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人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン ―港町
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――その後は、平穏な船旅が続いた。奪われた荷を取り返すことは出来なかったが、
船そのものはほとんど壊されていなかったのだ。
食物や水も大半を失ってしまったため、船は小さな港町に停泊して物資を補給するこ
とになった。残った荷だけでも届けなければならないと、補給が終われば、当初の予定
通りルクセンへ向かうそうだ。
「なんだか、地面の方が揺れている気がしますね」
寂れた港から町の中心へ歩きながら、セラフィナが苦笑した。
蒼天から降り注ぐ太陽に建物の壁が眩しい。人気のない周囲には白い倉庫がいくつか
並んでいる。錆びかけた金属の扉が開け放たれたその中には、木製のボートが放り込ま
れて、古いロープや網と共に朽ちかけていた。
「すぐ慣れるよ」
後ろでライが言うとセラフィナは振り返る。輝く海に眩しそうに目を細めた彼女の動
きを追うように、一つに結わえられた黒髪が揺れた。
猫の尻尾みたいだななんて思いついて、猫もすごい可愛いよねと発想が飛躍する。な
んとなくそれを表情に出さないようにと少し表情を作って目を逸らす。目聡く気付いた
セラフィナが「どうしました?」と首を傾げたのにまた髪が動く。
「いや……船旅もいいんだけど、海の上はちょっと落ち着かなかったからね」
浮かびかけた笑いを噛み潰して苦味を加える。
適当なことを言って誤魔化し、ライは足を止めた。わざとらしく溜め息をついてみる。
姿を消すことができないから船は(船に関わらず乗り物は)疲れるということは、セラ
フィナには言っていない。
「今日はちょっと休んでる……出港は午後だったっけ?」
海賊の件が起こったときに調子が悪くなったのは、近くで大きな魔力が働いていたせ
いだ。それがなくなったから、気分は大分いい。
荒くなっていた幻像も少しはマシになっている。
「遅れちゃ駄目ですよ?」
「あははは、僕は遅れたら置いていかれるね」
肩を竦めてみせる。見せてもらった地図では、この町は、徒歩でソフィニアからコー
ルベルへ向かう道筋を半分以上過ぎた場所にあった。
陸路でも辿りつくことは可能だろうが……
「……やめてくださいよ」
「絶対に遅れないから大丈夫だって」
自分が間に合わなければセラフィナは船を降りてくれるだろう。
こんな辺鄙な場所から彼女を歩かせるのは気が咎めた。多少無理をしてでも船でルク
センまで行った方がいい。
「そういえば、あの海賊はどうなったのかな」
問いかけるとセラフィナは複雑な表情を浮かべた。
渋面で彼女は貨物船を横目にする。
「あの時、他の船の灯りがいくつも見えました。
ライゼルさんが本気で船を取り戻すつもりで連れてきたのだとしたら……」
「もう襲われないなら、いいや」
捕縛されたにしろ逃げ延びたにしろどちらでも構わない。
ルクセンに到着してしまえば、もうこの地域で船に乗ることは当分ないだろう。自分
で聞いておいて、興味を失い言葉を遮る。
寂れた感のある町並みは、元々から規模は大きくないようだった。
道を行く住人の姿は見られるものの、決して“多い”とは言えず、彼らが逆に暗い雰
囲気を増長させているようだ。
町中の金属製品が潮風に錆びを浮かしている。
頭上で、看板の揺れるギィという音がした。
「寂しい町ですね……」
「最近は港が増えたらしいからね。
ここじゃなくてもよくなったんじゃないかな」
静かな通りに声が響くことを気にしたのだろう。小声で囁くセラフィナ。
ライはどこかで聞いたような憶測を返して呟いた。
「食べ物、分けてもらえるといいんだけど……」
あまり期待できそうにないね、とは口の中だけで呟く。
ちょうどそのとき、背後で何か――
「――?」
何か小さな音がしたような気がして振り向くと、足元を小さな影が通り過ぎて行った。
セラフィナが「あ」と声を上げた。
それは素早く走り去っていく。三毛の仔猫。
しなやかに昼前の道を駆け抜けて、すぐに視界から消えてしまった。
船にいたやつだ。尻尾の模様に見覚えがあるから。
「どうしたんでしょう……」
「さぁ……」
気の抜けた返事をしてから、ライはある可能性に気がついた。
当然ながら目を凝らしても猫はもうどこにも見えない。
「ひょっとして――逃げた…の、かな」
手遅れ極まりない発言は、潮風に吹かれてむなしく散った。
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人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン ―港町
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セラフィナは柔らかい草地に座り、海を眺めていた。
ライとわかれて一人きりの散歩をすることにしたハズなのだが、なんだか時間を持
て余してしまうのだ。寂しい町だというのもあるかもしれない。が、きっと一人が寂
しいのだろうと思い、船が見えるところまで戻ってきたのだった。
一人で居る時間が多かった少し前の自分と、今の自分の違いを考えてみるがよく分
からない。人を見る目はあると思うが、よく事情を知らない人と長く一緒にいるのも
珍しい。ちょうど行き場を見失って困っていたというのは事実だが、だからといって
何故今ココにいるのかというのも、理由があったわけではない。
「あ」
また三毛猫が視界の端に映った。一瞬こっちを見て止まり、またすぐに駆け出す。
セラフィナは立ち上がった。あの猫は追いかけっこがしたいのかもしれない。何と
なくそう思って。
ドレスの裾を払い、海に背を向ける。あんなに物珍しく、楽しく眺めていられた海
も、今の持て余す感じを埋めてくれないから。……本当はそれだけなのかもしれない
けれど。
一方その頃。港では船員達が慌ただしく走り回っていた。
出航の準備?もちろんソレもあるがソレだけではない。
「おーい、いたかー?」
「そーっちはー?」
探しているのは誰だろう?
「この船、海賊船に襲われても沈まなかったのは、絶対お守りのおかげだから」
「探してくれー!稀少なオスの三毛猫だぞ~!!」
そう。
「ミケにご馳走用意しておくから!みんなで手分けして探すんだ!」
「オレ、ミケが見捨てた船になんか乗りたくないよ~」
セラフィナが追った三毛猫を、船内総出で探しているのだ。まだ船から降りたこと
も知らず。
セラフィナは、見つけては逃げられる猫との追いかけっこを結構楽しんでいた。
「ふふっ負けませんよ?」
見失っても、またしばらくしたらちらりとだけ姿を見せる三毛猫が、本気で逃げて
いるようには見えなかったからだ。楽しんでいる。だから、一緒に遊ぼう。
――ミャア
今度は右か。
追って走りながら、昔読んだ何かの本を思い出した。
三毛猫は殆どメスしか生まれない為、オスの三毛猫というのは稀少なのだそうだ。
その希少性故に、お守りがわりとして船内で飼われていたりするのだとか。
海難事故を防ぐ魔力が宿るという信仰まで、一部にはあるらしい。
その本では、航海中にネズミなどを狩り、海で獲れる魚を好物とする猫は、非常に
航海向きの愛玩動物なのだと追記されていたような気がする。
とすると、この三毛猫はオスなのかもしれない。
お守りがわりのこの猫のお陰で、船も沈まず逃げられたのかしら。
なんてゆっくり考える暇もなく、今度は左の視界の端に猫が映る。
「……本当に一匹よね?」
若干の不安を覚えたセラフィナだった。
が、とりあえず猫を追う。まだ追いかけっこは終わっていない。
現れては消え、消えてはまた現れる。それを幾度繰り返したことだろう。
いろんな路地に入り込んではドレスのひだを疎ましく思い、先回りしようにも土地
勘がなく、さすがにセラフィナも疲れて肩で息をするようになっていた。
少し休めれば呼吸を整えるコトなんてそう難しくない。
でもその少しの時間をとることで、三毛猫に追いつけなくなってしまうのだ。
「はぁっはぁっはぁっ」
猫もいい加減疲れてきそうなものなのに、逃げ足の早さは相変わらずだった。
膝に手をついて大きく呼吸をし、強引に息の乱れを整えてまた走り出す。
ココは何度か通った小道だ。右は行き止まりだから今度は左に折れてみよう。
「……どうかしたの?」
「あ……ライ、さん……」
驚きで足が止まる。
まさか今この瞬間に声をかけられるなんてまるで予想していなかったから。
我に返って見回したときにはもう猫の姿は見えず、苦笑して息を整えた。
「……ふぅ。ちょっとね、追いかけっこしてたんです」
乱れ始めた髪をなでつけ、もう一度辺りに目を向ける。
「あ、また後で」
きびすを返すセラフィナの、纏めた髪が踊るように揺れる。揺れる。
なんとなくライが笑ったような気がして、セラフィナは猫の後を追いながら気恥ず
かしさに頬を染めた。
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人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン ―港町
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見上げた空は青く青く、コントラストを添えるように浮かぶ白い雲が綺麗だと思った。
並ぶ建物の壁が白いのは元々ではなくて、海からの強い風に少しずつ風化していく石の
色。乾いた剥きだしの地面から時折砂が舞った。
「ねぇねぇ、さっきの船で来たのっ?」
甲高い声で呼び止められてライは歩を止めた。
横手にいるのは小さな少女。まだ十にも満たないだろうが、見上げてくる目は大人の
それのように強かった。
「そうだけど……」
ライは困惑と迷惑を混ぜ合わせた表情で苦笑い。子供が嫌いだということはないが、
苦手だった。心構えもなく話しかけられるとどうに対処すればいいのか、わからなくな
ってしまう。
「それが、どうかしたの?」
「あたしたちも連れてって欲しいの」
「……は?」
自分はただの客だからそんな権限はないし親に内緒っぽいし連れて行ったら人攫いに
されるかも知れないし。一瞬でそこまで保身寄りの考えが並んだのは、最近なにかと酷
い目に遭うことが多いからだろう。
「いや……それは…………なんで?」
「リーザ!」
近くの路地から顔を出した少年が、ぐいと少女の腕を引っ張った。
彼はリーザよりも年上で、十五か十六か。地域によっては成人している年齢だが、こ
こでは違うらしいと一目でわかる。
「知らない人にいきなり何言ってるんだよ!」
まったくだ。
「でもこの人、あの船に乗って来たんだから」
「だから、船に乗ってる奴に知られたら忍び込めなくなるだろ……」
なんだかいきなり不穏な話が進行し始めた。
口を挟むべきか黙っているべきか。悩みながら結局は黙っている内に、二人の間で結
論が出たようだった。同時にぐるりと振り返ってくる。
「ちょっとそこまで来て欲しいんだけど」
口封じ!?
……駄目だ被害妄想がどんどん出てくる。
屋根の上で小さな声が聞こえて、見上げるとあの三毛猫がいた。助けを求める目は無
視して、猫はすぐに見えなくなった――と同時に、別の場所から声がして、視線を向け
るとまったく同じ三毛猫がいた。
「…………あれ?」
「お兄ちゃんあの猫!」
「あっ!」
呆然とするライを尻目に、リーザと少年はばたばたと猫に駆け寄った。
が、猫は身を翻して逃げ去ってしまう。追いつけるはずもなく、それは二人にもわか
っているのか、深追いせずすぐに戻ってきた。
「手伝って欲しいんだけど」
「なんか話に脈絡ないよね」
「いいから」
よくないって。
心の中でツッコミながらも、出港の時間まで退屈しているよりはいいかも知れないと
思った。
「これは魔法の箱なのよ」
どう見てもゴミ箱にしか見えない薄汚れた箱をぺちぺち叩きながらリーザが言った。
周囲に集まっているのは、彼女の兄――クルトというらしい彼と同年代の少年たちだ。
年下を見ているような気分でいるけど実際は自分と歳は変わらない。
「魔法の箱……ねぇ」
呟きながらそうっと確認すると、皆は真剣な顔をしていた。何かの冗談ではない、と
いうことが冗談のようだ。
ライは子供の腰くらいまで高さのある箱に手をかけて、蓋を外して覗き込んでみた。
錆びと埃の混じった臭気と共にふわりと空中に霧散した魔力が一定の規則に従った構
成を形作っているのを第六感で見て、ライは顔をしかめる。ぱたりと蓋を戻す。
「ホンモノみたいだけど……すごいなぁ。こんなの捨てる人いるんだ」
今いる場所も、ゴミ捨て場と大して変わらなかった。町外れに錆びの浮いた粗大ゴミ
が積まれている広場があり、ゴミの山に隠れた一角にある古い小屋の中だ。
どうやら普段から子供の遊び場になっているのだろうということは、床に散乱した遊
び道具などで知れた。いや、彼らは“遊び場”なんて言ったら怒るかも知れない――
ここは“秘密基地”だ。
「何に使う道具なの?」
呆れと感心と、若干の興味と高揚を感じながら呟く。
すると近くにいた少年の一人が、自慢げに教えてくれた。
「ここに生き物を入れると増えるんだ」
「…………」
黙りこみ、言葉の意味を反芻する。何度も噛み締め直してから注意深く飲み下し、そ
れからライは、ぽそりと言った。
「さっき猫が二匹いたような気がするなぁ」
「そーなんだよ! 可愛い猫だったからとっ捕まえて、リーザに猫風呂やってあげよう
と思ってさ」
「猫風呂って何さ」
「増やしたら逃げられちゃったんだ」
「だから猫風呂って」
「全部で三十匹いるはずなんだけど、ぜんっぜん捕まらなくて困ってんだ」
「猫風呂は……って待て三十!?」
根負けする前にとんでもないことを聞かされて思わず声を上げる。
少年はほんの少しだけバツの悪そうな顔で頷いた。
「また一緒に箱に入れてこっちおボタンを押すと一匹に戻るんだけど、一日以上経つと
戻らなくなるみたいなんだ。
クルトが増えたときは大変だったよ。箱小さくて二人入れねェからすげー押し込んで
ギリギリセーフ」
「増やすなよ……」
スクラップ一歩手前の謎装置を、よく人間で実験しようと考えたものだ。子供ならで
はの思い切りだ。もちろん褒めてない。
「だから、船にいた奴が一緒に探せば猫が出てくるんじゃないかと俺は思った!
リーザに探しに行かせたんだ。船の連中は大体、町長の家で話してる途中だけどな」
「はいはい頭いいね」
適当に返事をしているとき、リーザがライの服の裾を引っ張った。見下ろすと彼女は
じぃっと強い目で真っ向から見上げ、そして言った。
「早くぜんぶ見つけないとおかーさんたちにバレちゃうかも知れなくて、そしたら怒ら
れるから、逃げなきゃいけないの。
あの船にミッコーされたくなかったら捕まえるの手伝って」
「怒られるから逃げるって、おかしいよ。
船に入り込んだのバレたらもっと怒られるし」
冷静に言い返すが――無駄だということはわかっていた。
でも、猫が増えたままというのもそれはそれでいい感じではある。そんな考えで放っ
ておいたのがセラフィナに知られたら怒られるような気はしたが。
「――さっき、きれーなお姉ちゃんが猫を追いかけてたから、先に捕まえなきゃね」
セラフィナのことだとすぐにわかった。さっき、追いかけっこなんて言っていたから
子供とでも遊んでいるのかと思ったが、そうかあれは猫と遊んでたのか。
「彼女だったら、言えば手伝ってくれる――」
気が変わってライは口を閉ざした。
言わないでおこう。そんな気になる。
ここは子供だけの聖域なのだ。
どんな形であれ招かれたからには、彼らの秘密は守らなければならない。
「……そーだね。先に全部捕まちゃおう。道具は?」
「あるよ」
壁に立てかけられていた玩具やネットを、それぞれ手にしていく少年少女。彼らが妙
に頼もしく見えてライは口の端を苦笑で歪めた。
自分にも、仲間と共にこうやって遊びまわっていた時期があったのだ。当然、そのほ
とんどは、大人に知られてはいけないことだった。
親の目を盗んで走り回り、自分たちだけで事件を解決する大変さも面白さも懐かしい。
「よーし、行くぞ! 集めて猫風呂にするんだ!」
クルトがなんだか違う気合の声を上げ、子供たちが元気よく拳を振り上げた。
そしてゲームが始まった。
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人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン ―港町
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「おいで」
散々走り回って、セラフィナはようやく休息する猫に近づいた。
そっと手を伸ばすが、面倒くさそうな顔をして猫は顔を洗うだけ。逃げる気はなさ
そうだ。
「お前、足早いね」
三毛猫を優しく抱き上げると、顔を覗き込み声をかける。答えるように小さく鳴く
子猫は、思った以上に柔らかくて暖かかった。
そうだ。ライさんに見せに行こう。
懐いていたみたいだったし、きっと彼も退屈しているに違いない。
来た道を戻り、彼と鉢合わせをした三叉路に向かおうとしたその時。視界の端に猫
の影が映る。
「えっ?!」
思わず振り返るが、今度は別の方向に猫の影が映る。
普段だったら「猫の多い町なんだな」と思ったかもしれない。しかし、さっきの追
いかけっこ中に感じた違和感がそう思わせなかった。何かがおかしい。
「うわー、遅かったよぉ」
建物の影からセラフィナを窺う子供が二人いた。
「や、大丈夫。なんか理由付けて返して貰おう」
背が高い方の少年は、もう一人に捕獲用の網を預け、にかっと笑った。
猫を抱いたまま歩くのを止めたセラフィナに、通りを真っ直ぐ進んでくる少年が声
をかけた。
「おねーさん、ちょっとその猫、見せてもらってイイかなぁ?」
「え、ええ、いいけど……」
抱かれたままの猫を覗き込む少年。
「あ、やっぱりキャンディーじゃん」
「キャンディー?」
「うんそう、探してたウチの猫。だから返して?」
にかっと笑って両手を差し伸べる少年。何となくしっくり行かないながらも子猫を
渡そうとして、また三毛猫が視界にはいる。
抱きなおしてセラフィナが問いかける。
「この町って三毛猫が多いのかな?」
「あー、うん。今三十匹くらいかナァ」
少年の視線が斜め上に逸れる。アヤシイ。
「模様がね、みんな同じに見えるんだけど、どうやって区別してるの?」
「えーっとねー、ビミョウに違うんだよ~」
説明する言葉を探そうとしてか、頭を抱えてしゃがみ込む少年。
セラフィナが困って空を見上げたまさにその時、異変は起こった。
「きゃっ!!」
小さな悲鳴。声の主は……セラフィナ。
予想もしなかった事態に、思わず猫を放り投げスカートを抑えてしゃがみ込む。
セラフィナには何が起こったのかよく分からなかったが、遠目でも目撃した人はす
ぐに分かっただろう。黒いスカートが翻り、白い太股が鮮やかに浮かぶその姿。
そう。子供の特権「スカートめくり」だ。
「よっしゃ!逃げるぞ~」
少年が猫を抱きかかえて一目散に逃げる逃げる。物陰から出てきた少し背の低い少
年も網を持って後を追う。
セラフィナは放心状態で座り込んでいた。子供の頃からあんないたずらに出会った
ことがなかったのだから、まあある意味当たり前の反応なのかもしれないが。
「……何?」
未だに状況が把握できていなかった。
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人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン ―港町
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ばさりと派手な音さえ立てて、上着の裾がひるがえる。
急に目の前に現れた襲撃者に驚いて逃げ出した猫を虫取り網で華麗に掬い上げ、ライ
は振り向いた。
「じゃ、これも檻[ケージ]に入れといて……あと、どのくらいかなぁ」
ぱちぱちとぞんざいな拍手をするクルトに網から出した猫を押し付ける。
どこまでも蒼い海辺の空の下、少年は少しだけ憮然としているように見えたが、気に
しない。出港までに三十匹の猫を集めないと、あとあと問題になる。
その中の一匹だけを船に連れて行って誤魔化すという手もないことはないのだが……
一匹一匹に、元の情報がそっくりコピーされて分身しているという保証はない。下手を
したら奇妙な後遺症が出るかも知れない――それはさすがに後々気分が悪くないか。
「さっき、リーザの方が五匹、ヤンが八匹って言ってた」
「僕たちは?」
聞くとクルトは吐き捨てるように答えた。
「まだ七!」
「ああ、それで機嫌悪かったんだ」
「うるさいな! ヤンにまた負けたら、リーザが……!」
「っはは――」
ライは思わず笑声を上げる。クルトが睨むように見上げてきた。
その様子に弟を思い出し嗜虐的な気分が湧き上がってるのを抑えながら、網を振って、
ひっかかったゴミを払う。
「負けたら妹に悪い虫がつくのか……なるほどね。そりゃ負けられない」
見上げた空の太陽は、さっきよりも傾いている。どうやら船長はまだ町の偉いさんと
話をしているようだったが、出港まで時間があるとは言えないだろう。
今まで探し回ったのと同じだけの時間は、ない。
子供たちは五つくらいのグループに分かれて動いているが、いくら町の地理に詳しく
ても逃げ回る小動物を捕まえるのは難しかった。最初のうちはよかったが、敵方も徐々
に警戒を強めてきている。
近づくだけで襲われるなんてことにもなりかねない。
相手は子猫だから大怪我を負うことはないだろうが。
「あと十匹……いや、もう何匹か捕まってるかも」
ぶつぶつと呟くクルトの声を聞き流しながら、ライは人通りの少ない通りを見渡した。
子供たちはともかく、虫取り網を持った異邦人は目立つだろう。あまり派手な行動はで
きない。或いは、派手な行動しかできない。
「せめてヘルガと一緒だったらなー」
「ごめんねー、僕が相方で。
この町の地理とかさっぱりわかんないんだよ」
虫取り網の柄でトントンと地面を突きながら応えると、クルトは「拗ねんなよ」と嘆
息した。そこだけ妙に大人びた仕草に見えた。猫を抱えてるから相殺されてるけど。
「拗ねてるの?」
「ライだろ、拗ねてんの!」
なんとなく聞き返すと強く言い返される。困ったなこれは相当イライラしてる。
っていうか今気がついたけど、猫が町から出たりしたら、とても探せないじゃないか。
そのときはどうしたらいいんだろう。
「あのさ、クルト君。
年上を呼び捨てにするのはよくないと思うよ」
「細かいこと気にするのはガキだと思ったり」
「あー……じゃあ、いいや」
「なんなんだよ」
一応、仲間として認識されているらしい。そもそも年上ではなさそう、ということは
どっかに置いておくことにする。十六歳から自分の時間は動いているのだろうか。
何もなくなることが死だとしたら、少なくとも、今の自分は、死んでいない。成長す
る体がないからといって、中身もそのままということはないだろう。
「僕はガキだから意味不明なことばっかり言うんだよ」
「拗ねないでってば、素敵なオニーサン」
「はいはい、とりあえずその猫おいてきてね。逃げちゃうよ」
「わかってる……って、うわわ」
クルトの腕の中で、そろそろ抱き締められることが嫌になってきたのか、もがき始め
る猫。少年は「うわわわわ」などと慌てた声を上げながら猫を逃さないように格闘して
いたが、猫はするりと身をよじって地面に降りた。
「わああああああ逃げられたっ!」
「だから言ったのに!」
叫び返しながら虫取り網を地面に沿わせて低く振るう。猫はたやすくヒラリと避けて、
それに覆いかぶせるようにひるがえした第二撃も躱された。ライは舌打ち。
「クソ! こうなったら多少キズがついても――」
「何ムキになってんだよキズ付けるな刃物しまえっ!!」
具現した剣を握ったライにクルトが怒鳴る。虫取り網で触れられもしなかった相手を
剣一本でどうにかできるとはライも思っていなかったが、多少キズがついても、という
あたりはそれなりに本気だった。数を揃えるのが第一優先だ。
でも、怒られたので諦めて立ち止まる。
猫はすぐに見えなくなった。
「逃げちゃったじゃないか」
「足くらい切り落とす気だっただろ!? っていうかソレどこに持ってた」
「あー、これねぇ、ここで折りたたむとコンパクトな持ち運びサイズに。便利でしょ」
「どうでもいいから」
「聞かれたから答えたのに」
言いながら、実際に金具を操作して剣を折り、ベルトのホルスターに差す。拳銃を収
めるための道具を細工したものだ。使えれば本来の使用法など関係ない。銃なんて、撃
ち方は知っているけど持ってないし。
「あっ、猫いた!」
「え?」
クルトが指差した先を見ると、横の道から小さな三毛猫が飛び出してきたところだっ
た。「貸して」とクルトはこちらの手から虫取り網を奪い取って駆けていく。
彼が素人くさい動きで(玄人らしい猫の獲り方ってなんだ)網を振りおろした。もち
ろん猫はなんなくすり抜け、ニャアと鳴いた。
猫に続いて誰かが走りこんでくる――その目の前に飛び出したかたちになったクルト
が目を見開いたが、その“誰か”の方は、彼の前で足を止める。
「大丈夫ですか?」
「あ…うん。ごめんなさい」
「あなたも猫を探してるの?」
にこりとクルトに笑いかけて。
セラフィナは言った。
――誰にも知られてはいけないことを指摘されて、クルトの顔が、ひきつった。