キャスト:ジュリア アーサー
場所:モルフ地方東部 ― ダウニーの森
--------------------------------------------------------------------------
老木の幹に刻まれた、木と同じく年老いた女の顔。
ごつごつとした樹皮のせいで、実際よりも年嵩に見えるのかも知れない――痩せた瞼
の下から垣間見える眼差しは決して衰えてなどいない。
むしろ優しげな微笑みは、親しい子どもを迎えるようだった。
「道に迷わなかったようで、よかったわ」
「……お前が魔女か」
自称騎士は、剣の柄に手をかけて問うた。
朗らかに笑う老木の女。「ええ、そうね」と、あらおいしいチェリーパイが焼けたわ
ねと言うのとおなじような口調で肯定され、騎士は逆に反応に困る素振りを見せた。
ジュリアは彼の背後でアーサーと視線を交わしてから、投槍に口を挟んだ。
「そこの少女と――ついでに、平和に寝こけている男どもを返してもらえるか」
「できないわ」
「何故」
「使い魔が必要だからよ。
そこの二人は返してあげてもいいけど、まだしばらくは目覚めないわ」
魔女は一呼吸置いて、続けた。
「少し騒がしかったから眠ってもらったの。
大きな声を立てると、こわぁい猛獣が起きてしまうからね」
夜の森には他に光なく、この広場だけが闇の中に照らし出されている。
猛獣がいるという話があるのだろうか? アーサーを横目にした。彼は視線の意味に
気づいたらしく、控えめな礼儀正しさで返事をした。
「ダウニーの森で最も物騒なのは、魔女バルメだと聞いていますが」
魔女は目をぱちくりさせた。
「誰がそんなこと言ったのかしら?」
愉快そうな笑い声。想像していた悪意は一かけらも感じられない。
周囲にいた使い魔たちは、今はもう歌をやめ、首を傾げてこちらを観察している。
自称騎士が、剣の柄を掴む手を開いて、もう一度、握りなおした。ジュリアはその動
作に彼の混乱を感じ取ったが、特に何か言ってやろうとは思わなかった。
騎士なら、多少の不測の事態に対応できるようでないと信用ならない。
いや、信用などしていない。こいつのことなどどうでもいい。
ただ、追い詰められて下手な真似をするようなことがないように、常に視界の隅には
収めているが――
そういった理由では、アーサー・テイラックはまだ信用できそうだった。
少なくとも悪い手は打たないだろうと確信させるような、妙な場慣れがある。ファブ
リー家のパーティーに招かれていたのだから地元の名士なのだろうが、他にも何かあり
そうだ。詮索する気はないけれど。
「子どもたちが帰りたくないと言ったから、ずっとここにいさせてあげているのよ。
あなたたちも昔、不満を、不安を抱えていなかった?」
魔女は眼差しを穏やかなものに変えた。
「親はあなたのことを本当にわかっていたのかしら。
あなたのことを考えるふりをして、自分の利益を考えていたんじゃないかしら。
このまま大人になって本当にいいの? あなたの未来はあなたの望んだものなの?」
使い魔の少年少女たちが、じいっと魔女を見上げている。
その目に宿るのが純粋な信頼だと気づいて、ジュリアは顔をしかめた。
「ずっと、子どもでいられたら、と。
そう思ったことが、まったくなかったかしら」
誰も返事をしない。
何か心を動かされたというよりも、唐突な話の変化に戸惑っているだけだろう。
邪悪な魔女が思っていたより邪悪でなさそうで、拍子抜けしているのかも知れない。
ジュリアはため息をついた。
「御託はいい。子どもを返せ」
魔女は笑顔のまま「できないわ」と答えた。
話し合い以外で解決する方法を、そろそろ考え始めるべきだろうか。
「……不幸な子どもはね、守らなければいけないのよ」
「獣に変えても?」
使い魔たちが、じっと此方を見ている。
魔女は「子どもたちが望むなら」と答えた。
場所:モルフ地方東部 ― ダウニーの森
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老木の幹に刻まれた、木と同じく年老いた女の顔。
ごつごつとした樹皮のせいで、実際よりも年嵩に見えるのかも知れない――痩せた瞼
の下から垣間見える眼差しは決して衰えてなどいない。
むしろ優しげな微笑みは、親しい子どもを迎えるようだった。
「道に迷わなかったようで、よかったわ」
「……お前が魔女か」
自称騎士は、剣の柄に手をかけて問うた。
朗らかに笑う老木の女。「ええ、そうね」と、あらおいしいチェリーパイが焼けたわ
ねと言うのとおなじような口調で肯定され、騎士は逆に反応に困る素振りを見せた。
ジュリアは彼の背後でアーサーと視線を交わしてから、投槍に口を挟んだ。
「そこの少女と――ついでに、平和に寝こけている男どもを返してもらえるか」
「できないわ」
「何故」
「使い魔が必要だからよ。
そこの二人は返してあげてもいいけど、まだしばらくは目覚めないわ」
魔女は一呼吸置いて、続けた。
「少し騒がしかったから眠ってもらったの。
大きな声を立てると、こわぁい猛獣が起きてしまうからね」
夜の森には他に光なく、この広場だけが闇の中に照らし出されている。
猛獣がいるという話があるのだろうか? アーサーを横目にした。彼は視線の意味に
気づいたらしく、控えめな礼儀正しさで返事をした。
「ダウニーの森で最も物騒なのは、魔女バルメだと聞いていますが」
魔女は目をぱちくりさせた。
「誰がそんなこと言ったのかしら?」
愉快そうな笑い声。想像していた悪意は一かけらも感じられない。
周囲にいた使い魔たちは、今はもう歌をやめ、首を傾げてこちらを観察している。
自称騎士が、剣の柄を掴む手を開いて、もう一度、握りなおした。ジュリアはその動
作に彼の混乱を感じ取ったが、特に何か言ってやろうとは思わなかった。
騎士なら、多少の不測の事態に対応できるようでないと信用ならない。
いや、信用などしていない。こいつのことなどどうでもいい。
ただ、追い詰められて下手な真似をするようなことがないように、常に視界の隅には
収めているが――
そういった理由では、アーサー・テイラックはまだ信用できそうだった。
少なくとも悪い手は打たないだろうと確信させるような、妙な場慣れがある。ファブ
リー家のパーティーに招かれていたのだから地元の名士なのだろうが、他にも何かあり
そうだ。詮索する気はないけれど。
「子どもたちが帰りたくないと言ったから、ずっとここにいさせてあげているのよ。
あなたたちも昔、不満を、不安を抱えていなかった?」
魔女は眼差しを穏やかなものに変えた。
「親はあなたのことを本当にわかっていたのかしら。
あなたのことを考えるふりをして、自分の利益を考えていたんじゃないかしら。
このまま大人になって本当にいいの? あなたの未来はあなたの望んだものなの?」
使い魔の少年少女たちが、じいっと魔女を見上げている。
その目に宿るのが純粋な信頼だと気づいて、ジュリアは顔をしかめた。
「ずっと、子どもでいられたら、と。
そう思ったことが、まったくなかったかしら」
誰も返事をしない。
何か心を動かされたというよりも、唐突な話の変化に戸惑っているだけだろう。
邪悪な魔女が思っていたより邪悪でなさそうで、拍子抜けしているのかも知れない。
ジュリアはため息をついた。
「御託はいい。子どもを返せ」
魔女は笑顔のまま「できないわ」と答えた。
話し合い以外で解決する方法を、そろそろ考え始めるべきだろうか。
「……不幸な子どもはね、守らなければいけないのよ」
「獣に変えても?」
使い魔たちが、じっと此方を見ている。
魔女は「子どもたちが望むなら」と答えた。
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PC:しふみ
場所:どこかの食堂
NPC:ウェイトレス・その他のお客さん達
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その日は、朝から不快な天候だった。
気温そのものは高くないのだが、風がない上にじとりと湿った空気が肌にからみつ
き、何か行動を起こすたびに不快度指数が跳ね上がるのだ。
平素に比べ、ややイライラしやすい環境とも言えた。
町の中心部を通る、大通りに面した場所にある大衆食堂。
少しでも涼を取るためか、窓という窓は全て全開の状態である。
客の大半は、汗をかくのを嫌がって、冷たい料理を注文していた。
――そんな中で。
「……は?」
食堂のウェイトレスが、盆を抱えたまま、困惑した表情を浮かべて首を傾げる。
普通、接客業を生業とする者は、いついかなる時でも笑顔で応対するようにとしつけ
られている。
働き始めてまだ間も無いうちは、なかなか上手くいかない場合も多かったりするのだ
が。
しかしこのウェイトレスは、この店で働き出してから実に三年以上にもなるのだ。
それが困惑した表情を浮かべたのだから、相当なことに出くわしたのだと容易に想像
がつくだろう。
「あら、ここにもないのね」
ウェイトレスを困惑させた張本人たる客は、さして気にした風でもなく呟いた。
白い着物に赤い袴を履いた、赤い長髪の女性である。
彼女の衣服は、ウェイトレスの目にはただの「奇抜な服」と映った。
センスの問題ではなく、そんな衣服を今まで見たことがなかったからである。
「ご注文に添えられなくて、大変申し訳ありませんっ」
ウェイトレスは、少し慌てた様子で頭を下げる。
女性客は、ぱたりとメニューの表をテーブルに置いた。
不満げだとか、怒っているだとか、そんな雰囲気ではない。
(まるでクレームをつけた客みたいね、これじゃ)
周囲の客がちらちらとこちらを気にするので、彼女はそんなことを考えていた。
アレがあれば是非食べたかったのだが、ないのならきっぱりとあきらめる聞き分けの
良さはある。
メニューに見当たらなかったので、聞いてみただけの話なのである。
「無いのならいいのよ。そうね……じゃがいもの冷たいスープをもらおうかしら」
この状況を変えるために、彼女は別のものを注文して終わりにしようと考えた。
じゃがいもの冷たいスープにしたのは、たまたまメニューの表の中でそれが目に付い
たからである。
「は…はいっ、かしこまりました」
ウェイトレスは、そう言ってまた頭を下げ、そそくさと厨房の方へと戻って行った。
はあ……。
ウェイトレスが立ち去ったのを見届けた後、女性客――しふみは、こっそりとため息
をこぼした。
* * * * *
「ねえ、さっき何があったの?」
注文を取り次いだところで、食器を下げて戻ってきた同僚のウェイトレスが、こそこ
そと話しかけてくる。
無駄話をしていると店長に睨まれるので、ウェイトレス達は、話をしたい時は片付け
などを装って、さりげなく近付いて話すという風にしているのだ。
「なんだか『アブラアゲ』とかいう物を使った料理はないか、って聞かれたのよ」
「アブラアゲ?」
「知ってる?」
尋ねられ、同僚は眉をしかめ――ふと、何かを思い出したように眉間を広げた。
「ああ、油揚げね。見たことはないけど……聞いたことはあるわ。なんでも、東にあ
る国の食べ物らしいわよ。豆で作るんですって」
「東っていうとー……カフールあたり?」
豆で作る、と聞いたウェイトレスは、豆を揚げたものを想像していた。
「うーん、どうだったかなぁ」
実物を知らない以上、詳しい説明などできようはずもない。
「でも、そんなものを注文するなんて、この辺の人じゃなさそうよね。着てる服もな
んか変だし」
ちらり、と先ほどの客に視線を送り、ウェイトレスは少々失礼なことを呟いた。
「まあね。さ、それよりも仕事に戻りましょ」
ぽん、と肩を軽く叩き、同僚は別のテーブルへと注文を取りに向かう。
会話はそこで終了となり、残されたウェイトレスも仕事へと戻っていった。
場所:どこかの食堂
NPC:ウェイトレス・その他のお客さん達
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その日は、朝から不快な天候だった。
気温そのものは高くないのだが、風がない上にじとりと湿った空気が肌にからみつ
き、何か行動を起こすたびに不快度指数が跳ね上がるのだ。
平素に比べ、ややイライラしやすい環境とも言えた。
町の中心部を通る、大通りに面した場所にある大衆食堂。
少しでも涼を取るためか、窓という窓は全て全開の状態である。
客の大半は、汗をかくのを嫌がって、冷たい料理を注文していた。
――そんな中で。
「……は?」
食堂のウェイトレスが、盆を抱えたまま、困惑した表情を浮かべて首を傾げる。
普通、接客業を生業とする者は、いついかなる時でも笑顔で応対するようにとしつけ
られている。
働き始めてまだ間も無いうちは、なかなか上手くいかない場合も多かったりするのだ
が。
しかしこのウェイトレスは、この店で働き出してから実に三年以上にもなるのだ。
それが困惑した表情を浮かべたのだから、相当なことに出くわしたのだと容易に想像
がつくだろう。
「あら、ここにもないのね」
ウェイトレスを困惑させた張本人たる客は、さして気にした風でもなく呟いた。
白い着物に赤い袴を履いた、赤い長髪の女性である。
彼女の衣服は、ウェイトレスの目にはただの「奇抜な服」と映った。
センスの問題ではなく、そんな衣服を今まで見たことがなかったからである。
「ご注文に添えられなくて、大変申し訳ありませんっ」
ウェイトレスは、少し慌てた様子で頭を下げる。
女性客は、ぱたりとメニューの表をテーブルに置いた。
不満げだとか、怒っているだとか、そんな雰囲気ではない。
(まるでクレームをつけた客みたいね、これじゃ)
周囲の客がちらちらとこちらを気にするので、彼女はそんなことを考えていた。
アレがあれば是非食べたかったのだが、ないのならきっぱりとあきらめる聞き分けの
良さはある。
メニューに見当たらなかったので、聞いてみただけの話なのである。
「無いのならいいのよ。そうね……じゃがいもの冷たいスープをもらおうかしら」
この状況を変えるために、彼女は別のものを注文して終わりにしようと考えた。
じゃがいもの冷たいスープにしたのは、たまたまメニューの表の中でそれが目に付い
たからである。
「は…はいっ、かしこまりました」
ウェイトレスは、そう言ってまた頭を下げ、そそくさと厨房の方へと戻って行った。
はあ……。
ウェイトレスが立ち去ったのを見届けた後、女性客――しふみは、こっそりとため息
をこぼした。
* * * * *
「ねえ、さっき何があったの?」
注文を取り次いだところで、食器を下げて戻ってきた同僚のウェイトレスが、こそこ
そと話しかけてくる。
無駄話をしていると店長に睨まれるので、ウェイトレス達は、話をしたい時は片付け
などを装って、さりげなく近付いて話すという風にしているのだ。
「なんだか『アブラアゲ』とかいう物を使った料理はないか、って聞かれたのよ」
「アブラアゲ?」
「知ってる?」
尋ねられ、同僚は眉をしかめ――ふと、何かを思い出したように眉間を広げた。
「ああ、油揚げね。見たことはないけど……聞いたことはあるわ。なんでも、東にあ
る国の食べ物らしいわよ。豆で作るんですって」
「東っていうとー……カフールあたり?」
豆で作る、と聞いたウェイトレスは、豆を揚げたものを想像していた。
「うーん、どうだったかなぁ」
実物を知らない以上、詳しい説明などできようはずもない。
「でも、そんなものを注文するなんて、この辺の人じゃなさそうよね。着てる服もな
んか変だし」
ちらり、と先ほどの客に視線を送り、ウェイトレスは少々失礼なことを呟いた。
「まあね。さ、それよりも仕事に戻りましょ」
ぽん、と肩を軽く叩き、同僚は別のテーブルへと注文を取りに向かう。
会話はそこで終了となり、残されたウェイトレスも仕事へと戻っていった。
第一話『異食なお客様達』
PC:ベアトリーチェ、ルフト
場所:どこかの街
--------------------------------------------------------------------------------
――暑い。
ベアとルフトの二人はある街の中央通りを歩いていた。気温そのものはそんなに高くないのだが、風がなく高湿度のじっとりとした空気が辺り一面を覆っていて、実際の温度よりもはるかに暑いように感じさせる。
――まったく、どうしてこんなに蒸し暑いのですかね。
ルフトが生まれ育ったオフィ砂漠ではあり得ない気候。あそこはいつでももっとカラっとしている。住んでいた当時はもっと水気があればいいとよく思ったものだが、その結果がこれではちょっとどころかかなりいただけない。
二人がこの街に訪れたのは、ある賞金首の情報を得たからだ。最近出るという、小さい女の子を狙う連続殺人鬼。被害もそれなりに出ていて、掛けられている賞金もそれなりに多い。それなりに腕もあるらしく、「いままでに挑んだハンター達はみな帰らぬ人になってしまったので、くれぐれも気を付けてくださいね」と情報を二人に渡した担当の人は言っていた。
必要な情報や賞金額の確認などを終えると、既に太陽は天頂から傾きゆっくりと下りはじめていた。とりあえず食事を摂ろうと、近くの食堂にはいる。昼食時を外して人が減り始めたので特に待たされる事もなく席に案内された。
「ご注文はお決まりですか?」
「あたしはこのサンドイッチのセットをお願い」
「私はカレーを……できれば、ご飯の代わりにナンをお願いできませんか?」
「はい、サンドイッチのセットとカレーですね。……ええと、申し訳ございません。もう一度おっしゃっていただけますか?」
この道三年を超え、そろそろベテランの域に入ってきたと最近自覚もでてきたウェイトレスだが、この日一日だけでその自信を喪失しそうになっていた。
――なんで今日はこんな良く分からない注文するお客さんが多いんだろう。
「ご飯の代わりにナンを、とお願いしたのですが、やっぱりいいです。普通にご飯でお願いします」
不思議そうな表情をするウェイトレスにこちらの方ではそういうモノを食べる風習はないと気づき、ルフトは慌てて注文を打ち消す。
「はい、確認させていただきます。サンドイッチのセットとカレーですね?少々お待ち下さい……」
「また何かあったの?」
厨房にて、店長の眼を盗んで行われる雑談。とはいっても狭い厨房の事、店長も当然気づいてはいるのだがあまり仕事に支障が出ない分には黙認することにしていた。締めるところはしっかり締めるが、ソレ以外には寛容に。それが、長年この店を生き残らせ続ける秘訣の一つなのだ。
「そうなのよ。今度はカレーのご飯の代わりに『ナン』っていうのを頼まれてね」
「『ナン』?……ご飯の代わり……ああ」
閃いた、というようにポンと手を打つ。
「知ってるんだ?」
「うん、西の……オフィ砂漠の辺りの民族料理だったかな?パンなんだけど平べったくてね。カレーにつけて食べたりするらしいよ」
なるほどねー、と言う間にサンドイッチとカレーの用意ができ、それを客の下へと運ぶ。言われて見れば、全身を覆っている怪しい格好にもそういう砂漠の民族っぽい雰囲気を感じる事ができる。
再び厨房に戻る途中、どうやって食べるのかが気になって振り返ってみると、顔を覆う布の下からスプーンを口に運ぶ姿と、「もういっそソレとっちゃいなさいよ」とツレの女の子が言うのが聞こえた。そして、新しく入って来たお客に「いらっしゃいませー」と営業スマイルを振りまいているうちに、彼女はそんな些細な事は忘れてしまった。
◆◇★☆†◇◆☆★
暗い部屋の中で、はぁはぁという荒い息遣いだけがよく響く。淀んだ空気は生臭さと微かな鉄の臭いで満たされていた。その部屋の主である男は街で手に入れた芸術品を大切に机の上に横たえると、彼はそれを更なる芸術へと昇華させるべく包丁を手にとった。本当はもっといい道具を用意したかったのだが、貧乏な彼には精々日用品である包丁が精一杯だ。余計な傷をつけないように、細心の注意と共に刃を引く。生暖かい液体が刃を濡らす感触に、男は軽く舌打ちをした。もう全部出し切ったと思ったのに。最初の2、3個くらいは上手に分ける事もできなかったが、回数を重ねたお陰でそれも大分上達した。無理をしないで継ぎ目を狙い、てこの原理で引き剥がし、体重で押し切ればいい。いままでダメにしてしまった芸術品のためにも、今度こそ上手にやらなくては。
続いて、中心に一本、包丁で線を引く。中に手を入れると、柔らかい感触が彼の手をつつんだ。しばらく楽しんでから、ゆっくりと線を左右に広げて行く。ここに至って男は初めて手元のカンテラに明りを灯した。揺れる光源に照らし出された桃色の領域を息を潜めてじっと見つめる。しばらくすると、赤黒い何かがじわじわとにじみでてきた。――なんていうことだ、間違えて傷をつけてしまったのか。
男はそれっきり机の上の壊れてしまった芸術品には興味をなくし、また新しいモノを手にいれるべく夜の街へとくりだした。
PC:ベアトリーチェ、ルフト
場所:どこかの街
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――暑い。
ベアとルフトの二人はある街の中央通りを歩いていた。気温そのものはそんなに高くないのだが、風がなく高湿度のじっとりとした空気が辺り一面を覆っていて、実際の温度よりもはるかに暑いように感じさせる。
――まったく、どうしてこんなに蒸し暑いのですかね。
ルフトが生まれ育ったオフィ砂漠ではあり得ない気候。あそこはいつでももっとカラっとしている。住んでいた当時はもっと水気があればいいとよく思ったものだが、その結果がこれではちょっとどころかかなりいただけない。
二人がこの街に訪れたのは、ある賞金首の情報を得たからだ。最近出るという、小さい女の子を狙う連続殺人鬼。被害もそれなりに出ていて、掛けられている賞金もそれなりに多い。それなりに腕もあるらしく、「いままでに挑んだハンター達はみな帰らぬ人になってしまったので、くれぐれも気を付けてくださいね」と情報を二人に渡した担当の人は言っていた。
必要な情報や賞金額の確認などを終えると、既に太陽は天頂から傾きゆっくりと下りはじめていた。とりあえず食事を摂ろうと、近くの食堂にはいる。昼食時を外して人が減り始めたので特に待たされる事もなく席に案内された。
「ご注文はお決まりですか?」
「あたしはこのサンドイッチのセットをお願い」
「私はカレーを……できれば、ご飯の代わりにナンをお願いできませんか?」
「はい、サンドイッチのセットとカレーですね。……ええと、申し訳ございません。もう一度おっしゃっていただけますか?」
この道三年を超え、そろそろベテランの域に入ってきたと最近自覚もでてきたウェイトレスだが、この日一日だけでその自信を喪失しそうになっていた。
――なんで今日はこんな良く分からない注文するお客さんが多いんだろう。
「ご飯の代わりにナンを、とお願いしたのですが、やっぱりいいです。普通にご飯でお願いします」
不思議そうな表情をするウェイトレスにこちらの方ではそういうモノを食べる風習はないと気づき、ルフトは慌てて注文を打ち消す。
「はい、確認させていただきます。サンドイッチのセットとカレーですね?少々お待ち下さい……」
「また何かあったの?」
厨房にて、店長の眼を盗んで行われる雑談。とはいっても狭い厨房の事、店長も当然気づいてはいるのだがあまり仕事に支障が出ない分には黙認することにしていた。締めるところはしっかり締めるが、ソレ以外には寛容に。それが、長年この店を生き残らせ続ける秘訣の一つなのだ。
「そうなのよ。今度はカレーのご飯の代わりに『ナン』っていうのを頼まれてね」
「『ナン』?……ご飯の代わり……ああ」
閃いた、というようにポンと手を打つ。
「知ってるんだ?」
「うん、西の……オフィ砂漠の辺りの民族料理だったかな?パンなんだけど平べったくてね。カレーにつけて食べたりするらしいよ」
なるほどねー、と言う間にサンドイッチとカレーの用意ができ、それを客の下へと運ぶ。言われて見れば、全身を覆っている怪しい格好にもそういう砂漠の民族っぽい雰囲気を感じる事ができる。
再び厨房に戻る途中、どうやって食べるのかが気になって振り返ってみると、顔を覆う布の下からスプーンを口に運ぶ姿と、「もういっそソレとっちゃいなさいよ」とツレの女の子が言うのが聞こえた。そして、新しく入って来たお客に「いらっしゃいませー」と営業スマイルを振りまいているうちに、彼女はそんな些細な事は忘れてしまった。
◆◇★☆†◇◆☆★
暗い部屋の中で、はぁはぁという荒い息遣いだけがよく響く。淀んだ空気は生臭さと微かな鉄の臭いで満たされていた。その部屋の主である男は街で手に入れた芸術品を大切に机の上に横たえると、彼はそれを更なる芸術へと昇華させるべく包丁を手にとった。本当はもっといい道具を用意したかったのだが、貧乏な彼には精々日用品である包丁が精一杯だ。余計な傷をつけないように、細心の注意と共に刃を引く。生暖かい液体が刃を濡らす感触に、男は軽く舌打ちをした。もう全部出し切ったと思ったのに。最初の2、3個くらいは上手に分ける事もできなかったが、回数を重ねたお陰でそれも大分上達した。無理をしないで継ぎ目を狙い、てこの原理で引き剥がし、体重で押し切ればいい。いままでダメにしてしまった芸術品のためにも、今度こそ上手にやらなくては。
続いて、中心に一本、包丁で線を引く。中に手を入れると、柔らかい感触が彼の手をつつんだ。しばらく楽しんでから、ゆっくりと線を左右に広げて行く。ここに至って男は初めて手元のカンテラに明りを灯した。揺れる光源に照らし出された桃色の領域を息を潜めてじっと見つめる。しばらくすると、赤黒い何かがじわじわとにじみでてきた。――なんていうことだ、間違えて傷をつけてしまったのか。
男はそれっきり机の上の壊れてしまった芸術品には興味をなくし、また新しいモノを手にいれるべく夜の街へとくりだした。
第二話『夜を覆う者』
キャスト:ルフト・ベアトリーチェ・(しふみ)
NPC:ブルフ
場所:ゾミン
――――――――――――――――
人気のない食堂はしかし静まっているというわけでもなく、昼相応の
騒々しさに包まれている。
「ナイトストール(夜を覆う者)、か。女々しい名前をつけられたもんだわね」
ベアトリーチェはパンの歯ざわりを感じながら、賞金首の情報が記された
報告書に再度目を通した。
犯人――『ナイトストール』の手口はいつも決まっているようだ。
幼い少女を狙って誘拐し、そのうちの誰一人として生きて帰った者はいないという。
ただし遺体は、必ずゴミ袋に入れられた状態でこの街のどこかで発見されている。
そして発見されるたびに、賞金額はあがっていっている。
「恐ろしい実力の持ち主なんでしょうね。早く捕まえないと」
相槌をうつ、目の前の巨体に彼女は一瞥をくれた。
この暑いというのにすっぽり頭巾をかぶり、あまつさえごく限られた者しか知りようのない
料理の名まで出して、この犬は目立ちたいのかそうでないのかわからない。
まぁ天然とは、そういうものなのだろう。
「狩るわよ。必ず」
ベアトリーチェは重みのない声音でそう言うと、ウェイトレスを呼び止め、追加オーダーで
クリームソーダを注文した。
肉――この蒸し暑い中でどのように保存されていたかわかったものではないが、特に
不安さを感じさせないほどその味はいい――と野菜が詰まったサンドイッチの端を
くわえて、報告書を前にしばし黙る。
ハンターの報告――というより体のほとんどを無くしたショックで、錯乱して出た
たわごとを鵜呑みにするならば、犯人は外套を身に纏っているらしい。
報告書は、そんな命を落としたハンター達の遺言書と言っても差し支えない。
だが半死人にろくな証言ができるわけでもなく、ハンター達はひとこと、ふたこと
たわごとを遺して死んだのだ。
つと、ルフトを盗み見る。彼はカレーの味が気に入ったのか、子供のようにスプーンを
進めていた。
(今ここに警邏隊がなだれ込んできて、こいつをしょっぴいてっても不思議はないわね)
苦笑すると、ルフトははたと手を止めて、テーブルの奥から紙ナプキンを取った。
頭巾の中にそれが手品のように消える。口を拭いているのだ。
「しかし検討がつきませんね。ハンター達が犯人に遭遇した場所はばらばらだし、
死体発見場所も決まっていないようですし…待ち伏せしようにも
人相がわからない事には」
「でも待ち伏せがてっとり早いかもよ?ここは夜間外出禁止令が適用されてるし。
ギルドからの依頼だって証明すれば、夜警にも協力を仰げるんじゃないかしら」
くわえたままだったサンドイッチをようやく齧る。ルフトはとっくにカレーを平らげていた。
「待ち伏せするのも面倒だから、おびき寄せるってのもありよね」
「おびき寄せる?」
クリームソーダを運んできたウェイトレスが、首を傾げているルフトの皿を下げていく。
ベアトリーチェはにっこり笑ってストローに口をつけた。
「あたしみたいな可愛い子、犯罪者じゃなくてもほっとかないわよね?」
「ベア」
「なによー、不満?」
「いや、そうじゃなくて、さっきから視線を感じるのですが」
「そりゃあんたは不審が服着て歩いているみたいなもんだからしょうがないけど」
とは言ってみたものの、ベアトリーチェはさっと店内を見渡した。
ルフトの五感に嘘はない。彼が感じるというのなら、確かにそうなのだろう。
「危険なの?」
「いえ。しかし隙がありません。どうしますか?」
「出ましょう」
クリームソーダの上に浮いているアイスだけを食べてしまうと、ベアトリーチェは
立ち上がった。
キャスト:ルフト・ベアトリーチェ・(しふみ)
NPC:ブルフ
場所:ゾミン
――――――――――――――――
人気のない食堂はしかし静まっているというわけでもなく、昼相応の
騒々しさに包まれている。
「ナイトストール(夜を覆う者)、か。女々しい名前をつけられたもんだわね」
ベアトリーチェはパンの歯ざわりを感じながら、賞金首の情報が記された
報告書に再度目を通した。
犯人――『ナイトストール』の手口はいつも決まっているようだ。
幼い少女を狙って誘拐し、そのうちの誰一人として生きて帰った者はいないという。
ただし遺体は、必ずゴミ袋に入れられた状態でこの街のどこかで発見されている。
そして発見されるたびに、賞金額はあがっていっている。
「恐ろしい実力の持ち主なんでしょうね。早く捕まえないと」
相槌をうつ、目の前の巨体に彼女は一瞥をくれた。
この暑いというのにすっぽり頭巾をかぶり、あまつさえごく限られた者しか知りようのない
料理の名まで出して、この犬は目立ちたいのかそうでないのかわからない。
まぁ天然とは、そういうものなのだろう。
「狩るわよ。必ず」
ベアトリーチェは重みのない声音でそう言うと、ウェイトレスを呼び止め、追加オーダーで
クリームソーダを注文した。
肉――この蒸し暑い中でどのように保存されていたかわかったものではないが、特に
不安さを感じさせないほどその味はいい――と野菜が詰まったサンドイッチの端を
くわえて、報告書を前にしばし黙る。
ハンターの報告――というより体のほとんどを無くしたショックで、錯乱して出た
たわごとを鵜呑みにするならば、犯人は外套を身に纏っているらしい。
報告書は、そんな命を落としたハンター達の遺言書と言っても差し支えない。
だが半死人にろくな証言ができるわけでもなく、ハンター達はひとこと、ふたこと
たわごとを遺して死んだのだ。
つと、ルフトを盗み見る。彼はカレーの味が気に入ったのか、子供のようにスプーンを
進めていた。
(今ここに警邏隊がなだれ込んできて、こいつをしょっぴいてっても不思議はないわね)
苦笑すると、ルフトははたと手を止めて、テーブルの奥から紙ナプキンを取った。
頭巾の中にそれが手品のように消える。口を拭いているのだ。
「しかし検討がつきませんね。ハンター達が犯人に遭遇した場所はばらばらだし、
死体発見場所も決まっていないようですし…待ち伏せしようにも
人相がわからない事には」
「でも待ち伏せがてっとり早いかもよ?ここは夜間外出禁止令が適用されてるし。
ギルドからの依頼だって証明すれば、夜警にも協力を仰げるんじゃないかしら」
くわえたままだったサンドイッチをようやく齧る。ルフトはとっくにカレーを平らげていた。
「待ち伏せするのも面倒だから、おびき寄せるってのもありよね」
「おびき寄せる?」
クリームソーダを運んできたウェイトレスが、首を傾げているルフトの皿を下げていく。
ベアトリーチェはにっこり笑ってストローに口をつけた。
「あたしみたいな可愛い子、犯罪者じゃなくてもほっとかないわよね?」
「ベア」
「なによー、不満?」
「いや、そうじゃなくて、さっきから視線を感じるのですが」
「そりゃあんたは不審が服着て歩いているみたいなもんだからしょうがないけど」
とは言ってみたものの、ベアトリーチェはさっと店内を見渡した。
ルフトの五感に嘘はない。彼が感じるというのなら、確かにそうなのだろう。
「危険なの?」
「いえ。しかし隙がありません。どうしますか?」
「出ましょう」
クリームソーダの上に浮いているアイスだけを食べてしまうと、ベアトリーチェは
立ち上がった。
第三話「気まぐれ狐」
PC:ルフト ベアトリーチェ しふみ
場所:ゾミン
NPC:ブルフ ウェイトレス 変態さん
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しふみは特に考え事もせず、運ばれてきたじゃがいもの冷製スープを黙々とスプーン
で口に運んでいた。
「ウェイトレスさん、お勘定をお願いします」
男性の声が上がる。
ざわざわとした店内の空気の中に掻き消えていきそうな、ありふれた言葉だった。
「はい」と返事をして小走りに向かったのは、先ほどしふみの「油揚げ」発言に戸惑
いをみせたウェイトレスである。
なんとなく、ウェイトレスの向かったテーブルに視線を向けてみると、一組の男女の
姿があった。
赤毛の、まだ「幼い」とさえ表現できそうな年齢の少女と、一際目立つ巨体の……
男、と判別できる、頭にずっぽりと頭巾をかぶった人物。
ウェイトレスに声をかけたのは、こちらの巨体の男だったのだろう。
……む。
赤毛の少女を見たしふみの脳裏に、何かが引っかかった。
……はて。
スプーンを運ぶ手を止めて、しふみは引っかかった何かを探ってみる。
……あの小娘、見たことがあるようなないような。
さらに思考を煮詰めてみる。
……あぁ、違う。あの小娘に似た雰囲気の奴がいたのだ、大昔。
それから、その『あの小娘に似た雰囲気の奴』の顔を思い出し、ふと懐かしさを感じ
て遠くを見つめたい衝動に狩られた。
その時、だった。
肌が、ぞわり、と粟立つような寒気を覚えたのは。
風邪をひいた時の寒気とは違う、嫌悪感からくるものである。
嫌悪感を抱かせるものの気配を探ってみると、それは斜め後ろのテーブルから感じる
ものだった。
テーブルの上には水の入ったグラスが一つ置かれているだけで、注文をした形跡はな
い。
グラスの水にも手をつけている様子はない。
その視線の先には――赤毛の少女がいた。
男の濁った目は少女を見つめたままで、他のことには一切意識を傾けていない様子で
ある。
まるで、視線で捕らえようとしているのではないかというぐらいに、その目はピタリ
と少女をつけていた。
助ける義理があるかと聞かれれば、否、と答える。
ならば何故、と尋ねられたらこう答えるしかあるまい。
『ただの気まぐれ』と。
しふみは、その変態男の頭に向けてスプーンを投げつけた。
コツン、と音を立て、スプーンは見事に男のこめかみに当たり、跳ね返って床に落ち
た。
少女以外のことは眼中にない男でも、さすがにこれには意識をかき乱されたらしい。
その濁った目を、いきなりこちらに向けてきた。
その目は、彼にとっての不当な闖入者に『邪魔をするな』と雄弁に語っている。
「はぁい?」
しふみは、神経を逆撫でせんばかりに、にこりと笑みを浮かべて小さく手を振った。
PC:ルフト ベアトリーチェ しふみ
場所:ゾミン
NPC:ブルフ ウェイトレス 変態さん
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しふみは特に考え事もせず、運ばれてきたじゃがいもの冷製スープを黙々とスプーン
で口に運んでいた。
「ウェイトレスさん、お勘定をお願いします」
男性の声が上がる。
ざわざわとした店内の空気の中に掻き消えていきそうな、ありふれた言葉だった。
「はい」と返事をして小走りに向かったのは、先ほどしふみの「油揚げ」発言に戸惑
いをみせたウェイトレスである。
なんとなく、ウェイトレスの向かったテーブルに視線を向けてみると、一組の男女の
姿があった。
赤毛の、まだ「幼い」とさえ表現できそうな年齢の少女と、一際目立つ巨体の……
男、と判別できる、頭にずっぽりと頭巾をかぶった人物。
ウェイトレスに声をかけたのは、こちらの巨体の男だったのだろう。
……む。
赤毛の少女を見たしふみの脳裏に、何かが引っかかった。
……はて。
スプーンを運ぶ手を止めて、しふみは引っかかった何かを探ってみる。
……あの小娘、見たことがあるようなないような。
さらに思考を煮詰めてみる。
……あぁ、違う。あの小娘に似た雰囲気の奴がいたのだ、大昔。
それから、その『あの小娘に似た雰囲気の奴』の顔を思い出し、ふと懐かしさを感じ
て遠くを見つめたい衝動に狩られた。
その時、だった。
肌が、ぞわり、と粟立つような寒気を覚えたのは。
風邪をひいた時の寒気とは違う、嫌悪感からくるものである。
嫌悪感を抱かせるものの気配を探ってみると、それは斜め後ろのテーブルから感じる
ものだった。
テーブルの上には水の入ったグラスが一つ置かれているだけで、注文をした形跡はな
い。
グラスの水にも手をつけている様子はない。
その視線の先には――赤毛の少女がいた。
男の濁った目は少女を見つめたままで、他のことには一切意識を傾けていない様子で
ある。
まるで、視線で捕らえようとしているのではないかというぐらいに、その目はピタリ
と少女をつけていた。
助ける義理があるかと聞かれれば、否、と答える。
ならば何故、と尋ねられたらこう答えるしかあるまい。
『ただの気まぐれ』と。
しふみは、その変態男の頭に向けてスプーンを投げつけた。
コツン、と音を立て、スプーンは見事に男のこめかみに当たり、跳ね返って床に落ち
た。
少女以外のことは眼中にない男でも、さすがにこれには意識をかき乱されたらしい。
その濁った目を、いきなりこちらに向けてきた。
その目は、彼にとっての不当な闖入者に『邪魔をするな』と雄弁に語っている。
「はぁい?」
しふみは、神経を逆撫でせんばかりに、にこりと笑みを浮かべて小さく手を振った。