人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン
------------------------------------------------------------------------
――まるで、スローモーションのように。
まるでゴミでも捨てるように船から叩き落されたセラフィナの姿が見えた。
「ちょっと……待てよッ!」
ライはセラフィナが落ちた端まで駆け寄る。濡れた板でブーツの底が滑って転びそう
になったが、床に手をついて、勢いもそのままに縁に縋った。
見下ろした先には無数の雨粒が突き刺さる海。
冷たい水で煙っていて水面さえぼんやりとしか見えない。
「セラフィナさん!?」
長大な刃物――たぶん刺身包丁――を手にした船員がこちらの様子に気づいた。
隅に居たせいで、針の恐怖からは逃れたらしい。いきなり倒れた仲間達の様子に困惑
している彼が聞いてくる。
「どうした?」
イカばかり見ていたせいで、何が起こっているのかわからないらしい。
っていうかこの様子で気がつけよ。
「落とされた! ゼッテー殺すクソ魚介類」
「ちょっと待て俺を睨むな俺は何も落としてないっつーか何が落ちた!?」
「セラフィナさんが!」
……。
…………。
「何ィイイイイイィィィイッ!!?」
「っせ…ぇ……いや」
うるせぇ黙れ突き落とすぞハゲ! と叫びたくなるのをかろうじて我慢。
料理担当な彼の頭髪が脱着可能だということをライは知っている。
「………………おじさん飛び込んで助けてきてよ!」
「人頼みかよオイ」
今度はしっかり「泳げねぇから頼んでんだよこのハゲ!」と叫びながら、料理担当の
胸倉を掴んでガックンガックン揺さぶりつつ縁から叩き落そうとする。揺さぶられつつ
叩き落されそうになっている方は、髪の秘密をどこで知ったんだ頼む誰にも言わないで
と喚いていた。
「ちょっと落ち着いて」
その腕を掴まれて振り返ると、ベアトリスが立っていた。
「あのね……大丈夫っぽいの」
「大丈夫じゃないよ!
イカいるしセラフィナさん落ちたしこいつの髪には秘密があるし!
返事してセラフィナさーんっ!!」
船の下にもう一度呼びかけたが返事はない。雨音だけが周囲を支配している。
甲板に落ちるのとマストに落ちるのとではやはり音が違うんだと、余計なことに気が
回る。
困り顔のベアトリスの後ろから、さっき銛でイカに飛び掛っていた海の戦士が現れた。
彼はなんだかなれなれしくライの肩に手を置いて、
「心配することはない……彼女は助かる」
「誰も助けに行かないで助かるワケないって!」
「イカが助けてくれている」
海の戦士は力強くうなずいてそう宣言した。
なんていうか、冷水の代わりに冷凍ナマモノを以下略。
一瞬、頭の中が綺麗に真っ白になって復帰しから、ライは彼に怒鳴りつけた。
「ワンモアリピートプリーズ!」
「嬢ちゃんが自分を助けようとしていたことに気がついたイカが感激して、間違って振
り落としてしまったことを謝罪して後悔してお詫びにゲソを我々に進呈することを約束
した後、海に落ちた彼女をタダイマ必死に探している。アンダースタン?」
そういえば揺れていた船はもう揺れていない。雨音ばかりが響いている。
彼が言い終えた瞬間を狙っていたように、傍らに巨大な吸盤のついたイカのあしが現
れて、ずぶぬれになったセラフィナを甲板に横たえて引っ込んで行った。
「…………うわぁ」
――ッッ!
なんとも擬音にしづらいイカの鳴き声が轟いた。
心配するのも忘れて非常識に気を失いかけていると、海の戦士――もとい、いつもは
ちょっと気が弱い船員だったウォルトは、鋭く尖った銛を片手に豪快に笑った。
「HAHAHA! たとえ種族が違っても、心が通い合えば相互理解は可能なのさ!」
「……アレと心が通い合っちゃったの? お気の毒に」
適当に返事しながら、ようやくセラフィナに近づいていく。
片目を隠しているせいか平衡感覚が少し斜めにズレているが、歩くのに支障はなかっ
た。先に様子を見ていたベアトリスがこちらを振り返る。
「大丈夫……だと思う。水もあんまり飲んでないみたい」
「よかったぁ」
セラフィナは完全に意識を手放しているみたいだ。
ただ、体は冷え切っているみたいだから、早く暖かい場所に移したほうがいいだろう。
ぐっしょりと濡れた黒髪が体に張り付いているのを払ってからライはセラフィナを抱
き上げようと膝をついた。
「……無理よ」
「何が?」
「さっき歩いてるときナナメってたじゃない。
人を抱えたりしたら絶対に転ぶわよ。
ユーレーって精神的に不安定になるとすぐダウンするんだから……まったくもう」
まったくもうとか言われても困ってしまう。
ナナメってた、なんて言葉の使い方が正しいのかライが悩んでいるうちに、ベアトリ
スは高笑いを続けていたウォルトを呼びつけて、セラフィナを船室に運び込むように言
った。というか命令した。
銛を投げ捨てて海の男から船員に戻ったウォルトが、船の横でじっとこちらの様子を
見ている巨大イカに「すぐ戻ってくるから待っててねマリリンちゃーん」とか言ってか
ら、セラフィナを抱えて消えて行った。
――後には、ライとベアトリス、死屍累々たる船員たちと、巨大イカだけが残された。
「……さっき落としたゲソは?」
「船員さんたちが解体して運んで行ったわ」
「なんだこの船。なんだこの船」
二度繰り返してから、ライは大きなため息をついた。
それから眉根を寄せる。
「ところでさ、濡れた服って……やっぱり脱がせるよねぇ」
「変な想像してんの? ヘンターイ」
冷たい声で言ってくるベアトリスに、ライも極めて冷静な声で返事をした。
少しでも動揺したら負けだ。落ち着け自分。
「いや……女の船員さんって、いたかなぁと思って」
「あ!」
ベアトリスは声を上げるとセラフィナを追って走っていった。
ようやく静かになったので――とりあえず、倒れたまま呻いている船員ズに刺さりっ
ぱなしの針を抜いてまわることにした。
その途中で横を見ると、巨大なイカの目玉に凝視されているのに気がついた。
なんだこの微妙すぎる気分。
場所:デルクリフ⇔ルクセン
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――まるで、スローモーションのように。
まるでゴミでも捨てるように船から叩き落されたセラフィナの姿が見えた。
「ちょっと……待てよッ!」
ライはセラフィナが落ちた端まで駆け寄る。濡れた板でブーツの底が滑って転びそう
になったが、床に手をついて、勢いもそのままに縁に縋った。
見下ろした先には無数の雨粒が突き刺さる海。
冷たい水で煙っていて水面さえぼんやりとしか見えない。
「セラフィナさん!?」
長大な刃物――たぶん刺身包丁――を手にした船員がこちらの様子に気づいた。
隅に居たせいで、針の恐怖からは逃れたらしい。いきなり倒れた仲間達の様子に困惑
している彼が聞いてくる。
「どうした?」
イカばかり見ていたせいで、何が起こっているのかわからないらしい。
っていうかこの様子で気がつけよ。
「落とされた! ゼッテー殺すクソ魚介類」
「ちょっと待て俺を睨むな俺は何も落としてないっつーか何が落ちた!?」
「セラフィナさんが!」
……。
…………。
「何ィイイイイイィィィイッ!!?」
「っせ…ぇ……いや」
うるせぇ黙れ突き落とすぞハゲ! と叫びたくなるのをかろうじて我慢。
料理担当な彼の頭髪が脱着可能だということをライは知っている。
「………………おじさん飛び込んで助けてきてよ!」
「人頼みかよオイ」
今度はしっかり「泳げねぇから頼んでんだよこのハゲ!」と叫びながら、料理担当の
胸倉を掴んでガックンガックン揺さぶりつつ縁から叩き落そうとする。揺さぶられつつ
叩き落されそうになっている方は、髪の秘密をどこで知ったんだ頼む誰にも言わないで
と喚いていた。
「ちょっと落ち着いて」
その腕を掴まれて振り返ると、ベアトリスが立っていた。
「あのね……大丈夫っぽいの」
「大丈夫じゃないよ!
イカいるしセラフィナさん落ちたしこいつの髪には秘密があるし!
返事してセラフィナさーんっ!!」
船の下にもう一度呼びかけたが返事はない。雨音だけが周囲を支配している。
甲板に落ちるのとマストに落ちるのとではやはり音が違うんだと、余計なことに気が
回る。
困り顔のベアトリスの後ろから、さっき銛でイカに飛び掛っていた海の戦士が現れた。
彼はなんだかなれなれしくライの肩に手を置いて、
「心配することはない……彼女は助かる」
「誰も助けに行かないで助かるワケないって!」
「イカが助けてくれている」
海の戦士は力強くうなずいてそう宣言した。
なんていうか、冷水の代わりに冷凍ナマモノを以下略。
一瞬、頭の中が綺麗に真っ白になって復帰しから、ライは彼に怒鳴りつけた。
「ワンモアリピートプリーズ!」
「嬢ちゃんが自分を助けようとしていたことに気がついたイカが感激して、間違って振
り落としてしまったことを謝罪して後悔してお詫びにゲソを我々に進呈することを約束
した後、海に落ちた彼女をタダイマ必死に探している。アンダースタン?」
そういえば揺れていた船はもう揺れていない。雨音ばかりが響いている。
彼が言い終えた瞬間を狙っていたように、傍らに巨大な吸盤のついたイカのあしが現
れて、ずぶぬれになったセラフィナを甲板に横たえて引っ込んで行った。
「…………うわぁ」
――ッッ!
なんとも擬音にしづらいイカの鳴き声が轟いた。
心配するのも忘れて非常識に気を失いかけていると、海の戦士――もとい、いつもは
ちょっと気が弱い船員だったウォルトは、鋭く尖った銛を片手に豪快に笑った。
「HAHAHA! たとえ種族が違っても、心が通い合えば相互理解は可能なのさ!」
「……アレと心が通い合っちゃったの? お気の毒に」
適当に返事しながら、ようやくセラフィナに近づいていく。
片目を隠しているせいか平衡感覚が少し斜めにズレているが、歩くのに支障はなかっ
た。先に様子を見ていたベアトリスがこちらを振り返る。
「大丈夫……だと思う。水もあんまり飲んでないみたい」
「よかったぁ」
セラフィナは完全に意識を手放しているみたいだ。
ただ、体は冷え切っているみたいだから、早く暖かい場所に移したほうがいいだろう。
ぐっしょりと濡れた黒髪が体に張り付いているのを払ってからライはセラフィナを抱
き上げようと膝をついた。
「……無理よ」
「何が?」
「さっき歩いてるときナナメってたじゃない。
人を抱えたりしたら絶対に転ぶわよ。
ユーレーって精神的に不安定になるとすぐダウンするんだから……まったくもう」
まったくもうとか言われても困ってしまう。
ナナメってた、なんて言葉の使い方が正しいのかライが悩んでいるうちに、ベアトリ
スは高笑いを続けていたウォルトを呼びつけて、セラフィナを船室に運び込むように言
った。というか命令した。
銛を投げ捨てて海の男から船員に戻ったウォルトが、船の横でじっとこちらの様子を
見ている巨大イカに「すぐ戻ってくるから待っててねマリリンちゃーん」とか言ってか
ら、セラフィナを抱えて消えて行った。
――後には、ライとベアトリス、死屍累々たる船員たちと、巨大イカだけが残された。
「……さっき落としたゲソは?」
「船員さんたちが解体して運んで行ったわ」
「なんだこの船。なんだこの船」
二度繰り返してから、ライは大きなため息をついた。
それから眉根を寄せる。
「ところでさ、濡れた服って……やっぱり脱がせるよねぇ」
「変な想像してんの? ヘンターイ」
冷たい声で言ってくるベアトリスに、ライも極めて冷静な声で返事をした。
少しでも動揺したら負けだ。落ち着け自分。
「いや……女の船員さんって、いたかなぁと思って」
「あ!」
ベアトリスは声を上げるとセラフィナを追って走っていった。
ようやく静かになったので――とりあえず、倒れたまま呻いている船員ズに刺さりっ
ぱなしの針を抜いてまわることにした。
その途中で横を見ると、巨大なイカの目玉に凝視されているのに気がついた。
なんだこの微妙すぎる気分。
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人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン
------------------------------------------------------------------------
体が、熔けそうなくらい重い。
力が入らなくて、ズルズルとなにかに引き込まれるがままになっている。
瞼が重くて、瞼の裏にも光が射さなくて。
このまま眠ってしまうのもいいな。
ふと、そう思った。
身をよじるのも億劫で、ただそこに居るだけ。
もしかしたら、そこにも居ないのかもしれない。
そんな虚脱感。
遠くで、何かが聞こえた。多分人の声だろう。
でも、何もかもが面倒で、興味が持てない。
静かにしてくれたら、このまま安らかに眠れそうなのに。
意識を手放そうとして、何度も直前で邪魔が入る。
静かに、してもらえないかな。
その時初めて、語尾が聞き取れた。
『……さんっ!』
なんだか透明の幕越しに話を聞いているような、奇妙な距離感を感じる。
誰かを呼んでいるのかしら。
ちょっと切羽詰まったカンジが、僅かに興味をくすぐる。
『セラフィナさんっ!』
ああ、セラフィナって人を呼んでいるのか。
どこかで聞いたような気がするけど、思い出せないな。
意識がまどろむのが、ただひたすらに心地よい。
セラフィナって誰だっけ……?
……ああ、私のことだ。
ぼんやりと目を開けるとそこは天井が低くて狭い部屋。部屋の中には一人きりだっ
た。
体がとても重くて、体を動かそうにもミシミシと音が鳴りそうで、何となく天井を
見上げる。
知らない部屋。
なんだか揺れているような気がするから船室なのかしら。
それにしても何でこんな所にいるのだろう。ワケが分からない。
「カイ……?」
呼んでみても反応はなく、なんだか心細く感じる。
一人で遠出をしているの? でも、それも変な話だ。
今まで一度も許可されたことがないのに。
コン コン
ドアが二度ノックされる。
体を起こせないので顔だけ向けて「誰?」と呟いた。
声を出すのが辛い。肺を傷つけてはいないようだが、どうも右の脇腹当たりが酷く
痛む。
「目が覚めたの?」
こちらの返事を待たずに入ってきたのは、同じくらいの歳の女の子。
手には洗面器とタオルを持っていて、どうも看病をしていてくれたらしいことが分
かる。
「ええ、ついさきほど」
知らない顔に動揺し、僅かに身構える。
誰なのだろう、全く思い出せない。
「まったく、魔法で治療もできないんだったら、あんな無茶しないでよね」
口調は厳しいが、心配していたことが伝わってきた。
一体何をしたんだろう、私。
気怠さと傷の痛みで思考が中断する。どうも考えがまとまらない。
「あの、私の連れは……?」
一人旅というのは想像が付かないから、カイか誰か、護衛がいるはずだ。
「あんまり心配かけると可哀想よ。取り乱して、どうしてイイか分からなかったんだ
から」
一体何があったのだろう。
体の傷から考えても、ただ事ではなさそうだけれど。
「話がしたいんですが、呼んでいただけますか?」
苦しいながらも何とか笑顔を作って、話しかける。
やはり話をするのは苦しい。顔を一瞬しかめて、もう一度笑顔を作り直す。
笑顔を絶やさないこと、幼い頃から叩き込まれた「むやみに敵を作らない知恵」だ
った。
「……いいけど、大丈夫なの?」
彼女が服を引っ張ってみせる。
意味が分からなくて僅かに首を傾げると「服、今干してるのよね」と補足が入っ
た。
「どうせ、体を起こしたり出来ませんから」
心配ないでしょうと、笑う。
自分の連れなら、そういう心配がない人であるはずだから。
……そうでなければ困る。
「じゃあ、呼びに行く前にコレ」
差し出されたのは鏡と、櫛。……さすが女性だなと思う。
手を伸ばそうにも手が上がらないのを見て「仕方がないなぁ」と、髪を梳[くしけ
ず]ってくれた。
シュッ シュッ シュッ
微かな音が、部屋を支配する。
その音が心地よくて、またまどろみそうになって。
見知らぬ人の前だと言うことを思い出さなかったら、本当に眠ってしまっていただ
ろう。
体を起こせないので不完全にではあるけれど「こんなもんかな?」と彼女は笑って
櫛を置いた。
「どう?」
差し出されたのは鏡。
そして映し出されるのは私の顔……のはずだった。
「……誰、コレ……」
封魔布は私のもので、髪も、目も、面影がないとは云わないけど。
見知らぬ女性が映っているのだ。
少なくとも、見慣れた自分の顔はもっと幼く、髪も短いのだから。
頭が混乱して、二の句が継げない。
「何?何か問題あるの?」
さっきの呟きは聞き取れなかったらしく、鏡を向けたまま彼女は首を傾げる。
「え……と、あの、私の名前は……?」
「セラフィナさん」
即答。
鏡に映る女の人が、どうも私であるらしい。
「何よ、キオクソーシツごっこ?」
記憶喪失?
……とりあえず自分のことは覚えているような気がするけど。
でも容姿は大きく変わっていて、彼女は私を知っている。
私の記憶と何年分かの隔たりがあるとでも云うのだろうか。
「連れの名前は?」
カイであれば、疑問も彼が答えてくれるだろうと淡い期待を抱きつつ訊ねる。
縋るように見上げられて、彼女は混乱したようだった。
「連れってライのことだと思うけど……え、マジで?」
……誰だ、ソレは。
偽名でもライと名乗るのは聞いたことがない。
「黒髪の剣士じゃ……ないんですか?」
何とか言葉を紡ぎつつも、傷が痛んでスムーズな会話にならないうえに、二人とも
頭の中は疑問符でいっぱいだった。
目の前の彼女は一歩後ろに引いてよろけると、鏡を置いて、頭を押さえた。
「うわぁ、大変だ……」
途方に暮れたいのは私の方……と思いつつも、言葉にならない。傷の痛みに顔をし
かめる。
「ちょ、とりあえず、彼を連れてくるから!」
そう言い残すと、慌ただしく部屋を後にする彼女。
……そういえば名前も知らない。聞いておけばよかったかな。そうぼんやり考え
る。
見上げる天井は低くて、やはり見覚えはなくて。
なんだか泣きそうになって、眉根を寄せ、目を閉じた。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
一方、船は順調に航海していた。というより、かなりハイペースで街まで向かって
いた。ウォルト航海士と巨大イカマリリンの意志の疎通により、マリリンが文字通り
後押ししているのだ。
この分なら、遅れた予定も取り返せるかもしれない。
ちなみに、食堂では「イカのあぶり焼き・バター醤油味」が大好評で、他にも「イ
カの刺身」「イカの煮物」など、イカづくしなメニューが書き加えられている。
乗員の中で幸せな気分を満喫していないのは、三人だけだったかもしれない。
場所:デルクリフ⇔ルクセン
------------------------------------------------------------------------
体が、熔けそうなくらい重い。
力が入らなくて、ズルズルとなにかに引き込まれるがままになっている。
瞼が重くて、瞼の裏にも光が射さなくて。
このまま眠ってしまうのもいいな。
ふと、そう思った。
身をよじるのも億劫で、ただそこに居るだけ。
もしかしたら、そこにも居ないのかもしれない。
そんな虚脱感。
遠くで、何かが聞こえた。多分人の声だろう。
でも、何もかもが面倒で、興味が持てない。
静かにしてくれたら、このまま安らかに眠れそうなのに。
意識を手放そうとして、何度も直前で邪魔が入る。
静かに、してもらえないかな。
その時初めて、語尾が聞き取れた。
『……さんっ!』
なんだか透明の幕越しに話を聞いているような、奇妙な距離感を感じる。
誰かを呼んでいるのかしら。
ちょっと切羽詰まったカンジが、僅かに興味をくすぐる。
『セラフィナさんっ!』
ああ、セラフィナって人を呼んでいるのか。
どこかで聞いたような気がするけど、思い出せないな。
意識がまどろむのが、ただひたすらに心地よい。
セラフィナって誰だっけ……?
……ああ、私のことだ。
ぼんやりと目を開けるとそこは天井が低くて狭い部屋。部屋の中には一人きりだっ
た。
体がとても重くて、体を動かそうにもミシミシと音が鳴りそうで、何となく天井を
見上げる。
知らない部屋。
なんだか揺れているような気がするから船室なのかしら。
それにしても何でこんな所にいるのだろう。ワケが分からない。
「カイ……?」
呼んでみても反応はなく、なんだか心細く感じる。
一人で遠出をしているの? でも、それも変な話だ。
今まで一度も許可されたことがないのに。
コン コン
ドアが二度ノックされる。
体を起こせないので顔だけ向けて「誰?」と呟いた。
声を出すのが辛い。肺を傷つけてはいないようだが、どうも右の脇腹当たりが酷く
痛む。
「目が覚めたの?」
こちらの返事を待たずに入ってきたのは、同じくらいの歳の女の子。
手には洗面器とタオルを持っていて、どうも看病をしていてくれたらしいことが分
かる。
「ええ、ついさきほど」
知らない顔に動揺し、僅かに身構える。
誰なのだろう、全く思い出せない。
「まったく、魔法で治療もできないんだったら、あんな無茶しないでよね」
口調は厳しいが、心配していたことが伝わってきた。
一体何をしたんだろう、私。
気怠さと傷の痛みで思考が中断する。どうも考えがまとまらない。
「あの、私の連れは……?」
一人旅というのは想像が付かないから、カイか誰か、護衛がいるはずだ。
「あんまり心配かけると可哀想よ。取り乱して、どうしてイイか分からなかったんだ
から」
一体何があったのだろう。
体の傷から考えても、ただ事ではなさそうだけれど。
「話がしたいんですが、呼んでいただけますか?」
苦しいながらも何とか笑顔を作って、話しかける。
やはり話をするのは苦しい。顔を一瞬しかめて、もう一度笑顔を作り直す。
笑顔を絶やさないこと、幼い頃から叩き込まれた「むやみに敵を作らない知恵」だ
った。
「……いいけど、大丈夫なの?」
彼女が服を引っ張ってみせる。
意味が分からなくて僅かに首を傾げると「服、今干してるのよね」と補足が入っ
た。
「どうせ、体を起こしたり出来ませんから」
心配ないでしょうと、笑う。
自分の連れなら、そういう心配がない人であるはずだから。
……そうでなければ困る。
「じゃあ、呼びに行く前にコレ」
差し出されたのは鏡と、櫛。……さすが女性だなと思う。
手を伸ばそうにも手が上がらないのを見て「仕方がないなぁ」と、髪を梳[くしけ
ず]ってくれた。
シュッ シュッ シュッ
微かな音が、部屋を支配する。
その音が心地よくて、またまどろみそうになって。
見知らぬ人の前だと言うことを思い出さなかったら、本当に眠ってしまっていただ
ろう。
体を起こせないので不完全にではあるけれど「こんなもんかな?」と彼女は笑って
櫛を置いた。
「どう?」
差し出されたのは鏡。
そして映し出されるのは私の顔……のはずだった。
「……誰、コレ……」
封魔布は私のもので、髪も、目も、面影がないとは云わないけど。
見知らぬ女性が映っているのだ。
少なくとも、見慣れた自分の顔はもっと幼く、髪も短いのだから。
頭が混乱して、二の句が継げない。
「何?何か問題あるの?」
さっきの呟きは聞き取れなかったらしく、鏡を向けたまま彼女は首を傾げる。
「え……と、あの、私の名前は……?」
「セラフィナさん」
即答。
鏡に映る女の人が、どうも私であるらしい。
「何よ、キオクソーシツごっこ?」
記憶喪失?
……とりあえず自分のことは覚えているような気がするけど。
でも容姿は大きく変わっていて、彼女は私を知っている。
私の記憶と何年分かの隔たりがあるとでも云うのだろうか。
「連れの名前は?」
カイであれば、疑問も彼が答えてくれるだろうと淡い期待を抱きつつ訊ねる。
縋るように見上げられて、彼女は混乱したようだった。
「連れってライのことだと思うけど……え、マジで?」
……誰だ、ソレは。
偽名でもライと名乗るのは聞いたことがない。
「黒髪の剣士じゃ……ないんですか?」
何とか言葉を紡ぎつつも、傷が痛んでスムーズな会話にならないうえに、二人とも
頭の中は疑問符でいっぱいだった。
目の前の彼女は一歩後ろに引いてよろけると、鏡を置いて、頭を押さえた。
「うわぁ、大変だ……」
途方に暮れたいのは私の方……と思いつつも、言葉にならない。傷の痛みに顔をし
かめる。
「ちょ、とりあえず、彼を連れてくるから!」
そう言い残すと、慌ただしく部屋を後にする彼女。
……そういえば名前も知らない。聞いておけばよかったかな。そうぼんやり考え
る。
見上げる天井は低くて、やはり見覚えはなくて。
なんだか泣きそうになって、眉根を寄せ、目を閉じた。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
一方、船は順調に航海していた。というより、かなりハイペースで街まで向かって
いた。ウォルト航海士と巨大イカマリリンの意志の疎通により、マリリンが文字通り
後押ししているのだ。
この分なら、遅れた予定も取り返せるかもしれない。
ちなみに、食堂では「イカのあぶり焼き・バター醤油味」が大好評で、他にも「イ
カの刺身」「イカの煮物」など、イカづくしなメニューが書き加えられている。
乗員の中で幸せな気分を満喫していないのは、三人だけだったかもしれない。
人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン
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――コールベルについたら何をしよう。
ただ行ってみたかったというだけの理由で向かっているけど、観光でもするのかとい
えば、あまり気乗りはしない。それに、昔行ってみたかっただけで、今もまだそう思っ
ているのかさえよくわからないのだ。
ベアトリスがばたばたと慌しくやってきたのは、ライが狭い船室の寝台で仰向けにな
って天井を眺めているときだった。食堂では宴会というかイカパーティーというかが繰
り広げられていたようだが、それに混ざって騒ごうという気分ではなかったのだ。
ノックもなしに扉を撥ね開けて駆け込んできた彼女を見て、ライは驚いて半身を起こ
す。ベアトリスは「明かりくらい点けなさいよ」と八つ当たりにしか思えないことでラ
イを怒鳴りつけてから、困ったように口ごもってしまった。
「……どうしたの?」
低いテーブルの上に置かれたランプに手を伸ばてから火がないことに気づく。
魔法が使えればこんなとき便利なのに。火をもらいにいくのも面倒なのでベアトリス
に頼んで点火してもらった。短い呪文で小さな光が生まれる。やはり便利だ。
ベアトリスは深刻な表情のままライを睨むように見据えた。
意味が分からなくてライは困惑する。巨大イカ事件の顛末が気に食わなかったのだと
したら、ライも同じ気分だから、それこそ八つ当たりされても困るというものだ。
「あっ……あのさ! 聞きたいんだけど!」
「うん」
「二人って、恋人じゃなかったら、どういう関係なの?」
「……え?」
いきなりすぎる質問に、虚を突かれた感じになってしまい、ライは返答に窮した。
よくいろいろな人から聞かれるが、男女が一緒にいたら無条件で恋人だと見られるの
だろうか?
だとしたら間違いだ。
「どういうって……別に」
たまたま知り合ったけれど、その理由は他愛のないことだったし、あの悲惨な事件が
終わった時点で別れていたはずだった。
目的地が同じだということ以外、彼女と一緒にいる理由は存在しない。
「別に?」
苦笑を作ってライは答えた。
「……知り合い以上友達未満ってところかな。
一緒に吊り橋を渡ったのは確かだけど、あれはあくまで可能性の問題だ。
錯覚なんか起こらなかった。僕はセラフィナさんに特別な感情は抱いてない。
たまたま行き先が同じだから今も一緒にいるだけだよ。言ってしまえば――」
所詮は、他人。
そうだとも。そうでなければいけない。
彼女に対して特別な感情は一切ないのだ。
たとえば。
そう、たとえば。
狂おしいほどに――彼女の細い頸に手をかけて、ゆっくりと締め上げながら、そのぬ
くもりと命を奪いたいと、ああ、それはもう、正に、狂おしいほどに――初めて会った
時からときおり違ういつもだ心の隅でひるがえる跳ね回る淡い淡くないとてもとてもと
てもとても、確かに純粋な願い欲望それ以上は求めない下心など存在しない彼女の死で
僕はきっと満たされる。
だが、蒼褪めた貌に口づけを落としでもすれば、歪んだ恋に見えるのだろうか。
認めてはいけない。
肯定してはいけない。
彼女を殺してはいけない。
「――旅は道連れって、言うじゃないか」
「それだけ? 仲いいけど」
「僕は自分の目的とかそういうものがないから、いくらでも人に合わせられるよ。
そりゃあ気に食わないやつは気に食わないけどね……」
「……本当に、それだけなの?」
首を傾げるベアトリス。
ライは笑って「そうだよ」とうなずいた。
「そ、そう……じゃあ」
ベアトリスは少しほっとしたように――しかし一層困ったように眉根を寄せて、逡巡
した後で、ごく小さな声で、かなり早く囁いた。
「セラフィナさんがさっきのショックで記憶喪失になってライのことも忘れちゃったな
んて言っても、天が落ちて地が割れたくらい酷いショックは受けないわよね」
「…………えーっと」
しっかり聞こえていたはずの言葉の意味がよく理解できなくて、いや実際にはしっか
り理解できているのを認めるのを意識に拒否されて、三度くらい口の中で、ベアトリス
の口調まで丁寧に再現しながら反芻してから、ライはいつの間にかうつむいていた顔を
上げた。
「マジ?」
頭の中では、ゲソに殴り飛ばされて――蹴り飛ばされて?――海に落ちたセラフィナ
の姿が蘇っている。あれはかなり痛そうだった。記憶くらい飛んでても不思議ではない。
「当たり所がわるかったのかしら。熱もかなり出てるみたいだし……」
「……記憶喪失なんて意外と簡単になれるからねぇ……だけど困ったな」
実際、自分もポポルにいたときからソフィニアに辿り着くまでの記憶が抜けている。
それどころか、生きていたころのことは、情景として思い出せない部分も多々あり、
慣れてしまったということもあって……どの辺りまで忘れてしまったら「大ごと」なの
かいまいちピンと来ないが。
記憶など、なくても意外となんとかなるものだ。
記憶は人間にとっていちばん大切な、自己を形成するための要素だと言うが――何を
失ったのかも忘れてしまえば、取り戻すべき自己などぼやけてしまい、同じものを切望
することなどできない。
都合のいい代替品を差し出されればそれで満足してしまう。人間に生来備わってる適
応能力とはそういうものだ。
「私の名前は? って聞かれたよ」
「うわぁ」
ライはとりあえず頭をかかえた。
忘れられるのは構わない。どうせもうすぐ別れるはずだったのだから。
だが、彼女が記憶を失ってしまって不安だとか、普段の生活に支障がでるだとか、そ
ういったことがあるのならば、なんとか治す方法を探したい。
「自分の連れは黒髪の剣士のはずだって言うのよ」
「……誰だよ」
昔の知り合いだろうか。妄想の産物だろうか。
どちらにせよ、いまここにいない人物であることに変わりはない。
眼帯がわりのガーゼを手のひらで押さえながら立ち上がる。
こちらを見下ろしていたベアトリスが見上げてくる。
「とりあえず様子だけでも見に行ってみるよ……」
「優しいのね」
「当たり前だ、旅の連れなんだから。
悪いけど船医を呼んでくれる? 少なくとも熱はどうにかしないと」
「うん」
小走りで外に消えたベアトリスを見送って、ライは点けたばかりのランプを消した。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
扉を三度、叩いて。
返事が聞こえたような気がしたからそっと開いた。
「入って大丈夫?」
「――ぅ……」
細く開いた向こうは真っ暗だった。発熱しているとき特有の、少しこもったような声
が聞こえて、しかしそれが言葉だったのか、ただの呻きだったのかは判断つかない。
立ち尽くしたまましばらく待って、「入るよ」と声をかけてからライは部屋の中に滑
り込んだ。後ろ手に扉を閉め、ペンライトを取り出してランプを探し、横に置いてあっ
たマッチで火を灯した。
明るくなった室内は、ライの部屋よりは少し広かったが、それでも窮屈だった。
粗末な寝台の上、毛布にくるまったセラフィナがじっとこちらを見上げている。熱に
浮かされたぼんやりとした表情に、ほんのわずか、こちらへの不信感が滲んでいるのが
わかった。
「……あなたは?」
「覚えてない?」
問い返すと、セラフィナはわずかに沈黙してから首を振った。
ライは苦笑する。というか苦笑しかできない。
「僕はライっていうんだ――元冒険者の人畜無害な幽霊さんで、ソフィニアであなたと
知り合ったんだよ。それで……」
あの事件。陰惨な。
今、言う必要はないだろう。
「……コールベルまで行くっていうから、じゃあ一緒に行こうって。
それで今、船に乗ってるんだ」
「船に……」
「それでセラフィナさんは襲い来た巨大イカのゲソに海に叩き落されて、種族を超えた
愛で和解したイカに救助されて今に至るんだけど」
彼女の目が、かすかに苦悩するように細められる。
ここから知っている場所にすぐ引き返すことができないのを思えば、不安にもなるだ
ろう。っていうか、明らかに彼女が悩んでいる原因はゲソの件だ。
「あの、黒髪の剣士を知りませんか……?」
現状が本当にワケわからないといった様子で、こちらを見上げる目には縋るような光
さえ見えていたような気がする。
だけどきっと気のせいだ。
記憶があってもなくても、彼女がライに縋るなんてありえない。
ライはオーバーアクション気味に困惑の表情を作った。
黒髪の剣士、というだけの条件ならば、昔の知り合いに何人かいるが。その誰もがセ
ラフィナとは結びつかない。ということは彼らではない。
「ええと、男の人? 女の人?」
「男の……でも、線が細くて。いえ、彼じゃないかも知れません。
誰か、私と一緒にいた人は……」
本当に僕のことは覚えていないんだな。ずっと一緒にいたじゃないか。
ライは首を横に振った。
「知らないよ」
「…………そう、ですか」
自然と刻む、口元に薄い笑み。
冷たいそれではなく、あくまでも優しく、曖昧な。この笑顔は盾ではなくて外套。輪
郭をぼかして距離を取る――今この瞬間、自分でも理由のわからない、わずかな愉しさ
を感じたことを悟らせないために。
ライはその感情に従って、自分の声がどのようにこの空間に響いて、どのように相手
に聞こえるのかを計算しながら、そっと囁いた。
「――ソフィニアであなたは一人ぼっちだったんだよ……」
「…………」
忘れられるのは構わない。だけどまったく寂しくないわけじゃない。
たまに覚える嗜虐的な気分にほろ酔いながら、しかし浸りきらないように自制しなが
らライは次に言うべき言葉を探した。
思い出して欲しいけれど――ああ、ベアトリスが呼んだ医者はまだ来ないのか。さす
がに警戒されているみたいだし、間が持たない。
彼女はきっと、今自分に向けられている言葉を信じていいのか迷っているのだろう。
疑われても仕方がない。状況的には誘拐途中だと思われても仕方がないし、ついゲソと
か言っちゃったし。
早くしてくれよ、と。
思った瞬間に扉がノックされたのでライは嬉々として扉を開けた。
場所:デルクリフ⇔ルクセン
------------------------------------------------------------------------
――コールベルについたら何をしよう。
ただ行ってみたかったというだけの理由で向かっているけど、観光でもするのかとい
えば、あまり気乗りはしない。それに、昔行ってみたかっただけで、今もまだそう思っ
ているのかさえよくわからないのだ。
ベアトリスがばたばたと慌しくやってきたのは、ライが狭い船室の寝台で仰向けにな
って天井を眺めているときだった。食堂では宴会というかイカパーティーというかが繰
り広げられていたようだが、それに混ざって騒ごうという気分ではなかったのだ。
ノックもなしに扉を撥ね開けて駆け込んできた彼女を見て、ライは驚いて半身を起こ
す。ベアトリスは「明かりくらい点けなさいよ」と八つ当たりにしか思えないことでラ
イを怒鳴りつけてから、困ったように口ごもってしまった。
「……どうしたの?」
低いテーブルの上に置かれたランプに手を伸ばてから火がないことに気づく。
魔法が使えればこんなとき便利なのに。火をもらいにいくのも面倒なのでベアトリス
に頼んで点火してもらった。短い呪文で小さな光が生まれる。やはり便利だ。
ベアトリスは深刻な表情のままライを睨むように見据えた。
意味が分からなくてライは困惑する。巨大イカ事件の顛末が気に食わなかったのだと
したら、ライも同じ気分だから、それこそ八つ当たりされても困るというものだ。
「あっ……あのさ! 聞きたいんだけど!」
「うん」
「二人って、恋人じゃなかったら、どういう関係なの?」
「……え?」
いきなりすぎる質問に、虚を突かれた感じになってしまい、ライは返答に窮した。
よくいろいろな人から聞かれるが、男女が一緒にいたら無条件で恋人だと見られるの
だろうか?
だとしたら間違いだ。
「どういうって……別に」
たまたま知り合ったけれど、その理由は他愛のないことだったし、あの悲惨な事件が
終わった時点で別れていたはずだった。
目的地が同じだということ以外、彼女と一緒にいる理由は存在しない。
「別に?」
苦笑を作ってライは答えた。
「……知り合い以上友達未満ってところかな。
一緒に吊り橋を渡ったのは確かだけど、あれはあくまで可能性の問題だ。
錯覚なんか起こらなかった。僕はセラフィナさんに特別な感情は抱いてない。
たまたま行き先が同じだから今も一緒にいるだけだよ。言ってしまえば――」
所詮は、他人。
そうだとも。そうでなければいけない。
彼女に対して特別な感情は一切ないのだ。
たとえば。
そう、たとえば。
狂おしいほどに――彼女の細い頸に手をかけて、ゆっくりと締め上げながら、そのぬ
くもりと命を奪いたいと、ああ、それはもう、正に、狂おしいほどに――初めて会った
時からときおり違ういつもだ心の隅でひるがえる跳ね回る淡い淡くないとてもとてもと
てもとても、確かに純粋な願い欲望それ以上は求めない下心など存在しない彼女の死で
僕はきっと満たされる。
だが、蒼褪めた貌に口づけを落としでもすれば、歪んだ恋に見えるのだろうか。
認めてはいけない。
肯定してはいけない。
彼女を殺してはいけない。
「――旅は道連れって、言うじゃないか」
「それだけ? 仲いいけど」
「僕は自分の目的とかそういうものがないから、いくらでも人に合わせられるよ。
そりゃあ気に食わないやつは気に食わないけどね……」
「……本当に、それだけなの?」
首を傾げるベアトリス。
ライは笑って「そうだよ」とうなずいた。
「そ、そう……じゃあ」
ベアトリスは少しほっとしたように――しかし一層困ったように眉根を寄せて、逡巡
した後で、ごく小さな声で、かなり早く囁いた。
「セラフィナさんがさっきのショックで記憶喪失になってライのことも忘れちゃったな
んて言っても、天が落ちて地が割れたくらい酷いショックは受けないわよね」
「…………えーっと」
しっかり聞こえていたはずの言葉の意味がよく理解できなくて、いや実際にはしっか
り理解できているのを認めるのを意識に拒否されて、三度くらい口の中で、ベアトリス
の口調まで丁寧に再現しながら反芻してから、ライはいつの間にかうつむいていた顔を
上げた。
「マジ?」
頭の中では、ゲソに殴り飛ばされて――蹴り飛ばされて?――海に落ちたセラフィナ
の姿が蘇っている。あれはかなり痛そうだった。記憶くらい飛んでても不思議ではない。
「当たり所がわるかったのかしら。熱もかなり出てるみたいだし……」
「……記憶喪失なんて意外と簡単になれるからねぇ……だけど困ったな」
実際、自分もポポルにいたときからソフィニアに辿り着くまでの記憶が抜けている。
それどころか、生きていたころのことは、情景として思い出せない部分も多々あり、
慣れてしまったということもあって……どの辺りまで忘れてしまったら「大ごと」なの
かいまいちピンと来ないが。
記憶など、なくても意外となんとかなるものだ。
記憶は人間にとっていちばん大切な、自己を形成するための要素だと言うが――何を
失ったのかも忘れてしまえば、取り戻すべき自己などぼやけてしまい、同じものを切望
することなどできない。
都合のいい代替品を差し出されればそれで満足してしまう。人間に生来備わってる適
応能力とはそういうものだ。
「私の名前は? って聞かれたよ」
「うわぁ」
ライはとりあえず頭をかかえた。
忘れられるのは構わない。どうせもうすぐ別れるはずだったのだから。
だが、彼女が記憶を失ってしまって不安だとか、普段の生活に支障がでるだとか、そ
ういったことがあるのならば、なんとか治す方法を探したい。
「自分の連れは黒髪の剣士のはずだって言うのよ」
「……誰だよ」
昔の知り合いだろうか。妄想の産物だろうか。
どちらにせよ、いまここにいない人物であることに変わりはない。
眼帯がわりのガーゼを手のひらで押さえながら立ち上がる。
こちらを見下ろしていたベアトリスが見上げてくる。
「とりあえず様子だけでも見に行ってみるよ……」
「優しいのね」
「当たり前だ、旅の連れなんだから。
悪いけど船医を呼んでくれる? 少なくとも熱はどうにかしないと」
「うん」
小走りで外に消えたベアトリスを見送って、ライは点けたばかりのランプを消した。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
扉を三度、叩いて。
返事が聞こえたような気がしたからそっと開いた。
「入って大丈夫?」
「――ぅ……」
細く開いた向こうは真っ暗だった。発熱しているとき特有の、少しこもったような声
が聞こえて、しかしそれが言葉だったのか、ただの呻きだったのかは判断つかない。
立ち尽くしたまましばらく待って、「入るよ」と声をかけてからライは部屋の中に滑
り込んだ。後ろ手に扉を閉め、ペンライトを取り出してランプを探し、横に置いてあっ
たマッチで火を灯した。
明るくなった室内は、ライの部屋よりは少し広かったが、それでも窮屈だった。
粗末な寝台の上、毛布にくるまったセラフィナがじっとこちらを見上げている。熱に
浮かされたぼんやりとした表情に、ほんのわずか、こちらへの不信感が滲んでいるのが
わかった。
「……あなたは?」
「覚えてない?」
問い返すと、セラフィナはわずかに沈黙してから首を振った。
ライは苦笑する。というか苦笑しかできない。
「僕はライっていうんだ――元冒険者の人畜無害な幽霊さんで、ソフィニアであなたと
知り合ったんだよ。それで……」
あの事件。陰惨な。
今、言う必要はないだろう。
「……コールベルまで行くっていうから、じゃあ一緒に行こうって。
それで今、船に乗ってるんだ」
「船に……」
「それでセラフィナさんは襲い来た巨大イカのゲソに海に叩き落されて、種族を超えた
愛で和解したイカに救助されて今に至るんだけど」
彼女の目が、かすかに苦悩するように細められる。
ここから知っている場所にすぐ引き返すことができないのを思えば、不安にもなるだ
ろう。っていうか、明らかに彼女が悩んでいる原因はゲソの件だ。
「あの、黒髪の剣士を知りませんか……?」
現状が本当にワケわからないといった様子で、こちらを見上げる目には縋るような光
さえ見えていたような気がする。
だけどきっと気のせいだ。
記憶があってもなくても、彼女がライに縋るなんてありえない。
ライはオーバーアクション気味に困惑の表情を作った。
黒髪の剣士、というだけの条件ならば、昔の知り合いに何人かいるが。その誰もがセ
ラフィナとは結びつかない。ということは彼らではない。
「ええと、男の人? 女の人?」
「男の……でも、線が細くて。いえ、彼じゃないかも知れません。
誰か、私と一緒にいた人は……」
本当に僕のことは覚えていないんだな。ずっと一緒にいたじゃないか。
ライは首を横に振った。
「知らないよ」
「…………そう、ですか」
自然と刻む、口元に薄い笑み。
冷たいそれではなく、あくまでも優しく、曖昧な。この笑顔は盾ではなくて外套。輪
郭をぼかして距離を取る――今この瞬間、自分でも理由のわからない、わずかな愉しさ
を感じたことを悟らせないために。
ライはその感情に従って、自分の声がどのようにこの空間に響いて、どのように相手
に聞こえるのかを計算しながら、そっと囁いた。
「――ソフィニアであなたは一人ぼっちだったんだよ……」
「…………」
忘れられるのは構わない。だけどまったく寂しくないわけじゃない。
たまに覚える嗜虐的な気分にほろ酔いながら、しかし浸りきらないように自制しなが
らライは次に言うべき言葉を探した。
思い出して欲しいけれど――ああ、ベアトリスが呼んだ医者はまだ来ないのか。さす
がに警戒されているみたいだし、間が持たない。
彼女はきっと、今自分に向けられている言葉を信じていいのか迷っているのだろう。
疑われても仕方がない。状況的には誘拐途中だと思われても仕方がないし、ついゲソと
か言っちゃったし。
早くしてくれよ、と。
思った瞬間に扉がノックされたのでライは嬉々として扉を開けた。
人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン
------------------------------------------------------------------------
ライさんっていったかしら。あの人、意地悪だわ……。
船医が来たのと入れ替わりで部屋を出た男のコトを、ぼんやりと考える。
船医によれば、私達は仲が良さそうだったらしい。恋人かと冷やかされても友達だ
と答える間柄。
そうね、あの人が恋人のワケないじゃない。
親しげにしてたってコトは誘拐ではないのだろうけど、でも、あの人は意地悪だっ
たもの。
記憶を手繰り、少しでも情報をと思うのだが、うまくいかない。
覚えているのはカフールの隣国であるシカラグァの湖で遊覧船に乗せられた所ま
で。
約五年間の記憶がすっぽり抜け落ちていることになる。
傷はなお深く、体を横たえたままのセラフィナは顔をしかめた。
カフールの人間が同乗していない以上、気功治療は自分が頼りとなるのだが、あま
り上手くいってはいなかった。
どうも、傷が新しいものだけではないらしい。治りきらない傷が開いて、悲鳴を上
げているのだ。
それにしても遠いなぁ。
何故にこんなにも遠方へ来ているのか。
そして、何故私はソフィニアで独りぼっちだったのか。
あんな人の言うことを鵜呑みにしたくはなかったけど、状況を考えるとあながち嘘
でもないみたいだし……でも、やっぱり意地悪よ、あの人。
混乱して心細い私にわざわざそんな言い方するなんて、ヒドイ。
何であの人と旅をしていたのかしら……わからないわ。
船医の話では、入港も近いようだったし、船を下りればもう会わないコトも可能だ
ろう。
でも、記憶の手がかりを今手放すわけにはいかない。
彼はココの人たちの中で一番私を知っているらしいから……。
毛布にくるまって天井を見上げたまま、うつらうつらと考える。
熱があることは自覚できるが、熱が下がればすべてを思い出すというほど、楽観的
にはなれなかった。
熱と不安とで目が潤む。視界が涙で歪んで、慌てて目を閉じた。
涙をこぼすなんてあっちゃいけない。他人に弱みを見せてはいけない。
……そう念じながら。
「服、乾いたけど着替える?」
扉を開けてからノックをして入ってきたのはさっきの少女。船医の情報ではベアト
リスとかいうらしい。
こちら以上に困惑した表情で入ってきて、丁寧に畳んだ服を広げて見せてくれた。
「着替えるなら手伝うけど」
ぶっきらぼうだが、気遣いを感じる。
どう対応していいか困っているようでこちらも困ってしまうのだが、それも仕方が
ないことなんだろうか。
「あ……とで」
笑顔を浮かべたつもり。だが、声もろくに出ないので、笑えている自信はない。
「……ずを、すこ……し」
声が掠れる。ちゃんと聞こえただろうか?
「え?ああ、水ね?」
小さなテーブルにいつの間にか置いてあった水差しからコップに注いでくれる。
彼女は高圧的な態度やキツイ物腰で自己武装している優しい人なのかもしれない。
背中の下に枕やクッションを押し込み、僅かに上体を起こす。
何をやるにも手伝ってもらううというのは、こんなにももどかしいものなのか。
ようやく手にした水をちびちび飲みながら思う。
「ありがとう」
痛みを堪え、見上げながら微笑む。
喉の掠れも収まり、ちゃんと声が出るようにはなったようだ。助かった。
「コレから、どうするの?」
着替えを手伝いながら、ベアトリスが訊ねる。
セラフィナはちょっとだけ首を傾げると、笑った。
「どうしましょうね」
判断しようにも判断材料がないのではなんともいえない。
でも、船を下りるのはそう遠い話ではないのだ。
「……ライさんは、どんな人ですか?」
「えっ!?」
あまりの反応の早さにこっちがビックリ。
「え、と。優しいよね……」
「……そうですか?」
ベアトリスの顔がこころなしか紅い。
「なんだか、私には意地悪でしたけど」
思わず眉根を寄せる。
「さっきも、泳げないのに滑る甲板で助けてくれたし、それに、セラフィナさんのこ
ともすっごく心配してたんだから!」
「はぁ……」
つまりなんだ。
彼女は彼に好意を持っているということなのだろう。
……まぁ、私には関係ないけど。
若干頭を抱えて、何とか着替えをすまして。
ベアトリスが部屋を後にしてからも考え続ける。
自分が同行する事にしたからには、何か理由があったのかも知れない。
彼でなければならない理由?それとも、誰かを伴っていなければならない理由?
どちらにしても、一人になるのは得策だとは思えない。
熱が少し引いてきたのか、なんだか輪郭がハッキリしてきたような気がする。
思い出したら後のことはまた考えればいい。
思い出すまでは彼から離れてはいけない。
コンコン
「どうぞ」
「調子はどう?」
ライが言いながらひょっこり覗き込む。
体を起こしていたのを見て、すこし驚いたように表情を変えた。
「まだ、寝てた方がいいんじゃない?」
「いつまでも寝ているわけにはいきませんしね」
笑顔を浮かべる。社交辞令的になっていなければいいけど。
「何か必要なものはない? 持ってくるよ」
首を傾げる表情がちょっと可愛かったのに、最後に口の端を上げたのが何かを企ん
でいるように見えてビクッとする。
「い、え……今は何も」
うわ、緊張が表に出た。
失敗した、これでは警戒させてしまう。
「あれ? もしかして、僕のこと怖い?」
「いや、そうじゃな……くて」
言い切らないうちに訂正しようとするが、ちょっと彼が面白がっているように見え
て気が削がれた。
ほんのちょっとだけ口を尖らし、視線を外す。
「知らない男の人ですもの、慣れません」
何に対する反発だろう。
このまま取り繕おうとするのが酷くばかばかしく思えて、視線も合わせず言い捨て
る。
こちらから見えない彼が今、どんな表情をしているのか。
気になったが見ることはしなかった。
「うわぁ、嫌われたかな」
苦笑が聞こえて恥ずかしくなり、なんだか耳が熱くなったような気がする。
こんな大人げないこと、他人の前でするなんて。
僅かに俯く顔が朱色に染まり、顔が上げられない。
「……熱、上がってきたんじゃない?」
心配そうな声がかけられ自分の頬を触ると、落ち着いてきていた熱がぶり返したよ
うだった。
熱い。
ちらっとライを見上げるが、熱で目が潤むのか、さっきよりもぼんやり見える。
病人、じゃないか、怪我人相手に意地悪言う人だもの、少しくらい心配すればいい
んだわ。
一瞬そう考えた自分を反省する。膝の上の拳をきつく握った。
「一人で横になれる?手伝おうか?」
そういえば、部屋の入り口から入らずに声をかけてきていた。
彼なりの気遣いなのかもしれないと、何とか好意的に解釈する。
しばらく、がどのくらいかはまだわからないけど、共に行動する人だ、いつまでも
遠ざけてはおけない……。
頷くと、ライは静かに入ってきて、背中に手を添えてくれた。
その手は思った以上に骨っぽい感触で、体重を預けることを躊躇してしまう。
縋るように見上げると、ちょっと驚いた顔をした後、彼は曖昧に笑った。
「大丈夫だよ、軽い軽い」
ゆっくりベッドに横たえられて、改めて見上げる。
「じゃあ、またね」
ひらひらと手を振って立ち去ろうとした彼を、つい、服を引っ張ることで引き留め
た。
「え? 何か持ってくる?」
振り向きざまに問いかけるライに、少し早口で言葉を並べる。
「まだ状況がよくわからないですけど覚えていない間の自分も信用することにしたの
でコレから引き続きお世話になります」
「……えーっと」
困惑の表情。言葉の理解に苦しんでいるのかもしれない。
「……私のこと、見捨てたりしませんよね?」
置いていかれるワケにはいかないとはいえ、この言葉は卑怯だなぁと思いつつライ
を見上げる。
媚びるように、計るように覗き込み、笑顔を浮かべた。
イヤな技能だな、と心の中で舌打ちしながら。
場所:デルクリフ⇔ルクセン
------------------------------------------------------------------------
ライさんっていったかしら。あの人、意地悪だわ……。
船医が来たのと入れ替わりで部屋を出た男のコトを、ぼんやりと考える。
船医によれば、私達は仲が良さそうだったらしい。恋人かと冷やかされても友達だ
と答える間柄。
そうね、あの人が恋人のワケないじゃない。
親しげにしてたってコトは誘拐ではないのだろうけど、でも、あの人は意地悪だっ
たもの。
記憶を手繰り、少しでも情報をと思うのだが、うまくいかない。
覚えているのはカフールの隣国であるシカラグァの湖で遊覧船に乗せられた所ま
で。
約五年間の記憶がすっぽり抜け落ちていることになる。
傷はなお深く、体を横たえたままのセラフィナは顔をしかめた。
カフールの人間が同乗していない以上、気功治療は自分が頼りとなるのだが、あま
り上手くいってはいなかった。
どうも、傷が新しいものだけではないらしい。治りきらない傷が開いて、悲鳴を上
げているのだ。
それにしても遠いなぁ。
何故にこんなにも遠方へ来ているのか。
そして、何故私はソフィニアで独りぼっちだったのか。
あんな人の言うことを鵜呑みにしたくはなかったけど、状況を考えるとあながち嘘
でもないみたいだし……でも、やっぱり意地悪よ、あの人。
混乱して心細い私にわざわざそんな言い方するなんて、ヒドイ。
何であの人と旅をしていたのかしら……わからないわ。
船医の話では、入港も近いようだったし、船を下りればもう会わないコトも可能だ
ろう。
でも、記憶の手がかりを今手放すわけにはいかない。
彼はココの人たちの中で一番私を知っているらしいから……。
毛布にくるまって天井を見上げたまま、うつらうつらと考える。
熱があることは自覚できるが、熱が下がればすべてを思い出すというほど、楽観的
にはなれなかった。
熱と不安とで目が潤む。視界が涙で歪んで、慌てて目を閉じた。
涙をこぼすなんてあっちゃいけない。他人に弱みを見せてはいけない。
……そう念じながら。
「服、乾いたけど着替える?」
扉を開けてからノックをして入ってきたのはさっきの少女。船医の情報ではベアト
リスとかいうらしい。
こちら以上に困惑した表情で入ってきて、丁寧に畳んだ服を広げて見せてくれた。
「着替えるなら手伝うけど」
ぶっきらぼうだが、気遣いを感じる。
どう対応していいか困っているようでこちらも困ってしまうのだが、それも仕方が
ないことなんだろうか。
「あ……とで」
笑顔を浮かべたつもり。だが、声もろくに出ないので、笑えている自信はない。
「……ずを、すこ……し」
声が掠れる。ちゃんと聞こえただろうか?
「え?ああ、水ね?」
小さなテーブルにいつの間にか置いてあった水差しからコップに注いでくれる。
彼女は高圧的な態度やキツイ物腰で自己武装している優しい人なのかもしれない。
背中の下に枕やクッションを押し込み、僅かに上体を起こす。
何をやるにも手伝ってもらううというのは、こんなにももどかしいものなのか。
ようやく手にした水をちびちび飲みながら思う。
「ありがとう」
痛みを堪え、見上げながら微笑む。
喉の掠れも収まり、ちゃんと声が出るようにはなったようだ。助かった。
「コレから、どうするの?」
着替えを手伝いながら、ベアトリスが訊ねる。
セラフィナはちょっとだけ首を傾げると、笑った。
「どうしましょうね」
判断しようにも判断材料がないのではなんともいえない。
でも、船を下りるのはそう遠い話ではないのだ。
「……ライさんは、どんな人ですか?」
「えっ!?」
あまりの反応の早さにこっちがビックリ。
「え、と。優しいよね……」
「……そうですか?」
ベアトリスの顔がこころなしか紅い。
「なんだか、私には意地悪でしたけど」
思わず眉根を寄せる。
「さっきも、泳げないのに滑る甲板で助けてくれたし、それに、セラフィナさんのこ
ともすっごく心配してたんだから!」
「はぁ……」
つまりなんだ。
彼女は彼に好意を持っているということなのだろう。
……まぁ、私には関係ないけど。
若干頭を抱えて、何とか着替えをすまして。
ベアトリスが部屋を後にしてからも考え続ける。
自分が同行する事にしたからには、何か理由があったのかも知れない。
彼でなければならない理由?それとも、誰かを伴っていなければならない理由?
どちらにしても、一人になるのは得策だとは思えない。
熱が少し引いてきたのか、なんだか輪郭がハッキリしてきたような気がする。
思い出したら後のことはまた考えればいい。
思い出すまでは彼から離れてはいけない。
コンコン
「どうぞ」
「調子はどう?」
ライが言いながらひょっこり覗き込む。
体を起こしていたのを見て、すこし驚いたように表情を変えた。
「まだ、寝てた方がいいんじゃない?」
「いつまでも寝ているわけにはいきませんしね」
笑顔を浮かべる。社交辞令的になっていなければいいけど。
「何か必要なものはない? 持ってくるよ」
首を傾げる表情がちょっと可愛かったのに、最後に口の端を上げたのが何かを企ん
でいるように見えてビクッとする。
「い、え……今は何も」
うわ、緊張が表に出た。
失敗した、これでは警戒させてしまう。
「あれ? もしかして、僕のこと怖い?」
「いや、そうじゃな……くて」
言い切らないうちに訂正しようとするが、ちょっと彼が面白がっているように見え
て気が削がれた。
ほんのちょっとだけ口を尖らし、視線を外す。
「知らない男の人ですもの、慣れません」
何に対する反発だろう。
このまま取り繕おうとするのが酷くばかばかしく思えて、視線も合わせず言い捨て
る。
こちらから見えない彼が今、どんな表情をしているのか。
気になったが見ることはしなかった。
「うわぁ、嫌われたかな」
苦笑が聞こえて恥ずかしくなり、なんだか耳が熱くなったような気がする。
こんな大人げないこと、他人の前でするなんて。
僅かに俯く顔が朱色に染まり、顔が上げられない。
「……熱、上がってきたんじゃない?」
心配そうな声がかけられ自分の頬を触ると、落ち着いてきていた熱がぶり返したよ
うだった。
熱い。
ちらっとライを見上げるが、熱で目が潤むのか、さっきよりもぼんやり見える。
病人、じゃないか、怪我人相手に意地悪言う人だもの、少しくらい心配すればいい
んだわ。
一瞬そう考えた自分を反省する。膝の上の拳をきつく握った。
「一人で横になれる?手伝おうか?」
そういえば、部屋の入り口から入らずに声をかけてきていた。
彼なりの気遣いなのかもしれないと、何とか好意的に解釈する。
しばらく、がどのくらいかはまだわからないけど、共に行動する人だ、いつまでも
遠ざけてはおけない……。
頷くと、ライは静かに入ってきて、背中に手を添えてくれた。
その手は思った以上に骨っぽい感触で、体重を預けることを躊躇してしまう。
縋るように見上げると、ちょっと驚いた顔をした後、彼は曖昧に笑った。
「大丈夫だよ、軽い軽い」
ゆっくりベッドに横たえられて、改めて見上げる。
「じゃあ、またね」
ひらひらと手を振って立ち去ろうとした彼を、つい、服を引っ張ることで引き留め
た。
「え? 何か持ってくる?」
振り向きざまに問いかけるライに、少し早口で言葉を並べる。
「まだ状況がよくわからないですけど覚えていない間の自分も信用することにしたの
でコレから引き続きお世話になります」
「……えーっと」
困惑の表情。言葉の理解に苦しんでいるのかもしれない。
「……私のこと、見捨てたりしませんよね?」
置いていかれるワケにはいかないとはいえ、この言葉は卑怯だなぁと思いつつライ
を見上げる。
媚びるように、計るように覗き込み、笑顔を浮かべた。
イヤな技能だな、と心の中で舌打ちしながら。
人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン 海上
------------------------------------------------------------------------
「……私のこと、見捨てたりしませんよね?」
「――」
ライが思わず押し黙ったのは、その言葉のうちに何か淀みのようなものを嗅ぎ取った
からだった。ナメるな、そんなんで僕は騙されたりしない……散々、彼女の自然な表情
を見てきたのだから。
だがたとえ何か後ろ暗い策略のようなものを感じても、首を横に振ることができるは
ずもなかった。
記憶喪失とは、即ち。
周囲の時間が自分を残して進んでしまうことである。
なにしろ、自分が一緒に進んだ分がまるごと、なかったことになってしまうのだ。だ
けど時間は戻らないものだから、取り残された感じになってしまうのだ。実際には何年
前のことであろうと、主観的には昨日のことかもしれないし、或いは一秒前のことであ
る。過去がどこかで捻じ曲がって、昔と今が繋がってしまったと言ってもいい。
……だから、だ。
なかったことになった時間の話は通じないし、そもそも相手は時間の経過さえ信じら
れない。時間は一人のために巻き戻ったりしてくれないのだから、どう接しても齟齬が
生じることになる。
少し話してみて、今のセラフィナの態度には少し幼いものを感じていた。
ライは笑って答える。今までなら察してくれた皮肉とか冗談も通じなさそうだから、
すごくシンプルに。
「いいこにしていたらね」
セラフィナは少し頬をふくらませた。
まるで子供そのものの様子にライは苦笑した。
「じゃあ、大丈夫ですね。私、いいこですから」
言って彼女はにこりと笑う。
ライは「なら安心だ」と返事をして目を逸らした。
今までと反応が違いすぎて、どうも話しにくい。いっそ初対面だと思った方がいいの
だろうか? だが、いちど知り合いとして振舞ってしまった以上、それでは突き放すよ
うに感じられかねない。
子供の扱いは難しいのだ。
「セラフィナさん、何歳だっけ?」
「十四のはず……なんですけど」
脈絡のない切り出しにしてはできるだけさりげなく聞いてみたが、セラフィナはこち
らの意図を汲み取ったようだった。形のいい眉がわずかにしかめられて苦悩を表現する。
なぐさめる方法とかそういったものはまったく思いつかなかったので、ライは表情を
やわらげるだけにして目を逸らした。
「……どこから来たの?」
聞いては駄目かな、と思った。
今までセラフィナと一緒にいて、その間守られ続けてきた暗黙のルールというものが
ある。或いはそれは当たり前すぎて、ルールなどという大仰な言葉には不釣合いかも知
れない。
踏み込まないこと。過去を尋ねないこと。未来を約束しないこと。
また明日、と言ったことがない――いや一度だけあったか。「また後でね」と言って
しまったことが一度だけ。ソフィニアで彼女と出合った次の日だった。
だから、思えば約束はとっくに破られていたのだ。
「覚えていない間の私は……あなたにそれを言いましたか?」
「聞いたことないから、言われてない」
賢いな。
思えば十四のときの自分は愚かだった。ライはガーゼを当てられていない方だけの目
を閉じて瞑目している風を気取った。両目を閉じているのと変わらなかった。視界の全
体が黒いか、半分だけ白いか。
「目、怪我をしたの……?」
「女の子には見せられない状態だから、気にしない方がいいよ」
目に見える損傷が増えるたびにセラフィナが悲しそうな顔をしていた。
多少の怪我なら気功で癒すことができてしまう彼女はきっと、それが不可能であると
いう状況を知らなかったのではあるまいか。
心配だけど何もできないんです――そういった表情を見せられるのがどうも嫌で、お
ままごとみたいに手当てをしてもらった。何の意味もないことだとはわかっていたが。
「……話せないなら別にいいけどね」
セラフィナがたぶんわざと逸らそうとした話の筋を元に戻す。
苦笑すると、セラフィナは少しむっとしたような声で言った。
「カフールという国を知っていますか?」
拒否の返事以外のことを言われたのに驚いてライは目を開いた。
寝台の上にちょこんと座り込んで毛布に包まっているセラフィナの顔色はだいぶよく
なっている。医者が薬を飲ませたのだろうか。
「カフールか」
知っているような気がするけど、思い出せない。
少し前にどこかで国名を聞いた気がするが。何かの噂話――それも、あまり印象のい
い話ではなかった気がする。
「……名前は聞いたことがあるけど、行ったことないな」
「そうですか……」
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
「どうだった?」
ベアトリスはライにあてがわれた部屋で、当たり前のように寝台に腰掛けて待ってい
た。暇つぶしに読んでいたらしい分厚い本をぱたんと閉じリュックにしまう。
ライは、その手つきを見て「本は大切にした方がいいよ」と呟く。勝手に入り込んで
いたことについては、なんだか言っても無駄だという予感がしたので言わないことにし
ておく。
おかしいなあ、同じ船に乗り合わせただけの子だったと思うんだけど、いつからお部
屋に遊びにくるようなお友達になったんだろう。
「まぁ、意思疎通はできるかな」
「当たり前でしょ、人間なんだから」
「……僕とマトモにお話してくれる人間は少ないんだよ」
海賊船の件がなければ、今ごろ船員たちにもどう扱われているかわかったものではな
い。人間のように振舞うには限界がある。話が通じるのは魔物だとバレるまでだ。
「そうなの?」
「ソフィニア出る頃からかなぁ。
どーも調子がおかしくてね、そろそろ今後の身の振り方を考えないと」
手を見下ろしてみる。革手袋の輪郭が霞んで、はっきりしない。
この状態で自分を人だと言い張るのは難しいだろう。少し意識して実体を思い描くと、
少しは霞みがおさまった。
「あの人と一緒にコールベルに行くんでしょう?」
「セラフィナさんが行きたくないって行ったら予定が変わるね」
ベアトリスは少しだけ沈黙した。
「別れるの?」
「どうだろう」
船を下りてからの話だ。港に着くまでもう何日もない。
その間にどう状況が変わるか……
「彼女には説明したんでしょ?」
「記憶喪失の間の話を他人から聞かされたって、信じられるはずがないんだよ」
ベアトリスが「ふぅん」と言ったきり黙ってしまったので、ライは自分の部屋の入り
口に立ち尽くしたままになった。
「あ、ティリー。
カフールってどんな国だったかな」
「クーロンからずっと東の山の方にある小さな国よ。
少し前に皇女さまが隣の国に嫁いで、そこの属国みたいになったって聞いたけど。
……それがどうしたの?」
「船員さんたちの話に出てきたからね」
「なんだ」と、ベアトリスはつまらなそうにため息をついた。
「あ!」
そしていきなり声を上げる。彼女は寝台から飛び降りて近寄ってきた。
「ねぇ、私がどこに行くか知ってる?」
「え? 聞いてないけど……」
ライが答えると、ベアトリスはとてもとても楽しそうに笑った。
何を企んでいるのかとライは少し身を引いた。
「コールベルまで行くのよ。今、決めた。
探し物のために旅をしてるからどこへも行けるの」
「探しもの?」
「ソフィニアの魔法では捕まえられなかったけど、次は手に入れるわ。
とても大変な儀式が必要なんだけどね」
なんだかわからないが、彼女には彼女なりに色々あるらしい。
旅の連れが増えるのは悪いことではないし、セラフィナがこのまま一緒にコールベル
へ行くのだとしたら、二人きりというのも少し不安だった。
「まぁ、がんばってね」
場所:デルクリフ⇔ルクセン 海上
------------------------------------------------------------------------
「……私のこと、見捨てたりしませんよね?」
「――」
ライが思わず押し黙ったのは、その言葉のうちに何か淀みのようなものを嗅ぎ取った
からだった。ナメるな、そんなんで僕は騙されたりしない……散々、彼女の自然な表情
を見てきたのだから。
だがたとえ何か後ろ暗い策略のようなものを感じても、首を横に振ることができるは
ずもなかった。
記憶喪失とは、即ち。
周囲の時間が自分を残して進んでしまうことである。
なにしろ、自分が一緒に進んだ分がまるごと、なかったことになってしまうのだ。だ
けど時間は戻らないものだから、取り残された感じになってしまうのだ。実際には何年
前のことであろうと、主観的には昨日のことかもしれないし、或いは一秒前のことであ
る。過去がどこかで捻じ曲がって、昔と今が繋がってしまったと言ってもいい。
……だから、だ。
なかったことになった時間の話は通じないし、そもそも相手は時間の経過さえ信じら
れない。時間は一人のために巻き戻ったりしてくれないのだから、どう接しても齟齬が
生じることになる。
少し話してみて、今のセラフィナの態度には少し幼いものを感じていた。
ライは笑って答える。今までなら察してくれた皮肉とか冗談も通じなさそうだから、
すごくシンプルに。
「いいこにしていたらね」
セラフィナは少し頬をふくらませた。
まるで子供そのものの様子にライは苦笑した。
「じゃあ、大丈夫ですね。私、いいこですから」
言って彼女はにこりと笑う。
ライは「なら安心だ」と返事をして目を逸らした。
今までと反応が違いすぎて、どうも話しにくい。いっそ初対面だと思った方がいいの
だろうか? だが、いちど知り合いとして振舞ってしまった以上、それでは突き放すよ
うに感じられかねない。
子供の扱いは難しいのだ。
「セラフィナさん、何歳だっけ?」
「十四のはず……なんですけど」
脈絡のない切り出しにしてはできるだけさりげなく聞いてみたが、セラフィナはこち
らの意図を汲み取ったようだった。形のいい眉がわずかにしかめられて苦悩を表現する。
なぐさめる方法とかそういったものはまったく思いつかなかったので、ライは表情を
やわらげるだけにして目を逸らした。
「……どこから来たの?」
聞いては駄目かな、と思った。
今までセラフィナと一緒にいて、その間守られ続けてきた暗黙のルールというものが
ある。或いはそれは当たり前すぎて、ルールなどという大仰な言葉には不釣合いかも知
れない。
踏み込まないこと。過去を尋ねないこと。未来を約束しないこと。
また明日、と言ったことがない――いや一度だけあったか。「また後でね」と言って
しまったことが一度だけ。ソフィニアで彼女と出合った次の日だった。
だから、思えば約束はとっくに破られていたのだ。
「覚えていない間の私は……あなたにそれを言いましたか?」
「聞いたことないから、言われてない」
賢いな。
思えば十四のときの自分は愚かだった。ライはガーゼを当てられていない方だけの目
を閉じて瞑目している風を気取った。両目を閉じているのと変わらなかった。視界の全
体が黒いか、半分だけ白いか。
「目、怪我をしたの……?」
「女の子には見せられない状態だから、気にしない方がいいよ」
目に見える損傷が増えるたびにセラフィナが悲しそうな顔をしていた。
多少の怪我なら気功で癒すことができてしまう彼女はきっと、それが不可能であると
いう状況を知らなかったのではあるまいか。
心配だけど何もできないんです――そういった表情を見せられるのがどうも嫌で、お
ままごとみたいに手当てをしてもらった。何の意味もないことだとはわかっていたが。
「……話せないなら別にいいけどね」
セラフィナがたぶんわざと逸らそうとした話の筋を元に戻す。
苦笑すると、セラフィナは少しむっとしたような声で言った。
「カフールという国を知っていますか?」
拒否の返事以外のことを言われたのに驚いてライは目を開いた。
寝台の上にちょこんと座り込んで毛布に包まっているセラフィナの顔色はだいぶよく
なっている。医者が薬を飲ませたのだろうか。
「カフールか」
知っているような気がするけど、思い出せない。
少し前にどこかで国名を聞いた気がするが。何かの噂話――それも、あまり印象のい
い話ではなかった気がする。
「……名前は聞いたことがあるけど、行ったことないな」
「そうですか……」
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
「どうだった?」
ベアトリスはライにあてがわれた部屋で、当たり前のように寝台に腰掛けて待ってい
た。暇つぶしに読んでいたらしい分厚い本をぱたんと閉じリュックにしまう。
ライは、その手つきを見て「本は大切にした方がいいよ」と呟く。勝手に入り込んで
いたことについては、なんだか言っても無駄だという予感がしたので言わないことにし
ておく。
おかしいなあ、同じ船に乗り合わせただけの子だったと思うんだけど、いつからお部
屋に遊びにくるようなお友達になったんだろう。
「まぁ、意思疎通はできるかな」
「当たり前でしょ、人間なんだから」
「……僕とマトモにお話してくれる人間は少ないんだよ」
海賊船の件がなければ、今ごろ船員たちにもどう扱われているかわかったものではな
い。人間のように振舞うには限界がある。話が通じるのは魔物だとバレるまでだ。
「そうなの?」
「ソフィニア出る頃からかなぁ。
どーも調子がおかしくてね、そろそろ今後の身の振り方を考えないと」
手を見下ろしてみる。革手袋の輪郭が霞んで、はっきりしない。
この状態で自分を人だと言い張るのは難しいだろう。少し意識して実体を思い描くと、
少しは霞みがおさまった。
「あの人と一緒にコールベルに行くんでしょう?」
「セラフィナさんが行きたくないって行ったら予定が変わるね」
ベアトリスは少しだけ沈黙した。
「別れるの?」
「どうだろう」
船を下りてからの話だ。港に着くまでもう何日もない。
その間にどう状況が変わるか……
「彼女には説明したんでしょ?」
「記憶喪失の間の話を他人から聞かされたって、信じられるはずがないんだよ」
ベアトリスが「ふぅん」と言ったきり黙ってしまったので、ライは自分の部屋の入り
口に立ち尽くしたままになった。
「あ、ティリー。
カフールってどんな国だったかな」
「クーロンからずっと東の山の方にある小さな国よ。
少し前に皇女さまが隣の国に嫁いで、そこの属国みたいになったって聞いたけど。
……それがどうしたの?」
「船員さんたちの話に出てきたからね」
「なんだ」と、ベアトリスはつまらなそうにため息をついた。
「あ!」
そしていきなり声を上げる。彼女は寝台から飛び降りて近寄ってきた。
「ねぇ、私がどこに行くか知ってる?」
「え? 聞いてないけど……」
ライが答えると、ベアトリスはとてもとても楽しそうに笑った。
何を企んでいるのかとライは少し身を引いた。
「コールベルまで行くのよ。今、決めた。
探し物のために旅をしてるからどこへも行けるの」
「探しもの?」
「ソフィニアの魔法では捕まえられなかったけど、次は手に入れるわ。
とても大変な儀式が必要なんだけどね」
なんだかわからないが、彼女には彼女なりに色々あるらしい。
旅の連れが増えるのは悪いことではないし、セラフィナがこのまま一緒にコールベル
へ行くのだとしたら、二人きりというのも少し不安だった。
「まぁ、がんばってね」