◆――――――――――――――――――――――――――――――――――
人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア ―宿屋『クラウンクロウ』
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
――彼女の細い体を壊れるくらい強く抱きしめてみたいと思ったのは、多分、何の意
味もないことだった。
ひょっとしたら、別の意味で言えば下心なのかも知れないけれど。
普段は努めて忘れようとしていて、そして大体成功しているはずの飢餓感に似た感覚
をふと思い出す。それを我慢して押し込めるのは人間だった頃では不可能だっただろう。
そう思って笑うのは自嘲だろうか?
閉め切った部屋でランプの明かりが揺らめいている。窓を見れば、既に夜の街は平穏
を取り戻しているらしかった。
あの男は無事だろうか。勿論ヘルマンのことだ。
犯人が、女しか殺さないというのを、妨害者相手にも貫いてくれるならいいんだけど。
いや、彼らは間に合わなかっただろう。
彼が飛び出したあとすぐに、カラスの群れは姿を消していた。
どんな速さで駆けつけたとしても、自警団が見つけることができるのは、無残に胸元
を抉られた惨殺死体だけということになる。犯人が気まぐれでも起こさない限り。
そこまで考えてからようやく、ライはセラフィナに向き直った。
「えーと……僕は、そうだなぁ……」
呟きながら窓枠に寄りかかる。
ランプに照らされた自分の足元を指差して、
「……こーゆー種類の人」
「?」
セラフィナの顔に疑問が浮かぶ。
意外と気づかれないものだなと思いながら、にこりと笑って、ライは重ねて言った。
「影がないよね」
前にもこんなことがあったような気がする。宿の部屋で、そのときは夜だったか昼だ
ったか――誰かに正体を告げた。
抜けた記憶の一場面か、ただの夢なのか――いや、眠ることはない。夢は見ない。
だからきっと、本当にあったことなのだろう。
その前後は覚えていないが、気がついたらソフィニアに一人でいた。一緒に誰もいな
かった。それは……人を喰う化物なんだと知られたから、かも知れない。そうでなけれ
ばいいけれど、それ以外の原因を思いつけない。
だから今度は都合の悪いことは黙っていてみよう。人間を殺して、所謂、生命力とか
呼ばれるような力を奪い取ることで、消えずにここにいられるんだとか。実際のところ、
それをしないから今、少しずつ消えかかっているわけなんだけど。
いや、前もそうしたっけ?
「僕も死んだ人だから。
セラフィナさんは、僕が調子悪そうって心配してくれたけど……」
ちょっと異世界が見える人のフリしててもよかったんだけど。
だけど見上げてくる彼女の綺麗な目に湛えられた感情が少し恐ろしかったのと、澄ん
だ泉のようなそれを少し濁らせてやりたいという、直後に自己嫌悪を呼ぶようなひらめ
きと、その二つに後押しされて。
「とっくに手遅れなんだよね」
……言ってすぐ後悔した。
自分の心の読みやすさに苦笑して、すぐに明るい笑顔に作り直す。突発的で薄っぺら
な衝動の代償が、そのくらいで払えるわけがなかったが。
「……ごめんなさい……」
セラフィナの秀麗な顔に、悲痛な色が浮かんでいく。
きっと、今までの自分の行動がこちらを傷つけていたんじゃないか、とか、そういう
ことを考えているんだろうな、と思う。
しかしそうだとしたら誤解だった。
純粋に嬉しかった、歯痒ささえ感じていなかった、傷ついてなんかいなかった。
本当に相手を傷つけているのは、たった今、そのことを告げないままにしていること
だ。
漆黒色の彼女の目が、まるで泣き出してしまう直前みたいに歪むのを見て、ライは安
心する。
もうあんな目で見ないでください。怖いんです。
僕を見る優しい貴女の瞳に、僕の姿が映ってないのが見えるから。
どうしようもなく怖いんです。
いっそ涙で滲んでしまえばいいのに。
さすがに彼女を泣かせる勇気はなかった。そもそも無理だろう。
目の前で辛そうな顔をしているのにも関わらず、涙を流すところを想像できない。
「一応、分類はモンスターだから、あんまり他人にバラさないでね?」
「……手遅れなんですか?」
軽い口調で話を終わらせようとして、問われる。
セラフィナはやはり表情を歪めたまま、しかしさっきより少しだけ眉根を寄せて、厳
しくも聞こえるような声で訊いてきた。
「どうしようもないんですか? 疲れてるだけっていうのは嘘なんでしょう?」
ああこの人はなんて優しいんだ。まだ綺麗な目で僕を見る。
ライは思わず「じゃあ僕のために死んでくれますか」なんて馬鹿みたいなことを問い
返したくなって、強引にそれを飲み込んだ。
万が一、だ。そう、万が一。
絶対にありえないけれど、もしも彼女が頷いたときに「冗談だよ」と笑い飛ばす自信
がなかったからだ。
「んー……そーだなぁ」
何か気の利いた言い訳でも考えようと、逃れるように窓から路地を見下ろし――
窓の下、闇の中に佇む少女と目が合った。
真暗な路地で奇妙にその姿が映える、小柄な女の子。
昼間に見たのと同じ服を着ている。昼間に見たのと同じく、胸のあたりが紅に染まっ
ていた。
少女の、血の気の失せた唇が、言葉の形に開かれ――
「……っ」
寒気か、何か、ぞくりと意識の中心を貫く氷柱のようなもの。無垢な瞳に絡めとられ
そうになる視線をかろうじて少女から引き剥がしてライは振り向いた。
セラフィナも何かを感じたのか、緊張を孕んだ黒瞳がこちらを直視して窓を映す。
「危険です!」
「ヤバい逃げよう今すぐ!」
嫌なタイミングで嫌な場所に嫌なものが来るなんて冗談もいいところだ!
とにかくここは離れないといけない。
逃げられるならそれでいい。そうじゃなくても、ここは人がいすぎる。だから色々な
意味でマズい。
カラスの羽ばたきが聞こえた。沸き立つようにすぐ近くから。背後から。
窓ガラスの悲鳴と、無数の翼の誇示の、二重奏。子供の声が混じる。
飛び退きながら、少し前から気になっていたフレーズをやっと思い出した。
“ 鴉は死者の魂に群がる…。
誰が言った言葉だったか ”
……縁起でもない。
ずる、と、壁を透かして現れた血塗れの子供の腕。何かを求めるように虚空に掲げら
れたそれをカラスが視界から遮った。
『――おねえちゃん、見つけた……』
壁から抜け出して床に足をつきながら、胸のあたりを両手で押さえて、蒼白な顔で血
塗れの少女が微笑んだ。昼間、公園で見たのと同じ、泣きそうな笑顔。
カラスの群れが空中に溶けるように消えていく。
「あなたは……」
セラフィナが、困惑したように少女を見つめている。
彼女が忘れているわけがない。公園で転んだ傷を治して、そして街路樹に磔にされた
少女。
紅に染まった衣服からぽたぽたと滴る血が、床に落ちて、色を失い消えていく。
危険なのはわかっているけど、どうしたらいいかわからない――逃げるべきだという
こと以外。剣をいつでも出せるように意識しながら、ライは部屋の扉を横目にした。
『痛いの。胸がすごく痛いの……』
ぽたぽたと赤の雫が滴る音が、妙に大きく耳に響いている。
少女が両腕をひらいた。ぽっかりと、底のない闇のような空洞が口をあけている。
『……治してよ……さっきみたいに……』
不可能、だ。何者にも。
セラフィナがどれだけ気功に通じているのかは知らないが、死者を蘇らせることがで
きるわけがなかった。そして、目の前の少女には実体がないのだ。治療するべき体は、
静かに横たわって、埋葬されるのを待っている。
少女の靴が床を数歩、進んだ。
その様子にひどい寒気を感じて、ライはセラフィナの腕を乱暴に掴んで、半ば体当た
りするように扉を開いて部屋を飛び出した。
『…………邪魔するんだ?』
子供特有の純粋な憎悪の声が浴びせられる。
振り切ってこのまま宿を出たかったのに、セラフィナが立ち止まった。ライは思わず
舌打ちしながら振り返る。
「でも、あの子は……」
「悪い子じゃない、助けを求めてる! わかってるよそんなこと!」
「それでも放っておくんですか!?」
「そうだよ!」
お願いだから一緒に逃げてくれ。
一部の“死に損ない[アンデッド]”は人間を殺して生命力を奪うことで傷を癒し存
在を保っている。あの子は、セラフィナが「あなたを助けたいんです」とでも言った途
端、彼女に危害を及ぼすだろう。
さっき現れたカラスは、屍霊術師の遣いに違いなかった。
もう会わないなんて都合のいいことを言っていたのに、どうしてちょっかいをかけて
きたのか、わからないけれど。
彼だか彼の仲間だかは知らないが……裏にいる以上、セラフィナの優しさに感動した
少女が納得して消える、なんて幸せな展開にならないことは確かだ。
人に見えるように実体を現すことができるような同類と戦うのはぞっとしなかったし、
ただ助けを求める少女を斬ることは……できない。
これ以上関わってはいけない。
――そういえば、どうして亡霊ばかりが現れるのだろうと思ったが、考えたら当たり
前のことだった。治安の安定した大都市で、死体を確保するのは難しいからだろう。
「セラフィナさん、お願いだから……」
PR
トラックバック
トラックバックURL: