PC:スーシャ
NPC:仕立て屋一家
場所:セーラムの街
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
セーラムという小さな街には、仕立て屋が一軒あった。
注文を受けて衣服を仕立てるのが主な仕事だが、金さえもらえば寸法直しや古着の仕
立て直しもする。
店は二階建てで、一階に店を構え、二階を生活の場にしている。
店主と、その妻、そして息子の三人が、経営を切り盛りしていた。
二年前までは。
「洗濯に行ってきます」
カゴいっぱいになった洗い物を抱え、二階から降りてきた少女は、そう言って外へと
続くドアを開けようとした。
小柄で肉付きが薄く、銀色の髪にカチューシャをつけた少女である。
「スーシャ、これも洗っておきな」
威圧的な低い声に振り向くと、ばさ、と頭に布が落ちてきた。
放られたのだ、と理解するのに時間はかからなかった。
――汗くさい。
人に向かって汚れ物を投げつけるのは、失礼極まる行為である。
怒りをおぼえて当然、と言ってもよい。
しかし、スーシャと呼ばれた少女は特にこれといって怒りの反応を示さなかった。
うつむき加減の目に悲しみの色を浮かべたものの、何かを言うこともなく、放られた
布をカゴに入れる。
「行ってきます」
静かに告げ、ドアを開けて外へ出た。
洗濯場は家の敷地内にある井戸のそばだ。
そこまでのわずかな距離を歩きながら、スーシャの青い目に、じわり、と涙がにじ
む。
口元をぎゅっと閉じ、カゴを持つ手に力がこもる。
……泣くのをこらえているのだ。
泣いたってどうしようもないことぐらい、彼女だって理解している。
それに、泣いているところを目撃されたら、「めそめそして、気に入らない」などと
なじられてしまう。
スーシャは、二年前、この仕立て屋の家にもらわれてきた、養女だった。
世間一般に、養女がどんな扱いを受けるのかはわからないが、スーシャの場合、この
家において一番立場の弱い人間だった。
どこにも味方などいない。
たとえ八つ当たりをされても、文句など言えない。
そんなことをしたら、「養ってもらっているくせに、逆らうのか」と、さらにひどい
目にあわされる。
拳や平手、怒鳴り声の記憶は、彼女から笑顔を奪い取っていった。
辛いことがあったとしても、飲みこんでしまえばいい。
胸が痛んだとしても、押し殺して耐えればいい。
そうしていれば、とりあえず、何事もないのだから。
スーシャには、仕事の手伝いではなく、家事の役目が与えられていた。
「仕事を覚えられて、将来、技術を盗まれたら困る」というのが理由だった。
掃除、洗濯、食事作り。
別に嫌いな事ではない。
する事自体は煩雑なことではないし、きれいになった床や、真っ白になったシャツを
見ると達成感すらおぼえる。
食事作りだって、よい味に仕上げられると、味見の時に浮かれてしまう。
しかし、これが、単なる義務でやらされている『労働』なら、どうなるか。
単純である。
ただひたすら、何の感動もなく、苦痛なだけだ。
なじられないよう、そつなく仕事をこなすだけ。
しかも、どんなに体調を崩していても休ませてはもらえない。
体調不良で上手くできないでいると、たちまち、罵詈雑言を浴びせられる。
泣いている暇はない。
さっさと済ませないと、家の中から、怒鳴り声で名を呼ばれる。
あの声を聞くと、おかしくなるのではないかというぐらい心臓が跳ねあがって、身が
すくむのだ。
乱暴に目をこすり、井戸から水をくみ上げる。
桶の中で揺れる水面に映った顔は、まるでぐしゃぐしゃに顔をゆがめて、泣いている
ようだった。
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NPC:仕立て屋一家
場所:セーラムの街
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セーラムという小さな街には、仕立て屋が一軒あった。
注文を受けて衣服を仕立てるのが主な仕事だが、金さえもらえば寸法直しや古着の仕
立て直しもする。
店は二階建てで、一階に店を構え、二階を生活の場にしている。
店主と、その妻、そして息子の三人が、経営を切り盛りしていた。
二年前までは。
「洗濯に行ってきます」
カゴいっぱいになった洗い物を抱え、二階から降りてきた少女は、そう言って外へと
続くドアを開けようとした。
小柄で肉付きが薄く、銀色の髪にカチューシャをつけた少女である。
「スーシャ、これも洗っておきな」
威圧的な低い声に振り向くと、ばさ、と頭に布が落ちてきた。
放られたのだ、と理解するのに時間はかからなかった。
――汗くさい。
人に向かって汚れ物を投げつけるのは、失礼極まる行為である。
怒りをおぼえて当然、と言ってもよい。
しかし、スーシャと呼ばれた少女は特にこれといって怒りの反応を示さなかった。
うつむき加減の目に悲しみの色を浮かべたものの、何かを言うこともなく、放られた
布をカゴに入れる。
「行ってきます」
静かに告げ、ドアを開けて外へ出た。
洗濯場は家の敷地内にある井戸のそばだ。
そこまでのわずかな距離を歩きながら、スーシャの青い目に、じわり、と涙がにじ
む。
口元をぎゅっと閉じ、カゴを持つ手に力がこもる。
……泣くのをこらえているのだ。
泣いたってどうしようもないことぐらい、彼女だって理解している。
それに、泣いているところを目撃されたら、「めそめそして、気に入らない」などと
なじられてしまう。
スーシャは、二年前、この仕立て屋の家にもらわれてきた、養女だった。
世間一般に、養女がどんな扱いを受けるのかはわからないが、スーシャの場合、この
家において一番立場の弱い人間だった。
どこにも味方などいない。
たとえ八つ当たりをされても、文句など言えない。
そんなことをしたら、「養ってもらっているくせに、逆らうのか」と、さらにひどい
目にあわされる。
拳や平手、怒鳴り声の記憶は、彼女から笑顔を奪い取っていった。
辛いことがあったとしても、飲みこんでしまえばいい。
胸が痛んだとしても、押し殺して耐えればいい。
そうしていれば、とりあえず、何事もないのだから。
スーシャには、仕事の手伝いではなく、家事の役目が与えられていた。
「仕事を覚えられて、将来、技術を盗まれたら困る」というのが理由だった。
掃除、洗濯、食事作り。
別に嫌いな事ではない。
する事自体は煩雑なことではないし、きれいになった床や、真っ白になったシャツを
見ると達成感すらおぼえる。
食事作りだって、よい味に仕上げられると、味見の時に浮かれてしまう。
しかし、これが、単なる義務でやらされている『労働』なら、どうなるか。
単純である。
ただひたすら、何の感動もなく、苦痛なだけだ。
なじられないよう、そつなく仕事をこなすだけ。
しかも、どんなに体調を崩していても休ませてはもらえない。
体調不良で上手くできないでいると、たちまち、罵詈雑言を浴びせられる。
泣いている暇はない。
さっさと済ませないと、家の中から、怒鳴り声で名を呼ばれる。
あの声を聞くと、おかしくなるのではないかというぐらい心臓が跳ねあがって、身が
すくむのだ。
乱暴に目をこすり、井戸から水をくみ上げる。
桶の中で揺れる水面に映った顔は、まるでぐしゃぐしゃに顔をゆがめて、泣いている
ようだった。
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PR
PC クロエ、アダム
NPC シックザール
Place ヴィヴィナ渓谷川辺
-----------------------------------------------------------------------
吐くものは取っていなかったのが幸いし、胃液だけを吐き出すだけですんだ。
透明度の高い川の水で、口の中をゆすぐ。そのまま顔に突っ込むように顔を浸して、うーん
と唸る。
「気持ちわりぃ…」
ここ三日間で魔法攻撃一回+締め付け攻撃+飛び降りというトリプルダメージをくらっている
のだ。常人よりかは鍛えている自信はあるが、そもそもお題目が常人でも死ぬんじゃないか
割と、というレベルのものである。肉体的にかなり無理が来たらしく、体中に鈍痛が巡ってい
る。
「まずいなぁ…これだと」
山越え、谷越えなんて無理に近い。一刻も早くここから離れなきゃいけないのだが、体が言
うことを聞いてくれない。先程のすったもんだの際に確認したら、腹部に異常なほどの青痣
が広がっていて、ついでにさっきから血痰まじりの唾が出てくる。もしかしたら内臓を傷つけ
たのかもしれない、そうするとますます事態は深刻だ。
「クロエさんに先行ってもらうしかない、かな…」
ははは、案内人失格である。自嘲紛れに笑みが零れた、川から顔を離すとくらりと眩暈が
起こる。そしてまた川に突っ伏してしまう。やっぱ自分にはそういう、国家とか大脱走とかス
ケールの大きいことは向かないのかもしれない。
水面の中の異常眼は冷静に、水面の温度と透明度、成分分析までつらつらと始める。スズ
ナ山脈の鉄分が0.5%と言われても何の役にも立たない。せめて、コイツがもう少しだけでも
もっと力のある能力だったら…
「…情けねー…」
いつものことだったが、今回ばかりは自分に落ち込むアダムであった。
************************************************************************
『クロエさん、落ち込んでる?』
「はい…」
正直に答える竜に、刀は「だよねーやっぱり」と言葉口調だけで溜息をついた。嘘がつけな
いアダムは、やっぱり嘘がつけなかったので、ラドフォードでの逃走劇の真相を丁寧に話し
てしまったのである。
「…昔は、それでも人との争いはありました。でも、そんな…今みたいなことはなかったんで
す。そんな、私が」
シックザールを抱え込んでうつむくクロエ。話を終えたアダムはトイレだとか行って川のほう
へ行ってしまった。残されたクロエはうつむいたまま、沈鬱な表情でアダムの残したシック
ザールと一緒にいた。
『……兵器って見られていたことにショックだったの?』
「違う…と思います。私のせいで、クリノクリアのエルフ達にそんな迷惑をかけてしまったこ
と…シメオンが今も酷い目にあってるかもしれないこと…そして、」
シックザールに、一粒の水滴が零れた。
「また、私は人を殺してしまうかもしれない…」
そのまましばらく時が過ぎた。木々の揺れる音と、小鳥の鳴声が頭上に響いている。風が
少しだけ強くなってきて、クロエのスカートを揺らした。そして、先に喋りだしたのはシックザ
ールのほうだった。
『ねぇ、クロエさん。僕、一度も人を殺したことないんだ』
「…え?」
唐突に始まった会話に、クロエは涙を流すのも忘れてぽかんとした。
『おかしいデショ?だって僕、刀だもん。人を殺すために作られたんだ。でもね、アダムは僕
で人殺しをしたこと、一回もないよ』
「………」
クロエの泣き顔に、シックザールは明るい口調で…それこそ茶飲み話みたいな雰囲気で続
けた。
『僕はただの道具だけどアダムはね、”友達だ”って言ってくれるんだよ。友達に人殺しさせ
るわけにはいかないだろって。僕、どうして刀なんだろうって思うときあったよ。だってアダム
とかクロエさんみたいに”生きるために”生まれてこれたなら、どんなに幸せかなぁって』
「…生きるため?」
『だって、クロエさんには生かすか殺すか選択権があるじゃない。でも僕にはないものだし。
僕はそもそもそれ専用のために作られたから、それ以外のことには役に立たないって思っ
てたんだよ…でもね』
もし刀に胸があったのなら、シックザールは胸を張って答えただろう。自信に満ち溢れた言
葉で、
『僕、刀でよかったなぁって今は思うんだヨ。だって友達のアダムを守ってあげられるモン。
アダムはね言ってたよ”お前は人殺しの道具だったかもしれないけど、今は俺の友達だろ”
って』
一振りの刀が秘めていたのは、そんななんでもない一言だった。
そんななんでもない、当のアダムでさえそのときの会話を覚えているかどうか。しかし、それ
がシックザールの一番大事なものかもしれない。
『クロエさんも、アダムの友達なんデショ?だったら大丈夫だよ、アダムの友達はね、人殺
しなんてしないんだよ』
************************************************************************
クロエが笑った。シックザールも声はなくとも笑っていた。
二人でしばらく笑いあった後、同時にはたと目を(シックザールには目はなかったので気配
を)あわせた。
「…ところで、アダムが遅くありませんか?」
『偶然だよね、僕もそんなコト思ってたんだケド…』
二人は顔を見合わせて(シックザールの本体を見て)、そのまま駆け足で斜面を下りていっ
た。
『よく考えれば、三日前から合計してけっこう生死が危ないかもしんない』
「人間ってどれくらい脆いんですか!?」
人間オンチのクロエに、シックザールはえーと、といいながら考える。
『えーと、割とさっきの飛び降りは十回やると八回ぐらいは死ぬカモ』
「アダム!!」
悲鳴に近い声で、川岸に向かうクロエ。シックザールも『生きてるといいなぁ、だってせっかく
いい事言ったんだし』と呟いた。
************************************************************************
痛みと冷たさで沈んでいた意識の中、ふいに暖かい光で目を覚ます。
急に痛みが引いて、理性が戻り意識が水面から浮上する。か細い手がしっかりと身体を支
えていた。
「良くなりましたか?」
目の前にいるのは、人の形をした竜だった。ぐったりした自分を支えてもびくともしない。普
通逆だろ、いや役割が。
「あれ、クロエさん…回復魔法?」
「いいえ、アダムにお願いしたんです」
「あぁ…そうなの…」
そりゃ女の子のお願いは断れない。自分単純すぎやしないか?
クロエには一種の支配能力があるらしく(本人いわく、お願い事だというが)自然に影響しあ
る程度まで働きかけることができるという。
「本当は人間とかとてもはっきりした自我を持つ命には難しいんですけど」
植物を元気にしたり、水を綺麗にしたりできるという。この場合、アダムの身体に働きかけて
治癒を促進させたと見るべきか。もうクロエさん何やっても驚かないよ俺。
「アダム」
「あー結構楽になった。とりあえず今日寝てればなんとかなりそう…ってなに?」
なんかじっと見つめてくるクロエさん。ちょいと心拍数が上がりそうなのを飄々とした受け答
えで誤魔化そうとするが、顔が赤くなるのは止められない。
「その、…私は友達ですか?」
突然のクロエの、真剣な言葉。
するとアダムはその言葉に酷くショックを受けた顔をし、すぐに引きつった笑顔になって言葉
を続ける。なぜか語尾が震えている。
「…え、ま、まぁそうだよね。友達だよね」
「ありがとうアダム!私は、貴方の友達ですね!」
するとクロエはとても嬉しそうに笑って言った。隣でアダムも笑いつつ、どこか寂しげな目で
それを見つめる。
「友達…だよなぁ、やっぱり」
「はい?」
「いんや、なんでもないから…」
なぜかちょっとだけうなだれるアダムに首をかしげたクロエ。
シックザールは『あーぁ、クロエさんてば見事にやっちゃったなぁ』と心の中で呟いていた。
夕方の空に、薄い雲が伸びる。ようやくクリノクリアの悪夢の一日が終わりを告げようとして
いた。
************************************************************************
Rendora診断(最高五つ★)
恋愛レベルLv1.8
ドキドキ度… ☆☆☆☆★
ほんわか度…☆★★★★
ヤヴァイ度… ☆☆★★★
胸キュン度… ☆☆☆☆★
NPC シックザール
Place ヴィヴィナ渓谷川辺
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吐くものは取っていなかったのが幸いし、胃液だけを吐き出すだけですんだ。
透明度の高い川の水で、口の中をゆすぐ。そのまま顔に突っ込むように顔を浸して、うーん
と唸る。
「気持ちわりぃ…」
ここ三日間で魔法攻撃一回+締め付け攻撃+飛び降りというトリプルダメージをくらっている
のだ。常人よりかは鍛えている自信はあるが、そもそもお題目が常人でも死ぬんじゃないか
割と、というレベルのものである。肉体的にかなり無理が来たらしく、体中に鈍痛が巡ってい
る。
「まずいなぁ…これだと」
山越え、谷越えなんて無理に近い。一刻も早くここから離れなきゃいけないのだが、体が言
うことを聞いてくれない。先程のすったもんだの際に確認したら、腹部に異常なほどの青痣
が広がっていて、ついでにさっきから血痰まじりの唾が出てくる。もしかしたら内臓を傷つけ
たのかもしれない、そうするとますます事態は深刻だ。
「クロエさんに先行ってもらうしかない、かな…」
ははは、案内人失格である。自嘲紛れに笑みが零れた、川から顔を離すとくらりと眩暈が
起こる。そしてまた川に突っ伏してしまう。やっぱ自分にはそういう、国家とか大脱走とかス
ケールの大きいことは向かないのかもしれない。
水面の中の異常眼は冷静に、水面の温度と透明度、成分分析までつらつらと始める。スズ
ナ山脈の鉄分が0.5%と言われても何の役にも立たない。せめて、コイツがもう少しだけでも
もっと力のある能力だったら…
「…情けねー…」
いつものことだったが、今回ばかりは自分に落ち込むアダムであった。
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『クロエさん、落ち込んでる?』
「はい…」
正直に答える竜に、刀は「だよねーやっぱり」と言葉口調だけで溜息をついた。嘘がつけな
いアダムは、やっぱり嘘がつけなかったので、ラドフォードでの逃走劇の真相を丁寧に話し
てしまったのである。
「…昔は、それでも人との争いはありました。でも、そんな…今みたいなことはなかったんで
す。そんな、私が」
シックザールを抱え込んでうつむくクロエ。話を終えたアダムはトイレだとか行って川のほう
へ行ってしまった。残されたクロエはうつむいたまま、沈鬱な表情でアダムの残したシック
ザールと一緒にいた。
『……兵器って見られていたことにショックだったの?』
「違う…と思います。私のせいで、クリノクリアのエルフ達にそんな迷惑をかけてしまったこ
と…シメオンが今も酷い目にあってるかもしれないこと…そして、」
シックザールに、一粒の水滴が零れた。
「また、私は人を殺してしまうかもしれない…」
そのまましばらく時が過ぎた。木々の揺れる音と、小鳥の鳴声が頭上に響いている。風が
少しだけ強くなってきて、クロエのスカートを揺らした。そして、先に喋りだしたのはシックザ
ールのほうだった。
『ねぇ、クロエさん。僕、一度も人を殺したことないんだ』
「…え?」
唐突に始まった会話に、クロエは涙を流すのも忘れてぽかんとした。
『おかしいデショ?だって僕、刀だもん。人を殺すために作られたんだ。でもね、アダムは僕
で人殺しをしたこと、一回もないよ』
「………」
クロエの泣き顔に、シックザールは明るい口調で…それこそ茶飲み話みたいな雰囲気で続
けた。
『僕はただの道具だけどアダムはね、”友達だ”って言ってくれるんだよ。友達に人殺しさせ
るわけにはいかないだろって。僕、どうして刀なんだろうって思うときあったよ。だってアダム
とかクロエさんみたいに”生きるために”生まれてこれたなら、どんなに幸せかなぁって』
「…生きるため?」
『だって、クロエさんには生かすか殺すか選択権があるじゃない。でも僕にはないものだし。
僕はそもそもそれ専用のために作られたから、それ以外のことには役に立たないって思っ
てたんだよ…でもね』
もし刀に胸があったのなら、シックザールは胸を張って答えただろう。自信に満ち溢れた言
葉で、
『僕、刀でよかったなぁって今は思うんだヨ。だって友達のアダムを守ってあげられるモン。
アダムはね言ってたよ”お前は人殺しの道具だったかもしれないけど、今は俺の友達だろ”
って』
一振りの刀が秘めていたのは、そんななんでもない一言だった。
そんななんでもない、当のアダムでさえそのときの会話を覚えているかどうか。しかし、それ
がシックザールの一番大事なものかもしれない。
『クロエさんも、アダムの友達なんデショ?だったら大丈夫だよ、アダムの友達はね、人殺
しなんてしないんだよ』
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クロエが笑った。シックザールも声はなくとも笑っていた。
二人でしばらく笑いあった後、同時にはたと目を(シックザールには目はなかったので気配
を)あわせた。
「…ところで、アダムが遅くありませんか?」
『偶然だよね、僕もそんなコト思ってたんだケド…』
二人は顔を見合わせて(シックザールの本体を見て)、そのまま駆け足で斜面を下りていっ
た。
『よく考えれば、三日前から合計してけっこう生死が危ないかもしんない』
「人間ってどれくらい脆いんですか!?」
人間オンチのクロエに、シックザールはえーと、といいながら考える。
『えーと、割とさっきの飛び降りは十回やると八回ぐらいは死ぬカモ』
「アダム!!」
悲鳴に近い声で、川岸に向かうクロエ。シックザールも『生きてるといいなぁ、だってせっかく
いい事言ったんだし』と呟いた。
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痛みと冷たさで沈んでいた意識の中、ふいに暖かい光で目を覚ます。
急に痛みが引いて、理性が戻り意識が水面から浮上する。か細い手がしっかりと身体を支
えていた。
「良くなりましたか?」
目の前にいるのは、人の形をした竜だった。ぐったりした自分を支えてもびくともしない。普
通逆だろ、いや役割が。
「あれ、クロエさん…回復魔法?」
「いいえ、アダムにお願いしたんです」
「あぁ…そうなの…」
そりゃ女の子のお願いは断れない。自分単純すぎやしないか?
クロエには一種の支配能力があるらしく(本人いわく、お願い事だというが)自然に影響しあ
る程度まで働きかけることができるという。
「本当は人間とかとてもはっきりした自我を持つ命には難しいんですけど」
植物を元気にしたり、水を綺麗にしたりできるという。この場合、アダムの身体に働きかけて
治癒を促進させたと見るべきか。もうクロエさん何やっても驚かないよ俺。
「アダム」
「あー結構楽になった。とりあえず今日寝てればなんとかなりそう…ってなに?」
なんかじっと見つめてくるクロエさん。ちょいと心拍数が上がりそうなのを飄々とした受け答
えで誤魔化そうとするが、顔が赤くなるのは止められない。
「その、…私は友達ですか?」
突然のクロエの、真剣な言葉。
するとアダムはその言葉に酷くショックを受けた顔をし、すぐに引きつった笑顔になって言葉
を続ける。なぜか語尾が震えている。
「…え、ま、まぁそうだよね。友達だよね」
「ありがとうアダム!私は、貴方の友達ですね!」
するとクロエはとても嬉しそうに笑って言った。隣でアダムも笑いつつ、どこか寂しげな目で
それを見つめる。
「友達…だよなぁ、やっぱり」
「はい?」
「いんや、なんでもないから…」
なぜかちょっとだけうなだれるアダムに首をかしげたクロエ。
シックザールは『あーぁ、クロエさんてば見事にやっちゃったなぁ』と心の中で呟いていた。
夕方の空に、薄い雲が伸びる。ようやくクリノクリアの悪夢の一日が終わりを告げようとして
いた。
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Rendora診断(最高五つ★)
恋愛レベルLv1.8
ドキドキ度… ☆☆☆☆★
ほんわか度…☆★★★★
ヤヴァイ度… ☆☆★★★
胸キュン度… ☆☆☆☆★
登場:ヒルデ
場所:ガルドゼンド -イェッセン伯領ヒュッテ砦
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冬を前にした夜の冷たい風が頬を撫でていく。感じるひりついた痛みに顔をしかめながら、ヒルデは空を駆けていた。
ばさり、ばさりと翼が風を叩く度に一段と強力な風が顔や耳の感覚がなくなりかける。――いつも思うのだが、主はどうして兜に羽根をつけようなどと思ったのか。鎧にしておいてくれれば、少なくともこんな痛みから解放されていただろうに。
とはいえ、思ったところで現実が変化するわけではない。光の精霊の力によって不可視の外套を纏ったヒルデは順調に高度を上げ、やがてその全景が見えてきた。
そろそろ夕食の時間なのか、外にでて作業をしている人影はそれほど多くはない。もちろん、ある程度の警備兵はいて周囲の警戒を怠るという事はないのだが。
「さてと、では行くとするか。――Sylph Silence」
念のために風の精霊の力を借りて、自分の周りでは一切音がしないようにしておく。これで、これから地面に降り立つ時にするであろう羽根の風切り音や着地した時の音が聞きとがめられる心配も要らない。
数分後、無事にヒルデは砦の内部へと降り立つ事に成功したのだった。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
一方その頃、ヒュッテ砦から少し離れた森の中にある空き地にて
「Het stille effect dat van me uitnodigde heeft geen genade――」
環になるように並べられた巨石群の真ん中で何名かの魔術師達が声を揃えて呪文を唱えている。
その声はけして大きなものではない。だが、揺ぎ無く唱和するその言葉は夜空を越えて遥か天にある星々まで響き渡っているような不思議な迫力を持っていた。
「――Y usted no tiene ninguna manera de escaparse de la calamidad en su cabeza」
ただひたすらに儀式を進める魔法士達から少し離れて、甲冑姿の男が1人。期待半分、不安半分の表情で魔法士達の様子を見守っている。そして、ついに術師達は呪文を唱え終わり――だが、その場に何か変化が現れる様子はない。
「失敗したのか?」
問う騎士に対して、魔法士の1人は天を見上げる。そして、はっきりとした声で「いえ、成功しました」と答えを返した。
「――そうか。全軍に伝えろ!術の効果を確認出来次第奴らに仕掛けるぞ!」
騎士はひとつ頷き、大声で命令を下した。全軍にそれが行き届くように伝令兵がそれを復唱しながら陣内を駆け抜ける。彼らが通りぬけるのに併せて、辺りから金属音やら人の声やらが波のように巻き起こっていった。
いよいよ戦が始まるのだ。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
「さて、潜入したはいいが……どうやって見つけたものかな」
とりあえず一番人が多そうな主塔の中をヒルデは当てもなく歩いていた。数日前の彼のように、もしかしたらその存在を見破ってくる者と遭遇する危険性もあったが、だからと言って人のいないところばかりをうろついても得るものがあるわけがない。
忍び込む事にした自分の判断が軽率だったかと少し反省もするが、かと言ってこのまま砦の外へと引き返していくのはあまりにも間抜けだ。
結局、腹を括って砦の中を散策するしかないのだった。
幸い、ここのところは誰かに見咎められるという事もなく順調に踏破したエリアが増えていく。つまりそれはそれだけ歩いても目的の人物には会えていないという事なのだが、それを考えると心とか気持ちとかが負けそうな気がするので深く考えないで機械的に廊下にならぶ部屋の様子を伺っていく。
塔の中ほどまで制覇した辺りで、ヒルデはふと違和感を感じて立ち止まった。なんとなく耳の奥がビリビリと震える感じがするのだ。
「なんだ?」
最初は小さかったが、少しずつ音は大きくなっていっている気がする。他にも気づいた者が出始めたのか、周りの雰囲気も先ほどに比べてざわついてきている。
感覚としては、攻城戦でカタパルトから射出された大岩が飛んできた時に近いのだろうか。偶々目の前に空いている部屋があったのでそこの窓から外を見るが、特に異変は感じられない。強いて言うなら中庭にいる人々が辺りを見回すようにキョロキョロしているくらいか。
そうこうしているうちにも音はどんどんと大きさを増し、ついにはゴゴゴゴゴゴという体を揺るがす重低音となって辺りを包む。間違いなく何かが起きているのに、いくら地上を見回しても取り立てて変化らしい変化は見つからない。放っておけばロクでもない状態になる予感が凄くするのに、何がどうなっているのかがまったく分からないという状況が苛立ちを増強させた。
「……?」
空を指差している兵士がいるのに気づき視線を星空に転じたヒルデは、ちょっとした違和感を感じて首をかしげた。夜空にあるのはいつも通りの見慣れた星座だが――何回数えなおしても星が1つ多い!
辺りを震わせる音はまた大きくなり、ついには樹はおろかこの主塔までもが軽く震える程の規模にまで成長してきている。それと同時に赤さと大きさを増してきた見慣れぬ星がこの場所に向けて落ちてくる巨大な岩塊であるというどうしようもない現実が見るもの全てに恐怖の影を落とす。
「くっ星落としの儀式だと!?」
大気との摩擦で真っ赤に燃える隕石は夜空に尾を引く流星となって一直線に落ちてくる。音はもはや耳をつんざかんばかりの轟音となり、辺りを塗り潰す。
考えるまでもない。あの岩が人の手によってここに落ちてくるのなら、その目的は間違いなくこの場所――ヒュッテなのだ。
「――"盾"よっ!!」
その瞬間、具体的に何が起きたのかをヒルデは知覚する事ができなかった。世界が自分を残して崩壊してしまったのではないかと錯覚するほどの轟音と衝撃。次にしっかり認識できたのは、衝撃波を受けて崩れ落ちていく物見塔と外壁、そしてようやく聴覚が自分を取り戻した。
――どうやら直撃はしなかったらしい。
その事に一瞬安堵を覚えるが、その反面心のどこかで警鐘が鳴り響いている。そう、もしこの隕石がティグラハットの術師の手によるものならここで終わるハズがない!
実際、数十分と経たぬうちに敵襲を知らせる半鐘が辺りに響き渡った。外を見れば破れた外壁のところで燃える炎をバックに蠢く黒い無数の人影が、雄叫びを上げまだ混乱から脱しきれていない砦に向けて一斉に突撃してくる。ガルドゼンドの誰もが予想しない形で、ティグラハットとの戦いは再び幕を上げる事となったのだ。
状況はガルドゼンド軍の圧倒的に不利な状態から始まった。隕石落としによる被害と混乱、その両方から立ち直るより前にティグラハット軍からの攻撃を受け、状況に対応できなかった兵達が軒並み倒されていく。なんとか対応する事ができた兵も当然いたのだが、数にモノを言わせるティグラハット軍を相手に徐々に押され、後退を余儀なくされていた。
もともと、この砦にいる兵力はたったの四十七名。本気で落としにかかるティグラハット軍に対応するにはあまりにも少ない。魔法士がその力を存分に振るえばまだなんとかなるかも知れない。そんな希望を胸に、テオパルドを始めとしたこの砦の兵士達は苦しい戦いを続けるのだった。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
同時刻、ヒュッテ砦地下部の大部屋にて
「準備は出来たか?」
口早に問う騎士に魔法士達は内心溜め息をついた。確かに、もともとの予定ではヒュッテに入り緊張を煽り、ティグラハット軍が焦って手を出してきたら奴らの戦力を適当に削った後にこっそり撤退する予定だった。
それがどうだ、この男はまるきり予想外の隕石一発で震え上がり、今すぐ撤退すると言い出したのだ。
――まぁ、いいけどな。わざわざ前に出て殺されても嫌だし。
内心で呟きつつ魔法士はせっせと石を運ぶ。転移の魔術は儀式を必要とする術ではあるが、たったの三名を数十キロ跳ばすくらいならそれほど大規模なものでなくても可能だ。
せっつく騎士の声に舌打ちしそうになるのを我慢しながらせっせと石を運び場を整える。
ようやく用意が整い、二人の魔法士は声を揃えて呪文を詠唱しはじめた。短時間の詠唱で移動用のゲートを出す事も出来るが、敢えて二人はその方法を選ばなかった。ここでの呪文は言わば条件設定のようなもの、時間を掛けて詳細に設定すればするほど安全に移動する事が出来るのだ。
呪文を唱え始めた頃は安心したのか少し静かになった騎士も、詠唱時間が長くなるにつれて段々と我慢ができなくなってきたのかまたピーチク騒ぎ出した。
――早く逃げたいのは分かったから黙っていてくれないと集中できないだろうが!
思わず怒鳴りつけたくなるのを我慢して呪文に集中する。石の群れに光が宿り、撤退を指示したエーリヒの顔にもようやく安堵の色が見え始めた、そんな時。
「仲間は戦っていると言うのに自分はさっさと逃げる算段か。――臆病者め」
「だ、だだだ誰だ!」
――おいおい、声が裏返ってるよ
部屋の入り口の方から投げつけられた、冷たく凛とした声。よっぽど予想外だったのか、エーリヒが文字通り飛び上がって入り口の方へと振り返るのが目に入り、なんとも失笑を誘う。かろうじて中断しかけた呪文をなんとか続けながら、若い魔法士は入り口の方の騎士と女のやり取りに耳を傾けるのだった。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
地下から魔力が高まるのを感じたヒルデはその魔力の気配を頼りに地下へと降りてきていた。階段を下りていくに従って何やら呪文を詠唱しているような声が聞こえてくる。
半開きになっている扉から中を覗くと、儀式を行う魔法士が二人と、それを見守る騎士らしき男の姿が眼に入った。
儀式を行う魔法士に向かい、半ば叱り付けるような調子で騎士は「早くしろ」だとか「敵が来てからでは遅いんだぞ」とか喚いている。
――要するに、さっさとここから逃げ出そうという算段か。
状況が理解できると同時に、ヒルデの心の奥底になんとも言えない苛立ちのようなモノが込み上げてくる。地上の兵達はここにいる二人の魔法士を頼りになんとか場を持たせているというのに、コイツらは我が身可愛さにとっとと自分達だけで撤退しようとしているのだから。それも、彼らには何も告げずに。
「仲間は戦っていると言うのに自分はさっさと逃げる算段か。――臆病者め」
気が付けばヒルデは不可視の術を解き、鎧の装飾などから明らかに偉そうな騎士に向かって侮蔑の言葉を吐きかけていた。
「だ、だだだ誰だ!」
少しは自分でも罪悪感を持っていたのか、あるいはここまで敵に踏み込まれたと思ったのか。その心中はヒルデには分からないが、とりあえず動転する騎士の様子を見て溜飲が少し下がる。一瞬問答無用で斬り捨てようかとも思ったのだが、声を掛けてしまった以上は何かしらの情報を引き出そうと、ヒルデは言葉を続ける事にした。
「私は英雄を導きし者。アルスラーンと言う人物の噂を聞いてこの地に降臨した。まさかとは思うが、貴様がそうか?」
とりあえずヒルデの正体が彼の恐れていたものではないと分かって安心したのか、騎士はあからさまに余裕を取り戻す。
「なるほど、かの有名な戦乙女様か。こんな辺境の砦までいちいちご苦労な事だ。だが残念だったな。お求めの英雄様はこの間の小競り合いで死んでしまったよ」
「なんだと?」
聞き返すヒルデ。だが、対する返事は場を満たす強い光だけだった。視界が回復した後に残っているのは、ただ環になるように並べられた石の群のみ。
「逃げたか……」
少し目を閉じ、この後の行動について考える。彼がここで嘘を言う必要が思い当たらない以上、本当に目当ての英雄は死んでしまったのだろう。――ならば、これ以上ここに留まっていても益はない。さっさとこの砦を脱出する事にして、ヒルデは踵を返した。
地上では、まだ所々から剣戟の音が響いている。そして、時々は魔法士が放ったであろう火球による爆音も。――砦の攻防戦はガルドゼンド軍の負けと言う形で大勢を決しようとしていた。敵にも魔法士がいたとなると、あの二人が加勢したとしても巻き返すのはムリだっただろう。結果として、あの騎士の判断は魔法士二人を温存する事につながり、後の戦いはまだ有利になるのかもしれない。
――だからといって、仲間を見捨てて逃げるのが肯定されるわけもないが
心の中に溜まった苛立ちをとりあえず壁を殴る事で忘れると、ヒルデは砦の外を目指して駆け出していった。
--------------------------------------------------------------------------------
場所:ガルドゼンド -イェッセン伯領ヒュッテ砦
--------------------------------------------------------------------------------
冬を前にした夜の冷たい風が頬を撫でていく。感じるひりついた痛みに顔をしかめながら、ヒルデは空を駆けていた。
ばさり、ばさりと翼が風を叩く度に一段と強力な風が顔や耳の感覚がなくなりかける。――いつも思うのだが、主はどうして兜に羽根をつけようなどと思ったのか。鎧にしておいてくれれば、少なくともこんな痛みから解放されていただろうに。
とはいえ、思ったところで現実が変化するわけではない。光の精霊の力によって不可視の外套を纏ったヒルデは順調に高度を上げ、やがてその全景が見えてきた。
そろそろ夕食の時間なのか、外にでて作業をしている人影はそれほど多くはない。もちろん、ある程度の警備兵はいて周囲の警戒を怠るという事はないのだが。
「さてと、では行くとするか。――Sylph Silence」
念のために風の精霊の力を借りて、自分の周りでは一切音がしないようにしておく。これで、これから地面に降り立つ時にするであろう羽根の風切り音や着地した時の音が聞きとがめられる心配も要らない。
数分後、無事にヒルデは砦の内部へと降り立つ事に成功したのだった。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
一方その頃、ヒュッテ砦から少し離れた森の中にある空き地にて
「Het stille effect dat van me uitnodigde heeft geen genade――」
環になるように並べられた巨石群の真ん中で何名かの魔術師達が声を揃えて呪文を唱えている。
その声はけして大きなものではない。だが、揺ぎ無く唱和するその言葉は夜空を越えて遥か天にある星々まで響き渡っているような不思議な迫力を持っていた。
「――Y usted no tiene ninguna manera de escaparse de la calamidad en su cabeza」
ただひたすらに儀式を進める魔法士達から少し離れて、甲冑姿の男が1人。期待半分、不安半分の表情で魔法士達の様子を見守っている。そして、ついに術師達は呪文を唱え終わり――だが、その場に何か変化が現れる様子はない。
「失敗したのか?」
問う騎士に対して、魔法士の1人は天を見上げる。そして、はっきりとした声で「いえ、成功しました」と答えを返した。
「――そうか。全軍に伝えろ!術の効果を確認出来次第奴らに仕掛けるぞ!」
騎士はひとつ頷き、大声で命令を下した。全軍にそれが行き届くように伝令兵がそれを復唱しながら陣内を駆け抜ける。彼らが通りぬけるのに併せて、辺りから金属音やら人の声やらが波のように巻き起こっていった。
いよいよ戦が始まるのだ。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
「さて、潜入したはいいが……どうやって見つけたものかな」
とりあえず一番人が多そうな主塔の中をヒルデは当てもなく歩いていた。数日前の彼のように、もしかしたらその存在を見破ってくる者と遭遇する危険性もあったが、だからと言って人のいないところばかりをうろついても得るものがあるわけがない。
忍び込む事にした自分の判断が軽率だったかと少し反省もするが、かと言ってこのまま砦の外へと引き返していくのはあまりにも間抜けだ。
結局、腹を括って砦の中を散策するしかないのだった。
幸い、ここのところは誰かに見咎められるという事もなく順調に踏破したエリアが増えていく。つまりそれはそれだけ歩いても目的の人物には会えていないという事なのだが、それを考えると心とか気持ちとかが負けそうな気がするので深く考えないで機械的に廊下にならぶ部屋の様子を伺っていく。
塔の中ほどまで制覇した辺りで、ヒルデはふと違和感を感じて立ち止まった。なんとなく耳の奥がビリビリと震える感じがするのだ。
「なんだ?」
最初は小さかったが、少しずつ音は大きくなっていっている気がする。他にも気づいた者が出始めたのか、周りの雰囲気も先ほどに比べてざわついてきている。
感覚としては、攻城戦でカタパルトから射出された大岩が飛んできた時に近いのだろうか。偶々目の前に空いている部屋があったのでそこの窓から外を見るが、特に異変は感じられない。強いて言うなら中庭にいる人々が辺りを見回すようにキョロキョロしているくらいか。
そうこうしているうちにも音はどんどんと大きさを増し、ついにはゴゴゴゴゴゴという体を揺るがす重低音となって辺りを包む。間違いなく何かが起きているのに、いくら地上を見回しても取り立てて変化らしい変化は見つからない。放っておけばロクでもない状態になる予感が凄くするのに、何がどうなっているのかがまったく分からないという状況が苛立ちを増強させた。
「……?」
空を指差している兵士がいるのに気づき視線を星空に転じたヒルデは、ちょっとした違和感を感じて首をかしげた。夜空にあるのはいつも通りの見慣れた星座だが――何回数えなおしても星が1つ多い!
辺りを震わせる音はまた大きくなり、ついには樹はおろかこの主塔までもが軽く震える程の規模にまで成長してきている。それと同時に赤さと大きさを増してきた見慣れぬ星がこの場所に向けて落ちてくる巨大な岩塊であるというどうしようもない現実が見るもの全てに恐怖の影を落とす。
「くっ星落としの儀式だと!?」
大気との摩擦で真っ赤に燃える隕石は夜空に尾を引く流星となって一直線に落ちてくる。音はもはや耳をつんざかんばかりの轟音となり、辺りを塗り潰す。
考えるまでもない。あの岩が人の手によってここに落ちてくるのなら、その目的は間違いなくこの場所――ヒュッテなのだ。
「――"盾"よっ!!」
その瞬間、具体的に何が起きたのかをヒルデは知覚する事ができなかった。世界が自分を残して崩壊してしまったのではないかと錯覚するほどの轟音と衝撃。次にしっかり認識できたのは、衝撃波を受けて崩れ落ちていく物見塔と外壁、そしてようやく聴覚が自分を取り戻した。
――どうやら直撃はしなかったらしい。
その事に一瞬安堵を覚えるが、その反面心のどこかで警鐘が鳴り響いている。そう、もしこの隕石がティグラハットの術師の手によるものならここで終わるハズがない!
実際、数十分と経たぬうちに敵襲を知らせる半鐘が辺りに響き渡った。外を見れば破れた外壁のところで燃える炎をバックに蠢く黒い無数の人影が、雄叫びを上げまだ混乱から脱しきれていない砦に向けて一斉に突撃してくる。ガルドゼンドの誰もが予想しない形で、ティグラハットとの戦いは再び幕を上げる事となったのだ。
状況はガルドゼンド軍の圧倒的に不利な状態から始まった。隕石落としによる被害と混乱、その両方から立ち直るより前にティグラハット軍からの攻撃を受け、状況に対応できなかった兵達が軒並み倒されていく。なんとか対応する事ができた兵も当然いたのだが、数にモノを言わせるティグラハット軍を相手に徐々に押され、後退を余儀なくされていた。
もともと、この砦にいる兵力はたったの四十七名。本気で落としにかかるティグラハット軍に対応するにはあまりにも少ない。魔法士がその力を存分に振るえばまだなんとかなるかも知れない。そんな希望を胸に、テオパルドを始めとしたこの砦の兵士達は苦しい戦いを続けるのだった。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
同時刻、ヒュッテ砦地下部の大部屋にて
「準備は出来たか?」
口早に問う騎士に魔法士達は内心溜め息をついた。確かに、もともとの予定ではヒュッテに入り緊張を煽り、ティグラハット軍が焦って手を出してきたら奴らの戦力を適当に削った後にこっそり撤退する予定だった。
それがどうだ、この男はまるきり予想外の隕石一発で震え上がり、今すぐ撤退すると言い出したのだ。
――まぁ、いいけどな。わざわざ前に出て殺されても嫌だし。
内心で呟きつつ魔法士はせっせと石を運ぶ。転移の魔術は儀式を必要とする術ではあるが、たったの三名を数十キロ跳ばすくらいならそれほど大規模なものでなくても可能だ。
せっつく騎士の声に舌打ちしそうになるのを我慢しながらせっせと石を運び場を整える。
ようやく用意が整い、二人の魔法士は声を揃えて呪文を詠唱しはじめた。短時間の詠唱で移動用のゲートを出す事も出来るが、敢えて二人はその方法を選ばなかった。ここでの呪文は言わば条件設定のようなもの、時間を掛けて詳細に設定すればするほど安全に移動する事が出来るのだ。
呪文を唱え始めた頃は安心したのか少し静かになった騎士も、詠唱時間が長くなるにつれて段々と我慢ができなくなってきたのかまたピーチク騒ぎ出した。
――早く逃げたいのは分かったから黙っていてくれないと集中できないだろうが!
思わず怒鳴りつけたくなるのを我慢して呪文に集中する。石の群れに光が宿り、撤退を指示したエーリヒの顔にもようやく安堵の色が見え始めた、そんな時。
「仲間は戦っていると言うのに自分はさっさと逃げる算段か。――臆病者め」
「だ、だだだ誰だ!」
――おいおい、声が裏返ってるよ
部屋の入り口の方から投げつけられた、冷たく凛とした声。よっぽど予想外だったのか、エーリヒが文字通り飛び上がって入り口の方へと振り返るのが目に入り、なんとも失笑を誘う。かろうじて中断しかけた呪文をなんとか続けながら、若い魔法士は入り口の方の騎士と女のやり取りに耳を傾けるのだった。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
地下から魔力が高まるのを感じたヒルデはその魔力の気配を頼りに地下へと降りてきていた。階段を下りていくに従って何やら呪文を詠唱しているような声が聞こえてくる。
半開きになっている扉から中を覗くと、儀式を行う魔法士が二人と、それを見守る騎士らしき男の姿が眼に入った。
儀式を行う魔法士に向かい、半ば叱り付けるような調子で騎士は「早くしろ」だとか「敵が来てからでは遅いんだぞ」とか喚いている。
――要するに、さっさとここから逃げ出そうという算段か。
状況が理解できると同時に、ヒルデの心の奥底になんとも言えない苛立ちのようなモノが込み上げてくる。地上の兵達はここにいる二人の魔法士を頼りになんとか場を持たせているというのに、コイツらは我が身可愛さにとっとと自分達だけで撤退しようとしているのだから。それも、彼らには何も告げずに。
「仲間は戦っていると言うのに自分はさっさと逃げる算段か。――臆病者め」
気が付けばヒルデは不可視の術を解き、鎧の装飾などから明らかに偉そうな騎士に向かって侮蔑の言葉を吐きかけていた。
「だ、だだだ誰だ!」
少しは自分でも罪悪感を持っていたのか、あるいはここまで敵に踏み込まれたと思ったのか。その心中はヒルデには分からないが、とりあえず動転する騎士の様子を見て溜飲が少し下がる。一瞬問答無用で斬り捨てようかとも思ったのだが、声を掛けてしまった以上は何かしらの情報を引き出そうと、ヒルデは言葉を続ける事にした。
「私は英雄を導きし者。アルスラーンと言う人物の噂を聞いてこの地に降臨した。まさかとは思うが、貴様がそうか?」
とりあえずヒルデの正体が彼の恐れていたものではないと分かって安心したのか、騎士はあからさまに余裕を取り戻す。
「なるほど、かの有名な戦乙女様か。こんな辺境の砦までいちいちご苦労な事だ。だが残念だったな。お求めの英雄様はこの間の小競り合いで死んでしまったよ」
「なんだと?」
聞き返すヒルデ。だが、対する返事は場を満たす強い光だけだった。視界が回復した後に残っているのは、ただ環になるように並べられた石の群のみ。
「逃げたか……」
少し目を閉じ、この後の行動について考える。彼がここで嘘を言う必要が思い当たらない以上、本当に目当ての英雄は死んでしまったのだろう。――ならば、これ以上ここに留まっていても益はない。さっさとこの砦を脱出する事にして、ヒルデは踵を返した。
地上では、まだ所々から剣戟の音が響いている。そして、時々は魔法士が放ったであろう火球による爆音も。――砦の攻防戦はガルドゼンド軍の負けと言う形で大勢を決しようとしていた。敵にも魔法士がいたとなると、あの二人が加勢したとしても巻き返すのはムリだっただろう。結果として、あの騎士の判断は魔法士二人を温存する事につながり、後の戦いはまだ有利になるのかもしれない。
――だからといって、仲間を見捨てて逃げるのが肯定されるわけもないが
心の中に溜まった苛立ちをとりあえず壁を殴る事で忘れると、ヒルデは砦の外を目指して駆け出していった。
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星への距離 2
「ロンシュタット 序章編」
PC:ロンシュタット
場所:辺境
熱の無い夕闇の中、涼しいはずのこの時期に、今日だけはむせ返るような血の臭いが充
満していた。
窓は開け放たれ、内幾つかは破られている。
入り口から正面の神像まで続く赤絨毯には、それよりも更に濃いどす黒い血が斑模様に
広がり、それを乱暴に踏みつけるロンシュタットの足元から、ぐしゃぐしゃと湿った音を立て
る。
法衣を着た老人、花を供えに来た少女、参拝に訪れた数人の旅人らしき死体があちらこ
ちらに散らばるが、そのほとんどは殺され過ぎ、判別できるのはその数人だけだ。
もしこのグロテスクなパズルを完成させることができたなら、その肉片からきっかり13人
分の死体が完成する。
返り血を浴び、今も大量の参拝者の血を滴らせる神像の向こうに、さっきまでこの街の人
間が同じ住人だと信じていたものがいる。
今も、外見だけ見れば、旧知の仲でもそう思うに違いない。
力仕事などしたことのないほっそりした腕、首に巻いた花柄のスカーフ、同じ柄のスカート
と、それに揃えた同じ色のシャツ。
ひっそりと、つつましく生活をしていた花屋の娘。
笑顔と感謝の言葉とよく手入れされた清潔な花を、僅かなお金と代えて、街の人との生活
に溶け込んでいた少女。
薔薇の棘を切る為に使っていた鋏は、今も同じように右手に持っているが、それで滅多切
りにしたのは、13人の人間だった。
刃こぼれし、既に鋏として用を成さなくなってなお、彼女は力任せに、手を、指を、目を、唇
を、舌を、人体のあらゆる所を切断しまくった。
それは、壮絶な光景だった。
そしてこの無残な一方的な虐殺が繰り広げられている教会は、死に満ちていた。
あまりの事に、誰も、正確な判断ができなかった。
衛兵や、街に赴任している兵でさえ、彼女が殺し終えるまで、様子を見ようと決めていた。
いつ終わるとも分からぬ、この狂気の殺戮を。
閉ざされたこの教会に、だが、ロンシュタットが切り込んだ。
闖入者に対し、彼女は最初、見向きもしなかった。
だが、ロンシュタットが背負った、彼の身長ほどもある長い剣で切りかかられた時、数メー
トルはあろうかという神像を飛び越え、反対側に降り立った。
遠くを見据えるような、虚ろな眼でロンシュタットを見ている。
「分かっただろう」
ロンシュタットは入り口や窓から覗いている町人たちに言った。
「これが悪魔だ」
言い終えるが早いか、神像を回り込み追撃をかける。
再び振るわれる長剣。
彼女は表情ひとつ変えず、上体を反らしてよけると、入り口へ走った。
地面を這うように、という表現がぴったりだった。血に染まった影が夕闇の中へするりと入
り込むようだ。
恐れ慄く町人たちへ飛び掛る前に、彼女の動きが止まる。
いきなり急停止を強いられた彼女は、痛みの走る左足をゆっくり振り返る。
ロンシュタットの長剣が左足を貫通し、絨毯越しに彼女の足を縫いとめていた。
彼女の口から絶叫が上がる。
血でも吐き出すのではないかと思うくらい、長く響く。
手応えを感じたロンシュタットは、彼女に向かって歩き出す。
ぐしゃり、ぐしゃりと湿った音が近づいて来る度に、彼女は剣を抜こうとするが、がっしりと
食い込んだそれを動かすことはできない。
床に爪を立て、何度も前に進んで逃れようとするが、無駄だった。
やがて爪も剥がれ、どうしても逃れられないと知るや、急に表情が戻った。
血の混じった涙を流し、目の前の町人に懇願する。
「お願い、助けて……」
と。
「ごめんなさい、どんな罰でも受けます。だから、助けて。裁かれるなら、この街の人がい
い……」
ロンシュタットの影が、彼女の背にかかる。
「この人には、殺されたくない……この人は、きっとこの場で私を殺してしまう。あなたたち
は、そんな場面をこれ以上見たいの?」
町人が怯む。
確かに、こんな残酷なショーはもういらない。人生で起こる悪いことを全部まとめて見せら
れた感じだ。これ以上は見たくない。
それに、裁くなら、衛兵に渡せばいい。彼らが、然るべき手続きを踏んで、誰もが納得でき
る形で決着を付けてくれるだろう。
第一、もう逃げられないじゃないか。
思わず一歩踏み出す町人に手を伸ばす少女。
だが、その手が届くことは無かった。
ロンシュタットがその腕を踏みつける。
乱暴に彼女の髪をひっつかみ、持ち上げると、ぐうと悲鳴が上がる。
剣を引き抜き、彼女を教会の中へ投げ飛ばす。
体が机にぶつかり、乗っていた肉片が転がり落ちる。
悔しそうな表情を浮かべ、ロンシュタットを睨みつけるが、彼は怯みもしなかった。
むしろ獲物に喰らいつく肉食獣のような眼で睨むと、剣を振りかぶり、力任せに振り下ろし
た。
何かが飛んだ、と、町人たちは思った。
ごろごろと血を撒き散らしながら、やがて椅子にぶつかり停止するそれは、彼女の首だっ
た。
意思でもあるように上向きになったそれは、ごぼごぼと血の泡を口の周りに吹きながら、
喋った。
「畜生が」
と。
聞いたことの無い、しわがれた男の声で。
「せっかく居心地のいい身体が手に入ったってのに……運がねぇぜ。なあ、おい」
と、見開かれた眼を、入り口に集まる町人たちへ向ける。
「俺はこの女の身体を借りただけだってのに、こいつは生きている女ごと殺しやがった。な
あ、知っているか、さっき懇願したのは、本物のこの身体の持ち主だったんだぜぇ?」
それまで喋る生首を凝視していた町人たちの視線が、一斉にロンシュタットへ向かう。
恐怖と非難の色に染まって。
「……それに、こいつも、人間なんかじゃねぇぞ……俺と同じ、悪魔さ……」
いよいよ力尽きてきた悪魔がそう言うと、視線に嫌悪の色がさらに混ざる。
大きく息を吸い込み、最後に切り裂き声にも似た笑い声を上げた後、ついに首は動かなく
なった。
「出て行ってくれ」
町長がそう言って、ロンシュタットの足元に金貨の入った袋を投げた。
ロンシュタットによる悪魔殺しが終わってすぐ、町長が衛兵数人と共に教会へ駆けつけて
きた。
むせ返る血の臭いに眉をしかめ、薄暗い教会の中から立体化した影のように出てきたロン
シュタットを見て、彼は依頼が終了したのだと分かった。
だが、その惨状には耐えられなかった。
ロンシュタットが罪の無い町人を殺したわけではないが、都合14人の死は余りに大き過ぎ
た。
町長は衛兵に命じてすぐに教会を封鎖させると、同じく数人の衛兵に囲まれて、ロンシュタ
ットを自分の屋敷へ連れて行った。
そして、報酬の金貨を放ったのである。
「悪魔に憑かれた者を退治してくれと頼んだが、こんな結果になるとは思わなかった。いくら
なんでもこれは酷い、酷すぎる」
顔を赤くし、さも憤慨しているように手を振り上げる。
「それに、君自身、彼らの同類という話じゃないか。そんな仲間同士の諍いのようなもの、金
輪際この町では御免だ。それを拾って、今すぐ出て行ってくれ」
と、袋に入った数枚の金貨と、出口を指して言った。
「この屋敷の周りにも、町人たちが集まり、こちらの様子を伺っている。君が更に何か悪いこ
とを撒き散らさないか、恐れているからだ。平穏な町に、君のようなものをこれ以上いさせる
ことなど、断じてできない。さあ、今すぐ出て行ってくれ!」
ロンシュタットは一度だけ、町長を睨みつける。
しかし、町長は嫌悪と汚物でも見るような眼で睨み返して来るだけだった。
ロンシュタットは乱暴に袋を拾い上げると、屋敷から出た。
玄関から短い石畳の通路を通ると、その先には門がある。左右には柵が広がるが、そこ
に、松明を手にした町人たちが彼を睨みつけ、あるいは恐怖の眼差しで出て行くのをじっと
見ている。
柵越しにでも、彼らの負の感情がロンシュタットにぶつかり、圧し掛かってくる。
玄関の扉を開け、彼らを見たときに一度足を止めたが、ロンシュタットはそのまま通路を通
り、門を潜る。
さっ、と人の生垣も割れ、出て行くロンシュタットをじっと見ている。
そして屋敷から少し離れた時、背中に罵声が浴びせられた。
何と言われたのか、小さい声だったがはっきり聞こえる。
最初はひとりふたりが小声で言うだけだったが、次第にその怨嗟の声は大きくなり、集ま
った町人たちがロンシュタットを罵り、最後には合唱のように、死んでしまえ、呪われてしま
え、と繰り返された。
感情が高まり興奮した数人の町人が、石を投げつけてきた。
幾つかは外れたが、飛んでくる幾つかは背中に、地面に跳ねた幾つかは足にぶつかる。
ぶつかる度に、端整ではあるが冷たい顔つきをしているロンシュタットの表情が苦痛に歪
む。
その様を知り、声がした。
「おいおい、今回も熱烈な歓迎ぶりじゃないか。モテるね、憎いね、ロン」
しかし、遠巻きにして彼が町から出て行くのを見ている町人以外、彼の周囲には誰もいな
い。
「やり返さないのか? お前ならこの町の人間くらい、簡単に処分できるだろ。やんないの
か?」
ロンシュタットが何も言わず、痛みも和らぎ表情も戻ると、
「ちぇっ、ま~たダンマリかよ。つまんねぇの」
と声が続く。
どうやら声は、腰に吊るした身長ほどもある、あの長い剣からするようだ。
「でも、まだまだ悪魔を相手に暴れる気なんだろ? そりゃそうだよな、そうこなくちゃな。今
までもずっとそうして生きて来たんだ。これからもずっとそうして生きていくしかないさ。お前
が返り討ちにあうその時までな」
けけけ、と薄気味悪い笑い声がする。
ロンシュタットは剣の柄を握ると、
「お前……うるさいぞ」
と、睨む。
うっ、と声がつまり、すぐに再び剣から声がした。
「悪かったよ、ロン。頼むから、怒んないでくれよ~」
茶化しておどけた口調で言うが、声には本物の恐怖が込められている。
やがて町も抜け、暗闇に包まれた誰もいない街道を、明かりも無く歩き続ける。
その頃になると、また剣が話しかけてきた。
「でもよ~、ロン。次はどこ行くんだ? このまま行くと、確かセーラムの町だぜ」
ロンシュタットは、相変わらず無言のままだ。
だがそれに傷ついたふうでもなく、むしろ飄々と剣は続けた。
「まあいいか、どこでも。お前の行く先には必ず悪魔がいるし、必ず悲劇が血と命の派手な
演出で彩られるんだ。お前の辿り着く先は、必ず戦場なんだからな」
それを無視して、ロンシュタットは歩き続ける。
先程の町で、休むこともできぬまま、また次の町へ向けて。
だが、それすらも
「いつもの事だ。何も変わらない」
ぽつりと呟きふと仰ぎ見た夜空に輝く星は、呆れるほど遠く、儚く光っていた。
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「ロンシュタット 序章編」
PC:ロンシュタット
場所:辺境
熱の無い夕闇の中、涼しいはずのこの時期に、今日だけはむせ返るような血の臭いが充
満していた。
窓は開け放たれ、内幾つかは破られている。
入り口から正面の神像まで続く赤絨毯には、それよりも更に濃いどす黒い血が斑模様に
広がり、それを乱暴に踏みつけるロンシュタットの足元から、ぐしゃぐしゃと湿った音を立て
る。
法衣を着た老人、花を供えに来た少女、参拝に訪れた数人の旅人らしき死体があちらこ
ちらに散らばるが、そのほとんどは殺され過ぎ、判別できるのはその数人だけだ。
もしこのグロテスクなパズルを完成させることができたなら、その肉片からきっかり13人
分の死体が完成する。
返り血を浴び、今も大量の参拝者の血を滴らせる神像の向こうに、さっきまでこの街の人
間が同じ住人だと信じていたものがいる。
今も、外見だけ見れば、旧知の仲でもそう思うに違いない。
力仕事などしたことのないほっそりした腕、首に巻いた花柄のスカーフ、同じ柄のスカート
と、それに揃えた同じ色のシャツ。
ひっそりと、つつましく生活をしていた花屋の娘。
笑顔と感謝の言葉とよく手入れされた清潔な花を、僅かなお金と代えて、街の人との生活
に溶け込んでいた少女。
薔薇の棘を切る為に使っていた鋏は、今も同じように右手に持っているが、それで滅多切
りにしたのは、13人の人間だった。
刃こぼれし、既に鋏として用を成さなくなってなお、彼女は力任せに、手を、指を、目を、唇
を、舌を、人体のあらゆる所を切断しまくった。
それは、壮絶な光景だった。
そしてこの無残な一方的な虐殺が繰り広げられている教会は、死に満ちていた。
あまりの事に、誰も、正確な判断ができなかった。
衛兵や、街に赴任している兵でさえ、彼女が殺し終えるまで、様子を見ようと決めていた。
いつ終わるとも分からぬ、この狂気の殺戮を。
閉ざされたこの教会に、だが、ロンシュタットが切り込んだ。
闖入者に対し、彼女は最初、見向きもしなかった。
だが、ロンシュタットが背負った、彼の身長ほどもある長い剣で切りかかられた時、数メー
トルはあろうかという神像を飛び越え、反対側に降り立った。
遠くを見据えるような、虚ろな眼でロンシュタットを見ている。
「分かっただろう」
ロンシュタットは入り口や窓から覗いている町人たちに言った。
「これが悪魔だ」
言い終えるが早いか、神像を回り込み追撃をかける。
再び振るわれる長剣。
彼女は表情ひとつ変えず、上体を反らしてよけると、入り口へ走った。
地面を這うように、という表現がぴったりだった。血に染まった影が夕闇の中へするりと入
り込むようだ。
恐れ慄く町人たちへ飛び掛る前に、彼女の動きが止まる。
いきなり急停止を強いられた彼女は、痛みの走る左足をゆっくり振り返る。
ロンシュタットの長剣が左足を貫通し、絨毯越しに彼女の足を縫いとめていた。
彼女の口から絶叫が上がる。
血でも吐き出すのではないかと思うくらい、長く響く。
手応えを感じたロンシュタットは、彼女に向かって歩き出す。
ぐしゃり、ぐしゃりと湿った音が近づいて来る度に、彼女は剣を抜こうとするが、がっしりと
食い込んだそれを動かすことはできない。
床に爪を立て、何度も前に進んで逃れようとするが、無駄だった。
やがて爪も剥がれ、どうしても逃れられないと知るや、急に表情が戻った。
血の混じった涙を流し、目の前の町人に懇願する。
「お願い、助けて……」
と。
「ごめんなさい、どんな罰でも受けます。だから、助けて。裁かれるなら、この街の人がい
い……」
ロンシュタットの影が、彼女の背にかかる。
「この人には、殺されたくない……この人は、きっとこの場で私を殺してしまう。あなたたち
は、そんな場面をこれ以上見たいの?」
町人が怯む。
確かに、こんな残酷なショーはもういらない。人生で起こる悪いことを全部まとめて見せら
れた感じだ。これ以上は見たくない。
それに、裁くなら、衛兵に渡せばいい。彼らが、然るべき手続きを踏んで、誰もが納得でき
る形で決着を付けてくれるだろう。
第一、もう逃げられないじゃないか。
思わず一歩踏み出す町人に手を伸ばす少女。
だが、その手が届くことは無かった。
ロンシュタットがその腕を踏みつける。
乱暴に彼女の髪をひっつかみ、持ち上げると、ぐうと悲鳴が上がる。
剣を引き抜き、彼女を教会の中へ投げ飛ばす。
体が机にぶつかり、乗っていた肉片が転がり落ちる。
悔しそうな表情を浮かべ、ロンシュタットを睨みつけるが、彼は怯みもしなかった。
むしろ獲物に喰らいつく肉食獣のような眼で睨むと、剣を振りかぶり、力任せに振り下ろし
た。
何かが飛んだ、と、町人たちは思った。
ごろごろと血を撒き散らしながら、やがて椅子にぶつかり停止するそれは、彼女の首だっ
た。
意思でもあるように上向きになったそれは、ごぼごぼと血の泡を口の周りに吹きながら、
喋った。
「畜生が」
と。
聞いたことの無い、しわがれた男の声で。
「せっかく居心地のいい身体が手に入ったってのに……運がねぇぜ。なあ、おい」
と、見開かれた眼を、入り口に集まる町人たちへ向ける。
「俺はこの女の身体を借りただけだってのに、こいつは生きている女ごと殺しやがった。な
あ、知っているか、さっき懇願したのは、本物のこの身体の持ち主だったんだぜぇ?」
それまで喋る生首を凝視していた町人たちの視線が、一斉にロンシュタットへ向かう。
恐怖と非難の色に染まって。
「……それに、こいつも、人間なんかじゃねぇぞ……俺と同じ、悪魔さ……」
いよいよ力尽きてきた悪魔がそう言うと、視線に嫌悪の色がさらに混ざる。
大きく息を吸い込み、最後に切り裂き声にも似た笑い声を上げた後、ついに首は動かなく
なった。
「出て行ってくれ」
町長がそう言って、ロンシュタットの足元に金貨の入った袋を投げた。
ロンシュタットによる悪魔殺しが終わってすぐ、町長が衛兵数人と共に教会へ駆けつけて
きた。
むせ返る血の臭いに眉をしかめ、薄暗い教会の中から立体化した影のように出てきたロン
シュタットを見て、彼は依頼が終了したのだと分かった。
だが、その惨状には耐えられなかった。
ロンシュタットが罪の無い町人を殺したわけではないが、都合14人の死は余りに大き過ぎ
た。
町長は衛兵に命じてすぐに教会を封鎖させると、同じく数人の衛兵に囲まれて、ロンシュタ
ットを自分の屋敷へ連れて行った。
そして、報酬の金貨を放ったのである。
「悪魔に憑かれた者を退治してくれと頼んだが、こんな結果になるとは思わなかった。いくら
なんでもこれは酷い、酷すぎる」
顔を赤くし、さも憤慨しているように手を振り上げる。
「それに、君自身、彼らの同類という話じゃないか。そんな仲間同士の諍いのようなもの、金
輪際この町では御免だ。それを拾って、今すぐ出て行ってくれ」
と、袋に入った数枚の金貨と、出口を指して言った。
「この屋敷の周りにも、町人たちが集まり、こちらの様子を伺っている。君が更に何か悪いこ
とを撒き散らさないか、恐れているからだ。平穏な町に、君のようなものをこれ以上いさせる
ことなど、断じてできない。さあ、今すぐ出て行ってくれ!」
ロンシュタットは一度だけ、町長を睨みつける。
しかし、町長は嫌悪と汚物でも見るような眼で睨み返して来るだけだった。
ロンシュタットは乱暴に袋を拾い上げると、屋敷から出た。
玄関から短い石畳の通路を通ると、その先には門がある。左右には柵が広がるが、そこ
に、松明を手にした町人たちが彼を睨みつけ、あるいは恐怖の眼差しで出て行くのをじっと
見ている。
柵越しにでも、彼らの負の感情がロンシュタットにぶつかり、圧し掛かってくる。
玄関の扉を開け、彼らを見たときに一度足を止めたが、ロンシュタットはそのまま通路を通
り、門を潜る。
さっ、と人の生垣も割れ、出て行くロンシュタットをじっと見ている。
そして屋敷から少し離れた時、背中に罵声が浴びせられた。
何と言われたのか、小さい声だったがはっきり聞こえる。
最初はひとりふたりが小声で言うだけだったが、次第にその怨嗟の声は大きくなり、集ま
った町人たちがロンシュタットを罵り、最後には合唱のように、死んでしまえ、呪われてしま
え、と繰り返された。
感情が高まり興奮した数人の町人が、石を投げつけてきた。
幾つかは外れたが、飛んでくる幾つかは背中に、地面に跳ねた幾つかは足にぶつかる。
ぶつかる度に、端整ではあるが冷たい顔つきをしているロンシュタットの表情が苦痛に歪
む。
その様を知り、声がした。
「おいおい、今回も熱烈な歓迎ぶりじゃないか。モテるね、憎いね、ロン」
しかし、遠巻きにして彼が町から出て行くのを見ている町人以外、彼の周囲には誰もいな
い。
「やり返さないのか? お前ならこの町の人間くらい、簡単に処分できるだろ。やんないの
か?」
ロンシュタットが何も言わず、痛みも和らぎ表情も戻ると、
「ちぇっ、ま~たダンマリかよ。つまんねぇの」
と声が続く。
どうやら声は、腰に吊るした身長ほどもある、あの長い剣からするようだ。
「でも、まだまだ悪魔を相手に暴れる気なんだろ? そりゃそうだよな、そうこなくちゃな。今
までもずっとそうして生きて来たんだ。これからもずっとそうして生きていくしかないさ。お前
が返り討ちにあうその時までな」
けけけ、と薄気味悪い笑い声がする。
ロンシュタットは剣の柄を握ると、
「お前……うるさいぞ」
と、睨む。
うっ、と声がつまり、すぐに再び剣から声がした。
「悪かったよ、ロン。頼むから、怒んないでくれよ~」
茶化しておどけた口調で言うが、声には本物の恐怖が込められている。
やがて町も抜け、暗闇に包まれた誰もいない街道を、明かりも無く歩き続ける。
その頃になると、また剣が話しかけてきた。
「でもよ~、ロン。次はどこ行くんだ? このまま行くと、確かセーラムの町だぜ」
ロンシュタットは、相変わらず無言のままだ。
だがそれに傷ついたふうでもなく、むしろ飄々と剣は続けた。
「まあいいか、どこでも。お前の行く先には必ず悪魔がいるし、必ず悲劇が血と命の派手な
演出で彩られるんだ。お前の辿り着く先は、必ず戦場なんだからな」
それを無視して、ロンシュタットは歩き続ける。
先程の町で、休むこともできぬまま、また次の町へ向けて。
だが、それすらも
「いつもの事だ。何も変わらない」
ぽつりと呟きふと仰ぎ見た夜空に輝く星は、呆れるほど遠く、儚く光っていた。
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登場:クオド
場所:ガルドゼンド -イェッセン伯領ヒュッテ砦
--------------------------------------------------------------------------
「――起きてください、夕飯を食いっぱぐれますよ」
ゆさぶられて眠りが醒める。寒い。体温が妙に下がっている、と初めに思った。
かけられた言葉をゆっくりと理解しながら、クオドは「ああ……ごめんなさい」と囁
いた。吐息は熱い。起き出そうと身体を動かす。くらりと軽い眩暈を覚えて額にやった
掌は、氷のように冷え切っている。
身体の傍に横たわっていた剣を抱え、従士の少年に問う。
「……今は?」
「もう夜です。明日の準備は済ませました」
「ご苦労様。
食事に行きましょうか」
騎士見習いが嬉しそうに頷いたので、クオドは薄く苦笑して立ち上がった。
寒い。下手に眠るものではなかったか。半ば手探りで外套を探し、羽織る。ぱちんと
留め具の音で若干の眠気が醒めた。
鞘に収めた小剣を腰に帯びる。
石の床に堅い足音が響く。部屋を出ると廊下は広くない。大挙して押し寄せる敵のな
いように――だが、主塔まで攻め込まれるならそれは負け戦だ。徐々に追い詰められて、
いや、追い詰めて。どこが決戦の場になるだろうと、半ば無意識のうちに、襲撃者の立
場で考える。途中で思考がほつれてしまい、考える代わりに声を出す。
二人の他に人の姿はない。
「カッツェ君なら、この砦をどうやって陥とします?」
「……はい?」
「鳥瞰図を使って構いません。守備の人数も知っていると仮定して。
内訳は――これもいいでしょう、斥候を使えばわかることです」
「あの、クオドさま」
「篭城に比べて攻城が困難だと言われる所以は、要するに、守備側の陣が砦であるから、
という一点に絞られます。砦とは守るための施設です。石壁、掘、矢狭間やその他の仕
掛けがどれだけ有効かは知っていますね? それらがなくとも“攻めなくてよい”とい
うのはとても有利なことです」
「……」
停止しかけた思考。言葉だけがするする落ちる。
今になってようやく自分が何について話しているのかぼんやり気づいた。
兵法書など読まなくたってわかるような初歩の初歩。何故だかとまらない。
「本格的に、数月或いは数年をかける攻城戦をやるには、周囲に陣を敷かなければなり
ません。陣を敷くには人が要りますね。人が居るなら食糧が必要です。これを確保する
には幾つかの方法がありますが、まず、本国からの輸送。次に現地調達。これらは勿論
対処が可能です。
輸送隊への襲撃――これはおなじく枯渇しがちな防衛軍への補給にもなりますね。そ
して現地調達に対しては、これは要するに奪うものがなければいいのですから」
「あの」
「……又、長期に渡って包囲陣を敷く気がない場合。つまり短期間でひとつの砦を陥と
す時には三つの手段が考えられます。一つ、圧倒的な大軍で包囲し、鷹揚な条件で開城
交渉を行う。一つ、警備の隙をつき一気に攻め入る。三つ、半ば反則的な何かしらの手
段で一瞬にして防備を破り突入する」
「クオドさま――クオド・エラト・デモンストランダム卿!」
強く声をかけられて、クオドは思わず足を止めた。
いつの間にか階段を降り終え、広間へ差しかかろうとしていた。
壁にかけられた硝子灯の炎が、化物じみて大きな影を作り出している。
ここもアプラウトの砦に負けず古いらしい。昔にもヒュッテ砦という名称は聞いたこ
とがある。それに何より、古い砦は暗いし、建築物そのものに重い威圧感があるものだ
から。
振り返ると従士は不安そうな表情をしていた。
「大丈夫ですか。普段はこんな喋らないのに」
「……少し、眠りが足らなくて。
もっとおもしろい話をすればよかったですね」
答えながら苦笑いすると、相手も笑ってくれた。
「ええ、今度はもうちょっと縁起のいい話をお願いします。
中途半端に寝るからそんなぼうっとするんですよ」
+ ○ + ○ + ● + ○ + ○ +
カッツェの夕食はいつもより多かった。騎士は昨日は林檎をくれたが、今日は彼の麺
包の三分の二がカッツェの胃袋に収まった。遠慮なく受け取って、これで深夜に空腹を
覚えることはないだろうと思った。
当の騎士の食事量が少ないのは気になったものの、寝ぼけて皿に突っ伏しかける様子
を見た限り、この状態で無理に食べさせる方が酷かも知れないと判断することにした。
熱気の篭った食堂から出ると、夜風が頬を醒ますのを感じた。
肌寒いくらいの秋の夜。先程より気温が落ちたように思えるのは錯覚だろうか。
くるりと視線を転じ、周囲を見渡す。灯り台に火はなく、薄暗い。硝子灯を持った兵
士が中庭を横切って行く。厩から嘶きが聞こえる。迷い込んだ蝶がまださ迷っている。
二人で慣れた道を主塔へ戻る。途中でカッツェが「さっきの話なんですけど」と切り
出すと、騎士はきょとんと瞬きした。
「五倍の兵と半月があれば十分です。正攻法でも陥とせます」
「…………ああ、ええ、そうですね」
出題自体を忘れていたに違いない。仕方のないひとだ。
本当に主人の親戚なのだろうか――呆れ半分で観察する。カッツェよりも拳半分くら
い背が低いし、肩幅も狭い。大切そうに古い製造えの剣を抱えていても、何の頼りにも
なりそうにない。少し稽古に付き合ってもらった限りでは腕は立つようだが、果たして
実践慣れしているだろうか。
「では、いつ陥としますか?」
「それは――クオドさま、この音は」
遠く地鳴りのような音が聞こえた。立ち止まる。
騎士は首を傾げてから、「何でしょう」と、あまり緊張感のない声で応えてきた。本
当に頼りにならない。周囲を見渡すうちに音は大きくなっていく。戦場を駆ける無数の
蹄にも似て、腹の底まで響く振動。
誰かが、「あ」と声を上げた。
視線を転じれば兵士がひとり夜空を指差していた。
「星が……」
星がどうした。それどころではない。苛だちながらも思わず見上げる。
凍りついたような冬の星座。蛇喰らいの鳥、指輪、槍を構えた勇士。その矛先が瞬い
た。振動は今も大きくなっていく。
隣で、騎士が身体に合わぬ大声を上げた。
「無駄な死を恐れる者は速やかに退避せよ、敵襲だ!」
その言葉は地響きを貫いて響き渡ったが、すぐにその意味を理解した者は少なかった
に違いない。恐慌の気配が膨れ上がるまでの数秒間を、カッツェはとても長く感じた。
危険に気づいてもどうすることもできない。退避? どこへ? 騎士自身も、叫んだ以
上のことは思いつかないようだった。
人影が右往左往している。硝子灯の火が増えていく。
目の前を、白い――
騎士が身を翻して腕を振るうと、それは小剣の刃に裂かれて無残に落ちた。白い羽。
醜い昆虫の胴体が最後にひくりと動いて、秋の蝶は命を失った。
鮮やかに青い目が、それを見下ろしている。
「……使い魔…………気付く機会はいくらでも、」
直後、衝撃。
誰かの悲鳴と共に目の前が白く染まり、そして暗転した。
カッツェが目を醒ますと、狭い場所で壁に背をもたれていた。
壁と壁の間から、廊下を走り回る人々の姿が見える。あちらこちらで炎が煌々と瞬い
て、ついさっきまでの暗さが嘘のようだった。
警鐘が鳴り響いている。兵士達は鎧に身を包んでいる。
「……!」
慌てて立ち上がると背中が少し痛んだ。手の甲が擦りむけているのが見えた。
そうだ、敵襲。星が落ちて、どうなった? 味方の怒号は絶望一色だ。
戦わなければならないだろうか。あの騎士の姿はどこにもない。彼は頼りないが、い
なければ余計に不安になる。周囲を見渡して、すぐ足元に落ちていた紙片に手を伸ばす。
書かれた文章は古い言葉遣いで難解だったが、辛うじて大凡だけを理解することができ
た。
“もしも間に合うなら、馬をつかって脱出しなさい。”
這い出すように闇から出て、自分のいる場所に気づいた。主塔の一階。
数少ない守備兵が扉へ殺到している。その向こう側にも銀の煌きが見えた。無数の槍
と矛、そして剣。
――ヒュッテを陥とすには、正攻法でも五倍の兵がいれば十分だ。
自分の言葉が脳裏に蘇る。四十七の五倍。二百五十にも満たない数。
悲鳴が絶えない。きっと味方だ。
がっ、と鈍い音がして、流れた矢が足元の石材に跳ねた。
カッツェ・オズヴァルドの初陣は負け戦になろうとしていた。
+ ○ + ○ + ● + ○ + ○ +
アプラウト家の小柄な騎士は、平服の上から綿入れと鎖帷子を重ねただけの軽装で、
普段から抱えている例の剣も相変わらず封印されたままだった。片手に提げた小剣の刃
は毀れ、てらてらとした脂に覆われている。
テオバルドはその姿を確認すると声をかけようか迷ったが、指示を求めて駆け寄って
きた兵卒の相手をするうちに見失った。周囲には無残な死体が折り重なり、敵味方がそ
れらを踏み越えて入り乱れている。魔術の光が煌き、鎧の倒れる音がした。
あの騎士が消えた方へ目を凝らす。既に他の騎士たちはエーリヒ以外の皆が捕虜とな
ったという報告を受けていた。開城勧告はない。敵は飽くまで武力でこの砦を陥落させ
るつもりのようだ。
主塔の入り口は狭く、敵が大挙して押し寄せることはできない。とはいえいつかは迫
り負ける。非戦闘員を非難させた階上の広間まで引くことになるかも知れない。
「――態勢を、」
どすん。言いかけたとき、肩に衝撃があった。深く食い込む弩の矢。
痛みと熱は一瞬遅れて襲ってきた。喉の奥で言葉が詰まる。苦鳴を押し殺す。
「隊長!」
「大丈夫だ」
傷口を押さえて前方を睨む。殺到する敵兵の後ろで、弩に次の矢を番える弓兵の姿。
古びた鉄の鎧は他の兵のものと製造えが違う。傭兵だろうか。兜の面頬は上げられて、
切れ長の目がこちらを見ている。無雑作に弩を上げ――間には襲撃軍の兵がいるにも関
わらず。
「!?」
矢は耳を掠めた。背後の悲鳴に視線だけで振り向けば、一人の兵が板金鎧ごと胸の中
央を貫かれて崩れ落ちるところだった。降伏する、という言葉が本能的に喉元まで込み
上げた。今までも窮地はいくらでもあった。
声を張り上げる。
「故郷を戦禍に包みたくなければ、ティグラハットの豚共にこの砦を渡すな。
国内が戦場となれば――パフュール王は決して、我らを顧みることはない!」
+ ○ + ○ + ● + ○ + ○ +
――五日前、アプラウト本領レットシュタイン。
石造りの教会の内部は、吐く息が白いほどの寒さだった。
空を覆う鉛色の雲は毎年、国内のどこよりも早く冬を連れてくる。恐らくは荒野と山
に囲まれた土地柄のせいであろうが、領民たちは声を潜めて呪いだと囁く。ヴィオラは
その理由を詳しく知らないし、過去の迷信に興味はない。それでも彼らの不安を幾らか
やわらげようと思えば、年老いた神父に時節の礼拝を準備させるというのは悪くない方
法だった。
前代の頃から砦内の教会を任されている神父は最近になって聴力の衰えを気にしてい
るようだが、まだ耄碌はしていない。どの聖句を読むべきか、どの聖人を讃えるべきか。
彼は今代領主が五年前に勝手に定めた祝祭日に満足しているらしく、神の威光を楯に領
主自身を教会に呼び出してはその礼拝の前支度の確認をするということを、殆ど一日お
きに続けている。だが結局、今年も、昨年とおなじ結論に達するに違いないのだ。「昨
年とおなじように」。
つまりヴィオラは、彼が毎年言い出す妄言を今年も聞かされているということだ。
森の中に放棄された古い大聖堂を修復し、そこで礼拝を行いたい、だって? 馬鹿を
言うな。あの廃墟を建て直すには、苔に覆われた瓦礫をすべて撤去して、新しい図面を
用意しなければいけない。建築士と石工を十年雇い、木材と石と金属を揃えるだけの資
金。この痩せた土地に、それらの何があるというのだ。
何度説明しても神父は納得しない。
神への奉仕は何にも優先されるべきだと本気で信じているのだ。
「――ご主人様、あなたにお会いしたいという方が」
「何方ですか」
ヴィオラは長椅子に腰かけたまま半ば反射的に返事をし、それから胸中の愚痴を中断
した。声が厳しくなっただろうかと、意識的に穏やかな口調で言葉を続ける。
「広間の暖炉に火は入っていますね?
熱い飲み物を用意して、私が行くまで客人を遇しておきなさい」
「それには及ばない」
振り向き、立ち上がる。教会の入り口、年月で色褪め表面の毳立った樫の扉の前には
二つの人影。申し分けなさそうな表情をしている執事と、身なりのいい男。彼は金色の
髪を撫でつけて、鮮やかな黄緑色の上衣を着ている。一目で貴族の召使だとわかった。
「貴方がハルデンヴァイル副伯か」
「私がハルデンヴァイルの子爵にしてこの地の領主ヴィオラ・アプラウトです。
このような辺境までようこそお越しくださいました、使者殿。
貴殿の目を楽しませる景色はありませんがどうぞお寛ぎを」
男は傲慢な表情で鼻を鳴らし、はクレイグ辺境伯エイブラム・ゲーデの使者だと名乗
った。ヴィオラはそれで彼の態度についてすべて納得したが、逆に彼の訪問には疑惑を
抱かざるを得なかった。
クレイグ辺境伯は国内で五番目に豊かな荘園を保有している。その荊棘の旗印が掲げ
られれば、城の中庭から溢れるほどの銀甲冑が集うに違いない――つまり、今のアプラ
ウトなど問題にならないし、されない。本来ならば。
「長くいるつもりはない」
「では飲み物だけでも。この土地は冷えるでしょう。
セドリック、使者殿のために葡萄酒を温めて。お客人、蜂蜜は?」
「結構。それより桂皮を入れてくれたまえ、あれには体を温める効果があるから」
執事は一礼すると立ち去った。薄暗い聖堂に沈黙が訪れる。ヴィオラは、神父が祝祭
日の準備のために村へ出向いていることを使者に伝えた。相手は好都合だと言わんばか
りの鷹揚さで頷き、さっと周囲へ目を走らせて他の誰もいないことを確認すると、「我
が主から」と囁いて、上衣の裏から白い手紙を取り出した。
赤い蝋の封印は、確かにクレイグ辺境伯のものだった。戟と荊棘。
ヴィオラは慎重な手付きで蝋を破った。ぱり、と乾いた音がした。時代錯誤な羊皮紙
に記された文面を目で追ううちに血の気が引いた。
使者が言う。
「今日から五日以内に主へ返事が届かなければ、貴方は我々の敵になるだろう。
使者が持ち帰るのは、肯か否か、そのいずれかの一言だけ。どうする、副伯?」
「……その言葉は誰のものでしょう」
もちろん主の、と使者は答えた。
“公王の旗の下へと馳せ参じ、吹雪と共に蹶起せよ。二世紀半に渡りガルドゼンドの玉
座を不当に占めていたパフュールを打ち倒した暁には、我々は本来あるべき故郷を取り
戻すことができるだろう。”
-----------------------------------------------------------
○○卿 = Sir ○○
○○公 = Lord ○○
貴族の名前の「von」はカタカナ表記では省略していますが、
アプラウト家以外は大体、「von」とか「of」とかの相当語がついてるはず。
+++++++++++++++++++++++
場所:ガルドゼンド -イェッセン伯領ヒュッテ砦
--------------------------------------------------------------------------
「――起きてください、夕飯を食いっぱぐれますよ」
ゆさぶられて眠りが醒める。寒い。体温が妙に下がっている、と初めに思った。
かけられた言葉をゆっくりと理解しながら、クオドは「ああ……ごめんなさい」と囁
いた。吐息は熱い。起き出そうと身体を動かす。くらりと軽い眩暈を覚えて額にやった
掌は、氷のように冷え切っている。
身体の傍に横たわっていた剣を抱え、従士の少年に問う。
「……今は?」
「もう夜です。明日の準備は済ませました」
「ご苦労様。
食事に行きましょうか」
騎士見習いが嬉しそうに頷いたので、クオドは薄く苦笑して立ち上がった。
寒い。下手に眠るものではなかったか。半ば手探りで外套を探し、羽織る。ぱちんと
留め具の音で若干の眠気が醒めた。
鞘に収めた小剣を腰に帯びる。
石の床に堅い足音が響く。部屋を出ると廊下は広くない。大挙して押し寄せる敵のな
いように――だが、主塔まで攻め込まれるならそれは負け戦だ。徐々に追い詰められて、
いや、追い詰めて。どこが決戦の場になるだろうと、半ば無意識のうちに、襲撃者の立
場で考える。途中で思考がほつれてしまい、考える代わりに声を出す。
二人の他に人の姿はない。
「カッツェ君なら、この砦をどうやって陥とします?」
「……はい?」
「鳥瞰図を使って構いません。守備の人数も知っていると仮定して。
内訳は――これもいいでしょう、斥候を使えばわかることです」
「あの、クオドさま」
「篭城に比べて攻城が困難だと言われる所以は、要するに、守備側の陣が砦であるから、
という一点に絞られます。砦とは守るための施設です。石壁、掘、矢狭間やその他の仕
掛けがどれだけ有効かは知っていますね? それらがなくとも“攻めなくてよい”とい
うのはとても有利なことです」
「……」
停止しかけた思考。言葉だけがするする落ちる。
今になってようやく自分が何について話しているのかぼんやり気づいた。
兵法書など読まなくたってわかるような初歩の初歩。何故だかとまらない。
「本格的に、数月或いは数年をかける攻城戦をやるには、周囲に陣を敷かなければなり
ません。陣を敷くには人が要りますね。人が居るなら食糧が必要です。これを確保する
には幾つかの方法がありますが、まず、本国からの輸送。次に現地調達。これらは勿論
対処が可能です。
輸送隊への襲撃――これはおなじく枯渇しがちな防衛軍への補給にもなりますね。そ
して現地調達に対しては、これは要するに奪うものがなければいいのですから」
「あの」
「……又、長期に渡って包囲陣を敷く気がない場合。つまり短期間でひとつの砦を陥と
す時には三つの手段が考えられます。一つ、圧倒的な大軍で包囲し、鷹揚な条件で開城
交渉を行う。一つ、警備の隙をつき一気に攻め入る。三つ、半ば反則的な何かしらの手
段で一瞬にして防備を破り突入する」
「クオドさま――クオド・エラト・デモンストランダム卿!」
強く声をかけられて、クオドは思わず足を止めた。
いつの間にか階段を降り終え、広間へ差しかかろうとしていた。
壁にかけられた硝子灯の炎が、化物じみて大きな影を作り出している。
ここもアプラウトの砦に負けず古いらしい。昔にもヒュッテ砦という名称は聞いたこ
とがある。それに何より、古い砦は暗いし、建築物そのものに重い威圧感があるものだ
から。
振り返ると従士は不安そうな表情をしていた。
「大丈夫ですか。普段はこんな喋らないのに」
「……少し、眠りが足らなくて。
もっとおもしろい話をすればよかったですね」
答えながら苦笑いすると、相手も笑ってくれた。
「ええ、今度はもうちょっと縁起のいい話をお願いします。
中途半端に寝るからそんなぼうっとするんですよ」
+ ○ + ○ + ● + ○ + ○ +
カッツェの夕食はいつもより多かった。騎士は昨日は林檎をくれたが、今日は彼の麺
包の三分の二がカッツェの胃袋に収まった。遠慮なく受け取って、これで深夜に空腹を
覚えることはないだろうと思った。
当の騎士の食事量が少ないのは気になったものの、寝ぼけて皿に突っ伏しかける様子
を見た限り、この状態で無理に食べさせる方が酷かも知れないと判断することにした。
熱気の篭った食堂から出ると、夜風が頬を醒ますのを感じた。
肌寒いくらいの秋の夜。先程より気温が落ちたように思えるのは錯覚だろうか。
くるりと視線を転じ、周囲を見渡す。灯り台に火はなく、薄暗い。硝子灯を持った兵
士が中庭を横切って行く。厩から嘶きが聞こえる。迷い込んだ蝶がまださ迷っている。
二人で慣れた道を主塔へ戻る。途中でカッツェが「さっきの話なんですけど」と切り
出すと、騎士はきょとんと瞬きした。
「五倍の兵と半月があれば十分です。正攻法でも陥とせます」
「…………ああ、ええ、そうですね」
出題自体を忘れていたに違いない。仕方のないひとだ。
本当に主人の親戚なのだろうか――呆れ半分で観察する。カッツェよりも拳半分くら
い背が低いし、肩幅も狭い。大切そうに古い製造えの剣を抱えていても、何の頼りにも
なりそうにない。少し稽古に付き合ってもらった限りでは腕は立つようだが、果たして
実践慣れしているだろうか。
「では、いつ陥としますか?」
「それは――クオドさま、この音は」
遠く地鳴りのような音が聞こえた。立ち止まる。
騎士は首を傾げてから、「何でしょう」と、あまり緊張感のない声で応えてきた。本
当に頼りにならない。周囲を見渡すうちに音は大きくなっていく。戦場を駆ける無数の
蹄にも似て、腹の底まで響く振動。
誰かが、「あ」と声を上げた。
視線を転じれば兵士がひとり夜空を指差していた。
「星が……」
星がどうした。それどころではない。苛だちながらも思わず見上げる。
凍りついたような冬の星座。蛇喰らいの鳥、指輪、槍を構えた勇士。その矛先が瞬い
た。振動は今も大きくなっていく。
隣で、騎士が身体に合わぬ大声を上げた。
「無駄な死を恐れる者は速やかに退避せよ、敵襲だ!」
その言葉は地響きを貫いて響き渡ったが、すぐにその意味を理解した者は少なかった
に違いない。恐慌の気配が膨れ上がるまでの数秒間を、カッツェはとても長く感じた。
危険に気づいてもどうすることもできない。退避? どこへ? 騎士自身も、叫んだ以
上のことは思いつかないようだった。
人影が右往左往している。硝子灯の火が増えていく。
目の前を、白い――
騎士が身を翻して腕を振るうと、それは小剣の刃に裂かれて無残に落ちた。白い羽。
醜い昆虫の胴体が最後にひくりと動いて、秋の蝶は命を失った。
鮮やかに青い目が、それを見下ろしている。
「……使い魔…………気付く機会はいくらでも、」
直後、衝撃。
誰かの悲鳴と共に目の前が白く染まり、そして暗転した。
カッツェが目を醒ますと、狭い場所で壁に背をもたれていた。
壁と壁の間から、廊下を走り回る人々の姿が見える。あちらこちらで炎が煌々と瞬い
て、ついさっきまでの暗さが嘘のようだった。
警鐘が鳴り響いている。兵士達は鎧に身を包んでいる。
「……!」
慌てて立ち上がると背中が少し痛んだ。手の甲が擦りむけているのが見えた。
そうだ、敵襲。星が落ちて、どうなった? 味方の怒号は絶望一色だ。
戦わなければならないだろうか。あの騎士の姿はどこにもない。彼は頼りないが、い
なければ余計に不安になる。周囲を見渡して、すぐ足元に落ちていた紙片に手を伸ばす。
書かれた文章は古い言葉遣いで難解だったが、辛うじて大凡だけを理解することができ
た。
“もしも間に合うなら、馬をつかって脱出しなさい。”
這い出すように闇から出て、自分のいる場所に気づいた。主塔の一階。
数少ない守備兵が扉へ殺到している。その向こう側にも銀の煌きが見えた。無数の槍
と矛、そして剣。
――ヒュッテを陥とすには、正攻法でも五倍の兵がいれば十分だ。
自分の言葉が脳裏に蘇る。四十七の五倍。二百五十にも満たない数。
悲鳴が絶えない。きっと味方だ。
がっ、と鈍い音がして、流れた矢が足元の石材に跳ねた。
カッツェ・オズヴァルドの初陣は負け戦になろうとしていた。
+ ○ + ○ + ● + ○ + ○ +
アプラウト家の小柄な騎士は、平服の上から綿入れと鎖帷子を重ねただけの軽装で、
普段から抱えている例の剣も相変わらず封印されたままだった。片手に提げた小剣の刃
は毀れ、てらてらとした脂に覆われている。
テオバルドはその姿を確認すると声をかけようか迷ったが、指示を求めて駆け寄って
きた兵卒の相手をするうちに見失った。周囲には無残な死体が折り重なり、敵味方がそ
れらを踏み越えて入り乱れている。魔術の光が煌き、鎧の倒れる音がした。
あの騎士が消えた方へ目を凝らす。既に他の騎士たちはエーリヒ以外の皆が捕虜とな
ったという報告を受けていた。開城勧告はない。敵は飽くまで武力でこの砦を陥落させ
るつもりのようだ。
主塔の入り口は狭く、敵が大挙して押し寄せることはできない。とはいえいつかは迫
り負ける。非戦闘員を非難させた階上の広間まで引くことになるかも知れない。
「――態勢を、」
どすん。言いかけたとき、肩に衝撃があった。深く食い込む弩の矢。
痛みと熱は一瞬遅れて襲ってきた。喉の奥で言葉が詰まる。苦鳴を押し殺す。
「隊長!」
「大丈夫だ」
傷口を押さえて前方を睨む。殺到する敵兵の後ろで、弩に次の矢を番える弓兵の姿。
古びた鉄の鎧は他の兵のものと製造えが違う。傭兵だろうか。兜の面頬は上げられて、
切れ長の目がこちらを見ている。無雑作に弩を上げ――間には襲撃軍の兵がいるにも関
わらず。
「!?」
矢は耳を掠めた。背後の悲鳴に視線だけで振り向けば、一人の兵が板金鎧ごと胸の中
央を貫かれて崩れ落ちるところだった。降伏する、という言葉が本能的に喉元まで込み
上げた。今までも窮地はいくらでもあった。
声を張り上げる。
「故郷を戦禍に包みたくなければ、ティグラハットの豚共にこの砦を渡すな。
国内が戦場となれば――パフュール王は決して、我らを顧みることはない!」
+ ○ + ○ + ● + ○ + ○ +
――五日前、アプラウト本領レットシュタイン。
石造りの教会の内部は、吐く息が白いほどの寒さだった。
空を覆う鉛色の雲は毎年、国内のどこよりも早く冬を連れてくる。恐らくは荒野と山
に囲まれた土地柄のせいであろうが、領民たちは声を潜めて呪いだと囁く。ヴィオラは
その理由を詳しく知らないし、過去の迷信に興味はない。それでも彼らの不安を幾らか
やわらげようと思えば、年老いた神父に時節の礼拝を準備させるというのは悪くない方
法だった。
前代の頃から砦内の教会を任されている神父は最近になって聴力の衰えを気にしてい
るようだが、まだ耄碌はしていない。どの聖句を読むべきか、どの聖人を讃えるべきか。
彼は今代領主が五年前に勝手に定めた祝祭日に満足しているらしく、神の威光を楯に領
主自身を教会に呼び出してはその礼拝の前支度の確認をするということを、殆ど一日お
きに続けている。だが結局、今年も、昨年とおなじ結論に達するに違いないのだ。「昨
年とおなじように」。
つまりヴィオラは、彼が毎年言い出す妄言を今年も聞かされているということだ。
森の中に放棄された古い大聖堂を修復し、そこで礼拝を行いたい、だって? 馬鹿を
言うな。あの廃墟を建て直すには、苔に覆われた瓦礫をすべて撤去して、新しい図面を
用意しなければいけない。建築士と石工を十年雇い、木材と石と金属を揃えるだけの資
金。この痩せた土地に、それらの何があるというのだ。
何度説明しても神父は納得しない。
神への奉仕は何にも優先されるべきだと本気で信じているのだ。
「――ご主人様、あなたにお会いしたいという方が」
「何方ですか」
ヴィオラは長椅子に腰かけたまま半ば反射的に返事をし、それから胸中の愚痴を中断
した。声が厳しくなっただろうかと、意識的に穏やかな口調で言葉を続ける。
「広間の暖炉に火は入っていますね?
熱い飲み物を用意して、私が行くまで客人を遇しておきなさい」
「それには及ばない」
振り向き、立ち上がる。教会の入り口、年月で色褪め表面の毳立った樫の扉の前には
二つの人影。申し分けなさそうな表情をしている執事と、身なりのいい男。彼は金色の
髪を撫でつけて、鮮やかな黄緑色の上衣を着ている。一目で貴族の召使だとわかった。
「貴方がハルデンヴァイル副伯か」
「私がハルデンヴァイルの子爵にしてこの地の領主ヴィオラ・アプラウトです。
このような辺境までようこそお越しくださいました、使者殿。
貴殿の目を楽しませる景色はありませんがどうぞお寛ぎを」
男は傲慢な表情で鼻を鳴らし、はクレイグ辺境伯エイブラム・ゲーデの使者だと名乗
った。ヴィオラはそれで彼の態度についてすべて納得したが、逆に彼の訪問には疑惑を
抱かざるを得なかった。
クレイグ辺境伯は国内で五番目に豊かな荘園を保有している。その荊棘の旗印が掲げ
られれば、城の中庭から溢れるほどの銀甲冑が集うに違いない――つまり、今のアプラ
ウトなど問題にならないし、されない。本来ならば。
「長くいるつもりはない」
「では飲み物だけでも。この土地は冷えるでしょう。
セドリック、使者殿のために葡萄酒を温めて。お客人、蜂蜜は?」
「結構。それより桂皮を入れてくれたまえ、あれには体を温める効果があるから」
執事は一礼すると立ち去った。薄暗い聖堂に沈黙が訪れる。ヴィオラは、神父が祝祭
日の準備のために村へ出向いていることを使者に伝えた。相手は好都合だと言わんばか
りの鷹揚さで頷き、さっと周囲へ目を走らせて他の誰もいないことを確認すると、「我
が主から」と囁いて、上衣の裏から白い手紙を取り出した。
赤い蝋の封印は、確かにクレイグ辺境伯のものだった。戟と荊棘。
ヴィオラは慎重な手付きで蝋を破った。ぱり、と乾いた音がした。時代錯誤な羊皮紙
に記された文面を目で追ううちに血の気が引いた。
使者が言う。
「今日から五日以内に主へ返事が届かなければ、貴方は我々の敵になるだろう。
使者が持ち帰るのは、肯か否か、そのいずれかの一言だけ。どうする、副伯?」
「……その言葉は誰のものでしょう」
もちろん主の、と使者は答えた。
“公王の旗の下へと馳せ参じ、吹雪と共に蹶起せよ。二世紀半に渡りガルドゼンドの玉
座を不当に占めていたパフュールを打ち倒した暁には、我々は本来あるべき故郷を取り
戻すことができるだろう。”
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○○卿 = Sir ○○
○○公 = Lord ○○
貴族の名前の「von」はカタカナ表記では省略していますが、
アプラウト家以外は大体、「von」とか「of」とかの相当語がついてるはず。
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