人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン
------------------------------------------------------------------------
今日も空は青かった。
デルクリフから出航して以来、天気の悪い日なんてなかった。長い間、青空の下で波
に揺られていたようにも思えるが――よくよく考えてみれば、あれから五日か六日しか
経っていない。
海の上では日付の感覚も鈍るのか……
「普段から鈍りっぱなしだよね、もう」
相変わらず甲板でのんびりしている。
猫を連れて帰ってきてから、なんだか船員が親しげに話しかけてくるようになったが、
ついでとばかりに雑用も手伝わされている気がしなくもない。
今だって、倉庫から出した食料を厨房まで運び終わったところだ。運ぶ途中でつまみ
食いしないとか、そういう信用は自分が一番。当たり前だが。
どんな豪華な料理を見たところで食欲もわかない。そんなものよりも……
…………。
そういえば、今日も三食シチューらしい。この船の料理担当は、そこまでシチューが
好きなのだろうか。昨日も一昨日も一昨昨日も。
――腰掛けていた樽から立ち上がる。海を眺めると遥か遠くに陸が見えた。
どうやらこの船は海岸線に沿って航海しているらしい。何度も気づいてきたそのこと
を確認すがのは日課になりつつある。
「コールベルまでどのくらい?」
「気が早いなぁ、にーちゃん。まだ半分も来てないぞ」
ちょうど通りかかった船員を捕まえて尋ねると、呆れたように笑ってそう言われた。
「途中でまた港に寄るの?」
「そーだなぁ……この調子だと、あと二回くらいは寄るだろうな。
前の港でそれほど食料を確保できなかったから、また補充しねーと」
前の港――というのは、猫が増えて大変なことになったあの港町のことだ。あんな寂
れた町に大量の食料を要求できるはずもない。結局、数日持つだけの物資を買って出航
することになったらしい。
「切羽詰まってるね」
「おうよ。にーちゃんは食費かからなくていいねぇ」
「燃費いいからー」
なんとなくピースサインしてみせる。
人のいい船員はからからと笑った。日焼けして褐色の肌に、汗が光っている。むさ苦
しいなぁ、なんて失礼なことを思いながらライは視線をさまよわせた。
「他のお客さんって何してるの?」
「ぐーたらしてるよ。素人にゃ船旅なんて退屈だろ」
「そだね」
もしかしたらフォローするところだったのかも知れないが、訊いた瞬間に興味を失っ
たので適当に頷く。それからライは、さもたった今気がついたかのように言った。
「セラフィナさん――僕と一緒にいた女の人なんだけど、知らない?
なんか最近ちょっと様子おかしくてさ」
「美人の名前はばっちり覚えてるから大丈夫だ。
痴話げんかでもしたのか? 女は怒らせると恐いから気をつけろよ」
「いいねぇ、そこまで親密だったら。
知らないならいいよ……自分で探す」
ため息をついて、船の内部へ下りる階段へ向かう。
ふらふらと歩きながら見上げた空には相変わらず雲ひとつなかった。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
海賊の件の後で彼女の部屋の位置は確かめてあった。とても手遅れなのが自分らしく
ていい感じ。後悔先に立たずってやつだね、たぶん。
「セラフィナさん、いるー? ヒマだったら遊ぼう」
まったく子供じゃないんだから。でもヒマなのは仕方がないんだ。
カードの類は持っている。さっき具現化して、箱ごとポケットに押し込んである。適
当に負ける方法は知っているし、それなりに技術もある。勝つだけがイカサマではない。
何も賭けない場合には、相手をやや優位に立たせて、三回に二回は自分が負けるくら
いがちょうどいい。カード弱いねと言われて笑っているのが一番楽だ。
――そんなことを脳裏で並べながらライは再度、扉を叩いた。
こんな姑息な手段で彼女のご機嫌を取ろうなんて我ながら情けない、と苦笑い。
だが扉の向こうから返事はなく、無礼を承知で気配を探っても誰もいなかった。
「あれ、セラフィナちゃんなら厨房にいたよ?」
声に振り向くと小柄な船員が立っていた。
ライは首をかしげる。
「もう昼ごはんの時間だっけ」
「いやぁ、客だからいいって言ったんだけどさ、手伝ってくれるって言うから」
実は毎食シチューに嫌気が差したんじゃあるまいか。
どうでもいい疑惑は口に出さない。
「ふーん……じゃあ、邪魔するわけにはいかないね」
少し大きな波でも立ったらしく、船が揺れた。
年季の入った木製の壁に手をつき天井を見上げる。ぱらぱらと砂埃でも降ってくるか
と思ったが、さすがにそこまでは老朽化していないようだった。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
昼食はやっぱりシチューだったらしい。
セラフィナを見つけてさっき聞いた話を伝えて、ついでに「退屈すぎるー」とか愚痴
をこぼしたりしていると、タバコをくわえた船員が近づいてきて話に加わった。
暇人はとても多いらしい。
「次の港町? いつも泊まる場所だよ。
結構大きな町でなぁ……あっ、にーちゃん好みの場所があるぞ」
「あ?」
なんとなく嫌な予感がして、自分から問いかけたのに不機嫌な返事をする。色町とか
言いやがったらレバーに一発――心の中でそんな中途半端に物騒なことを考えながら、
聞くだけ聞こうかと先を促した。
船員はタバコを一度口から離し、ふぅと煙を吐く。
他の連中には内緒にしといてくれやと笑った口調が少し気に入ったから、黙っていて
やろうと素直に思った。そうでなくても告げ口の趣味はあまりないけど。
「町外れの丘の上に古ーいお屋敷があってだなぁ、昔の金持ちの持ち物だったらしいん
だが、その金持ちってのがどうしようもないやつで、旅人を招待してはヒドイ方法で殺
したりしてたらしい」
セラフィナが非難するようにライを睨んだ。
「ライさんってそういうのが好きだったんですか?」
「……いや、ゼンゼン好みじゃないって。そんなスプラッタな昔話」
「いいから聞けよ。
んで、その金持ちってのは、馬鹿なことに有名な冒険者にちょっかい出して逆に殺さ
れちまったわけだが……持ち主の居なくなった屋敷とはいえ、町外れだから、結構放っ
とかれるだろ? そんな噂もあっちゃ、住みたいって奴もいねぇだろうし」
「ああ、うん。心霊マニアでもなけりゃマイホームにはしたくないね。
住んでるだけでご近所様から変な目で見られそうだし」
どこか近くで猫が鳴いた。そういえばさっきから姿を見かけなかったなと思ったが、
猫だって、ずっとライの視界内にいるわけでもない。
昼食時には食堂にいたらしいが、ライはその場にいなかったので知らない。
「そういうわけでしばらく放置されていたわけだが……出るんだよ」
船員はタバコをくわえなおしてニヤリと笑った。
「殺された旅人たちと金持ちの怨霊が、今でも屋敷の中をさまよってるって話だ」
「オチが甘い」
「……本当ですか?」
茶々を入れたが流された。
聞き返したセラフィナの表情が真剣なように見えて、ライは少し不安になる。まさか、
そんなどこにでもあるような怪談を真に受けてるわけじゃないよね?
横暴な金持ちの数だけ幽霊屋敷があったら大変だって。
船員は真顔でセラフィナを見つめ、それから大声を上げて笑った。
「本当本当。半年くらい前に寄ったとき、ウォルトが興味半分で肝試しに行ってな、半
泣きで帰ってきやがった。
奴が近所のガキにからかわれたんじゃなきゃ、いるんだろうよ」
彼は仲間の名前を出して、そのときのことを思い出したのか、更にゲラゲラと笑い転
げている。こうなると完全に身内ネタだ。
愛想笑いみたいな表情のセラフィナの横で、ライはため息をついた。
「なんていうか……この前もソフィニアで心霊騒ぎあったし。
同じ系統で攻めようなんて芸がないよ」
「にーちゃん、その言い方だと自分のことも心霊系だって言ってるの、気づいてるか?」
「ああ、僕はいいの」
意外と俺様主義なんだな、なんて船員の呟きは聞こえなかったことにする。
得体の知れない心霊現象と一緒にしないでもらいたい。どう違うか聞かれても困るが。
「じゃああれだ。呪いのメイド服の話」
ライが呆れて何も言えずにいると、セラフィナが手を叩いて晴れやかに笑った。
「あ、わかりました。ライさんって怪談が好きなんですね?」
「大嫌いだ! っていうか最初のはともかく今のって本当に怪談なの!? 寒いギャグか
聞き間違いじゃないのっ!!?」
――とりあえず。
船の上にあった不幸は最初の夜に大集合して絶滅していたのか、ひたすらに平和で暇
だった。
港についたのは、その二日後のこと。
海に西側を、木々の茂った低い陸に北側を塞がれた、それなりに大きな町だった。
場所:デルクリフ⇔ルクセン
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今日も空は青かった。
デルクリフから出航して以来、天気の悪い日なんてなかった。長い間、青空の下で波
に揺られていたようにも思えるが――よくよく考えてみれば、あれから五日か六日しか
経っていない。
海の上では日付の感覚も鈍るのか……
「普段から鈍りっぱなしだよね、もう」
相変わらず甲板でのんびりしている。
猫を連れて帰ってきてから、なんだか船員が親しげに話しかけてくるようになったが、
ついでとばかりに雑用も手伝わされている気がしなくもない。
今だって、倉庫から出した食料を厨房まで運び終わったところだ。運ぶ途中でつまみ
食いしないとか、そういう信用は自分が一番。当たり前だが。
どんな豪華な料理を見たところで食欲もわかない。そんなものよりも……
…………。
そういえば、今日も三食シチューらしい。この船の料理担当は、そこまでシチューが
好きなのだろうか。昨日も一昨日も一昨昨日も。
――腰掛けていた樽から立ち上がる。海を眺めると遥か遠くに陸が見えた。
どうやらこの船は海岸線に沿って航海しているらしい。何度も気づいてきたそのこと
を確認すがのは日課になりつつある。
「コールベルまでどのくらい?」
「気が早いなぁ、にーちゃん。まだ半分も来てないぞ」
ちょうど通りかかった船員を捕まえて尋ねると、呆れたように笑ってそう言われた。
「途中でまた港に寄るの?」
「そーだなぁ……この調子だと、あと二回くらいは寄るだろうな。
前の港でそれほど食料を確保できなかったから、また補充しねーと」
前の港――というのは、猫が増えて大変なことになったあの港町のことだ。あんな寂
れた町に大量の食料を要求できるはずもない。結局、数日持つだけの物資を買って出航
することになったらしい。
「切羽詰まってるね」
「おうよ。にーちゃんは食費かからなくていいねぇ」
「燃費いいからー」
なんとなくピースサインしてみせる。
人のいい船員はからからと笑った。日焼けして褐色の肌に、汗が光っている。むさ苦
しいなぁ、なんて失礼なことを思いながらライは視線をさまよわせた。
「他のお客さんって何してるの?」
「ぐーたらしてるよ。素人にゃ船旅なんて退屈だろ」
「そだね」
もしかしたらフォローするところだったのかも知れないが、訊いた瞬間に興味を失っ
たので適当に頷く。それからライは、さもたった今気がついたかのように言った。
「セラフィナさん――僕と一緒にいた女の人なんだけど、知らない?
なんか最近ちょっと様子おかしくてさ」
「美人の名前はばっちり覚えてるから大丈夫だ。
痴話げんかでもしたのか? 女は怒らせると恐いから気をつけろよ」
「いいねぇ、そこまで親密だったら。
知らないならいいよ……自分で探す」
ため息をついて、船の内部へ下りる階段へ向かう。
ふらふらと歩きながら見上げた空には相変わらず雲ひとつなかった。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
海賊の件の後で彼女の部屋の位置は確かめてあった。とても手遅れなのが自分らしく
ていい感じ。後悔先に立たずってやつだね、たぶん。
「セラフィナさん、いるー? ヒマだったら遊ぼう」
まったく子供じゃないんだから。でもヒマなのは仕方がないんだ。
カードの類は持っている。さっき具現化して、箱ごとポケットに押し込んである。適
当に負ける方法は知っているし、それなりに技術もある。勝つだけがイカサマではない。
何も賭けない場合には、相手をやや優位に立たせて、三回に二回は自分が負けるくら
いがちょうどいい。カード弱いねと言われて笑っているのが一番楽だ。
――そんなことを脳裏で並べながらライは再度、扉を叩いた。
こんな姑息な手段で彼女のご機嫌を取ろうなんて我ながら情けない、と苦笑い。
だが扉の向こうから返事はなく、無礼を承知で気配を探っても誰もいなかった。
「あれ、セラフィナちゃんなら厨房にいたよ?」
声に振り向くと小柄な船員が立っていた。
ライは首をかしげる。
「もう昼ごはんの時間だっけ」
「いやぁ、客だからいいって言ったんだけどさ、手伝ってくれるって言うから」
実は毎食シチューに嫌気が差したんじゃあるまいか。
どうでもいい疑惑は口に出さない。
「ふーん……じゃあ、邪魔するわけにはいかないね」
少し大きな波でも立ったらしく、船が揺れた。
年季の入った木製の壁に手をつき天井を見上げる。ぱらぱらと砂埃でも降ってくるか
と思ったが、さすがにそこまでは老朽化していないようだった。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
昼食はやっぱりシチューだったらしい。
セラフィナを見つけてさっき聞いた話を伝えて、ついでに「退屈すぎるー」とか愚痴
をこぼしたりしていると、タバコをくわえた船員が近づいてきて話に加わった。
暇人はとても多いらしい。
「次の港町? いつも泊まる場所だよ。
結構大きな町でなぁ……あっ、にーちゃん好みの場所があるぞ」
「あ?」
なんとなく嫌な予感がして、自分から問いかけたのに不機嫌な返事をする。色町とか
言いやがったらレバーに一発――心の中でそんな中途半端に物騒なことを考えながら、
聞くだけ聞こうかと先を促した。
船員はタバコを一度口から離し、ふぅと煙を吐く。
他の連中には内緒にしといてくれやと笑った口調が少し気に入ったから、黙っていて
やろうと素直に思った。そうでなくても告げ口の趣味はあまりないけど。
「町外れの丘の上に古ーいお屋敷があってだなぁ、昔の金持ちの持ち物だったらしいん
だが、その金持ちってのがどうしようもないやつで、旅人を招待してはヒドイ方法で殺
したりしてたらしい」
セラフィナが非難するようにライを睨んだ。
「ライさんってそういうのが好きだったんですか?」
「……いや、ゼンゼン好みじゃないって。そんなスプラッタな昔話」
「いいから聞けよ。
んで、その金持ちってのは、馬鹿なことに有名な冒険者にちょっかい出して逆に殺さ
れちまったわけだが……持ち主の居なくなった屋敷とはいえ、町外れだから、結構放っ
とかれるだろ? そんな噂もあっちゃ、住みたいって奴もいねぇだろうし」
「ああ、うん。心霊マニアでもなけりゃマイホームにはしたくないね。
住んでるだけでご近所様から変な目で見られそうだし」
どこか近くで猫が鳴いた。そういえばさっきから姿を見かけなかったなと思ったが、
猫だって、ずっとライの視界内にいるわけでもない。
昼食時には食堂にいたらしいが、ライはその場にいなかったので知らない。
「そういうわけでしばらく放置されていたわけだが……出るんだよ」
船員はタバコをくわえなおしてニヤリと笑った。
「殺された旅人たちと金持ちの怨霊が、今でも屋敷の中をさまよってるって話だ」
「オチが甘い」
「……本当ですか?」
茶々を入れたが流された。
聞き返したセラフィナの表情が真剣なように見えて、ライは少し不安になる。まさか、
そんなどこにでもあるような怪談を真に受けてるわけじゃないよね?
横暴な金持ちの数だけ幽霊屋敷があったら大変だって。
船員は真顔でセラフィナを見つめ、それから大声を上げて笑った。
「本当本当。半年くらい前に寄ったとき、ウォルトが興味半分で肝試しに行ってな、半
泣きで帰ってきやがった。
奴が近所のガキにからかわれたんじゃなきゃ、いるんだろうよ」
彼は仲間の名前を出して、そのときのことを思い出したのか、更にゲラゲラと笑い転
げている。こうなると完全に身内ネタだ。
愛想笑いみたいな表情のセラフィナの横で、ライはため息をついた。
「なんていうか……この前もソフィニアで心霊騒ぎあったし。
同じ系統で攻めようなんて芸がないよ」
「にーちゃん、その言い方だと自分のことも心霊系だって言ってるの、気づいてるか?」
「ああ、僕はいいの」
意外と俺様主義なんだな、なんて船員の呟きは聞こえなかったことにする。
得体の知れない心霊現象と一緒にしないでもらいたい。どう違うか聞かれても困るが。
「じゃああれだ。呪いのメイド服の話」
ライが呆れて何も言えずにいると、セラフィナが手を叩いて晴れやかに笑った。
「あ、わかりました。ライさんって怪談が好きなんですね?」
「大嫌いだ! っていうか最初のはともかく今のって本当に怪談なの!? 寒いギャグか
聞き間違いじゃないのっ!!?」
――とりあえず。
船の上にあった不幸は最初の夜に大集合して絶滅していたのか、ひたすらに平和で暇
だった。
港についたのは、その二日後のこと。
海に西側を、木々の茂った低い陸に北側を塞がれた、それなりに大きな町だった。
PR
人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン ―それなりに大きな港町ベリンザ
------------------------------------------------------------------------
「お買い物に行って来ますね」
そう言って、セラフィナは一人で船を降りた。
ここ2、3日で大分慣れてはきたモノの、ライと顔を合わせるのがなんだか気まず
かったし、動きやすい服に着替えたかったのが主な理由。慣れないドレスではやはり
不便で、ソレを知っている船の乗組員も快く送り出してくれた。
ソコは本当に大きすぎもせず、かといって小さくもない、ちょっとだけ大きめの港
町だった。名前はベリンザというらしい。活気があって、人の声が絶えない。
「お仕事中にごめんなさい、服を扱っている店を探しているんだけど」
途中、気の良さそうな女性に声をかけて、わかりやすい位置にある一軒を教えても
らうと先を急ぐ。魚を取り引きする少し生臭い匂いや、海風が運んでくる潮の匂いな
ど、強い匂いのお陰でなんだか自分が見知らぬ街に一人取り残されたような気分にな
っていた。
可愛らしい看板の、こじんまりとした店だった。
店内にはいると花の香りがし、フリルやレースが色とりどりに飾られている。
「え、と」
こういう可愛らしい服は昔から苦手だった。なんだか「愛されている少女」しか許
されないような、そんなカンジ。
大切にされていたとは思うのだが、身内の愛情をあまり感じないまま育ってきた自
分には、とても不釣り合いな気がするのだ。
「お客様、どういったお洋服をお探しですか?」
くらくらするようなフリルの隙間からひょっこり店員が顔を出す。
「あの、申し訳ないんですが、東方の服を扱っている店を教えて下さい……」
それだけ言うのがやっとだった。
気を取り直して向かった店は、極彩色の反物がのれんに使われている入りづらい外
観をしていた。
「えーと……」
思わず躊躇する。
「……いらっしゃいませ」
すり足で近づいてきた初老の女性に声をかけられたかと思うと、おもむろに手を引
かれ、中へ案内されてしまった。
その女性の着ている服は着物と呼ばれる服装で、とても動きやすそうには見えなか
ったし、自分の探しているモノとは違うということがすぐに分かったのに、あれよあ
れよという間に採寸されてしまう。
「あの、動きやすい服を探しているんです」
頷く店員。そっと差し出されたカタログには生地見本とデザイン画が何枚も纏めて
あった。
「くの一?白拍子?」
あまり動きやすそうには見えないし、つい頭を抱えてしまう。
「あ、コレ、コレがいいです」
次のページには意外なことに、「ちゃいな」とか「あおざい」とか書かれたデザイ
ン画があったのだ。
生地見本から軽くて柔らかいモノを選び、店員に「あおざい」のデザイン画を指し
示す。
「……4時間ほどお時間頂きますがよろしいでしょうか」
体にぴったりのモノを作るとなると、オーダーメイドになってしまうのだから仕方
がないのだが。
しかも4時間というのは、きっと最優先で仕上げたときの時間だろうから。
「お願いします」
セラフィナはそれまでの時間をどうしようかと思いを巡らせた。
で、結局。
噂に聞いた洋館の前にいたりするのだ。
(他の人が見たのなら、私にも見えるかもしれないし、話が出来るかもしれない)
ライの力になれないのなら、力になる方法が知りたかった。とはいえ、大して期待
していたわけではないけれど。
「……失礼しま…す」
誰もいないと思いながらも一応一声かけてから扉を開ける。
ギギギギギ…と耳を塞ぎたくなるような音を立てて、身長の3倍くらいありそうな
扉が開く。
「誰か、いますか…?」
玄関ホールに入って正面の螺旋階段に足をかける。
ギ…ギギ…ギギ…
風もないのに重い扉がひとりでに閉まった。
場所:デルクリフ⇔ルクセン ―それなりに大きな港町ベリンザ
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「お買い物に行って来ますね」
そう言って、セラフィナは一人で船を降りた。
ここ2、3日で大分慣れてはきたモノの、ライと顔を合わせるのがなんだか気まず
かったし、動きやすい服に着替えたかったのが主な理由。慣れないドレスではやはり
不便で、ソレを知っている船の乗組員も快く送り出してくれた。
ソコは本当に大きすぎもせず、かといって小さくもない、ちょっとだけ大きめの港
町だった。名前はベリンザというらしい。活気があって、人の声が絶えない。
「お仕事中にごめんなさい、服を扱っている店を探しているんだけど」
途中、気の良さそうな女性に声をかけて、わかりやすい位置にある一軒を教えても
らうと先を急ぐ。魚を取り引きする少し生臭い匂いや、海風が運んでくる潮の匂いな
ど、強い匂いのお陰でなんだか自分が見知らぬ街に一人取り残されたような気分にな
っていた。
可愛らしい看板の、こじんまりとした店だった。
店内にはいると花の香りがし、フリルやレースが色とりどりに飾られている。
「え、と」
こういう可愛らしい服は昔から苦手だった。なんだか「愛されている少女」しか許
されないような、そんなカンジ。
大切にされていたとは思うのだが、身内の愛情をあまり感じないまま育ってきた自
分には、とても不釣り合いな気がするのだ。
「お客様、どういったお洋服をお探しですか?」
くらくらするようなフリルの隙間からひょっこり店員が顔を出す。
「あの、申し訳ないんですが、東方の服を扱っている店を教えて下さい……」
それだけ言うのがやっとだった。
気を取り直して向かった店は、極彩色の反物がのれんに使われている入りづらい外
観をしていた。
「えーと……」
思わず躊躇する。
「……いらっしゃいませ」
すり足で近づいてきた初老の女性に声をかけられたかと思うと、おもむろに手を引
かれ、中へ案内されてしまった。
その女性の着ている服は着物と呼ばれる服装で、とても動きやすそうには見えなか
ったし、自分の探しているモノとは違うということがすぐに分かったのに、あれよあ
れよという間に採寸されてしまう。
「あの、動きやすい服を探しているんです」
頷く店員。そっと差し出されたカタログには生地見本とデザイン画が何枚も纏めて
あった。
「くの一?白拍子?」
あまり動きやすそうには見えないし、つい頭を抱えてしまう。
「あ、コレ、コレがいいです」
次のページには意外なことに、「ちゃいな」とか「あおざい」とか書かれたデザイ
ン画があったのだ。
生地見本から軽くて柔らかいモノを選び、店員に「あおざい」のデザイン画を指し
示す。
「……4時間ほどお時間頂きますがよろしいでしょうか」
体にぴったりのモノを作るとなると、オーダーメイドになってしまうのだから仕方
がないのだが。
しかも4時間というのは、きっと最優先で仕上げたときの時間だろうから。
「お願いします」
セラフィナはそれまでの時間をどうしようかと思いを巡らせた。
で、結局。
噂に聞いた洋館の前にいたりするのだ。
(他の人が見たのなら、私にも見えるかもしれないし、話が出来るかもしれない)
ライの力になれないのなら、力になる方法が知りたかった。とはいえ、大して期待
していたわけではないけれど。
「……失礼しま…す」
誰もいないと思いながらも一応一声かけてから扉を開ける。
ギギギギギ…と耳を塞ぎたくなるような音を立てて、身長の3倍くらいありそうな
扉が開く。
「誰か、いますか…?」
玄関ホールに入って正面の螺旋階段に足をかける。
ギ…ギギ…ギギ…
風もないのに重い扉がひとりでに閉まった。
人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン ―それなりに大きな港町ベリンザ
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町を歩いていると、子供に石を投げられている男を見つけた。
彼はとても貧相な男だった。白衣は灰色に変色している。そのうえ猫背でうつむき気
味になるものだから、髪の薄い頭を人に向けるようになっていて、顔は見えない。
そのくせ、上目遣いに周囲を窺うその目ばかりは、ギョロギョロと不気味なまでに強
く光っていた。
だから、貧相で、不気味な男だった。
すぐに子供の親らしき女性が駆け寄って石を奪い取り、子供の頭を叩いてから男に詫
びた。詫びたとはいえ、女性が男に向けた目にも嫌悪の色があったのを見た。
興味を覚えてその母子に声をかけたが、すげなく追い払われてしまった。
仕方がなく、周囲にいた数人に事情を乞う。彼らは最初、余所者には関係のないこと
だと言っていたが、少し食い下がると、すぐに話を聞かせてくれた。きっと喋りたかっ
たのだろう。彼らは互いの言葉を補完し合いながら、ほんのわずかな時間で、彼らが知
る事態の、その全容を知ることができた。
男はつい最近になってこの町に現れるようになったらしい。
丘の上にある廃屋に棲み付いて、得体の知れない実験を繰り返している。その廃屋と
いうのは数年前まである商人の持ち物だった屋敷だそうだが、強盗に襲われて、護衛ご
と殺されてしまってからは、ずっとそのまま放置されてきただそうだ。
雨露から逃れようと、空き家を見つけてはしめたとばかりに忍び込む浮浪者さえ、ほ
とんど寄り付かなかったらしい。
強盗のくだりを話すとき、人々は饒舌だった。
それは酷かったものさ、と言った一人に、他の人々も同調した。あれは冬の、この地
域では珍しく、激しい吹雪になった日のことだった――
まるで見ていたかのように詳しい話を聞かされた。これでは、噂に尾ひれがつくのも
頷けるというものだ。屋敷の持ち主だったという商人は、とても誠実な人柄だったらし
い。気が弱くて、いつもおどおどしているようで、余所者を家に招くことなどできなか
ったそうだ。
どうしてあの人が商売で成功したのかしら、と一人が笑った。
つられて笑い始めた人々に礼を言ってその場から離れることにした。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
――まぁ、ようするに、ただの好奇心だということだ。
船員には好みではないと笑い飛ばしつつ、彼が語った怪談を信じているわけでもなく、
しかしライがここにいることに変わりはない。
ため息をついて見上げると、色濃い木々のシルエットの向こうに青空が広がっていた。
まるで形の悪い落とし穴のように見え、そこから溢れる光に照らされた廃屋は、綺麗に
気味が悪かった。
廃屋、とはつまり廃棄され取り壊されないまま放置された建物のことであるが、その
言葉にはもっとおどろおどろしいイメージが伴うように感じる。窓は割れ、壁は崩れ、
腐った床板が落ちた上に、日陰を好む、湿った苔が繁茂する――と、いったような。
この屋敷は原形をとどめている。それどころか、原型を留めすぎていた。
町から少し距離があるこの丘に無人の建物を放置しておけば、獣が入り込んで無惨な
ことになるだろう。そうでなくとも、窓ガラスが無事だというのはおかしかった。
(なるほど……住み着いてるね、これは)
ここは廃屋の裏手であるが、勝手口か何からしい扉の近くに薪が重ねられている。腐
葉土をかぶっていて当然の場所も、乱雑にだが土をどけた形跡がある。
それらの作業は、ここを使用するため最低限の手間をかけただけのように見え、その
様はさっきの男を連想させた。
湿った土を踏んで足跡を残さぬように、ライはいちど姿を消した。勝手口前のレンガ
で固められた足場に己の幻を具現しなおしてノブを握る。鍵はかかっていなかった。
「…………お邪魔します」
そうっと囁いて、音を立てぬように扉を開く。人様の家に忍び込むのはあまりいいこ
とではないが、この場合、住人も不法侵入になるのだからお相子だ。
ついでに、今、挨拶もした。聞いていなかった方が悪い。
開けた扉の隙間から、暗闇の中へ滑り込む。
ひんやりと湿った空気に包まれて――
不思議と心が安らいだ。
場所:デルクリフ⇔ルクセン ―それなりに大きな港町ベリンザ
------------------------------------------------------------------------
町を歩いていると、子供に石を投げられている男を見つけた。
彼はとても貧相な男だった。白衣は灰色に変色している。そのうえ猫背でうつむき気
味になるものだから、髪の薄い頭を人に向けるようになっていて、顔は見えない。
そのくせ、上目遣いに周囲を窺うその目ばかりは、ギョロギョロと不気味なまでに強
く光っていた。
だから、貧相で、不気味な男だった。
すぐに子供の親らしき女性が駆け寄って石を奪い取り、子供の頭を叩いてから男に詫
びた。詫びたとはいえ、女性が男に向けた目にも嫌悪の色があったのを見た。
興味を覚えてその母子に声をかけたが、すげなく追い払われてしまった。
仕方がなく、周囲にいた数人に事情を乞う。彼らは最初、余所者には関係のないこと
だと言っていたが、少し食い下がると、すぐに話を聞かせてくれた。きっと喋りたかっ
たのだろう。彼らは互いの言葉を補完し合いながら、ほんのわずかな時間で、彼らが知
る事態の、その全容を知ることができた。
男はつい最近になってこの町に現れるようになったらしい。
丘の上にある廃屋に棲み付いて、得体の知れない実験を繰り返している。その廃屋と
いうのは数年前まである商人の持ち物だった屋敷だそうだが、強盗に襲われて、護衛ご
と殺されてしまってからは、ずっとそのまま放置されてきただそうだ。
雨露から逃れようと、空き家を見つけてはしめたとばかりに忍び込む浮浪者さえ、ほ
とんど寄り付かなかったらしい。
強盗のくだりを話すとき、人々は饒舌だった。
それは酷かったものさ、と言った一人に、他の人々も同調した。あれは冬の、この地
域では珍しく、激しい吹雪になった日のことだった――
まるで見ていたかのように詳しい話を聞かされた。これでは、噂に尾ひれがつくのも
頷けるというものだ。屋敷の持ち主だったという商人は、とても誠実な人柄だったらし
い。気が弱くて、いつもおどおどしているようで、余所者を家に招くことなどできなか
ったそうだ。
どうしてあの人が商売で成功したのかしら、と一人が笑った。
つられて笑い始めた人々に礼を言ってその場から離れることにした。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
――まぁ、ようするに、ただの好奇心だということだ。
船員には好みではないと笑い飛ばしつつ、彼が語った怪談を信じているわけでもなく、
しかしライがここにいることに変わりはない。
ため息をついて見上げると、色濃い木々のシルエットの向こうに青空が広がっていた。
まるで形の悪い落とし穴のように見え、そこから溢れる光に照らされた廃屋は、綺麗に
気味が悪かった。
廃屋、とはつまり廃棄され取り壊されないまま放置された建物のことであるが、その
言葉にはもっとおどろおどろしいイメージが伴うように感じる。窓は割れ、壁は崩れ、
腐った床板が落ちた上に、日陰を好む、湿った苔が繁茂する――と、いったような。
この屋敷は原形をとどめている。それどころか、原型を留めすぎていた。
町から少し距離があるこの丘に無人の建物を放置しておけば、獣が入り込んで無惨な
ことになるだろう。そうでなくとも、窓ガラスが無事だというのはおかしかった。
(なるほど……住み着いてるね、これは)
ここは廃屋の裏手であるが、勝手口か何からしい扉の近くに薪が重ねられている。腐
葉土をかぶっていて当然の場所も、乱雑にだが土をどけた形跡がある。
それらの作業は、ここを使用するため最低限の手間をかけただけのように見え、その
様はさっきの男を連想させた。
湿った土を踏んで足跡を残さぬように、ライはいちど姿を消した。勝手口前のレンガ
で固められた足場に己の幻を具現しなおしてノブを握る。鍵はかかっていなかった。
「…………お邪魔します」
そうっと囁いて、音を立てぬように扉を開く。人様の家に忍び込むのはあまりいいこ
とではないが、この場合、住人も不法侵入になるのだからお相子だ。
ついでに、今、挨拶もした。聞いていなかった方が悪い。
開けた扉の隙間から、暗闇の中へ滑り込む。
ひんやりと湿った空気に包まれて――
不思議と心が安らいだ。
人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン ―それなりに大きな港町ベリンザ
------------------------------------------------------------------------
背後の扉が閉まる音に、セラフィナは身を竦めた。
お化け屋敷と噂されるくらいだし、風の気まぐれでコレくらいのことがよくあるの
だろうと自分を納得させ、歩を進める。が、こころなしか歩速が遅い。
「お返事がないのでお邪魔してます……」
時々声をかけながら、最上階の突き当たりの部屋までたどり着いたはイイが、セラ
フィナはなんだか不安になってきていた。
自分は一体何をしに来たのだろう?
何がしたいのだろう?
誰かに会う前に帰ろうかと、扉を背にしたとき、中から僅かに扉が押し開けられ
た。
「……誰?」
車椅子に乗った少年が、扉の隙間からコチラを窺っている。
「勝手にお邪魔してゴメンナサイ、玄関で声をかけても誰も出ないようだったから」
セラフィナは少々バツが悪そうに笑った。少年は珍しそうに眺めている。
「もしかして、新しい家庭教師?」
露骨にイヤな表情を浮かべ、扉を閉める少年。セラフィナは扉の前で取り残される
形となった。少し迷って、部屋の中に向けて声をかける。
「驚かすつもりがなくてもイヤな気分になったわよね……本当にゴメンね」
セラフィナは少し反応を待ったが、扉の向こうからは何も聞こえず、来た道を帰ろ
うと体の向きを変えた。見知らぬ人がいきなり上がり込んできたら、それは警戒して
当たり前。自分が早く去る方がいいだろうと思ったのだ。
「お姉さん、父さんの寄越した家庭教師じゃないの?」
再び薄く扉が開けられる。
セラフィナが笑いかけると、少年も笑って返した。
「だったら話は別。お客なんて殆ど来ないんだ、入ってよ」
扉を大きく開け放つと、中に入るよう勧める。
部屋は綺麗に片づけられ、思ったより質素な調度品が置かれていた。床の上には毛
足の短い絨毯が敷かれており、車椅子の滑り止めの役目をしているようだ。
「ほら、何やってるの」
「じゃあ、少しだけ」
断るのも悪い気がして、セラフィナは中へと足を踏み入れる。後ろで扉がひとりで
に閉まった。
「……?」
一瞬怪訝な顔をしたセラフィナに、少年は笑って手元の箱を見せる。
「からくりなんだ、驚いた?」
そう言うと、ボタンのようなモノを操作して、扉を開閉してみせる。
「もしかして、玄関の扉もそうなの?」
「ちぇ、気付かれないように閉めたつもりだったんだけどナァ」
とても嬉しそうに少年が笑う。セラフィナもつられて笑った。
「あのね、足が動けるようにお手伝い……」
「ヤだ!」
何気なく、手を伸ばそうとして、間髪入れない否定におもわす引っ込める。
セラフィナの胸が、ちくりと痛んだ。
「前に言われた。この足が動かないのは心因性のなんとかだって」
辛そうに視線を合わせない少年に、セラフィナはかける言葉が浮かばない。
「足は魔法で完全に治っているから、後は自分次第なんだってサ」
無理を押して明るい声を出しているようにみえた。そしてやはり胸が痛む。
「あ、名前、まだ聞いてない」
話題を変えたかったのだろう、とても楽しそうに少年が笑った。
「セラフィナよ。あなたは?」
「ボクはシラだよ、よろしくセラフィナ」
その時、セラフィナはまだ気付いていなかったのだ。
窓ガラスにシラが映っていないということに。
場所:デルクリフ⇔ルクセン ―それなりに大きな港町ベリンザ
------------------------------------------------------------------------
背後の扉が閉まる音に、セラフィナは身を竦めた。
お化け屋敷と噂されるくらいだし、風の気まぐれでコレくらいのことがよくあるの
だろうと自分を納得させ、歩を進める。が、こころなしか歩速が遅い。
「お返事がないのでお邪魔してます……」
時々声をかけながら、最上階の突き当たりの部屋までたどり着いたはイイが、セラ
フィナはなんだか不安になってきていた。
自分は一体何をしに来たのだろう?
何がしたいのだろう?
誰かに会う前に帰ろうかと、扉を背にしたとき、中から僅かに扉が押し開けられ
た。
「……誰?」
車椅子に乗った少年が、扉の隙間からコチラを窺っている。
「勝手にお邪魔してゴメンナサイ、玄関で声をかけても誰も出ないようだったから」
セラフィナは少々バツが悪そうに笑った。少年は珍しそうに眺めている。
「もしかして、新しい家庭教師?」
露骨にイヤな表情を浮かべ、扉を閉める少年。セラフィナは扉の前で取り残される
形となった。少し迷って、部屋の中に向けて声をかける。
「驚かすつもりがなくてもイヤな気分になったわよね……本当にゴメンね」
セラフィナは少し反応を待ったが、扉の向こうからは何も聞こえず、来た道を帰ろ
うと体の向きを変えた。見知らぬ人がいきなり上がり込んできたら、それは警戒して
当たり前。自分が早く去る方がいいだろうと思ったのだ。
「お姉さん、父さんの寄越した家庭教師じゃないの?」
再び薄く扉が開けられる。
セラフィナが笑いかけると、少年も笑って返した。
「だったら話は別。お客なんて殆ど来ないんだ、入ってよ」
扉を大きく開け放つと、中に入るよう勧める。
部屋は綺麗に片づけられ、思ったより質素な調度品が置かれていた。床の上には毛
足の短い絨毯が敷かれており、車椅子の滑り止めの役目をしているようだ。
「ほら、何やってるの」
「じゃあ、少しだけ」
断るのも悪い気がして、セラフィナは中へと足を踏み入れる。後ろで扉がひとりで
に閉まった。
「……?」
一瞬怪訝な顔をしたセラフィナに、少年は笑って手元の箱を見せる。
「からくりなんだ、驚いた?」
そう言うと、ボタンのようなモノを操作して、扉を開閉してみせる。
「もしかして、玄関の扉もそうなの?」
「ちぇ、気付かれないように閉めたつもりだったんだけどナァ」
とても嬉しそうに少年が笑う。セラフィナもつられて笑った。
「あのね、足が動けるようにお手伝い……」
「ヤだ!」
何気なく、手を伸ばそうとして、間髪入れない否定におもわす引っ込める。
セラフィナの胸が、ちくりと痛んだ。
「前に言われた。この足が動かないのは心因性のなんとかだって」
辛そうに視線を合わせない少年に、セラフィナはかける言葉が浮かばない。
「足は魔法で完全に治っているから、後は自分次第なんだってサ」
無理を押して明るい声を出しているようにみえた。そしてやはり胸が痛む。
「あ、名前、まだ聞いてない」
話題を変えたかったのだろう、とても楽しそうに少年が笑った。
「セラフィナよ。あなたは?」
「ボクはシラだよ、よろしくセラフィナ」
その時、セラフィナはまだ気付いていなかったのだ。
窓ガラスにシラが映っていないということに。
人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン ―それなりに大きな港町ベリンザ
------------------------------------------------------------------------
他人の不幸は蜜の味――という言葉がある。
町でこの屋敷の話を聞かせてくれた住人たちにこそ相応しい言葉だなと、今更になっ
て気がついてみた。だからどうだというわけでもない。
さして重要でもないことを後から思いつくのはいつものことだ。
そのくせ大切なことには気づかない。わざと自嘲の笑みでも浮かべてみようとして、
失敗した。ライは表情を崩して苦笑に変える。
それから、暗闇の中ひとりで何をしているんだろうと我に返った。
上着の内ポケットから小さなライトを取り出し、カチリとつまみを回して明かりを点
ける。前にソフィニアで見かけたものを適当に幻影で複製してみただけなのだが、実際
に闇を照らす光を生み出すことができてライは満足した。
ライは壁に写された光の輪をくるくると回して使い勝手に妥協すると、このまま進む
ことにした。一方向を強く照らすライトより、周囲をぼんやりと浮かび上がらせるロウ
ソクの方がよかったかも知れないが。
建物の内部は外観よりも荒れていた。
壁はひび割れ、わずかに残った壁紙は湿って汚らしいカビに覆われている。木材か何
かが腐敗しているらしく、微かに甘いにおいを感じた。
本当に人が住んでいるのかと不安になったが、足元を照らしてみれば、床はあまり汚
れていなかった。もちろんきれいではなく掃除された形跡もないが、頻繁に誰かが通っ
ているのだろうと予測を立てることができる。
端には隙間から入り込んだ砂埃が積もっているというのに。
細い通路を抜けると廊下にぶつかった。大人が三人は並んで歩ける幅がある。
周囲の荒廃具合は変わらないが、壁と扉にいくつか小さな穴があるのに気がついた。
(弾痕……ぽいな)
壁の穴に光を当てて観察する。ひしゃげた金属らしきものがめりこんでいる。
この館で惨劇があったというのは真実らしい。さすがに血痕のような生々しいものは
片付けられている(だろう)とはいえ、痕跡がないわけではないようだ。
こういう、いかにもな場所を探索するのは久しぶりだ。
隠し財産でも残っていないかと不謹慎なことを考えながら、浮かびかけた笑みを噛み
殺す。思い出せこれが僕のペースだ。昔の相方はいないけど。
ここが本当にお化け屋敷なら、それはそれで面白そうだと思い直す。どんな仕掛けが
あろうが、どんな怨念が渦巻いていようが、そんなものは笑い飛ばして蹴散らしてきた。
それが冒険者の姿だ――そう信じている。
(ギルド登録消えてるだろーな……今度確かめてみるか)
ライは調べていた壁から離れて廊下を進んだ。
両側に扉が並んでいたが、閉まっていたり開いていたり壊れていたりするそれらの奥
を覗き込んでみても、特におもしろいものは見つけられなかった。
やがて館の端に行き当たったのか、廊下は左へ直角に折れている。ライトの光が目の
前の壁を照らす。絵でもかけてあったらしい染みがついて――
ライは思わず声を出して笑った。錆びた通気溝を病風が通るような引きつった高い声
が、すぅっと闇に吸い込まれていく。独り言さえ思わず毀[こぼ]す。
「正にこんなのを期待していたんだよ、僕は……」
その、飾り絵の染みを内包して、更に大きく、壁を黒い線が走っていた。
床から伸びて、ライの身長よりも高いところで横に折れ、それからしばらくしてまた
床に下りる線。
カビと汚れにしっかりと暴かれているそれを手袋の指先でなぞる。
もともとは巧妙に隠されていたのだろう隠し扉は、今は無惨なまでに姿を晒していた。
この部分の壁だけが木の板でできていて、後からつけただろうそれをおざなりに隠し
ている。いや、これでは隠しているうちにも入らない。よく見れば張り紙の残り方が、
他の場所から剥がしたものをむりやり貼り付けたように不自然なのだ。
足元を照らし、この扉の前の床が、廊下の端にしては汚れていないことを確認する。
今でもこの先の空間――どんな用途の場所かは知らないが、それを使用している人間が
いるのだ。となれば財宝は期待できないが……
街で聞いた話を思い出す。
ここに住み着いているあの男は、隠れて怪しい実験をしているらしい。実験をしてい
るということは研究をしているということだ。目の前の扉こそ、いかにもそれらしい。
だから、きっと奥には何かがあるだろう。
噂の真偽はとにかくとしても、人目を避ける、何かが。
無造作に手を伸ばし、手のひら全体で壁に触れ――毛糸のセーターをほどくように、
ばらばらと実体を解いていく。なんの障害もなく指先は壁の向こうへ通り、手首までが
埋まった。
(魔法的な罠はない……か。ある方が不思議だけど)
ライは安心してそのまま壁の中を潜り抜けた。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
狭い通路を通るときに足音が反響するのが気持ちいいから、特に必要もないのに実体
を再構成して急な階段を降りていく。
忍び込んでいるのにわざと音を立てて、見つかったらどうするのか――見つかってか
ら考えればいい。
それなりに深く掘ってあるとはいえ階段はすぐに終わった。いや、すぐに、というほ
ど短くはなかったかも知れない。あれやこれやと考える間はなかったというだけで。
三階分くらいかな、と適当に予想する。
それからライは目の前の鉄の扉にライトの光を当てて観察した。古い扉で、表面には
錆が浮いている。しかし相当に分厚いらしく壊れそうな不安定さはない。
ライは光を消してライトを上着の胸ポケットに適当に突っ込むと、姿を消して扉を通
り抜けた。なんだ二度手間じゃんクダラナイ理由のために労力を使わない方がよかった。
クダラナイ、クダラナイ、と呪文のように二回繰り返したが、実体がないので当然、
音にはならなかった。扉の先の空間は狭く、他の場所と違って空気が乾燥して埃が多く
舞っていた。
この部屋を狭くしているのは、どうやら壁を埋めるように並べられた本棚だ。分厚い
背表紙が並んでいるのでタイトルを読み取ろうと適当な一冊に意識を向けると、なにや
ら知らない文字で書かれていた。
――研究室といえば研究室に入るのかも知れないが、ここは書斎とか図書室とか、そ
う呼ばれる場所のようだ。何故、わざわざ地下にあるのかはわからないが。
(で、問題は……だ)
部屋には灯りがあった。片隅に置かれた書き物机に向かっているのは、町で見た男。
後姿だけをみても、やはり“貧相な”という感想に変わりはない。むしろ、より一層
その印象が強まったかも知れない。
近づいて覗き込んでみると、彼は読書をしていた。古びた難解な本と睨みあっている
らしい。本にはところどころ薄くメモ書きがある。
男はそれと辞書を手がかりに解読しようとしているらしいが、手元の紙に書き付けて
ある単語やらなにやらと、本に書き込まれた文字は筆跡が異なっていた。
(忍び込んで、故人の蔵書をあさっている……といったところか)
この男が住み着くようになってから一年と経っていないという。これだけの本を集め
るのは不可能だろうし、本棚も本も埃を被っており、持ち込まれたようにも見えない。
それにしても、読んでいる本の種類がわからなければ退屈この上ない光景だ。他人の
読書など。
棚の影に実体化して、共通語で書かれている本を一冊に抜き出して開いてみたが、主
婦のための手抜き料理集だった。
その横には「犬の辞典」、更にその横には「医学と自然学」。
最近は調子が悪いというのに、こんなところまで来るんじゃなかった。労力の無駄遣
いにも程がある。こういうことをしていると本当にコールベルに着くまでもたなくなる
から今度からは気をつけようと自戒して、ライは引き返そうと――
「……ならば我々は、こぼれた水を手のひらにすくいあげる」
――声と共に、背中から細い針でゆっくりと貫かれていくような感覚がした。痛みの
ない不快感。こうったことが最近は何故だか多いので、魔法のせいだと決め付けて、そ
の発生源を振り返る。
男は相変わらず貧相な猫背で本と睨み合いながら、ぶつぶつと意味不明なことを呟い
ていた。潰れたように低い声が一説一説を読み上げていき、たまに「違う」と言って、
微妙に言い回しを変えたり意味を置き換えたりして繰り返す。
「立ち込めた霧を払い、蜂蜜をそそぐ。我々は望むがゆえ楽園を見る。
みぎ手に靴、ひだり手にかんざしをもって……かざして……?」
そういう歌は可憐な少女に歌って欲しいものだ。歌ではないが。
何かの呪文の解読をしているらしい。魔力が発生しているみたいだとはいえ、ごく微
弱で少し気分が悪いだけだったので、しばらく観察していることにした。
その“しばらく”が過ぎると、男は椅子を鳴らして立ち上がった。
机に手を突いて前かがみに背中を丸めたまま、あの妙にギラギラした目を見開いて、
男はいきなり哄笑を上げた。なんだこの人。魔王か何かの物まねだろうか。だとしたら、
さっきのは世界征服の呪文だったに違いない。
近くで盗み見している亡霊一人どうともできない魔王。
ライは、とりあえず、それはそれで面白そうだとも思ったが――
「――ハハハハハハハハハハハ!!
待ってろよ、シラ! ついにお前を治してやる呪文を見つけたんだ!!!」
なんだかわけがわからなかったが。
ライは、とりあえず、これはこれで面白そうだとも思った。
もう少し見ていてみよう。何があってもバレないように気をつけて。
そうとも、何が起こっても関わらない。ただの傍観者として眺めるのだ。
場所:デルクリフ⇔ルクセン ―それなりに大きな港町ベリンザ
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他人の不幸は蜜の味――という言葉がある。
町でこの屋敷の話を聞かせてくれた住人たちにこそ相応しい言葉だなと、今更になっ
て気がついてみた。だからどうだというわけでもない。
さして重要でもないことを後から思いつくのはいつものことだ。
そのくせ大切なことには気づかない。わざと自嘲の笑みでも浮かべてみようとして、
失敗した。ライは表情を崩して苦笑に変える。
それから、暗闇の中ひとりで何をしているんだろうと我に返った。
上着の内ポケットから小さなライトを取り出し、カチリとつまみを回して明かりを点
ける。前にソフィニアで見かけたものを適当に幻影で複製してみただけなのだが、実際
に闇を照らす光を生み出すことができてライは満足した。
ライは壁に写された光の輪をくるくると回して使い勝手に妥協すると、このまま進む
ことにした。一方向を強く照らすライトより、周囲をぼんやりと浮かび上がらせるロウ
ソクの方がよかったかも知れないが。
建物の内部は外観よりも荒れていた。
壁はひび割れ、わずかに残った壁紙は湿って汚らしいカビに覆われている。木材か何
かが腐敗しているらしく、微かに甘いにおいを感じた。
本当に人が住んでいるのかと不安になったが、足元を照らしてみれば、床はあまり汚
れていなかった。もちろんきれいではなく掃除された形跡もないが、頻繁に誰かが通っ
ているのだろうと予測を立てることができる。
端には隙間から入り込んだ砂埃が積もっているというのに。
細い通路を抜けると廊下にぶつかった。大人が三人は並んで歩ける幅がある。
周囲の荒廃具合は変わらないが、壁と扉にいくつか小さな穴があるのに気がついた。
(弾痕……ぽいな)
壁の穴に光を当てて観察する。ひしゃげた金属らしきものがめりこんでいる。
この館で惨劇があったというのは真実らしい。さすがに血痕のような生々しいものは
片付けられている(だろう)とはいえ、痕跡がないわけではないようだ。
こういう、いかにもな場所を探索するのは久しぶりだ。
隠し財産でも残っていないかと不謹慎なことを考えながら、浮かびかけた笑みを噛み
殺す。思い出せこれが僕のペースだ。昔の相方はいないけど。
ここが本当にお化け屋敷なら、それはそれで面白そうだと思い直す。どんな仕掛けが
あろうが、どんな怨念が渦巻いていようが、そんなものは笑い飛ばして蹴散らしてきた。
それが冒険者の姿だ――そう信じている。
(ギルド登録消えてるだろーな……今度確かめてみるか)
ライは調べていた壁から離れて廊下を進んだ。
両側に扉が並んでいたが、閉まっていたり開いていたり壊れていたりするそれらの奥
を覗き込んでみても、特におもしろいものは見つけられなかった。
やがて館の端に行き当たったのか、廊下は左へ直角に折れている。ライトの光が目の
前の壁を照らす。絵でもかけてあったらしい染みがついて――
ライは思わず声を出して笑った。錆びた通気溝を病風が通るような引きつった高い声
が、すぅっと闇に吸い込まれていく。独り言さえ思わず毀[こぼ]す。
「正にこんなのを期待していたんだよ、僕は……」
その、飾り絵の染みを内包して、更に大きく、壁を黒い線が走っていた。
床から伸びて、ライの身長よりも高いところで横に折れ、それからしばらくしてまた
床に下りる線。
カビと汚れにしっかりと暴かれているそれを手袋の指先でなぞる。
もともとは巧妙に隠されていたのだろう隠し扉は、今は無惨なまでに姿を晒していた。
この部分の壁だけが木の板でできていて、後からつけただろうそれをおざなりに隠し
ている。いや、これでは隠しているうちにも入らない。よく見れば張り紙の残り方が、
他の場所から剥がしたものをむりやり貼り付けたように不自然なのだ。
足元を照らし、この扉の前の床が、廊下の端にしては汚れていないことを確認する。
今でもこの先の空間――どんな用途の場所かは知らないが、それを使用している人間が
いるのだ。となれば財宝は期待できないが……
街で聞いた話を思い出す。
ここに住み着いているあの男は、隠れて怪しい実験をしているらしい。実験をしてい
るということは研究をしているということだ。目の前の扉こそ、いかにもそれらしい。
だから、きっと奥には何かがあるだろう。
噂の真偽はとにかくとしても、人目を避ける、何かが。
無造作に手を伸ばし、手のひら全体で壁に触れ――毛糸のセーターをほどくように、
ばらばらと実体を解いていく。なんの障害もなく指先は壁の向こうへ通り、手首までが
埋まった。
(魔法的な罠はない……か。ある方が不思議だけど)
ライは安心してそのまま壁の中を潜り抜けた。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
狭い通路を通るときに足音が反響するのが気持ちいいから、特に必要もないのに実体
を再構成して急な階段を降りていく。
忍び込んでいるのにわざと音を立てて、見つかったらどうするのか――見つかってか
ら考えればいい。
それなりに深く掘ってあるとはいえ階段はすぐに終わった。いや、すぐに、というほ
ど短くはなかったかも知れない。あれやこれやと考える間はなかったというだけで。
三階分くらいかな、と適当に予想する。
それからライは目の前の鉄の扉にライトの光を当てて観察した。古い扉で、表面には
錆が浮いている。しかし相当に分厚いらしく壊れそうな不安定さはない。
ライは光を消してライトを上着の胸ポケットに適当に突っ込むと、姿を消して扉を通
り抜けた。なんだ二度手間じゃんクダラナイ理由のために労力を使わない方がよかった。
クダラナイ、クダラナイ、と呪文のように二回繰り返したが、実体がないので当然、
音にはならなかった。扉の先の空間は狭く、他の場所と違って空気が乾燥して埃が多く
舞っていた。
この部屋を狭くしているのは、どうやら壁を埋めるように並べられた本棚だ。分厚い
背表紙が並んでいるのでタイトルを読み取ろうと適当な一冊に意識を向けると、なにや
ら知らない文字で書かれていた。
――研究室といえば研究室に入るのかも知れないが、ここは書斎とか図書室とか、そ
う呼ばれる場所のようだ。何故、わざわざ地下にあるのかはわからないが。
(で、問題は……だ)
部屋には灯りがあった。片隅に置かれた書き物机に向かっているのは、町で見た男。
後姿だけをみても、やはり“貧相な”という感想に変わりはない。むしろ、より一層
その印象が強まったかも知れない。
近づいて覗き込んでみると、彼は読書をしていた。古びた難解な本と睨みあっている
らしい。本にはところどころ薄くメモ書きがある。
男はそれと辞書を手がかりに解読しようとしているらしいが、手元の紙に書き付けて
ある単語やらなにやらと、本に書き込まれた文字は筆跡が異なっていた。
(忍び込んで、故人の蔵書をあさっている……といったところか)
この男が住み着くようになってから一年と経っていないという。これだけの本を集め
るのは不可能だろうし、本棚も本も埃を被っており、持ち込まれたようにも見えない。
それにしても、読んでいる本の種類がわからなければ退屈この上ない光景だ。他人の
読書など。
棚の影に実体化して、共通語で書かれている本を一冊に抜き出して開いてみたが、主
婦のための手抜き料理集だった。
その横には「犬の辞典」、更にその横には「医学と自然学」。
最近は調子が悪いというのに、こんなところまで来るんじゃなかった。労力の無駄遣
いにも程がある。こういうことをしていると本当にコールベルに着くまでもたなくなる
から今度からは気をつけようと自戒して、ライは引き返そうと――
「……ならば我々は、こぼれた水を手のひらにすくいあげる」
――声と共に、背中から細い針でゆっくりと貫かれていくような感覚がした。痛みの
ない不快感。こうったことが最近は何故だか多いので、魔法のせいだと決め付けて、そ
の発生源を振り返る。
男は相変わらず貧相な猫背で本と睨み合いながら、ぶつぶつと意味不明なことを呟い
ていた。潰れたように低い声が一説一説を読み上げていき、たまに「違う」と言って、
微妙に言い回しを変えたり意味を置き換えたりして繰り返す。
「立ち込めた霧を払い、蜂蜜をそそぐ。我々は望むがゆえ楽園を見る。
みぎ手に靴、ひだり手にかんざしをもって……かざして……?」
そういう歌は可憐な少女に歌って欲しいものだ。歌ではないが。
何かの呪文の解読をしているらしい。魔力が発生しているみたいだとはいえ、ごく微
弱で少し気分が悪いだけだったので、しばらく観察していることにした。
その“しばらく”が過ぎると、男は椅子を鳴らして立ち上がった。
机に手を突いて前かがみに背中を丸めたまま、あの妙にギラギラした目を見開いて、
男はいきなり哄笑を上げた。なんだこの人。魔王か何かの物まねだろうか。だとしたら、
さっきのは世界征服の呪文だったに違いない。
近くで盗み見している亡霊一人どうともできない魔王。
ライは、とりあえず、それはそれで面白そうだとも思ったが――
「――ハハハハハハハハハハハ!!
待ってろよ、シラ! ついにお前を治してやる呪文を見つけたんだ!!!」
なんだかわけがわからなかったが。
ライは、とりあえず、これはこれで面白そうだとも思った。
もう少し見ていてみよう。何があってもバレないように気をつけて。
そうとも、何が起こっても関わらない。ただの傍観者として眺めるのだ。