キャスト:マレフィセント・フレア
NPC:リノツェロス・宿屋の女将
場所:クーロン/宿屋の食堂
―――――――――――――――
ピークを過ぎた食堂は落ち着きを取り戻していた。
少し前には向こうのテーブルで喧嘩が始まったりもしていたが、
どうやらおさまったようだ。
「すまない、遅くなってしまって」
「いや、おかげで助かった」
腕の中で泣き疲れて眠る少女の背中をさすりながら、
フレアはリノの顔を見た。
「昨日はあまり眠れなくて…」
寝不足で頭の中に芯があるような感覚。記憶の暗闇の中では
幽鬼のように笑う一人の男。
あのいけすかない男にここまで狂わされている自分に腹が立つ。
「そうか」
というリノの言葉は簡潔だったが、決して冷淡なものではなかった。
フレアは軽く微笑んでから、すぐに真顔に戻って言葉を続ける。
「それで…これは」
マレフィセントが握り締めている、青い布の包みを目で示す。
しっかり握られているので無理矢理引き剥がすのも可哀想だったため、
まだ断片しか見られなかったが。
「確かなのは、ただの木炭ではないという事くらいか」
それは冗談に聞こえ無くもなかったが、リノの表情に変わりはない。
「これを目にした途端、なぜか非常に興味を示した」
再び少女の手に握られているものを見やるが、それを遮るようなタイミングで
マレフィセントがふいに寝返りをうったので、謎の板切れを目にすることは
やはりできなかった。
「親か、同族のもの?」
「それくらいしか思いあたらんな」
こちらの呟きに頷いて、カップを傾けるリノ。フレアはそっと、水の流れに
浸すように、眠る少女の髪に手を置いた。
こうして触れてみた限りでは、人間と差異はないように思える。
しかし、流れる髪のすぐ向こうには異質な硬いもの。
(悪魔の…象徴…)
赤いフードの隙間から覗く、悪魔の角。
なめらかな曲線と、あらゆる物質にはない硬さと柔らかさ。
むらのない美しい色。
頑強そうなその禍々しいものを戴き、悪魔は無垢な寝顔を見せている。
(でも、この子が一体どんな"悪"さをするというんだ?)
一緒にいればいるほど、フレアにはこの少女が悪魔だと思えなくなっていた。
最初に出会った時よりも、ずっと。
「なにか、思いあたる節はないか」
軽い沈黙を破り、リノ。フレアは顔をあげないままぽつりと答えた。
「…これ、手触りが似ている気がするんだ」
「手触り」
ふむ、と繰り返しつぶやく騎士に頷き返して、続ける。
「気のせいかもしれないけれど。マレフィセントの角と」
フードごしに角があるあたりを撫でる。もちろん今感じているのはその
外套の手触りだったが、記憶している感触は思い出せた。
「それが本当だとすれば、やはりそれは同族のものと見て間違いないだろうが…
何にせよ、憶測でしかないな」
「うん…これが見つかったのは、確か」
「南だ。岬にある使われていない聖堂という事だったが、少し調べて見なければ
ならないだろう」
「…そうだな」
岬。海。あわ立つ波。水。青白い――
(!?)
ふと脳裏に走る痛みに眉をひそめる。そして喉が絞まるような感覚。
呼吸するのを促すように、フレアは自分の喉に手のひらをあてて押し黙った。
それは思案しているように見えたのだろう、カップの中を空にして、
騎士は問いかけてきた。
「どうする。行く意思はあるか」
喉から手を離すと、息苦しさはもうなかった。
何かを振り払うようにして、こっくりと首を縦に振る。
「行く。どこまでも」
「わかった」
静かな声音でリノも答えた。
と――
「顔色がよくないねぇ。ちゃんと食べたのかい」
少女二人と壮年の男という組み合わせが珍しいのだろう、話している間も
世話好きらしい女将が何かと干渉してきた。
「はい、ご馳走様」
「あらまぁ、こっちの子は朝っぱらから寝てるのかい。食べたり泣いたり
眠ったり!まったく忙しい子だねぇ」
フレアが僅かに笑って答えると、女将は足掛かりを得たとばかりに
後を続けてくる、が、それをリノが遮った。
「朝寝といったところか。フレア、君も仮眠をとっておいたほうがいいだろう」
「え」
「行き先は決まったのだ。まだ時間もあるのだし、そう無理をしていてはもたない」
面食らうフレアと女将に有無を言わさず、リノが席を立つ。
「それに」
身をかがめて、小声で囁いてくる――
「これ以上ここにいたら“場所代”がかさみそうだ」
きょとんとして目で問うが、そこで話は終わりらしい。出鼻をくじかれた
女将も(商品を売りつけるつもりだったらしい)、肩をすくめて違うテーブルへ
移っていった。
「さ、行こうか」
そう言ってフレアの上からいまだ眠るマレフィセントを抱え、
立ち上がろうとする。が、
「っ!」
いきなり呻いてその場に膝をついてしまう。
辛うじてマレフィセントを放り出すことはなかったものの、フレアの
膝の上にはふたたび重みが戻った。
「リノ!?大丈夫か!?」
慌ててマレフィセントを膝に抱いたまま、しゃがみ込んだリノへ手を差し伸べる。
苦痛に耐えるその姿さえ騎士然とした彼には似合いと言えたが、
まったくそれどころではない。
「き、君は」
リノはぜえはあと荒い息をつきながら、息も絶え絶えになって顔を上げて――
「ぎっくり腰というものを知っているか」
脂汗を浮かべて、顔面蒼白の騎士は、やはり冗談とも本気ともとれる静かな声音
でそう言ってきた。
――――――――――――――――
NPC:リノツェロス・宿屋の女将
場所:クーロン/宿屋の食堂
―――――――――――――――
ピークを過ぎた食堂は落ち着きを取り戻していた。
少し前には向こうのテーブルで喧嘩が始まったりもしていたが、
どうやらおさまったようだ。
「すまない、遅くなってしまって」
「いや、おかげで助かった」
腕の中で泣き疲れて眠る少女の背中をさすりながら、
フレアはリノの顔を見た。
「昨日はあまり眠れなくて…」
寝不足で頭の中に芯があるような感覚。記憶の暗闇の中では
幽鬼のように笑う一人の男。
あのいけすかない男にここまで狂わされている自分に腹が立つ。
「そうか」
というリノの言葉は簡潔だったが、決して冷淡なものではなかった。
フレアは軽く微笑んでから、すぐに真顔に戻って言葉を続ける。
「それで…これは」
マレフィセントが握り締めている、青い布の包みを目で示す。
しっかり握られているので無理矢理引き剥がすのも可哀想だったため、
まだ断片しか見られなかったが。
「確かなのは、ただの木炭ではないという事くらいか」
それは冗談に聞こえ無くもなかったが、リノの表情に変わりはない。
「これを目にした途端、なぜか非常に興味を示した」
再び少女の手に握られているものを見やるが、それを遮るようなタイミングで
マレフィセントがふいに寝返りをうったので、謎の板切れを目にすることは
やはりできなかった。
「親か、同族のもの?」
「それくらいしか思いあたらんな」
こちらの呟きに頷いて、カップを傾けるリノ。フレアはそっと、水の流れに
浸すように、眠る少女の髪に手を置いた。
こうして触れてみた限りでは、人間と差異はないように思える。
しかし、流れる髪のすぐ向こうには異質な硬いもの。
(悪魔の…象徴…)
赤いフードの隙間から覗く、悪魔の角。
なめらかな曲線と、あらゆる物質にはない硬さと柔らかさ。
むらのない美しい色。
頑強そうなその禍々しいものを戴き、悪魔は無垢な寝顔を見せている。
(でも、この子が一体どんな"悪"さをするというんだ?)
一緒にいればいるほど、フレアにはこの少女が悪魔だと思えなくなっていた。
最初に出会った時よりも、ずっと。
「なにか、思いあたる節はないか」
軽い沈黙を破り、リノ。フレアは顔をあげないままぽつりと答えた。
「…これ、手触りが似ている気がするんだ」
「手触り」
ふむ、と繰り返しつぶやく騎士に頷き返して、続ける。
「気のせいかもしれないけれど。マレフィセントの角と」
フードごしに角があるあたりを撫でる。もちろん今感じているのはその
外套の手触りだったが、記憶している感触は思い出せた。
「それが本当だとすれば、やはりそれは同族のものと見て間違いないだろうが…
何にせよ、憶測でしかないな」
「うん…これが見つかったのは、確か」
「南だ。岬にある使われていない聖堂という事だったが、少し調べて見なければ
ならないだろう」
「…そうだな」
岬。海。あわ立つ波。水。青白い――
(!?)
ふと脳裏に走る痛みに眉をひそめる。そして喉が絞まるような感覚。
呼吸するのを促すように、フレアは自分の喉に手のひらをあてて押し黙った。
それは思案しているように見えたのだろう、カップの中を空にして、
騎士は問いかけてきた。
「どうする。行く意思はあるか」
喉から手を離すと、息苦しさはもうなかった。
何かを振り払うようにして、こっくりと首を縦に振る。
「行く。どこまでも」
「わかった」
静かな声音でリノも答えた。
と――
「顔色がよくないねぇ。ちゃんと食べたのかい」
少女二人と壮年の男という組み合わせが珍しいのだろう、話している間も
世話好きらしい女将が何かと干渉してきた。
「はい、ご馳走様」
「あらまぁ、こっちの子は朝っぱらから寝てるのかい。食べたり泣いたり
眠ったり!まったく忙しい子だねぇ」
フレアが僅かに笑って答えると、女将は足掛かりを得たとばかりに
後を続けてくる、が、それをリノが遮った。
「朝寝といったところか。フレア、君も仮眠をとっておいたほうがいいだろう」
「え」
「行き先は決まったのだ。まだ時間もあるのだし、そう無理をしていてはもたない」
面食らうフレアと女将に有無を言わさず、リノが席を立つ。
「それに」
身をかがめて、小声で囁いてくる――
「これ以上ここにいたら“場所代”がかさみそうだ」
きょとんとして目で問うが、そこで話は終わりらしい。出鼻をくじかれた
女将も(商品を売りつけるつもりだったらしい)、肩をすくめて違うテーブルへ
移っていった。
「さ、行こうか」
そう言ってフレアの上からいまだ眠るマレフィセントを抱え、
立ち上がろうとする。が、
「っ!」
いきなり呻いてその場に膝をついてしまう。
辛うじてマレフィセントを放り出すことはなかったものの、フレアの
膝の上にはふたたび重みが戻った。
「リノ!?大丈夫か!?」
慌ててマレフィセントを膝に抱いたまま、しゃがみ込んだリノへ手を差し伸べる。
苦痛に耐えるその姿さえ騎士然とした彼には似合いと言えたが、
まったくそれどころではない。
「き、君は」
リノはぜえはあと荒い息をつきながら、息も絶え絶えになって顔を上げて――
「ぎっくり腰というものを知っているか」
脂汗を浮かべて、顔面蒼白の騎士は、やはり冗談とも本気ともとれる静かな声音
でそう言ってきた。
――――――――――――――――
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キャスト:ジュリア アーサー
場所:モルフ地方東部 ― ダウニーの森
--------------------------------------------------------------------------
「それでですね、子供たちのことですが」
テイラックが自称騎士の言葉を鋭く遮った。
老婆であった美女は穏やかに笑んだ。桜色の唇から、真珠のような歯が覗く。
「ええ、わかっているわ。子供は子供のままではいられない。
いつかは大人になって、あるべき場所へ戻らなければならないのよ」
ここからいなくなってしまうのは寂しいけれど、と彼女は言う。
森が風にざわめいている。夜風がゆっくりと吹きぬける。
「わかってくださって何よりです。
では、お嬢さん方は我々が責任を持って家へ送り届けます」
テイラックは今この場面まで聞いたことのないような甘ったるい声で言った。
魔女は頷いた。金髪の少年がその隣に佇み、じっと彼女を見詰めている。
ジュリアは自称騎士を引っ張って、未だ倒れたままのレノアと従者の元へ寄って行っ
た。見た限り顔色は悪くなく、呼吸も正常だ。眠っているだけだろう。ジュリアは身振
りで「起こせ」と伝えた。
自称騎士はもういちいち躊躇うことなく実行し始めた。
魔女とテイラックの会話は続いている。
魔女は老木であったときとは、外見だけでなく内面も変わっているようだった。最早、
子供へのあの奇妙な執着はもうどこにも感じられない。
「竜がいなくなって、この森の役目は終わったわ」
魔女は天を見上げた。
頭上では、白い月が梢越しに高く輝いている。
――――え?
「あなたも、帰らなければならないわね」
魔女は傍らの少年に言った。少年は首を横に振る。
ジュリアは彼らを一瞥し、それから周囲を見渡した。
自称騎士に起こされたレノアと従者は状況を把握できずにぽかんとしている。
騎士は、今度は倒れたままのチャーミーへ近づこうとしている。
テイラックは魔女の様子を見守っている。
梟だった兄弟は目覚める前触れのように身動きしている。
ジュリアは声を上げた。
「魔法使い、出て来い!」
皆が驚いて振り向いた。
一瞬の後、テイラックだけが意味を理解したらしく、周りに視線を走らせる。
「……エンプティは、どこへ?」
「そういえば……」
自称騎士が剣の柄に手をかけ、それから武器の用意が必要な状況とは違うと気づく。
彼は困惑の表情で剣から手を離した。次に起こることを待っているようにも見える。
エンプティの姿はどこにもない。ジュリアは口の中だけで小さく呪文を唱えて、それ
が世界に何の効果も及ぼさないことを確認した。魔法を邪魔する力はまだ消えていない。
バルメは不思議そうな顔をしている。
金髪の少年がその袖を引っ張った。
「ねえ、バルメ、ここからいなくなるつもりなら、僕も一緒に連れて行って。
だってもう、僕の帰る場所はないのだから。皆もういなくなってしまったよ」
バルメは、はっとして彼を見下ろした。その唇が耐えかねたように震えた。
天頂の月が彼女を照らしている。光が白い粒子のように舞っている。
「――……」
「お願いだ、バルメ。
僕にはもうあなたしかいない」
「エンプティ!!」
ジュリアはほとんど絶叫しながら魔法を編み始めた。
封じの術の上に、ほとんど絵の具をぶちまけるのとおなじように無秩序な、ただただ
魔という要素だけを呼び込んでいく。ぎしぎしと、世界の裏で空気が軋む。もうすぐ、
破れる。互いの呪が。
急に大声を上げたこちらを見るテイラックの表情は、少しだけ強張っていた。
「……彼が何かを企んでいるのですか?」
黒い声が答えた。
「企んでいるなんて、人聞きの悪い」
ざあざあと常にざわめいていた梢の波が静まり返った。
魔女も、使い魔も、動きをとめた。それぞれがそれぞれの一瞬を切り取られたように、
気味の悪い絵画のように。
幻想からの落差に怖気が走る。
ジュリアは誤魔化すように拳を握り締めた。
己の衣擦れの音が、大きく響いて聞こえた。
「企んでいないとしたら、これは何のつもりだ?」
エンプティは魔女の樹が立っていた場所の、そのすぐ後ろから姿を現した。
騎士が、恐らく反射的に剣の柄に手をかけた。
「伝説の終わりです。御伽噺の終わりでございます。
邪悪な竜が倒され、森に囚れていた人々が本来の姿を取り戻す。
当然のことでございましょう。何の不思議がありましょうや?」
「現実と伝説を混同するな」
「しかし魔女殿、何事にも終わりはあります」
「それは、“これ”なのか?」
ジュリアは剣呑に聞き返した。
エンプティは肩を落とした。
「ご不満でしたか。私はただ、あなた方の活躍に報いたいと思っただけなのに」
そして彼が腕を一振りすると、周囲に満ちていた淡い光は消えてしまった。
魔女の声が消えた。子供の声が消えた。暗い森。朽ちた老木。風の音だけが残った。
「竜が死に、魔法は解けたのです。何も残らず。バルメも共に。
それではあまりにも報われない……そうでございましょう?
せめてささやかな終章がなければ、収まりがつかないでしょう」
「私は帰って寝るだけだ、関係ない」
魔法使いは傷ついたような顔をした。
「友人が、こうした最後を迎え、ひっそりと忘れられるのは忍びないのです」
「勝手に語ればいいだろう、お前は御伽噺を捏造した語り部なのだから」
「…………この剣で」
ぼそりと小さな呟きが聞こえたので視線だけを向けると、ヴァンが困ったような顔で、
魔女の残骸を眺めていた。
「この手で竜を斬って……彼女がそうしろと言った」
「その通り」
エンプティが答えた。冷え冷えとした声で。
「あなたが英雄です、騎士殿」
――そして彼の姿は消えた。
この森に存在していたすべての魔法は、形跡もなく消え去った。
沈みゆく月の光だけが深々と降り注いでいた。
間違いなんてなかった、と、誰かが呟いた。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
翌朝、ジュリアが目覚めると、もう昨夜の事件は過去のことだとばかり、屋敷は落ち
着いていた。なんとなく取り残されたような、しかしまったく残念ではない心持で遅い
昼食を食べ、顛末を聞きにきたマイルズを適当にあしらった。
彼がつまらなそうに黙ってしまったのを待って、聞く。
「……他の連中は帰ったのか?」
「あー、アーサー・テイラック氏は仕事があるからって、昨夜のうちに。
自称騎士殿はまだいるけど、チャーミーにちょっかいかけてきてうっとうしいったら
ありゃしねえ。アレなんとかならないか?」
「妹を守るのは兄の仕事だろう?」
「とは言ってもなぁー……エテツィオの騎士殿相手に強く言うと、親父が怒るから」
マイルズは肩を竦めた。ジュリアは「なら放っておけ」と冷たく言い放った。
「アレは、伝説に登場するような立派な騎士に憧れているだけだろう。
女に優しくするのがいいと思っているだけだ、害になるほどの度胸はないよ」
「どうだか」
「いっそ婿にもらってしまえ。内面以外はちょうどいいだろう」
「問題の内面がなー。騎士が皆お買い得物件ってわけでもないし」
彼も彼の武勇伝を手に入れることができたが、と、胸のうちだけで呟く。
目を覚ましたチャーミーも、レノアや使用人たちも、森で起こった怪異の記憶は失く
してしまっていたらしいから、決して認められることのない武勇伝だが。
「そりゃあ優良物件が三十前まで独身のわけがない……って、奴のことはいい。
そういえば、エンプティは戻ってないのか?」
マイルズは目をぱちくりさせた。
「何だそれ」
「本気か?」
「だから、何のことだよ」
ジュリアは少しだけ黙った後、ゆっくりと首を横へ振った。マイルズは納得がいかな
いという表情でこちらを眺めていたが、ジュリアが沈黙をやめるつもりがないと見ると、
わざとらしいため息をついてそっぽを向いた。
「来年のバルメ祭は……」
「何?」
今度はジュリアが聞き返した。
マイルズは、テーブルに肘をついただらしない姿勢でこちらを見上げた。
「来年のバルメ祭は、何事もないといいなぁ。
いや、多少の騒ぎは歓迎だけど、祭自体が目茶苦茶になると後始末が大変だ」
そういえばマイルズは屋敷に残っていたのだったか。
すぐ寝たから覚えていないが、帰ってきたとき屋敷は綺麗に片付いていた。居残り組
の努力の成果に違いない。
「来年の心配をすると、魔女に食われるぞ?」
「バルメが人を食うとは知らなかった」
マイルズは胡乱げな顔で言い返してきた。
昨夜のことは誰も知らない。ならば童話の魔女はまだ森にいる。
祭はこれからも毎年続くだろう。現に、目の前の男はそれを当たり前だと思っている。
丸焼きの羊を前に苦い顔をしていたアーサー・テイラックを思い出した。彼はまだ来
年の祭のことなんて考えてさえいないに違いない。半年後、祭の準備の話が出始める頃
に愕然とする彼を想像して、ジュリアは笑った。
「来年には私もまた呼んでくれ。見たいものがあるんだ」
ついでに、覚えていたら花の一つも供えてやろうじゃないか。
もう誰もいないあの暗い森に。
-----------------------------------------------------------
場所:モルフ地方東部 ― ダウニーの森
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「それでですね、子供たちのことですが」
テイラックが自称騎士の言葉を鋭く遮った。
老婆であった美女は穏やかに笑んだ。桜色の唇から、真珠のような歯が覗く。
「ええ、わかっているわ。子供は子供のままではいられない。
いつかは大人になって、あるべき場所へ戻らなければならないのよ」
ここからいなくなってしまうのは寂しいけれど、と彼女は言う。
森が風にざわめいている。夜風がゆっくりと吹きぬける。
「わかってくださって何よりです。
では、お嬢さん方は我々が責任を持って家へ送り届けます」
テイラックは今この場面まで聞いたことのないような甘ったるい声で言った。
魔女は頷いた。金髪の少年がその隣に佇み、じっと彼女を見詰めている。
ジュリアは自称騎士を引っ張って、未だ倒れたままのレノアと従者の元へ寄って行っ
た。見た限り顔色は悪くなく、呼吸も正常だ。眠っているだけだろう。ジュリアは身振
りで「起こせ」と伝えた。
自称騎士はもういちいち躊躇うことなく実行し始めた。
魔女とテイラックの会話は続いている。
魔女は老木であったときとは、外見だけでなく内面も変わっているようだった。最早、
子供へのあの奇妙な執着はもうどこにも感じられない。
「竜がいなくなって、この森の役目は終わったわ」
魔女は天を見上げた。
頭上では、白い月が梢越しに高く輝いている。
――――え?
「あなたも、帰らなければならないわね」
魔女は傍らの少年に言った。少年は首を横に振る。
ジュリアは彼らを一瞥し、それから周囲を見渡した。
自称騎士に起こされたレノアと従者は状況を把握できずにぽかんとしている。
騎士は、今度は倒れたままのチャーミーへ近づこうとしている。
テイラックは魔女の様子を見守っている。
梟だった兄弟は目覚める前触れのように身動きしている。
ジュリアは声を上げた。
「魔法使い、出て来い!」
皆が驚いて振り向いた。
一瞬の後、テイラックだけが意味を理解したらしく、周りに視線を走らせる。
「……エンプティは、どこへ?」
「そういえば……」
自称騎士が剣の柄に手をかけ、それから武器の用意が必要な状況とは違うと気づく。
彼は困惑の表情で剣から手を離した。次に起こることを待っているようにも見える。
エンプティの姿はどこにもない。ジュリアは口の中だけで小さく呪文を唱えて、それ
が世界に何の効果も及ぼさないことを確認した。魔法を邪魔する力はまだ消えていない。
バルメは不思議そうな顔をしている。
金髪の少年がその袖を引っ張った。
「ねえ、バルメ、ここからいなくなるつもりなら、僕も一緒に連れて行って。
だってもう、僕の帰る場所はないのだから。皆もういなくなってしまったよ」
バルメは、はっとして彼を見下ろした。その唇が耐えかねたように震えた。
天頂の月が彼女を照らしている。光が白い粒子のように舞っている。
「――……」
「お願いだ、バルメ。
僕にはもうあなたしかいない」
「エンプティ!!」
ジュリアはほとんど絶叫しながら魔法を編み始めた。
封じの術の上に、ほとんど絵の具をぶちまけるのとおなじように無秩序な、ただただ
魔という要素だけを呼び込んでいく。ぎしぎしと、世界の裏で空気が軋む。もうすぐ、
破れる。互いの呪が。
急に大声を上げたこちらを見るテイラックの表情は、少しだけ強張っていた。
「……彼が何かを企んでいるのですか?」
黒い声が答えた。
「企んでいるなんて、人聞きの悪い」
ざあざあと常にざわめいていた梢の波が静まり返った。
魔女も、使い魔も、動きをとめた。それぞれがそれぞれの一瞬を切り取られたように、
気味の悪い絵画のように。
幻想からの落差に怖気が走る。
ジュリアは誤魔化すように拳を握り締めた。
己の衣擦れの音が、大きく響いて聞こえた。
「企んでいないとしたら、これは何のつもりだ?」
エンプティは魔女の樹が立っていた場所の、そのすぐ後ろから姿を現した。
騎士が、恐らく反射的に剣の柄に手をかけた。
「伝説の終わりです。御伽噺の終わりでございます。
邪悪な竜が倒され、森に囚れていた人々が本来の姿を取り戻す。
当然のことでございましょう。何の不思議がありましょうや?」
「現実と伝説を混同するな」
「しかし魔女殿、何事にも終わりはあります」
「それは、“これ”なのか?」
ジュリアは剣呑に聞き返した。
エンプティは肩を落とした。
「ご不満でしたか。私はただ、あなた方の活躍に報いたいと思っただけなのに」
そして彼が腕を一振りすると、周囲に満ちていた淡い光は消えてしまった。
魔女の声が消えた。子供の声が消えた。暗い森。朽ちた老木。風の音だけが残った。
「竜が死に、魔法は解けたのです。何も残らず。バルメも共に。
それではあまりにも報われない……そうでございましょう?
せめてささやかな終章がなければ、収まりがつかないでしょう」
「私は帰って寝るだけだ、関係ない」
魔法使いは傷ついたような顔をした。
「友人が、こうした最後を迎え、ひっそりと忘れられるのは忍びないのです」
「勝手に語ればいいだろう、お前は御伽噺を捏造した語り部なのだから」
「…………この剣で」
ぼそりと小さな呟きが聞こえたので視線だけを向けると、ヴァンが困ったような顔で、
魔女の残骸を眺めていた。
「この手で竜を斬って……彼女がそうしろと言った」
「その通り」
エンプティが答えた。冷え冷えとした声で。
「あなたが英雄です、騎士殿」
――そして彼の姿は消えた。
この森に存在していたすべての魔法は、形跡もなく消え去った。
沈みゆく月の光だけが深々と降り注いでいた。
間違いなんてなかった、と、誰かが呟いた。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
翌朝、ジュリアが目覚めると、もう昨夜の事件は過去のことだとばかり、屋敷は落ち
着いていた。なんとなく取り残されたような、しかしまったく残念ではない心持で遅い
昼食を食べ、顛末を聞きにきたマイルズを適当にあしらった。
彼がつまらなそうに黙ってしまったのを待って、聞く。
「……他の連中は帰ったのか?」
「あー、アーサー・テイラック氏は仕事があるからって、昨夜のうちに。
自称騎士殿はまだいるけど、チャーミーにちょっかいかけてきてうっとうしいったら
ありゃしねえ。アレなんとかならないか?」
「妹を守るのは兄の仕事だろう?」
「とは言ってもなぁー……エテツィオの騎士殿相手に強く言うと、親父が怒るから」
マイルズは肩を竦めた。ジュリアは「なら放っておけ」と冷たく言い放った。
「アレは、伝説に登場するような立派な騎士に憧れているだけだろう。
女に優しくするのがいいと思っているだけだ、害になるほどの度胸はないよ」
「どうだか」
「いっそ婿にもらってしまえ。内面以外はちょうどいいだろう」
「問題の内面がなー。騎士が皆お買い得物件ってわけでもないし」
彼も彼の武勇伝を手に入れることができたが、と、胸のうちだけで呟く。
目を覚ましたチャーミーも、レノアや使用人たちも、森で起こった怪異の記憶は失く
してしまっていたらしいから、決して認められることのない武勇伝だが。
「そりゃあ優良物件が三十前まで独身のわけがない……って、奴のことはいい。
そういえば、エンプティは戻ってないのか?」
マイルズは目をぱちくりさせた。
「何だそれ」
「本気か?」
「だから、何のことだよ」
ジュリアは少しだけ黙った後、ゆっくりと首を横へ振った。マイルズは納得がいかな
いという表情でこちらを眺めていたが、ジュリアが沈黙をやめるつもりがないと見ると、
わざとらしいため息をついてそっぽを向いた。
「来年のバルメ祭は……」
「何?」
今度はジュリアが聞き返した。
マイルズは、テーブルに肘をついただらしない姿勢でこちらを見上げた。
「来年のバルメ祭は、何事もないといいなぁ。
いや、多少の騒ぎは歓迎だけど、祭自体が目茶苦茶になると後始末が大変だ」
そういえばマイルズは屋敷に残っていたのだったか。
すぐ寝たから覚えていないが、帰ってきたとき屋敷は綺麗に片付いていた。居残り組
の努力の成果に違いない。
「来年の心配をすると、魔女に食われるぞ?」
「バルメが人を食うとは知らなかった」
マイルズは胡乱げな顔で言い返してきた。
昨夜のことは誰も知らない。ならば童話の魔女はまだ森にいる。
祭はこれからも毎年続くだろう。現に、目の前の男はそれを当たり前だと思っている。
丸焼きの羊を前に苦い顔をしていたアーサー・テイラックを思い出した。彼はまだ来
年の祭のことなんて考えてさえいないに違いない。半年後、祭の準備の話が出始める頃
に愕然とする彼を想像して、ジュリアは笑った。
「来年には私もまた呼んでくれ。見たいものがあるんだ」
ついでに、覚えていたら花の一つも供えてやろうじゃないか。
もう誰もいないあの暗い森に。
-----------------------------------------------------------
PC:ジルヴァ マックス ラルク
場所:シカラグァ連合王国・直轄領(ご飯屋)
―――――――――――――――――――――――――――
食後に茶を一杯頼むと、砂糖の衣を着せた豆菓子を入れた小鉢が添えられていた。
「おや」
「何だい?」
化粧っけのない中年の女性が、ジルヴァの前に湯飲みを置くときに眼を丸くしたので、ジルヴァは不機嫌に応じる。
ジルヴァは、このように驚かれるのにはある程度は慣れていた。
汚れるのもかまわず地面に引きずっている分厚いローブの裾や、顔の半分以上を隠しているフードは、他者に警戒心を抱かせるに十分な物だし、嫌悪感やぶしつけな興味を隠そうともしない人間はどこにでもいる。
大抵の場合は無視してやり過ごすのだが、その店の者の反応が悪意の感じられない素朴なものだったので、つい言葉を返してしまったのだ。
「いやぁね、それがあたしったらさ」
女性はお盆を抱えて恥ずかしそうに片手を振る。
「おばあちゃんのこと、厨房から見てて、なんかちっちゃい子が野郎2人に連れられてるんだなぁって思っちゃったんだよ。それでつい菓子なんか用意しちゃったんだけど、余計なお世話だったかね」
「……歯は丈夫なほうだからね。ありがたくいただくよ」
ジルヴァがそう答えると、女性は「そりゃよかった」とからから笑って、厨房に戻っていった。
「マックスさんが魚をむしってあげてたから、遠目では子どもさんを世話してるように見えたんですかねー」
豆菓子は一人分ずつ配られていたから、ラルクもさっそくつまみ上げて言う。
「さぁね」
一粒噛むと、豆の部分まですんなり砕ける。一度ゆでてから炒ってあるのだろうか。豆の香ばしさや旨みと砂糖の甘さの相性がいい、滋味に富む菓子だ。
ジルヴァはこの店にラルクが連れてきた理由が、なんとなくわかる気がした。
「ところでさっきの何だったんでしょうねぇ」
ぽってりとした湯のみの中身をすすって、ラルクがへらっと笑っていう。
体調のためか、知らない人間と話すことに慣れてきたためか、この若者はさっきからどこか緩んでいるように見える。
「さっきのって?」
「ほら、ジルヴァさんが泊まってる宿まで行ったとき。魔法使い同士の喧嘩とかですかねぇ。変わった感じの女の人も出てきましたし。どう思います?」
ラルクが、旅慣れていると言っていたマックスに話を振る。
「さぁ…。魔法がらみのことは生憎あまり詳しくないので」
「そうなんですかー。まぁ、ここっていろんな人がいるからなぁ」
「痴話喧嘩だろ。魔法使いでもいりゃあ、大げさになることもあるんじゃないのかい。あんまり今騒ぎにもなっていないし、テロがあるような治安の悪いとこでもないんだろ?」
そもそも飛び出してきたのはジルヴァの知っている人間で、騒ぎがあったのはジルヴァの泊まっていた部屋なのだが、しれっとジルヴァは言う。
いや、だからこそジルヴァはあの騒ぎがたいしたものではないと思っていた。
わざわざジルヴァを睨みつけてから逃走するほど余裕のあったナーナ=ニーニが、少しでもなんらかの脅威の存在する状況であの男を一人にしておくわけがないのだ。
ほぼ間違いなく、痴情のもつれの面倒な話で、ナーナ=ニーニが些細なことでぷっつり切れただけの話だろうとあたりをつけていた。
新しい客が入ってきたのだろう。夜気が篭った店内に入ってくる。
その外気に、先ほど感じた生花のような甘い香が混じっているのに気づいたが、ジルヴァは何も言わずに豆を噛んだ。
-----------------------------------------------
場所:シカラグァ連合王国・直轄領(ご飯屋)
―――――――――――――――――――――――――――
食後に茶を一杯頼むと、砂糖の衣を着せた豆菓子を入れた小鉢が添えられていた。
「おや」
「何だい?」
化粧っけのない中年の女性が、ジルヴァの前に湯飲みを置くときに眼を丸くしたので、ジルヴァは不機嫌に応じる。
ジルヴァは、このように驚かれるのにはある程度は慣れていた。
汚れるのもかまわず地面に引きずっている分厚いローブの裾や、顔の半分以上を隠しているフードは、他者に警戒心を抱かせるに十分な物だし、嫌悪感やぶしつけな興味を隠そうともしない人間はどこにでもいる。
大抵の場合は無視してやり過ごすのだが、その店の者の反応が悪意の感じられない素朴なものだったので、つい言葉を返してしまったのだ。
「いやぁね、それがあたしったらさ」
女性はお盆を抱えて恥ずかしそうに片手を振る。
「おばあちゃんのこと、厨房から見てて、なんかちっちゃい子が野郎2人に連れられてるんだなぁって思っちゃったんだよ。それでつい菓子なんか用意しちゃったんだけど、余計なお世話だったかね」
「……歯は丈夫なほうだからね。ありがたくいただくよ」
ジルヴァがそう答えると、女性は「そりゃよかった」とからから笑って、厨房に戻っていった。
「マックスさんが魚をむしってあげてたから、遠目では子どもさんを世話してるように見えたんですかねー」
豆菓子は一人分ずつ配られていたから、ラルクもさっそくつまみ上げて言う。
「さぁね」
一粒噛むと、豆の部分まですんなり砕ける。一度ゆでてから炒ってあるのだろうか。豆の香ばしさや旨みと砂糖の甘さの相性がいい、滋味に富む菓子だ。
ジルヴァはこの店にラルクが連れてきた理由が、なんとなくわかる気がした。
「ところでさっきの何だったんでしょうねぇ」
ぽってりとした湯のみの中身をすすって、ラルクがへらっと笑っていう。
体調のためか、知らない人間と話すことに慣れてきたためか、この若者はさっきからどこか緩んでいるように見える。
「さっきのって?」
「ほら、ジルヴァさんが泊まってる宿まで行ったとき。魔法使い同士の喧嘩とかですかねぇ。変わった感じの女の人も出てきましたし。どう思います?」
ラルクが、旅慣れていると言っていたマックスに話を振る。
「さぁ…。魔法がらみのことは生憎あまり詳しくないので」
「そうなんですかー。まぁ、ここっていろんな人がいるからなぁ」
「痴話喧嘩だろ。魔法使いでもいりゃあ、大げさになることもあるんじゃないのかい。あんまり今騒ぎにもなっていないし、テロがあるような治安の悪いとこでもないんだろ?」
そもそも飛び出してきたのはジルヴァの知っている人間で、騒ぎがあったのはジルヴァの泊まっていた部屋なのだが、しれっとジルヴァは言う。
いや、だからこそジルヴァはあの騒ぎがたいしたものではないと思っていた。
わざわざジルヴァを睨みつけてから逃走するほど余裕のあったナーナ=ニーニが、少しでもなんらかの脅威の存在する状況であの男を一人にしておくわけがないのだ。
ほぼ間違いなく、痴情のもつれの面倒な話で、ナーナ=ニーニが些細なことでぷっつり切れただけの話だろうとあたりをつけていた。
新しい客が入ってきたのだろう。夜気が篭った店内に入ってくる。
その外気に、先ほど感じた生花のような甘い香が混じっているのに気づいたが、ジルヴァは何も言わずに豆を噛んだ。
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PartyMember:
フェドート・クライ イヴァン・ルシャヴナ ヴァージニア・ランバート
Stage:
ガルドゼンド王国南部・フォイクテンベルグ→川原
Turn:
イヴァン・ルシャヴナ(02)
――――――――――――――――
水面を滑る風が涼気を含んで、頬を撫でる。
空には薄く引き延ばした綿を思わせる雲が見えた。それを横切る雁の群れは、
いびつなV字を描きながら遠くの梢に消えていった。
それを見送ったかのようなタイミングで、女――ヴァージニアが
ぽつりとつぶやく。
「恋人が異形に変わり果てるも、愛の力で見つけてハッピーエンド。
…よくある話だけど」
「まー今回使うのはお金の力だし、しかも見つけてもハッピーに
なれそうなのはあの軍人さんくらいかもねー」
変化のない景色に飽きたのか、フェドートが話に乗ってきた。
川岸に佇む一組の男女と言えば聞こえはいいが、
格好が格好だけにある種の非日常を感じさせる。
「おとぎ話の裏側って案外そんな感じよね」
「だよねー」
そんな世間話を聞き流しながら、イヴァンは周囲を見渡した。
対岸に茂った木々は川の中央まで枝を伸ばし、向こうにある淵を
さらに青黒くさせている。
透明な流れは底を隠すことはなく、やけに小さく見える沈んだ岩と、
小魚の群れが縦横無尽に泳いでいる様がはっきり見てとれた。
無理をすれば渡れるほどの川――という話だったが、岸辺近くには
染みのような深い淵が点々として見える。
話を真に受けて迂闊に踏み入れれば、運の悪い人間ならば
溺れそうではある。
朽ちて沈む古木に生えた藻が揺れている。さながら緑の炎のように
ゆらいでいるそれをじっと見ていると、声をかけられた。
「なになになんかいるのー?魚ー?」
あっけらかんとした声に振り向くと、いつの間に近づいたのか
フェドートがすぐそばで整った顔を無邪気な笑顔で崩している。
フェドート・クライ。
竜の目を持つ無敵のランカー。
そのあまりの強さのために噂が噂を呼び、今では都市伝説の域にまで
ある存在だ。実は女だという噂も耳にしていたが、なるほど
そう言われてもおかしくない程の美貌である。
仮に目の前の男が「フェドート・クライ」ではなかったとしても、
歩き方やさりげない仕草からも相当の手錬れだという事が伺えた。
つまり、そういう事なのだろう。
「できれば魚探すより石を探して欲しいのだけれど」
答えずにいると、フェドートの背中越しにヴァージニアがやや
遠くから心底うんざりした様子で水を差してきた。
とはいえ、こちらに対してというよりこの状況に対して
苛立っているのだろうが。
「石は逃げないけど魚は逃げちゃうよ?」
「魚を捕っても報酬は入らないわ」
ヴァージニア・ランバート。
その涼しげな立ち振る舞いと相反する二つ名を背負う女。
武器はその身ひとつと刀だけ。しかし計算され尽くしたその
曲線の刃に触れた者は、煉獄の炎に焼かれでもしたかのように痛むという。
彼らの悲鳴と苦痛を見聞きしてなお、その物憂げな表情を
変えないのならば、あるいはその名を冠するにふさわしい女かもしれない。
何も調べていないのに、目の前の人物に対してこれだけの情報が頭にある。
真偽のほどは定かではないが、すべてガセというわけではないだろう。
そんな事を考えながら視線を水面に移した瞬間、視界の端に映った影を
認めてさっと腕を振る――水を縫い取るようにして、発射された針は
水音を伴って確かな手ごたえを伝えてきた。
水面下でぎらりと銀と銀が絡み合い、ほどなく一匹の魚が左右のエラを
一直線に貫かれて川岸に流れ着く。
「おー」
ぱちぱちと子供のように小さく拍手をするフェドート。
やたら丈の長い服のすそが地面に触れることも厭わず、やや下流に
流れ着いた魚を物珍しそうに観察しだす。
「綺麗な色ー。わっ跳ねた」
急所をはずされた魚はまだ元気だったが、動きを遮る針に邪魔されて
おいそれとは逃げられない。それでも弱る前にと、手早く足元の石を
積んで小さな囲いを作った。
そしてフェドートの元からひょいと魚を取り上げると、針を抜いて
囲いの中に放す。そうして、また岸に佇んで――
「て、ちょっと!」
とうとうヴァージニアが矛先をこちらに向けてきた。
足場の悪さをものともせずに、さっさと歩み寄ってくる。
「あなた達、仕事する気あるの?」
「あるけどー。なんかお腹減ったかもー」
やや口を尖らせて不服そうに反論するフェドートをじろりと
にらみやって、今度はこちらにも同じような目を向けるヴァージニア。
イヴァンは特に感情を込めず女の目を見返して、ぼんやりと
飾りのような泣きぼくろを見つけていたが――ふ、と彼女が
顔を伏せたのですぐに見えなくなった。
「…わかったわ。作戦会議といきましょう」
「はーい!」
やたら元気に返事をするフェドートの声に驚いたように、囲いの中の
魚が跳ねる。イヴァンは手狭になった囲いの中にまたもう一匹を
投げ入れながら、なんとはなしに崩れた塔の跡に目を向けた。
恋人から逃げるために石になった男と、それを他人に探させる女。
男は何のために石になったのだろうか。
誰にも見つかりたくないのならば死ぬべきだ。なのにわざわざ
石になったという事は、誰かに見つけてもらいたいという気持ちが
どこかにあるのではないか。
女は何故自分では恋人を探さないのだろうか。
それほど大事な恋人ならば全てを投げ出して探してもいいはずだ。
高ランクのハンターを複数名雇うのはそう簡単なことではない。
それほどの労力を賭しておきながら、なぜ現地に足を運ぶことすら
しないのだろうか。
――もっとも、自分の知ったことではないが。
「じゃ、貴方は薪でも拾ってきて。カマドはこっちで作るから」
「わー本格的!」
がらがらと石が転がる音と軽快な足音を背後に、イヴァンは
5匹めの魚へ向けて針を放った。
――――――――――――――――
フェドート・クライ イヴァン・ルシャヴナ ヴァージニア・ランバート
Stage:
ガルドゼンド王国南部・フォイクテンベルグ→川原
Turn:
イヴァン・ルシャヴナ(02)
――――――――――――――――
水面を滑る風が涼気を含んで、頬を撫でる。
空には薄く引き延ばした綿を思わせる雲が見えた。それを横切る雁の群れは、
いびつなV字を描きながら遠くの梢に消えていった。
それを見送ったかのようなタイミングで、女――ヴァージニアが
ぽつりとつぶやく。
「恋人が異形に変わり果てるも、愛の力で見つけてハッピーエンド。
…よくある話だけど」
「まー今回使うのはお金の力だし、しかも見つけてもハッピーに
なれそうなのはあの軍人さんくらいかもねー」
変化のない景色に飽きたのか、フェドートが話に乗ってきた。
川岸に佇む一組の男女と言えば聞こえはいいが、
格好が格好だけにある種の非日常を感じさせる。
「おとぎ話の裏側って案外そんな感じよね」
「だよねー」
そんな世間話を聞き流しながら、イヴァンは周囲を見渡した。
対岸に茂った木々は川の中央まで枝を伸ばし、向こうにある淵を
さらに青黒くさせている。
透明な流れは底を隠すことはなく、やけに小さく見える沈んだ岩と、
小魚の群れが縦横無尽に泳いでいる様がはっきり見てとれた。
無理をすれば渡れるほどの川――という話だったが、岸辺近くには
染みのような深い淵が点々として見える。
話を真に受けて迂闊に踏み入れれば、運の悪い人間ならば
溺れそうではある。
朽ちて沈む古木に生えた藻が揺れている。さながら緑の炎のように
ゆらいでいるそれをじっと見ていると、声をかけられた。
「なになになんかいるのー?魚ー?」
あっけらかんとした声に振り向くと、いつの間に近づいたのか
フェドートがすぐそばで整った顔を無邪気な笑顔で崩している。
フェドート・クライ。
竜の目を持つ無敵のランカー。
そのあまりの強さのために噂が噂を呼び、今では都市伝説の域にまで
ある存在だ。実は女だという噂も耳にしていたが、なるほど
そう言われてもおかしくない程の美貌である。
仮に目の前の男が「フェドート・クライ」ではなかったとしても、
歩き方やさりげない仕草からも相当の手錬れだという事が伺えた。
つまり、そういう事なのだろう。
「できれば魚探すより石を探して欲しいのだけれど」
答えずにいると、フェドートの背中越しにヴァージニアがやや
遠くから心底うんざりした様子で水を差してきた。
とはいえ、こちらに対してというよりこの状況に対して
苛立っているのだろうが。
「石は逃げないけど魚は逃げちゃうよ?」
「魚を捕っても報酬は入らないわ」
ヴァージニア・ランバート。
その涼しげな立ち振る舞いと相反する二つ名を背負う女。
武器はその身ひとつと刀だけ。しかし計算され尽くしたその
曲線の刃に触れた者は、煉獄の炎に焼かれでもしたかのように痛むという。
彼らの悲鳴と苦痛を見聞きしてなお、その物憂げな表情を
変えないのならば、あるいはその名を冠するにふさわしい女かもしれない。
何も調べていないのに、目の前の人物に対してこれだけの情報が頭にある。
真偽のほどは定かではないが、すべてガセというわけではないだろう。
そんな事を考えながら視線を水面に移した瞬間、視界の端に映った影を
認めてさっと腕を振る――水を縫い取るようにして、発射された針は
水音を伴って確かな手ごたえを伝えてきた。
水面下でぎらりと銀と銀が絡み合い、ほどなく一匹の魚が左右のエラを
一直線に貫かれて川岸に流れ着く。
「おー」
ぱちぱちと子供のように小さく拍手をするフェドート。
やたら丈の長い服のすそが地面に触れることも厭わず、やや下流に
流れ着いた魚を物珍しそうに観察しだす。
「綺麗な色ー。わっ跳ねた」
急所をはずされた魚はまだ元気だったが、動きを遮る針に邪魔されて
おいそれとは逃げられない。それでも弱る前にと、手早く足元の石を
積んで小さな囲いを作った。
そしてフェドートの元からひょいと魚を取り上げると、針を抜いて
囲いの中に放す。そうして、また岸に佇んで――
「て、ちょっと!」
とうとうヴァージニアが矛先をこちらに向けてきた。
足場の悪さをものともせずに、さっさと歩み寄ってくる。
「あなた達、仕事する気あるの?」
「あるけどー。なんかお腹減ったかもー」
やや口を尖らせて不服そうに反論するフェドートをじろりと
にらみやって、今度はこちらにも同じような目を向けるヴァージニア。
イヴァンは特に感情を込めず女の目を見返して、ぼんやりと
飾りのような泣きぼくろを見つけていたが――ふ、と彼女が
顔を伏せたのですぐに見えなくなった。
「…わかったわ。作戦会議といきましょう」
「はーい!」
やたら元気に返事をするフェドートの声に驚いたように、囲いの中の
魚が跳ねる。イヴァンは手狭になった囲いの中にまたもう一匹を
投げ入れながら、なんとはなしに崩れた塔の跡に目を向けた。
恋人から逃げるために石になった男と、それを他人に探させる女。
男は何のために石になったのだろうか。
誰にも見つかりたくないのならば死ぬべきだ。なのにわざわざ
石になったという事は、誰かに見つけてもらいたいという気持ちが
どこかにあるのではないか。
女は何故自分では恋人を探さないのだろうか。
それほど大事な恋人ならば全てを投げ出して探してもいいはずだ。
高ランクのハンターを複数名雇うのはそう簡単なことではない。
それほどの労力を賭しておきながら、なぜ現地に足を運ぶことすら
しないのだろうか。
――もっとも、自分の知ったことではないが。
「じゃ、貴方は薪でも拾ってきて。カマドはこっちで作るから」
「わー本格的!」
がらがらと石が転がる音と軽快な足音を背後に、イヴァンは
5匹めの魚へ向けて針を放った。
――――――――――――――――
PC: フェイ、コズン
NPC: レベッカ、青年、召喚獣のみなさん、リズ、少女
場所:町はずれの墓地
「アカデミーの意地もあるが、俺にはたどり着かねばならないところがあるのを忘れていた。お前は強いが、それでもお前程度に勝てないようでは到底そこにはいけるはずもなかった」
フェイという男。浮かべた笑いの裏には狼が潜んでいるような気がした。
一度だけ戦ったことのある気配だった。憎らしさと悔しさを感じる。それが、男の心に波紋を立てる。あの娘の捕獲を命じられたこと自体、それに関わっているのではないか。あの忌まわしい狼どもに。
「……やはりあまりよくない仕事を受けてしまったようだな」
すっ、と一歩引き、ローブから何本もの棒を取り出し地面へと放る。同時にフェイが間合いを詰めた。
銀の風のように間にフェイに牽制を放つヤクシャ。だが、フェイはヤクシャそのものを飛び越えると、ローブの男へ剣を振り下ろす。しかし、その一撃は下から飛び出してきた赤い固まりが盾となって防いだ。赤い固まりは緑色の体液を吹き出して、倒れる。すると幻であったかのように消え去り、砕け散った棒だけが残った。
「無駄だ」
わずかな音ともに着地したフェイは、後ろから襲いかかるヤクシャを避けながら、言った。赤い盾によって一歩引く時間だけを手に入れた男は厳しい顔のまま、指を鳴らす。
ずるずる、と引きずるような音ともに2匹もの赤い大百足が地面から這い上がってくる。威嚇せんと牙をならせば、毒液がしたたる。フェイは驚いた様子もなく、下段に剣を構え、迷いなく踏み出し、飛びかかる百足の腹を断ちきる。横手から噛みついてきた百足をその勢いのままの回転するように切り払う、ともはや男は間合いの中にいた。
引き裂かれた空気が悲鳴を上げて、剣の存在を主張したが男は右腕を盾に受け流すのが精一杯だった。それでも鈍い音がして刃が肉へと食い込み、血がどろりと流れ出る。
青いローブの男は血を流す腕を意識した。迷いがなくなったのならば、戦士としての腕はあちらの方が上、あの女は取られた。これ以上長居は無用だ。依頼は放棄しよう。煩わしい服務規程は冒険者達と違って自分にはないのだから。
剣を構えた男にはその気はないだろうが。だが、怖くはない。ただ、強いだけの人間をおそれるほど、年期は短くない。
「……ふん」
男は力を抜き構えを解いて、すっと下がった。存在を希薄な存在が、それこそ薄い布がただ揺れるように。
自然すぎる動きで反応の遅れる、フェイの追撃は煙を切るように手応えがない。相手はもう三歩分は下がっていた。ヤクシャは昆虫のような素早さで間に入り込み、フェイをとどめる。
「どけっ!」
ヤクシャがフェイの動きをとどめたのは十秒に満たない。枯れ枝のような体はものの数秒でフェイの剣が閃き、横薙ぎにヤクシャを切り裂いた。それだけで、青いローブの男には十分だった。断ち切られたヤクシャごしにフェイの顔をじっとにらみつけながら、かかとで三回大地を蹴った。
「覚えておけ、狼の末裔よ。おまえも狙われるだろう」
それはフェイだけに聞こえる程度の小さな声だった。あたりが揺れ、墓石やら錆びた剣やらが倒れる。その中で青いローブの男は無理矢理笑った。
「なっ」
揺れを本能的に警戒したフェイは質問を返すべきか、踏み込むべきか一瞬悩んだ。その一瞬に大地が引き裂かれ、壁のような何かがいくつかせり出して、男をドーム状に包んだ。小屋ほどある壁の下には土色の分厚い皮が土台になっている。それには妙に丸っこい黒目がついていて、くりくりとフェイを見つめた。
「ロック・ウォーム!」
フェイにも今回ばかりはレベッカの声が、妙に耳障りだった。わざわざ、土の軟らかい所を選んだのはこの大長虫を地面に潜ませておくためだったらしい。壁のように見えたのは岩盤を削るための鈍く固い歯だ。ただの剣で切りたければ竜殺しでもよばなければならない。
ずずっと這いずる音が墓地に響き、ロックウォームの先端は地中へと消えていた。軟らかい土が穴をすぐにふさいでしまった。
「なぜ、あいつが?」
フェイは考え込むように下を見つめた。断ち切られた木の棒と盛り上がった地面だけが目に写った。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
コズンは少女の呼吸を確認した。一目見ただけで青白い顔へ、耳を近づけるとかすかに息はある。だが、胸からがかなりの量の血が滴っていて、コズンは冬でも来たように震えた。服は白を基調としている珍しい旅装束で、胸の赤が恐ろしいほど映えていた。
「けっ、人工呼吸はなしか。じゃあ、せいぜいいいもんみせてくれよ」
偽悪や粗野な振る舞いで内心をごまかすのはコズンの生まれてからの性分だった。しか、ごまかしきれるものでもなかった。棘の上を歩くような気持ちで下卑た笑いを浮かべながら、怪我の様子を見る。服が多少薄汚れているぐらいで、胸以外、異常はないようにみえた。服の上から触れる血が妙に暖かくって、コズンの寒気は止まらないのだった。腹から出すとき、粗相でもしたのか。それともあの修行者気取りは殺してから連れて行くつもりだったのか。
「勘弁してください、死神様。慈悲を」
不安を掻き立てるように、あたりが揺れた。墓石が倒れ、背中の方においておいた槍を刃ごとばらばらにした。
情けない面で、胸をはだけ傷を確認すると、丁度胸の中心に妙な刻印があった。血はそこから定期的ににじんでいるだけのようだ。刻印はオオカミ避けの刻印に魔法陣を混ぜたような形をしていた。傷といえば傷だが、この手のきちんと彫り込みには時間がかかる。たぶん騒ぎ途中に彫り込みが終わったのだろう。それにこんな刺青で死にはしない。血の量はおかしいような気もしたが、だからといってこれ以外傷という傷もない。
「慈悲を、感謝します」
ため息のように祈りの言葉を漏らす。そして、娘をひとにらみして、男ならぶん殴ってやるとこなのに、と呟いた。
むすっとしながら、簡単に血止めの草を貼り付けて布で固定してやる。慣れた様子で、ささっとすませ、服を戻す。
「コズン、あっちは終わったわ」
レベッカがそわそわとした様子で、言った。
「あの青いローブは?」
「逃げられたよ、頭が小屋ぐらいある大長虫なんて伏せていたの。もっとも逃亡用の切り札みたいだったけど」
コズンはちらりとフェイを見た。疲れたように、下を見ているフェイの背中はなんだか張り合いがなかった。
「役にたたねぇ奴」
淡々とした様子のコズンは言葉を考えて、口を開いた。
「奴には、気にするな、って言っといてくれ」
レベッカは澄ました様子でコズンをよく見た。やっとこの馬鹿も、本調子を取り戻したようだった。
「ご自分でどうぞ」
「なら、訂正だ。このトンマ、ってな」
にやっとしたレベッカは肩を大仰にすくめた。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
宿にもどった四人は、少女を宿の2階にある個室に寝かせた。彼女と共に旅をしていたらしい女性も気を失っていたらしく、同じ部屋に運び込まれていた。雑魚寝の大部屋ではなく、個室を貸してくれたのは宿の主人達に礼をいうべきかもしれない。込み入った話はこういうところの方がいい。それに、コズンでもオークやトロルと雑魚寝はごめんだった。いつ、腕や指が奴らのおやつになるか分かったものではない。
コズンはそんなことを考えながら、手慣れた様子で水桶から取り出した布を絞り、女性の頭にのせてやった。
そしてまったく動かず、虚空を見つめるフェイに向かって口を開く。
「フェイ、ぼーっとしてんだったら、主人に発破かけて来てくれ、女手と厚い湯、身体を拭く清潔な布を。間違っても雑巾みたいな奴じゃダメだ。女の柔肌にヤスリはかけたくないだろう」
フェイは内容をあまり吟味せず、頷くと下の階へおりていった。
「あーいう、いらつき方する奴はなぁ、めんどくせぇ」
レベッカは首を振った。
「違うんじゃない? 確かにあんたみたいに仕事の失敗をものに当たったり、人を殴ったりするタイプじゃないけど」
「だったらなんだ、この嬢ちゃんに惚れちまったのか」
引きつりながら言った冗談は我ながら駄作だった。やはり、付け焼き刃ではだめだ。
「あんた、似合わないから、その手のこというのやめなさい。不自然。何あんたこそ焦っているの?」
「っせぇ。で、なんだ。フェイの野郎は」
「あの青いローブの男に何か言われたんじゃない? それで考え込んでるんだわ」
むぅ、と唸るコズン。やはりあの仙人然した男の方が一枚二枚上手で何か揺さぶりがあったのだろうか。
娘の呼吸がまた荒くなった。話しは打ち切りとばかり二人は彼女へと寄っていく。
「こいつは、喘息か何かか? それにしちゃ、おかしい」
呼吸を楽にするため、胸をはだけさせ、血止めの葉を剥がすついでに、この娘の刻印をもう一度見た。
刻印からは相変わらず血がにじみ、血止めの葉はまったく効果がないようだった。呪いかなにかなのかもしれない。
どたどたという音共に後ろのドアが開き、恰幅のいい、桶を抱えた中年女と熱湯の入った瓶を持たされたフェイだった。
「ほら、とっとと出て行きな、女の子はデリケートなんだ」
コズンとレベッカは顔を見合わせた。聞き覚えのある声だった。
「コズンじゃないか、あんた、いつまでフラフラしてんだい」
「リズ、後で聞かせてくれ。それより頼んだぜ。飛び大口の腹んなかにさっきまでいたんだ、よく拭いてやってくれ」
フェイから桶を取りあげて、リズは神妙に頷いた。
「行くぞ、フェイ」
コズンがとっと下がろうとした時、引き留める高い声がした。
「待ってください、オオカミの末裔」
フェイは無言で振り返った。こう呼ばれるのは今日で2回目だった。
少女は上体を起こし、胸の間の刻印をこちらに向けている。フェイが彼女に近づくとそこからじわじわと血が広がった。
「あとにしな!」
リズは体重に比した声量で二人の間に入った。
「あんたは体調を整えるのが先、あんたはその陰気な顔を洗ってくるのが先!」
顎でコズンに指示してから、リズは少女を無理矢理寝かしつけた。コズンはさっさと下の階へ降りる。フェイはまだ納得いかなそうな顔だったが、リズが湯を張り始めるとさすがに立ち去るしかなかった。
――――――――――――――――
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NPC: レベッカ、青年、召喚獣のみなさん、リズ、少女
場所:町はずれの墓地
「アカデミーの意地もあるが、俺にはたどり着かねばならないところがあるのを忘れていた。お前は強いが、それでもお前程度に勝てないようでは到底そこにはいけるはずもなかった」
フェイという男。浮かべた笑いの裏には狼が潜んでいるような気がした。
一度だけ戦ったことのある気配だった。憎らしさと悔しさを感じる。それが、男の心に波紋を立てる。あの娘の捕獲を命じられたこと自体、それに関わっているのではないか。あの忌まわしい狼どもに。
「……やはりあまりよくない仕事を受けてしまったようだな」
すっ、と一歩引き、ローブから何本もの棒を取り出し地面へと放る。同時にフェイが間合いを詰めた。
銀の風のように間にフェイに牽制を放つヤクシャ。だが、フェイはヤクシャそのものを飛び越えると、ローブの男へ剣を振り下ろす。しかし、その一撃は下から飛び出してきた赤い固まりが盾となって防いだ。赤い固まりは緑色の体液を吹き出して、倒れる。すると幻であったかのように消え去り、砕け散った棒だけが残った。
「無駄だ」
わずかな音ともに着地したフェイは、後ろから襲いかかるヤクシャを避けながら、言った。赤い盾によって一歩引く時間だけを手に入れた男は厳しい顔のまま、指を鳴らす。
ずるずる、と引きずるような音ともに2匹もの赤い大百足が地面から這い上がってくる。威嚇せんと牙をならせば、毒液がしたたる。フェイは驚いた様子もなく、下段に剣を構え、迷いなく踏み出し、飛びかかる百足の腹を断ちきる。横手から噛みついてきた百足をその勢いのままの回転するように切り払う、ともはや男は間合いの中にいた。
引き裂かれた空気が悲鳴を上げて、剣の存在を主張したが男は右腕を盾に受け流すのが精一杯だった。それでも鈍い音がして刃が肉へと食い込み、血がどろりと流れ出る。
青いローブの男は血を流す腕を意識した。迷いがなくなったのならば、戦士としての腕はあちらの方が上、あの女は取られた。これ以上長居は無用だ。依頼は放棄しよう。煩わしい服務規程は冒険者達と違って自分にはないのだから。
剣を構えた男にはその気はないだろうが。だが、怖くはない。ただ、強いだけの人間をおそれるほど、年期は短くない。
「……ふん」
男は力を抜き構えを解いて、すっと下がった。存在を希薄な存在が、それこそ薄い布がただ揺れるように。
自然すぎる動きで反応の遅れる、フェイの追撃は煙を切るように手応えがない。相手はもう三歩分は下がっていた。ヤクシャは昆虫のような素早さで間に入り込み、フェイをとどめる。
「どけっ!」
ヤクシャがフェイの動きをとどめたのは十秒に満たない。枯れ枝のような体はものの数秒でフェイの剣が閃き、横薙ぎにヤクシャを切り裂いた。それだけで、青いローブの男には十分だった。断ち切られたヤクシャごしにフェイの顔をじっとにらみつけながら、かかとで三回大地を蹴った。
「覚えておけ、狼の末裔よ。おまえも狙われるだろう」
それはフェイだけに聞こえる程度の小さな声だった。あたりが揺れ、墓石やら錆びた剣やらが倒れる。その中で青いローブの男は無理矢理笑った。
「なっ」
揺れを本能的に警戒したフェイは質問を返すべきか、踏み込むべきか一瞬悩んだ。その一瞬に大地が引き裂かれ、壁のような何かがいくつかせり出して、男をドーム状に包んだ。小屋ほどある壁の下には土色の分厚い皮が土台になっている。それには妙に丸っこい黒目がついていて、くりくりとフェイを見つめた。
「ロック・ウォーム!」
フェイにも今回ばかりはレベッカの声が、妙に耳障りだった。わざわざ、土の軟らかい所を選んだのはこの大長虫を地面に潜ませておくためだったらしい。壁のように見えたのは岩盤を削るための鈍く固い歯だ。ただの剣で切りたければ竜殺しでもよばなければならない。
ずずっと這いずる音が墓地に響き、ロックウォームの先端は地中へと消えていた。軟らかい土が穴をすぐにふさいでしまった。
「なぜ、あいつが?」
フェイは考え込むように下を見つめた。断ち切られた木の棒と盛り上がった地面だけが目に写った。
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コズンは少女の呼吸を確認した。一目見ただけで青白い顔へ、耳を近づけるとかすかに息はある。だが、胸からがかなりの量の血が滴っていて、コズンは冬でも来たように震えた。服は白を基調としている珍しい旅装束で、胸の赤が恐ろしいほど映えていた。
「けっ、人工呼吸はなしか。じゃあ、せいぜいいいもんみせてくれよ」
偽悪や粗野な振る舞いで内心をごまかすのはコズンの生まれてからの性分だった。しか、ごまかしきれるものでもなかった。棘の上を歩くような気持ちで下卑た笑いを浮かべながら、怪我の様子を見る。服が多少薄汚れているぐらいで、胸以外、異常はないようにみえた。服の上から触れる血が妙に暖かくって、コズンの寒気は止まらないのだった。腹から出すとき、粗相でもしたのか。それともあの修行者気取りは殺してから連れて行くつもりだったのか。
「勘弁してください、死神様。慈悲を」
不安を掻き立てるように、あたりが揺れた。墓石が倒れ、背中の方においておいた槍を刃ごとばらばらにした。
情けない面で、胸をはだけ傷を確認すると、丁度胸の中心に妙な刻印があった。血はそこから定期的ににじんでいるだけのようだ。刻印はオオカミ避けの刻印に魔法陣を混ぜたような形をしていた。傷といえば傷だが、この手のきちんと彫り込みには時間がかかる。たぶん騒ぎ途中に彫り込みが終わったのだろう。それにこんな刺青で死にはしない。血の量はおかしいような気もしたが、だからといってこれ以外傷という傷もない。
「慈悲を、感謝します」
ため息のように祈りの言葉を漏らす。そして、娘をひとにらみして、男ならぶん殴ってやるとこなのに、と呟いた。
むすっとしながら、簡単に血止めの草を貼り付けて布で固定してやる。慣れた様子で、ささっとすませ、服を戻す。
「コズン、あっちは終わったわ」
レベッカがそわそわとした様子で、言った。
「あの青いローブは?」
「逃げられたよ、頭が小屋ぐらいある大長虫なんて伏せていたの。もっとも逃亡用の切り札みたいだったけど」
コズンはちらりとフェイを見た。疲れたように、下を見ているフェイの背中はなんだか張り合いがなかった。
「役にたたねぇ奴」
淡々とした様子のコズンは言葉を考えて、口を開いた。
「奴には、気にするな、って言っといてくれ」
レベッカは澄ました様子でコズンをよく見た。やっとこの馬鹿も、本調子を取り戻したようだった。
「ご自分でどうぞ」
「なら、訂正だ。このトンマ、ってな」
にやっとしたレベッカは肩を大仰にすくめた。
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宿にもどった四人は、少女を宿の2階にある個室に寝かせた。彼女と共に旅をしていたらしい女性も気を失っていたらしく、同じ部屋に運び込まれていた。雑魚寝の大部屋ではなく、個室を貸してくれたのは宿の主人達に礼をいうべきかもしれない。込み入った話はこういうところの方がいい。それに、コズンでもオークやトロルと雑魚寝はごめんだった。いつ、腕や指が奴らのおやつになるか分かったものではない。
コズンはそんなことを考えながら、手慣れた様子で水桶から取り出した布を絞り、女性の頭にのせてやった。
そしてまったく動かず、虚空を見つめるフェイに向かって口を開く。
「フェイ、ぼーっとしてんだったら、主人に発破かけて来てくれ、女手と厚い湯、身体を拭く清潔な布を。間違っても雑巾みたいな奴じゃダメだ。女の柔肌にヤスリはかけたくないだろう」
フェイは内容をあまり吟味せず、頷くと下の階へおりていった。
「あーいう、いらつき方する奴はなぁ、めんどくせぇ」
レベッカは首を振った。
「違うんじゃない? 確かにあんたみたいに仕事の失敗をものに当たったり、人を殴ったりするタイプじゃないけど」
「だったらなんだ、この嬢ちゃんに惚れちまったのか」
引きつりながら言った冗談は我ながら駄作だった。やはり、付け焼き刃ではだめだ。
「あんた、似合わないから、その手のこというのやめなさい。不自然。何あんたこそ焦っているの?」
「っせぇ。で、なんだ。フェイの野郎は」
「あの青いローブの男に何か言われたんじゃない? それで考え込んでるんだわ」
むぅ、と唸るコズン。やはりあの仙人然した男の方が一枚二枚上手で何か揺さぶりがあったのだろうか。
娘の呼吸がまた荒くなった。話しは打ち切りとばかり二人は彼女へと寄っていく。
「こいつは、喘息か何かか? それにしちゃ、おかしい」
呼吸を楽にするため、胸をはだけさせ、血止めの葉を剥がすついでに、この娘の刻印をもう一度見た。
刻印からは相変わらず血がにじみ、血止めの葉はまったく効果がないようだった。呪いかなにかなのかもしれない。
どたどたという音共に後ろのドアが開き、恰幅のいい、桶を抱えた中年女と熱湯の入った瓶を持たされたフェイだった。
「ほら、とっとと出て行きな、女の子はデリケートなんだ」
コズンとレベッカは顔を見合わせた。聞き覚えのある声だった。
「コズンじゃないか、あんた、いつまでフラフラしてんだい」
「リズ、後で聞かせてくれ。それより頼んだぜ。飛び大口の腹んなかにさっきまでいたんだ、よく拭いてやってくれ」
フェイから桶を取りあげて、リズは神妙に頷いた。
「行くぞ、フェイ」
コズンがとっと下がろうとした時、引き留める高い声がした。
「待ってください、オオカミの末裔」
フェイは無言で振り返った。こう呼ばれるのは今日で2回目だった。
少女は上体を起こし、胸の間の刻印をこちらに向けている。フェイが彼女に近づくとそこからじわじわと血が広がった。
「あとにしな!」
リズは体重に比した声量で二人の間に入った。
「あんたは体調を整えるのが先、あんたはその陰気な顔を洗ってくるのが先!」
顎でコズンに指示してから、リズは少女を無理矢理寝かしつけた。コズンはさっさと下の階へ降りる。フェイはまだ納得いかなそうな顔だったが、リズが湯を張り始めるとさすがに立ち去るしかなかった。
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