登場:クオド
場所:ガルドゼンド -イェッセン伯領ヒュッテ砦
--------------------------------------------------------------------------
「――起きてください、夕飯を食いっぱぐれますよ」
ゆさぶられて眠りが醒める。寒い。体温が妙に下がっている、と初めに思った。
かけられた言葉をゆっくりと理解しながら、クオドは「ああ……ごめんなさい」と囁
いた。吐息は熱い。起き出そうと身体を動かす。くらりと軽い眩暈を覚えて額にやった
掌は、氷のように冷え切っている。
身体の傍に横たわっていた剣を抱え、従士の少年に問う。
「……今は?」
「もう夜です。明日の準備は済ませました」
「ご苦労様。
食事に行きましょうか」
騎士見習いが嬉しそうに頷いたので、クオドは薄く苦笑して立ち上がった。
寒い。下手に眠るものではなかったか。半ば手探りで外套を探し、羽織る。ぱちんと
留め具の音で若干の眠気が醒めた。
鞘に収めた小剣を腰に帯びる。
石の床に堅い足音が響く。部屋を出ると廊下は広くない。大挙して押し寄せる敵のな
いように――だが、主塔まで攻め込まれるならそれは負け戦だ。徐々に追い詰められて、
いや、追い詰めて。どこが決戦の場になるだろうと、半ば無意識のうちに、襲撃者の立
場で考える。途中で思考がほつれてしまい、考える代わりに声を出す。
二人の他に人の姿はない。
「カッツェ君なら、この砦をどうやって陥とします?」
「……はい?」
「鳥瞰図を使って構いません。守備の人数も知っていると仮定して。
内訳は――これもいいでしょう、斥候を使えばわかることです」
「あの、クオドさま」
「篭城に比べて攻城が困難だと言われる所以は、要するに、守備側の陣が砦であるから、
という一点に絞られます。砦とは守るための施設です。石壁、掘、矢狭間やその他の仕
掛けがどれだけ有効かは知っていますね? それらがなくとも“攻めなくてよい”とい
うのはとても有利なことです」
「……」
停止しかけた思考。言葉だけがするする落ちる。
今になってようやく自分が何について話しているのかぼんやり気づいた。
兵法書など読まなくたってわかるような初歩の初歩。何故だかとまらない。
「本格的に、数月或いは数年をかける攻城戦をやるには、周囲に陣を敷かなければなり
ません。陣を敷くには人が要りますね。人が居るなら食糧が必要です。これを確保する
には幾つかの方法がありますが、まず、本国からの輸送。次に現地調達。これらは勿論
対処が可能です。
輸送隊への襲撃――これはおなじく枯渇しがちな防衛軍への補給にもなりますね。そ
して現地調達に対しては、これは要するに奪うものがなければいいのですから」
「あの」
「……又、長期に渡って包囲陣を敷く気がない場合。つまり短期間でひとつの砦を陥と
す時には三つの手段が考えられます。一つ、圧倒的な大軍で包囲し、鷹揚な条件で開城
交渉を行う。一つ、警備の隙をつき一気に攻め入る。三つ、半ば反則的な何かしらの手
段で一瞬にして防備を破り突入する」
「クオドさま――クオド・エラト・デモンストランダム卿!」
強く声をかけられて、クオドは思わず足を止めた。
いつの間にか階段を降り終え、広間へ差しかかろうとしていた。
壁にかけられた硝子灯の炎が、化物じみて大きな影を作り出している。
ここもアプラウトの砦に負けず古いらしい。昔にもヒュッテ砦という名称は聞いたこ
とがある。それに何より、古い砦は暗いし、建築物そのものに重い威圧感があるものだ
から。
振り返ると従士は不安そうな表情をしていた。
「大丈夫ですか。普段はこんな喋らないのに」
「……少し、眠りが足らなくて。
もっとおもしろい話をすればよかったですね」
答えながら苦笑いすると、相手も笑ってくれた。
「ええ、今度はもうちょっと縁起のいい話をお願いします。
中途半端に寝るからそんなぼうっとするんですよ」
+ ○ + ○ + ● + ○ + ○ +
カッツェの夕食はいつもより多かった。騎士は昨日は林檎をくれたが、今日は彼の麺
包の三分の二がカッツェの胃袋に収まった。遠慮なく受け取って、これで深夜に空腹を
覚えることはないだろうと思った。
当の騎士の食事量が少ないのは気になったものの、寝ぼけて皿に突っ伏しかける様子
を見た限り、この状態で無理に食べさせる方が酷かも知れないと判断することにした。
熱気の篭った食堂から出ると、夜風が頬を醒ますのを感じた。
肌寒いくらいの秋の夜。先程より気温が落ちたように思えるのは錯覚だろうか。
くるりと視線を転じ、周囲を見渡す。灯り台に火はなく、薄暗い。硝子灯を持った兵
士が中庭を横切って行く。厩から嘶きが聞こえる。迷い込んだ蝶がまださ迷っている。
二人で慣れた道を主塔へ戻る。途中でカッツェが「さっきの話なんですけど」と切り
出すと、騎士はきょとんと瞬きした。
「五倍の兵と半月があれば十分です。正攻法でも陥とせます」
「…………ああ、ええ、そうですね」
出題自体を忘れていたに違いない。仕方のないひとだ。
本当に主人の親戚なのだろうか――呆れ半分で観察する。カッツェよりも拳半分くら
い背が低いし、肩幅も狭い。大切そうに古い製造えの剣を抱えていても、何の頼りにも
なりそうにない。少し稽古に付き合ってもらった限りでは腕は立つようだが、果たして
実践慣れしているだろうか。
「では、いつ陥としますか?」
「それは――クオドさま、この音は」
遠く地鳴りのような音が聞こえた。立ち止まる。
騎士は首を傾げてから、「何でしょう」と、あまり緊張感のない声で応えてきた。本
当に頼りにならない。周囲を見渡すうちに音は大きくなっていく。戦場を駆ける無数の
蹄にも似て、腹の底まで響く振動。
誰かが、「あ」と声を上げた。
視線を転じれば兵士がひとり夜空を指差していた。
「星が……」
星がどうした。それどころではない。苛だちながらも思わず見上げる。
凍りついたような冬の星座。蛇喰らいの鳥、指輪、槍を構えた勇士。その矛先が瞬い
た。振動は今も大きくなっていく。
隣で、騎士が身体に合わぬ大声を上げた。
「無駄な死を恐れる者は速やかに退避せよ、敵襲だ!」
その言葉は地響きを貫いて響き渡ったが、すぐにその意味を理解した者は少なかった
に違いない。恐慌の気配が膨れ上がるまでの数秒間を、カッツェはとても長く感じた。
危険に気づいてもどうすることもできない。退避? どこへ? 騎士自身も、叫んだ以
上のことは思いつかないようだった。
人影が右往左往している。硝子灯の火が増えていく。
目の前を、白い――
騎士が身を翻して腕を振るうと、それは小剣の刃に裂かれて無残に落ちた。白い羽。
醜い昆虫の胴体が最後にひくりと動いて、秋の蝶は命を失った。
鮮やかに青い目が、それを見下ろしている。
「……使い魔…………気付く機会はいくらでも、」
直後、衝撃。
誰かの悲鳴と共に目の前が白く染まり、そして暗転した。
カッツェが目を醒ますと、狭い場所で壁に背をもたれていた。
壁と壁の間から、廊下を走り回る人々の姿が見える。あちらこちらで炎が煌々と瞬い
て、ついさっきまでの暗さが嘘のようだった。
警鐘が鳴り響いている。兵士達は鎧に身を包んでいる。
「……!」
慌てて立ち上がると背中が少し痛んだ。手の甲が擦りむけているのが見えた。
そうだ、敵襲。星が落ちて、どうなった? 味方の怒号は絶望一色だ。
戦わなければならないだろうか。あの騎士の姿はどこにもない。彼は頼りないが、い
なければ余計に不安になる。周囲を見渡して、すぐ足元に落ちていた紙片に手を伸ばす。
書かれた文章は古い言葉遣いで難解だったが、辛うじて大凡だけを理解することができ
た。
“もしも間に合うなら、馬をつかって脱出しなさい。”
這い出すように闇から出て、自分のいる場所に気づいた。主塔の一階。
数少ない守備兵が扉へ殺到している。その向こう側にも銀の煌きが見えた。無数の槍
と矛、そして剣。
――ヒュッテを陥とすには、正攻法でも五倍の兵がいれば十分だ。
自分の言葉が脳裏に蘇る。四十七の五倍。二百五十にも満たない数。
悲鳴が絶えない。きっと味方だ。
がっ、と鈍い音がして、流れた矢が足元の石材に跳ねた。
カッツェ・オズヴァルドの初陣は負け戦になろうとしていた。
+ ○ + ○ + ● + ○ + ○ +
アプラウト家の小柄な騎士は、平服の上から綿入れと鎖帷子を重ねただけの軽装で、
普段から抱えている例の剣も相変わらず封印されたままだった。片手に提げた小剣の刃
は毀れ、てらてらとした脂に覆われている。
テオバルドはその姿を確認すると声をかけようか迷ったが、指示を求めて駆け寄って
きた兵卒の相手をするうちに見失った。周囲には無残な死体が折り重なり、敵味方がそ
れらを踏み越えて入り乱れている。魔術の光が煌き、鎧の倒れる音がした。
あの騎士が消えた方へ目を凝らす。既に他の騎士たちはエーリヒ以外の皆が捕虜とな
ったという報告を受けていた。開城勧告はない。敵は飽くまで武力でこの砦を陥落させ
るつもりのようだ。
主塔の入り口は狭く、敵が大挙して押し寄せることはできない。とはいえいつかは迫
り負ける。非戦闘員を非難させた階上の広間まで引くことになるかも知れない。
「――態勢を、」
どすん。言いかけたとき、肩に衝撃があった。深く食い込む弩の矢。
痛みと熱は一瞬遅れて襲ってきた。喉の奥で言葉が詰まる。苦鳴を押し殺す。
「隊長!」
「大丈夫だ」
傷口を押さえて前方を睨む。殺到する敵兵の後ろで、弩に次の矢を番える弓兵の姿。
古びた鉄の鎧は他の兵のものと製造えが違う。傭兵だろうか。兜の面頬は上げられて、
切れ長の目がこちらを見ている。無雑作に弩を上げ――間には襲撃軍の兵がいるにも関
わらず。
「!?」
矢は耳を掠めた。背後の悲鳴に視線だけで振り向けば、一人の兵が板金鎧ごと胸の中
央を貫かれて崩れ落ちるところだった。降伏する、という言葉が本能的に喉元まで込み
上げた。今までも窮地はいくらでもあった。
声を張り上げる。
「故郷を戦禍に包みたくなければ、ティグラハットの豚共にこの砦を渡すな。
国内が戦場となれば――パフュール王は決して、我らを顧みることはない!」
+ ○ + ○ + ● + ○ + ○ +
――五日前、アプラウト本領レットシュタイン。
石造りの教会の内部は、吐く息が白いほどの寒さだった。
空を覆う鉛色の雲は毎年、国内のどこよりも早く冬を連れてくる。恐らくは荒野と山
に囲まれた土地柄のせいであろうが、領民たちは声を潜めて呪いだと囁く。ヴィオラは
その理由を詳しく知らないし、過去の迷信に興味はない。それでも彼らの不安を幾らか
やわらげようと思えば、年老いた神父に時節の礼拝を準備させるというのは悪くない方
法だった。
前代の頃から砦内の教会を任されている神父は最近になって聴力の衰えを気にしてい
るようだが、まだ耄碌はしていない。どの聖句を読むべきか、どの聖人を讃えるべきか。
彼は今代領主が五年前に勝手に定めた祝祭日に満足しているらしく、神の威光を楯に領
主自身を教会に呼び出してはその礼拝の前支度の確認をするということを、殆ど一日お
きに続けている。だが結局、今年も、昨年とおなじ結論に達するに違いないのだ。「昨
年とおなじように」。
つまりヴィオラは、彼が毎年言い出す妄言を今年も聞かされているということだ。
森の中に放棄された古い大聖堂を修復し、そこで礼拝を行いたい、だって? 馬鹿を
言うな。あの廃墟を建て直すには、苔に覆われた瓦礫をすべて撤去して、新しい図面を
用意しなければいけない。建築士と石工を十年雇い、木材と石と金属を揃えるだけの資
金。この痩せた土地に、それらの何があるというのだ。
何度説明しても神父は納得しない。
神への奉仕は何にも優先されるべきだと本気で信じているのだ。
「――ご主人様、あなたにお会いしたいという方が」
「何方ですか」
ヴィオラは長椅子に腰かけたまま半ば反射的に返事をし、それから胸中の愚痴を中断
した。声が厳しくなっただろうかと、意識的に穏やかな口調で言葉を続ける。
「広間の暖炉に火は入っていますね?
熱い飲み物を用意して、私が行くまで客人を遇しておきなさい」
「それには及ばない」
振り向き、立ち上がる。教会の入り口、年月で色褪め表面の毳立った樫の扉の前には
二つの人影。申し分けなさそうな表情をしている執事と、身なりのいい男。彼は金色の
髪を撫でつけて、鮮やかな黄緑色の上衣を着ている。一目で貴族の召使だとわかった。
「貴方がハルデンヴァイル副伯か」
「私がハルデンヴァイルの子爵にしてこの地の領主ヴィオラ・アプラウトです。
このような辺境までようこそお越しくださいました、使者殿。
貴殿の目を楽しませる景色はありませんがどうぞお寛ぎを」
男は傲慢な表情で鼻を鳴らし、はクレイグ辺境伯エイブラム・ゲーデの使者だと名乗
った。ヴィオラはそれで彼の態度についてすべて納得したが、逆に彼の訪問には疑惑を
抱かざるを得なかった。
クレイグ辺境伯は国内で五番目に豊かな荘園を保有している。その荊棘の旗印が掲げ
られれば、城の中庭から溢れるほどの銀甲冑が集うに違いない――つまり、今のアプラ
ウトなど問題にならないし、されない。本来ならば。
「長くいるつもりはない」
「では飲み物だけでも。この土地は冷えるでしょう。
セドリック、使者殿のために葡萄酒を温めて。お客人、蜂蜜は?」
「結構。それより桂皮を入れてくれたまえ、あれには体を温める効果があるから」
執事は一礼すると立ち去った。薄暗い聖堂に沈黙が訪れる。ヴィオラは、神父が祝祭
日の準備のために村へ出向いていることを使者に伝えた。相手は好都合だと言わんばか
りの鷹揚さで頷き、さっと周囲へ目を走らせて他の誰もいないことを確認すると、「我
が主から」と囁いて、上衣の裏から白い手紙を取り出した。
赤い蝋の封印は、確かにクレイグ辺境伯のものだった。戟と荊棘。
ヴィオラは慎重な手付きで蝋を破った。ぱり、と乾いた音がした。時代錯誤な羊皮紙
に記された文面を目で追ううちに血の気が引いた。
使者が言う。
「今日から五日以内に主へ返事が届かなければ、貴方は我々の敵になるだろう。
使者が持ち帰るのは、肯か否か、そのいずれかの一言だけ。どうする、副伯?」
「……その言葉は誰のものでしょう」
もちろん主の、と使者は答えた。
“公王の旗の下へと馳せ参じ、吹雪と共に蹶起せよ。二世紀半に渡りガルドゼンドの玉
座を不当に占めていたパフュールを打ち倒した暁には、我々は本来あるべき故郷を取り
戻すことができるだろう。”
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○○卿 = Sir ○○
○○公 = Lord ○○
貴族の名前の「von」はカタカナ表記では省略していますが、
アプラウト家以外は大体、「von」とか「of」とかの相当語がついてるはず。
+++++++++++++++++++++++
場所:ガルドゼンド -イェッセン伯領ヒュッテ砦
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「――起きてください、夕飯を食いっぱぐれますよ」
ゆさぶられて眠りが醒める。寒い。体温が妙に下がっている、と初めに思った。
かけられた言葉をゆっくりと理解しながら、クオドは「ああ……ごめんなさい」と囁
いた。吐息は熱い。起き出そうと身体を動かす。くらりと軽い眩暈を覚えて額にやった
掌は、氷のように冷え切っている。
身体の傍に横たわっていた剣を抱え、従士の少年に問う。
「……今は?」
「もう夜です。明日の準備は済ませました」
「ご苦労様。
食事に行きましょうか」
騎士見習いが嬉しそうに頷いたので、クオドは薄く苦笑して立ち上がった。
寒い。下手に眠るものではなかったか。半ば手探りで外套を探し、羽織る。ぱちんと
留め具の音で若干の眠気が醒めた。
鞘に収めた小剣を腰に帯びる。
石の床に堅い足音が響く。部屋を出ると廊下は広くない。大挙して押し寄せる敵のな
いように――だが、主塔まで攻め込まれるならそれは負け戦だ。徐々に追い詰められて、
いや、追い詰めて。どこが決戦の場になるだろうと、半ば無意識のうちに、襲撃者の立
場で考える。途中で思考がほつれてしまい、考える代わりに声を出す。
二人の他に人の姿はない。
「カッツェ君なら、この砦をどうやって陥とします?」
「……はい?」
「鳥瞰図を使って構いません。守備の人数も知っていると仮定して。
内訳は――これもいいでしょう、斥候を使えばわかることです」
「あの、クオドさま」
「篭城に比べて攻城が困難だと言われる所以は、要するに、守備側の陣が砦であるから、
という一点に絞られます。砦とは守るための施設です。石壁、掘、矢狭間やその他の仕
掛けがどれだけ有効かは知っていますね? それらがなくとも“攻めなくてよい”とい
うのはとても有利なことです」
「……」
停止しかけた思考。言葉だけがするする落ちる。
今になってようやく自分が何について話しているのかぼんやり気づいた。
兵法書など読まなくたってわかるような初歩の初歩。何故だかとまらない。
「本格的に、数月或いは数年をかける攻城戦をやるには、周囲に陣を敷かなければなり
ません。陣を敷くには人が要りますね。人が居るなら食糧が必要です。これを確保する
には幾つかの方法がありますが、まず、本国からの輸送。次に現地調達。これらは勿論
対処が可能です。
輸送隊への襲撃――これはおなじく枯渇しがちな防衛軍への補給にもなりますね。そ
して現地調達に対しては、これは要するに奪うものがなければいいのですから」
「あの」
「……又、長期に渡って包囲陣を敷く気がない場合。つまり短期間でひとつの砦を陥と
す時には三つの手段が考えられます。一つ、圧倒的な大軍で包囲し、鷹揚な条件で開城
交渉を行う。一つ、警備の隙をつき一気に攻め入る。三つ、半ば反則的な何かしらの手
段で一瞬にして防備を破り突入する」
「クオドさま――クオド・エラト・デモンストランダム卿!」
強く声をかけられて、クオドは思わず足を止めた。
いつの間にか階段を降り終え、広間へ差しかかろうとしていた。
壁にかけられた硝子灯の炎が、化物じみて大きな影を作り出している。
ここもアプラウトの砦に負けず古いらしい。昔にもヒュッテ砦という名称は聞いたこ
とがある。それに何より、古い砦は暗いし、建築物そのものに重い威圧感があるものだ
から。
振り返ると従士は不安そうな表情をしていた。
「大丈夫ですか。普段はこんな喋らないのに」
「……少し、眠りが足らなくて。
もっとおもしろい話をすればよかったですね」
答えながら苦笑いすると、相手も笑ってくれた。
「ええ、今度はもうちょっと縁起のいい話をお願いします。
中途半端に寝るからそんなぼうっとするんですよ」
+ ○ + ○ + ● + ○ + ○ +
カッツェの夕食はいつもより多かった。騎士は昨日は林檎をくれたが、今日は彼の麺
包の三分の二がカッツェの胃袋に収まった。遠慮なく受け取って、これで深夜に空腹を
覚えることはないだろうと思った。
当の騎士の食事量が少ないのは気になったものの、寝ぼけて皿に突っ伏しかける様子
を見た限り、この状態で無理に食べさせる方が酷かも知れないと判断することにした。
熱気の篭った食堂から出ると、夜風が頬を醒ますのを感じた。
肌寒いくらいの秋の夜。先程より気温が落ちたように思えるのは錯覚だろうか。
くるりと視線を転じ、周囲を見渡す。灯り台に火はなく、薄暗い。硝子灯を持った兵
士が中庭を横切って行く。厩から嘶きが聞こえる。迷い込んだ蝶がまださ迷っている。
二人で慣れた道を主塔へ戻る。途中でカッツェが「さっきの話なんですけど」と切り
出すと、騎士はきょとんと瞬きした。
「五倍の兵と半月があれば十分です。正攻法でも陥とせます」
「…………ああ、ええ、そうですね」
出題自体を忘れていたに違いない。仕方のないひとだ。
本当に主人の親戚なのだろうか――呆れ半分で観察する。カッツェよりも拳半分くら
い背が低いし、肩幅も狭い。大切そうに古い製造えの剣を抱えていても、何の頼りにも
なりそうにない。少し稽古に付き合ってもらった限りでは腕は立つようだが、果たして
実践慣れしているだろうか。
「では、いつ陥としますか?」
「それは――クオドさま、この音は」
遠く地鳴りのような音が聞こえた。立ち止まる。
騎士は首を傾げてから、「何でしょう」と、あまり緊張感のない声で応えてきた。本
当に頼りにならない。周囲を見渡すうちに音は大きくなっていく。戦場を駆ける無数の
蹄にも似て、腹の底まで響く振動。
誰かが、「あ」と声を上げた。
視線を転じれば兵士がひとり夜空を指差していた。
「星が……」
星がどうした。それどころではない。苛だちながらも思わず見上げる。
凍りついたような冬の星座。蛇喰らいの鳥、指輪、槍を構えた勇士。その矛先が瞬い
た。振動は今も大きくなっていく。
隣で、騎士が身体に合わぬ大声を上げた。
「無駄な死を恐れる者は速やかに退避せよ、敵襲だ!」
その言葉は地響きを貫いて響き渡ったが、すぐにその意味を理解した者は少なかった
に違いない。恐慌の気配が膨れ上がるまでの数秒間を、カッツェはとても長く感じた。
危険に気づいてもどうすることもできない。退避? どこへ? 騎士自身も、叫んだ以
上のことは思いつかないようだった。
人影が右往左往している。硝子灯の火が増えていく。
目の前を、白い――
騎士が身を翻して腕を振るうと、それは小剣の刃に裂かれて無残に落ちた。白い羽。
醜い昆虫の胴体が最後にひくりと動いて、秋の蝶は命を失った。
鮮やかに青い目が、それを見下ろしている。
「……使い魔…………気付く機会はいくらでも、」
直後、衝撃。
誰かの悲鳴と共に目の前が白く染まり、そして暗転した。
カッツェが目を醒ますと、狭い場所で壁に背をもたれていた。
壁と壁の間から、廊下を走り回る人々の姿が見える。あちらこちらで炎が煌々と瞬い
て、ついさっきまでの暗さが嘘のようだった。
警鐘が鳴り響いている。兵士達は鎧に身を包んでいる。
「……!」
慌てて立ち上がると背中が少し痛んだ。手の甲が擦りむけているのが見えた。
そうだ、敵襲。星が落ちて、どうなった? 味方の怒号は絶望一色だ。
戦わなければならないだろうか。あの騎士の姿はどこにもない。彼は頼りないが、い
なければ余計に不安になる。周囲を見渡して、すぐ足元に落ちていた紙片に手を伸ばす。
書かれた文章は古い言葉遣いで難解だったが、辛うじて大凡だけを理解することができ
た。
“もしも間に合うなら、馬をつかって脱出しなさい。”
這い出すように闇から出て、自分のいる場所に気づいた。主塔の一階。
数少ない守備兵が扉へ殺到している。その向こう側にも銀の煌きが見えた。無数の槍
と矛、そして剣。
――ヒュッテを陥とすには、正攻法でも五倍の兵がいれば十分だ。
自分の言葉が脳裏に蘇る。四十七の五倍。二百五十にも満たない数。
悲鳴が絶えない。きっと味方だ。
がっ、と鈍い音がして、流れた矢が足元の石材に跳ねた。
カッツェ・オズヴァルドの初陣は負け戦になろうとしていた。
+ ○ + ○ + ● + ○ + ○ +
アプラウト家の小柄な騎士は、平服の上から綿入れと鎖帷子を重ねただけの軽装で、
普段から抱えている例の剣も相変わらず封印されたままだった。片手に提げた小剣の刃
は毀れ、てらてらとした脂に覆われている。
テオバルドはその姿を確認すると声をかけようか迷ったが、指示を求めて駆け寄って
きた兵卒の相手をするうちに見失った。周囲には無残な死体が折り重なり、敵味方がそ
れらを踏み越えて入り乱れている。魔術の光が煌き、鎧の倒れる音がした。
あの騎士が消えた方へ目を凝らす。既に他の騎士たちはエーリヒ以外の皆が捕虜とな
ったという報告を受けていた。開城勧告はない。敵は飽くまで武力でこの砦を陥落させ
るつもりのようだ。
主塔の入り口は狭く、敵が大挙して押し寄せることはできない。とはいえいつかは迫
り負ける。非戦闘員を非難させた階上の広間まで引くことになるかも知れない。
「――態勢を、」
どすん。言いかけたとき、肩に衝撃があった。深く食い込む弩の矢。
痛みと熱は一瞬遅れて襲ってきた。喉の奥で言葉が詰まる。苦鳴を押し殺す。
「隊長!」
「大丈夫だ」
傷口を押さえて前方を睨む。殺到する敵兵の後ろで、弩に次の矢を番える弓兵の姿。
古びた鉄の鎧は他の兵のものと製造えが違う。傭兵だろうか。兜の面頬は上げられて、
切れ長の目がこちらを見ている。無雑作に弩を上げ――間には襲撃軍の兵がいるにも関
わらず。
「!?」
矢は耳を掠めた。背後の悲鳴に視線だけで振り向けば、一人の兵が板金鎧ごと胸の中
央を貫かれて崩れ落ちるところだった。降伏する、という言葉が本能的に喉元まで込み
上げた。今までも窮地はいくらでもあった。
声を張り上げる。
「故郷を戦禍に包みたくなければ、ティグラハットの豚共にこの砦を渡すな。
国内が戦場となれば――パフュール王は決して、我らを顧みることはない!」
+ ○ + ○ + ● + ○ + ○ +
――五日前、アプラウト本領レットシュタイン。
石造りの教会の内部は、吐く息が白いほどの寒さだった。
空を覆う鉛色の雲は毎年、国内のどこよりも早く冬を連れてくる。恐らくは荒野と山
に囲まれた土地柄のせいであろうが、領民たちは声を潜めて呪いだと囁く。ヴィオラは
その理由を詳しく知らないし、過去の迷信に興味はない。それでも彼らの不安を幾らか
やわらげようと思えば、年老いた神父に時節の礼拝を準備させるというのは悪くない方
法だった。
前代の頃から砦内の教会を任されている神父は最近になって聴力の衰えを気にしてい
るようだが、まだ耄碌はしていない。どの聖句を読むべきか、どの聖人を讃えるべきか。
彼は今代領主が五年前に勝手に定めた祝祭日に満足しているらしく、神の威光を楯に領
主自身を教会に呼び出してはその礼拝の前支度の確認をするということを、殆ど一日お
きに続けている。だが結局、今年も、昨年とおなじ結論に達するに違いないのだ。「昨
年とおなじように」。
つまりヴィオラは、彼が毎年言い出す妄言を今年も聞かされているということだ。
森の中に放棄された古い大聖堂を修復し、そこで礼拝を行いたい、だって? 馬鹿を
言うな。あの廃墟を建て直すには、苔に覆われた瓦礫をすべて撤去して、新しい図面を
用意しなければいけない。建築士と石工を十年雇い、木材と石と金属を揃えるだけの資
金。この痩せた土地に、それらの何があるというのだ。
何度説明しても神父は納得しない。
神への奉仕は何にも優先されるべきだと本気で信じているのだ。
「――ご主人様、あなたにお会いしたいという方が」
「何方ですか」
ヴィオラは長椅子に腰かけたまま半ば反射的に返事をし、それから胸中の愚痴を中断
した。声が厳しくなっただろうかと、意識的に穏やかな口調で言葉を続ける。
「広間の暖炉に火は入っていますね?
熱い飲み物を用意して、私が行くまで客人を遇しておきなさい」
「それには及ばない」
振り向き、立ち上がる。教会の入り口、年月で色褪め表面の毳立った樫の扉の前には
二つの人影。申し分けなさそうな表情をしている執事と、身なりのいい男。彼は金色の
髪を撫でつけて、鮮やかな黄緑色の上衣を着ている。一目で貴族の召使だとわかった。
「貴方がハルデンヴァイル副伯か」
「私がハルデンヴァイルの子爵にしてこの地の領主ヴィオラ・アプラウトです。
このような辺境までようこそお越しくださいました、使者殿。
貴殿の目を楽しませる景色はありませんがどうぞお寛ぎを」
男は傲慢な表情で鼻を鳴らし、はクレイグ辺境伯エイブラム・ゲーデの使者だと名乗
った。ヴィオラはそれで彼の態度についてすべて納得したが、逆に彼の訪問には疑惑を
抱かざるを得なかった。
クレイグ辺境伯は国内で五番目に豊かな荘園を保有している。その荊棘の旗印が掲げ
られれば、城の中庭から溢れるほどの銀甲冑が集うに違いない――つまり、今のアプラ
ウトなど問題にならないし、されない。本来ならば。
「長くいるつもりはない」
「では飲み物だけでも。この土地は冷えるでしょう。
セドリック、使者殿のために葡萄酒を温めて。お客人、蜂蜜は?」
「結構。それより桂皮を入れてくれたまえ、あれには体を温める効果があるから」
執事は一礼すると立ち去った。薄暗い聖堂に沈黙が訪れる。ヴィオラは、神父が祝祭
日の準備のために村へ出向いていることを使者に伝えた。相手は好都合だと言わんばか
りの鷹揚さで頷き、さっと周囲へ目を走らせて他の誰もいないことを確認すると、「我
が主から」と囁いて、上衣の裏から白い手紙を取り出した。
赤い蝋の封印は、確かにクレイグ辺境伯のものだった。戟と荊棘。
ヴィオラは慎重な手付きで蝋を破った。ぱり、と乾いた音がした。時代錯誤な羊皮紙
に記された文面を目で追ううちに血の気が引いた。
使者が言う。
「今日から五日以内に主へ返事が届かなければ、貴方は我々の敵になるだろう。
使者が持ち帰るのは、肯か否か、そのいずれかの一言だけ。どうする、副伯?」
「……その言葉は誰のものでしょう」
もちろん主の、と使者は答えた。
“公王の旗の下へと馳せ参じ、吹雪と共に蹶起せよ。二世紀半に渡りガルドゼンドの玉
座を不当に占めていたパフュールを打ち倒した暁には、我々は本来あるべき故郷を取り
戻すことができるだろう。”
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○○卿 = Sir ○○
○○公 = Lord ○○
貴族の名前の「von」はカタカナ表記では省略していますが、
アプラウト家以外は大体、「von」とか「of」とかの相当語がついてるはず。
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