登場:ヒルデ
場所:ガルドゼンド -イェッセン伯領ヒュッテ砦
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冬を前にした夜の冷たい風が頬を撫でていく。感じるひりついた痛みに顔をしかめながら、ヒルデは空を駆けていた。
ばさり、ばさりと翼が風を叩く度に一段と強力な風が顔や耳の感覚がなくなりかける。――いつも思うのだが、主はどうして兜に羽根をつけようなどと思ったのか。鎧にしておいてくれれば、少なくともこんな痛みから解放されていただろうに。
とはいえ、思ったところで現実が変化するわけではない。光の精霊の力によって不可視の外套を纏ったヒルデは順調に高度を上げ、やがてその全景が見えてきた。
そろそろ夕食の時間なのか、外にでて作業をしている人影はそれほど多くはない。もちろん、ある程度の警備兵はいて周囲の警戒を怠るという事はないのだが。
「さてと、では行くとするか。――Sylph Silence」
念のために風の精霊の力を借りて、自分の周りでは一切音がしないようにしておく。これで、これから地面に降り立つ時にするであろう羽根の風切り音や着地した時の音が聞きとがめられる心配も要らない。
数分後、無事にヒルデは砦の内部へと降り立つ事に成功したのだった。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
一方その頃、ヒュッテ砦から少し離れた森の中にある空き地にて
「Het stille effect dat van me uitnodigde heeft geen genade――」
環になるように並べられた巨石群の真ん中で何名かの魔術師達が声を揃えて呪文を唱えている。
その声はけして大きなものではない。だが、揺ぎ無く唱和するその言葉は夜空を越えて遥か天にある星々まで響き渡っているような不思議な迫力を持っていた。
「――Y usted no tiene ninguna manera de escaparse de la calamidad en su cabeza」
ただひたすらに儀式を進める魔法士達から少し離れて、甲冑姿の男が1人。期待半分、不安半分の表情で魔法士達の様子を見守っている。そして、ついに術師達は呪文を唱え終わり――だが、その場に何か変化が現れる様子はない。
「失敗したのか?」
問う騎士に対して、魔法士の1人は天を見上げる。そして、はっきりとした声で「いえ、成功しました」と答えを返した。
「――そうか。全軍に伝えろ!術の効果を確認出来次第奴らに仕掛けるぞ!」
騎士はひとつ頷き、大声で命令を下した。全軍にそれが行き届くように伝令兵がそれを復唱しながら陣内を駆け抜ける。彼らが通りぬけるのに併せて、辺りから金属音やら人の声やらが波のように巻き起こっていった。
いよいよ戦が始まるのだ。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
「さて、潜入したはいいが……どうやって見つけたものかな」
とりあえず一番人が多そうな主塔の中をヒルデは当てもなく歩いていた。数日前の彼のように、もしかしたらその存在を見破ってくる者と遭遇する危険性もあったが、だからと言って人のいないところばかりをうろついても得るものがあるわけがない。
忍び込む事にした自分の判断が軽率だったかと少し反省もするが、かと言ってこのまま砦の外へと引き返していくのはあまりにも間抜けだ。
結局、腹を括って砦の中を散策するしかないのだった。
幸い、ここのところは誰かに見咎められるという事もなく順調に踏破したエリアが増えていく。つまりそれはそれだけ歩いても目的の人物には会えていないという事なのだが、それを考えると心とか気持ちとかが負けそうな気がするので深く考えないで機械的に廊下にならぶ部屋の様子を伺っていく。
塔の中ほどまで制覇した辺りで、ヒルデはふと違和感を感じて立ち止まった。なんとなく耳の奥がビリビリと震える感じがするのだ。
「なんだ?」
最初は小さかったが、少しずつ音は大きくなっていっている気がする。他にも気づいた者が出始めたのか、周りの雰囲気も先ほどに比べてざわついてきている。
感覚としては、攻城戦でカタパルトから射出された大岩が飛んできた時に近いのだろうか。偶々目の前に空いている部屋があったのでそこの窓から外を見るが、特に異変は感じられない。強いて言うなら中庭にいる人々が辺りを見回すようにキョロキョロしているくらいか。
そうこうしているうちにも音はどんどんと大きさを増し、ついにはゴゴゴゴゴゴという体を揺るがす重低音となって辺りを包む。間違いなく何かが起きているのに、いくら地上を見回しても取り立てて変化らしい変化は見つからない。放っておけばロクでもない状態になる予感が凄くするのに、何がどうなっているのかがまったく分からないという状況が苛立ちを増強させた。
「……?」
空を指差している兵士がいるのに気づき視線を星空に転じたヒルデは、ちょっとした違和感を感じて首をかしげた。夜空にあるのはいつも通りの見慣れた星座だが――何回数えなおしても星が1つ多い!
辺りを震わせる音はまた大きくなり、ついには樹はおろかこの主塔までもが軽く震える程の規模にまで成長してきている。それと同時に赤さと大きさを増してきた見慣れぬ星がこの場所に向けて落ちてくる巨大な岩塊であるというどうしようもない現実が見るもの全てに恐怖の影を落とす。
「くっ星落としの儀式だと!?」
大気との摩擦で真っ赤に燃える隕石は夜空に尾を引く流星となって一直線に落ちてくる。音はもはや耳をつんざかんばかりの轟音となり、辺りを塗り潰す。
考えるまでもない。あの岩が人の手によってここに落ちてくるのなら、その目的は間違いなくこの場所――ヒュッテなのだ。
「――"盾"よっ!!」
その瞬間、具体的に何が起きたのかをヒルデは知覚する事ができなかった。世界が自分を残して崩壊してしまったのではないかと錯覚するほどの轟音と衝撃。次にしっかり認識できたのは、衝撃波を受けて崩れ落ちていく物見塔と外壁、そしてようやく聴覚が自分を取り戻した。
――どうやら直撃はしなかったらしい。
その事に一瞬安堵を覚えるが、その反面心のどこかで警鐘が鳴り響いている。そう、もしこの隕石がティグラハットの術師の手によるものならここで終わるハズがない!
実際、数十分と経たぬうちに敵襲を知らせる半鐘が辺りに響き渡った。外を見れば破れた外壁のところで燃える炎をバックに蠢く黒い無数の人影が、雄叫びを上げまだ混乱から脱しきれていない砦に向けて一斉に突撃してくる。ガルドゼンドの誰もが予想しない形で、ティグラハットとの戦いは再び幕を上げる事となったのだ。
状況はガルドゼンド軍の圧倒的に不利な状態から始まった。隕石落としによる被害と混乱、その両方から立ち直るより前にティグラハット軍からの攻撃を受け、状況に対応できなかった兵達が軒並み倒されていく。なんとか対応する事ができた兵も当然いたのだが、数にモノを言わせるティグラハット軍を相手に徐々に押され、後退を余儀なくされていた。
もともと、この砦にいる兵力はたったの四十七名。本気で落としにかかるティグラハット軍に対応するにはあまりにも少ない。魔法士がその力を存分に振るえばまだなんとかなるかも知れない。そんな希望を胸に、テオパルドを始めとしたこの砦の兵士達は苦しい戦いを続けるのだった。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
同時刻、ヒュッテ砦地下部の大部屋にて
「準備は出来たか?」
口早に問う騎士に魔法士達は内心溜め息をついた。確かに、もともとの予定ではヒュッテに入り緊張を煽り、ティグラハット軍が焦って手を出してきたら奴らの戦力を適当に削った後にこっそり撤退する予定だった。
それがどうだ、この男はまるきり予想外の隕石一発で震え上がり、今すぐ撤退すると言い出したのだ。
――まぁ、いいけどな。わざわざ前に出て殺されても嫌だし。
内心で呟きつつ魔法士はせっせと石を運ぶ。転移の魔術は儀式を必要とする術ではあるが、たったの三名を数十キロ跳ばすくらいならそれほど大規模なものでなくても可能だ。
せっつく騎士の声に舌打ちしそうになるのを我慢しながらせっせと石を運び場を整える。
ようやく用意が整い、二人の魔法士は声を揃えて呪文を詠唱しはじめた。短時間の詠唱で移動用のゲートを出す事も出来るが、敢えて二人はその方法を選ばなかった。ここでの呪文は言わば条件設定のようなもの、時間を掛けて詳細に設定すればするほど安全に移動する事が出来るのだ。
呪文を唱え始めた頃は安心したのか少し静かになった騎士も、詠唱時間が長くなるにつれて段々と我慢ができなくなってきたのかまたピーチク騒ぎ出した。
――早く逃げたいのは分かったから黙っていてくれないと集中できないだろうが!
思わず怒鳴りつけたくなるのを我慢して呪文に集中する。石の群れに光が宿り、撤退を指示したエーリヒの顔にもようやく安堵の色が見え始めた、そんな時。
「仲間は戦っていると言うのに自分はさっさと逃げる算段か。――臆病者め」
「だ、だだだ誰だ!」
――おいおい、声が裏返ってるよ
部屋の入り口の方から投げつけられた、冷たく凛とした声。よっぽど予想外だったのか、エーリヒが文字通り飛び上がって入り口の方へと振り返るのが目に入り、なんとも失笑を誘う。かろうじて中断しかけた呪文をなんとか続けながら、若い魔法士は入り口の方の騎士と女のやり取りに耳を傾けるのだった。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
地下から魔力が高まるのを感じたヒルデはその魔力の気配を頼りに地下へと降りてきていた。階段を下りていくに従って何やら呪文を詠唱しているような声が聞こえてくる。
半開きになっている扉から中を覗くと、儀式を行う魔法士が二人と、それを見守る騎士らしき男の姿が眼に入った。
儀式を行う魔法士に向かい、半ば叱り付けるような調子で騎士は「早くしろ」だとか「敵が来てからでは遅いんだぞ」とか喚いている。
――要するに、さっさとここから逃げ出そうという算段か。
状況が理解できると同時に、ヒルデの心の奥底になんとも言えない苛立ちのようなモノが込み上げてくる。地上の兵達はここにいる二人の魔法士を頼りになんとか場を持たせているというのに、コイツらは我が身可愛さにとっとと自分達だけで撤退しようとしているのだから。それも、彼らには何も告げずに。
「仲間は戦っていると言うのに自分はさっさと逃げる算段か。――臆病者め」
気が付けばヒルデは不可視の術を解き、鎧の装飾などから明らかに偉そうな騎士に向かって侮蔑の言葉を吐きかけていた。
「だ、だだだ誰だ!」
少しは自分でも罪悪感を持っていたのか、あるいはここまで敵に踏み込まれたと思ったのか。その心中はヒルデには分からないが、とりあえず動転する騎士の様子を見て溜飲が少し下がる。一瞬問答無用で斬り捨てようかとも思ったのだが、声を掛けてしまった以上は何かしらの情報を引き出そうと、ヒルデは言葉を続ける事にした。
「私は英雄を導きし者。アルスラーンと言う人物の噂を聞いてこの地に降臨した。まさかとは思うが、貴様がそうか?」
とりあえずヒルデの正体が彼の恐れていたものではないと分かって安心したのか、騎士はあからさまに余裕を取り戻す。
「なるほど、かの有名な戦乙女様か。こんな辺境の砦までいちいちご苦労な事だ。だが残念だったな。お求めの英雄様はこの間の小競り合いで死んでしまったよ」
「なんだと?」
聞き返すヒルデ。だが、対する返事は場を満たす強い光だけだった。視界が回復した後に残っているのは、ただ環になるように並べられた石の群のみ。
「逃げたか……」
少し目を閉じ、この後の行動について考える。彼がここで嘘を言う必要が思い当たらない以上、本当に目当ての英雄は死んでしまったのだろう。――ならば、これ以上ここに留まっていても益はない。さっさとこの砦を脱出する事にして、ヒルデは踵を返した。
地上では、まだ所々から剣戟の音が響いている。そして、時々は魔法士が放ったであろう火球による爆音も。――砦の攻防戦はガルドゼンド軍の負けと言う形で大勢を決しようとしていた。敵にも魔法士がいたとなると、あの二人が加勢したとしても巻き返すのはムリだっただろう。結果として、あの騎士の判断は魔法士二人を温存する事につながり、後の戦いはまだ有利になるのかもしれない。
――だからといって、仲間を見捨てて逃げるのが肯定されるわけもないが
心の中に溜まった苛立ちをとりあえず壁を殴る事で忘れると、ヒルデは砦の外を目指して駆け出していった。
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場所:ガルドゼンド -イェッセン伯領ヒュッテ砦
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冬を前にした夜の冷たい風が頬を撫でていく。感じるひりついた痛みに顔をしかめながら、ヒルデは空を駆けていた。
ばさり、ばさりと翼が風を叩く度に一段と強力な風が顔や耳の感覚がなくなりかける。――いつも思うのだが、主はどうして兜に羽根をつけようなどと思ったのか。鎧にしておいてくれれば、少なくともこんな痛みから解放されていただろうに。
とはいえ、思ったところで現実が変化するわけではない。光の精霊の力によって不可視の外套を纏ったヒルデは順調に高度を上げ、やがてその全景が見えてきた。
そろそろ夕食の時間なのか、外にでて作業をしている人影はそれほど多くはない。もちろん、ある程度の警備兵はいて周囲の警戒を怠るという事はないのだが。
「さてと、では行くとするか。――Sylph Silence」
念のために風の精霊の力を借りて、自分の周りでは一切音がしないようにしておく。これで、これから地面に降り立つ時にするであろう羽根の風切り音や着地した時の音が聞きとがめられる心配も要らない。
数分後、無事にヒルデは砦の内部へと降り立つ事に成功したのだった。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
一方その頃、ヒュッテ砦から少し離れた森の中にある空き地にて
「Het stille effect dat van me uitnodigde heeft geen genade――」
環になるように並べられた巨石群の真ん中で何名かの魔術師達が声を揃えて呪文を唱えている。
その声はけして大きなものではない。だが、揺ぎ無く唱和するその言葉は夜空を越えて遥か天にある星々まで響き渡っているような不思議な迫力を持っていた。
「――Y usted no tiene ninguna manera de escaparse de la calamidad en su cabeza」
ただひたすらに儀式を進める魔法士達から少し離れて、甲冑姿の男が1人。期待半分、不安半分の表情で魔法士達の様子を見守っている。そして、ついに術師達は呪文を唱え終わり――だが、その場に何か変化が現れる様子はない。
「失敗したのか?」
問う騎士に対して、魔法士の1人は天を見上げる。そして、はっきりとした声で「いえ、成功しました」と答えを返した。
「――そうか。全軍に伝えろ!術の効果を確認出来次第奴らに仕掛けるぞ!」
騎士はひとつ頷き、大声で命令を下した。全軍にそれが行き届くように伝令兵がそれを復唱しながら陣内を駆け抜ける。彼らが通りぬけるのに併せて、辺りから金属音やら人の声やらが波のように巻き起こっていった。
いよいよ戦が始まるのだ。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
「さて、潜入したはいいが……どうやって見つけたものかな」
とりあえず一番人が多そうな主塔の中をヒルデは当てもなく歩いていた。数日前の彼のように、もしかしたらその存在を見破ってくる者と遭遇する危険性もあったが、だからと言って人のいないところばかりをうろついても得るものがあるわけがない。
忍び込む事にした自分の判断が軽率だったかと少し反省もするが、かと言ってこのまま砦の外へと引き返していくのはあまりにも間抜けだ。
結局、腹を括って砦の中を散策するしかないのだった。
幸い、ここのところは誰かに見咎められるという事もなく順調に踏破したエリアが増えていく。つまりそれはそれだけ歩いても目的の人物には会えていないという事なのだが、それを考えると心とか気持ちとかが負けそうな気がするので深く考えないで機械的に廊下にならぶ部屋の様子を伺っていく。
塔の中ほどまで制覇した辺りで、ヒルデはふと違和感を感じて立ち止まった。なんとなく耳の奥がビリビリと震える感じがするのだ。
「なんだ?」
最初は小さかったが、少しずつ音は大きくなっていっている気がする。他にも気づいた者が出始めたのか、周りの雰囲気も先ほどに比べてざわついてきている。
感覚としては、攻城戦でカタパルトから射出された大岩が飛んできた時に近いのだろうか。偶々目の前に空いている部屋があったのでそこの窓から外を見るが、特に異変は感じられない。強いて言うなら中庭にいる人々が辺りを見回すようにキョロキョロしているくらいか。
そうこうしているうちにも音はどんどんと大きさを増し、ついにはゴゴゴゴゴゴという体を揺るがす重低音となって辺りを包む。間違いなく何かが起きているのに、いくら地上を見回しても取り立てて変化らしい変化は見つからない。放っておけばロクでもない状態になる予感が凄くするのに、何がどうなっているのかがまったく分からないという状況が苛立ちを増強させた。
「……?」
空を指差している兵士がいるのに気づき視線を星空に転じたヒルデは、ちょっとした違和感を感じて首をかしげた。夜空にあるのはいつも通りの見慣れた星座だが――何回数えなおしても星が1つ多い!
辺りを震わせる音はまた大きくなり、ついには樹はおろかこの主塔までもが軽く震える程の規模にまで成長してきている。それと同時に赤さと大きさを増してきた見慣れぬ星がこの場所に向けて落ちてくる巨大な岩塊であるというどうしようもない現実が見るもの全てに恐怖の影を落とす。
「くっ星落としの儀式だと!?」
大気との摩擦で真っ赤に燃える隕石は夜空に尾を引く流星となって一直線に落ちてくる。音はもはや耳をつんざかんばかりの轟音となり、辺りを塗り潰す。
考えるまでもない。あの岩が人の手によってここに落ちてくるのなら、その目的は間違いなくこの場所――ヒュッテなのだ。
「――"盾"よっ!!」
その瞬間、具体的に何が起きたのかをヒルデは知覚する事ができなかった。世界が自分を残して崩壊してしまったのではないかと錯覚するほどの轟音と衝撃。次にしっかり認識できたのは、衝撃波を受けて崩れ落ちていく物見塔と外壁、そしてようやく聴覚が自分を取り戻した。
――どうやら直撃はしなかったらしい。
その事に一瞬安堵を覚えるが、その反面心のどこかで警鐘が鳴り響いている。そう、もしこの隕石がティグラハットの術師の手によるものならここで終わるハズがない!
実際、数十分と経たぬうちに敵襲を知らせる半鐘が辺りに響き渡った。外を見れば破れた外壁のところで燃える炎をバックに蠢く黒い無数の人影が、雄叫びを上げまだ混乱から脱しきれていない砦に向けて一斉に突撃してくる。ガルドゼンドの誰もが予想しない形で、ティグラハットとの戦いは再び幕を上げる事となったのだ。
状況はガルドゼンド軍の圧倒的に不利な状態から始まった。隕石落としによる被害と混乱、その両方から立ち直るより前にティグラハット軍からの攻撃を受け、状況に対応できなかった兵達が軒並み倒されていく。なんとか対応する事ができた兵も当然いたのだが、数にモノを言わせるティグラハット軍を相手に徐々に押され、後退を余儀なくされていた。
もともと、この砦にいる兵力はたったの四十七名。本気で落としにかかるティグラハット軍に対応するにはあまりにも少ない。魔法士がその力を存分に振るえばまだなんとかなるかも知れない。そんな希望を胸に、テオパルドを始めとしたこの砦の兵士達は苦しい戦いを続けるのだった。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
同時刻、ヒュッテ砦地下部の大部屋にて
「準備は出来たか?」
口早に問う騎士に魔法士達は内心溜め息をついた。確かに、もともとの予定ではヒュッテに入り緊張を煽り、ティグラハット軍が焦って手を出してきたら奴らの戦力を適当に削った後にこっそり撤退する予定だった。
それがどうだ、この男はまるきり予想外の隕石一発で震え上がり、今すぐ撤退すると言い出したのだ。
――まぁ、いいけどな。わざわざ前に出て殺されても嫌だし。
内心で呟きつつ魔法士はせっせと石を運ぶ。転移の魔術は儀式を必要とする術ではあるが、たったの三名を数十キロ跳ばすくらいならそれほど大規模なものでなくても可能だ。
せっつく騎士の声に舌打ちしそうになるのを我慢しながらせっせと石を運び場を整える。
ようやく用意が整い、二人の魔法士は声を揃えて呪文を詠唱しはじめた。短時間の詠唱で移動用のゲートを出す事も出来るが、敢えて二人はその方法を選ばなかった。ここでの呪文は言わば条件設定のようなもの、時間を掛けて詳細に設定すればするほど安全に移動する事が出来るのだ。
呪文を唱え始めた頃は安心したのか少し静かになった騎士も、詠唱時間が長くなるにつれて段々と我慢ができなくなってきたのかまたピーチク騒ぎ出した。
――早く逃げたいのは分かったから黙っていてくれないと集中できないだろうが!
思わず怒鳴りつけたくなるのを我慢して呪文に集中する。石の群れに光が宿り、撤退を指示したエーリヒの顔にもようやく安堵の色が見え始めた、そんな時。
「仲間は戦っていると言うのに自分はさっさと逃げる算段か。――臆病者め」
「だ、だだだ誰だ!」
――おいおい、声が裏返ってるよ
部屋の入り口の方から投げつけられた、冷たく凛とした声。よっぽど予想外だったのか、エーリヒが文字通り飛び上がって入り口の方へと振り返るのが目に入り、なんとも失笑を誘う。かろうじて中断しかけた呪文をなんとか続けながら、若い魔法士は入り口の方の騎士と女のやり取りに耳を傾けるのだった。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
地下から魔力が高まるのを感じたヒルデはその魔力の気配を頼りに地下へと降りてきていた。階段を下りていくに従って何やら呪文を詠唱しているような声が聞こえてくる。
半開きになっている扉から中を覗くと、儀式を行う魔法士が二人と、それを見守る騎士らしき男の姿が眼に入った。
儀式を行う魔法士に向かい、半ば叱り付けるような調子で騎士は「早くしろ」だとか「敵が来てからでは遅いんだぞ」とか喚いている。
――要するに、さっさとここから逃げ出そうという算段か。
状況が理解できると同時に、ヒルデの心の奥底になんとも言えない苛立ちのようなモノが込み上げてくる。地上の兵達はここにいる二人の魔法士を頼りになんとか場を持たせているというのに、コイツらは我が身可愛さにとっとと自分達だけで撤退しようとしているのだから。それも、彼らには何も告げずに。
「仲間は戦っていると言うのに自分はさっさと逃げる算段か。――臆病者め」
気が付けばヒルデは不可視の術を解き、鎧の装飾などから明らかに偉そうな騎士に向かって侮蔑の言葉を吐きかけていた。
「だ、だだだ誰だ!」
少しは自分でも罪悪感を持っていたのか、あるいはここまで敵に踏み込まれたと思ったのか。その心中はヒルデには分からないが、とりあえず動転する騎士の様子を見て溜飲が少し下がる。一瞬問答無用で斬り捨てようかとも思ったのだが、声を掛けてしまった以上は何かしらの情報を引き出そうと、ヒルデは言葉を続ける事にした。
「私は英雄を導きし者。アルスラーンと言う人物の噂を聞いてこの地に降臨した。まさかとは思うが、貴様がそうか?」
とりあえずヒルデの正体が彼の恐れていたものではないと分かって安心したのか、騎士はあからさまに余裕を取り戻す。
「なるほど、かの有名な戦乙女様か。こんな辺境の砦までいちいちご苦労な事だ。だが残念だったな。お求めの英雄様はこの間の小競り合いで死んでしまったよ」
「なんだと?」
聞き返すヒルデ。だが、対する返事は場を満たす強い光だけだった。視界が回復した後に残っているのは、ただ環になるように並べられた石の群のみ。
「逃げたか……」
少し目を閉じ、この後の行動について考える。彼がここで嘘を言う必要が思い当たらない以上、本当に目当ての英雄は死んでしまったのだろう。――ならば、これ以上ここに留まっていても益はない。さっさとこの砦を脱出する事にして、ヒルデは踵を返した。
地上では、まだ所々から剣戟の音が響いている。そして、時々は魔法士が放ったであろう火球による爆音も。――砦の攻防戦はガルドゼンド軍の負けと言う形で大勢を決しようとしていた。敵にも魔法士がいたとなると、あの二人が加勢したとしても巻き返すのはムリだっただろう。結果として、あの騎士の判断は魔法士二人を温存する事につながり、後の戦いはまだ有利になるのかもしれない。
――だからといって、仲間を見捨てて逃げるのが肯定されるわけもないが
心の中に溜まった苛立ちをとりあえず壁を殴る事で忘れると、ヒルデは砦の外を目指して駆け出していった。
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