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PC:クレイ カイ
NPC:クレア ギルベルト ウルザ ルキア
場所:王都イスカーナ
―――――――――――――――――――――――――――――――――
――
日々全ては元の平穏に……とはいかないもので、一度進み始めた時間
はただ先へ先へと流れるままに。
まるで時間という形の無い獣に追い立てられているようだ。
どこかの詩人かぶれの下級貴族が言っていたのを不意に思い出し、苦
い顔で自嘲する。
(そーだよ、俺の知り合いで下級以外の貴族がいたか?)
クレイは下級であることに恥じも誇りも持っていないが、今の自分が
意図しなかった状態にあることに、いささか皮肉を感じずに入られなか
った。
「お越しいただきありがとうございます。」
数ヶ月前までは言葉を交わすことはおろか、この屋敷にいる人間は、
ハーネス公爵その人しかしらなかったような自分が、よりにもよって顔
見知りができ、なお礼を持って迎えられる。
「こちらこそお招きいただき光栄です。」
目の前にいるのは見慣れたメイド姿のウルザと、こちらは見慣れてな
いはずだが、すまし顔でたたずまれると見慣れたルザと見分けのつかな
い同じメイド姿のルキアが入口で迎えてくれた。
軽く礼を返しただけの無口な相棒のカイとともクレイは、うろ覚えの
貴族の儀礼典範を記憶の底から引きずり出しながら、可能な限り礼儀正
しく挨拶を交わし、屋敷へと招き入れられた。
ロイヤーとの一件の後、クレイとカイはクレアの護衛を解かれ、元の
隊での仕事に戻っていた。
おおよそ一月近くほったらかしにされたわけだが、突然におこったデ
ィクタでのリアナ王女の反乱にイスカーナの政治は混乱していたため、
クレイもカイもあえてこちらから接触するつもりは無かった。
ただ一度だけ見回り途中にロイヤーの屋敷を訪れてみた。
そんなに日がたっていないにもかかわらずすでに人の気配は無く、門
柱からも家紋ははがされ、静寂を残すのみとなっていた。
二人は何を話すでもなく無言のまま屋敷を後にした。
別に同情する気持ちは微塵もおきなかったが、憎しみがあったわけで
もない。
ただ、ふと、ほんとにわずか一瞬であったが、かれらがほんとに望ん
だのは何だったのか、それは、案外誰もが求めているものではなかった
か、そんなことが頭をよぎった。
その後は終わった事件のことはほとんど忘れかけながら仕事に励んで
いたところ、ある日公爵家からの招待状が届いたのだ。
『先日のお礼をしたい』
もちろん、上流階級特有の持って回った言い回しと、意味の無いお褒
めの言葉の羅列が長々と続く立派な文章が書かれていたのだが、中身を
まとめるとそういうことだった。
「よくきてくれた。」
激務といってもまだ足らないほどの公務におわれているはずのギルベ
ルトは、むしろ活力に満ち溢れ、さらに若々しい力を感じさせる様子で
二人を出迎えた。
通された部屋はギリベルトの私室でもあり、特に賓客をもてなすとき
に使われる部屋で、その内装は華美でこそ無いものの、テーブルといい
革張りのソファーといい、どれもこれも今のクレイの生涯給金でもかえ
るものではない『お宝』揃いだった。
二人は勧められるままにやたらと座り心地のいいソファーに腰を下ろ
し、同じく正面に座ったギルベルトと向かい合った。
「まずは礼を言わねばなるまい。」
そういってあたまをさげたギルベルトは、この一月のことを話そうと
したが、クレイはそれを失礼ながらとさえぎった。
「知ったところで意味の無いことは知る必要はないし、興味も無い。」
続けて相変わらず無愛想にいいきったカイにクレイも苦笑しつつ肩を
すくめて見せた。
「クレアを護りきれたことが確認できたなら、胡散臭い話はいいですよ。
」
あまりフォローになってないクレイの言葉にギルベルトも苦笑せざる
を得なかった。
「そういうことなら礼だけ受けてもらおう。こっちはまさか断るまいな?
」
そういって戸口にひかえるウルザとルキアをうながした。
「実はクレアが二人をもてなしたいというのでな。まだ社交界にもだせ
てない娘だが、うけてはもらえぬか?」
たしかに社交界で何の実績も無い小娘が主人としてもてなすなど、無
礼といわれてもしかたないことだが、事が公爵、それも大公、いまとな
っては二大公爵家の一人娘となれば話は変わってくる。
だが、ふと目を合わせたメイドがおかしそうに目だけで笑ったところ
をみると、娘のわがままに親ばかで乗せられたのが真実なのかもしれな
いのだが、どちらにしろ、クレイ程度の身分で受けられるものではない
のは確か。
この手の栄誉だのなんだのに一切の価値を認めていない二人だったが、
形だけのものとはいえ公爵家で振舞われるもてなしといえば、安月給で
ありつけないものであることは確実だったので、断る理由は無かった。
「あれ? カイは?」
ウルザのあとについて通された部屋は、護衛中は一度も入ったことの
無い豪華な部屋だった。
部屋の大きさを見ると大勢で会食をするというよりも、内々のより親
しい客を招くところであるらしかった。
そのテーブルに先に着いていたクレアがあれ?不思議そうな顔をして
いた。
席に案内し、退出するウルザを横目に着席したクレイは肩をすくめた。
「トイレじゃねえの?」
そういうとカイを待つのも惜しいとばかりに早速食事にとりかかろう
とする。
「ちょっと! なにか忘れてない?」
クレアはおもわず一撃をくらわすつもりで立ち上がりかけたが、思い
直してすわりなおす。
それもそのはずで、きょうのクレアは令嬢らしくシンプルながら上質
の絹に金銀を溶かし込んだ糸を素人目にも目を引かれる複雑で見事な柄
へと織り込み、はっきりと『お姫様』の装いなのだった。
「ん? カイならいちいち待たなくてもおこりゃしねーよ。それともお
前も長ったらしい口上を披露したいのか?」
そんなクレアを前にしてもいつもと変わらない様子のクレイに、あき
らめたような安堵したような、クレア自身にもよくわからない気持ちに
ため息をついた。
「もう、いいわよ。それより、その肉に喰らいつく前にそっちのスープ
から飲んでってウルザがいってたわよ。」
「ふーん、なんのスープだろ?」
「さあ?」
「お姫様に聞いてもむだでございましたな……。」
「むー。なんでよ!」
食事をしながら普段どおりの会話を交わす二人を、隣室から様子を伺
っていた一組のメイドは、同じ顔を見合わせて首をかしげた。
「あっれー?」
「おかしいですねぇ。」
この二人にしては実にめずらしいことだったが、気をとられすぎて油
断していたのか……。
「なにが、だ?」
ひっそりと足音はおろか気配のかけらも感じさせずに後ろに現れたカ
イの静かな声におどろき、声を上げそうになって、慌てて口を押さえな
がらふりかえった。
「あ、らー。」
「こ、これはお早いお戻りで……。」
実はこの部屋に向かう途中、こっそりとクレアにクレイと二人になれ
る時間をあげてほしい、とうちあけられたカイは、先に小用を足してく
ると断りをいれて、クレイとわかれ、わざわざはずれの警備の者達が使
うような便所のほうへと向かったのだった。
とはいえ、いきたくて言ったわけでもないので、クレイにわからない
程度に離れるとすぐに引き返し、廊下ででも時間をつぶしたら怪しまれ
ない程度の頃合に合流しようとしていたところ、近くでこそこそしてい
る二人に気づき、こうして声をかけたのだった。
「いやー、そのぉ。」
いつも自信たっぷりのルキアは言いにくそうにウルザを見、ウルザも
困ったようにカイを見た。
「あのー、ほら先日はいっぱいくらわされたしさ……。」
「……はい、ほんの少しですけど、その桃色キノコを……。」
さすがにカイも眉をしかめたが、向こうの二人の様子をうかがうと、
二人を怒ることも無く、それどころか笑みさえ浮かべていた。
「どうやら無駄だったらしいな。」
これは企んだ二人には嫌味に聞こえたが、さすがに言い返せる立場で
もないのでさらに申し訳なさそうに首すくめた。
「でも、ちゃんとスープにはかって入れたんだから、今頃クレアさまに
メロメロのはずなんだけどなー。」
「はい、席の位置・効果ちゃんと計算したんですけど……。」
カイを遠ざけることも含め全て計算づく立ったのだが、なぜしくじっ
たのか。
不思議がる二人をカイもさすがにおかしそうに見ながら、再びクレイ
とクレアに温かい目を向けた。
「あの二人には余計なお世話はいらんということだろう。」
「えっ?」
「それってどううことです?」
カイの言葉の意味を図りかねて、なぜか勢い込んで聞き返す二人に今
度はカイが不思議そうな顔になる。
二人がお互いを好意的に想っているのは確かだ。
確かにクレアの想いとクレイの想いが、まったく同じ種類のものとは
限らないが、ほれ薬が効かないのだから、脈が無いわけでもないだろ。
そんなことはこの二人にもわかりそうなものなのに、なぜここまで気
にするのか。
ふいに、天啓のごとくカイに閃く事があった。
「これは大公も承知のことなのか?」
その閃いたまま、感情を感じさせない冷静な声で問いかけた。
ルキアもウルザもなにか起こられるとでも思ったのか、ふたたび口を
閉ざし首をすくめた。
その態度から肯定と知ったカイは、なぜか少し黙った後、
「そうか……。」
だけ言い残して部屋へと入っていった。
「おう、先にやってるぜ。」
「ああ、カイ、聞いてよ、クレイがねー。」
「おい、そいつはおれのだろうが。」
「ちょっとは遠慮しなさいよ。」
「なにってやがる、今日は客できてんだ。」
後には賑やかな歓声だけが部屋からもれていた。
あくる朝、まだ日が昇りかけている明け方。
朝市のため一日の中でも最も早く人が込む一般用の門へと続く道を、
この都に現れたときのような軽装のまま歩くカイの姿があった。
「まったく、無愛想のくせにわかりやすすぎるぜ。」
ふいに声をかけられて足を止めたカイの視線の先に、門に向かう途中
で待ち伏せるように立つクレイがいた。
「……クレイ。」
カイは何も言わないまま分かれるつもりだった相棒の名を呼んだまま、
後を続けられずに黙ってしまった。
先日の晩餐、はからずもギルベルトがクレイに目をつけたことを確信
したカイは再び旅にでることを決めた。
元々長居する気は無かったが、事が急変しつつあること知ったからに
は、下手にしがらみができる前に退散すべきと先を急ぐことにしたのだ。
それはクレイがこの先、イスカーナで上へとむかうのに自分の存在は
足かせになりかねず、かといってかつてのように影となる気も無かった。
二君を選ぶ気が無い以上、自分のような後ろぐらい友人はプラスには
ならない。
そうした政治の厳しさを、カイは下手をしたらクレイよりもよく知っ
ているだけに、ここにはいられないと思ったのだ。
「クレイ……。」
再び苦しい弁明を絞り出そうとする相棒に、クレイは中身の詰まった
革の小袋を投げ手よこした。
うけとったカイはその重さに驚き中身を見ると、イスカーナ硬貨がつ
められていた。
「給料と報酬だよ。そもそも旅費を稼いでたんだろ?」
そういって笑うクレイは全てを承知していることを伝えていた。
「そうか……。 とっくに覚悟を決めていたのだな。」
「ああ、ちょっとがんばってみることにしたよ。」
相変わらず軽い口調ながら、その中に真摯なものを感じてカイは笑み
を浮かべた。
「クレアのためにか?」
「はっ! いうじゃねぇか。」
クレイも笑顔で返すと、ゆっくりと歩き出し、カイを通り過ぎていく。
すれ違いざまに軽く手を上げると、カイも同じように手を上げて軽く
打ち合わせる。
「また金がなくなったら、今度は俺が仕事世話してやるよ。」
「おぼえておこう。」
クレイの生きる場所はここにあり、カイは旅のなかに生きている。
ならばカイの気持ち次第でいつでも合えるということだ。
そうであればさよならは必要ない。
「またな。」
「ああ、またな。」
二人は振り返らないままそれぞれの道へと進んでいった。
カイは再び自由の空の下に、クレイは再び権謀渦巻く都のなかへと。
PC:クレイ カイ
NPC:クレア ギルベルト ウルザ ルキア
場所:王都イスカーナ
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日々全ては元の平穏に……とはいかないもので、一度進み始めた時間
はただ先へ先へと流れるままに。
まるで時間という形の無い獣に追い立てられているようだ。
どこかの詩人かぶれの下級貴族が言っていたのを不意に思い出し、苦
い顔で自嘲する。
(そーだよ、俺の知り合いで下級以外の貴族がいたか?)
クレイは下級であることに恥じも誇りも持っていないが、今の自分が
意図しなかった状態にあることに、いささか皮肉を感じずに入られなか
った。
「お越しいただきありがとうございます。」
数ヶ月前までは言葉を交わすことはおろか、この屋敷にいる人間は、
ハーネス公爵その人しかしらなかったような自分が、よりにもよって顔
見知りができ、なお礼を持って迎えられる。
「こちらこそお招きいただき光栄です。」
目の前にいるのは見慣れたメイド姿のウルザと、こちらは見慣れてな
いはずだが、すまし顔でたたずまれると見慣れたルザと見分けのつかな
い同じメイド姿のルキアが入口で迎えてくれた。
軽く礼を返しただけの無口な相棒のカイとともクレイは、うろ覚えの
貴族の儀礼典範を記憶の底から引きずり出しながら、可能な限り礼儀正
しく挨拶を交わし、屋敷へと招き入れられた。
ロイヤーとの一件の後、クレイとカイはクレアの護衛を解かれ、元の
隊での仕事に戻っていた。
おおよそ一月近くほったらかしにされたわけだが、突然におこったデ
ィクタでのリアナ王女の反乱にイスカーナの政治は混乱していたため、
クレイもカイもあえてこちらから接触するつもりは無かった。
ただ一度だけ見回り途中にロイヤーの屋敷を訪れてみた。
そんなに日がたっていないにもかかわらずすでに人の気配は無く、門
柱からも家紋ははがされ、静寂を残すのみとなっていた。
二人は何を話すでもなく無言のまま屋敷を後にした。
別に同情する気持ちは微塵もおきなかったが、憎しみがあったわけで
もない。
ただ、ふと、ほんとにわずか一瞬であったが、かれらがほんとに望ん
だのは何だったのか、それは、案外誰もが求めているものではなかった
か、そんなことが頭をよぎった。
その後は終わった事件のことはほとんど忘れかけながら仕事に励んで
いたところ、ある日公爵家からの招待状が届いたのだ。
『先日のお礼をしたい』
もちろん、上流階級特有の持って回った言い回しと、意味の無いお褒
めの言葉の羅列が長々と続く立派な文章が書かれていたのだが、中身を
まとめるとそういうことだった。
「よくきてくれた。」
激務といってもまだ足らないほどの公務におわれているはずのギルベ
ルトは、むしろ活力に満ち溢れ、さらに若々しい力を感じさせる様子で
二人を出迎えた。
通された部屋はギリベルトの私室でもあり、特に賓客をもてなすとき
に使われる部屋で、その内装は華美でこそ無いものの、テーブルといい
革張りのソファーといい、どれもこれも今のクレイの生涯給金でもかえ
るものではない『お宝』揃いだった。
二人は勧められるままにやたらと座り心地のいいソファーに腰を下ろ
し、同じく正面に座ったギルベルトと向かい合った。
「まずは礼を言わねばなるまい。」
そういってあたまをさげたギルベルトは、この一月のことを話そうと
したが、クレイはそれを失礼ながらとさえぎった。
「知ったところで意味の無いことは知る必要はないし、興味も無い。」
続けて相変わらず無愛想にいいきったカイにクレイも苦笑しつつ肩を
すくめて見せた。
「クレアを護りきれたことが確認できたなら、胡散臭い話はいいですよ。
」
あまりフォローになってないクレイの言葉にギルベルトも苦笑せざる
を得なかった。
「そういうことなら礼だけ受けてもらおう。こっちはまさか断るまいな?
」
そういって戸口にひかえるウルザとルキアをうながした。
「実はクレアが二人をもてなしたいというのでな。まだ社交界にもだせ
てない娘だが、うけてはもらえぬか?」
たしかに社交界で何の実績も無い小娘が主人としてもてなすなど、無
礼といわれてもしかたないことだが、事が公爵、それも大公、いまとな
っては二大公爵家の一人娘となれば話は変わってくる。
だが、ふと目を合わせたメイドがおかしそうに目だけで笑ったところ
をみると、娘のわがままに親ばかで乗せられたのが真実なのかもしれな
いのだが、どちらにしろ、クレイ程度の身分で受けられるものではない
のは確か。
この手の栄誉だのなんだのに一切の価値を認めていない二人だったが、
形だけのものとはいえ公爵家で振舞われるもてなしといえば、安月給で
ありつけないものであることは確実だったので、断る理由は無かった。
「あれ? カイは?」
ウルザのあとについて通された部屋は、護衛中は一度も入ったことの
無い豪華な部屋だった。
部屋の大きさを見ると大勢で会食をするというよりも、内々のより親
しい客を招くところであるらしかった。
そのテーブルに先に着いていたクレアがあれ?不思議そうな顔をして
いた。
席に案内し、退出するウルザを横目に着席したクレイは肩をすくめた。
「トイレじゃねえの?」
そういうとカイを待つのも惜しいとばかりに早速食事にとりかかろう
とする。
「ちょっと! なにか忘れてない?」
クレアはおもわず一撃をくらわすつもりで立ち上がりかけたが、思い
直してすわりなおす。
それもそのはずで、きょうのクレアは令嬢らしくシンプルながら上質
の絹に金銀を溶かし込んだ糸を素人目にも目を引かれる複雑で見事な柄
へと織り込み、はっきりと『お姫様』の装いなのだった。
「ん? カイならいちいち待たなくてもおこりゃしねーよ。それともお
前も長ったらしい口上を披露したいのか?」
そんなクレアを前にしてもいつもと変わらない様子のクレイに、あき
らめたような安堵したような、クレア自身にもよくわからない気持ちに
ため息をついた。
「もう、いいわよ。それより、その肉に喰らいつく前にそっちのスープ
から飲んでってウルザがいってたわよ。」
「ふーん、なんのスープだろ?」
「さあ?」
「お姫様に聞いてもむだでございましたな……。」
「むー。なんでよ!」
食事をしながら普段どおりの会話を交わす二人を、隣室から様子を伺
っていた一組のメイドは、同じ顔を見合わせて首をかしげた。
「あっれー?」
「おかしいですねぇ。」
この二人にしては実にめずらしいことだったが、気をとられすぎて油
断していたのか……。
「なにが、だ?」
ひっそりと足音はおろか気配のかけらも感じさせずに後ろに現れたカ
イの静かな声におどろき、声を上げそうになって、慌てて口を押さえな
がらふりかえった。
「あ、らー。」
「こ、これはお早いお戻りで……。」
実はこの部屋に向かう途中、こっそりとクレアにクレイと二人になれ
る時間をあげてほしい、とうちあけられたカイは、先に小用を足してく
ると断りをいれて、クレイとわかれ、わざわざはずれの警備の者達が使
うような便所のほうへと向かったのだった。
とはいえ、いきたくて言ったわけでもないので、クレイにわからない
程度に離れるとすぐに引き返し、廊下ででも時間をつぶしたら怪しまれ
ない程度の頃合に合流しようとしていたところ、近くでこそこそしてい
る二人に気づき、こうして声をかけたのだった。
「いやー、そのぉ。」
いつも自信たっぷりのルキアは言いにくそうにウルザを見、ウルザも
困ったようにカイを見た。
「あのー、ほら先日はいっぱいくらわされたしさ……。」
「……はい、ほんの少しですけど、その桃色キノコを……。」
さすがにカイも眉をしかめたが、向こうの二人の様子をうかがうと、
二人を怒ることも無く、それどころか笑みさえ浮かべていた。
「どうやら無駄だったらしいな。」
これは企んだ二人には嫌味に聞こえたが、さすがに言い返せる立場で
もないのでさらに申し訳なさそうに首すくめた。
「でも、ちゃんとスープにはかって入れたんだから、今頃クレアさまに
メロメロのはずなんだけどなー。」
「はい、席の位置・効果ちゃんと計算したんですけど……。」
カイを遠ざけることも含め全て計算づく立ったのだが、なぜしくじっ
たのか。
不思議がる二人をカイもさすがにおかしそうに見ながら、再びクレイ
とクレアに温かい目を向けた。
「あの二人には余計なお世話はいらんということだろう。」
「えっ?」
「それってどううことです?」
カイの言葉の意味を図りかねて、なぜか勢い込んで聞き返す二人に今
度はカイが不思議そうな顔になる。
二人がお互いを好意的に想っているのは確かだ。
確かにクレアの想いとクレイの想いが、まったく同じ種類のものとは
限らないが、ほれ薬が効かないのだから、脈が無いわけでもないだろ。
そんなことはこの二人にもわかりそうなものなのに、なぜここまで気
にするのか。
ふいに、天啓のごとくカイに閃く事があった。
「これは大公も承知のことなのか?」
その閃いたまま、感情を感じさせない冷静な声で問いかけた。
ルキアもウルザもなにか起こられるとでも思ったのか、ふたたび口を
閉ざし首をすくめた。
その態度から肯定と知ったカイは、なぜか少し黙った後、
「そうか……。」
だけ言い残して部屋へと入っていった。
「おう、先にやってるぜ。」
「ああ、カイ、聞いてよ、クレイがねー。」
「おい、そいつはおれのだろうが。」
「ちょっとは遠慮しなさいよ。」
「なにってやがる、今日は客できてんだ。」
後には賑やかな歓声だけが部屋からもれていた。
あくる朝、まだ日が昇りかけている明け方。
朝市のため一日の中でも最も早く人が込む一般用の門へと続く道を、
この都に現れたときのような軽装のまま歩くカイの姿があった。
「まったく、無愛想のくせにわかりやすすぎるぜ。」
ふいに声をかけられて足を止めたカイの視線の先に、門に向かう途中
で待ち伏せるように立つクレイがいた。
「……クレイ。」
カイは何も言わないまま分かれるつもりだった相棒の名を呼んだまま、
後を続けられずに黙ってしまった。
先日の晩餐、はからずもギルベルトがクレイに目をつけたことを確信
したカイは再び旅にでることを決めた。
元々長居する気は無かったが、事が急変しつつあること知ったからに
は、下手にしがらみができる前に退散すべきと先を急ぐことにしたのだ。
それはクレイがこの先、イスカーナで上へとむかうのに自分の存在は
足かせになりかねず、かといってかつてのように影となる気も無かった。
二君を選ぶ気が無い以上、自分のような後ろぐらい友人はプラスには
ならない。
そうした政治の厳しさを、カイは下手をしたらクレイよりもよく知っ
ているだけに、ここにはいられないと思ったのだ。
「クレイ……。」
再び苦しい弁明を絞り出そうとする相棒に、クレイは中身の詰まった
革の小袋を投げ手よこした。
うけとったカイはその重さに驚き中身を見ると、イスカーナ硬貨がつ
められていた。
「給料と報酬だよ。そもそも旅費を稼いでたんだろ?」
そういって笑うクレイは全てを承知していることを伝えていた。
「そうか……。 とっくに覚悟を決めていたのだな。」
「ああ、ちょっとがんばってみることにしたよ。」
相変わらず軽い口調ながら、その中に真摯なものを感じてカイは笑み
を浮かべた。
「クレアのためにか?」
「はっ! いうじゃねぇか。」
クレイも笑顔で返すと、ゆっくりと歩き出し、カイを通り過ぎていく。
すれ違いざまに軽く手を上げると、カイも同じように手を上げて軽く
打ち合わせる。
「また金がなくなったら、今度は俺が仕事世話してやるよ。」
「おぼえておこう。」
クレイの生きる場所はここにあり、カイは旅のなかに生きている。
ならばカイの気持ち次第でいつでも合えるということだ。
そうであればさよならは必要ない。
「またな。」
「ああ、またな。」
二人は振り返らないままそれぞれの道へと進んでいった。
カイは再び自由の空の下に、クレイは再び権謀渦巻く都のなかへと。
PR
◆――――――――――――――――――――――――――――――――――
人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア内 ―公園>
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
困った。手掛かりが途絶えてしまった。
セラフィナは左のこぶしを額の封魔布に当て、歩きながら考えていた。
ソフィニアに来たのは、レガシーの手掛かりを求めてのことだった。
でも、もうすぐ3ヶ月が経とうというのに、噂も耳に入らない。
自分は急ぎすぎているのかもしれない。
だってあの時は、立て続けに情報が入ってきたから。だけど……だけど。
最初から、すぐに終わる旅だとは思っていなかったはずなのに。
……落ち着こう。
深呼吸を一つ。
公園でベンチに座って、緑の匂いを嗅ごう。
葉擦れの囁[ささや]きや、鳥の囀[さえず]りに耳を傾けよう。
水のせせらぎのある、小川か噴水の近くがいいな。
昔遊んだ、あの家みたいに……。
セラフィナが公園に入ると、女の子の「あっ!」という声が聞こえた。
ボールの跳ね上げられた方角で、派手に転んだ痛々しい音がする。
行かなきゃ。
知らず知らずのうちに、セラフィナは走り出していた。
火が付いたように泣き始める子供の声。
「大丈夫?」
駆け寄ってみると傷は思いの外深かった。
小石が引っかかった擦り傷に、痛々しく血が滲[にじ]んでいる。
素早く丁寧に異物を取り除き、傷口をそっとふき取り、触れるか触れないかの位置
で手を当てる。
手当て……これは彼女の特技でもある「カフール練気術」での歴とした治療方法な
のだ。
気の流れを整え、自然治癒を促進する。酷い場合には施術者の気を流し込む方法も
採るが、今回のように元気な子供ならば、溢れ出す気を少し整えてやるだけでいい。
「ほら、もう痛くないね?」
囁[ささや]くように優しく語りかける。
当てていた手を外すと、そこには傷跡も残っていなかった。
「……へへっ」
「ふふっ」
号泣で腫れた目でくしゃくしゃっと少女が笑う。それを見て、セラフィナもふわふ
わっと笑う。
「気を付けてね」
「うん!おねえちゃん、ありがとう!」
くるっと向きを変えると、転がったボールを求めて少女は駆け出した。
セラフィナは微笑んだまま視線をその先へ移す。
「あっ……」
ボールを両手で持った青年。その顔には見覚えがあった。
いや、違う。
よく似た人を知っていたのだ。
青年は少女にボールを手渡し、頭をぐりぐり撫でて顔を上げた。
目が合う。
驚いた顔のセラフィナに会釈する。
と、その時。
急に彼の表情が険しくなった。
殆ど同時に悪寒が走り、「破っ!」っと振り向きざまに気弾を撃つ。
なにも見えなかった。
すぐ側で殺気を感じたような気がしたのに。
彼の方に向き直ると、今度は彼の方が驚いた表情をしていた。
なんだかおかしくなって、「ふふっ」と笑うと力が抜けた。
「こんにちは。私、セラフィナといいます。貴方のお名前、お聞きしてもいいです
か?」
近づいて声を掛けてみる。
後ろでは、すっかり元気になった少女のはしゃぐ声が、遠くに聞こえていた。
◆――――――――――――――――――――――――――――――――――
人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア内 ―公園
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
――綺麗な人だな、と思った。近づいてくる彼女の背中越しに、右肩の辺りを抉られ
て逃げていく中年男の姿を見送りながら、ライは微笑を返した。まったく、あいつには
もったいない。あいつなんかには……と思ってから、具体的な言葉になる前に続きを悟
って思考を止める。
危険思考は自主規制。人間を定義する枠から外れすぎるわけにはいかない。
「……僕はライっていうんだ」
名乗ってから、さっきの手配書の存在が頭を掠めた。
あの金額、目をつけたのは一人や二人ではないだろう。多額すぎる賞金首は絶対に裏
があるから関わるべきではないという常識を知らない輩は多い。
裏がある云々じゃなくて本当に覚えがないのだが、そういう事情を会ったこともない
不特定多数に伝えるのは不可能だから、自衛は考えなければならないだろう。
どうしたものか……
少し前と比べても明らかに弱っていると断言できる今は、見習の魔法使いにだって捕
まりかねないのだから。このまま力を失い続けていくわけにもいかないが――かといっ
て、一度でも人を喰らえば、その後も今と同じ自分を保っていられるという自信はない。
タガが外れて完全に魔物になりきるのはもちろん嫌だし、さっきの男みたいに、何か
大切な感覚が麻痺するのも嫌だ。
「ライさんっていうんですか……」
彼女は反芻して、何かを思い出すような顔をした。
「こんにちわ、セラフィナさん」
手配書のことを気に止められると面倒なので、ライは先に口を開いた。
さっきの術は“気功”だろう。話に聞いたことしかないが、確か、口を塞がれても腕
を折られても使えた筈だ。
もしも彼女がハンターだったとして、攻撃の手段を封じるには手間取るかも知れない。
一撃喰らえばそれだけで危険ではあるし、少しでもここで目立つことがあれば致命的だ。
手配されているとバレないように、人ではないと気取らせないように、最大限の注意
を払ってやり過ごすのが、一番穏便な方法だろう。
もしもこの都市で騒ぎを起こして捕縛されるようなことがあれば、よくてその場で消
されるか、ギルドに引き渡されて無意味な尋問だか拷問だかをされるか、最悪の場合、
どこかの研究室に監禁されて、熱心な魔法使い皆々様のお相手をすることになる。
どれもご免だ。
「セラフィナさんは、魔法使い?」
「え?」
虚をつかれたように問い返された。確かにいきなりな質問だったかも知れない。
ライは「いや、ほら……」と、友人たちの輪の中に戻ってボールを追い掛け回してい
る女の子を目で示し、
「傷跡も消えて、もう完全に治ってるから」
「あれは、あの子に元々備わっていた自然の力です。
私は、ほんの少しお手伝いしただけなんですよ」
育ちのよさそうな笑顔と穏やかな口調で、彼女はそう言った。
確かに、生き物には自然治癒力というものがある。多少のケガならば手当てせずに放
っておいても元通りになるし、体力やその時の気候によっては、重症ですら治ることも
ある。休息をとれば体力が回復するのも、勿論、自然治癒の一種。
羨ましいことだ。陸に打ち上げられた魚というのも違うが、消耗するだけの我が身を
思えば。いや、“我が身”も何も、体はもうないんだった。この姿は幻に過ぎない。
気付かぬうちに、それさえ朽ちていく。
「ふぅん……」
気のない相槌を打ちながらそっと右手を握ると、干からびた肉の残骸すら剥がれ落ち
た骨が軋る音が微かに聞こえた。
現実の空気の流れを伴わない、無意味な嘆息が漏れる。
「……ライさんも、顔色がよくないみたいですね?」
問いながら手を伸ばしてきたセラフィナには何の他意もなかったに違いないが……
(――ッ!)
寒気がした。首の後ろに氷の針を突き立てられるような痛みを錯覚する。
反射的に伸ばされた手を振り払い、それから自分でも驚いて、思わず彼女の顔を半ば
呆然と眺め返した。
「あ……」
間抜けな声が漏れるが、セラフィナが表情を曇らせたのを見ると、ライは驚愕が抜け
切らないままに首を横に振った。
なんだ、今の……僕は今、どうしたんだ? なんで急にあんな――
「違う! ……んだ。
ごめん。大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけだから……」
「真っ青ですよ。今の自分を鏡で見てごらんなさい」
まるで医者のような厳しい口調で言われる。
一拍どころか一章節以上遅れて、さっきの衝動の正体がぼんやりとわかり始めた。
怖かったんだ。
他の感情も何も割り込めないような純粋な恐怖だ。
意思とは完全に無関係にある、言うならば“本能的な”精神反応――神聖に満たされ
た大聖堂に足を踏み入れようとしたときと同じように、強い光を自分の根本が拒否して
いる。
駄目だ、このままじゃ。人間は光を恐れたりしないのに。
「そうだね……自重する」
黒髪の下でセラフィナが、念を押すような視線を向けてきている。
額に巻かれた白い布のせいで少し影が落ちているのが、彼女の不思議な雰囲気を余計
に強めているのかも知れない、とライは思った。
隠せなかった怯えの色を彼女は見ていただろうか。
逆効果だとわからないわけでもなかったが、ライは早口に呟きを重ねた。
「疲れてるんだ。本当にそれだけなんだ。なんでもないんだ……」
もう一度軽い寒気を感じたような気がして、彼女からさりげなく視線を外す。
そして無理やり微笑んだ。
そんなことしたら余計に不安がらせるだけなのに、とはわかっていたが、他にどう応
えればいいのかわからなかったのだ。
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人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア内 ―公園
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疲れているだけだと言って笑うライを見て、セラフィナは何故か胸が苦しかった。
練気は適応性が高い。魔法耐性の高い人にも、魔法を帯びない人にも、逆に魔法の
素質の高い人にも効果があるからだ。ほぼ10人中10人に効果が見込める。100
人中100人と言ってもイイ。
しかし、数千人、もしくは数万人となると話は変わってくる。不快に感じる人も、
世の中にはいるのだ。
知識としては知っていた。
しかし、実際に接した時に拒絶されたのは初めてだった。
自分の浅はかさに、笑顔が少し歪む。
「じゃ、せめて」
近づけかけた手を引っ込めて、もう一度笑顔を作りなおす。
「顔色が良くなるまで、何かお手伝いさせて下さい」
目の前の困惑の表情、このまま、彼を傷つけたまま分かれるのはいやだった。
「大丈夫、貴方にこの力は使いません。約束します」
困ったライが手をひらひらと振ってみせる。
困ってはいたが、さっきのような苦しさが見えないことに、セラフィナはほっとし
ていた。
「本当に放っておけば良くなるから、あんまり気にしないでね」
このまま行ってしまうつもりなのだ。
足を踏み出そうとしたライを見て、もう一度胸が痛む。
このまま、行かせちゃダメ。
「んー、通してくれる?」
「あ、の」
気が付けば、道を塞いでいる自分。
自然と笑みが漏れる。何やってるのかな。ふふ、可笑しくなってきちゃった。
「一人旅をしばらく続けていたんですが、人恋しくなってしまったみたいですね」
後ろでは、走り回る子供たちの声。
何気ないはずだった一言に、ちょっと照れてしまった。
若干頬を染めて、お辞儀をする。
「しばらく一緒に行動させて下さい。お願いします」
言った後、なぜだか耳まで紅くなって、すぐには顔が上げられなかった。
◆――――――――――――――――――――――――――――――――――
人物:ライ セラフィナ
場所:ソフィニア内 ―公園
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困ったな――というのが、第一の感想だった。上手く、とはいえないが、この場を凌
げたと思った。それがどうして、“一緒に行動させてください”なんて言われるんだろ
う。たぶん、彼女は心配してくれてるんだろうな、というのはわかった。嬉しくないわ
けでもない。
俯いたままのセラフィナの表情を窺うことはできなかったが、彼女には何の悪意もな
いに違いなかった。
とはいえ、今の自分はあまり人と行動を共にしない方がいいという自覚もあった。何
かの手違いだろうが、それでもギルドに懸けられた賞金を取り下げさせるのは難しい。
それに、それがなくても人と関わろうと思うような気分ではない。
近くに誰かいたら、いつ手を伸ばしてその命を奪い取りたくなるかわからないから。
「あー……えっと……」
どうやって断ろう。人を誘うのは得意だけど、その逆は苦手だ。
だからさっきも変なのに捕まって、延々と無駄話に付き合わされて。
「僕は別に……」
そんなことを思いながら口を開きかけ、そして、ふと違和感を覚えて続きを中断した。
気がつけば周囲に人の気配がない。さっきまですぐ近くにいた子供たちが、遠い芝生
に移動している。隣のベンチにいた子連れの母親が、乳母車を押して公園から出て行く
のが見えた。
別に、それぞれは不自然なことではないが――なんで、申し合わせたように、この場
からぽっかりと自分たち以外がいなくなる?
視線を巡らせれば、その答えはすぐに見つかった。
やや離れた木の下に、さっきの男が立っている。さっき抉られた肩が元通りになって
いた。
第六感とでもいうような感覚――今の自分はそれで五感を補っているようなものだが、
それはどうでもいいとして、誰でも、この辺りに“居心地の悪さ”とかそういうものは
感じるだろうな、と思った。
ぞくりと心の奥がざわめいた。
さっきは鬱陶しさを感じた相手に、今度は危険を感じた。強いとか強くないとか、倒
せるとか倒せないとか、そういうことではなく、アレは危険だ。
「どうしました?」
問いの形はしていたが、セラフィナの声も緊張を孕んでいた。
それにどう応えようかと一瞬だけ考える。
「……いや……ここ、嫌な感じがするから。
場所を変えよう。どこか人の多いところに……」
嫌な感じどころじゃない。殺意にも近い悪意。
これ以上、関わってはいけない。だって自分勝手な奴っていうのは何するかわからな
いから。
向けられてくる恨みがましい目に、わけのわからない不快感を覚えた。吐き気に似て
いるけどそうではない。
では怒りか? あの肩を治すために、誰を殺したかは知らないが。
でもきっと怒りでもない。他に胸を焦がすものはなんだ。嫉妬? 何故。理由がない。
だとしたら、なんだ。焦燥? ああ、きっとそうに違いない。
焦る理由があるのかは問題ではなく、自分で納得できればそれでいい。
「そうですね」
同意してくれたセラフィナに笑い返そうとして、やめた。
自分の感情も整理できないまま、人には愛想を振り向こうなんて馬鹿みたいだ。
白いエプロンの胸元に喫茶店のロゴが描かれた制服のウェイトレスは、まだこの仕事
に慣れているといった様子ではなかった。
彼女が少しつっかえながら反芻したのは、セラフィナが頼んだ、多分、紅茶。詳しく
ないライには、彼女が口にしたのが、紅茶の種類だったのか銘柄だったのかもわからな
い。が、別にわからなくて困るということもない。どうせ食べ物の味はわからないから。
「――お客様のご注文は」
「僕はいい」
軽く手を振って辞退。お茶を一杯しか頼まなかった二人連れに、ウェイトレスは一瞬
だけ憮然とした表情をした。やっぱり、まだ慣れてないんだなとわかる。
慣れた店員なら、よほどのことがないかぎり、商業用の笑顔を崩さないものだ。
店の中に戻っていく彼女の背中を見送って、通りの景色を眺めた。
通りの途中にある小さな広場の周りに、幾つかの小さな飲食店が並んでいる。そのほ
とんどが、屋外に傘を出してテーブルを置いていた。
あまり地元人ではなさそうな人の姿が目立つ。
仕事絡みらしい者や観光らしい者が多いが、ハンターらしい姿も混じっている。
これだけ人の目があれば、さっきの男も、すすんで騒ぎを起こそうなどとは思うまい。
他人に賢明さを望むのは賢明ではない、というのは誰の言葉だっただろう。いや、前向
きに考えよう。普通なら騒ぎを起こさない。
「何もいらないんですか?」
「気にしないで」
軽い口調で応えたつもりだったが、セラフィナは少し表情を翳[かげ]らせた。
どういう風に言えば彼女を心配させずに済むんだろう。「死んだ人は普通の食事をし
なくても、多少顔色が悪くても普通なんだよ」? 冗談じゃない。
ライは、椅子の背もたれに乗せた肘に寄りかかって広場を眺めながら苦笑を浮かべる。
結局、子供じみた言い訳をする以外の方法が見つからない。馬鹿みたいに「大丈夫」っ
て繰り返すよりも彼女を安心させる方法がわからないんだ。
そういうのは、僕じゃなくて弟のキャラだと思うんだけどさ。
「それよりさ、セラフィナさん。
さっき一人旅してたって言ったよね」
「…ええ」
自分でもわざとらしいと思ったが、やはりセラフィナにも、話を逸らしたのがわかっ
たらしい。少し不満そうな顔で彼女が頷く。
通り過ぎていく通行人の一人を何気なく目で追いながら、ライは続けた。
「どんなところに行ったの?」
ばたばたと、警邏の格好をした数人が走っていくのが見えた。
軽く目を伏せて、周囲を探る。人の騒ぎ声がかすかに聞こえた。頭上をカラスの影が
横切って、何度か鳴き声が降ってきた。
どこかで騒ぎが起こっているらしかった。さっきのこともあって嫌な予感がする。
とはいえ、そんなに神経質になることもないとも思ったので――セラフィナの方に視
線を向けて笑った。
「僕もちょっと前にあちこち行ってみたから、どこかで会ったことあったりしてね」
まるで、古いナンパの手口みたいだ。
言ってから気がついて、少し後悔する。
かぁ、と、もういちど近くで聞こえた。
通りの向こうが騒がしい。
どうか僕たちに関係のあることじゃありませんように、と、たまたま目に入った商店
の壁に装飾されていた、聖印をモチーフにしたらしい模様に祈ってみた。
神さまはきっといるんだろうけど、祈りを聴いてくれるとも思えなかった。