人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン
------------------------------------------------------------------------
――コールベルについたら何をしよう。
ただ行ってみたかったというだけの理由で向かっているけど、観光でもするのかとい
えば、あまり気乗りはしない。それに、昔行ってみたかっただけで、今もまだそう思っ
ているのかさえよくわからないのだ。
ベアトリスがばたばたと慌しくやってきたのは、ライが狭い船室の寝台で仰向けにな
って天井を眺めているときだった。食堂では宴会というかイカパーティーというかが繰
り広げられていたようだが、それに混ざって騒ごうという気分ではなかったのだ。
ノックもなしに扉を撥ね開けて駆け込んできた彼女を見て、ライは驚いて半身を起こ
す。ベアトリスは「明かりくらい点けなさいよ」と八つ当たりにしか思えないことでラ
イを怒鳴りつけてから、困ったように口ごもってしまった。
「……どうしたの?」
低いテーブルの上に置かれたランプに手を伸ばてから火がないことに気づく。
魔法が使えればこんなとき便利なのに。火をもらいにいくのも面倒なのでベアトリス
に頼んで点火してもらった。短い呪文で小さな光が生まれる。やはり便利だ。
ベアトリスは深刻な表情のままライを睨むように見据えた。
意味が分からなくてライは困惑する。巨大イカ事件の顛末が気に食わなかったのだと
したら、ライも同じ気分だから、それこそ八つ当たりされても困るというものだ。
「あっ……あのさ! 聞きたいんだけど!」
「うん」
「二人って、恋人じゃなかったら、どういう関係なの?」
「……え?」
いきなりすぎる質問に、虚を突かれた感じになってしまい、ライは返答に窮した。
よくいろいろな人から聞かれるが、男女が一緒にいたら無条件で恋人だと見られるの
だろうか?
だとしたら間違いだ。
「どういうって……別に」
たまたま知り合ったけれど、その理由は他愛のないことだったし、あの悲惨な事件が
終わった時点で別れていたはずだった。
目的地が同じだということ以外、彼女と一緒にいる理由は存在しない。
「別に?」
苦笑を作ってライは答えた。
「……知り合い以上友達未満ってところかな。
一緒に吊り橋を渡ったのは確かだけど、あれはあくまで可能性の問題だ。
錯覚なんか起こらなかった。僕はセラフィナさんに特別な感情は抱いてない。
たまたま行き先が同じだから今も一緒にいるだけだよ。言ってしまえば――」
所詮は、他人。
そうだとも。そうでなければいけない。
彼女に対して特別な感情は一切ないのだ。
たとえば。
そう、たとえば。
狂おしいほどに――彼女の細い頸に手をかけて、ゆっくりと締め上げながら、そのぬ
くもりと命を奪いたいと、ああ、それはもう、正に、狂おしいほどに――初めて会った
時からときおり違ういつもだ心の隅でひるがえる跳ね回る淡い淡くないとてもとてもと
てもとても、確かに純粋な願い欲望それ以上は求めない下心など存在しない彼女の死で
僕はきっと満たされる。
だが、蒼褪めた貌に口づけを落としでもすれば、歪んだ恋に見えるのだろうか。
認めてはいけない。
肯定してはいけない。
彼女を殺してはいけない。
「――旅は道連れって、言うじゃないか」
「それだけ? 仲いいけど」
「僕は自分の目的とかそういうものがないから、いくらでも人に合わせられるよ。
そりゃあ気に食わないやつは気に食わないけどね……」
「……本当に、それだけなの?」
首を傾げるベアトリス。
ライは笑って「そうだよ」とうなずいた。
「そ、そう……じゃあ」
ベアトリスは少しほっとしたように――しかし一層困ったように眉根を寄せて、逡巡
した後で、ごく小さな声で、かなり早く囁いた。
「セラフィナさんがさっきのショックで記憶喪失になってライのことも忘れちゃったな
んて言っても、天が落ちて地が割れたくらい酷いショックは受けないわよね」
「…………えーっと」
しっかり聞こえていたはずの言葉の意味がよく理解できなくて、いや実際にはしっか
り理解できているのを認めるのを意識に拒否されて、三度くらい口の中で、ベアトリス
の口調まで丁寧に再現しながら反芻してから、ライはいつの間にかうつむいていた顔を
上げた。
「マジ?」
頭の中では、ゲソに殴り飛ばされて――蹴り飛ばされて?――海に落ちたセラフィナ
の姿が蘇っている。あれはかなり痛そうだった。記憶くらい飛んでても不思議ではない。
「当たり所がわるかったのかしら。熱もかなり出てるみたいだし……」
「……記憶喪失なんて意外と簡単になれるからねぇ……だけど困ったな」
実際、自分もポポルにいたときからソフィニアに辿り着くまでの記憶が抜けている。
それどころか、生きていたころのことは、情景として思い出せない部分も多々あり、
慣れてしまったということもあって……どの辺りまで忘れてしまったら「大ごと」なの
かいまいちピンと来ないが。
記憶など、なくても意外となんとかなるものだ。
記憶は人間にとっていちばん大切な、自己を形成するための要素だと言うが――何を
失ったのかも忘れてしまえば、取り戻すべき自己などぼやけてしまい、同じものを切望
することなどできない。
都合のいい代替品を差し出されればそれで満足してしまう。人間に生来備わってる適
応能力とはそういうものだ。
「私の名前は? って聞かれたよ」
「うわぁ」
ライはとりあえず頭をかかえた。
忘れられるのは構わない。どうせもうすぐ別れるはずだったのだから。
だが、彼女が記憶を失ってしまって不安だとか、普段の生活に支障がでるだとか、そ
ういったことがあるのならば、なんとか治す方法を探したい。
「自分の連れは黒髪の剣士のはずだって言うのよ」
「……誰だよ」
昔の知り合いだろうか。妄想の産物だろうか。
どちらにせよ、いまここにいない人物であることに変わりはない。
眼帯がわりのガーゼを手のひらで押さえながら立ち上がる。
こちらを見下ろしていたベアトリスが見上げてくる。
「とりあえず様子だけでも見に行ってみるよ……」
「優しいのね」
「当たり前だ、旅の連れなんだから。
悪いけど船医を呼んでくれる? 少なくとも熱はどうにかしないと」
「うん」
小走りで外に消えたベアトリスを見送って、ライは点けたばかりのランプを消した。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
扉を三度、叩いて。
返事が聞こえたような気がしたからそっと開いた。
「入って大丈夫?」
「――ぅ……」
細く開いた向こうは真っ暗だった。発熱しているとき特有の、少しこもったような声
が聞こえて、しかしそれが言葉だったのか、ただの呻きだったのかは判断つかない。
立ち尽くしたまましばらく待って、「入るよ」と声をかけてからライは部屋の中に滑
り込んだ。後ろ手に扉を閉め、ペンライトを取り出してランプを探し、横に置いてあっ
たマッチで火を灯した。
明るくなった室内は、ライの部屋よりは少し広かったが、それでも窮屈だった。
粗末な寝台の上、毛布にくるまったセラフィナがじっとこちらを見上げている。熱に
浮かされたぼんやりとした表情に、ほんのわずか、こちらへの不信感が滲んでいるのが
わかった。
「……あなたは?」
「覚えてない?」
問い返すと、セラフィナはわずかに沈黙してから首を振った。
ライは苦笑する。というか苦笑しかできない。
「僕はライっていうんだ――元冒険者の人畜無害な幽霊さんで、ソフィニアであなたと
知り合ったんだよ。それで……」
あの事件。陰惨な。
今、言う必要はないだろう。
「……コールベルまで行くっていうから、じゃあ一緒に行こうって。
それで今、船に乗ってるんだ」
「船に……」
「それでセラフィナさんは襲い来た巨大イカのゲソに海に叩き落されて、種族を超えた
愛で和解したイカに救助されて今に至るんだけど」
彼女の目が、かすかに苦悩するように細められる。
ここから知っている場所にすぐ引き返すことができないのを思えば、不安にもなるだ
ろう。っていうか、明らかに彼女が悩んでいる原因はゲソの件だ。
「あの、黒髪の剣士を知りませんか……?」
現状が本当にワケわからないといった様子で、こちらを見上げる目には縋るような光
さえ見えていたような気がする。
だけどきっと気のせいだ。
記憶があってもなくても、彼女がライに縋るなんてありえない。
ライはオーバーアクション気味に困惑の表情を作った。
黒髪の剣士、というだけの条件ならば、昔の知り合いに何人かいるが。その誰もがセ
ラフィナとは結びつかない。ということは彼らではない。
「ええと、男の人? 女の人?」
「男の……でも、線が細くて。いえ、彼じゃないかも知れません。
誰か、私と一緒にいた人は……」
本当に僕のことは覚えていないんだな。ずっと一緒にいたじゃないか。
ライは首を横に振った。
「知らないよ」
「…………そう、ですか」
自然と刻む、口元に薄い笑み。
冷たいそれではなく、あくまでも優しく、曖昧な。この笑顔は盾ではなくて外套。輪
郭をぼかして距離を取る――今この瞬間、自分でも理由のわからない、わずかな愉しさ
を感じたことを悟らせないために。
ライはその感情に従って、自分の声がどのようにこの空間に響いて、どのように相手
に聞こえるのかを計算しながら、そっと囁いた。
「――ソフィニアであなたは一人ぼっちだったんだよ……」
「…………」
忘れられるのは構わない。だけどまったく寂しくないわけじゃない。
たまに覚える嗜虐的な気分にほろ酔いながら、しかし浸りきらないように自制しなが
らライは次に言うべき言葉を探した。
思い出して欲しいけれど――ああ、ベアトリスが呼んだ医者はまだ来ないのか。さす
がに警戒されているみたいだし、間が持たない。
彼女はきっと、今自分に向けられている言葉を信じていいのか迷っているのだろう。
疑われても仕方がない。状況的には誘拐途中だと思われても仕方がないし、ついゲソと
か言っちゃったし。
早くしてくれよ、と。
思った瞬間に扉がノックされたのでライは嬉々として扉を開けた。
場所:デルクリフ⇔ルクセン
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――コールベルについたら何をしよう。
ただ行ってみたかったというだけの理由で向かっているけど、観光でもするのかとい
えば、あまり気乗りはしない。それに、昔行ってみたかっただけで、今もまだそう思っ
ているのかさえよくわからないのだ。
ベアトリスがばたばたと慌しくやってきたのは、ライが狭い船室の寝台で仰向けにな
って天井を眺めているときだった。食堂では宴会というかイカパーティーというかが繰
り広げられていたようだが、それに混ざって騒ごうという気分ではなかったのだ。
ノックもなしに扉を撥ね開けて駆け込んできた彼女を見て、ライは驚いて半身を起こ
す。ベアトリスは「明かりくらい点けなさいよ」と八つ当たりにしか思えないことでラ
イを怒鳴りつけてから、困ったように口ごもってしまった。
「……どうしたの?」
低いテーブルの上に置かれたランプに手を伸ばてから火がないことに気づく。
魔法が使えればこんなとき便利なのに。火をもらいにいくのも面倒なのでベアトリス
に頼んで点火してもらった。短い呪文で小さな光が生まれる。やはり便利だ。
ベアトリスは深刻な表情のままライを睨むように見据えた。
意味が分からなくてライは困惑する。巨大イカ事件の顛末が気に食わなかったのだと
したら、ライも同じ気分だから、それこそ八つ当たりされても困るというものだ。
「あっ……あのさ! 聞きたいんだけど!」
「うん」
「二人って、恋人じゃなかったら、どういう関係なの?」
「……え?」
いきなりすぎる質問に、虚を突かれた感じになってしまい、ライは返答に窮した。
よくいろいろな人から聞かれるが、男女が一緒にいたら無条件で恋人だと見られるの
だろうか?
だとしたら間違いだ。
「どういうって……別に」
たまたま知り合ったけれど、その理由は他愛のないことだったし、あの悲惨な事件が
終わった時点で別れていたはずだった。
目的地が同じだということ以外、彼女と一緒にいる理由は存在しない。
「別に?」
苦笑を作ってライは答えた。
「……知り合い以上友達未満ってところかな。
一緒に吊り橋を渡ったのは確かだけど、あれはあくまで可能性の問題だ。
錯覚なんか起こらなかった。僕はセラフィナさんに特別な感情は抱いてない。
たまたま行き先が同じだから今も一緒にいるだけだよ。言ってしまえば――」
所詮は、他人。
そうだとも。そうでなければいけない。
彼女に対して特別な感情は一切ないのだ。
たとえば。
そう、たとえば。
狂おしいほどに――彼女の細い頸に手をかけて、ゆっくりと締め上げながら、そのぬ
くもりと命を奪いたいと、ああ、それはもう、正に、狂おしいほどに――初めて会った
時からときおり違ういつもだ心の隅でひるがえる跳ね回る淡い淡くないとてもとてもと
てもとても、確かに純粋な願い欲望それ以上は求めない下心など存在しない彼女の死で
僕はきっと満たされる。
だが、蒼褪めた貌に口づけを落としでもすれば、歪んだ恋に見えるのだろうか。
認めてはいけない。
肯定してはいけない。
彼女を殺してはいけない。
「――旅は道連れって、言うじゃないか」
「それだけ? 仲いいけど」
「僕は自分の目的とかそういうものがないから、いくらでも人に合わせられるよ。
そりゃあ気に食わないやつは気に食わないけどね……」
「……本当に、それだけなの?」
首を傾げるベアトリス。
ライは笑って「そうだよ」とうなずいた。
「そ、そう……じゃあ」
ベアトリスは少しほっとしたように――しかし一層困ったように眉根を寄せて、逡巡
した後で、ごく小さな声で、かなり早く囁いた。
「セラフィナさんがさっきのショックで記憶喪失になってライのことも忘れちゃったな
んて言っても、天が落ちて地が割れたくらい酷いショックは受けないわよね」
「…………えーっと」
しっかり聞こえていたはずの言葉の意味がよく理解できなくて、いや実際にはしっか
り理解できているのを認めるのを意識に拒否されて、三度くらい口の中で、ベアトリス
の口調まで丁寧に再現しながら反芻してから、ライはいつの間にかうつむいていた顔を
上げた。
「マジ?」
頭の中では、ゲソに殴り飛ばされて――蹴り飛ばされて?――海に落ちたセラフィナ
の姿が蘇っている。あれはかなり痛そうだった。記憶くらい飛んでても不思議ではない。
「当たり所がわるかったのかしら。熱もかなり出てるみたいだし……」
「……記憶喪失なんて意外と簡単になれるからねぇ……だけど困ったな」
実際、自分もポポルにいたときからソフィニアに辿り着くまでの記憶が抜けている。
それどころか、生きていたころのことは、情景として思い出せない部分も多々あり、
慣れてしまったということもあって……どの辺りまで忘れてしまったら「大ごと」なの
かいまいちピンと来ないが。
記憶など、なくても意外となんとかなるものだ。
記憶は人間にとっていちばん大切な、自己を形成するための要素だと言うが――何を
失ったのかも忘れてしまえば、取り戻すべき自己などぼやけてしまい、同じものを切望
することなどできない。
都合のいい代替品を差し出されればそれで満足してしまう。人間に生来備わってる適
応能力とはそういうものだ。
「私の名前は? って聞かれたよ」
「うわぁ」
ライはとりあえず頭をかかえた。
忘れられるのは構わない。どうせもうすぐ別れるはずだったのだから。
だが、彼女が記憶を失ってしまって不安だとか、普段の生活に支障がでるだとか、そ
ういったことがあるのならば、なんとか治す方法を探したい。
「自分の連れは黒髪の剣士のはずだって言うのよ」
「……誰だよ」
昔の知り合いだろうか。妄想の産物だろうか。
どちらにせよ、いまここにいない人物であることに変わりはない。
眼帯がわりのガーゼを手のひらで押さえながら立ち上がる。
こちらを見下ろしていたベアトリスが見上げてくる。
「とりあえず様子だけでも見に行ってみるよ……」
「優しいのね」
「当たり前だ、旅の連れなんだから。
悪いけど船医を呼んでくれる? 少なくとも熱はどうにかしないと」
「うん」
小走りで外に消えたベアトリスを見送って、ライは点けたばかりのランプを消した。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
扉を三度、叩いて。
返事が聞こえたような気がしたからそっと開いた。
「入って大丈夫?」
「――ぅ……」
細く開いた向こうは真っ暗だった。発熱しているとき特有の、少しこもったような声
が聞こえて、しかしそれが言葉だったのか、ただの呻きだったのかは判断つかない。
立ち尽くしたまましばらく待って、「入るよ」と声をかけてからライは部屋の中に滑
り込んだ。後ろ手に扉を閉め、ペンライトを取り出してランプを探し、横に置いてあっ
たマッチで火を灯した。
明るくなった室内は、ライの部屋よりは少し広かったが、それでも窮屈だった。
粗末な寝台の上、毛布にくるまったセラフィナがじっとこちらを見上げている。熱に
浮かされたぼんやりとした表情に、ほんのわずか、こちらへの不信感が滲んでいるのが
わかった。
「……あなたは?」
「覚えてない?」
問い返すと、セラフィナはわずかに沈黙してから首を振った。
ライは苦笑する。というか苦笑しかできない。
「僕はライっていうんだ――元冒険者の人畜無害な幽霊さんで、ソフィニアであなたと
知り合ったんだよ。それで……」
あの事件。陰惨な。
今、言う必要はないだろう。
「……コールベルまで行くっていうから、じゃあ一緒に行こうって。
それで今、船に乗ってるんだ」
「船に……」
「それでセラフィナさんは襲い来た巨大イカのゲソに海に叩き落されて、種族を超えた
愛で和解したイカに救助されて今に至るんだけど」
彼女の目が、かすかに苦悩するように細められる。
ここから知っている場所にすぐ引き返すことができないのを思えば、不安にもなるだ
ろう。っていうか、明らかに彼女が悩んでいる原因はゲソの件だ。
「あの、黒髪の剣士を知りませんか……?」
現状が本当にワケわからないといった様子で、こちらを見上げる目には縋るような光
さえ見えていたような気がする。
だけどきっと気のせいだ。
記憶があってもなくても、彼女がライに縋るなんてありえない。
ライはオーバーアクション気味に困惑の表情を作った。
黒髪の剣士、というだけの条件ならば、昔の知り合いに何人かいるが。その誰もがセ
ラフィナとは結びつかない。ということは彼らではない。
「ええと、男の人? 女の人?」
「男の……でも、線が細くて。いえ、彼じゃないかも知れません。
誰か、私と一緒にいた人は……」
本当に僕のことは覚えていないんだな。ずっと一緒にいたじゃないか。
ライは首を横に振った。
「知らないよ」
「…………そう、ですか」
自然と刻む、口元に薄い笑み。
冷たいそれではなく、あくまでも優しく、曖昧な。この笑顔は盾ではなくて外套。輪
郭をぼかして距離を取る――今この瞬間、自分でも理由のわからない、わずかな愉しさ
を感じたことを悟らせないために。
ライはその感情に従って、自分の声がどのようにこの空間に響いて、どのように相手
に聞こえるのかを計算しながら、そっと囁いた。
「――ソフィニアであなたは一人ぼっちだったんだよ……」
「…………」
忘れられるのは構わない。だけどまったく寂しくないわけじゃない。
たまに覚える嗜虐的な気分にほろ酔いながら、しかし浸りきらないように自制しなが
らライは次に言うべき言葉を探した。
思い出して欲しいけれど――ああ、ベアトリスが呼んだ医者はまだ来ないのか。さす
がに警戒されているみたいだし、間が持たない。
彼女はきっと、今自分に向けられている言葉を信じていいのか迷っているのだろう。
疑われても仕方がない。状況的には誘拐途中だと思われても仕方がないし、ついゲソと
か言っちゃったし。
早くしてくれよ、と。
思った瞬間に扉がノックされたのでライは嬉々として扉を開けた。
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