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人物:ライ セラフィナ
場所:海上(デルクリフ⇔ルクセン)
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海賊船から縄梯子が渡されるころには完全にパニックが広がっていた。右往左往する
しかない船員たちの叫び声が重なる。
「抵抗したら殺せ!」
その騒がしさを貫いて、ハスキーな声が宣言した。
それに応えるように船長らしき男が「下手に抵抗するな!」と叫んでいた。そんなこ
とをしなくても、戦えそうな船員は少なそうだったが。
「…………普通、海の男っていうのは強いんじゃないの?」
小声で毒づく。乗る船を間違えたか。
舌打ちしてライは階段を駆け下りる。甲板にいてもどうしようもなかった。一人で大
勢の敵を追い払うなんて、そんなことは物語の主人公にしか出来ない。現実の悪党は、
虚構ほど馬鹿ではない。そんなことは知っている。
「いいね、船旅――最高に素敵な旅じゃん」
ライは吐き捨てて、階段を降りた廊下から、灯りの点された甲板を見上げる。壁の影
になって殆どわからなかったが、騒ぎはすぐに収まったようだった。船員たちは大人し
く捕まってしまったらしい。
墨よりも黒い夜の闇に浮いた二隻は遥か上空から見れば木の葉のように頼りなく見え
るのだろう。神が気まぐれで墨をかき回せば、簡単にひっくり返ってしまほど。
階段の上に光が見えた。開かれたままの扉を潜り、ランタンを手にした二人の男が降
りてくる。一人はもう片方の手に、湾曲した片刃の剣が抜き身で提げられているのが見
えた。もう一人はその影で見えなかったが、丈長の上着を着ているようだった。
その光が自分に届く前に踵を返す。セラフィナの部屋の場所を確かめておかなかった
のは失敗だったが、船が敵の手に落ちることを防げない今、せめて彼女だけでも守らな
ければならなかった。
どうやって、かはわからない。その場に来た者を全員、斬り倒せばいいのだろうか。
この船全体を人質に取れる相手に、そんなことができるわけがない。でも、とにかく彼
女を探さないと――
手の中に剣を具現させる。折りたたまれた刃が柄に収まったままのそれに指を這わせ
て、刃を出すための金具の位置を確認するとライはそれを、体の影になるように握った。
自分から騒ぎを起こす考えは今のところなかったが、見つかってしまったときには一瞬
で相手を無力化できるように。
思うように姿を消せるようになってから忘れかけていた、人間としての能力と技術だ
けを頼りに日々を送っていた頃の技――体の影から刃を振るい、相手の肋骨の間に精確
に突き立てるタイミングを。馬鹿みたいに単純だから難しいあの感覚を。
殺すわけにはいかないけれど。
騒ぎを起こすつもりはないとはいえ、あの二人だけはなんとかする必要があった。そ
うじゃないと、セラフィナを探せないから。
ライは足を止めて振り返る。暗闇から一気に奇襲をかけるつもりだった。
――首筋に突き刺さるような寒気。金具を押して刃を伸ばすと同時に、目の前の闇に
向かって剣を振るう。
一瞬遅れて光が見えた。どん、と、鈍い衝撃が体を揺らす。
何故か手から力が抜けて、振り切れなかった剣が闇の向こうに放り出される。胸の中
に冷たさを感じた。
「抵抗したら、コロすよ? さっき聞いてただろ?」
甲板で聞いたハスキー声。甘く囁くように言われて、ライは意味がわからずに瞬きし
た。自分の目と同じ高さで切れ長の双眸が細められている。幽かな光の瞬き。
さっき? 甲板の影にいたときから見つかっていた?
「だから、死ね」
胸を貫く冷たさが熱さになって、痛みに変わる。ずるりとその原因が体の中から抜き
出されてからようやく、ライは悲鳴を上げようとした。その瞬間に鳩尾を、恐らくは蹴
り飛ばされて、声も上げれずに背中から廊下に叩きつけられる。
その音でもう一人が「キャプテン、どうしましたか!?」と声を上げて駆け寄ってこよ
うとした。目の前の男がそれに平然となんでもないと答え、客は全部で五人だから甲板
に集めておけと命令する。
「じゃあ、あと二人ですね」
「ここはその三人で全部だ。
上にも客室があったね。あと一人は……」
男があっさりと踵を返す。追おうとしたが体が動かなかった。
死んでも死体の中に意識があるとしたら、きっとこんなだろう。闇が深くなる。足掻
くように周囲を探ろうとしたが眼球が動いた感じはしなかった。音だけが木霊すように
響いて聞こえる。冷たさのない水の中に沈んでいくような。水は傷に染みる。
実体を保てているのは奇跡かも知れなかった。
「あと二人です」
「俺が一人だって言ってんだよ?」
痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛いいたいイタイ――体の中で何かが焼き切れるよう
な熱が意識に突き刺さる。肌を濡らす血が気持ち悪い。どうせ本物じゃないくせに!
船が泊まってくれたら、こんな傷なんか、すぐにでも消してしまえるのに。物理的な
要因でいくら幻を壊されたって、一度姿を消すことさえ出来たら治せる。そしたら……
「 」
物語に出てくるくらい馬鹿みたいな強さの敵。襲われた船。残虐な海賊。これが本当
に物語りだとしたら、何が足りない?
決まっている。得体の知れないモンスターだ。前に読んだ冒険活劇ではそうだった。
悪党も一般人も平等に襲う化物。それは最後に主人公に倒されるが、
「ああ、イカリは下ろしておけ。
荷を確かめる必要があるんだから」
もうこちらを殺したと思っているらしい男の声にライは内心だけで微笑んだ。
そう、船を泊めてくれるんだ?
セラフィナは、ライが元気になったら嬉しいと言ってくれた。だから早くてもいい。
彼女に見えるところで人を殺したら、嫌われるかも知れない。だけど、彼女は優しいか
ら……あなたの手伝いがしたいんです、と言ってくれた笑顔を信じてみよう。
自分は人を殺すかも知れない魔物だと教えたときに彼女は嫌わないでくれた。人を殺
した魔物でも、嫌わないでいてくれるかも知れない。
だったら、化物役をやってもいいだろう。褒められない方法で悪党を減らしていく役
割。物語の化物はヒロインも襲うけれど、自分はそんなことをしないから、彼女を助け
られるかも知れない。
悪党を食ったモンスターは最後に主人公に倒されるが、
――この船に、無敵の主人公はいない。
強い波のせいか、大きく船が揺れた。
横につけた海賊船にぶつかったのか、さっきほどではないが強い衝撃が木材を伝わる。
船が泊まっただろう頃合を見計らってライは一度姿を消し、像を結び直す。胸の傷も服
に染みた血も消えたことを確認して彼はゆっくりと立ち上がった。
かわりに、右腕や、左目の辺りがかすかに痛んだ。傷が深くなったか大きくなったか。
そんなこと今はどうでもいい。
真暗な廊下から天井を見上げ、吐息する――さっきは捨て鉢に決意したが、痛みがな
くなってみれば、馬鹿げた考えだった。これは物語ではなく現実だ。化物にはならない。
人は殺せない。
「……捕まってたら……助けるからね?」
自分が死んだことになっているなら都合がよかった。相手はきっと油断している。
ライは廊下の床に投げ捨てられていた剣を拾い、再び姿を消して甲板へと。
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人物:ライ セラフィナ
場所:海上(デルクリフ⇔ルクセン)
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広い船室に毛織りの絨毯。天蓋でも付きそうな柔らかいベッド。壁にはいくつもの
舵が飾られ、一枚板の机には革張りで肘掛け付きの椅子が付いている。
キャプテンと呼ばれた人物はセラフィナをベッドに横たえると、顔にかかった髪の
毛を優しく払いのけ、結い上げた髪を紐解いた。
「無粋だなぁ、コレ」
セラフィナの額にかかる布に手をかけ、悪寒を感じて手を離す。
キャプテンは自分の予感や直感を信じていた。ソレが何の根拠もないことだとして
も、今まで信じてきたから自分が今ここにいるのだと思っていた。だから。
「外すのはやめておこうか、お姫様」
あっさりと外すことを諦め、立ち上がる。
しかし、美的感覚はどうも納得しないらしい。片方の眉を上げ、部屋を見回し、戦
利品の一つである衣装箱に手をかけた。
何処のお嬢様の荷物だったのだろう。舞踏会で着るような、裾の広い淡いピンクの
ドレスが一着と、華やかさを抑えた、肩を出すデザインのシンプルな深紅のドレスが
一着、そして喪服のようにも見える黒のドレープが美しいドレスが一着。どれも見事
な素材で、ずいぶん金がかかっているだろうと思わせるモノだった。
「貴女にはコレがきっと似合うね」
選んだのは黒いドレス。気を失ったままのセラフィナの服を、丁寧に優しく剥ぎ取
っていく。服の下のサラシに目を留めたが、眉をひそめ、小さく「無粋だ」と呟い
て、結局すべてを取り除いてしまった。白い肌に引きつったような大きな傷跡が浮か
び上がる。
「こんなに綺麗なのに」
傷に指をそっと這わせ、愛でるように笑う。セラフィナが体を震わせ、意識を取り
戻しそうにならなかったら、おそらくいつまでもそうしていただろう。残念そうに傷
跡から手を離すと、慣れた手つきでドレスを着せていくのだった。
「やはり貴女は美しい」
仕上げに薬指でセラフィナの唇に紅をさす。ベッドの上でお人形のように飾られた
セラフィナは、手足に鈍色の鎖をつけられて眠っていた。
コホン。
扉の前で咳払いをする音が聞こえる。楽しみを終わらせるのは残念、と思いつつも
一段落して気が済んだのか、キャプテンは舌打ちをしただけで扉を開けた。
「積み荷の確認、早かったね」
「あ、の、ソレが……」
手下はモゴモゴと口ごもるだけで要領を得ない。機嫌がよかったはずのキャプテン
の目がすぅっと細くなり、笑顔が消える。
「あんまり待たせると、消すよ?」
いつのまにか手には抜き身の剣。怯えた男はしどろもどろながらも状況説明を始め
た。
「あの、いや、よく分からないのですが、つまり、それがですね、なんともは
や……」
キャプテンの曲刀が妖しい光を反射する。
「つ、つまり、何処を探しても一人見つからないんです!」
「誰を捜してる?乗員は全員甲板に出したろう」
あきれたように剣を納めるキャプテン。しかし、目の前の男の震えは止まらなかっ
た。
「あの、始末するよう言われました死体が消えているんです!血痕すら跡形もな
く!!」
涙目で訴える男。さて、死体とは……ああ、あの男か。突き刺した剣の感触からし
て助かっているわけがない。
「もう一度探せ。誰か協力者が潜んでいるようならソイツも捕まえろ」
反抗的な密航者でもいたか……?どうも面倒なことが近づいてきている気がする。
直接指揮をとるために部屋を後にし、キャプテンは月を見上げた。
「まあいい。美しい月が笑っている」
にやっと笑って手下に指示をとばす。
「オマエとオマエは向こうから、ソコの、ああ、オマエだよ、オマエはアッチからソ
イツと一緒に回れ。単独行動はとるな、二人か三人で行動しろ。オイ、キョロキョロ
してるんじゃない、一緒に来るんだ。繋いでいる間にコッチに移った可能性もあるだ
ろう」
「「は、はいっ!」」
一斉に帰ってくる返事を受け止め、それぞれに細かい指示を出していく。残りには
甲板の捕虜の見張りを言いつけ、一刻の後に同じ場所へ戻るよう言い渡す。他の者が
動き出すのを確認してから、キャプテンは海賊船の探索へ向かうのだった。
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人物:ライ セラフィナ
場所:海上(デルクリフ⇔ルクセン)
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炎の橙だけが、海の上の船を支えているようだった。
舞台に幕を下ろすように炎を消してしまったら、幕を下ろされた劇のように、世界が
終わってしまいそうだと。そんなことは馬鹿げた空想に過ぎない。だがライは甲板の真
中で立ち止まり、一箇所に纏められて柱に縛られた船員や乗客を眺めた後で、無造作に、
壁にかけられた松明の一つに手を伸ばした。
ほんの一瞬だけ姿を現す。掴み取って投げ捨てるまで。
夜の海に落下した炎が短い蒸発音を残して消える。
海賊たちがざわめいた。誰だ馬鹿な全員集めた。
ライは誰にも見えないまま灯りの中に進み出て、焼け爛れた革手袋を放り捨てる。
直すのは後にすることにした。本気で人を脅かそうと思うなら、この白骨の手は便利
だから。
甲板に落ちる前に黒い粒子に変わって散った手袋を気にすることなく、素手の右手に
剣を握り――
『……そーだったね、全員生きたまま……か』
溜め息をつく。剣を使って、殺さずに勝つ方法なんか知らない。見よう見まねで頑張
るしかないか。下手に警棒を使うと、それこそ殺してしまうかも知れない。
最近、どうしてこうも武器を使うことが多いのだろう。セラフィナに会ってから急に、
という気がしなくもないけれど、彼女のせいではないのは確かだった。不幸な偶然。今
回に関しては自分がコールベルに行きたいなんて言ったために巻き込んでしまったよう
なものだ。
「ちょっと見てきます!」
一人が名乗り出ると、他の海賊たちはまた人質の監視に戻った。中へ荷を確認しに行
っているのは数人だから、黒い船にいる者以外はここにいることになる。少人数を動か
して、他はすぐに別の行動に出れるように待機してあるのか、それとも、あまりやる気
がないからたむろしているのか。
こん、こん、と近づいてくる足音。ライは剣の金具を操作して、刃を解放する。実体
を持てばこの刃は灯りを反射して綺麗に光るだろう。それが少し楽しみだった。
偵察に来た男とすれ違う。その瞬間に、ライはまた短い間だけ実体を顕現させた。
剣の柄頭を相手の後頭部に叩き込み、完全な力技で昏倒させる。
どさり、と人間の体が倒れる音が重く響いた。
振り向いた海賊たちが静まり返る。船員の一人が、あ、と呻いた。
彼らに見えるのは、明かりのなくなった一角に倒れ付した海賊一人。
別にホラーの真似事をするつもりはなかったが、一様に目を見開いて言葉を失う観客
の反応が予想外に面白くて、ライは、くっくっ、と喉の奥で小さく笑った。
そうだねどうせだったら思いっきり怖がらせてやるのも悪くない。
さっきのくだらない思い付きが脳裏に蘇って、少し高揚した気分で人質たちを見たが、
その中にセラフィナの姿はなかった―― 一瞬にして興醒めする。
それから、自分で自分の感情の移り変わりを「忙しいな」と呟いて嘆息。
ここに来るまでに念のため、甲板近くにあるという客室を確かめてみたが、誰もいな
かった。そして、ここにもセラフィナの姿はない。
だとしたら……
ライは視線を、すぐ横に停泊している黒い海賊船に向けた。
嘗てはどこかの軍船だったらしい海賊船の内部は、意外と丁寧に手入れされているら
しかった。所々に小さな灯りを掲げられた薄暗い廊下の先を眺め、ライは姿を現した。
見下ろした抜き身の剣を白骨の手で握り直し、柄が小さくギシと軋むのを聞く。
「――!」
ばたばたと甲板を走る音が聞こえて、ライは物陰に滑り込む。
音を立てぬようにその何者かを見送ってから、素直にその場で消えればよかったと気
がついた。
溜め息をついて、彼は姿を消して追いかけることにした。
慌てて走っているのは海賊だった。他の人間がいるはずもないが。確かさっき人質の
見張りをしていた連中ではない。
急ぎの用だったらしいのに何故か扉の前で立ち止まって何かを待っているようだった
海賊が、コホン、と咳払いをした。扉が開かれる。現れた人物を見て、ライは薄く微笑
んだ。
丈長の上着を羽織った男。さっきは暗闇のせいでよくわからなかったが、自分と同じ
くらいの背丈の彼は随分と細身だった。まるで女性のようなシルエット。
彼は近くにいた数人に命令を飛ばし、自分も剣を持って部屋を出て行く。
その背中を短い距離だけ追いかけて彼が甲板に出たのを確認すると、踵を返して船長
室へ戻る。
その途中で思いついて振り返り、誰にも聞こえない声で小さく囁いた。
『頑張ってね? 綺麗な月に嘲笑われないように……』
子供の頃に読んだ本を思い出す。空想に憧れていた昔のことを。
本の中で海賊は、英雄であり悪魔だった。海に関わるもの全てに恐れられる、無骨で
勇敢な海の戦士――
扉を開けてライは一瞬、思考が止まるのを感じた。
すぐに我に返って、何故自分が焦っているのかもよくわからないままに改めて部屋中
を見渡す。上等の品だと一目で分かる毛織の絨毯。部屋の中央に置かれた椅子付きの執
務机も質素だがアンティークだろう。そして天蓋付きの寝台。
ちょっと待てここ本当に海賊船!? っていうか船の上なのかマジで!!?
よくよく見れば壁にはいくつもの舵が掛けられ――ただの飾りだとしても一応、船と
関係のあるものだ――ているのを見て、少しは正気が帰ってくる。
執務机の上に古びた地図らしき紙切れが広げられているのも材料になんとか自分を説
得して、認める。よーし、ここは船の上だ。おっかない海賊の船長さんの部屋だぞー。
…………。
何故か涙が滲んだのを感じて、ライは剣を握った手の甲でそれを拭いかけ、自分の手
の硬さにますます落ち込みそうになる。ああ、理想と現実って違うんだなぁ……
いつの間にか消えかけていた体を現実に引き寄せる。それでもやはりぼやけていたが。
子供の頃からまだちょっと捨てられずにいた海賊への憧れとかそういうものが綺麗に
粉砕されました。いやちょっと待ってよお願いだから。あのベッドはありえないでしょ、
お姫様じゃないんだから。
「……お姫様?」
まさかな、と思いながらも、その寝台へと近づいていく。
白いシーツの上に、黒色のドレス、黒色の髪。露出した肩の白さが妙に艶かしく見え
て、ライは思わず唾を飲み込んだ。
「セラフィナ……さん……?」
恐る恐る呼びかける。他にいるとも思えなかった。船長の愛人だったらどうしよう。
悲鳴を上げられたら困るなぁ。女の人には乱暴なことできないし。混乱しているのを自
覚して、しかし自制しようとは思いつかずにライは細い肩に手を伸ばす。こちらから、
寝台で眠る女性の顔は見えなかった。
彼女の体に触れる前に思い直して手を引き、寝台の反対側へ回る。
横たわって瞳を閉じた女性は確かにセラフィナだった。唇に引かれたルージュのせい
か、顔色がひどく青ざめて見える。錯視だろうか。ただ眠っているだけならいいのだけ
れど。
「セラフィナさん、起きて……っていうかどうしたの、この服」
彼女を起こそうと、そうっと体を揺さぶる。それに合わせて、じゃら、と、重く綺麗
な音がした。ライはその発生源に視線を向けて初めて、彼女の手足に枷が付けられてい
ることに気がついた。
金属の鎖。長さに余裕はあるけれど、この寝台から降りることはできないだろう。剣
で絶つことは不可能な太さだ。せめて硬い台の上に固定することができれば別だろうが。
金属の角で、白い肌が赤い擦り傷を作っていた。身じろぎすれば皮膚が切れるかも知
れない。こういう傷は痛いし、下手をしたら跡が残るんだ。
そこまで観察してから、ライは目を伏せた。
表情を変えないまま噛み締めた奥歯が小さく音を立てる。
「……あいつだね?」
枷を見つめ、意識して口を開き、ゆっくりと声を言葉にする。
「あの気障野郎がやったんだな?」
彼は強く剣を握り直して立ち上がった。
乱暴に扉が開いて、あの男が現れるのと同時だった。
「さっきから妙な気配がすると思って戻ってきたら……
生きてたんだオマエ。聞きたいこともあるけど、とりあえずそこから離れないと消す
よ?」
「ざけんな変態」
特徴のある高い声をライは鼻で笑う。そんな偉そうな口利けないようにしてやる。
だってセラフィナさんにこんなひどいことしたんだから。
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人物:ライ セラフィナ
場所:海上(デルクリフ⇔ルクセン)
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「ざけんな変態」
軽蔑したように鼻で笑うと、ライは間髪置かずに突っ込んだ。
「ああ、なに?オマエ、人じゃないね?」
扉から身を引き、ライの攻撃を避けながら海賊は呟いた。距離がもう少し短ければ
避けることは出来なかったかもしれないが、その微妙な差に味方されたたようだ。剣
を構える白骨の手を見、きびすを返すと挑発するように甲板への道を誘った。
「この部屋でソレ振り回すと、彼女を傷つけるかもしれないし、もし暴れる気がある
んならもっと広いところでやろうや」
ニヤリと笑い、ふと思い出したように恍惚の表情を浮かべながら付け加える。
「ああ、彼女の肌は本当にキレイだよね。大きな傷跡さえも美しい……オマエは何処
まで知ってる?」
その一言は、ライを挑発するに足るモノだった。
「!!」
「そうだよネェ、吸い付くような肌の柔らかさや胸の弾力なんて、知るはずがないよ
ネェ……カワイソウニ」
ライの表情が険しくなるのを確認して、少し高いトーンのハスキーな声が嘲笑す
る。
言っているのが本当のことかどうかなんてこの際関係なかった。
この馬鹿を黙らせる。
ライは後ろ手に扉を閉め、その一言を胸に後を追って走り出した。
バタン。
大きな扉の音にセラフィナは眉をひそめた。微睡[まどろ]む意識を揺さぶられて
不快感を覚える。その不快感を振り払うように寝返りを打とうとして、カチャリとい
う金属音と手首の痛みにセラフィナは違和感を感じた。
「……ぇ?」
ゆっくりと瞬きし、頭の中で時間が止まる。知らない部屋、知らない服、そして、
夢ではないと嘲笑うかのような重い手枷。思わす上半身を跳ね起こすが、辺りを見回
すことしかできない。
「なっ……どうして」
誰もいない部屋で、囚われている自分に呆然とする。手を見ると長い手袋。裾が柔
らかく広がる黒いドレスを見下ろし、ベッド脇に剥ぎ取られた服が雑然と放置されて
いるのが目に入った。当然服の上にはサラシも置かれている。ドレスとサラシを交互
に見比べ、セラフィナは羞恥に顔を覆った。
「……ライさん……っ」
不安に潰れそうになるのを必死に堪え、セラフィナはライの名前を口にする。
大丈夫、まだ大丈夫。ライさんはきっと上手く逃れているから。
何度も何度も自分に言い聞かせて、セラフィナはようやく顔を上げた。まだ顔は火
照っているモノの、どうにか冷静になれそうだ。
しかし、死の恐怖を味わったときよりも、今のこの状況の方が逃げ出したくて堪ら
ないというのはどういうことだろう。
考え事をしながら何とか抜け出そうと試行錯誤するモノの、手枷と鎖は頑丈で、セ
ラフィナの力で壊すのは無理そうだった。すり切れた肌に血が滲み、やるせなさがこ
み上げる。鍵穴も小さく、素人が針金でどうにかできそうな南京錠並の代物ではなさ
そうだし、自分に鍵開けの技術がないことを悔やまずにはいられない。諦めて飲み物
に手を伸ばそうにも、サイドテーブルまで届くはずもなかった。
「とりあえず……何か出来ること……何が出来る……?」
小さく呟きながら考える。手枷を外す方法は思いつかない上に見つからないので、
ひとまず放置しておくことにした。では、手枷をつけられたままで出来ることを考え
なければ。
下を向いてブツブツ呟きながら考えているとドレスの生地がイヤでも目に入ってく
る。服を着替えさせられた事実も受け入れるコトが難しかったが、着替えさせられて
いる間も自分が気付かなかったことに腹立たしさを覚え、セラフィナは唇を噛んだ。
月明かりだけでも結構鮮明に見えるモノで、甲板には影のないライと影のある海賊
が対峙する。たいまつは見当たらない。ココからはちょうど見えない位置になってし
まったが、貨物船の方では海賊達が俄[にわか]に騒ぎ始めていた。
「なんかした?」
親指でもう片方の船を指し、長身の海賊は無言で剣を構えるライを見て笑う。
「ま、イイケドね」
そういうとすうっと笑みが消えた。冷たい視線がライを捕らえ、海賊も剣を構え
る。
「こないの?さっきは威勢良かったのに、案外臆病だね、オマエ」
挑発するだけして剣を突き出す。ライの姿が消えた、と思ったら後ろからの一撃。
とっさに前転しなかったら斬られたのは髪の毛だけじゃ済まなかっただろう。キャプ
テンは小さく口笛を吹いた。
「さすが反則技」
「消すって言うから消えてみただけだよ」
少し冷静になったかもしれないライが今度は別の方角から言う。
「正攻法じゃ勝てそうにないしね」
さっきまでいた位置に湾曲した片刃の剣が光っていた。キャプテンは口の端を少し
あげると唇を舐め、剣を戻す。顔だけライに向けて、一言。
「思ったよりカンがイイ」
さも楽しそうに。髪を掻き上げてキャプテンは笑った。
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人物:ライ セラフィナ
場所:海上(デルクリフ⇔ルクセン)
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闇の中に氷が落ちていくような――そんな綺麗な比喩はある種の自惚れなのかも知れ
ないが、じんわりと痺れたように意識が醒めていく。温度と反比例する殺意が叫んだ。
こいつだけはブチ殺す!
思い出せと口の中だけで唱え、切っ先を前に剣を引く。
柄を握った手を、腰の高さで自分の体よりもやや後ろに構える。
独特というか無意味と評されたことはあったが、ちゃんとした剣技なんて習ったこと
もないからどうでもいい。他人の命を奪うことに何の抵抗もなかった昔の――つまりは
自分が人間だった頃の戦い方を、まるで他人の振る舞いを真似するように再現する。
「反則技でも勝てないって思い知らせてやるから、早く来いよ」
誘われると同時に踏み込む。切り上げた剣の向こうで端正な顔が酷薄に笑うのが見え
た。初めて刃の交錯し、小さな火花が刹那に溶ける。絡めた剣をすべらかな音と共に疾
走させる海賊に、ライは舌打ちして姿を消した。その直前に体に突き立った切っ先が抉
った傷はごく浅い。
「……死ぬまで何度でも殺せばいいんだろ?」
どうしたらそういった結論に至ることができるのかは知らないが――その通りだ。物
理的に与えられた傷の何割かはそのまま響くから、蓄積していけばいつかは力尽きて消
えるしかなくなるだろう。ただ消えるだけではない気もするが、実際にそうなったこと
はないのでわからない。
すぐ真横に姿を現すが、この戦法が明らかに無駄だということはわかっていた。刃を
薙ぐ予備動作は実体で行わなければ意味がない。相手はそれを余裕で認識して体を反転
させ、反撃の一撃を放ってくる。
ライは左手の中に具現させた警棒で刃を強引に逸らし、予想外の衝撃に相手の動きが
止まった一瞬に剣を突き出した。ロクに狙いを付けてもいない一撃は相手のコートを裂
いただけに留まる。そのまま追撃をかけようと剣の柄を軽く握り直し。
「――っ!?」
ぞくりと背筋を伝わった悪寒。ライは反射的に振り向いた。
目の前の男ではない。この船の上ではない。だけど近くから見えない力が広がって、
その波動が意識を小刻みに揺るがす。人の形の幻が現実から切り離されそうになる。今
までこういった感じがあったのは……
「なんだ……魔法?」
「イイネェ、余所見する余裕があるんだ?」
突き出された剣を身を、身を捻り辛うじて躱す。
もう一回くらいは斬り倒されるかも知れないと覚悟して剣を構え直す。睨みつけた先
で海賊が意外そうに片眉を跳ね上げた。
「あれ、もう消えないの?」
「……うるさい」
切り裂かれた左肩が激痛を訴えるのは無視。近くで魔力が妙な流れをしているせいで、
実体化の度合いを上手くコントロールできない。一度消えてしまえば、この魔力の波が
収まるまで姿を現すことはできなさそう。
それじゃ困る。僕は今すぐこいつを切り刻みたいんだから。
敵わないとか、相打つ覚悟だとか、そういう馬鹿馬鹿しいことはどうでもいい。
結果どうなろうが知るものか。今はこいつをブッ殺す!
――――刹那に瞬いた轟音と閃光が夜闇を蹂躙した。
ひどい衝撃が船を揺るがした。
大波に晒されたかのように甲板が大きく揺れ、上にいる全員を薙ぎ倒そうとする。
魔力の津波と物理的な揺れと、それらを同時に叩きつけられた。
咄嗟に伸ばした手がマストの支柱に届いたお陰で転倒はしなかったが、手放した剣が
甲板の上を少し滑って掻き消える。実体を保ち続けることに意識の八割方をやりながら
周囲を見渡した。
相変わらず周囲を照らすのは月光と遠い灯り。
不自然な炎の気配はないことに安堵。
「何が起こった!!」
「爆発が!」
船長の怒鳴り声に、船のあちこちから聞こえた悲鳴の一つが、答えにもならない答え
を返す。「無能め」という歯軋り。
「密航者です! あの貨物船の……ぐぅっ!」
叫びかけたその声が、妙な具合に途切れた。
再び爆発が起こる。何が起こっているのかわからない。
っていうか本当にいたのか密航者なんて。
海賊の誰かに見つけられて行動を起こしたのだろうが、いい迷惑だ。
敵の注意が逸れはしたがこちらも動けない。
更に爆発音が連なる。
一回目ほど強くはないが、その爆発を引き起こしている魔力が弾け、体の奥に染みて
軽い違和感を残す。
ちらりとこちらを見た船長が「もう少し生かしといてあげるよ」と言って踵を返す。
その目に含まれているのが鮮やかな嘲りだと汲み取って、ライは無言でその背中を睨み
つけた。誰だか知らないけど邪魔しやがって――
「……あ…」
そして、ふと思いつく。
冷静を通り越して血の気が引くまで意識が冷めた。
密航者らしい誰かがこの船の上に移動して暴れ始める前に、セラフィナを枷か
ら解放しなければならない。状況を知らない馬鹿の暴挙に巻き込まれないとも限らない。
さっきの海賊の悲鳴はすぐ近くだったから、もうこちらの船の上にいるのだろう。
強くはなさそうな爆発というのは船にとっての話だ。
人間にとっては強すぎる威力ではないとは限らないのだから。