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人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア――宿屋『クラウンクロウ』
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逃げる。つまり、もう何にも関わらないことにして、この街を後にする。
セラフィナに言われるまで気づかなかった――なんて、楽な解決方法なんだろう。
夜になってあのヘルマンとかいう男ともう一度会うのは明らかに危険だった。名前を
偽るか偽らないかなどということはどうでもいい。勿論、手配書の存在に気づかせない
要因にはなるだろうが。
問題なのは、人と会って、自分が生身ではないと察しさせないことには限界があると
いうことだった。こればかりはどうしようもない。もしも自分が人間だったなら――こ
の状況下に置かれても、もう少し気楽に対策を考えることができたかも知れない。
それこそ弟のフリなんかいくらでもしてやる。昔から、あいつは僕にそっくりだった
んだ。その気になれば、すりかわることすらできるくらいに。
何か常識の範疇の外にある事件が起これば、自分たちとは違うものを犯人にしたがる
のが人間だ。自分の正体が誰かにバレてしまったら、極端な話、あの思い出すだけでも
気分の悪くなる惨殺事件の濡れ衣も被せられかねない。
これ以上、動きにくくなるのはご免だった。
そうだここで逃げてしまえば僕はただの行方知れずの不審者で済むんだそれなら何の
問題もない素晴らしいじゃないかなんて楽なんだ。
あまり遠出すると怒られそうだから(外に出ただけで怒られるかも知れないけど)、
宿の外に出て夕焼けの空を見ながら溜息をついた。最善の策なんだとわかっていても逃
げる気はしなかった。
ここで消えてしまったら、心配して笑いかけてくれたセラフィナを裏切ることになる。
まだ知り合って一日も経っていないのだから気にすることはないんだと自分に言い聞か
せてみても……
思考が詰まって、二度目の溜息を一緒に声を吐き出す。
「駄目だああああああ」
「るっせーよ駄目駄目言うな」
『ついに幻聴? まだ駄目なんて言ってないヨ★』
「まだってなんだ、まだって」
……何か独り言(にしては他の声も聞こえた気がする)を言いながら、武器をがちゃ
がちゃ持った青年が、すぐ横を通って宿へ入っていった。
さっきの自警団の面々といい、セラフィナといい自分といい、今すれ違った知らない
人といい――
なんだか知らないが、今日は、誰もが疲れているようだった。
夜になって、部屋がわからずに廊下で困っていると、扉を開けてセラフィナが手招き
した。中途半端な灯りの中を歩きながら、いつ自分の足元に影がないことに気づかれる
かと不安になった。
「あの人は?」
「下、見てきますね。中で待っててください」
言って彼女はぱたぱたと廊下を渡って階段を降りていく。その背中を見送ってから、
ライは開きかけの扉を開けて部屋に入った。
許可をもらったとはいえ、女の人が一人で泊まっている部屋に、主がいないうちに入
るのには少し抵抗があったが、少し考えてみれば、あまり気にしなくてもよさそうだっ
た。
…………それ以上を考えると落ち込みそうになるからやめよう。
少し違和感を感じたが、その原因は広さだとすぐに思い当たった。寝台も二つある。
ようするに二人部屋。どうしてわざわざ二人部屋をとったんだろうと不思議に思いなが
ら中を見ると、端のほうに荷物が置いてあるのが目に付いた。
まじまじと見るのも失礼だから、窓際に近づいてカーテンの隙間から下の路地を見下
ろして、夕方に少し歩いたのと合わせて、この宿と通りの位置を確認していると、扉が
開く気配がした。
「――セシル君?」
振り返ると、セラフィナとヘルマンが部屋の入り口に立っていた。ちょうどタイミン
グよく下で会えたらしい。
できるだけ愛想のいい表情を浮かべながら「こんばんわ」と会釈する。
彼がまだ魔法銃を持っていることをそれとなく確認すると、少し笑顔が強張った。
セラフィナが扉を閉めた。ライは窓枠に寄りかかって、首をかしげる。
「それで……話って」
「さっきはとんだ災難でしたな……と言っては、被害者には申し訳ないですが。
お嬢さんが「取り逃がした」と言っていましたが、犯人を見たのでしょう? 捜査の
参考に、是非ともお話を伺いたいと思いまして」
落ち着いた物腰が嫌な感じだな、と思った。この人はまだこちらを――今のところは、
二人を、疑っている。そしてそれを隠そうとしていない。
「……と、先に、名前を聞いていいですか?」
「セラフィナ・カフューです。旅の途中なんです。
こちらはセシル君……」
「セシル・カース。ハンター……です」
少し驚いたような表情をして、セラフィナがこちらを横目にした。マズかったかな。
あいつもカース[悪ガキ]って偽名使ってたのかも。殺し屋だった父親の、仕事用の名
前。
気づかないフリをしながら視線を逸らす。
ヘルマンは二人分の名前を反芻してから顔を上げた。重い空気を作ろうとしているの
がわかって、それは大体、成功しているらしかった。
彼が本格的に疑うとしたらどちらだろう――恩人だというセラフィナか、それとも最
初に会ったとき、明らかに動揺を示してしまったライか。苦笑したくなって我慢した。
窓の外は夜色に塗りつぶされている。
もうすぐ街は寝静まる。眠りに着くことが出来ず、一人で朝まで時間を潰さなくては
ならない。
いつもこのくらいの時間になると、今日の真夜中はどうやって過ごそうかと意識が勝
手に考え始める。
「それで、あのときのこと全部話せばいいんですよね」
どうせなら無駄話つきで朝までつきあわせてやろうかなどと馬鹿馬鹿しいことを思い
つきながら口を開いたが、もちろん本気でそうしようという気にはなれなかった。
さっさと片付けて彼には退場してもらわないと……
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人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア ―宿屋『クラウンクロウ』
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「それで、あのときのこと全部話せばいいんですよね」
「そうしていただけると助かりますな」
「ではまず、その物騒な物を置いていただけますか?」
柔らかな物腰で、セラフィナがヘルマンに促す。
「疑われるのも無理はありませんが、こうして貴方の指定の場所でお待ちしていたの
ですから、それなりの誠意を見せていただいてもイイと思いますよ」
セラフィナは微笑みを崩していないが、ヘルマンは少し戸惑った様子を見せた。
窓際にライ、テーブルを挟んだ椅子にはセラフィナとヘルマンが座っている。一番
入り口に近い席に座ったヘルマンは、腰の獲物をテーブルの上に置いた。
「コレでイイでしょう。賢明なお嬢さん、事情を説明していただけますかな?」
「ええ、こちらも協力できて光栄ですわ」
どちらも笑顔を浮かべているが、ピリピリとした空気に火花が散っているようだっ
た。テーブルに置いた魔法銃も、見える位置に置いたというだけで、すぐに手に出来
る距離であることには代わりがなかったのだから。
「でも、自警団というのは随分大人数でいらっしゃるんですね」
「……何故です?」
「通りの角に二人、裏口付近に二人、貴方を含めて五人もココにかかりきりなようで
したので」
客人に紅茶を勧めながらセラフィナが何気なく言う。
「はは、分かりましたか」
「護衛というか監視のようでしたけれど、他で事件があった場合すぐに駆けつけられ
ますか?」
「私がいますから、ソコは大丈夫ですよ」
「ではイイのですが……」
自分でも紅茶のカップを傾ける。
「相手は死霊使いのようです。大量のカラスも彼に従っていたようなので、使い魔
か、もしくはカラスの死骸を操っているのかもしれません」
「……ほう」
「心臓が足りないとも言っていましたね。他の犠牲者も未婚の女性が心臓を抉られた
形ですか?」
「いえ、ちょっと違いますね。成人前の若い女性ばかりが犠牲になっているのです」
ヘルマンはちょっと意地悪な笑みを浮かべた。
「あなたもターゲットになりうるわけですな……怖くはありませんか」
「ふふ、自分が犠牲になるかもしれないという状況よりも、自分が警戒されている間
に他の人が危険に晒されているかと思うと怖くなりますね」
顔色も変えずにさらりと答えるセラフィナの様子を見て、ライは内心舌を巻いてい
た。何も知らないお人好しのお嬢さん……というワケではなさそうだ。
「そちらの無口なお兄さんは、なにか気付いたことはありませんでしたか?」
ヘルマンの視線がライへと移る。窓枠に寄りかかったライは、急に暗くなった視界
に驚いて外に目をやる。
街は大量のカラスで溢れていた。普段夜に大量のカラスを見ることなど、まずあり
得ない。
「なーんか、ヤバそうなんだけど」
窓の外を指すライに、セラフィナとヘルマンが駆け寄る。
「しまった!」
「ヘルマンさん、急いでカラスが集まっているところへ急行して下さい!残念な形で
すがこちらへの疑いも晴れたでしょう?」
セラフィナの笑みは悲しみに満ちていた。どこか、苦しそうですらあった。
ヘルマンは深く一礼すると魔法銃を手に部屋を出ようと扉に手を掛け、振り返らず
に言葉を残す。。
「一連の事件は同一犯だと思われます。顔を見たあなた方を狙わないとも限らな
い……十分お気をつけて」
「お心遣い感謝します」
階段を駆け下りるヘルマンの足音が宿の中にこだまする。ライはセラフィナがヘル
マンと一緒になって現場へ急行するのではと気をもんだが、何故か今回は追いかけよ
うともせずヘルマンが開け放った扉をゆっくりと閉めた。
「……セラフィナさん?」
「私が行っても今のままでは彼を止められませんから……。ねぇライさん、貴方には
私に見えていないモノが見えていたのでしょう?
教えて下さい、貴方は一体……?」
切羽詰まったような表情のセラフィナに詰め寄られて、ライは真夜中の心配をする
ヒマはなさそうだなと苦笑したくなったが、顔に出すのはやめておいた。
「えー……と、何から話せばいいのかな」
隣の部屋から聞こえる謎の奇声(おそらくさっきすれ違った彼だろう)を遮るため
に、開け放っていた窓を閉める。自分が生身でこんな状況じゃなかったら、彼女とふ
たりきりの部屋でロマンチックなコトの一つも考えるかもしれないけどさ、と一瞬よ
ぎった自嘲的な考えは、意図的に頭の中から閉め出すことにした。
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人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア ―宿屋『クラウンクロウ』
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――彼女の細い体を壊れるくらい強く抱きしめてみたいと思ったのは、多分、何の意
味もないことだった。
ひょっとしたら、別の意味で言えば下心なのかも知れないけれど。
普段は努めて忘れようとしていて、そして大体成功しているはずの飢餓感に似た感覚
をふと思い出す。それを我慢して押し込めるのは人間だった頃では不可能だっただろう。
そう思って笑うのは自嘲だろうか?
閉め切った部屋でランプの明かりが揺らめいている。窓を見れば、既に夜の街は平穏
を取り戻しているらしかった。
あの男は無事だろうか。勿論ヘルマンのことだ。
犯人が、女しか殺さないというのを、妨害者相手にも貫いてくれるならいいんだけど。
いや、彼らは間に合わなかっただろう。
彼が飛び出したあとすぐに、カラスの群れは姿を消していた。
どんな速さで駆けつけたとしても、自警団が見つけることができるのは、無残に胸元
を抉られた惨殺死体だけということになる。犯人が気まぐれでも起こさない限り。
そこまで考えてからようやく、ライはセラフィナに向き直った。
「えーと……僕は、そうだなぁ……」
呟きながら窓枠に寄りかかる。
ランプに照らされた自分の足元を指差して、
「……こーゆー種類の人」
「?」
セラフィナの顔に疑問が浮かぶ。
意外と気づかれないものだなと思いながら、にこりと笑って、ライは重ねて言った。
「影がないよね」
前にもこんなことがあったような気がする。宿の部屋で、そのときは夜だったか昼だ
ったか――誰かに正体を告げた。
抜けた記憶の一場面か、ただの夢なのか――いや、眠ることはない。夢は見ない。
だからきっと、本当にあったことなのだろう。
その前後は覚えていないが、気がついたらソフィニアに一人でいた。一緒に誰もいな
かった。それは……人を喰う化物なんだと知られたから、かも知れない。そうでなけれ
ばいいけれど、それ以外の原因を思いつけない。
だから今度は都合の悪いことは黙っていてみよう。人間を殺して、所謂、生命力とか
呼ばれるような力を奪い取ることで、消えずにここにいられるんだとか。実際のところ、
それをしないから今、少しずつ消えかかっているわけなんだけど。
いや、前もそうしたっけ?
「僕も死んだ人だから。
セラフィナさんは、僕が調子悪そうって心配してくれたけど……」
ちょっと異世界が見える人のフリしててもよかったんだけど。
だけど見上げてくる彼女の綺麗な目に湛えられた感情が少し恐ろしかったのと、澄ん
だ泉のようなそれを少し濁らせてやりたいという、直後に自己嫌悪を呼ぶようなひらめ
きと、その二つに後押しされて。
「とっくに手遅れなんだよね」
……言ってすぐ後悔した。
自分の心の読みやすさに苦笑して、すぐに明るい笑顔に作り直す。突発的で薄っぺら
な衝動の代償が、そのくらいで払えるわけがなかったが。
「……ごめんなさい……」
セラフィナの秀麗な顔に、悲痛な色が浮かんでいく。
きっと、今までの自分の行動がこちらを傷つけていたんじゃないか、とか、そういう
ことを考えているんだろうな、と思う。
しかしそうだとしたら誤解だった。
純粋に嬉しかった、歯痒ささえ感じていなかった、傷ついてなんかいなかった。
本当に相手を傷つけているのは、たった今、そのことを告げないままにしていること
だ。
漆黒色の彼女の目が、まるで泣き出してしまう直前みたいに歪むのを見て、ライは安
心する。
もうあんな目で見ないでください。怖いんです。
僕を見る優しい貴女の瞳に、僕の姿が映ってないのが見えるから。
どうしようもなく怖いんです。
いっそ涙で滲んでしまえばいいのに。
さすがに彼女を泣かせる勇気はなかった。そもそも無理だろう。
目の前で辛そうな顔をしているのにも関わらず、涙を流すところを想像できない。
「一応、分類はモンスターだから、あんまり他人にバラさないでね?」
「……手遅れなんですか?」
軽い口調で話を終わらせようとして、問われる。
セラフィナはやはり表情を歪めたまま、しかしさっきより少しだけ眉根を寄せて、厳
しくも聞こえるような声で訊いてきた。
「どうしようもないんですか? 疲れてるだけっていうのは嘘なんでしょう?」
ああこの人はなんて優しいんだ。まだ綺麗な目で僕を見る。
ライは思わず「じゃあ僕のために死んでくれますか」なんて馬鹿みたいなことを問い
返したくなって、強引にそれを飲み込んだ。
万が一、だ。そう、万が一。
絶対にありえないけれど、もしも彼女が頷いたときに「冗談だよ」と笑い飛ばす自信
がなかったからだ。
「んー……そーだなぁ」
何か気の利いた言い訳でも考えようと、逃れるように窓から路地を見下ろし――
窓の下、闇の中に佇む少女と目が合った。
真暗な路地で奇妙にその姿が映える、小柄な女の子。
昼間に見たのと同じ服を着ている。昼間に見たのと同じく、胸のあたりが紅に染まっ
ていた。
少女の、血の気の失せた唇が、言葉の形に開かれ――
「……っ」
寒気か、何か、ぞくりと意識の中心を貫く氷柱のようなもの。無垢な瞳に絡めとられ
そうになる視線をかろうじて少女から引き剥がしてライは振り向いた。
セラフィナも何かを感じたのか、緊張を孕んだ黒瞳がこちらを直視して窓を映す。
「危険です!」
「ヤバい逃げよう今すぐ!」
嫌なタイミングで嫌な場所に嫌なものが来るなんて冗談もいいところだ!
とにかくここは離れないといけない。
逃げられるならそれでいい。そうじゃなくても、ここは人がいすぎる。だから色々な
意味でマズい。
カラスの羽ばたきが聞こえた。沸き立つようにすぐ近くから。背後から。
窓ガラスの悲鳴と、無数の翼の誇示の、二重奏。子供の声が混じる。
飛び退きながら、少し前から気になっていたフレーズをやっと思い出した。
“ 鴉は死者の魂に群がる…。
誰が言った言葉だったか ”
……縁起でもない。
ずる、と、壁を透かして現れた血塗れの子供の腕。何かを求めるように虚空に掲げら
れたそれをカラスが視界から遮った。
『――おねえちゃん、見つけた……』
壁から抜け出して床に足をつきながら、胸のあたりを両手で押さえて、蒼白な顔で血
塗れの少女が微笑んだ。昼間、公園で見たのと同じ、泣きそうな笑顔。
カラスの群れが空中に溶けるように消えていく。
「あなたは……」
セラフィナが、困惑したように少女を見つめている。
彼女が忘れているわけがない。公園で転んだ傷を治して、そして街路樹に磔にされた
少女。
紅に染まった衣服からぽたぽたと滴る血が、床に落ちて、色を失い消えていく。
危険なのはわかっているけど、どうしたらいいかわからない――逃げるべきだという
こと以外。剣をいつでも出せるように意識しながら、ライは部屋の扉を横目にした。
『痛いの。胸がすごく痛いの……』
ぽたぽたと赤の雫が滴る音が、妙に大きく耳に響いている。
少女が両腕をひらいた。ぽっかりと、底のない闇のような空洞が口をあけている。
『……治してよ……さっきみたいに……』
不可能、だ。何者にも。
セラフィナがどれだけ気功に通じているのかは知らないが、死者を蘇らせることがで
きるわけがなかった。そして、目の前の少女には実体がないのだ。治療するべき体は、
静かに横たわって、埋葬されるのを待っている。
少女の靴が床を数歩、進んだ。
その様子にひどい寒気を感じて、ライはセラフィナの腕を乱暴に掴んで、半ば体当た
りするように扉を開いて部屋を飛び出した。
『…………邪魔するんだ?』
子供特有の純粋な憎悪の声が浴びせられる。
振り切ってこのまま宿を出たかったのに、セラフィナが立ち止まった。ライは思わず
舌打ちしながら振り返る。
「でも、あの子は……」
「悪い子じゃない、助けを求めてる! わかってるよそんなこと!」
「それでも放っておくんですか!?」
「そうだよ!」
お願いだから一緒に逃げてくれ。
一部の“死に損ない[アンデッド]”は人間を殺して生命力を奪うことで傷を癒し存
在を保っている。あの子は、セラフィナが「あなたを助けたいんです」とでも言った途
端、彼女に危害を及ぼすだろう。
さっき現れたカラスは、屍霊術師の遣いに違いなかった。
もう会わないなんて都合のいいことを言っていたのに、どうしてちょっかいをかけて
きたのか、わからないけれど。
彼だか彼の仲間だかは知らないが……裏にいる以上、セラフィナの優しさに感動した
少女が納得して消える、なんて幸せな展開にならないことは確かだ。
人に見えるように実体を現すことができるような同類と戦うのはぞっとしなかったし、
ただ助けを求める少女を斬ることは……できない。
これ以上関わってはいけない。
――そういえば、どうして亡霊ばかりが現れるのだろうと思ったが、考えたら当たり
前のことだった。治安の安定した大都市で、死体を確保するのは難しいからだろう。
「セラフィナさん、お願いだから……」
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人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア ―宿屋『クラウンクロウ』
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「セラフィナさん、お願いだから……」
ライの顔が悲痛に歪んだ。もう一度強くセラフィナの腕を掴みなおして走り出す。
セラフィナはあの子を放っておけなかった。でも、ライはソレを許さない。
「私を、必要としてるのに……っ」
危険だと本能は告げている。逃げるべきだと理性は囁く。
それなのに、ずっと誰かに必要とされたかった過去が、胸の中でモヤモヤと抵抗す
ることをやめない。自分を、必要としてくれているのに、どうして、私には何もでき
ないの?
「僕にも、君が必要だから!……ほら、逃げるよっ?!」
逃げるための方便だったかもしれない。本当の事なんて分からない。
それでもセラフィナを走らせるには十分だった。ライに引きずられるように走って
いた彼女は一度だけ振り返ると、もう振り返ることをやめた。
階段をどうにか転ばずに駆け下り、宿から飛び出す。
何の騒ぎかと部屋から飛び出してきた人たちから発せられる悲鳴と絶叫。異形を見
た人というのは皆似たような反応をするのだな、とどこか冷静な感想が頭をよぎる。
ライは少し前を走っているので、今は背中しか見えない。また気が変わると思って
いるのか、それともただの勢いなのか、腕はしっかりと捕まれたままだ。
走る。
懸命に走る。
息が上がってもまだ走り続ける。
頭が次第に冷静さを取り戻すにつれ、自分のとった行動がどれだけ愚かなことだっ
たかをあらためて思い知らされる。もしあそこで自分が命を投げ出したとしても、き
っと彼女のためにはならなかっただろう。後ろに例の死霊使いがいる限り、彼女に平
穏を訪れないのだ。本当に彼女のためを思うなら、呪縛から解き放ち、自然に帰して
やるべきではないのか。あの死霊使いは他にも獲物を探していた。きっと犠牲者はま
だ増える……っ!
「……どこへっ……向かって…んですか?」
息が続かない。途切れ途切れに何とか言葉を紡ぐ。
外出禁止令が出ている、というわけではないのだろう。疎らだが、まだ人通りがあ
る。警戒令が出たのか、それともみんな昼間の惨事に外出を控えているのか、いつも
の通りではないみたいにガランとしているのがかえって不気味だった。
「僕にも分からないよ!」
そのとき、彼が言っていた「死んだ人」というのが本当なら、もっと楽な逃げ方が
あったはずだと思い当たった。そう、彼が一人で逃げるつもりならば、他の手段もあ
ったのだ。
彼は私を助けるために危険を冒している。今日初めて会った、私のために。
彼のために何かしたい、そう切に思った。それは恩返しなのかなんなのか、まだよ
く分からなかったけれど。自分に大事な秘密を打ち明けてくれた彼のために、迷惑な
勘違いを責めたりしない彼のために、そして私を置いて逃げなかった彼のために。
とにかく、今は逃げよう。何処まで逃げても逃げ切れるとは思えなかったが、それ
でも逃げよう。少なくとも、彼がソレを望んでいるのならば。
辺りの人通りはますます減っていく。そしていつしか、通りの人影が、消えた。
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人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア ―夜の市街地
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石畳を蹴る二人分の足音が、嫌に静かな町に響いている。まったく人気がないのが不
気味だった。大きな通りから外れてしまえばこんなものだろうか。帰宅する住人の後姿
を最後に追い抜いたのはいつだっただろう。
ぽつり、ぽつり、道の端に立つ街灯だけが、その下の道に薄暗い光の輪を作っている。
セラフィナが息を切らしているのがわかった。しかし立ち止まれなかった。逃げても
無駄だということはわかっていたが、それでは他にどうすればいい?
きっとどうにもできない。それがわかっている。
だから、セラフィナの腕を強く掴んで走りながら、彼女の体力が尽きようとしている
のに気がつきながら、足を止めることはできない。
――はずだった。
かぁ、とカラスがどこかで鳴いた。
不吉な鐘の音のように響き渡ったそれに呪縛を解かれたかのように――或いは呪縛さ
れたかのように――、堂堂巡りしていた意識が覚める。
ライは街灯の下でようやく足を止め、セラフィナの腕を放して振り返った。
ぜいぜいと荒い息をつくセラフィナの足元に落ちた影を見下ろし、そして周囲を見渡
す。誰も居ない道。まだ真夜中には差し掛かっていないはずなのに家々の窓は締め切ら
れて、完全に近い闇が周囲に満ちていた。
「……ここ……は……?」
「……わからない」
住宅地みたいだね。そんな馬鹿げた回答は飲み込んだ。そんなことは問題ではない。
とはいえセラフィナがどのような答えを求めているのかはわからなかった。
ソフィニアの中心から西か東か。そんなことはくだらない。ここは何処? どれほど
言葉を弄しても、その短い質問に本当の意味で答えることはできないのだろう。何が、
本当の意味なのかさえわからないのだから。
「ただ、追いかけてきてないみたい」
傍から見ていても少々強引だとわかるくらい強引に呼吸を整えながら、セラフィナは
街灯の支柱に手をかけた。火照った白い肌に薄く汗が浮いている。足元が少しふらつい
たように見えた。
その様子にひどい罪悪感をおぼえて――ライは嘆息する。実際に息をしているわけで
はないから不必要な動作ではある。しかし昔からの癖というのはなかなか抜けないもの
だし、やめようとも思わない。
極度の疲れというのがどういうものかはもう忘れかけていたが……彼女の様子からし
て、すごく辛いに違いなかった。
「ごめん」
「……え?」
聞こえなかったのか、問い返される。
そうなると二度目を言うのはためらわれた。ああそうだね僕は臆病者だ。下手に謝っ
て嫌われるのが恐いんだ。
「なんでもない」
かぁ、とカラスが鳴いた。びくりと体が強張るのがわかった。追いかけてきていない
なんてことがあるわけがなかった。あの少女はどうだか知らないが、術者は確実にこち
らを観察している。
一度目の鳴き声で気付いて逃げるべきだった。
いや、逃げたところで無駄だということはわかっている。それでも、戦うよりはまだ
望みがあるはずだったのに。
どうやっても屍霊術師なんて種類の人間には勝てない。
哀れな少女の姿が、鮮やかに意識に蘇る。
あるはずのない傷の痛みに抉られて、悲痛に助けを求めていた。あの痛みを与えて、
救いの方法を囁いたのは、彼女の後ろにいる人間の策略だろう。
自分が似たような何かをされたとき、どうなるかわからない。
ただ、耐えられるわけはないだろうなとだけ確信する。情けないけれど。
かぁ――三度目。暗闇で聞くカラスの声は冗談のように怪談じみていた。
ライは思わず目を瞑りかけ、辛うじて自制する。
「……ライさん、今のは」
「わかってる」
革手袋の右手の中にダートを具現させながら、ライは周囲を見渡した。競技用ではな
い投擲武器の、ずしりとした重みを握る。せめてあのカラスだけでもなんとかできたら
逃げ切れるかも知れないと、まだ、あるはずのない望みに縋ろうか。
ふいに、視界が歪んだ。今日はずっと無理に力を使い続けていたから、急な消耗につ
いていけないらしい。とはいえ、今までからしたら大した症状ではなかった。ひどい時
には死にたくなるような頭痛――といっていいものか――さえ起こることがある。
平和に生きていこうと思っているのに、どうして上手くいかないんだろう?
軽く頭を振って、夜空を見上げてライは呟いた。
「どこにいるかな」
ばさばさばさっ――!!
応えるように無数の羽音が唱和した。
セラフィナが身構える。まだ回復しきっているわけではなさそうだったが、もう、ふ
らついてはいなかった。
視線を巡らすと、灯りの輪の端に、黒い影が一つだけ、立っていた。目深に被った山
高帽は上からの光を切り落として、老人の顔を真黒に隠している。
「すまないな」
と二重外套の裏から腕を出して帽子のつばを軽く直しながら彼は言った。
好々爺が孫のことでも話すような口ぶりで、
「放っておこうと思ったが、目撃者はちゃんと消せと怒られたのだよ」
彼は肩を竦めた。