人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン
------------------------------------------------------------------------
カフールを知らない人と、私は旅をしていた……。
なんだか不思議。
残念なような、ちょっとホッとするような、胸がザワザワするような、そんな気持
ち。
何時だって過保護な幼なじみに守られてきた頃と、何がどう変わったというのだろ
う?
コン コン コン
ドアが三回ノックされる。さっき船医と決めた合図だった。
「……どうぞ」
あまり気が進まなかったが、さっき飲ませてもらった薬が効いてきたのか、体は大
分楽になっている。
……感謝してはいるのだ。拒むのもおかしな話だろう。
静かにドアが開くと、船医がにこやかな顔で立っていた。地味なオジサンだ。
横になったまま会釈をするのもなんなので、体を起こそうとしたら手を貸してくれ
た。僅かに触れた生暖かさに嫌悪感が走る。……知らないオジサンに触られるなん
て、ゾッとしてしまう。
勿論この人が悪い人だと思っているわけでもなく、感謝すらしていたのだが、見知
らぬ父親世代の男性というのはどうも苦手だった。
「どうだい、具合は」
狭い船室に入りながら、ゆっくり話す船医。
私は社交辞令の笑顔を向けて、礼を言った。
「お陰で随分楽になってきました。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる。
船医は笑って、ベッド脇の小さなイスに腰掛けた。
「しかし、驚きの回復力だね。カフールの技術?」
「なっ……!?」
意外な言葉に思考が固まる。
私の反応を見て困ったように笑うと、船医はゆっくり説明してくれた。
「医学を学んだときにね、聞いたことがあるんだ。でも、見たことはなかった」
小さな国のことだが、知っている人もいるのだなぁと驚いた。
他に何か知っていること、どんな些細なことでもイイ、知りたかった。
「カフールって国のこと、覚えてるんだね?」
「……はい」
なんと答えようか迷って、正直に返事する。
少しでも情報が欲しい。それが本音。
「記憶が一時的に失われることは、そんなに珍しいことじゃないんだよ。
原因だって心因性か外傷性だけじゃない、魔法や薬の副産物、なんてコトもある」
ゆっくりゆっくり、語りかけてくる。
「だから、そんなに焦らなくても大丈夫、君は一人じゃないからね」
目頭が熱くなった。感動したせいではなく、孤独感が押し寄せてきたのだ。
泣くもんか、泣くもんか、泣くもんか。
目を伏せて下唇を噛んで、ただ、寂しさと戦っていた。
都合のいいように解釈したのか、船医はうんうんと頷いてから笑う。
何とか涙を堪えると、セラフィナは曖昧に笑い返した。
「そうそう、カフールといえばね……」
「なんでしょう?」
喉から手が出そうなほどの、祖国の情報。
こんなに遠いところで聞ける情報など限られているだろうが、それでも期待は隠せ
ない。
「お、食いつきがイイね」
船医が笑う。
船医の気分が変わらないようにと、セラフィナも必死さを隠して笑顔を向けた。
「ちょっと前に皇女サマが結婚したそうだよ」
頭を殴られたような衝撃だった。
「相手……は?」
「えーと、シカラグァの王子じゃなかったかな。なんにせよめでたい話だよね」
ニコニコニコ。
何も知らずに笑う船医が憎らしかった。
脈を取ったり熱を計ったりしている間も、うわの空で考え事をしていたのだが。
「!!」
行き当たった考えに驚愕する。
「はい、おしまい……どうかした?」
「あの……ライさん、呼んできて下さい……」
カタカタカタ。体が震える。
「顔色が悪いよ……?」
「……いいから早く!」
居ても立ってもいられなかった。
慌ててライを呼びに行く船医を見送ることもせず、毛布をかき寄せるようにして震
えていた。
ライが来るまでが、とても永く感じられた。
不安なままの時間が延々と続きそうで、震えが止まらなかった。
「……どうしたの!?」
慌てた様子で入ってくるライを見て、思わずほっとして泣きそうになる。
でも泣かない。泣いたりしない。
目に涙を溜めながらも、けして流さない涙を何とか押さえ込んで言った。
「聞きたいことがあります、人払いを」
「……答えられる範囲なら答えてあげるよ」
彼はまた曖昧に笑う。
その笑顔の下にどういう感情があるのか、よくわからなかった。
呼びに行った船医も一緒に来ていたのだろう、ライは私から見えない位置にいる人
物に一言二言告げると、扉を閉めて振り返った。
「で、質問は何かな?」
ちょっと茶化すように、ライが笑う。
「私は指輪や腕輪を身につけていませんでしたか?海に落ちたときになくしたりと
か、無いですよね?」
ちょっと早口になる。かなり焦っているのだろうが、抑えが効かない。
「なかったと……思うけど」
困惑の表情を浮かべて、ライが首を傾げる。
「……大事なモノ?」
思わず首を横に振った。
「わかりません、わからないんです……」
両手で顔を覆う。
「もしかしたら結婚していたかもしれなくて、そうじゃないと思いたいけどで
も……」
「……えーと」
ライは髪を掻きながら言葉を選んでいるようだった。
その彼が紡いだ言葉は……。
「指輪も腕輪もはめてないってコトは、結婚してない、と考えるのが自然じゃないか
なぁ?」
「…………」
二人の間に沈黙が流れる。
でも、ライは何も言わなかった。こちらを待っていてくれたのかもしれない。
私の記憶はシカラグァで途切れていて、その旅行は父親お得意の政略的なもので、
もっとハッキリ言ってしまえば「政略結婚の為のお見合い旅行」だったのだ。
しかも姉は二つ年上で、何も問題がなければもっと早くに結婚しているはずだ。と
すると、噂の結婚というのが自分のことである可能性を否定できない。
「船医の方から噂を聞きました。私……皇女なんです」
ぽつり。
言うべきことではなかったかもしれないけれど、言葉が独りでに出てきた。
「……うわぁ」
予想外の言葉にライも絶句する。
……また二人の間に沈黙が流れた。
今の呟きは間違っていたのだろうか。
彼に今まで言わなかったのは隠していたからなのか、言いそびれていたのか、聞か
れなかっただけなのか。
なんにせよ、言ったことがなかったのだ。いきなり聞かされても困るだろう。
重く永い沈黙を破ったのは、場違いなほどに明るいセラフィナの声だった。
「忘れて下さい」
笑顔を向ける。満面の笑み。
それまでの表情がすべて芝居であったかのような、本物の笑顔。
「あー……うん、冗談だ……よね?」
「……そういうコトにしておきましょう?」
沈黙が、何かを吹っ切れさせた。この人の言うことを、信じてみたい気分になって
いた。
きっと結婚話は姉のことで、自分のことではないのだ。指輪の跡もないし、きっと
そうだ。
混乱させてしまった彼には申し訳ないが、凄く肩の荷が下りたような気がして、笑
った。
「そうそう、ティリーが一緒にコールベルに行くって」
首を傾げながら、なんだかいまいち納得していない様子のライがそう告げる。
沈黙が辛くなることもあるかも知れない。彼に慣れるまででも、人が居てくれるの
は確かにありがたい。
でも。たった二人きりの旅だったことに意味はなかったんだろうか。
「ライさんは、同意したんですか?」
「うん、断る理由も無かったし」
やっぱりよくわからない人だ。なんというか、つかみ所がない。
……でも、以前ほどイヤなカンジはしなかった。
「じゃあ、仲良くできるとイイですね」
ふー…………。
ゆっくりと息を吐き出す。
イヤな汗をたっぷりかいたせいか疲労感がどっと押し寄せてきた。だが、頭が興奮
したままなのだろう、それはそれで心地いい。
今眠ると、きっと深い眠りにつける。
穏やかなまどろみに身を任せて、理解できないことはしばらくおあずけ。
たまにはそれもイイかな、と思っている自分に苦笑する。
「興奮したら、なんだか疲れちゃいました」
肩を落として、力無く笑う。
ライがポンポンっとセラフィナの頭に手を乗せて言った。
「いい子は早く寝ないとね」
……また、子供扱い。でも、触れたのがイヤじゃなくてホッとする。
セラフィナは小さく頷くと、自力で毛布へと滑り込んだ。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
二人の声が、重なる。
セラフィナは軽く吹き出して、目を閉じた。
場所:デルクリフ⇔ルクセン
------------------------------------------------------------------------
カフールを知らない人と、私は旅をしていた……。
なんだか不思議。
残念なような、ちょっとホッとするような、胸がザワザワするような、そんな気持
ち。
何時だって過保護な幼なじみに守られてきた頃と、何がどう変わったというのだろ
う?
コン コン コン
ドアが三回ノックされる。さっき船医と決めた合図だった。
「……どうぞ」
あまり気が進まなかったが、さっき飲ませてもらった薬が効いてきたのか、体は大
分楽になっている。
……感謝してはいるのだ。拒むのもおかしな話だろう。
静かにドアが開くと、船医がにこやかな顔で立っていた。地味なオジサンだ。
横になったまま会釈をするのもなんなので、体を起こそうとしたら手を貸してくれ
た。僅かに触れた生暖かさに嫌悪感が走る。……知らないオジサンに触られるなん
て、ゾッとしてしまう。
勿論この人が悪い人だと思っているわけでもなく、感謝すらしていたのだが、見知
らぬ父親世代の男性というのはどうも苦手だった。
「どうだい、具合は」
狭い船室に入りながら、ゆっくり話す船医。
私は社交辞令の笑顔を向けて、礼を言った。
「お陰で随分楽になってきました。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる。
船医は笑って、ベッド脇の小さなイスに腰掛けた。
「しかし、驚きの回復力だね。カフールの技術?」
「なっ……!?」
意外な言葉に思考が固まる。
私の反応を見て困ったように笑うと、船医はゆっくり説明してくれた。
「医学を学んだときにね、聞いたことがあるんだ。でも、見たことはなかった」
小さな国のことだが、知っている人もいるのだなぁと驚いた。
他に何か知っていること、どんな些細なことでもイイ、知りたかった。
「カフールって国のこと、覚えてるんだね?」
「……はい」
なんと答えようか迷って、正直に返事する。
少しでも情報が欲しい。それが本音。
「記憶が一時的に失われることは、そんなに珍しいことじゃないんだよ。
原因だって心因性か外傷性だけじゃない、魔法や薬の副産物、なんてコトもある」
ゆっくりゆっくり、語りかけてくる。
「だから、そんなに焦らなくても大丈夫、君は一人じゃないからね」
目頭が熱くなった。感動したせいではなく、孤独感が押し寄せてきたのだ。
泣くもんか、泣くもんか、泣くもんか。
目を伏せて下唇を噛んで、ただ、寂しさと戦っていた。
都合のいいように解釈したのか、船医はうんうんと頷いてから笑う。
何とか涙を堪えると、セラフィナは曖昧に笑い返した。
「そうそう、カフールといえばね……」
「なんでしょう?」
喉から手が出そうなほどの、祖国の情報。
こんなに遠いところで聞ける情報など限られているだろうが、それでも期待は隠せ
ない。
「お、食いつきがイイね」
船医が笑う。
船医の気分が変わらないようにと、セラフィナも必死さを隠して笑顔を向けた。
「ちょっと前に皇女サマが結婚したそうだよ」
頭を殴られたような衝撃だった。
「相手……は?」
「えーと、シカラグァの王子じゃなかったかな。なんにせよめでたい話だよね」
ニコニコニコ。
何も知らずに笑う船医が憎らしかった。
脈を取ったり熱を計ったりしている間も、うわの空で考え事をしていたのだが。
「!!」
行き当たった考えに驚愕する。
「はい、おしまい……どうかした?」
「あの……ライさん、呼んできて下さい……」
カタカタカタ。体が震える。
「顔色が悪いよ……?」
「……いいから早く!」
居ても立ってもいられなかった。
慌ててライを呼びに行く船医を見送ることもせず、毛布をかき寄せるようにして震
えていた。
ライが来るまでが、とても永く感じられた。
不安なままの時間が延々と続きそうで、震えが止まらなかった。
「……どうしたの!?」
慌てた様子で入ってくるライを見て、思わずほっとして泣きそうになる。
でも泣かない。泣いたりしない。
目に涙を溜めながらも、けして流さない涙を何とか押さえ込んで言った。
「聞きたいことがあります、人払いを」
「……答えられる範囲なら答えてあげるよ」
彼はまた曖昧に笑う。
その笑顔の下にどういう感情があるのか、よくわからなかった。
呼びに行った船医も一緒に来ていたのだろう、ライは私から見えない位置にいる人
物に一言二言告げると、扉を閉めて振り返った。
「で、質問は何かな?」
ちょっと茶化すように、ライが笑う。
「私は指輪や腕輪を身につけていませんでしたか?海に落ちたときになくしたりと
か、無いですよね?」
ちょっと早口になる。かなり焦っているのだろうが、抑えが効かない。
「なかったと……思うけど」
困惑の表情を浮かべて、ライが首を傾げる。
「……大事なモノ?」
思わず首を横に振った。
「わかりません、わからないんです……」
両手で顔を覆う。
「もしかしたら結婚していたかもしれなくて、そうじゃないと思いたいけどで
も……」
「……えーと」
ライは髪を掻きながら言葉を選んでいるようだった。
その彼が紡いだ言葉は……。
「指輪も腕輪もはめてないってコトは、結婚してない、と考えるのが自然じゃないか
なぁ?」
「…………」
二人の間に沈黙が流れる。
でも、ライは何も言わなかった。こちらを待っていてくれたのかもしれない。
私の記憶はシカラグァで途切れていて、その旅行は父親お得意の政略的なもので、
もっとハッキリ言ってしまえば「政略結婚の為のお見合い旅行」だったのだ。
しかも姉は二つ年上で、何も問題がなければもっと早くに結婚しているはずだ。と
すると、噂の結婚というのが自分のことである可能性を否定できない。
「船医の方から噂を聞きました。私……皇女なんです」
ぽつり。
言うべきことではなかったかもしれないけれど、言葉が独りでに出てきた。
「……うわぁ」
予想外の言葉にライも絶句する。
……また二人の間に沈黙が流れた。
今の呟きは間違っていたのだろうか。
彼に今まで言わなかったのは隠していたからなのか、言いそびれていたのか、聞か
れなかっただけなのか。
なんにせよ、言ったことがなかったのだ。いきなり聞かされても困るだろう。
重く永い沈黙を破ったのは、場違いなほどに明るいセラフィナの声だった。
「忘れて下さい」
笑顔を向ける。満面の笑み。
それまでの表情がすべて芝居であったかのような、本物の笑顔。
「あー……うん、冗談だ……よね?」
「……そういうコトにしておきましょう?」
沈黙が、何かを吹っ切れさせた。この人の言うことを、信じてみたい気分になって
いた。
きっと結婚話は姉のことで、自分のことではないのだ。指輪の跡もないし、きっと
そうだ。
混乱させてしまった彼には申し訳ないが、凄く肩の荷が下りたような気がして、笑
った。
「そうそう、ティリーが一緒にコールベルに行くって」
首を傾げながら、なんだかいまいち納得していない様子のライがそう告げる。
沈黙が辛くなることもあるかも知れない。彼に慣れるまででも、人が居てくれるの
は確かにありがたい。
でも。たった二人きりの旅だったことに意味はなかったんだろうか。
「ライさんは、同意したんですか?」
「うん、断る理由も無かったし」
やっぱりよくわからない人だ。なんというか、つかみ所がない。
……でも、以前ほどイヤなカンジはしなかった。
「じゃあ、仲良くできるとイイですね」
ふー…………。
ゆっくりと息を吐き出す。
イヤな汗をたっぷりかいたせいか疲労感がどっと押し寄せてきた。だが、頭が興奮
したままなのだろう、それはそれで心地いい。
今眠ると、きっと深い眠りにつける。
穏やかなまどろみに身を任せて、理解できないことはしばらくおあずけ。
たまにはそれもイイかな、と思っている自分に苦笑する。
「興奮したら、なんだか疲れちゃいました」
肩を落として、力無く笑う。
ライがポンポンっとセラフィナの頭に手を乗せて言った。
「いい子は早く寝ないとね」
……また、子供扱い。でも、触れたのがイヤじゃなくてホッとする。
セラフィナは小さく頷くと、自力で毛布へと滑り込んだ。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
二人の声が、重なる。
セラフィナは軽く吹き出して、目を閉じた。
PR
人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン 海上
------------------------------------------------------------------------
「あんたも顔色が悪いよ」
廊下で待っていた船医に言われて、ライは苦笑した。
「……元々、色白なんです。北の出だから」
言い慣れた言い訳を口にしてみると実際に疲労感が押し寄せてきた。気疲れ、だろう。
疲れるようなことは何もしていない。
ゲソの襲来とかちょっとあり得ない解決とか記憶喪失とか聞かなきゃよかったことと
かで混乱しているからに違いない。そう思うとめまいさえ感じてくるから不思議だ。
「ユーレーの診察をしたことはないがね……相当まいってるように見えるよ。
彼女は大丈夫だからあんたも休んだ方がいい」
「……大丈夫なんですか?」
あえて問うと船医は顔をしかめたがうなずいた。
ライは少し安心して、彼に礼を言って背を向けた。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
十四の頃。何年前だったか……まぁ、いつだったとしても関係ないが。
十四歳の子供って意外と利発なんだなぁ侮れないや、なんて考えながら部屋に戻ると
ベアトリスの姿はなく、ランプが狭い室内を照らしているだけだった。
なんだか急にすべてがどうでもよくなって、ライは寝台に倒れこんで枕を抱えた。
体が重い。どうしようもない疲労感を少しでも軽減させようと視覚から気を散らすと
周囲はぼやけて、薄汚い木の壁とガーゼが重なって見えた。
このまま眠りに落ちることができればさぞかし気持ちいいだろう。
実体を保ち続けることだけは常に忘れないように気をつけながら、このまま何もせず
に過ごすのもいいかと思った。
――が。とりあえず考えなければならないことがある。
(セラフィナさんか……)
さて、何を信じたらいいものか。
寝返りを打つことで強引に意識を覚醒させようとしながら、ライは簡易の眼帯を押さ
えて、もう片方の目でランプの炎に焦点を合わせた。
セラフィナによると、彼女は皇女さまで、しかも結婚していたかも知れないという。
取り繕っていたが、彼女が本気で言っていたことには間違いない。こちらの反応を見て
誤魔化そうとしたのだ。
例の黒髪の剣士のことといい、言い出すことに脈絡がない。
しっかりと話を聞いていないから理解できないのか、それとも彼女が熱で浮かされて
いる間の妄想を、現実と取り違えてしまったのか。
セラフィナには申し訳ないが――彼女からは、人を支配する一族にある、言葉に表し
辛い気高さや威厳といったものが感じられない。直感を信じるならば彼女は錯乱してい
る。
――いや、カフールの皇女が結婚したという話は聞いたばかりだ。だから、二つは繋
がる。船に乗る前に出くわした馬車に乗っていた男の態度から、確かに彼女は、権力か
財力か、或いは両方のある家柄の出身らしいということは予想がついている。
貴族か大商人の娘であることは間違いないだろう。皇女本人かは別としても。
問題は……その、社会的な地位である。これは重要だ。何しろ、ライ自身にも関係が
あるのだから。普通、そういう人間は一人で旅などしないものである。普通しないこと
をするには必ず何らかの事情がある。
「知らないうちに巻き込まれてたんじゃたまらないからな……」
彼女に悪感情を持っているわけではないが、面倒に関わるのはごめんだ。
もしものときに知らぬ存ぜぬで通すためにも、彼女の記憶は戻ってもらわないと困る。
セラフィナと一緒に行動しているのは何人もに見られているのだ。
たとえば彼女が、彼女を探している誰かに見つかって、「気がついたら知らない幽霊
と船に乗ってた」とか言いでもしたら、二重に手配をかけられることにもなりかねない。
本気になれば捕まらない自信はあるが、その前に、今より状況を悪くしないことを考
えるべき。そう、今だって覚えのない理由で手配犯扱いされているのだから。
ポポルで破壊活動? してないぞ、そんな馬鹿なこと。
脱線しかけた思考を元に戻すのも面倒だったから、ライはそのまま考えるのをやめる
ことにした。
セラフィナさんは本当なら僕なんかと関わることなかったはずの高貴な身分の人で、
何か問題を抱えている可能性が高い。一緒にいるのなら、その間は……その問題に巻き
込まれないように注意すること。
今はこれだけしかわからない。
いや、これだけわかれば十分なのか――今は、それよりも。
――眠りたい。ひどく疲れていて眠いのに、意識がまどろみより深いところへ沈んで
いかない。これではまるで拷問だ。
目の前で火が揺れている。
がしゃん、と、乱暴にランプを掴んでガラスの覆いを払いのけ、火を握り潰した。
革が焼ける匂いがわずかに漂った。
場所:デルクリフ⇔ルクセン 海上
------------------------------------------------------------------------
「あんたも顔色が悪いよ」
廊下で待っていた船医に言われて、ライは苦笑した。
「……元々、色白なんです。北の出だから」
言い慣れた言い訳を口にしてみると実際に疲労感が押し寄せてきた。気疲れ、だろう。
疲れるようなことは何もしていない。
ゲソの襲来とかちょっとあり得ない解決とか記憶喪失とか聞かなきゃよかったことと
かで混乱しているからに違いない。そう思うとめまいさえ感じてくるから不思議だ。
「ユーレーの診察をしたことはないがね……相当まいってるように見えるよ。
彼女は大丈夫だからあんたも休んだ方がいい」
「……大丈夫なんですか?」
あえて問うと船医は顔をしかめたがうなずいた。
ライは少し安心して、彼に礼を言って背を向けた。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
十四の頃。何年前だったか……まぁ、いつだったとしても関係ないが。
十四歳の子供って意外と利発なんだなぁ侮れないや、なんて考えながら部屋に戻ると
ベアトリスの姿はなく、ランプが狭い室内を照らしているだけだった。
なんだか急にすべてがどうでもよくなって、ライは寝台に倒れこんで枕を抱えた。
体が重い。どうしようもない疲労感を少しでも軽減させようと視覚から気を散らすと
周囲はぼやけて、薄汚い木の壁とガーゼが重なって見えた。
このまま眠りに落ちることができればさぞかし気持ちいいだろう。
実体を保ち続けることだけは常に忘れないように気をつけながら、このまま何もせず
に過ごすのもいいかと思った。
――が。とりあえず考えなければならないことがある。
(セラフィナさんか……)
さて、何を信じたらいいものか。
寝返りを打つことで強引に意識を覚醒させようとしながら、ライは簡易の眼帯を押さ
えて、もう片方の目でランプの炎に焦点を合わせた。
セラフィナによると、彼女は皇女さまで、しかも結婚していたかも知れないという。
取り繕っていたが、彼女が本気で言っていたことには間違いない。こちらの反応を見て
誤魔化そうとしたのだ。
例の黒髪の剣士のことといい、言い出すことに脈絡がない。
しっかりと話を聞いていないから理解できないのか、それとも彼女が熱で浮かされて
いる間の妄想を、現実と取り違えてしまったのか。
セラフィナには申し訳ないが――彼女からは、人を支配する一族にある、言葉に表し
辛い気高さや威厳といったものが感じられない。直感を信じるならば彼女は錯乱してい
る。
――いや、カフールの皇女が結婚したという話は聞いたばかりだ。だから、二つは繋
がる。船に乗る前に出くわした馬車に乗っていた男の態度から、確かに彼女は、権力か
財力か、或いは両方のある家柄の出身らしいということは予想がついている。
貴族か大商人の娘であることは間違いないだろう。皇女本人かは別としても。
問題は……その、社会的な地位である。これは重要だ。何しろ、ライ自身にも関係が
あるのだから。普通、そういう人間は一人で旅などしないものである。普通しないこと
をするには必ず何らかの事情がある。
「知らないうちに巻き込まれてたんじゃたまらないからな……」
彼女に悪感情を持っているわけではないが、面倒に関わるのはごめんだ。
もしものときに知らぬ存ぜぬで通すためにも、彼女の記憶は戻ってもらわないと困る。
セラフィナと一緒に行動しているのは何人もに見られているのだ。
たとえば彼女が、彼女を探している誰かに見つかって、「気がついたら知らない幽霊
と船に乗ってた」とか言いでもしたら、二重に手配をかけられることにもなりかねない。
本気になれば捕まらない自信はあるが、その前に、今より状況を悪くしないことを考
えるべき。そう、今だって覚えのない理由で手配犯扱いされているのだから。
ポポルで破壊活動? してないぞ、そんな馬鹿なこと。
脱線しかけた思考を元に戻すのも面倒だったから、ライはそのまま考えるのをやめる
ことにした。
セラフィナさんは本当なら僕なんかと関わることなかったはずの高貴な身分の人で、
何か問題を抱えている可能性が高い。一緒にいるのなら、その間は……その問題に巻き
込まれないように注意すること。
今はこれだけしかわからない。
いや、これだけわかれば十分なのか――今は、それよりも。
――眠りたい。ひどく疲れていて眠いのに、意識がまどろみより深いところへ沈んで
いかない。これではまるで拷問だ。
目の前で火が揺れている。
がしゃん、と、乱暴にランプを掴んでガラスの覆いを払いのけ、火を握り潰した。
革が焼ける匂いがわずかに漂った。
人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン
------------------------------------------------------------------------
少し寝て、起きて。
思いのほかスッキリしたセラフィナは、そっとベッドから抜け出した。
「わぁ……!」
甲板に一歩でると海が夕日に染まっていて、潮風が髪をくすぐる。
海を見るのは初めてなのに、潮の匂いを覚えている……これは記憶にない間の自分
の体験なんだろうか。
考えないでおこうとした内容につい、思考が止まった。
「お、嬢ちゃん、元気になったのかい?」
通りかかった船員に声をかけられ、ようやく我に返るセラフィナ。
曖昧に笑って「ええ、まあ」と当たり障りのない返事をして逃げ出した。
分かっていたつもりだったけど、オジサンばっかりだ……。
つい、人が少ない方へ少ない方へ行ってしまう。
船の後方、貨物の一部が積まれた区画。
隠れるモノには不自由ないので、それだけで少し気が楽になったりするのだ。
が……なんだか見てはイケナイモノを見てしまったような気がして後ずさる。
「そんな……まさかね」
視界の端に映ったのは大きな大きなイカの足。
どう贔屓目に見ても大きすぎて、現実を放棄したくなる。
とりあえずライさんが冗談じゃなくて本当のことを言っていたのはわかったけ
ど……覚えていたくないコトってコレのコトなんじゃないかしら……。
頭を抱えつつもなんとか冷静に努める。
外傷性なら傷が治れば思い出すかもしれないし、心因性ならその事に向き合う必要
があると船医は言っていた。只の一時的なショックの可能性が一番高いんだから焦ら
なくていいよ、とも言っていたが、気休めに聞こえるのは気のせいだろうか?
「さすがマリリンちゃん、キミのお陰でもうすぐ港に着くよ~!」
猫なで声の男が、船尾にいた。
外に身を乗り出して、人が居るはずのない方向に話しかけているのだ。
思わず頭を抱えて正気を疑った。
「でも、お別れが寂しくって……ああ、キミもそう思ってくれるんだね?」
只のバカップルの会話に聞こえなくもない。
仕事をほったらかしでいいのか、この人。
「本当に?嬉しいナァ」
一方的に話しかけているだけじゃなく、何かを受信しているらしい。
関わり合いにならないようにそっと後ずさると、回れ右をして走り出そうとした。
「あ、セラフィナちゃん?」
聞かないフリ聞かないフリ、聞こえませんっ!
と思いつつも、行く手を塞ぐように伸びてきたイカの足に阻まれて断念。
引きつりながら振り向いて、小さく会釈をした。
「もう大丈夫? マリリンも心配してたんだよー」
「は、はは、体は動かせるようになりました」
不自然だ。明らかに不審だ。と自らにツッコミをいれながら答える。
「よかったなぁ、なあ、マリリン?」
嬉しそうに振り向く男の後ろは海。
マリリンって誰ですか、いや、誰でもイイから帰らせて!
逃げだそうともう一度振り返り、伸びてきたイカの足に頭を撫でられる。
頭の中が真っ白になって崩れ落ちる中、聞き慣れた声を聞いたような気もしたが。
……もうその時には意識を手放していた。
遠くから名前を呼ぶ声が聞こえてくる。
その声は何度も、何度も、私の名前を呼んでいて。
「……どうしたんですか?ライさん」
ゆっくり目を開けると、心配そうに覗き込むライの顔。
彼は深く溜め息をつくと、脱力して座り込んだ。
「いきなり倒れたって聞いたから……びっくりしたよ」
見渡すと、覗き込んでいるのは彼だけではないようで。
「大丈夫?」
「どこか痛いところはない?」
「嬢ちゃん、平気か?」
皆が口々に心配の言葉を投げかける。
体を起こして回りを見渡して、離れた位置から遠巻きに見ている男に気付いた。ウ
ォルトというちょっと気の弱い船員だったと思うのだけど、何故あんなに離れている
のか。
「……彼は、何を怖がってるんです?」
首を傾げる。彼の後ろでイカの足が蠢き、慌てて隠そうとする姿を見てホッと息を
付いた。
「ああ……助かったんですね、良かった……」
「え?」
「ええ!?」
回りの動揺っぷりに思わずこちらが慌ててしまう。
「イカ、助かったんですよね……?」
疑問符を頭にたくさん浮かべ、ライに訊ねて返事に驚く。
「えーと、セラフィナさん? セラフィナちゃん?」
意味が全く分からなかった。
場所:デルクリフ⇔ルクセン
------------------------------------------------------------------------
少し寝て、起きて。
思いのほかスッキリしたセラフィナは、そっとベッドから抜け出した。
「わぁ……!」
甲板に一歩でると海が夕日に染まっていて、潮風が髪をくすぐる。
海を見るのは初めてなのに、潮の匂いを覚えている……これは記憶にない間の自分
の体験なんだろうか。
考えないでおこうとした内容につい、思考が止まった。
「お、嬢ちゃん、元気になったのかい?」
通りかかった船員に声をかけられ、ようやく我に返るセラフィナ。
曖昧に笑って「ええ、まあ」と当たり障りのない返事をして逃げ出した。
分かっていたつもりだったけど、オジサンばっかりだ……。
つい、人が少ない方へ少ない方へ行ってしまう。
船の後方、貨物の一部が積まれた区画。
隠れるモノには不自由ないので、それだけで少し気が楽になったりするのだ。
が……なんだか見てはイケナイモノを見てしまったような気がして後ずさる。
「そんな……まさかね」
視界の端に映ったのは大きな大きなイカの足。
どう贔屓目に見ても大きすぎて、現実を放棄したくなる。
とりあえずライさんが冗談じゃなくて本当のことを言っていたのはわかったけ
ど……覚えていたくないコトってコレのコトなんじゃないかしら……。
頭を抱えつつもなんとか冷静に努める。
外傷性なら傷が治れば思い出すかもしれないし、心因性ならその事に向き合う必要
があると船医は言っていた。只の一時的なショックの可能性が一番高いんだから焦ら
なくていいよ、とも言っていたが、気休めに聞こえるのは気のせいだろうか?
「さすがマリリンちゃん、キミのお陰でもうすぐ港に着くよ~!」
猫なで声の男が、船尾にいた。
外に身を乗り出して、人が居るはずのない方向に話しかけているのだ。
思わず頭を抱えて正気を疑った。
「でも、お別れが寂しくって……ああ、キミもそう思ってくれるんだね?」
只のバカップルの会話に聞こえなくもない。
仕事をほったらかしでいいのか、この人。
「本当に?嬉しいナァ」
一方的に話しかけているだけじゃなく、何かを受信しているらしい。
関わり合いにならないようにそっと後ずさると、回れ右をして走り出そうとした。
「あ、セラフィナちゃん?」
聞かないフリ聞かないフリ、聞こえませんっ!
と思いつつも、行く手を塞ぐように伸びてきたイカの足に阻まれて断念。
引きつりながら振り向いて、小さく会釈をした。
「もう大丈夫? マリリンも心配してたんだよー」
「は、はは、体は動かせるようになりました」
不自然だ。明らかに不審だ。と自らにツッコミをいれながら答える。
「よかったなぁ、なあ、マリリン?」
嬉しそうに振り向く男の後ろは海。
マリリンって誰ですか、いや、誰でもイイから帰らせて!
逃げだそうともう一度振り返り、伸びてきたイカの足に頭を撫でられる。
頭の中が真っ白になって崩れ落ちる中、聞き慣れた声を聞いたような気もしたが。
……もうその時には意識を手放していた。
遠くから名前を呼ぶ声が聞こえてくる。
その声は何度も、何度も、私の名前を呼んでいて。
「……どうしたんですか?ライさん」
ゆっくり目を開けると、心配そうに覗き込むライの顔。
彼は深く溜め息をつくと、脱力して座り込んだ。
「いきなり倒れたって聞いたから……びっくりしたよ」
見渡すと、覗き込んでいるのは彼だけではないようで。
「大丈夫?」
「どこか痛いところはない?」
「嬢ちゃん、平気か?」
皆が口々に心配の言葉を投げかける。
体を起こして回りを見渡して、離れた位置から遠巻きに見ている男に気付いた。ウ
ォルトというちょっと気の弱い船員だったと思うのだけど、何故あんなに離れている
のか。
「……彼は、何を怖がってるんです?」
首を傾げる。彼の後ろでイカの足が蠢き、慌てて隠そうとする姿を見てホッと息を
付いた。
「ああ……助かったんですね、良かった……」
「え?」
「ええ!?」
回りの動揺っぷりに思わずこちらが慌ててしまう。
「イカ、助かったんですよね……?」
疑問符を頭にたくさん浮かべ、ライに訊ねて返事に驚く。
「えーと、セラフィナさん? セラフィナちゃん?」
意味が全く分からなかった。
人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン
------------------------------------------------------------------------
やがて船が停泊すると、港の方から大勢の人が寄ってきて騒ぎになった。
予定の日を過ぎても着かない船は、ひどく心配されていたらしい。
貨物の大半は失っていたものの、船そのものが無事だということで、雇い主と交渉す
る船長の胃の具合以外は特に問題も起こらず、人々は素直に到着を喜びあった。
にゃあ――
ライが見上げた先で、三毛の子猫は気持ちよさそうに伸びをしていた。
思わず苦笑。同じ船に乗っていた人間達はこれから忙しくなるというのに。
日は中天を過ぎ青空から下界を見下ろしている。赤い煉瓦の倉庫群の向こうにある町
は大きかった。なだらかな丘に沿うように、港を頂点とした扇形に広がっている。
コールベルと諸都市との交易の経由地点になっているこの町は、一目見ただけで、豊
かで、賑わってるのが感じられた。
放射線状に並ぶ通りの一つが遠目にもきらきらと輝いて見えるのを指差して、ベアト
リスが「あっ」と声を上げた。
「あれは金物職人の通りよ」
「この町を知ってるんですか?」
セラフィナが訊くと少女は笑って首を振った。
「でも、他にあんなに光る場所はないから、わかるわ」
その会話を横に聞きながらライは、いまいる甲板から見下ろせる港を眺め、そして少
しはなれて停泊している白い船に目を留めた。コールベルの名門、王立神学校の紋章を
帆に掲げた魔道機関船。優美なその姿に思わず目を奪われる。
大陸中の芸術家から憧れと嫉みを持ってその名を語られる高嶺の花。
上辺の豪華を好むお貴族様のための、気障ったらしい芸術の最高峰。
財力と、家柄、そして才能。どれが欠けていても敷地に足を踏み入れる資格を得るこ
とができない、美術、音楽、神学、文学――あらゆる芸術と学問の最高学術機関。その
力の顕現でもある大型船を見ながら、ライはコールベルが近くなったことを実感した。
もうすぐ目的地についてしまう。
それがただ不安で仕方がない。
ころあいを見て、船員たちに挨拶をして船を降りた。
荷を運ぶ男たち以外にあまり人がいなくなった港を抜けて、町へ――行く前にライは
セラフィナとベアトリスに声をかけた。
「じゃあ、また後で」
「……え? ライさん、何か用事でも?」
少し意外そうに聞いてくるセラフィナ。その様子に、思わず記憶喪失中の彼女を重ね
て、ライは目を逸らす。
あまりにもギャップがありすぎる。
今の彼女は屈託なくて、裏表があるようには見えないのに。あのときに見た、警戒の
表情と取り繕う笑顔は……まさか彼女の過去を知ろうなどという気を起こしはしないが。
「あ、いや。人が多いからね。
面倒にならないように僕は消えとこうと思ってさ」
「どこで合流?」
もう昼を過ぎている。フォルグまで街道が整備されているとはいえ、徒歩で町を出る
時間ではないだろう。大して距離を詰めないうちに徒歩になってしまう。
急ぎの旅でないなら今夜はこの町に留まるのが賢明な判断だ。
「……そっちの予定は? まさか出発しないでしょ?」
「特に決まってませんけど……」
セラフィナが言いかけるのをベアトリスが遮った。
「あっ、私はあとで知り合いに会ってくるね。
この町で会おうって約束してたの」
「わかりました。
早めに宿を決めてしまいましょう」
セラフィナは言いながら、道の先に視線を向けた。
ライもそれに倣い、豪華な馬車が向かってくるのを見た。砂利を踏む音が近づいてく
る前に倉庫と倉庫の間へ移動する。
「? どうしたの?」
「金持ちって苦手でさ……」
すぐ横を馬車が通り過ぎて行った。急いでいるようでかなりの速度だ。町中も同じ速
さで走ってきたのではないだろうが……いや、貴族やら金持ちやらのすることはわから
ない。もともとそこにある町並みや人々も蹴散らすべき障害物としか見ていない輩もい
る。
そういう連中に関わって痛い目を見たのは一度や二度ではない。冒険者やってたとき
のことを思い出してみれば……
…………やめとこう。
思い出すだけでムカつく。それにセラフィナの前で貴族の悪口を言うのも悪い。
ライは苦笑して首を横に振った。
「とりあえず、念のために宿の場所だけは確認しについていくから。
その後はどっか行ってる……用事があったら探し回って。僕、噴水とか公園とか好き
だから大体その辺にいるよ」
自分勝手なことを一方的に言うと、二人から顔を背けて丁寧に眼帯をはがして地面に
落とし、ライは姿を消した。
場所:港町ルクセン
------------------------------------------------------------------------
やがて船が停泊すると、港の方から大勢の人が寄ってきて騒ぎになった。
予定の日を過ぎても着かない船は、ひどく心配されていたらしい。
貨物の大半は失っていたものの、船そのものが無事だということで、雇い主と交渉す
る船長の胃の具合以外は特に問題も起こらず、人々は素直に到着を喜びあった。
にゃあ――
ライが見上げた先で、三毛の子猫は気持ちよさそうに伸びをしていた。
思わず苦笑。同じ船に乗っていた人間達はこれから忙しくなるというのに。
日は中天を過ぎ青空から下界を見下ろしている。赤い煉瓦の倉庫群の向こうにある町
は大きかった。なだらかな丘に沿うように、港を頂点とした扇形に広がっている。
コールベルと諸都市との交易の経由地点になっているこの町は、一目見ただけで、豊
かで、賑わってるのが感じられた。
放射線状に並ぶ通りの一つが遠目にもきらきらと輝いて見えるのを指差して、ベアト
リスが「あっ」と声を上げた。
「あれは金物職人の通りよ」
「この町を知ってるんですか?」
セラフィナが訊くと少女は笑って首を振った。
「でも、他にあんなに光る場所はないから、わかるわ」
その会話を横に聞きながらライは、いまいる甲板から見下ろせる港を眺め、そして少
しはなれて停泊している白い船に目を留めた。コールベルの名門、王立神学校の紋章を
帆に掲げた魔道機関船。優美なその姿に思わず目を奪われる。
大陸中の芸術家から憧れと嫉みを持ってその名を語られる高嶺の花。
上辺の豪華を好むお貴族様のための、気障ったらしい芸術の最高峰。
財力と、家柄、そして才能。どれが欠けていても敷地に足を踏み入れる資格を得るこ
とができない、美術、音楽、神学、文学――あらゆる芸術と学問の最高学術機関。その
力の顕現でもある大型船を見ながら、ライはコールベルが近くなったことを実感した。
もうすぐ目的地についてしまう。
それがただ不安で仕方がない。
ころあいを見て、船員たちに挨拶をして船を降りた。
荷を運ぶ男たち以外にあまり人がいなくなった港を抜けて、町へ――行く前にライは
セラフィナとベアトリスに声をかけた。
「じゃあ、また後で」
「……え? ライさん、何か用事でも?」
少し意外そうに聞いてくるセラフィナ。その様子に、思わず記憶喪失中の彼女を重ね
て、ライは目を逸らす。
あまりにもギャップがありすぎる。
今の彼女は屈託なくて、裏表があるようには見えないのに。あのときに見た、警戒の
表情と取り繕う笑顔は……まさか彼女の過去を知ろうなどという気を起こしはしないが。
「あ、いや。人が多いからね。
面倒にならないように僕は消えとこうと思ってさ」
「どこで合流?」
もう昼を過ぎている。フォルグまで街道が整備されているとはいえ、徒歩で町を出る
時間ではないだろう。大して距離を詰めないうちに徒歩になってしまう。
急ぎの旅でないなら今夜はこの町に留まるのが賢明な判断だ。
「……そっちの予定は? まさか出発しないでしょ?」
「特に決まってませんけど……」
セラフィナが言いかけるのをベアトリスが遮った。
「あっ、私はあとで知り合いに会ってくるね。
この町で会おうって約束してたの」
「わかりました。
早めに宿を決めてしまいましょう」
セラフィナは言いながら、道の先に視線を向けた。
ライもそれに倣い、豪華な馬車が向かってくるのを見た。砂利を踏む音が近づいてく
る前に倉庫と倉庫の間へ移動する。
「? どうしたの?」
「金持ちって苦手でさ……」
すぐ横を馬車が通り過ぎて行った。急いでいるようでかなりの速度だ。町中も同じ速
さで走ってきたのではないだろうが……いや、貴族やら金持ちやらのすることはわから
ない。もともとそこにある町並みや人々も蹴散らすべき障害物としか見ていない輩もい
る。
そういう連中に関わって痛い目を見たのは一度や二度ではない。冒険者やってたとき
のことを思い出してみれば……
…………やめとこう。
思い出すだけでムカつく。それにセラフィナの前で貴族の悪口を言うのも悪い。
ライは苦笑して首を横に振った。
「とりあえず、念のために宿の場所だけは確認しについていくから。
その後はどっか行ってる……用事があったら探し回って。僕、噴水とか公園とか好き
だから大体その辺にいるよ」
自分勝手なことを一方的に言うと、二人から顔を背けて丁寧に眼帯をはがして地面に
落とし、ライは姿を消した。
人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン
------------------------------------------------------------------------
港からほど近い場所に宿を取ったセラフィナは、人に会うというベアトリスと別
れ、金物職人の通りを歩いていた。
首元には金細工のブローチが一つ。
ついさっき、彫金師の店で細工してもらったモノだ。
セラフィナがアクセサリーを身に付ける。コレは結構珍しいことなのだが、それ以
上に珍しいのは、今、心躍る感覚があることだった。
アクセサリーを身に付けるのはいつも皇女としてのお役目の時と決まっていて、喜
ぶことなど一度もなかったのに。
ひしゃげたブローチの残骸を持ち込んだら、腕のいい職人が見違えるように細工を
施してくれた。これだけでも嬉しいことだと思う。
手持ちぶさたであったこともあり、細工を終始見学できた感動もあるのだろう。
が、それ以上に、顔がほころぶのを止められない。
「あ」
そうだ、ライさんにも見せてあげよう。
ちょっと前まで金の溶けた塊でしかなかったモノが、こんなに素敵なアラベスクの
ブローチに仕上がったのだから。
人混みを縫うように歩き、宿であらかじめ訊ねておいた公園へ向かう。
ココから、そう遠い距離ではないし、のんびり歩いていこう。
一つ向こうの通りだろうか、相当な早さで駆け抜ける馬車が石畳を削る音らしき騒
音が聞こえた。思わず眉根を寄せ、耳を塞ぐ。
多分、上流階級の特権意識を持つ人なのだろうと見当は付くが、それにしても迷惑
この上ない。一度降りて、疾走する自分の馬車に轢かれかけでもしないとわからない
のだろうと思うと、深い溜め息が漏れた。
公園には噴水があり、芸術の都にほど近いことを感じさせるオブジェも飾られてい
る。
人が疎らなことを好ましく思いながら、大きく一つ深呼吸。空気もさっきほどゴミ
ゴミした感じはなかった。
「ライさーん?」
木陰で、心なしか小さい声で名を呼ぶ。
気付くだろうか、襟の下に飾られた金のブローチの存在に。
「……ライさん?」
違う公園に行ったのだろうか、それとも、気が乗らないのだろうか。
理由はわからないが、とにかく彼は姿を現さなかった……。
仕方なく宿に戻ると、必要以上に豪奢な馬車が宿の入り口を塞いでいた。
さっきの騒音の主かな、という印象とともに若干のイヤな予感が脳裏をよぎる。
来た道を戻ろうと振り返り、そこで初めて囲まれていたことを悟った。
「何者ですか」
問いに対する返事はない。
ジリジリと間合いを詰めてくる見知らぬ男達に対して、セラフィナはゆっくりと針
を構えた。
「それ以上近づくと、打ちます」
腕が伸び、手首が翻る。
セラフィナが飛びすさりながら針を放ち、前方の三人を無力化してゆく。
ほぼ同時に彼女が居た場所には投網が放たれ、空を切った。どこからか、舌打ちが
漏れる。
「カフール皇国第二皇女、セラフィナ様とお見受けしました」
後ろから、しかも至近距離からの声に振り向き、手刀を見舞おうとするが時既に遅
し。
先に鳩尾へと拳を叩き込んだ男は、崩れ落ちるセラフィナを全身で受け止めた。
残った数名に顎でなにやら指図をし、自分は彼女を両手で抱え上げると馬車に乗り
込む。
馬車が走り去った後には、動きを奪われたはずの男達も誰もいなかった。
残されたのは金細工のブローチ、それだけだった。
場所:港町ルクセン
------------------------------------------------------------------------
港からほど近い場所に宿を取ったセラフィナは、人に会うというベアトリスと別
れ、金物職人の通りを歩いていた。
首元には金細工のブローチが一つ。
ついさっき、彫金師の店で細工してもらったモノだ。
セラフィナがアクセサリーを身に付ける。コレは結構珍しいことなのだが、それ以
上に珍しいのは、今、心躍る感覚があることだった。
アクセサリーを身に付けるのはいつも皇女としてのお役目の時と決まっていて、喜
ぶことなど一度もなかったのに。
ひしゃげたブローチの残骸を持ち込んだら、腕のいい職人が見違えるように細工を
施してくれた。これだけでも嬉しいことだと思う。
手持ちぶさたであったこともあり、細工を終始見学できた感動もあるのだろう。
が、それ以上に、顔がほころぶのを止められない。
「あ」
そうだ、ライさんにも見せてあげよう。
ちょっと前まで金の溶けた塊でしかなかったモノが、こんなに素敵なアラベスクの
ブローチに仕上がったのだから。
人混みを縫うように歩き、宿であらかじめ訊ねておいた公園へ向かう。
ココから、そう遠い距離ではないし、のんびり歩いていこう。
一つ向こうの通りだろうか、相当な早さで駆け抜ける馬車が石畳を削る音らしき騒
音が聞こえた。思わず眉根を寄せ、耳を塞ぐ。
多分、上流階級の特権意識を持つ人なのだろうと見当は付くが、それにしても迷惑
この上ない。一度降りて、疾走する自分の馬車に轢かれかけでもしないとわからない
のだろうと思うと、深い溜め息が漏れた。
公園には噴水があり、芸術の都にほど近いことを感じさせるオブジェも飾られてい
る。
人が疎らなことを好ましく思いながら、大きく一つ深呼吸。空気もさっきほどゴミ
ゴミした感じはなかった。
「ライさーん?」
木陰で、心なしか小さい声で名を呼ぶ。
気付くだろうか、襟の下に飾られた金のブローチの存在に。
「……ライさん?」
違う公園に行ったのだろうか、それとも、気が乗らないのだろうか。
理由はわからないが、とにかく彼は姿を現さなかった……。
仕方なく宿に戻ると、必要以上に豪奢な馬車が宿の入り口を塞いでいた。
さっきの騒音の主かな、という印象とともに若干のイヤな予感が脳裏をよぎる。
来た道を戻ろうと振り返り、そこで初めて囲まれていたことを悟った。
「何者ですか」
問いに対する返事はない。
ジリジリと間合いを詰めてくる見知らぬ男達に対して、セラフィナはゆっくりと針
を構えた。
「それ以上近づくと、打ちます」
腕が伸び、手首が翻る。
セラフィナが飛びすさりながら針を放ち、前方の三人を無力化してゆく。
ほぼ同時に彼女が居た場所には投網が放たれ、空を切った。どこからか、舌打ちが
漏れる。
「カフール皇国第二皇女、セラフィナ様とお見受けしました」
後ろから、しかも至近距離からの声に振り向き、手刀を見舞おうとするが時既に遅
し。
先に鳩尾へと拳を叩き込んだ男は、崩れ落ちるセラフィナを全身で受け止めた。
残った数名に顎でなにやら指図をし、自分は彼女を両手で抱え上げると馬車に乗り
込む。
馬車が走り去った後には、動きを奪われたはずの男達も誰もいなかった。
残されたのは金細工のブローチ、それだけだった。