キャスト:マレフィセント・フレア
NPC:リノツェロス・馬車の御者・馬車の主
場所:クーロンより南下へと続く街道
―――――――――――――――
鮮やかだった夕映えはその勢いを急速に衰えさせ、物言わぬ御者がリノを馬車に
乗せ終えた時には、すでに周囲は青み掛かった紫へと変じていた。
「これはどういう事だ」
騎士は憮然とした面持ちでそう言うと、こちらの顔を見上げた。
馬車の内部は思っていたより広く、長身のリノが横たわってもまだ余裕が
あるほどだった。
内部をぐるりと取り囲むようにしてあつらえられているソファは柔らかく、
フレアとマレフィセントが左側、横たわるリノが右側、そして声の主が
馬車の一番奥に座っている。
「だから――」
「何をそんなに怒ってらっしゃるの?」
フレアが口を開こうとするのを遮って、奥に座る馬車の主が答えた。
主――ベール付きの帽子を被っているために顔はわからないが、
声音からすればおそらく女、年令は30代前半といったところだろうか。
灯りはあるものの、わざとなのか偶然なのか光の範囲の外に彼女はいる。
「このお嬢さんは貴方を助けたい一心で私に声を掛けてきたのですよ」
あくまでも美しい声でありながら、しかし口調は最初に会った時よりも
ややくだけてきていた。
「それなのにそんな態度を取るなんて、可哀想だわ」
「…御婦人、私だってフレアを責めているつもりはない。ただ、
説明が欲しいのだ。なぜこのような事になったのか」
「他に手がなかった、それじゃあ駄目かしら」
「……」
騎士はそこで諦めたように深いため息を吐くと、むりに首を曲げて
壁ぎわに顔を向けた。おそらく身体ごとあちらに向けたかったのだろうが、
痛む腰ではそれも叶うまい。
「リノ」
「寝かせて差し上げなさいな。お疲れのようだから」
追い縋るように騎士の名を呼ぶフレアをやんわりと押し留め、女主人が囁いた。
そして退屈そうに椅子に沈むマレフィセントに目をやると、くすりと笑みの
ような吐息を洩らした。
「もう外套はいらなくてよ、小さいお嬢さん」
「いえ、あの――」
きょとんとして、主人とマレまでもがこちらに視線を向ける。フレアは
できるだけ不自然にならないように、それでいてめまぐるしく考えながら
答えた。
「この子、人見知りで…姿を見られるのは、ちょっと」
「あら、残念ね。――でも私もこんな姿ですから、おあいこ
かしら」
手のひらを自分の胸にあててその姿を示す女主人の声は明るかったが、
なにか罪悪感のようなものを感じてフレアは目を伏せた。
「すみません」
「いいのよ――あなた方も少し眠るといいわ」
「その湯治場まで、どのくらい…?」
「すぐよ。眠ってしまえばね」
「?」
眉根を寄せるこちらに気づいているのかいないのか、女主人はすっと
灯りのひとつに手を伸ばした。光に照らされた彼女の影が馬車の中に
浮かび上がる。
いつのまにか長い煙管など持っているが、その中身をランプの火の中に
入れてしまう――くべられたそれは灰というよりは粉だった。
炎なのか魔術の灯りなのかは判然としない光の中で、蒼く煌いて消える。
それがあまりにも自然だったので、質問するのが遅れた。
我に返って問おうと息を吸い込んだその肺に、甘く芳ばしい香りが
流れ込む。
「発香鱗よ。いい匂いでしょう」
「はっこうりん…?」
女主人の言ったことを繰り返しながら、向かいのソファにいる騎士を見る。
無理に曲げられた首はいつの間にか天井を向いており、厳しい横顔のまま
男は目を閉じて眠りに就いている。
肩に柔らかな重みがかかる。見ると、真紅の外套にくるまった少女が
長いまつげを頬に落として寝息を立てていた。その姿が霞む。
我知らずフレアにも睡魔が襲い掛かってきていた。抗うこともできず、
疲労も手伝って眠りの淵に沈んでいくことを自覚することしかできない。
(あれは……蝶…?綺麗…)
眠りに落ちる一瞬前、馬車の窓から見えた月。その前にひらりと
紙くずのように飛ぶ影を見たが、もうどうでもよかった。
――――――――――――――――
NPC:リノツェロス・馬車の御者・馬車の主
場所:クーロンより南下へと続く街道
―――――――――――――――
鮮やかだった夕映えはその勢いを急速に衰えさせ、物言わぬ御者がリノを馬車に
乗せ終えた時には、すでに周囲は青み掛かった紫へと変じていた。
「これはどういう事だ」
騎士は憮然とした面持ちでそう言うと、こちらの顔を見上げた。
馬車の内部は思っていたより広く、長身のリノが横たわってもまだ余裕が
あるほどだった。
内部をぐるりと取り囲むようにしてあつらえられているソファは柔らかく、
フレアとマレフィセントが左側、横たわるリノが右側、そして声の主が
馬車の一番奥に座っている。
「だから――」
「何をそんなに怒ってらっしゃるの?」
フレアが口を開こうとするのを遮って、奥に座る馬車の主が答えた。
主――ベール付きの帽子を被っているために顔はわからないが、
声音からすればおそらく女、年令は30代前半といったところだろうか。
灯りはあるものの、わざとなのか偶然なのか光の範囲の外に彼女はいる。
「このお嬢さんは貴方を助けたい一心で私に声を掛けてきたのですよ」
あくまでも美しい声でありながら、しかし口調は最初に会った時よりも
ややくだけてきていた。
「それなのにそんな態度を取るなんて、可哀想だわ」
「…御婦人、私だってフレアを責めているつもりはない。ただ、
説明が欲しいのだ。なぜこのような事になったのか」
「他に手がなかった、それじゃあ駄目かしら」
「……」
騎士はそこで諦めたように深いため息を吐くと、むりに首を曲げて
壁ぎわに顔を向けた。おそらく身体ごとあちらに向けたかったのだろうが、
痛む腰ではそれも叶うまい。
「リノ」
「寝かせて差し上げなさいな。お疲れのようだから」
追い縋るように騎士の名を呼ぶフレアをやんわりと押し留め、女主人が囁いた。
そして退屈そうに椅子に沈むマレフィセントに目をやると、くすりと笑みの
ような吐息を洩らした。
「もう外套はいらなくてよ、小さいお嬢さん」
「いえ、あの――」
きょとんとして、主人とマレまでもがこちらに視線を向ける。フレアは
できるだけ不自然にならないように、それでいてめまぐるしく考えながら
答えた。
「この子、人見知りで…姿を見られるのは、ちょっと」
「あら、残念ね。――でも私もこんな姿ですから、おあいこ
かしら」
手のひらを自分の胸にあててその姿を示す女主人の声は明るかったが、
なにか罪悪感のようなものを感じてフレアは目を伏せた。
「すみません」
「いいのよ――あなた方も少し眠るといいわ」
「その湯治場まで、どのくらい…?」
「すぐよ。眠ってしまえばね」
「?」
眉根を寄せるこちらに気づいているのかいないのか、女主人はすっと
灯りのひとつに手を伸ばした。光に照らされた彼女の影が馬車の中に
浮かび上がる。
いつのまにか長い煙管など持っているが、その中身をランプの火の中に
入れてしまう――くべられたそれは灰というよりは粉だった。
炎なのか魔術の灯りなのかは判然としない光の中で、蒼く煌いて消える。
それがあまりにも自然だったので、質問するのが遅れた。
我に返って問おうと息を吸い込んだその肺に、甘く芳ばしい香りが
流れ込む。
「発香鱗よ。いい匂いでしょう」
「はっこうりん…?」
女主人の言ったことを繰り返しながら、向かいのソファにいる騎士を見る。
無理に曲げられた首はいつの間にか天井を向いており、厳しい横顔のまま
男は目を閉じて眠りに就いている。
肩に柔らかな重みがかかる。見ると、真紅の外套にくるまった少女が
長いまつげを頬に落として寝息を立てていた。その姿が霞む。
我知らずフレアにも睡魔が襲い掛かってきていた。抗うこともできず、
疲労も手伝って眠りの淵に沈んでいくことを自覚することしかできない。
(あれは……蝶…?綺麗…)
眠りに落ちる一瞬前、馬車の窓から見えた月。その前にひらりと
紙くずのように飛ぶ影を見たが、もうどうでもよかった。
――――――――――――――――
PR
キャスト:マレフィセント・フレア
NPC:リノツェロス・馬車の御者・馬車の主
場所:?
―――――――――――――――
うとうと、誰もが眠りに落ちた。
がたがた、馬車は誰も知らない場所へ行く。
***
車輪はぐるぐる回り続ける…。
***
「……………?」
ふと、ぱっと目が覚めてマレはむくりと起き上がった。
外の様子が気になって、馬車の窓のほうへ振り向く。窓の外は景色があやふやで、白い靄が全てを覆っていた。まるで雲の中にいるようだ。
「境界には敏感なのね」
起きていたのか、女主人の声がマレに届く。
リノもフレアもすやすやと寝息を立てており、この馬車の中で目覚めているものは誰もいない。マレは大きな瞳をぱちぱちさせて、声の主のほうをじっと見つめる。
「越えるのは簡単、でも、戻るのはとても難しいわ」
女主人は意味深に呟く。
馬車の中の暗闇に紛れていて、輪郭はおぼろげにしか見えないが、その手に持っているであろう煙管から、輝く青い煙がたゆたう。
「仕方ないのよ、こればっかりは…境界がないと私達があちらに溢れてしまうもの。
あちらはとても脆いのよ、小さなお嬢さん。あちらの人はとてもとても脆いものだから、私達が押しかけてはきっと恐怖で潰れてしまうでしょうね」
女主人が語りかけてきた。フレアと同じ言葉のはずなのに、マレフィセントに通じる言葉。マレはただ、じっと女主人の声に耳を傾けていた。彼女の声はとても気持ち良いと、本能が告げる。
「だからお眠りなさい、小さなお嬢さん」
言葉には魔力が宿る。マレは女主人の言葉のままに瞼を閉じた。そうして、歌うように声だけが瞼の裏側に響いてくる。
「すでに"越えて"しまった貴女にも、帰れる場所がどこかにあるといいわね。戻れなくなったお嬢さん」
--------------------------------------------------------
***
車輪はぐるぐる回り続ける…。
***
「おはよう、マレ」
次にマレフィセントの目が覚めたときには、すでにフレアもリノも目覚めていた。
眠気の残る瞼を苦労して持ち上げ、手の甲で瞳をごしごしとこする。大きくのびをしようとして、思わずマントがずれて角が露出しそうになる。それに気が付いたフレアが慌ててマレのマントを押さえた。
「こらっ、マレもうちょっと…!!」
その様子を見てたらしい女主人がくすりと笑った空気が流れる。女主人は何かに気が付いたように、あぁ、と小さく声を上げた。
「もうじき見えてくるころですわ、外を」
女主人の声に、思わず窓のほうを見るフレアとマレ。
「あ…」
窓の向こうの景色に、フレアが感動に、マレが驚愕にぽかんと口をあけた。二人は思わず馬車の窓を開け、大きく外に身を乗り出した。
空はまるで万華鏡。意味さえ不明な幾何学模様の星が空一面に散りばめられていて、ところどころで常にカタチを変えている。太陽と月は地平線を挟んで向かい合い、地平まで麦のような穂がなびく畑が一面に広がっている。麦、と断定できないのは、その色が自然界のもとは思えない七色に輝いているからだ。その七色の畑の上を金銀の何かが縦横無尽に飛び交っている。
「……鳥?」
縦横無尽に飛び回るのは、金色の鴎と銀色の鴉。鳥、のはずなのだが、よくよく見るとその翼の羽はトンボのように透けている。瞳は赤い宝石で、光にきらきらと反射する。
馬車は蒼い石で出来ている石橋を走っている。蒼い石橋は、ときおり一部の石が赤や黄色に点滅している。馬の蹄が当たった部分は淡く発光している。後方を振り返ると、地平線まで続いている石橋に淡い光が点々と残っている。
木々には宝石が実り、流れる川は硝子の砂で満たされている。石畳の上には蜥蜴の皮をもった猫が、金目を光らせて馬車を見送っていた。
「…まるで人の世とは思えんな」
ぼそりと、リノが険しい顔で呟いた。痛みとは何か別の、どこか畏れさえ滲ませた感情を抑えた声。
だがフレアはあまりにも美しい外の光景に目を奪われていて、リノの言葉を聞き取ることは出来なかった。だが、その声にくすくすと忍び笑いをもらす女主人。何が気に入らないのか、リノは無言でそっぽをむく。
--------------------------------------------------------
馬車の向こうの景色に心を奪われていたフレアに、後方から声がかかる。
「綺麗な赤い瞳のお嬢さん」
女主人がフレアに呼びかける。その声の中に、なにか不吉なものを感じてフレアは思わず鳥肌がたった。
振り向くと、さきほどと変わらぬ女主人のあやふやな陰影。ただ帽子の下から覗く白い肌と、煌く銀色の唇だけがはっきりと見て取れた。
「これから行く場所は、どんな怪我も病気もたちどころに消えてしまう。そこでは地位も種族も関係なくてよ、けれども一つ、あなた方は絶対に破ってはならない掟がある」
「掟…?」
フレアが鸚鵡返しに問いかけると、女主人は美しい声で、
「こちらの食べ物を口にしないこと」
と、急に女主人の声の温度が氷点まで下がった。
「果実だろうと葉のたった一枚であろうとも、決して口にしてはなりません。もし、これから出会った者達に何か勧められても、絶対に何も食べることがないように」
その言葉に、マレがぴくりと顔をあげ、リノは怪訝そうに眉間に皺をよせて上体をわずかに上げた。
「もし」
女主人は、そこで初めて、
「何か一つでも口にすれば、二度と元いた場所には戻れないのですから」
無邪気な悪意で、そう三人に告げたのであった。
--------------------------------------------------------
NPC:リノツェロス・馬車の御者・馬車の主
場所:?
―――――――――――――――
うとうと、誰もが眠りに落ちた。
がたがた、馬車は誰も知らない場所へ行く。
***
車輪はぐるぐる回り続ける…。
***
「……………?」
ふと、ぱっと目が覚めてマレはむくりと起き上がった。
外の様子が気になって、馬車の窓のほうへ振り向く。窓の外は景色があやふやで、白い靄が全てを覆っていた。まるで雲の中にいるようだ。
「境界には敏感なのね」
起きていたのか、女主人の声がマレに届く。
リノもフレアもすやすやと寝息を立てており、この馬車の中で目覚めているものは誰もいない。マレは大きな瞳をぱちぱちさせて、声の主のほうをじっと見つめる。
「越えるのは簡単、でも、戻るのはとても難しいわ」
女主人は意味深に呟く。
馬車の中の暗闇に紛れていて、輪郭はおぼろげにしか見えないが、その手に持っているであろう煙管から、輝く青い煙がたゆたう。
「仕方ないのよ、こればっかりは…境界がないと私達があちらに溢れてしまうもの。
あちらはとても脆いのよ、小さなお嬢さん。あちらの人はとてもとても脆いものだから、私達が押しかけてはきっと恐怖で潰れてしまうでしょうね」
女主人が語りかけてきた。フレアと同じ言葉のはずなのに、マレフィセントに通じる言葉。マレはただ、じっと女主人の声に耳を傾けていた。彼女の声はとても気持ち良いと、本能が告げる。
「だからお眠りなさい、小さなお嬢さん」
言葉には魔力が宿る。マレは女主人の言葉のままに瞼を閉じた。そうして、歌うように声だけが瞼の裏側に響いてくる。
「すでに"越えて"しまった貴女にも、帰れる場所がどこかにあるといいわね。戻れなくなったお嬢さん」
--------------------------------------------------------
***
車輪はぐるぐる回り続ける…。
***
「おはよう、マレ」
次にマレフィセントの目が覚めたときには、すでにフレアもリノも目覚めていた。
眠気の残る瞼を苦労して持ち上げ、手の甲で瞳をごしごしとこする。大きくのびをしようとして、思わずマントがずれて角が露出しそうになる。それに気が付いたフレアが慌ててマレのマントを押さえた。
「こらっ、マレもうちょっと…!!」
その様子を見てたらしい女主人がくすりと笑った空気が流れる。女主人は何かに気が付いたように、あぁ、と小さく声を上げた。
「もうじき見えてくるころですわ、外を」
女主人の声に、思わず窓のほうを見るフレアとマレ。
「あ…」
窓の向こうの景色に、フレアが感動に、マレが驚愕にぽかんと口をあけた。二人は思わず馬車の窓を開け、大きく外に身を乗り出した。
空はまるで万華鏡。意味さえ不明な幾何学模様の星が空一面に散りばめられていて、ところどころで常にカタチを変えている。太陽と月は地平線を挟んで向かい合い、地平まで麦のような穂がなびく畑が一面に広がっている。麦、と断定できないのは、その色が自然界のもとは思えない七色に輝いているからだ。その七色の畑の上を金銀の何かが縦横無尽に飛び交っている。
「……鳥?」
縦横無尽に飛び回るのは、金色の鴎と銀色の鴉。鳥、のはずなのだが、よくよく見るとその翼の羽はトンボのように透けている。瞳は赤い宝石で、光にきらきらと反射する。
馬車は蒼い石で出来ている石橋を走っている。蒼い石橋は、ときおり一部の石が赤や黄色に点滅している。馬の蹄が当たった部分は淡く発光している。後方を振り返ると、地平線まで続いている石橋に淡い光が点々と残っている。
木々には宝石が実り、流れる川は硝子の砂で満たされている。石畳の上には蜥蜴の皮をもった猫が、金目を光らせて馬車を見送っていた。
「…まるで人の世とは思えんな」
ぼそりと、リノが険しい顔で呟いた。痛みとは何か別の、どこか畏れさえ滲ませた感情を抑えた声。
だがフレアはあまりにも美しい外の光景に目を奪われていて、リノの言葉を聞き取ることは出来なかった。だが、その声にくすくすと忍び笑いをもらす女主人。何が気に入らないのか、リノは無言でそっぽをむく。
--------------------------------------------------------
馬車の向こうの景色に心を奪われていたフレアに、後方から声がかかる。
「綺麗な赤い瞳のお嬢さん」
女主人がフレアに呼びかける。その声の中に、なにか不吉なものを感じてフレアは思わず鳥肌がたった。
振り向くと、さきほどと変わらぬ女主人のあやふやな陰影。ただ帽子の下から覗く白い肌と、煌く銀色の唇だけがはっきりと見て取れた。
「これから行く場所は、どんな怪我も病気もたちどころに消えてしまう。そこでは地位も種族も関係なくてよ、けれども一つ、あなた方は絶対に破ってはならない掟がある」
「掟…?」
フレアが鸚鵡返しに問いかけると、女主人は美しい声で、
「こちらの食べ物を口にしないこと」
と、急に女主人の声の温度が氷点まで下がった。
「果実だろうと葉のたった一枚であろうとも、決して口にしてはなりません。もし、これから出会った者達に何か勧められても、絶対に何も食べることがないように」
その言葉に、マレがぴくりと顔をあげ、リノは怪訝そうに眉間に皺をよせて上体をわずかに上げた。
「もし」
女主人は、そこで初めて、
「何か一つでも口にすれば、二度と元いた場所には戻れないのですから」
無邪気な悪意で、そう三人に告げたのであった。
--------------------------------------------------------
キャスト:アダム・クロエ
NPC:シックザール・帽子屋
場所:ヴィヴィナ渓谷→フィキサ砂漠の洞窟
――――――――――――――――
「アダム!」
慌てて、倒れてきた頭を両腕で抱き留める。くせのついた髪をはらいのけると、
蒼白になったアダムの顔が現れた。
「なんで、急に――」
うろたえながらも、とりあえず膝の上で仰向けに寝かせる。特に意味があるとは
思えなかったが、呼吸ができるなら大丈夫だろうとクロエは自分に言い聞かせた。
頬に手のひらをあててみる。顔色とは裏腹に、汗すらかいているほどの熱がある。
「…冷やさないと」
『あーあ、今度こそ駄目かもねぇ?』
「駄目にしませんっ」
軽口を叩く剣に反論するも、できることが見つからない。しばらくさまよった
視線が辿り着いたのは、横手に広がる洞窟の闇だった。
洞窟は深そうだった――ある程度の深さがあれば水も氷もある事はクロエも承知
の上だったが、この扱い慣れない身体を駆使してどこにあるかわからない氷を
探しに行くのは不可能だ。
ふ、と息をつく。無意識に両腕を自分に巻き付けて身震いする。
(寒い…)
はっ――と。
思わず洞窟の中から外に目を向ける。
いびつな丸に切り取られた砂漠の夕暮れは、濃い紫と黒い雲の影との奇妙な
まだら模様になっていた。昼間に猛威を振るった、あの灼熱はすでにない。
「夜は、冷えるんですよね」
念押しするかのように呟いて、手を伸ばしてアダムの荷物を引き寄せる。
『うん、そうだけど…って何してるの?』
ポケットからハンカチを――贈り主はコールベル製だと誇らしげに言っていたが、
そんな事はどうでもいい、ただ今は清潔でさえあればいいのだ――取出し、
アダムの上着を脱がせる。ついでに内側にある水の入った瓶を取り出すと
慎重に蓋を開ける。
扱い慣れない留め具やベルトに邪魔をされて、それだけの事をやるまでに相当な
時間を食ったものの、ただ瓶をひっくりかえさなかった事にクロエは安堵した。
四つ折りにしたハンカチをその水で濡らし、最も発熱している右目の上に乗せ、
瓶の蓋を閉じた。
引き寄せた荷物をまとめて塊にすると、そこにそっとアダムの頭を乗せてやる。
だらりと垂れた手を胸に置き、ぐったりとしている彼を数秒見つめてから、
手に瓶を持ってクロエは立ち上がった。
『どこ行くの?』
「冬を少し頂いてきます」
剣が言葉につまった隙をつくように、身を翻して洞窟の外へと飛び出してゆく。
洞窟は円柱を縦に切って寝かせたようなかたちで存在している。クロエは
横に回りこんで洞窟の屋根にあたる部分まで登っていった。ごつごつした
足場はとっかかりとしては最適だったが、ひとたび足を踏み外せば
この低い位置からでも無傷ではいられなさそうなほど尖っている。
苦労して登りきり――さっと周囲に視線を配る。
日が射さなくなった砂漠はモノトーンへと変じていた。風になびく砂が
風紋を刻む音が聞こえる。それにまぎれて、もっと奥底から漏れてくる
囁きを探す。
(…いた)
気配を感じた。足元をさぐり、手にした尖った小石で手の甲を傷つける。
いびつな傷口に血がにじむのを確認しながら、人の口を使い竜の声で唱和する。
『我 白銀(しろがね)の森から来たりし夢見鳥』
反応があった。潅木の根元から、白い砂の影から、ゆらりと透明な波紋が
さざめいて形を作る。
『地に臥す生命 気枯れ萎び 熱を帯びる ゆえに願う』
胸に抱いていた瓶の蓋を開ける。ゆるくなった蓋を取り落とさんとしっかり
握ると、傷ついた手の甲からさらに血が押し出された。
波紋はだいぶ集まってきている――水の精霊だった。やはりこの下には
地下水が流れているのだ。思ったよりも存在していてくれた。
『ここに六花の恩恵を顕さん』
ぱた、と手から血が砂に落ちた。もう辺りは暗くてその色すら伺えない。
波紋がそこに吸い込まれるように漂ってくる。集まる精霊はひとつになり、
分かれ、消えては現れるを繰り返す。
『河伯に竜の血玉を奉げる故、願い聞届け給え』
ふ、と視界がゆがみ――右の瞳から涙が一筋流れた。
(水で答えた…来る…)
砂が血を吸い込み終わると同時に、左肩と耳の間を波紋が通り過ぎる。
それに導かれるように、左の瞳からも涙が零れてくる。吐く息は白い。
クロエは慌てて瓶を地に置いた。そこにゆらりと立ち上る霧が
瓶にまとわりつき、枯れ枝を折るような音を立ち上らせて
音もなく去っていった。
「ありがとう」
最後に人の言葉で礼を言うと、瓶をそっと持ち上げる。
中には氷がかすかな星明りを反射して鈍く煌いていた。すぐに踵を
翻して、洞窟へ戻ろうと下を覗き込んだところで、クロエは動きを止めた。
そこには一人の男がいた。なんの前触れもなく、唐突に。
主のいない影のように男は黒い姿で立っていた。この砂漠において何のつもりか
知らないが、先の尖ったステッキなど持っている。
洞窟の中から漏れる光を一身に受けているのに、目深に被った艶のある
帽子のせいで、全貌は窺い知れない。
こちらが何かを言うより、男があごをあげてこちらを見るほうが一拍
早かった。
帽子のつばを手でずらすようにして簡易的に礼をしてくる。
「今晩は」
およそ自然界において存在し得ないであろうその青が、こちらの瞳を貫いて
脳髄に突き刺さる。そんな幻想じみた感覚に軽い眩暈すら覚えながら、
クロエはその男の瞳を見つめ返した。
『あー!帽子屋だー!』
「シックザール?」
突如として洞窟内から響いてきた声の主の名を呼ぶ。帽子屋と呼ばれたその
男は、無言で視線を洞窟へと向けてそちらへ歩き出した。クロエもまた
できるだけ急いで高台から降り始める。
「おやおや、酷い有様ですねぇ…」
手に持った瓶を落とさないようにしながらようやく地面について見ると、
入り口を塞ぐようにしてさきほどの男が立っていた。
こちらに背を向け、まったくどうしようもないという風にかぶりを
左右に振っている。
剣の声は依然として明るい。まるで冗談でも話すかのようにうきうきと
してすらいた。
『見て見て帽子屋ー、アダムこんなんなっちゃった☆』
「全くいつもいつも…これは一種の才能とでも言えましょうか」
『まーたしかに凡人じゃここまでこうならないよねー。あ、泡ふいてる』
何から何まで、男を装飾するのは「違和感」という言葉でしかなかった。
砂漠の真ん中でその格好でいる違和感、
仕草や口調はあくまでも丁寧でありながら警戒心を拭い去ることのない違和感、
浮かぶ笑みの、鮮烈な蒼い瞳の。
違和感。
「貴方は――いえ、ごめんなさい」
誰何を問おうとするも、目的を思い出して中断する。凍った水筒を
冷えた右手から左手に移し変えると、その男が立っている位置を
通り過ぎてクロエは洞窟へと戻った。
アダムの目を覆うハンカチを凍り付いた瓶にあてがい、冷やす。
「急に倒れて…」
「これはとんだご迷惑をおかけしましたねぇ、お嬢さん」
アダムの口元を拭いながら言うと、やはり男は丁寧に返してきた。
そう、彼は落ち着きすぎていた。見た感じでは彼らは顔見知りのようだが、
そうとなればもっと慌てふためいていてもいいのではないか。
『クロエ、それなんで凍ってるの?』
「水の精霊にお願いしました」
「ほう」
問いかけたのはシックザールだったが、あいづちを打ったのは帽子屋とやら
だった。いつの間に近づいたのかすぐ真後ろに立って、クロエの頭越しに
アダムの顔をうかがっている。
ふと目があって――その蒼すぎる瞳に気おされるように、我知らずクロエは
さきほど傷つけた手をかばうように胸にあてた。
「クロエといいます。貴方は……貴方は、誰です?」
やっとの問いかけに、男が笑う。
まるでそれは、クロエの手にできた傷口のように鋭く、赤かった。
――――――――――――――――
NPC:シックザール・帽子屋
場所:ヴィヴィナ渓谷→フィキサ砂漠の洞窟
――――――――――――――――
「アダム!」
慌てて、倒れてきた頭を両腕で抱き留める。くせのついた髪をはらいのけると、
蒼白になったアダムの顔が現れた。
「なんで、急に――」
うろたえながらも、とりあえず膝の上で仰向けに寝かせる。特に意味があるとは
思えなかったが、呼吸ができるなら大丈夫だろうとクロエは自分に言い聞かせた。
頬に手のひらをあててみる。顔色とは裏腹に、汗すらかいているほどの熱がある。
「…冷やさないと」
『あーあ、今度こそ駄目かもねぇ?』
「駄目にしませんっ」
軽口を叩く剣に反論するも、できることが見つからない。しばらくさまよった
視線が辿り着いたのは、横手に広がる洞窟の闇だった。
洞窟は深そうだった――ある程度の深さがあれば水も氷もある事はクロエも承知
の上だったが、この扱い慣れない身体を駆使してどこにあるかわからない氷を
探しに行くのは不可能だ。
ふ、と息をつく。無意識に両腕を自分に巻き付けて身震いする。
(寒い…)
はっ――と。
思わず洞窟の中から外に目を向ける。
いびつな丸に切り取られた砂漠の夕暮れは、濃い紫と黒い雲の影との奇妙な
まだら模様になっていた。昼間に猛威を振るった、あの灼熱はすでにない。
「夜は、冷えるんですよね」
念押しするかのように呟いて、手を伸ばしてアダムの荷物を引き寄せる。
『うん、そうだけど…って何してるの?』
ポケットからハンカチを――贈り主はコールベル製だと誇らしげに言っていたが、
そんな事はどうでもいい、ただ今は清潔でさえあればいいのだ――取出し、
アダムの上着を脱がせる。ついでに内側にある水の入った瓶を取り出すと
慎重に蓋を開ける。
扱い慣れない留め具やベルトに邪魔をされて、それだけの事をやるまでに相当な
時間を食ったものの、ただ瓶をひっくりかえさなかった事にクロエは安堵した。
四つ折りにしたハンカチをその水で濡らし、最も発熱している右目の上に乗せ、
瓶の蓋を閉じた。
引き寄せた荷物をまとめて塊にすると、そこにそっとアダムの頭を乗せてやる。
だらりと垂れた手を胸に置き、ぐったりとしている彼を数秒見つめてから、
手に瓶を持ってクロエは立ち上がった。
『どこ行くの?』
「冬を少し頂いてきます」
剣が言葉につまった隙をつくように、身を翻して洞窟の外へと飛び出してゆく。
洞窟は円柱を縦に切って寝かせたようなかたちで存在している。クロエは
横に回りこんで洞窟の屋根にあたる部分まで登っていった。ごつごつした
足場はとっかかりとしては最適だったが、ひとたび足を踏み外せば
この低い位置からでも無傷ではいられなさそうなほど尖っている。
苦労して登りきり――さっと周囲に視線を配る。
日が射さなくなった砂漠はモノトーンへと変じていた。風になびく砂が
風紋を刻む音が聞こえる。それにまぎれて、もっと奥底から漏れてくる
囁きを探す。
(…いた)
気配を感じた。足元をさぐり、手にした尖った小石で手の甲を傷つける。
いびつな傷口に血がにじむのを確認しながら、人の口を使い竜の声で唱和する。
『我 白銀(しろがね)の森から来たりし夢見鳥』
反応があった。潅木の根元から、白い砂の影から、ゆらりと透明な波紋が
さざめいて形を作る。
『地に臥す生命 気枯れ萎び 熱を帯びる ゆえに願う』
胸に抱いていた瓶の蓋を開ける。ゆるくなった蓋を取り落とさんとしっかり
握ると、傷ついた手の甲からさらに血が押し出された。
波紋はだいぶ集まってきている――水の精霊だった。やはりこの下には
地下水が流れているのだ。思ったよりも存在していてくれた。
『ここに六花の恩恵を顕さん』
ぱた、と手から血が砂に落ちた。もう辺りは暗くてその色すら伺えない。
波紋がそこに吸い込まれるように漂ってくる。集まる精霊はひとつになり、
分かれ、消えては現れるを繰り返す。
『河伯に竜の血玉を奉げる故、願い聞届け給え』
ふ、と視界がゆがみ――右の瞳から涙が一筋流れた。
(水で答えた…来る…)
砂が血を吸い込み終わると同時に、左肩と耳の間を波紋が通り過ぎる。
それに導かれるように、左の瞳からも涙が零れてくる。吐く息は白い。
クロエは慌てて瓶を地に置いた。そこにゆらりと立ち上る霧が
瓶にまとわりつき、枯れ枝を折るような音を立ち上らせて
音もなく去っていった。
「ありがとう」
最後に人の言葉で礼を言うと、瓶をそっと持ち上げる。
中には氷がかすかな星明りを反射して鈍く煌いていた。すぐに踵を
翻して、洞窟へ戻ろうと下を覗き込んだところで、クロエは動きを止めた。
そこには一人の男がいた。なんの前触れもなく、唐突に。
主のいない影のように男は黒い姿で立っていた。この砂漠において何のつもりか
知らないが、先の尖ったステッキなど持っている。
洞窟の中から漏れる光を一身に受けているのに、目深に被った艶のある
帽子のせいで、全貌は窺い知れない。
こちらが何かを言うより、男があごをあげてこちらを見るほうが一拍
早かった。
帽子のつばを手でずらすようにして簡易的に礼をしてくる。
「今晩は」
およそ自然界において存在し得ないであろうその青が、こちらの瞳を貫いて
脳髄に突き刺さる。そんな幻想じみた感覚に軽い眩暈すら覚えながら、
クロエはその男の瞳を見つめ返した。
『あー!帽子屋だー!』
「シックザール?」
突如として洞窟内から響いてきた声の主の名を呼ぶ。帽子屋と呼ばれたその
男は、無言で視線を洞窟へと向けてそちらへ歩き出した。クロエもまた
できるだけ急いで高台から降り始める。
「おやおや、酷い有様ですねぇ…」
手に持った瓶を落とさないようにしながらようやく地面について見ると、
入り口を塞ぐようにしてさきほどの男が立っていた。
こちらに背を向け、まったくどうしようもないという風にかぶりを
左右に振っている。
剣の声は依然として明るい。まるで冗談でも話すかのようにうきうきと
してすらいた。
『見て見て帽子屋ー、アダムこんなんなっちゃった☆』
「全くいつもいつも…これは一種の才能とでも言えましょうか」
『まーたしかに凡人じゃここまでこうならないよねー。あ、泡ふいてる』
何から何まで、男を装飾するのは「違和感」という言葉でしかなかった。
砂漠の真ん中でその格好でいる違和感、
仕草や口調はあくまでも丁寧でありながら警戒心を拭い去ることのない違和感、
浮かぶ笑みの、鮮烈な蒼い瞳の。
違和感。
「貴方は――いえ、ごめんなさい」
誰何を問おうとするも、目的を思い出して中断する。凍った水筒を
冷えた右手から左手に移し変えると、その男が立っている位置を
通り過ぎてクロエは洞窟へと戻った。
アダムの目を覆うハンカチを凍り付いた瓶にあてがい、冷やす。
「急に倒れて…」
「これはとんだご迷惑をおかけしましたねぇ、お嬢さん」
アダムの口元を拭いながら言うと、やはり男は丁寧に返してきた。
そう、彼は落ち着きすぎていた。見た感じでは彼らは顔見知りのようだが、
そうとなればもっと慌てふためいていてもいいのではないか。
『クロエ、それなんで凍ってるの?』
「水の精霊にお願いしました」
「ほう」
問いかけたのはシックザールだったが、あいづちを打ったのは帽子屋とやら
だった。いつの間に近づいたのかすぐ真後ろに立って、クロエの頭越しに
アダムの顔をうかがっている。
ふと目があって――その蒼すぎる瞳に気おされるように、我知らずクロエは
さきほど傷つけた手をかばうように胸にあてた。
「クロエといいます。貴方は……貴方は、誰です?」
やっとの問いかけに、男が笑う。
まるでそれは、クロエの手にできた傷口のように鋭く、赤かった。
――――――――――――――――
キャスト:アルト オルレアン
場所:正統エディウス・イズフェルミア禁区
--------------------------------------------------------------------------
――迫り来る不定の異形。
アルトは、その前に一人で立つ。
さて、困った。後は任せたと言われたが、打てる手はもう残っていない。
短剣はなくしてしまった。もう武器はない。いや、あったとしても通用しないか。
足元がふらつく。ひどく頭が痛い。先ほど自分で刃を立てた腕の傷が、ずぐずぐと疼
いている。熱が這い上がる。眩暈がする。何かないかと必死で考えようとする思考が
乱れて解れていく。わかっている、手があろうとなかろうと、これが最後だ。
生きるか、死ぬか? 死に方の選択に過ぎないのかも知れない。
だがオルレアンに頷いてしまったのだから足掻くしかない。必死に考える。奇策か、
奇跡か、とにかくそういうものを。闇精霊が騒いでいる。おなじことばかり繰り返し
て。うるさい、黙れ。ちりちりと首筋が痺れる。闇精霊が騒いでいる。人に憑かねば
生きられない――ああ、それは私のことか。ユーリィ。
溶けて頽れた瓦礫の廃墟。すべての絵の具をぶちまけた色の空には黒い月が出てい
る。人造精霊、と呼ばれる化物が、迫ってくる。速いようにも遅いようにも見えた。
猶予はあるのか、ないのか。どちらにしろ数秒の差だろう。
「―― “Siehst, Vater, du den Erlko"nig nicht ?
den Erlenko"nig mit Kron und Schweif;” 」
誰か答えてくれと思いながら口の中で呪文を呟くが、ここには狂っていない自然の
精霊はない。何も答えない。頭が痛い。剣を掲げるように、魔術を放つように、傷つ
いた腕だけ上げる。血と黒い粘液に塗れている。がたがたと震えているのが見える。
決して浅くない裂傷は、灼けたように痛む。いや、熱いのは全身か。
黒が迫る。オイデ、と影精霊が騒ぐ。
その声が聞こえた途端、雲間から注ぐ日が闇を払うように、悩みが晴れた。簡単な
ことだ。後は知らない。どうなるかもわからない。だが、このまま詰むよりはきっと
いい。
黒が迫る。黒が迫る。影精霊が騒ぐ。
アルトは叫んだ。呪文でも、何でもなく。
「 Gehen Sie fort !!! 」
(出て行け !!!)
ぞくん。背骨を抜かれるような悪寒。膝が崩れる。倒れこむのを、手をついて防ぐ。
目の前が暗転する。今まで自分だったものがごっそりと抜け落ちる。吐き気がする。
解き放たれた影が、それ自体の存在と相反する喜びでもって人造精霊へ殺到する。
“同胞ヨ”、と影が囁く。“サア、共ニ”。
そこから前は聞こえなかった。光とも錯覚する暗さが視界を埋め尽くす。
それでも、勢いがついた黒は迫ってきた。
影を纏わせて、互いに喰い合い、或いは喰われ合い、崩壊しようとしていたが、そ
れは緩やかなものだった。逃げるにも足が動かない。
潰される。
死ぬ?
恐い。嫌だ。
恐い恐い恐い恐い恐い――助けてくれ!!
もう、あなたのためなんて言い訳しないから。
弱さを切り捨てて澄ましたふりなんてしないから!
衝撃。
そして意識が途切れた。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
影が占めていた空洞から、ひどい虚脱感が湧き上がる。
壊れた壁から、すべて零れ落ちてしまいそうな錯覚。
夢うつつで混乱した感情を収める方法がわからない。
恐いのか、悲しいのか。これで帰れる?
帰ったら連れはまだいるだろうか。
黒い月が浮いている。
人間の声が、聞こえる。内容はわからない。
すぐ近くに黒い影が立っている。のを、朦朧と感じ取る。
そうだ。こいつのことをすっかり忘れていた。
変態紳士。名前は忘れた。
エディウスは最悪の国だ。
-----------------------------------------------------------
場所:正統エディウス・イズフェルミア禁区
--------------------------------------------------------------------------
――迫り来る不定の異形。
アルトは、その前に一人で立つ。
さて、困った。後は任せたと言われたが、打てる手はもう残っていない。
短剣はなくしてしまった。もう武器はない。いや、あったとしても通用しないか。
足元がふらつく。ひどく頭が痛い。先ほど自分で刃を立てた腕の傷が、ずぐずぐと疼
いている。熱が這い上がる。眩暈がする。何かないかと必死で考えようとする思考が
乱れて解れていく。わかっている、手があろうとなかろうと、これが最後だ。
生きるか、死ぬか? 死に方の選択に過ぎないのかも知れない。
だがオルレアンに頷いてしまったのだから足掻くしかない。必死に考える。奇策か、
奇跡か、とにかくそういうものを。闇精霊が騒いでいる。おなじことばかり繰り返し
て。うるさい、黙れ。ちりちりと首筋が痺れる。闇精霊が騒いでいる。人に憑かねば
生きられない――ああ、それは私のことか。ユーリィ。
溶けて頽れた瓦礫の廃墟。すべての絵の具をぶちまけた色の空には黒い月が出てい
る。人造精霊、と呼ばれる化物が、迫ってくる。速いようにも遅いようにも見えた。
猶予はあるのか、ないのか。どちらにしろ数秒の差だろう。
「―― “Siehst, Vater, du den Erlko"nig nicht ?
den Erlenko"nig mit Kron und Schweif;” 」
誰か答えてくれと思いながら口の中で呪文を呟くが、ここには狂っていない自然の
精霊はない。何も答えない。頭が痛い。剣を掲げるように、魔術を放つように、傷つ
いた腕だけ上げる。血と黒い粘液に塗れている。がたがたと震えているのが見える。
決して浅くない裂傷は、灼けたように痛む。いや、熱いのは全身か。
黒が迫る。オイデ、と影精霊が騒ぐ。
その声が聞こえた途端、雲間から注ぐ日が闇を払うように、悩みが晴れた。簡単な
ことだ。後は知らない。どうなるかもわからない。だが、このまま詰むよりはきっと
いい。
黒が迫る。黒が迫る。影精霊が騒ぐ。
アルトは叫んだ。呪文でも、何でもなく。
「 Gehen Sie fort !!! 」
(出て行け !!!)
ぞくん。背骨を抜かれるような悪寒。膝が崩れる。倒れこむのを、手をついて防ぐ。
目の前が暗転する。今まで自分だったものがごっそりと抜け落ちる。吐き気がする。
解き放たれた影が、それ自体の存在と相反する喜びでもって人造精霊へ殺到する。
“同胞ヨ”、と影が囁く。“サア、共ニ”。
そこから前は聞こえなかった。光とも錯覚する暗さが視界を埋め尽くす。
それでも、勢いがついた黒は迫ってきた。
影を纏わせて、互いに喰い合い、或いは喰われ合い、崩壊しようとしていたが、そ
れは緩やかなものだった。逃げるにも足が動かない。
潰される。
死ぬ?
恐い。嫌だ。
恐い恐い恐い恐い恐い――助けてくれ!!
もう、あなたのためなんて言い訳しないから。
弱さを切り捨てて澄ましたふりなんてしないから!
衝撃。
そして意識が途切れた。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
影が占めていた空洞から、ひどい虚脱感が湧き上がる。
壊れた壁から、すべて零れ落ちてしまいそうな錯覚。
夢うつつで混乱した感情を収める方法がわからない。
恐いのか、悲しいのか。これで帰れる?
帰ったら連れはまだいるだろうか。
黒い月が浮いている。
人間の声が、聞こえる。内容はわからない。
すぐ近くに黒い影が立っている。のを、朦朧と感じ取る。
そうだ。こいつのことをすっかり忘れていた。
変態紳士。名前は忘れた。
エディウスは最悪の国だ。
-----------------------------------------------------------
キャスト:アダム・クロエ
NPC:シックザール・帽子屋
場所:ヴィヴィナ渓谷→フィキサ砂漠の洞窟
――――――――――――――――
クロエは恐る恐るといった風に口を開いた。
「…アダムの、お知り合いですか?」
『ちなみに第三者から見て、この状況でいきなり出てくるのってめっちゃめちゃ怪しい人物にしか思えないヨ☆』
いぶかしむクロエの疑念を代弁するかのように、シックザールが暢気な声で帽子屋をからかう。帽子屋が首をかしげていると、アダムとどんな関係の者か言わないとネ☆、とシックザールがさらにフォローを入れた。
「ふむ」
しかし、そんな当たり前の問いかけに、帽子屋は三日月型の笑みのままで小首を傾げる。
「そうですね…得意先と下請け業者の間柄とでもいいましょうか。はたまた需要と供給とも言えなくもないですが」
『いや帽子屋ってば。クロエさんが聞いてるのはそういう事じゃなくてー』
シックザールの答えの通り、クロエは帽子屋の言う「とくいさき」だの「きょうきゅう」だのといった単語に首をかしげるばかりだった。はて、と帽子屋はしばらく思案するように口を噤んで顎へ指をあてて考え込んだ後、
「あぁ、人間関係というものですか?」
『そうそう、それよソレ』
シックザールの相槌に、今度こそ納得いったとばかりに帽子屋もうなずく。
「失礼、久しくそういう質問をされなかったものですからつい忘れていました…そうですね、雇用主とでも言っておきましょうか」
『う、ウーン…えーとね、帽子屋はアダムの友達ダヨ。だから怪しいけど怪しくないから大丈夫!』
帽子屋のピントのずれた返答にまたも困惑するクロエに、シックザールがフォローを入れた。
「あの、アダムが…」
「えぇ、ところでシックザール。あの魔眼封じの片眼鏡は一体どうしたのですか?」
『川に落っことしたヨ』
「………」
無言の時がしばし流れた。
『いやどう考えてもあの高さから落ちて命があるだけマシっていうかー、でもあれないとアダム死んじゃうから変わりないけど…』
「アダムは死んじゃ駄目ですっ!」
クロエがもはや涙目になりつつも、ムキになって叫んだ。「僕だってアダム死んじゃやだもーん!!」と叫ぶシックザール達を眺めていた帽子屋は、疲れたように溜息をつきつつも、
「…まぁ、とりあえずアレの事はアダムが目を覚ましてからにしましょう。遊んでいる暇はないようですからね」
アダムの傍らに膝をつくと、左手をアダムの右目にかざす。左手に天体時計のような、規則的な円形とそれに侍る数字、そして秒針のような模様が青く発光しながら複雑に重なり合って浮かび上がる。
と、すぐに光は消えて、帽子屋が手をひっこめて立ち上がった。
「急場凌ぎですが、これで出血はほぼ止まるはずです」
『何したのー?』
「少し悪戯を」
何か楽しそうに微笑み、シックザールの返答には含みを持たせ唇に指を当て、沈黙のポーズをとる帽子屋。クロエが「これってなんですか?」と尋ねると、帽子屋が答える前にシックザールが『いけないことしたときの合図ダヨ☆』とクロエに耳打ちした。
-------------------------------------------
「ところで」
帽子屋はさも遺憾とばかりに、なぜか反発めいたものを感じさせながらクロエに向きなおった。
「貴女のような存在が、なぜアダムと一緒に?」
「それ、は…」
何をどう説明するべきか、いろんなことを喋ろうとして混乱してしまったらしく、口をぱくぱくさせるクロエ。しかし、はたと彼の言葉の中にあったある単語のニュアンスに気がついて、びっくりするように口元に両手を重ねて帽子屋を見上げた。
「あの、もしかして私のこと…?」
「見ればわかりますよ、場慣れしてない姿で一目瞭然にね」
『いや、それは帽子屋の偏見だって』
シックザールが珍しく不満そうに割って入った。
『変なの、今日は機嫌が悪いとか?』
「別に。私にそういう状態異常を起こすような式は入っていませんから」
『嘘つけ、思いっきりクロエさんの事苛めてるジャン』
シックザールがクロエの擁護するのが気に入らないのか、帽子屋が苛立たしげにステッキで床を叩く。
「……えぇと、あの…」
どう対処していいかわからないクロエは、ただ困惑するかしない。
-------------------------------------------
アダムの真上から、大きくていびつな三日月型の笑みが借用書を持って迫りくる。
「この糞帽子…!!返済は次の次の満月までってぎゃあああぁぁ…、あ?」
目をぱっちりと開くと、冷たく暗い洞窟の岩壁が見えた。先ほどまでアダムを押し潰そうとしていた三日月と借用書はどこにもなかった。
『うわぁ、ある意味正夢☆おはようアダムー』
自身の絶叫が「あーあー・・・」と洞窟の奥まで木霊していくのと、能天気な相棒の声がアダムの緊張を無くしていく。自分が固い土に寝かされていることを感触として知り、ゆるゆるとこれまでの経緯を思い出してきた。
「…って夢か」
「…アダム?」
クロエが目をこすりながら、うとうとと上体を起こしている。竜に戻らずに徹夜で人型のまま看病をしてくれたのか。思わず涙腺が緩みかけ、感動の男泣きをしそうになった次の瞬間、
「おはようございます、実にいい朝だ。ねぇアダム?」
その涙が浮かぶ瞳だけではなく顔ごと、帽子屋の黒く艶やかな皮靴に踏みつぶされた。
****
「この外道!!非道!!ついでに馬鹿野郎!てめー、一か月ぶりぐらいにあった友達(ダチ)になんてことしやがる!」
洞窟内に怒号が響く。
アダムが靴痕生々しい顔面を抑えながら、憤怒のあまりに帽子屋に掴みかかろうとしていた。その様子を、むしろそよ風とばかりに態度で流す帽子屋。
「もちろん親愛なる友人を少しでも早く目覚めさせようと思いまして、絶妙の力加減と綿密に計算した角度から挨拶を、と」
「何が絶妙の力加減と綿密に計算した角度だこの変質者!!てめー今すぐ食いモン喉に詰まらせて死ね!」
「あ、アダム…大丈夫ですか?」
今にも喧嘩に発展しそうな二人の合間にクロエが入る。心配そうな顔で、アダムの顔をそっと両手で包み込んで尋ねる。
「あ、大丈夫大丈夫。全然平気だから」
アダムは先刻の怒りもどこへやら、慌てて笑顔を作った。
「私もああやって挨拶するべきだったとはしらず…ごめんなさいアダム」
「そっち!?それはダメっ!それ違うから絶対っ!!」
****
「…で、魔封じの片眼鏡は川に落して自身も落下し、挙句の果てに食料も水も防寒具もないまま砂漠を越えようとした、と」
アダムは「お前のその服装も俺はどうかと思う!」という切なる叫びをぐっと抑えた。踏みつけられた右目は、何か強制的な力で開くことができない。それが帽子屋の手によって応急処置されたことを先ほどクロエから聞かされてしまったため、強く帽子屋に物言いをしにくい状況になっているからだ。
『補足補足ー☆ついでに異常眼の暴走で大出血!』
「…なぁシックザール。お前もしかして俺のこと嫌い?」
陽気な声で持ち主を不利に追い込む刀に、アダムは溜息をつきながら尋ねると、
『一番大好き!』
「あのね……」
シックザールの無邪気な発言に、がっくりと肩を落とすアダム。
「事はどうあれまずは国境を越えてからですね。そちらの彼女のことも、アダムの眼鏡のことも」
帽子屋はさも面倒だという雰囲気をあますところなく伝えてきた。アダムは徹底抗戦の構えを見せ(単にそっぽをむいて唇を尖らせただけだったが)、ふと思いついた疑問を口にした。
「てかさ、素朴な疑問。お前どっから沸いてきた?」
「私は液体ではないですよアダム」
帽子屋はアダムの発言を一蹴すると、つと洞窟の奥のほうを指し示す。
「もともとこの洞窟は、盗賊や夜盗が使う裏通路だと盗賊ギルドの方から。なんでも南はゾミンから王城オークレール、北は新生エディウスにまで通じているだとか」
最も、途中の王城付近まで行くにはそうとうの難所を越えなければならず、また王城の地下には王の命令で作られた怪しげな化け物が蔓延っていて城にはたどり着けないだとか、と帽子屋は丁寧に付け足した。
「じゃあお前、ゾミンから来たってこと?」
「えぇ、ギルドであなたがエルフの子供とラドフォードに向かったと聞きましたが、ラドフォードでエルフの樹林兵が暴れだしだとかで、正規の街道が町の自警団や正統軍によって封鎖されてしまったので、こんな辺鄙な道のりでラドフォードまで向かおうと歩いてきたわけですが」
帽子屋の発言に、顔を曇らせる二人。
「…やれやれ。やはりあなたがたが関わってましたか…。他にも街では、人食い竜が出たとかで、軍が我が物顔で街を闊歩していましたが…クリノクリアの夢見鳥に人食いの習性があったとは驚きですね」
「そんな…!」
必要以上にとげとげしい物言いに、クロエが声を上げようとしてきつく唇をかみしめて俯く。何か思うところがあるのだろうか、膝上に握りしめた拳を震わせて必死に瞼をつぶっていた。
「てめ…!」
『ねーそんなことよりもとりあえず街の周辺まで行こうよー。そうしないとアダムいつ倒れるかわかんないし、とにかく今は早く進もうよー』
何かにつけてクロエにつっかかる帽子屋に怒りを覚えながらも、なぜ彼がそこまで彼女を嫌うのか…アダムにもシックザールにもさっぱりわからなかった。もちろん矢を向けられたクロエもだったが…実をいえば、帽子屋本人さえよくわからなかったのである。
-------------------------------------------
NPC:シックザール・帽子屋
場所:ヴィヴィナ渓谷→フィキサ砂漠の洞窟
――――――――――――――――
クロエは恐る恐るといった風に口を開いた。
「…アダムの、お知り合いですか?」
『ちなみに第三者から見て、この状況でいきなり出てくるのってめっちゃめちゃ怪しい人物にしか思えないヨ☆』
いぶかしむクロエの疑念を代弁するかのように、シックザールが暢気な声で帽子屋をからかう。帽子屋が首をかしげていると、アダムとどんな関係の者か言わないとネ☆、とシックザールがさらにフォローを入れた。
「ふむ」
しかし、そんな当たり前の問いかけに、帽子屋は三日月型の笑みのままで小首を傾げる。
「そうですね…得意先と下請け業者の間柄とでもいいましょうか。はたまた需要と供給とも言えなくもないですが」
『いや帽子屋ってば。クロエさんが聞いてるのはそういう事じゃなくてー』
シックザールの答えの通り、クロエは帽子屋の言う「とくいさき」だの「きょうきゅう」だのといった単語に首をかしげるばかりだった。はて、と帽子屋はしばらく思案するように口を噤んで顎へ指をあてて考え込んだ後、
「あぁ、人間関係というものですか?」
『そうそう、それよソレ』
シックザールの相槌に、今度こそ納得いったとばかりに帽子屋もうなずく。
「失礼、久しくそういう質問をされなかったものですからつい忘れていました…そうですね、雇用主とでも言っておきましょうか」
『う、ウーン…えーとね、帽子屋はアダムの友達ダヨ。だから怪しいけど怪しくないから大丈夫!』
帽子屋のピントのずれた返答にまたも困惑するクロエに、シックザールがフォローを入れた。
「あの、アダムが…」
「えぇ、ところでシックザール。あの魔眼封じの片眼鏡は一体どうしたのですか?」
『川に落っことしたヨ』
「………」
無言の時がしばし流れた。
『いやどう考えてもあの高さから落ちて命があるだけマシっていうかー、でもあれないとアダム死んじゃうから変わりないけど…』
「アダムは死んじゃ駄目ですっ!」
クロエがもはや涙目になりつつも、ムキになって叫んだ。「僕だってアダム死んじゃやだもーん!!」と叫ぶシックザール達を眺めていた帽子屋は、疲れたように溜息をつきつつも、
「…まぁ、とりあえずアレの事はアダムが目を覚ましてからにしましょう。遊んでいる暇はないようですからね」
アダムの傍らに膝をつくと、左手をアダムの右目にかざす。左手に天体時計のような、規則的な円形とそれに侍る数字、そして秒針のような模様が青く発光しながら複雑に重なり合って浮かび上がる。
と、すぐに光は消えて、帽子屋が手をひっこめて立ち上がった。
「急場凌ぎですが、これで出血はほぼ止まるはずです」
『何したのー?』
「少し悪戯を」
何か楽しそうに微笑み、シックザールの返答には含みを持たせ唇に指を当て、沈黙のポーズをとる帽子屋。クロエが「これってなんですか?」と尋ねると、帽子屋が答える前にシックザールが『いけないことしたときの合図ダヨ☆』とクロエに耳打ちした。
-------------------------------------------
「ところで」
帽子屋はさも遺憾とばかりに、なぜか反発めいたものを感じさせながらクロエに向きなおった。
「貴女のような存在が、なぜアダムと一緒に?」
「それ、は…」
何をどう説明するべきか、いろんなことを喋ろうとして混乱してしまったらしく、口をぱくぱくさせるクロエ。しかし、はたと彼の言葉の中にあったある単語のニュアンスに気がついて、びっくりするように口元に両手を重ねて帽子屋を見上げた。
「あの、もしかして私のこと…?」
「見ればわかりますよ、場慣れしてない姿で一目瞭然にね」
『いや、それは帽子屋の偏見だって』
シックザールが珍しく不満そうに割って入った。
『変なの、今日は機嫌が悪いとか?』
「別に。私にそういう状態異常を起こすような式は入っていませんから」
『嘘つけ、思いっきりクロエさんの事苛めてるジャン』
シックザールがクロエの擁護するのが気に入らないのか、帽子屋が苛立たしげにステッキで床を叩く。
「……えぇと、あの…」
どう対処していいかわからないクロエは、ただ困惑するかしない。
-------------------------------------------
アダムの真上から、大きくていびつな三日月型の笑みが借用書を持って迫りくる。
「この糞帽子…!!返済は次の次の満月までってぎゃあああぁぁ…、あ?」
目をぱっちりと開くと、冷たく暗い洞窟の岩壁が見えた。先ほどまでアダムを押し潰そうとしていた三日月と借用書はどこにもなかった。
『うわぁ、ある意味正夢☆おはようアダムー』
自身の絶叫が「あーあー・・・」と洞窟の奥まで木霊していくのと、能天気な相棒の声がアダムの緊張を無くしていく。自分が固い土に寝かされていることを感触として知り、ゆるゆるとこれまでの経緯を思い出してきた。
「…って夢か」
「…アダム?」
クロエが目をこすりながら、うとうとと上体を起こしている。竜に戻らずに徹夜で人型のまま看病をしてくれたのか。思わず涙腺が緩みかけ、感動の男泣きをしそうになった次の瞬間、
「おはようございます、実にいい朝だ。ねぇアダム?」
その涙が浮かぶ瞳だけではなく顔ごと、帽子屋の黒く艶やかな皮靴に踏みつぶされた。
****
「この外道!!非道!!ついでに馬鹿野郎!てめー、一か月ぶりぐらいにあった友達(ダチ)になんてことしやがる!」
洞窟内に怒号が響く。
アダムが靴痕生々しい顔面を抑えながら、憤怒のあまりに帽子屋に掴みかかろうとしていた。その様子を、むしろそよ風とばかりに態度で流す帽子屋。
「もちろん親愛なる友人を少しでも早く目覚めさせようと思いまして、絶妙の力加減と綿密に計算した角度から挨拶を、と」
「何が絶妙の力加減と綿密に計算した角度だこの変質者!!てめー今すぐ食いモン喉に詰まらせて死ね!」
「あ、アダム…大丈夫ですか?」
今にも喧嘩に発展しそうな二人の合間にクロエが入る。心配そうな顔で、アダムの顔をそっと両手で包み込んで尋ねる。
「あ、大丈夫大丈夫。全然平気だから」
アダムは先刻の怒りもどこへやら、慌てて笑顔を作った。
「私もああやって挨拶するべきだったとはしらず…ごめんなさいアダム」
「そっち!?それはダメっ!それ違うから絶対っ!!」
****
「…で、魔封じの片眼鏡は川に落して自身も落下し、挙句の果てに食料も水も防寒具もないまま砂漠を越えようとした、と」
アダムは「お前のその服装も俺はどうかと思う!」という切なる叫びをぐっと抑えた。踏みつけられた右目は、何か強制的な力で開くことができない。それが帽子屋の手によって応急処置されたことを先ほどクロエから聞かされてしまったため、強く帽子屋に物言いをしにくい状況になっているからだ。
『補足補足ー☆ついでに異常眼の暴走で大出血!』
「…なぁシックザール。お前もしかして俺のこと嫌い?」
陽気な声で持ち主を不利に追い込む刀に、アダムは溜息をつきながら尋ねると、
『一番大好き!』
「あのね……」
シックザールの無邪気な発言に、がっくりと肩を落とすアダム。
「事はどうあれまずは国境を越えてからですね。そちらの彼女のことも、アダムの眼鏡のことも」
帽子屋はさも面倒だという雰囲気をあますところなく伝えてきた。アダムは徹底抗戦の構えを見せ(単にそっぽをむいて唇を尖らせただけだったが)、ふと思いついた疑問を口にした。
「てかさ、素朴な疑問。お前どっから沸いてきた?」
「私は液体ではないですよアダム」
帽子屋はアダムの発言を一蹴すると、つと洞窟の奥のほうを指し示す。
「もともとこの洞窟は、盗賊や夜盗が使う裏通路だと盗賊ギルドの方から。なんでも南はゾミンから王城オークレール、北は新生エディウスにまで通じているだとか」
最も、途中の王城付近まで行くにはそうとうの難所を越えなければならず、また王城の地下には王の命令で作られた怪しげな化け物が蔓延っていて城にはたどり着けないだとか、と帽子屋は丁寧に付け足した。
「じゃあお前、ゾミンから来たってこと?」
「えぇ、ギルドであなたがエルフの子供とラドフォードに向かったと聞きましたが、ラドフォードでエルフの樹林兵が暴れだしだとかで、正規の街道が町の自警団や正統軍によって封鎖されてしまったので、こんな辺鄙な道のりでラドフォードまで向かおうと歩いてきたわけですが」
帽子屋の発言に、顔を曇らせる二人。
「…やれやれ。やはりあなたがたが関わってましたか…。他にも街では、人食い竜が出たとかで、軍が我が物顔で街を闊歩していましたが…クリノクリアの夢見鳥に人食いの習性があったとは驚きですね」
「そんな…!」
必要以上にとげとげしい物言いに、クロエが声を上げようとしてきつく唇をかみしめて俯く。何か思うところがあるのだろうか、膝上に握りしめた拳を震わせて必死に瞼をつぶっていた。
「てめ…!」
『ねーそんなことよりもとりあえず街の周辺まで行こうよー。そうしないとアダムいつ倒れるかわかんないし、とにかく今は早く進もうよー』
何かにつけてクロエにつっかかる帽子屋に怒りを覚えながらも、なぜ彼がそこまで彼女を嫌うのか…アダムにもシックザールにもさっぱりわからなかった。もちろん矢を向けられたクロエもだったが…実をいえば、帽子屋本人さえよくわからなかったのである。
-------------------------------------------