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人物:ライ セラフィナ
場所:海上(デルクリフ⇔ルクセン)
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海賊船から縄梯子が渡されるころには完全にパニックが広がっていた。右往左往する
しかない船員たちの叫び声が重なる。
「抵抗したら殺せ!」
その騒がしさを貫いて、ハスキーな声が宣言した。
それに応えるように船長らしき男が「下手に抵抗するな!」と叫んでいた。そんなこ
とをしなくても、戦えそうな船員は少なそうだったが。
「…………普通、海の男っていうのは強いんじゃないの?」
小声で毒づく。乗る船を間違えたか。
舌打ちしてライは階段を駆け下りる。甲板にいてもどうしようもなかった。一人で大
勢の敵を追い払うなんて、そんなことは物語の主人公にしか出来ない。現実の悪党は、
虚構ほど馬鹿ではない。そんなことは知っている。
「いいね、船旅――最高に素敵な旅じゃん」
ライは吐き捨てて、階段を降りた廊下から、灯りの点された甲板を見上げる。壁の影
になって殆どわからなかったが、騒ぎはすぐに収まったようだった。船員たちは大人し
く捕まってしまったらしい。
墨よりも黒い夜の闇に浮いた二隻は遥か上空から見れば木の葉のように頼りなく見え
るのだろう。神が気まぐれで墨をかき回せば、簡単にひっくり返ってしまほど。
階段の上に光が見えた。開かれたままの扉を潜り、ランタンを手にした二人の男が降
りてくる。一人はもう片方の手に、湾曲した片刃の剣が抜き身で提げられているのが見
えた。もう一人はその影で見えなかったが、丈長の上着を着ているようだった。
その光が自分に届く前に踵を返す。セラフィナの部屋の場所を確かめておかなかった
のは失敗だったが、船が敵の手に落ちることを防げない今、せめて彼女だけでも守らな
ければならなかった。
どうやって、かはわからない。その場に来た者を全員、斬り倒せばいいのだろうか。
この船全体を人質に取れる相手に、そんなことができるわけがない。でも、とにかく彼
女を探さないと――
手の中に剣を具現させる。折りたたまれた刃が柄に収まったままのそれに指を這わせ
て、刃を出すための金具の位置を確認するとライはそれを、体の影になるように握った。
自分から騒ぎを起こす考えは今のところなかったが、見つかってしまったときには一瞬
で相手を無力化できるように。
思うように姿を消せるようになってから忘れかけていた、人間としての能力と技術だ
けを頼りに日々を送っていた頃の技――体の影から刃を振るい、相手の肋骨の間に精確
に突き立てるタイミングを。馬鹿みたいに単純だから難しいあの感覚を。
殺すわけにはいかないけれど。
騒ぎを起こすつもりはないとはいえ、あの二人だけはなんとかする必要があった。そ
うじゃないと、セラフィナを探せないから。
ライは足を止めて振り返る。暗闇から一気に奇襲をかけるつもりだった。
――首筋に突き刺さるような寒気。金具を押して刃を伸ばすと同時に、目の前の闇に
向かって剣を振るう。
一瞬遅れて光が見えた。どん、と、鈍い衝撃が体を揺らす。
何故か手から力が抜けて、振り切れなかった剣が闇の向こうに放り出される。胸の中
に冷たさを感じた。
「抵抗したら、コロすよ? さっき聞いてただろ?」
甲板で聞いたハスキー声。甘く囁くように言われて、ライは意味がわからずに瞬きし
た。自分の目と同じ高さで切れ長の双眸が細められている。幽かな光の瞬き。
さっき? 甲板の影にいたときから見つかっていた?
「だから、死ね」
胸を貫く冷たさが熱さになって、痛みに変わる。ずるりとその原因が体の中から抜き
出されてからようやく、ライは悲鳴を上げようとした。その瞬間に鳩尾を、恐らくは蹴
り飛ばされて、声も上げれずに背中から廊下に叩きつけられる。
その音でもう一人が「キャプテン、どうしましたか!?」と声を上げて駆け寄ってこよ
うとした。目の前の男がそれに平然となんでもないと答え、客は全部で五人だから甲板
に集めておけと命令する。
「じゃあ、あと二人ですね」
「ここはその三人で全部だ。
上にも客室があったね。あと一人は……」
男があっさりと踵を返す。追おうとしたが体が動かなかった。
死んでも死体の中に意識があるとしたら、きっとこんなだろう。闇が深くなる。足掻
くように周囲を探ろうとしたが眼球が動いた感じはしなかった。音だけが木霊すように
響いて聞こえる。冷たさのない水の中に沈んでいくような。水は傷に染みる。
実体を保てているのは奇跡かも知れなかった。
「あと二人です」
「俺が一人だって言ってんだよ?」
痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛いいたいイタイ――体の中で何かが焼き切れるよう
な熱が意識に突き刺さる。肌を濡らす血が気持ち悪い。どうせ本物じゃないくせに!
船が泊まってくれたら、こんな傷なんか、すぐにでも消してしまえるのに。物理的な
要因でいくら幻を壊されたって、一度姿を消すことさえ出来たら治せる。そしたら……
「 」
物語に出てくるくらい馬鹿みたいな強さの敵。襲われた船。残虐な海賊。これが本当
に物語りだとしたら、何が足りない?
決まっている。得体の知れないモンスターだ。前に読んだ冒険活劇ではそうだった。
悪党も一般人も平等に襲う化物。それは最後に主人公に倒されるが、
「ああ、イカリは下ろしておけ。
荷を確かめる必要があるんだから」
もうこちらを殺したと思っているらしい男の声にライは内心だけで微笑んだ。
そう、船を泊めてくれるんだ?
セラフィナは、ライが元気になったら嬉しいと言ってくれた。だから早くてもいい。
彼女に見えるところで人を殺したら、嫌われるかも知れない。だけど、彼女は優しいか
ら……あなたの手伝いがしたいんです、と言ってくれた笑顔を信じてみよう。
自分は人を殺すかも知れない魔物だと教えたときに彼女は嫌わないでくれた。人を殺
した魔物でも、嫌わないでいてくれるかも知れない。
だったら、化物役をやってもいいだろう。褒められない方法で悪党を減らしていく役
割。物語の化物はヒロインも襲うけれど、自分はそんなことをしないから、彼女を助け
られるかも知れない。
悪党を食ったモンスターは最後に主人公に倒されるが、
――この船に、無敵の主人公はいない。
強い波のせいか、大きく船が揺れた。
横につけた海賊船にぶつかったのか、さっきほどではないが強い衝撃が木材を伝わる。
船が泊まっただろう頃合を見計らってライは一度姿を消し、像を結び直す。胸の傷も服
に染みた血も消えたことを確認して彼はゆっくりと立ち上がった。
かわりに、右腕や、左目の辺りがかすかに痛んだ。傷が深くなったか大きくなったか。
そんなこと今はどうでもいい。
真暗な廊下から天井を見上げ、吐息する――さっきは捨て鉢に決意したが、痛みがな
くなってみれば、馬鹿げた考えだった。これは物語ではなく現実だ。化物にはならない。
人は殺せない。
「……捕まってたら……助けるからね?」
自分が死んだことになっているなら都合がよかった。相手はきっと油断している。
ライは廊下の床に投げ捨てられていた剣を拾い、再び姿を消して甲板へと。
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