい。この城はあまり普通とはいえない構造を
しているようで、客を招く広間のようなものもない。使用人のための食堂も狭く、大人
数が集まることが出来る場所は限られている。
最初から一階にいればよかったかなと思いながら階段へ向かう。
二階にいたのには、見晴らしがいいからという以外の理由はない。
あと、人がいないから――か。我侭を言っている場合ではないとはわかっているが、
今、人間の姿を見たら、思わず切りかかってしまうかも知れない。刃物を持つとはそう
いうことだ。
気が早っている。階段へ辿り着く。もう一度深呼吸。冷静に行動しろと自分に言い聞
かせる。階段に灯りがあるはずもなく、ただただ暗い闇だけが目の前に広がっている。
「……」
その中に人の気配を感じて、ライは眉をひそめた。
見張りだろうか。何故、こんなところに? 上からの侵入者を警戒する状況ではない
はずだ。踊り場あたりに誰かがいる。衣擦れ、呼吸する音、不自然な空気の流れ。人間
の気配というのは明確な知覚で判断するには足りないそういったものの集合だ。
「セラフィナさんを助けに来たの?」
闇が言葉を発した。正確には、踊り場に立っているらしい人物が。
聞き覚えのある声だ。まだ大人には届かない少女の――
「……ティリー?」
魔法の灯りが浮かび上がり、ベアトリスの姿を照らし出した。彼女の足元に、何か模
様のような赤い線が引かれている。
ライは軽い眩暈を起こして顔をしかめた。。
僕の近くで魔法は使わないでって言ったのに。
「そうだよ」
何故、この子がここにいるんだろう。
困惑したまま答える。
「ティリーは……なんで、こんなところに」
彼女も同じ目的でここに来たのだろうか。いや、違う。
真面目に見張っていなかったとはいえ、入り口を見下ろす場所にいたのだ。誰かが来
れば気づくはず。しかしベアトリスが訪れたのは見なかった。別の場所から入り込んだ
のか、それとも――もっと前からここにいたのか。
この町に到着するなり、約束があると言って消えた少女。ここで誰かを待っていたと
したら? 冒険者の仲間なら、隠れている必要はない。となれば。
「知り合いに会う約束をしてたの。
ソフィニアの仕事の報酬ももらわなきゃいけないしね」
「え?」
ああ、そういえば、彼女もソフィニアにいたと言っていた。
だったら不自然では……不自然すぎる。ここで待ち合わせをする知り合いとは誰だ?
危険だ。意識が警鐘を鳴らす。
ライは反射的に剣を構えて後退った。
ベアトリスはあきれたような口調で言った。
「ここの領主の息子はね、とても馬鹿な男なの。
ちょっと邪魔な政敵を殺すためだけにわざわざ私にソフィニアであんな派手なことを
やらせるし。今度は、小国のお姫様が近くにいるってことを知ったら、彼女を利用して
陰謀を巡らそうなんて」
あんな派手なこと?
――何人もが死んだ事件。残酷で、陰惨な。
「……ティリー?」
困惑が深まる。どういうことだろう。
ベアトリスは、なんともいえない表情で立ち尽くすライに続けて言った。
「でも、それを阻止したい動きもある。
パティーたちはセラフィナさんを逃がせばいいと思ってるみたいだけど」
「……パティーって」
何から言えばいいのだろう。とりあえず率直な疑問を口にすると、ベアトリスは少し
だけ嫌な顔をした。
「パトリシアよ」
「ちょっと待って、なんでその名前が出てくる?」
印象に残りすぎていて忘れられない。やたら男前だった、海賊船の女船長――パトリ
シア。やはりさっきのは見間違いではなかった。どうやらどこかの令嬢らしかったが、
この町の権力者と繋がっていた、ということだろうか。
「でも私は殺しちゃっても構わないと思うわ。
お姫様を利用させないためには、お姫様がいなくなるのが一番だもの。
だけど、まだしばらくは、あの馬鹿息子の味方のフリをしなきゃね。邪魔を全部片付
けるまでは……」
ついさっきまで仲良く会話していた人間の言葉とは思えない。
ライは絶句する。動揺で剣先が揺れた。刃が光をつややかに照り返す。
「……敵?」
ソフィニアのあれは、ベアトリスの仕業?
彼女の言葉が本当ならば、儀式めいた要素はフェイクで、標的は一人だったことにな
る。あのとき、自警団の男達が言葉を濁したのも、そういった陰謀が関わっていたから
だとすれば納得できる。
素人の犯行、最終的には呼び出した亡者に歯向かわれ死亡。そう報じられた。
その“素人”が、その政敵とやらだったなら? 本当は別の犯人がいて……
……それが、ベアトリス?
理解が追いつかない。目の前の少女と、あの惨劇。結びつかないにも程がある。
だがベアトリスは今何と言った? セラフィナさんを、殺してしまっても構わない?
馬鹿言え。たとえ誰だろうと、そんなことは許さない。
思考を切り替える。目の前の少女――ベアトリスは敵だ。
ライは声を搾り出すように問いかける。
「なんで、そんなことを?」
「私だってセラフィナさんのことは逃がしてあげようかと思ったけど!
ライがあまりに彼女のことを気にするんだもの」
「当たり前だろ! 心配するに決まってる」
何を言っているんだ、この子は?
剣を向ける。まだ割り切れない。脅す以上のことはできそうにない。どうにか納得し
てくれないだろうか。無茶だとはわかっているが、それでも。
「…………」
ベアトリスは暗い目でライを睨みつけた。
彼女が小声で「もういい」と呟いた。どういう意味なのか聞ける雰囲気ではなくて、
口をつぐむ。目の前の少女がソフィニアの実行犯だと知った瞬間、自分はもっと激昂す
るかと思ったが、そんなことはなかった。奇妙に冷静だ。殺された少女のことも、襲っ
てきた亡霊のことも鮮明に覚えている。それでも怒りが湧かないのは――
怒りよりも――ただ、恐い。ソフィニアの実行犯が、目の前に?
あれだけ強力な亡霊を完全に支配化に置いて操ってみせた術者を相手にしようとして
いる。背筋を悪寒が這い上がる。そういう専門の人間には太刀打ちができない。そうい
う風になっている。
誰だって、どれだけ憤っていたとしても、ナイフを持った人殺しが目の前に立ったと
して、果たして怒りが湧き起こるだろうか。そんな余裕はないはずだ。自分が次の獲物
にならないことを祈るのに精一杯で。それと同じだ。何をどうしても勝てないならば尚
更。だけど、セラフィナを助けるためには倒さなければならない。
姿を消す。その次の瞬間には、少女の背後にいる。
振り向かない彼女を見下ろしながら剣を振り上げた。前に海賊船でやったように、柄
頭で昏倒させられればいいのだけど。ただ、技術はないから完全な力技だ。怪我をさせ
ないように気をつけて。
そんなことを考えていたのは、ごくごく一瞬のことだったが、その間に、踊り場の床
に広がる赤い線が、鮮やかに輝くのが見えた。ヤバい。何が? わからない、でも間違
いなく、何か、致命的な――
「……好きなのに」
誰が、何を?
ひどい眠気 が
嘘だろこん な 簡単に
取り落とした剣 乾いた音
世界が暗くなっていく
そうだ ずっと眠かった ん
――どさ、という音はせずに彼の体は色を失い消える。
場所:港町ルクセン -廃城
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二台目の馬車はまだ来ない。
好きにしていていいと言われたのに体よく見張りを押し付けられたライは、もちろん
そんな役目を果たすことなどなく、廊下の突き当たり、窓のある壁を背にして座り込ん
でいた。
手には剣。折りたたみナイフに似た形状だが、刃を伸ばした状態での全長は小剣ほど。
隠し持つことに特化したその武器には余計な装飾などなく、無愛想な機能美だけが心を
惹き付ける。鋭い刃、直線から繋がる曲線、金属の冷たい感触、柄に埋め込まれた滑り
止めゴムの黒さと弾力、柄と刃を繋ぐ繊細な金具の輝き。事務用品にも似たシンプルな
繊細さ。殺し屋が使う暗器武器。
死んだ父の書斎から無断で持ち出した。そして恐らく父が使ったのは別の方法で、自
分も何度もこれを振るった。生きていた頃も、死んでしまった後も。
本物はどこかへ無くしてしまった。今、手の中にあるのは質量を持つ幻でしかない。
それでもあの剣のことは鮮明に思い出せる。滑らかな直線と曲線で構成された刃物。切
り刻み、貫き、抉り、殺すためだけにある武器。父の形見にして自分の形見。
力なく空を切るように刃を振り、そして翳して、窓からの光が反射するのを眺める。
刀身に映るのは石造りの壁か床か天井。そして、照り返しの光。外には夕闇が舞い降り
ようとしている。光は白ではなく、だからといって夕日色は血の色にも似ていなく、た
だいたずらに目を灼く強烈な橙色だった。限りなく本物に近い幻は本物ではないのだろ
うか。
廊下の奥は完全な闇。光の忍び込みようもなく頑強に造られた建物だからだ。
昼なお暗い。明かりなしに歩き回るのは人間には難しい。だからこそ、陰謀だの何だ
のに使われるのだろう。闇よりも人を恐れる人種というのは存在する。他者が近づかな
い場所を求めれば闇に行き着くのは当然のことだ。
ガラガラ――
車輪が砂利を蹴る音を聞きつけて、ライは立ち上がった。
己の体を空に溶かす。それから振り返り、先ほど到着したのと同じ漆黒の馬車が現れ
るのを見た。窓枠に寄りかかり、身を乗り出すようにして。しかし絶対に見つからない。
馬車の中から吐き出されたのはさっきと同じ黒ローブの集団だ。
ゆったりとした布を被っているせいで、遠目には体格がよくわからない。夕闇の中、
黒い布は、空間把握力を狂わせる。
「さてと……」
馬車の扉は閉じられ、御者だけを残して黒ローブたちが歩き始める。小声で何かを話
す声。セラフィナのものが混じっていたのを聞いて、表情を剣呑に。集中すると視界が
黒く染まった。知覚する膨大な情報のうち一部、人間なら視覚に相当する部分を切り捨
て、音を拾う――聞こえないはずがない。物理的に存在しない僕には距離なんか意味が
ない。第六感に引っかかるものはすべて知覚できる。聴覚でなくてもいい。だから、聞
こえないはずがない。思い込みがすべてだ。信じれば聞こえる。
「――…こは? 一体、…こ……です?」
「…ちの外れの古城…す。今は使わ…て――」
聞こえた。毅然とした、しかしどこか不安そうな声はセラフィナのものだ。
さすがに都合よくすべてを聞き取れはしないようだが、ここに彼女がいるのがわかれ
ば構わない。比較的細身の黒ローブが、周りを囲んだ者たちに追いたてられるように歩
き出すのが見えた。間違いない。あれが彼女だ。
他の連中には興味がない。セラフィナを確認できればそれでいい。
闇に隠れて体を実体化し、視覚を甦らせる。夕日の残滓が鋭く目の奥に突き刺さって、
思わずうめき声を漏らした。少し目が回っているみたいにクラクラする。壁に手をつき、
きつく瞼を下ろし、数秒。開いた目に、闇に沈む石造りの廊下がはっきりと見えること
を確認し、ライは歩き出した。
コツンコツンとブーツの裏が石を叩く小さな音を意識しながら、深呼吸。酸素を取り
込む必要はない。心を落ち着かせるための儀式。刃を眺め、柄を握る。
革手袋は冷たい金属の温度を遮断するし、肉のない手のひらは温度を感じない。
二階にあがってくる足音は聞こえない。
取引だか何だか知らないが、とにかくセラフィナを使って悪巧みをしようとしている
連中は、どうやら一階に集まっているらしい。この城はあまり普通とはいえない構造を
しているようで、客を招く広間のようなものもない。使用人のための食堂も狭く、大人
数が集まることが出来る場所は限られている。
最初から一階にいればよかったかなと思いながら階段へ向かう。
二階にいたのには、見晴らしがいいからという以外の理由はない。
あと、人がいないから――か。我侭を言っている場合ではないとはわかっているが、
今、人間の姿を見たら、思わず切りかかってしまうかも知れない。刃物を持つとはそう
いうことだ。
気が早っている。階段へ辿り着く。もう一度深呼吸。冷静に行動しろと自分に言い聞
かせる。階段に灯りがあるはずもなく、ただただ暗い闇だけが目の前に広がっている。
「……」
その中に人の気配を感じて、ライは眉をひそめた。
見張りだろうか。何故、こんなところに? 上からの侵入者を警戒する状況ではない
はずだ。踊り場あたりに誰かがいる。衣擦れ、呼吸する音、不自然な空気の流れ。人間
の気配というのは明確な知覚で判断するには足りないそういったものの集合だ。
「セラフィナさんを助けに来たの?」
闇が言葉を発した。正確には、踊り場に立っているらしい人物が。
聞き覚えのある声だ。まだ大人には届かない少女の――
「……ティリー?」
魔法の灯りが浮かび上がり、ベアトリスの姿を照らし出した。彼女の足元に、何か模
様のような赤い線が引かれている。
ライは軽い眩暈を起こして顔をしかめた。。
僕の近くで魔法は使わないでって言ったのに。
「そうだよ」
何故、この子がここにいるんだろう。
困惑したまま答える。
「ティリーは……なんで、こんなところに」
彼女も同じ目的でここに来たのだろうか。いや、違う。
真面目に見張っていなかったとはいえ、入り口を見下ろす場所にいたのだ。誰かが来
れば気づくはず。しかしベアトリスが訪れたのは見なかった。別の場所から入り込んだ
のか、それとも――もっと前からここにいたのか。
この町に到着するなり、約束があると言って消えた少女。ここで誰かを待っていたと
したら? 冒険者の仲間なら、隠れている必要はない。となれば。
「知り合いに会う約束をしてたの。
ソフィニアの仕事の報酬ももらわなきゃいけないしね」
「え?」
ああ、そういえば、彼女もソフィニアにいたと言っていた。
だったら不自然では……不自然すぎる。ここで待ち合わせをする知り合いとは誰だ?
危険だ。意識が警鐘を鳴らす。
ライは反射的に剣を構えて後退った。
ベアトリスはあきれたような口調で言った。
「ここの領主の息子はね、とても馬鹿な男なの。
ちょっと邪魔な政敵を殺すためだけにわざわざ私にソフィニアであんな派手なことを
やらせるし。今度は、小国のお姫様が近くにいるってことを知ったら、彼女を利用して
陰謀を巡らそうなんて」
あんな派手なこと?
――何人もが死んだ事件。残酷で、陰惨な。
「……ティリー?」
困惑が深まる。どういうことだろう。
ベアトリスは、なんともいえない表情で立ち尽くすライに続けて言った。
「でも、それを阻止したい動きもある。
パティーたちはセラフィナさんを逃がせばいいと思ってるみたいだけど」
「……パティーって」
何から言えばいいのだろう。とりあえず率直な疑問を口にすると、ベアトリスは少し
だけ嫌な顔をした。
「パトリシアよ」
「ちょっと待って、なんでその名前が出てくる?」
印象に残りすぎていて忘れられない。やたら男前だった、海賊船の女船長――パトリ
シア。やはりさっきのは見間違いではなかった。どうやらどこかの令嬢らしかったが、
この町の権力者と繋がっていた、ということだろうか。
「でも私は殺しちゃっても構わないと思うわ。
お姫様を利用させないためには、お姫様がいなくなるのが一番だもの。
だけど、まだしばらくは、あの馬鹿息子の味方のフリをしなきゃね。邪魔を全部片付
けるまでは……」
ついさっきまで仲良く会話していた人間の言葉とは思えない。
ライは絶句する。動揺で剣先が揺れた。刃が光をつややかに照り返す。
「……敵?」
ソフィニアのあれは、ベアトリスの仕業?
彼女の言葉が本当ならば、儀式めいた要素はフェイクで、標的は一人だったことにな
る。あのとき、自警団の男達が言葉を濁したのも、そういった陰謀が関わっていたから
だとすれば納得できる。
素人の犯行、最終的には呼び出した亡者に歯向かわれ死亡。そう報じられた。
その“素人”が、その政敵とやらだったなら? 本当は別の犯人がいて……
……それが、ベアトリス?
理解が追いつかない。目の前の少女と、あの惨劇。結びつかないにも程がある。
だがベアトリスは今何と言った? セラフィナさんを、殺してしまっても構わない?
馬鹿言え。たとえ誰だろうと、そんなことは許さない。
思考を切り替える。目の前の少女――ベアトリスは敵だ。
ライは声を搾り出すように問いかける。
「なんで、そんなことを?」
「私だってセラフィナさんのことは逃がしてあげようかと思ったけど!
ライがあまりに彼女のことを気にするんだもの」
「当たり前だろ! 心配するに決まってる」
何を言っているんだ、この子は?
剣を向ける。まだ割り切れない。脅す以上のことはできそうにない。どうにか納得し
てくれないだろうか。無茶だとはわかっているが、それでも。
「…………」
ベアトリスは暗い目でライを睨みつけた。
彼女が小声で「もういい」と呟いた。どういう意味なのか聞ける雰囲気ではなくて、
口をつぐむ。目の前の少女がソフィニアの実行犯だと知った瞬間、自分はもっと激昂す
るかと思ったが、そんなことはなかった。奇妙に冷静だ。殺された少女のことも、襲っ
てきた亡霊のことも鮮明に覚えている。それでも怒りが湧かないのは――
怒りよりも――ただ、恐い。ソフィニアの実行犯が、目の前に?
あれだけ強力な亡霊を完全に支配化に置いて操ってみせた術者を相手にしようとして
いる。背筋を悪寒が這い上がる。そういう専門の人間には太刀打ちができない。そうい
う風になっている。
誰だって、どれだけ憤っていたとしても、ナイフを持った人殺しが目の前に立ったと
して、果たして怒りが湧き起こるだろうか。そんな余裕はないはずだ。自分が次の獲物
にならないことを祈るのに精一杯で。それと同じだ。何をどうしても勝てないならば尚
更。だけど、セラフィナを助けるためには倒さなければならない。
姿を消す。その次の瞬間には、少女の背後にいる。
振り向かない彼女を見下ろしながら剣を振り上げた。前に海賊船でやったように、柄
頭で昏倒させられればいいのだけど。ただ、技術はないから完全な力技だ。怪我をさせ
ないように気をつけて。
そんなことを考えていたのは、ごくごく一瞬のことだったが、その間に、踊り場の床
に広がる赤い線が、鮮やかに輝くのが見えた。ヤバい。何が? わからない、でも間違
いなく、何か、致命的な――
「……好きなのに」
誰が、何を?
ひどい眠気 が
嘘だろこん な 簡単に
取り落とした剣 乾いた音
世界が暗くなっていく
そうだ ずっと眠かった ん
――どさ、という音はせずに彼の体は色を失い消える。
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