人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン
------------------------------------------------------------------------
――マズいな、と、思うのは別に珍しいことではなかったが、それが下手をしたら命
に関わるかも知れない事態となると、そう珍しくないことではなかった。そんな物騒な
ことが日常茶飯事になるような人生は嫌だと常々思っている。
全力疾走。
息は切れない。疲れもしない。ただ走るという動作を継続させながらライは背後を振
り向いて、追跡者がまだ諦めていないことを確かめた。
駆け抜ける町並み、空はどこまでも青く青く。
ざわめきを突っ切って、行き交う人々の間を走る。
油断していたのが原因といえばそうなのだろう。あの手配書のことを忘れていたのだ。
遠くへ着たから大丈夫だと、無意識に安心してしまっていたのが問題なのかも知れない
し、今まで何か対策をしてきたかといえば、足跡を辿ろうと思えば簡単に辿れてしまう
程度には人前に現れている。
それともそんなことには関係なく、町中でモンスターを見かけたから追い掛け回して
いるのか。
「いい加減にしろ!」
そっちこそ。
後ろから聞こえた怒鳴り声は多分に疲労を含んでいた。このままなら逃げ切れるだろ
う。いや、だったら今すぐに姿を消してしまえばいいじゃないか――どうしてそうしな
いんだ?
買い物ぶくろを抱えたおばさんに突っ込んで、抵抗なく通り過ぎながらライは自問し
た。答えはすぐに返ってくる。消えてるじゃないか。誰にも僕は触れないし、見えない
はずだ。
――じゃあなんであいつは追っかけてくるんだよ!
もういちど振り返ると、追手がおばさんにぶつかって睨まれているのが見えた。おば
さんに捕まえられるよりも早くその手をすり抜けて追ってくる。第三者から見たら、そ
うとう変な人だろう。
若くはないが、まだ若い。二十五か、三十か。年上の老若を判断するのは難しい。丈
夫そうな革のジャケット、腰に長剣、頑丈なブーツ。冒険者か賞金稼ぎか。
一瞬、合わないはずの目が合った――虹彩の細い紫瞳にぞくりとする。魔眼という物
騒この上ない言葉を思いつき、本格的に恐慌状態になるよりも早く否定。
魔眼なんて滅多にない。おとぎ話か何かの。では何故追ってこれる?
あっちも人間じゃないとしたら? 亜人と認められる種族は多い。人に似ているもの、
人の血を引いているもの。神さまやら竜やら魔族やらが人にまぎれていることもあると
いう噂からすれば、自分はまだ大人しい方だろう。
違う、そんなこと考えてたんじゃない。
追ってくる男――人にぶつかったり、その拍子に荷物をぶちまけて怒られたり、ひそ
ひそ話されたり、白い目で見られまくっていたりして、ちょっと泣きそうになりながら
もしつこく追いかけてくる男が何者かというのが問題だ。普通の人ならそろそろ諦めて
いてもおかしくないのに。
その前に、なんでこっちが見えるの? 人間じゃないから? なら仕方ないやハハハ。
差別論って便利だ。
それにしても、昔は追いかけっこは得意だったのに、相手から見られているというだ
けでこれだけ不安になるのは何故だろう。普通、そんなことは当たり前なのに。
初めての町で逃げ回ったことも追いかけ回したこともある。確か、そのときは……
……
…………うわぁ、馬鹿らしい。
考える必要がないのに気がついた。
ライは近くの建物の壁をすり抜けて通りから逃げた。
残念そうな叫び声が聞こえた。
いい気味だ。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
細い路地に出た途端、剣を突きつけられた。
さっきの男がにやにやしながら見ている。やっぱり嫌な眼だ。自信に溢れて、意地の
悪げな、今すぐにでも潰してやりたいと思うような、目。
「普通、裏から出てくるよな、こういう場合」
ライはなんとも答えられずに――とりあえず、実体を現すことにした。
まさか捕まえる手段もなしに追ってきているとは考えられない。相手からだけ手を出
せる状況は避けておきたかった。
「馬鹿のフリして追いかけた甲斐があるってもんだ」
「……何の用?」
「人間のマネがお上手なことで」
「ケッコー疲れるから手短にお願いできるかな」
悪意のある相手には毒々しい返事。友好的にしてやる必要なんかあるものか。
話をする気があるということは、少なくとも、理由もなく追いかけてきたのではなさ
そうだ。
手配書の内容を思い出す。大丈夫だ、賞金は“生存に限り”支払われる。致命的なこ
とにはなっても、直接殺されることはない……と、信じたい。
「……テメェだな、セラフィナ皇女をさらったの」
思考を切り替える。楽観的な思いを振り払う。表情に出ないように注意しながら、ラ
イは男を観察した。さっき追ってきたときと雰囲気は変わらない。がっしりとした体格、
短い砂色の髪。肉食動物のような、という比喩が、的確ではないが間違ってもいない。
「魔物を連れてたっていうヤツもいれば、茶髪の優男が一緒だってほざくヤツもいた。
最初は情報が混乱してるのかと思ったが……ちょっと記憶にひっかかって手配書の束
をあさってみたら、思ったとおり、条件にぴったりのにーちゃんがいるだろ?
あんなテロ起こすなんて大物だ。皇女サマが今にも危険にさらされてるかも知れない
ってことで、オレたちは調査だけじゃなくて捕縛も引き受けたのさ」
説明下手なのか詳しいことを教える気がないのか、話の内容がよく読み取れない。非
常に好ましくない内容だ、ということだけはよくわかるのだが。
無駄だと思いながら問い返す。
「……ちょっと待って、さらったって何?」
「故国から忽然と姿を消したお姫さまを探し出してくれ、というのがオレたちの受けた
依頼さ。いつも一緒にいるはずのお目付け役も戻らない。これは、お姫さまが何者かの
手に落ち、謀略のために利用されようとしているに違いない――」
オレたち、ということは複数だ。
それから内容を反芻する。お目付け役? 船の上で聞いた、黒髪の剣士か。
で、今の状況は? とてもヤバいということしかわからない。恐れていた事態でもあ
る。知らない国の騒動に巻き込まれた。冗談じゃない。
「違う! セラフィナさんに聞けばわかる。
さらってなんかない」
男は剣の切っ先をさらに近づけた。喉元。
チリチリと鳥肌が立つような感覚で、魔剣と知れる。
「……世間知らずのお姫さまだ。うまく言いくるめられたに決まってる」
「そんな無茶な――!」
「実際はどうだろうと、そういうことになるっつってんだよ。
お姫さまは連れ戻されて、政治の道具に戻るんだ」
ふざけるな。
「生憎と競争相手がいてな、テメェに構ってる時間はないんだ。
ここの領主が魔法使いと手ェ組んで、お姫さまを狙ってんだよ。その賞金は惜しいが、
もっと魅力的な金額を約束されてるんでね。生け捕りなんて面倒な手間はかけない」
男を睨む。
遠い路地からざわめき。気が散ってイライラする。
悟られぬように注意しながら、必死に逃げ切る方法を探す。壁の向こうへ逃れるのと
剣が届くのと、どちらが早い? こいつの気を逸らすにはどうすればいい?
「――バジル! どこだ!?」
激しい足音が聞こえた。男が思わず反応した隙に、ライは姿を消して背中から壁へ飛
び込んだ。
「お姫さんがさらわ――」
途中で声は壁に遮られたが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
セラフィナさんがさらわれた? ライは走り出した。
「――ってのに、お前はこんなところで何してんだ!」
バジリウスは舌打ちして相棒を振り返ったが、その言葉の内容を理解すると、余計な
時間を使わせた(彼が勝手に追っていたのだが)亡霊が消えた壁を睨みつけた。
連れ帰る際に邪魔になりそうだから先に片付けておこうと思ったのに、その隙をつい
て別クチに目的の皇女が奪われたとなると、もはや笑い話にもならない。
場所:港町ルクセン
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――マズいな、と、思うのは別に珍しいことではなかったが、それが下手をしたら命
に関わるかも知れない事態となると、そう珍しくないことではなかった。そんな物騒な
ことが日常茶飯事になるような人生は嫌だと常々思っている。
全力疾走。
息は切れない。疲れもしない。ただ走るという動作を継続させながらライは背後を振
り向いて、追跡者がまだ諦めていないことを確かめた。
駆け抜ける町並み、空はどこまでも青く青く。
ざわめきを突っ切って、行き交う人々の間を走る。
油断していたのが原因といえばそうなのだろう。あの手配書のことを忘れていたのだ。
遠くへ着たから大丈夫だと、無意識に安心してしまっていたのが問題なのかも知れない
し、今まで何か対策をしてきたかといえば、足跡を辿ろうと思えば簡単に辿れてしまう
程度には人前に現れている。
それともそんなことには関係なく、町中でモンスターを見かけたから追い掛け回して
いるのか。
「いい加減にしろ!」
そっちこそ。
後ろから聞こえた怒鳴り声は多分に疲労を含んでいた。このままなら逃げ切れるだろ
う。いや、だったら今すぐに姿を消してしまえばいいじゃないか――どうしてそうしな
いんだ?
買い物ぶくろを抱えたおばさんに突っ込んで、抵抗なく通り過ぎながらライは自問し
た。答えはすぐに返ってくる。消えてるじゃないか。誰にも僕は触れないし、見えない
はずだ。
――じゃあなんであいつは追っかけてくるんだよ!
もういちど振り返ると、追手がおばさんにぶつかって睨まれているのが見えた。おば
さんに捕まえられるよりも早くその手をすり抜けて追ってくる。第三者から見たら、そ
うとう変な人だろう。
若くはないが、まだ若い。二十五か、三十か。年上の老若を判断するのは難しい。丈
夫そうな革のジャケット、腰に長剣、頑丈なブーツ。冒険者か賞金稼ぎか。
一瞬、合わないはずの目が合った――虹彩の細い紫瞳にぞくりとする。魔眼という物
騒この上ない言葉を思いつき、本格的に恐慌状態になるよりも早く否定。
魔眼なんて滅多にない。おとぎ話か何かの。では何故追ってこれる?
あっちも人間じゃないとしたら? 亜人と認められる種族は多い。人に似ているもの、
人の血を引いているもの。神さまやら竜やら魔族やらが人にまぎれていることもあると
いう噂からすれば、自分はまだ大人しい方だろう。
違う、そんなこと考えてたんじゃない。
追ってくる男――人にぶつかったり、その拍子に荷物をぶちまけて怒られたり、ひそ
ひそ話されたり、白い目で見られまくっていたりして、ちょっと泣きそうになりながら
もしつこく追いかけてくる男が何者かというのが問題だ。普通の人ならそろそろ諦めて
いてもおかしくないのに。
その前に、なんでこっちが見えるの? 人間じゃないから? なら仕方ないやハハハ。
差別論って便利だ。
それにしても、昔は追いかけっこは得意だったのに、相手から見られているというだ
けでこれだけ不安になるのは何故だろう。普通、そんなことは当たり前なのに。
初めての町で逃げ回ったことも追いかけ回したこともある。確か、そのときは……
……
…………うわぁ、馬鹿らしい。
考える必要がないのに気がついた。
ライは近くの建物の壁をすり抜けて通りから逃げた。
残念そうな叫び声が聞こえた。
いい気味だ。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
細い路地に出た途端、剣を突きつけられた。
さっきの男がにやにやしながら見ている。やっぱり嫌な眼だ。自信に溢れて、意地の
悪げな、今すぐにでも潰してやりたいと思うような、目。
「普通、裏から出てくるよな、こういう場合」
ライはなんとも答えられずに――とりあえず、実体を現すことにした。
まさか捕まえる手段もなしに追ってきているとは考えられない。相手からだけ手を出
せる状況は避けておきたかった。
「馬鹿のフリして追いかけた甲斐があるってもんだ」
「……何の用?」
「人間のマネがお上手なことで」
「ケッコー疲れるから手短にお願いできるかな」
悪意のある相手には毒々しい返事。友好的にしてやる必要なんかあるものか。
話をする気があるということは、少なくとも、理由もなく追いかけてきたのではなさ
そうだ。
手配書の内容を思い出す。大丈夫だ、賞金は“生存に限り”支払われる。致命的なこ
とにはなっても、直接殺されることはない……と、信じたい。
「……テメェだな、セラフィナ皇女をさらったの」
思考を切り替える。楽観的な思いを振り払う。表情に出ないように注意しながら、ラ
イは男を観察した。さっき追ってきたときと雰囲気は変わらない。がっしりとした体格、
短い砂色の髪。肉食動物のような、という比喩が、的確ではないが間違ってもいない。
「魔物を連れてたっていうヤツもいれば、茶髪の優男が一緒だってほざくヤツもいた。
最初は情報が混乱してるのかと思ったが……ちょっと記憶にひっかかって手配書の束
をあさってみたら、思ったとおり、条件にぴったりのにーちゃんがいるだろ?
あんなテロ起こすなんて大物だ。皇女サマが今にも危険にさらされてるかも知れない
ってことで、オレたちは調査だけじゃなくて捕縛も引き受けたのさ」
説明下手なのか詳しいことを教える気がないのか、話の内容がよく読み取れない。非
常に好ましくない内容だ、ということだけはよくわかるのだが。
無駄だと思いながら問い返す。
「……ちょっと待って、さらったって何?」
「故国から忽然と姿を消したお姫さまを探し出してくれ、というのがオレたちの受けた
依頼さ。いつも一緒にいるはずのお目付け役も戻らない。これは、お姫さまが何者かの
手に落ち、謀略のために利用されようとしているに違いない――」
オレたち、ということは複数だ。
それから内容を反芻する。お目付け役? 船の上で聞いた、黒髪の剣士か。
で、今の状況は? とてもヤバいということしかわからない。恐れていた事態でもあ
る。知らない国の騒動に巻き込まれた。冗談じゃない。
「違う! セラフィナさんに聞けばわかる。
さらってなんかない」
男は剣の切っ先をさらに近づけた。喉元。
チリチリと鳥肌が立つような感覚で、魔剣と知れる。
「……世間知らずのお姫さまだ。うまく言いくるめられたに決まってる」
「そんな無茶な――!」
「実際はどうだろうと、そういうことになるっつってんだよ。
お姫さまは連れ戻されて、政治の道具に戻るんだ」
ふざけるな。
「生憎と競争相手がいてな、テメェに構ってる時間はないんだ。
ここの領主が魔法使いと手ェ組んで、お姫さまを狙ってんだよ。その賞金は惜しいが、
もっと魅力的な金額を約束されてるんでね。生け捕りなんて面倒な手間はかけない」
男を睨む。
遠い路地からざわめき。気が散ってイライラする。
悟られぬように注意しながら、必死に逃げ切る方法を探す。壁の向こうへ逃れるのと
剣が届くのと、どちらが早い? こいつの気を逸らすにはどうすればいい?
「――バジル! どこだ!?」
激しい足音が聞こえた。男が思わず反応した隙に、ライは姿を消して背中から壁へ飛
び込んだ。
「お姫さんがさらわ――」
途中で声は壁に遮られたが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
セラフィナさんがさらわれた? ライは走り出した。
「――ってのに、お前はこんなところで何してんだ!」
バジリウスは舌打ちして相棒を振り返ったが、その言葉の内容を理解すると、余計な
時間を使わせた(彼が勝手に追っていたのだが)亡霊が消えた壁を睨みつけた。
連れ帰る際に邪魔になりそうだから先に片付けておこうと思ったのに、その隙をつい
て別クチに目的の皇女が奪われたとなると、もはや笑い話にもならない。
PR
人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン
------------------------------------------------------------------------
「入れ」
セラフィナは後ろ手と足首を縛られ、猿轡を噛まされた状態で突き飛ばされた。
どこかの倉庫のような、飾り気のない埃っぽい部屋。思わず膝をつくが右脇腹の傷
に響いて眉根を寄せる。
かなり高い位置にある小さな窓の明かりが僅かに部屋を照らすものの、随分と薄暗
い室内だった。
「……抵抗は無駄ですよ」
部屋の隅から声がする。
目を凝らすと浮かび上がる人影。その影は静かに移動すると、セラフィナを部屋の
中央の椅子に座らせた。
「災難でしたね、何をしたんですか貴女」
声は女。年の頃は十代前半といったところか。
セラフィナは声をかけようとしたが猿轡では上手く言葉に出来ず、くぐもった、文
字に出来ないような音が漏れるだけだった。
「ああ、コレは失礼」
そういうと男はセラフィナの足下に何かを置いた。
「意志表示が出来ないのは何かと不便ですからね、イエスの時に一回蹴るといいです
よ。ノーは二回」
コン。響きがいい。何を置いたのかはわからないが、とりあえず聞き逃すことはな
いようだ。
「よろしい、鼓膜も無事のようで何より」
ようやく目が慣れてきたセラフィナが見たのは、目を閉じたままの少女。暗い色の
髪が腰の辺りまで真っ直ぐ伸びているが、暗いためか色の判別までは出来ない。
迷うことも戸惑うことも、何かにぶつかることもなくもう一脚の椅子をひくと、そ
の少女はセラフィナの前にちょこんと座った。
「詳しい事情は知りませんが、この部屋に押し込められたということは何か物騒なこ
とに関わったんですね?」
コンコン。
「おや、無自覚なようだ。まあ、原因が当人にない場合もありますけどね」
大人びた話し方をしているが目の前にいるのは体格からも声からも少女だと思わ
れ、セラフィナは困惑する。
「貴女が逃げたりしたら私の安全にも関わりますから、まあ、多少の不自由は我慢し
て下さい」
コンコン。
一方的に話を聞かされているということはどういうことか考えるまでもなかった。
こちらの言い分を聞く気がないということ。それでは逃げるチャンスなど得られな
い。
「ここにいるということがどういうことかお解りではないようだ」
ふぅと大袈裟な溜め息を付くと、少女は人差し指を立てて言った。
「貴女は『生かされて』いるんですよ。それ以上でもそれ以下でもない」
悔しかった。解りすぎていただけに。
今自分を殺そうと思えば、実行するのはとても簡単だろう。心臓一突きでも首の骨
を折るでも選り取りみどり。
だが、ソレをしないからには理由があって。その理由は、他ならない自分の社会的
立場で。
気を失う前に最後に見たあの男は、カフールの皇女と口にした。
身分を知っている。その上で何かに利用するつもりなのだ。
「手足を解いて暴れられても困るが、猿轡を解いて舌を噛まれても困るということで
す」
変装して、偽名を使って旅をするべきだったのだろうか。自分の迂闊さが恨めし
い。
遠い昔の名残で、カフールでは国内にいる間しか皇位継承権は認められないのだ
が、それは戦地での安否が不明な場合に継承が滞るということを理由にされている決
まり事だった。しかし、ソレを根拠に継承権を放棄したつもりでいた自分の愚かさに
気付く。
そう、今のままなら『国に戻り次第継承権が復活』してしまうをいう事実から目を
背けていたのだ。
「大人しいですね、反応もナシですか」
見覚えのない異国の服で、少女が首を傾げる。
「怖くなりましたか?」
コンコン。
「ふむ、ここにいる間は私が安全を保障できますからね。外に出たらどうなるかまで
は知りたくもないですが」
少女は天を仰いで、これ見よがしに溜め息を付いた。
ああ、彼にすべてを話しておけば良かった。それとも関わらなければ良かったの
か?
一人旅の間、随分と気を張っていたつもりだった。それなのに、優しい彼に甘えて
気を許しすぎたのかもしれない。
一人の寂しさを、心細さを、私は自覚してしまった。気を張っていた間には気付か
ないようにしていた感情に気付いてしまった。だから。
「……泣いているんですか?」
涙は零れない。泣き方なんて随分昔に忘れてしまったのだから。でも。
小刻みに肩が震え、目をきつく閉じ俯く。目頭が熱くなる。
「まあ、私も退屈していたところです。貴女次第で猿轡くらいは……」
コン。
「ははっ、面白い人ですね。いいでしょう、自ら命を絶つなんて許しませんからね、
絶対に」
最後の静かな一言に、逆毛が立つような威圧感を感じた。
恐らく自殺を図ったところで死ねはしないのだ。『生かされて』いる。それは他で
もない『目の前の彼女に』なのだと感じずにはいられなかった。
コン。
少し間が空いたものの、肯定の返事に少女は満足そうに頷いた。
「私のことは、まあレイアとでもお呼びなさい、セラフィナ」
予想外に名前を呼ばれ、セラフィナの表情が凍り付いた……。
さて。ここは港の倉庫街の一画。
目立ちすぎる豪華な馬車から『荷物』だけ受け取った男は、倉庫の入り口にもたれ
かかるようにして水タバコを吹かしていた。
「大事な取引材料、化け物のトコに放り込んでていいのかネェ?」
「いいんじゃない?」
返事をするのはお姉さんと呼ぶには苦しくなってきた年齢の女性。仕事中は一人に
ならないように組まされているのだろう、男の横で座り込んだまま爪を磨いている。
「そんなことより、首突っ込むのやめなよ。命いくつあっても足りないからさぁ」
腕を伸ばして満足そうに磨いた爪を眺めると、派手にカールさせた赤毛を邪魔そう
に掻き上げて立ち上がる。
「私らは客の『荷物』を預かる、それだけよ」
彼等は港の貸倉庫の管理人。稀に非合法なモノも扱い、僅かな小遣いを手に入れ
る。
それ以上を望んではイケナイ。それ以上を望まれてもイケナイ。
彼等だけの、それは暗黙のルールだった。
場所:港町ルクセン
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「入れ」
セラフィナは後ろ手と足首を縛られ、猿轡を噛まされた状態で突き飛ばされた。
どこかの倉庫のような、飾り気のない埃っぽい部屋。思わず膝をつくが右脇腹の傷
に響いて眉根を寄せる。
かなり高い位置にある小さな窓の明かりが僅かに部屋を照らすものの、随分と薄暗
い室内だった。
「……抵抗は無駄ですよ」
部屋の隅から声がする。
目を凝らすと浮かび上がる人影。その影は静かに移動すると、セラフィナを部屋の
中央の椅子に座らせた。
「災難でしたね、何をしたんですか貴女」
声は女。年の頃は十代前半といったところか。
セラフィナは声をかけようとしたが猿轡では上手く言葉に出来ず、くぐもった、文
字に出来ないような音が漏れるだけだった。
「ああ、コレは失礼」
そういうと男はセラフィナの足下に何かを置いた。
「意志表示が出来ないのは何かと不便ですからね、イエスの時に一回蹴るといいです
よ。ノーは二回」
コン。響きがいい。何を置いたのかはわからないが、とりあえず聞き逃すことはな
いようだ。
「よろしい、鼓膜も無事のようで何より」
ようやく目が慣れてきたセラフィナが見たのは、目を閉じたままの少女。暗い色の
髪が腰の辺りまで真っ直ぐ伸びているが、暗いためか色の判別までは出来ない。
迷うことも戸惑うことも、何かにぶつかることもなくもう一脚の椅子をひくと、そ
の少女はセラフィナの前にちょこんと座った。
「詳しい事情は知りませんが、この部屋に押し込められたということは何か物騒なこ
とに関わったんですね?」
コンコン。
「おや、無自覚なようだ。まあ、原因が当人にない場合もありますけどね」
大人びた話し方をしているが目の前にいるのは体格からも声からも少女だと思わ
れ、セラフィナは困惑する。
「貴女が逃げたりしたら私の安全にも関わりますから、まあ、多少の不自由は我慢し
て下さい」
コンコン。
一方的に話を聞かされているということはどういうことか考えるまでもなかった。
こちらの言い分を聞く気がないということ。それでは逃げるチャンスなど得られな
い。
「ここにいるということがどういうことかお解りではないようだ」
ふぅと大袈裟な溜め息を付くと、少女は人差し指を立てて言った。
「貴女は『生かされて』いるんですよ。それ以上でもそれ以下でもない」
悔しかった。解りすぎていただけに。
今自分を殺そうと思えば、実行するのはとても簡単だろう。心臓一突きでも首の骨
を折るでも選り取りみどり。
だが、ソレをしないからには理由があって。その理由は、他ならない自分の社会的
立場で。
気を失う前に最後に見たあの男は、カフールの皇女と口にした。
身分を知っている。その上で何かに利用するつもりなのだ。
「手足を解いて暴れられても困るが、猿轡を解いて舌を噛まれても困るということで
す」
変装して、偽名を使って旅をするべきだったのだろうか。自分の迂闊さが恨めし
い。
遠い昔の名残で、カフールでは国内にいる間しか皇位継承権は認められないのだ
が、それは戦地での安否が不明な場合に継承が滞るということを理由にされている決
まり事だった。しかし、ソレを根拠に継承権を放棄したつもりでいた自分の愚かさに
気付く。
そう、今のままなら『国に戻り次第継承権が復活』してしまうをいう事実から目を
背けていたのだ。
「大人しいですね、反応もナシですか」
見覚えのない異国の服で、少女が首を傾げる。
「怖くなりましたか?」
コンコン。
「ふむ、ここにいる間は私が安全を保障できますからね。外に出たらどうなるかまで
は知りたくもないですが」
少女は天を仰いで、これ見よがしに溜め息を付いた。
ああ、彼にすべてを話しておけば良かった。それとも関わらなければ良かったの
か?
一人旅の間、随分と気を張っていたつもりだった。それなのに、優しい彼に甘えて
気を許しすぎたのかもしれない。
一人の寂しさを、心細さを、私は自覚してしまった。気を張っていた間には気付か
ないようにしていた感情に気付いてしまった。だから。
「……泣いているんですか?」
涙は零れない。泣き方なんて随分昔に忘れてしまったのだから。でも。
小刻みに肩が震え、目をきつく閉じ俯く。目頭が熱くなる。
「まあ、私も退屈していたところです。貴女次第で猿轡くらいは……」
コン。
「ははっ、面白い人ですね。いいでしょう、自ら命を絶つなんて許しませんからね、
絶対に」
最後の静かな一言に、逆毛が立つような威圧感を感じた。
恐らく自殺を図ったところで死ねはしないのだ。『生かされて』いる。それは他で
もない『目の前の彼女に』なのだと感じずにはいられなかった。
コン。
少し間が空いたものの、肯定の返事に少女は満足そうに頷いた。
「私のことは、まあレイアとでもお呼びなさい、セラフィナ」
予想外に名前を呼ばれ、セラフィナの表情が凍り付いた……。
さて。ここは港の倉庫街の一画。
目立ちすぎる豪華な馬車から『荷物』だけ受け取った男は、倉庫の入り口にもたれ
かかるようにして水タバコを吹かしていた。
「大事な取引材料、化け物のトコに放り込んでていいのかネェ?」
「いいんじゃない?」
返事をするのはお姉さんと呼ぶには苦しくなってきた年齢の女性。仕事中は一人に
ならないように組まされているのだろう、男の横で座り込んだまま爪を磨いている。
「そんなことより、首突っ込むのやめなよ。命いくつあっても足りないからさぁ」
腕を伸ばして満足そうに磨いた爪を眺めると、派手にカールさせた赤毛を邪魔そう
に掻き上げて立ち上がる。
「私らは客の『荷物』を預かる、それだけよ」
彼等は港の貸倉庫の管理人。稀に非合法なモノも扱い、僅かな小遣いを手に入れ
る。
それ以上を望んではイケナイ。それ以上を望まれてもイケナイ。
彼等だけの、それは暗黙のルールだった。
人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン
------------------------------------------------------------------------
宿に戻ると、セラフィナの姿はなかった。
ベアトリスもまだ戻ってきていないらしく、話を聞くこともできない。
ここの領主が魔法使いと手ェ組んで、お姫さまを狙ってんだよ。
特別に優れているわけではない記憶力でも覚えていた。
町中を――意識して急がないように進みながら、ライは、さっきの男の言葉を反芻す
る。領主というのは町の偉い人のこと。その地位の人が実際に何をやっているのかは知
らないが、とりあえず、貴族の位にあることは確かだ。
領主がいるということは、国王の直轄地ではない。そもそもこの辺りは、どこの国に
属しているのだろう。旅をするなら普通は調べることだが、面倒くさいといえば面倒く
さい。
さて、その領主様とやらはどこにいるのだろう? 小さな村だったら、領民居住区か
ら少し離れた丘の上、教会と方角を異なって小さな屋敷か城でも建っているものだ。大
都市ならば、お偉いさんに会うためには町の中央へ向かって歩けばいい。
だから、この町のように中途半端な規模だと逆に困ってしまう。
扇形の町の頂点――港とは逆方向に歩き続けたのは、ただ単純に、そちらの方が土地
が高くなっていて、しかも高級住宅街らしき場所が見えるのと、市街地から離れた場所
へ向かうのも同じ方向だという理由からだった。町と野の境目はいびつな曲線のように
見える。城壁が続いているのが見えるが、あまり高くはないらしい。
この辺りには脅威が少ない証拠だ。
『壁が高くたって、入り込めるモンスターは入り込めるんだけどね……』
空を飛べる、だとか。
分厚い石壁を抜けられる、だとか。
或いは、人に化ける――
道に沿って歩き続けるうちに、周囲の様子は何度か変わった。薄暗さを感じない路地、
ざわめきに溢れる商店街、大きな屋敷が並ぶ住宅街。
停まっていた馬車の手入れをしていた若い御者に嘘をついて道を聞いた。
彼は少しだけ観察するようにこちらを見てから、「この町を治めるお方は、南にある
物見の塔から東の山中にお屋敷を構えていらっしゃいます」と教えてくれた。立ち振る
舞いも言葉遣いもどこか不自然だったから、あまり長く勤めているようには見えなかっ
た。しっかりと教育された使用人ならばもう少し怪しんで、別の反応をしただろう。
集中力を注ぎ込んだとはいえ、幻は、自分から見ても不自然だった。めまい。
急ぐなと自制しながら歩き続けて、ようやく町の端にたどり着いたときには、太陽の
位置が随分と変わっていた。セラフィナが誘拐されたという話を聞いたときみたいに、
走ればいいのに。そうしないのは何故かと自問してみても答えが見つからない。
焦るな、焦ると取り返しのつかないことになるぞと、警鐘じみた予感ばかりが胸の内
で澱重なって、どうしようもなく気分が悪い。忘れて久しい二日酔いのような。
目の前の塔を見上げる町と野を遮る壁から突き出した、石の塔。夕方、町の門が閉ざ
されるよりも少し早い時間になると、この塔の上に火が灯され、旅人たちの目印になる
のだ。そして外敵を発見し、門を閉ざして町を守るための場所でもある。
一階に兵士が数人たむろしていた。念のためにと塔の中を見て回ったが、セラフィナ
の姿はなかった。物見塔はもう一箇所あるが、見に行くには遠い。それならやはり、領
主に直接会いに行ったほうがいいだろう。
塔から壁を抜け、森の中を通る馬車道を、東と思われる方向へ延々と登り続ける。
単純作業を苦痛と感じない程度には、まだ落ち着いていられているようだった。
やがて古い石造りの城が見えてきた。黒ずんだ城壁に蔦が絡まっている。規模はそれ
ほど大きくないのに周囲の木々を圧倒するように、どっしりと横たわっている。
伯爵様だか男爵様だか知らないが――騎士ではあるだろうけど――、ずいぶんと酔狂
な人物らしい。これではまるで、おとぎ話によくある吸血鬼の城。
ライは深呼吸して(気分の話だ)門をくぐった。奇妙なほどにひと気がない。
古びた石は重厚な雰囲気。焼け跡のような斑は自然についたものだろうか。取り巻く
草や蔦は、日陰であるせいか黒ずんで見える。見張りとかはいないのだろうかときょろ
きょろと見渡すが、一箇所だけ開いた二階の窓に誰かの影が見える以外は誰の気配も感
じられなかった。
普通ならそんなことはないはずなのだが。ここは違う建物なのだろうか? しかし、
他にそれらしい場所は見当たらなかった。なにより、ここには誰かがいる。
例の窓を見上げて眺める。ちょうど正面だから中を窺えた。
窓の向こうの人物は窓辺で何かの作業をしているらしい。よくは見えないが、布のよ
うなものを持って。いや、違う。あれは網か――
――網? なんで?
足元にナイフが突き立った。ただのナイフだ。
反射的に動きかけ、自制する。その場に立ったまま、門を振り返る。
「さっきの兄ちゃんか」
知っているような知らないような声。つい最近聞いた気がするが、覚える必要を感じ
なくて覚えなかった声。
現れたのは、さっき追い掛け回してくれた冒険者風の男だった。
ライは窓を気にしながら姿を現した。手に剣を握る。距離はある。戦うなら、わずか
に有利、かも知れない。
「……おじさん、誰だっけ?
ここに住んでるとかなら不法侵入は謝るけど」
「調子乗るなゲテモノ、おにいさんと呼べ。
もうちょっとしてからここに来る連中に用があって待ってんだよ」
「じゃあ、あれもおじさんの仲間?」
窓を指差す。窓の人物の方も、さすがに気がついたのかこちらを見下ろしていた。
男がそれに手を振った。それに気づくと、窓から身を乗り出してニコニコ笑いながら
手を振り返しているのは若い女のようだ。黒い服。胸元には聖印の首飾りが揺れている。
「バジルー、それ友達?」
「馬鹿言え! お姫さま誘拐の、例のヤツだよ。
これ退治してお姫様の身柄を確保すればめでたく依頼料ゲット」
「捕縛、もしくは倒した証拠を提出だろ? ユーレー倒しても証拠とか残らないぞ」
間の抜けた会話が、いかにも冒険者らしいといえば、らしい。
倒すとか捕まえるとかいう相談を目の前でされているが、どうも危機感を感じない。
相手も気にしていないようだから、別にいいが。今は他の目的のために動いているよう
だし。ライはしばらく待つことにした。油断はしていないつもりだが、あまり自信ない。
しばらくして、会話が一段落したらしいのを見てからライは言った。
「……忙しいんじゃなかったの?」
「ああっ、そーだ。お前、仕掛けは完成したのかよ!?」
窓の女は「あっ」と口元に手を当てて、網を持ってばたばたとどこかへ消えてしまっ
た。それを見て男――バジル? が、ため息。人を待つとか言いつつ、仕掛けとか、よ
くわからない。冒険者のやることはいつの時代も意味不明だ。
「あ、お前は保留になったから、どっか行っていいぞ」
そしていつの時代も自分勝手だったりする。
ライは不満の意を表明することにした。こっちも、お前らに用事があるワケじゃない
んだぞ、と。
「なにそれ……僕、領主様に会いに来たんだけど」
「あー、そうか。さっきアイツが言ったこと聞いて、こっちに来たんだな?」
バジルは眉間にしわを寄せた。アイツ、というのは仲間の女のことか。
彼は少し考えてから、困ったように頭を掻いた。
「ここは別荘というかなんというか、普段は使われてない建物でな。
本館は、町の中に屋敷があっただろ」
あっただろ、と言われても知らない。道を聞いた御者に嘘をつかれていたらしい。せ
っかく山道を登ってきたというのに。
しかし、この男がいるということは、本当の意味では、ここが正しい目的地だ。誘拐
事件の関連で動いている冒険者と遭遇したことは幸運と言えるかも知れない。しかも、
今すぐにという敵意も持たれていない。
「おじさんはなんでここにいるの?」
「おにいさんだって言ってるだろが、学習能力ねェのかよ。
……お前には関係ねーよ。さっさとどっか行っけって、邪魔されちゃ困る」
「邪魔?」と聞こうとしたとき、正面の扉が、ガコンという音を立てた。重そうな鉄の
扉は、開くためのカラクリがあるらしい。鎖が回るような重い響きと共に開いていく。
現れたのはさっき二階にいた女だった。
厚い生地でできた、男物の黒い僧衣が妙に似合っている。それにも関わらず粗暴な印
象など微塵もない清楚な顔立ち。
「言っちゃいなよー、大したことじゃないだろ。
さっきお姫様をかっさらった連中がね、今日の夕方に、ここでお偉いさんと落ち合う
予定だって、仲間が調べてきたの。だから先に潜んで罠とか仕掛けといて、スキを見て
奇襲かけようって準備してたワケなの。わかった?」
バジルが慌てているが、女は笑っている。
ライはとりあえず「ありがとう」と言ってから、どう動くべきか考え始めた。
協力しようなんて言い出そうとは微塵も思わないし、相手もそれを望んでいない。
途中まではそれぞれの邪魔をせず、そして最後には全員を出し抜いて、目的を達成す
るために行動する。今は不敵対という暗黙の了解は、どちらかに都合が悪くなるまでの
話だ。事態が好ましく進めば、最後の敵は目の前にいる二人――他にも仲間がいると言
っていたか――、ということになる。
ライは城の中を見て回ることにした。
下手にいじるるとケガするぞと釘をさされたが、もちろん、返事はしなかった。
場所:デルクリフ⇔ルクセン
------------------------------------------------------------------------
宿に戻ると、セラフィナの姿はなかった。
ベアトリスもまだ戻ってきていないらしく、話を聞くこともできない。
ここの領主が魔法使いと手ェ組んで、お姫さまを狙ってんだよ。
特別に優れているわけではない記憶力でも覚えていた。
町中を――意識して急がないように進みながら、ライは、さっきの男の言葉を反芻す
る。領主というのは町の偉い人のこと。その地位の人が実際に何をやっているのかは知
らないが、とりあえず、貴族の位にあることは確かだ。
領主がいるということは、国王の直轄地ではない。そもそもこの辺りは、どこの国に
属しているのだろう。旅をするなら普通は調べることだが、面倒くさいといえば面倒く
さい。
さて、その領主様とやらはどこにいるのだろう? 小さな村だったら、領民居住区か
ら少し離れた丘の上、教会と方角を異なって小さな屋敷か城でも建っているものだ。大
都市ならば、お偉いさんに会うためには町の中央へ向かって歩けばいい。
だから、この町のように中途半端な規模だと逆に困ってしまう。
扇形の町の頂点――港とは逆方向に歩き続けたのは、ただ単純に、そちらの方が土地
が高くなっていて、しかも高級住宅街らしき場所が見えるのと、市街地から離れた場所
へ向かうのも同じ方向だという理由からだった。町と野の境目はいびつな曲線のように
見える。城壁が続いているのが見えるが、あまり高くはないらしい。
この辺りには脅威が少ない証拠だ。
『壁が高くたって、入り込めるモンスターは入り込めるんだけどね……』
空を飛べる、だとか。
分厚い石壁を抜けられる、だとか。
或いは、人に化ける――
道に沿って歩き続けるうちに、周囲の様子は何度か変わった。薄暗さを感じない路地、
ざわめきに溢れる商店街、大きな屋敷が並ぶ住宅街。
停まっていた馬車の手入れをしていた若い御者に嘘をついて道を聞いた。
彼は少しだけ観察するようにこちらを見てから、「この町を治めるお方は、南にある
物見の塔から東の山中にお屋敷を構えていらっしゃいます」と教えてくれた。立ち振る
舞いも言葉遣いもどこか不自然だったから、あまり長く勤めているようには見えなかっ
た。しっかりと教育された使用人ならばもう少し怪しんで、別の反応をしただろう。
集中力を注ぎ込んだとはいえ、幻は、自分から見ても不自然だった。めまい。
急ぐなと自制しながら歩き続けて、ようやく町の端にたどり着いたときには、太陽の
位置が随分と変わっていた。セラフィナが誘拐されたという話を聞いたときみたいに、
走ればいいのに。そうしないのは何故かと自問してみても答えが見つからない。
焦るな、焦ると取り返しのつかないことになるぞと、警鐘じみた予感ばかりが胸の内
で澱重なって、どうしようもなく気分が悪い。忘れて久しい二日酔いのような。
目の前の塔を見上げる町と野を遮る壁から突き出した、石の塔。夕方、町の門が閉ざ
されるよりも少し早い時間になると、この塔の上に火が灯され、旅人たちの目印になる
のだ。そして外敵を発見し、門を閉ざして町を守るための場所でもある。
一階に兵士が数人たむろしていた。念のためにと塔の中を見て回ったが、セラフィナ
の姿はなかった。物見塔はもう一箇所あるが、見に行くには遠い。それならやはり、領
主に直接会いに行ったほうがいいだろう。
塔から壁を抜け、森の中を通る馬車道を、東と思われる方向へ延々と登り続ける。
単純作業を苦痛と感じない程度には、まだ落ち着いていられているようだった。
やがて古い石造りの城が見えてきた。黒ずんだ城壁に蔦が絡まっている。規模はそれ
ほど大きくないのに周囲の木々を圧倒するように、どっしりと横たわっている。
伯爵様だか男爵様だか知らないが――騎士ではあるだろうけど――、ずいぶんと酔狂
な人物らしい。これではまるで、おとぎ話によくある吸血鬼の城。
ライは深呼吸して(気分の話だ)門をくぐった。奇妙なほどにひと気がない。
古びた石は重厚な雰囲気。焼け跡のような斑は自然についたものだろうか。取り巻く
草や蔦は、日陰であるせいか黒ずんで見える。見張りとかはいないのだろうかときょろ
きょろと見渡すが、一箇所だけ開いた二階の窓に誰かの影が見える以外は誰の気配も感
じられなかった。
普通ならそんなことはないはずなのだが。ここは違う建物なのだろうか? しかし、
他にそれらしい場所は見当たらなかった。なにより、ここには誰かがいる。
例の窓を見上げて眺める。ちょうど正面だから中を窺えた。
窓の向こうの人物は窓辺で何かの作業をしているらしい。よくは見えないが、布のよ
うなものを持って。いや、違う。あれは網か――
――網? なんで?
足元にナイフが突き立った。ただのナイフだ。
反射的に動きかけ、自制する。その場に立ったまま、門を振り返る。
「さっきの兄ちゃんか」
知っているような知らないような声。つい最近聞いた気がするが、覚える必要を感じ
なくて覚えなかった声。
現れたのは、さっき追い掛け回してくれた冒険者風の男だった。
ライは窓を気にしながら姿を現した。手に剣を握る。距離はある。戦うなら、わずか
に有利、かも知れない。
「……おじさん、誰だっけ?
ここに住んでるとかなら不法侵入は謝るけど」
「調子乗るなゲテモノ、おにいさんと呼べ。
もうちょっとしてからここに来る連中に用があって待ってんだよ」
「じゃあ、あれもおじさんの仲間?」
窓を指差す。窓の人物の方も、さすがに気がついたのかこちらを見下ろしていた。
男がそれに手を振った。それに気づくと、窓から身を乗り出してニコニコ笑いながら
手を振り返しているのは若い女のようだ。黒い服。胸元には聖印の首飾りが揺れている。
「バジルー、それ友達?」
「馬鹿言え! お姫さま誘拐の、例のヤツだよ。
これ退治してお姫様の身柄を確保すればめでたく依頼料ゲット」
「捕縛、もしくは倒した証拠を提出だろ? ユーレー倒しても証拠とか残らないぞ」
間の抜けた会話が、いかにも冒険者らしいといえば、らしい。
倒すとか捕まえるとかいう相談を目の前でされているが、どうも危機感を感じない。
相手も気にしていないようだから、別にいいが。今は他の目的のために動いているよう
だし。ライはしばらく待つことにした。油断はしていないつもりだが、あまり自信ない。
しばらくして、会話が一段落したらしいのを見てからライは言った。
「……忙しいんじゃなかったの?」
「ああっ、そーだ。お前、仕掛けは完成したのかよ!?」
窓の女は「あっ」と口元に手を当てて、網を持ってばたばたとどこかへ消えてしまっ
た。それを見て男――バジル? が、ため息。人を待つとか言いつつ、仕掛けとか、よ
くわからない。冒険者のやることはいつの時代も意味不明だ。
「あ、お前は保留になったから、どっか行っていいぞ」
そしていつの時代も自分勝手だったりする。
ライは不満の意を表明することにした。こっちも、お前らに用事があるワケじゃない
んだぞ、と。
「なにそれ……僕、領主様に会いに来たんだけど」
「あー、そうか。さっきアイツが言ったこと聞いて、こっちに来たんだな?」
バジルは眉間にしわを寄せた。アイツ、というのは仲間の女のことか。
彼は少し考えてから、困ったように頭を掻いた。
「ここは別荘というかなんというか、普段は使われてない建物でな。
本館は、町の中に屋敷があっただろ」
あっただろ、と言われても知らない。道を聞いた御者に嘘をつかれていたらしい。せ
っかく山道を登ってきたというのに。
しかし、この男がいるということは、本当の意味では、ここが正しい目的地だ。誘拐
事件の関連で動いている冒険者と遭遇したことは幸運と言えるかも知れない。しかも、
今すぐにという敵意も持たれていない。
「おじさんはなんでここにいるの?」
「おにいさんだって言ってるだろが、学習能力ねェのかよ。
……お前には関係ねーよ。さっさとどっか行っけって、邪魔されちゃ困る」
「邪魔?」と聞こうとしたとき、正面の扉が、ガコンという音を立てた。重そうな鉄の
扉は、開くためのカラクリがあるらしい。鎖が回るような重い響きと共に開いていく。
現れたのはさっき二階にいた女だった。
厚い生地でできた、男物の黒い僧衣が妙に似合っている。それにも関わらず粗暴な印
象など微塵もない清楚な顔立ち。
「言っちゃいなよー、大したことじゃないだろ。
さっきお姫様をかっさらった連中がね、今日の夕方に、ここでお偉いさんと落ち合う
予定だって、仲間が調べてきたの。だから先に潜んで罠とか仕掛けといて、スキを見て
奇襲かけようって準備してたワケなの。わかった?」
バジルが慌てているが、女は笑っている。
ライはとりあえず「ありがとう」と言ってから、どう動くべきか考え始めた。
協力しようなんて言い出そうとは微塵も思わないし、相手もそれを望んでいない。
途中まではそれぞれの邪魔をせず、そして最後には全員を出し抜いて、目的を達成す
るために行動する。今は不敵対という暗黙の了解は、どちらかに都合が悪くなるまでの
話だ。事態が好ましく進めば、最後の敵は目の前にいる二人――他にも仲間がいると言
っていたか――、ということになる。
ライは城の中を見て回ることにした。
下手にいじるるとケガするぞと釘をさされたが、もちろん、返事はしなかった。
人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン
------------------------------------------------------------------------
「ああ、やっぱり。貴女がセラフィナですね?」
レイアと名乗った少女はセラフィナの強張り方を感じ取ったのだろうか、僅かに笑
ってみせた。
「……何故、名前を知って……」
セラフィナは、言いながら思わず目を逸らす。
……怖かったのだ。全てを見透かされているような気がして。
レイアはセラフィナの様子に小首を傾げつつも、耳の後ろに両手をあてて囁いた。
「千里眼という言葉はありますが、聴覚のそれに当てはまる言葉を知っていますか」
突然何の話が始まったのか、セラフィナには解らなかった。
否定の意味で首を振ると、髪がさらさらと僅かな音を洩らす。
「そうですか、実は私も知りません。でも、どうやら私の耳はそういう力があるらし
い。普段は騒音から逃れるためにここに篭もっているんです」
「……え?」
今まで一度も聞いたことがない話でただただ驚くセラフィナに、レイアは楽しそう
に付け加える。
「勿論、信じるも信じないも貴女の自由ですよ。
名前を知ったのもここに乗り付けた連中の会話からですが、信じられなくても無理
はない」
セラフィナには彼女が本当のことを言っているように感じた。
一体どこまで聞こえるというのか?
騒音の渦に飲み込まれるのを想像して、思わず気分が悪くなるセラフィナだった。
「無数の音の中から特定の音を拾うのは大変でしょうね」
溜め息にも聞こえる深呼吸に、レイアは首を傾げる。
まるで「何を言っているの?」とでも言うかのように。
「慣れればそれが日常になるもの。貴女が気にすることではないですよ」
そういうとレイアは立ち上がり、部屋の隅から水の入ったコップを取ってきた。
「喉が渇いているようだ。お飲みなさい」
言われて初めて喉の渇きに気付く。
緊張のためか、さっきまでの猿轡のためか、どちらにしても僅かに違和感がある位
なのだが。
「何故そう思ったんです?」
「公園での声に比べてノイズが入るようだから」
当然のように、レイアは答えた。
「見つかったんですか?例の『ライさん』でしたっけ」
間違いない。彼女はココからどのくらい離れているかわからない公園での様子を
『聞く』コトが出来るのだ。
ちょっと躊躇して、セラフィナは姿勢を正し、やや硬い表情で呟いた。
「ライさんが今どこにいるか、わかりますか?」
「ああ、会えなかったんでしたっけ。そこまでは聞いていなかったんですが、そうで
すか。それはお気の毒に」
レイアは残念そうに肩を竦める。
「私も全てを聞いている訳じゃないですから」
いや、それにしても貴女は面白い……そう呟きが聞こえたのはセラフィナの気のせ
いだろうか?
レイアは突然耳に手を当て、首を傾げる。
そして淡々と告げた。
「ああ、貴女の搬送は日が落ちる頃になりそうですね」
時は少し遡る。
ココは宿へ向かう通りの一画。
とてとて歩いてきたのは小さな髭だるま、もとい、ドワーフの男性。
「ワシとしたことが」
なにやら急いで歩いているらしい。しかし遅い。とにかく遅い。
「お釣りを、間違える、なん、て!」
息が上がっているところを見ると、彼なりに無理をしているのかも知れない。
額の汗を拭って、僅かに乱れた髭を直すと、更にスピードを上げた。
「名誉あるキャサリン金貨勲章を持つワシが……」
手にしているのは小銭。大きな掌にすっぽり隠れて見えないほどの量。
しかし、彼にとっては一大事なのだ。
実は彼は彫金師として街でもそこそこ知られたギラムをいう男、さっきセラフィナ
に金のブローチを仕上げた男である。
「……ボッタクリなんぞ出来るか!」
曰くありげな金の残骸を大切そうに布に包んで持ち込んだ女性。彼女は「貰い物」
だから、新しいのを買うのではなくコレを使って「細工して欲しい」と言ってきた。
……ロマンを感じるではないか。やりがいがあるではないか。
だから他の仕事を全部置いておいて、急いでブローチを仕上げたのだ。
なのに、お釣りを間違えるとはなんたる失態。職人のプライドを保つためにも、お
釣りはきちんと届けなければ。
宿まではあと少し。
彼女は街の人間じゃないから、きっと宿を借りているだろう。
それだけの理由でこの宿を目指してきたが、ココがハズレだとすると、残りはちと
遠すぎる。
「お嬢さんはおるかいのー」
少し気弱になるギラムであった。
ガラガラガラガラ
激しい騒音の元がすぐ横を通り過ぎ、土埃に咳き込むギラム。
せっかく気分いい仕事の後なのにとぶつぶつ言ってみるが、怒鳴りつけることはし
なかった。
それこそこの気分を台無しにしてしまうではないか。
よし、もう着くぞー。
「なんじゃ、ボウズじゃないか」
近所の悪ガキが宿の前でしゃがみ込んでいる。
「コレ、またなんか悪さでもしとるんじゃなかろうな?」
後ろから声をかけると、少年は手にした金細工を慌てて放って駆け出した。
「うわぁぁん、ボクは拾おうとしただけなんだってば~」
ギラムは降ってきたブローチを手にする前に気付いた。コレはさっきのブローチ
だ!
「追いこらボウズ、持ち主はどこ行った!?」
逃げる少年に怒号が飛ぶ。少年は逃げながら叫び返した。
「そんなの知らないよう! あの馬車が通った後に落ちてたんだもん!」
グローブのような掌に落ちてきたブローチは、金具部分のゆがみが目立っていた。
これは普通に落としたりしたのではない。無理矢理何らかの力がかかったことで落
ちた、もしくは落とされたのだろう。
曰くありげな金細工は、会心の出来で今も輝いている。
「……よし、ワシは行くぞ、待っとれよ」
きっと彼女は何か事件に巻き込まれて、それであのブローチをくれた相手が助けに
来るのだ。そうだ、そうじゃなきゃロマンとは言えない。しかし、その肝心な場面で
大事なアイテムがなかったらどうする? ソレはイカンだろう。ワシの職人生命を賭
けても、持ち主の所へ戻してやらんと……。
そんな妄想大爆発のギラムさん。
大急ぎで店に戻ると、店を閉め、部屋の奥の壁に掛けてあった戦斧を担いだ。
「なあに、あんなに目立つ騒音の塊じゃ、きっとみんなが行き先を教えてくれる」
やる気満々だが防具は胸当てとすね当てのみ。何とも貧相な装備の助っ人である。
がちゃがちゃがちゃがちゃ
繰り返すが、彼の足は、遅い。とても、遅い。
場所:港町ルクセン
------------------------------------------------------------------------
「ああ、やっぱり。貴女がセラフィナですね?」
レイアと名乗った少女はセラフィナの強張り方を感じ取ったのだろうか、僅かに笑
ってみせた。
「……何故、名前を知って……」
セラフィナは、言いながら思わず目を逸らす。
……怖かったのだ。全てを見透かされているような気がして。
レイアはセラフィナの様子に小首を傾げつつも、耳の後ろに両手をあてて囁いた。
「千里眼という言葉はありますが、聴覚のそれに当てはまる言葉を知っていますか」
突然何の話が始まったのか、セラフィナには解らなかった。
否定の意味で首を振ると、髪がさらさらと僅かな音を洩らす。
「そうですか、実は私も知りません。でも、どうやら私の耳はそういう力があるらし
い。普段は騒音から逃れるためにここに篭もっているんです」
「……え?」
今まで一度も聞いたことがない話でただただ驚くセラフィナに、レイアは楽しそう
に付け加える。
「勿論、信じるも信じないも貴女の自由ですよ。
名前を知ったのもここに乗り付けた連中の会話からですが、信じられなくても無理
はない」
セラフィナには彼女が本当のことを言っているように感じた。
一体どこまで聞こえるというのか?
騒音の渦に飲み込まれるのを想像して、思わず気分が悪くなるセラフィナだった。
「無数の音の中から特定の音を拾うのは大変でしょうね」
溜め息にも聞こえる深呼吸に、レイアは首を傾げる。
まるで「何を言っているの?」とでも言うかのように。
「慣れればそれが日常になるもの。貴女が気にすることではないですよ」
そういうとレイアは立ち上がり、部屋の隅から水の入ったコップを取ってきた。
「喉が渇いているようだ。お飲みなさい」
言われて初めて喉の渇きに気付く。
緊張のためか、さっきまでの猿轡のためか、どちらにしても僅かに違和感がある位
なのだが。
「何故そう思ったんです?」
「公園での声に比べてノイズが入るようだから」
当然のように、レイアは答えた。
「見つかったんですか?例の『ライさん』でしたっけ」
間違いない。彼女はココからどのくらい離れているかわからない公園での様子を
『聞く』コトが出来るのだ。
ちょっと躊躇して、セラフィナは姿勢を正し、やや硬い表情で呟いた。
「ライさんが今どこにいるか、わかりますか?」
「ああ、会えなかったんでしたっけ。そこまでは聞いていなかったんですが、そうで
すか。それはお気の毒に」
レイアは残念そうに肩を竦める。
「私も全てを聞いている訳じゃないですから」
いや、それにしても貴女は面白い……そう呟きが聞こえたのはセラフィナの気のせ
いだろうか?
レイアは突然耳に手を当て、首を傾げる。
そして淡々と告げた。
「ああ、貴女の搬送は日が落ちる頃になりそうですね」
時は少し遡る。
ココは宿へ向かう通りの一画。
とてとて歩いてきたのは小さな髭だるま、もとい、ドワーフの男性。
「ワシとしたことが」
なにやら急いで歩いているらしい。しかし遅い。とにかく遅い。
「お釣りを、間違える、なん、て!」
息が上がっているところを見ると、彼なりに無理をしているのかも知れない。
額の汗を拭って、僅かに乱れた髭を直すと、更にスピードを上げた。
「名誉あるキャサリン金貨勲章を持つワシが……」
手にしているのは小銭。大きな掌にすっぽり隠れて見えないほどの量。
しかし、彼にとっては一大事なのだ。
実は彼は彫金師として街でもそこそこ知られたギラムをいう男、さっきセラフィナ
に金のブローチを仕上げた男である。
「……ボッタクリなんぞ出来るか!」
曰くありげな金の残骸を大切そうに布に包んで持ち込んだ女性。彼女は「貰い物」
だから、新しいのを買うのではなくコレを使って「細工して欲しい」と言ってきた。
……ロマンを感じるではないか。やりがいがあるではないか。
だから他の仕事を全部置いておいて、急いでブローチを仕上げたのだ。
なのに、お釣りを間違えるとはなんたる失態。職人のプライドを保つためにも、お
釣りはきちんと届けなければ。
宿まではあと少し。
彼女は街の人間じゃないから、きっと宿を借りているだろう。
それだけの理由でこの宿を目指してきたが、ココがハズレだとすると、残りはちと
遠すぎる。
「お嬢さんはおるかいのー」
少し気弱になるギラムであった。
ガラガラガラガラ
激しい騒音の元がすぐ横を通り過ぎ、土埃に咳き込むギラム。
せっかく気分いい仕事の後なのにとぶつぶつ言ってみるが、怒鳴りつけることはし
なかった。
それこそこの気分を台無しにしてしまうではないか。
よし、もう着くぞー。
「なんじゃ、ボウズじゃないか」
近所の悪ガキが宿の前でしゃがみ込んでいる。
「コレ、またなんか悪さでもしとるんじゃなかろうな?」
後ろから声をかけると、少年は手にした金細工を慌てて放って駆け出した。
「うわぁぁん、ボクは拾おうとしただけなんだってば~」
ギラムは降ってきたブローチを手にする前に気付いた。コレはさっきのブローチ
だ!
「追いこらボウズ、持ち主はどこ行った!?」
逃げる少年に怒号が飛ぶ。少年は逃げながら叫び返した。
「そんなの知らないよう! あの馬車が通った後に落ちてたんだもん!」
グローブのような掌に落ちてきたブローチは、金具部分のゆがみが目立っていた。
これは普通に落としたりしたのではない。無理矢理何らかの力がかかったことで落
ちた、もしくは落とされたのだろう。
曰くありげな金細工は、会心の出来で今も輝いている。
「……よし、ワシは行くぞ、待っとれよ」
きっと彼女は何か事件に巻き込まれて、それであのブローチをくれた相手が助けに
来るのだ。そうだ、そうじゃなきゃロマンとは言えない。しかし、その肝心な場面で
大事なアイテムがなかったらどうする? ソレはイカンだろう。ワシの職人生命を賭
けても、持ち主の所へ戻してやらんと……。
そんな妄想大爆発のギラムさん。
大急ぎで店に戻ると、店を閉め、部屋の奥の壁に掛けてあった戦斧を担いだ。
「なあに、あんなに目立つ騒音の塊じゃ、きっとみんなが行き先を教えてくれる」
やる気満々だが防具は胸当てとすね当てのみ。何とも貧相な装備の助っ人である。
がちゃがちゃがちゃがちゃ
繰り返すが、彼の足は、遅い。とても、遅い。
人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン
------------------------------------------------------------------------
荒く削りだされた重い石がいくつもいくつも積み重ねられた城。ここは人間が住むた
めに建物なのかと、それさえ疑わしくなってくる。動乱期――この地域の歴史など知ら
ないが――の城ならば、住居ではなく砦の役割を重要視されていたから、この堅牢な造
りにも納得がいく。だがこの建物は、そういった防衛の要として建築されたにしては、
場所がおかしい。
(別の用途があったってことだろ。
それも、自分の城で堂々とやれないことをするために造ったんだ。大昔に、誰かが)
半ば決めてかかる。ライは足を止めて天井を見上げた。
低くない。身長の二倍はあるはずなのに、重圧のようなものを感じる。今にも押しつ
ぶされてしまいそうだと感じるのは、ここがあまりにも無骨だからか。
細窓から落ちる光は午後の陽光。夕方までどれだけあるだろう。
窓から見えるのは外壁に絡みつく蔦と周囲の木々の向こうにわずかに見える空だけで、
太陽の位置は知れない。ただ、青空が少し色を淡くしてきた気もする。
ルクセンに到着したときには既に昼を回っていた。となれば時間はあまりない。
「おもしろいもの、あった?」
光。声をかけられてライは振り向いた。
さっきの女だ。黒い僧衣をだらしなく着崩して、それが自然に見えている。
手に何か光るものをもっていると思ったが、よく見ると魔法の光が点っている。浴び
た肌がチリチリ痛むような気がしてライは嫌な顔をした。
バジルがこういう現れ方をしたら完全にシカトするだろうが、女性ならば返事くらい
はする気になった。さっき情報をもらったこともあるし、あまり素っ気なくするのも。
「……何のために建てられたんだろうって、思ってさ」
女はクスリと笑った。
「ずっと前の領主サマが、浮気した奥さんを幽閉するために建てたんだってさ」
「へぇ」
嘘か本当かは知らないが、妙な説得力がある。廃墟で怪談を聞かされるような――よ
うな、ではなくてその通りか。ライはぐるりと壁や天井を見渡した。ああ、なるほどね
と、なんとなく納得する。それで、その奥さんの幽霊はどこに出るの? と聞いたら、
女はキョトンとしてから笑った。
「基本をわかってるね」
「怪談作る側を馬鹿にしちゃいけない」
ライは女が灯している光を見て目を細め、「消してくれ」と無言で訴えたが、女は気
づかなかった。無視したのかも知れない。
「お姫さま、さらったの?」
「コールベルまで一緒に行こうって誘われたんだ。
どこぞの王族だなんて知ってたら、たぶん……関わらなかった」
「なんで?」
「面倒はごめんだ。
ただでさえ、なんだかわからないうちに指名手配犯ってことになってるし……」
ぶつぶつと愚痴るように答えると女は首をかしげた。
ライは恨みがましい目で彼女を見た。
「僕は、ただ、平和に毎日を送りたいのに」
「……モンスターのセリフとは思えない」
「いいじゃん日和見主義。慣れるとすっごく楽。
それに差別はよくないよ。聖職者の格好してるなら尚更だ」
「シューキョーって基本的に信者以外には狭量だけど?」
女は肩を竦める。反論が見つからなくてライは表情を曇らせた。
言葉のやり取り自体がとてつもなく不毛に思えた。空を見ようと思ったが、近くに強
い光があるせいで、余計に時刻がわからない。
「お姉さん、準備は終わったの?」
「さっきので最後だったから、あとは待つだけ。
神聖魔法の結界とか仕掛けたから、引っかからないように気をつけろ」
それは明らかに個人攻撃だなと被害妄想的に確信して、ライはそっぽを向いた。
親しげに話しかけてもお前は敵だと牽制されている。何か言い返したいが、何の策も
思いつかない。いっそ短絡的に脅しでもかけてみようか。却下。死に損ない[アンデッ
ド]と司祭では分が悪すぎて有効とは思えない。
ライが仏頂面で黙り込んだのを見て、女は呆れたようにため息を吐いた。
「……融通が利くのが、冒険者の美点だろ?
本当だったら自由にさせてやってもいいんだけどさ、今回は――領主についた魔法使
いってのが、お前みたいなゴーストとか使うらしいから、できれば大人しくしてた方が
いいよ。そいつ、ソフィニアのアレの実行犯だって噂もあるから」
ソフィニアの。思い出してライは表情を強張らせた。あ、言っちゃった、と女が口元
に手をやったがどうもワザトくさい。自分達の都合なんだとはいえその一環として心配
してくれたみたいだし礼くらいは言おうかと思ったが、その気分も霧散してしまった。
「ほら、精神支配とかって、やられるの想像するだけでイヤじゃん?
だからおとなしくしてようよ。お姫様はわたしたちが助け出すから」
「で、そのままどっか連れてっちゃうんでしょ。だったら却下。……っていうか」
ライは疑わしそうな表情を作って女を見た。自分より背丈が低い相手を自然な上目遣
いで見れる、というのは地味に特技に入るのかも知れない。役に立つのかどうかは甚だ
疑問だが。
「さっきは「勝手にしてていいよ」みたいな感じだったのに、なんで今になって、そう
いうこと言うの? 冒険者って気まぐれだから信用できないよ」
言いながら昔を思い出す。護送対象をこっそり逃がしたり、依頼人を殴り倒して役所
に引き渡したりすることはよくあった。詐欺師を騙すのは楽しみの一つだったし、調査
を頼まれた遺跡をわざと倒壊させたりもした。山賊を雇って小村に夜襲をかけたことも
あったか。一応、それなりの理由があっての行動だった。でも並べてみるとロクなこと
していないように聞こえる。
自分が冒険者を名乗っていた頃にそういうことをやっていたから、冒険者は信用しな
い。情で落とせばノってくれるかも知れないけど、昔それを企んだ相手に痛い目を見せ
た記憶がいくつも蘇って、おなじような報復はされたくないなと思った。
彼らは単純なようでいて、狡猾で、したたかだ。
「なんで?」
「人生ごとドロップアウトしたけど、元同業者だから?」
女は困ったように苦笑した。
ああそれじゃあ信用してもらえないなぁなんて頭を掻く。あまりおしとやかと言えな
い動作もサマになっていて、ライは顔をしかめる以外の反応をできなかった。
「まあ、仕方ないか。脅しが効く程度ならこの場で捕縛しようと思ったんだけど」
「からかいに来たの?」
「愛の逃避行だったら邪魔しちゃ悪いから、確認しに。よくわかんないから結局保留だ
けど。ほら、そろそろ馬車が来るよ。準備とかするなら今のうち」
女は背を向けて小走りに去って行った。
残されたライは、もういちど窓から空を見上げてから踵を返した。
場所:港町ルクセン
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荒く削りだされた重い石がいくつもいくつも積み重ねられた城。ここは人間が住むた
めに建物なのかと、それさえ疑わしくなってくる。動乱期――この地域の歴史など知ら
ないが――の城ならば、住居ではなく砦の役割を重要視されていたから、この堅牢な造
りにも納得がいく。だがこの建物は、そういった防衛の要として建築されたにしては、
場所がおかしい。
(別の用途があったってことだろ。
それも、自分の城で堂々とやれないことをするために造ったんだ。大昔に、誰かが)
半ば決めてかかる。ライは足を止めて天井を見上げた。
低くない。身長の二倍はあるはずなのに、重圧のようなものを感じる。今にも押しつ
ぶされてしまいそうだと感じるのは、ここがあまりにも無骨だからか。
細窓から落ちる光は午後の陽光。夕方までどれだけあるだろう。
窓から見えるのは外壁に絡みつく蔦と周囲の木々の向こうにわずかに見える空だけで、
太陽の位置は知れない。ただ、青空が少し色を淡くしてきた気もする。
ルクセンに到着したときには既に昼を回っていた。となれば時間はあまりない。
「おもしろいもの、あった?」
光。声をかけられてライは振り向いた。
さっきの女だ。黒い僧衣をだらしなく着崩して、それが自然に見えている。
手に何か光るものをもっていると思ったが、よく見ると魔法の光が点っている。浴び
た肌がチリチリ痛むような気がしてライは嫌な顔をした。
バジルがこういう現れ方をしたら完全にシカトするだろうが、女性ならば返事くらい
はする気になった。さっき情報をもらったこともあるし、あまり素っ気なくするのも。
「……何のために建てられたんだろうって、思ってさ」
女はクスリと笑った。
「ずっと前の領主サマが、浮気した奥さんを幽閉するために建てたんだってさ」
「へぇ」
嘘か本当かは知らないが、妙な説得力がある。廃墟で怪談を聞かされるような――よ
うな、ではなくてその通りか。ライはぐるりと壁や天井を見渡した。ああ、なるほどね
と、なんとなく納得する。それで、その奥さんの幽霊はどこに出るの? と聞いたら、
女はキョトンとしてから笑った。
「基本をわかってるね」
「怪談作る側を馬鹿にしちゃいけない」
ライは女が灯している光を見て目を細め、「消してくれ」と無言で訴えたが、女は気
づかなかった。無視したのかも知れない。
「お姫さま、さらったの?」
「コールベルまで一緒に行こうって誘われたんだ。
どこぞの王族だなんて知ってたら、たぶん……関わらなかった」
「なんで?」
「面倒はごめんだ。
ただでさえ、なんだかわからないうちに指名手配犯ってことになってるし……」
ぶつぶつと愚痴るように答えると女は首をかしげた。
ライは恨みがましい目で彼女を見た。
「僕は、ただ、平和に毎日を送りたいのに」
「……モンスターのセリフとは思えない」
「いいじゃん日和見主義。慣れるとすっごく楽。
それに差別はよくないよ。聖職者の格好してるなら尚更だ」
「シューキョーって基本的に信者以外には狭量だけど?」
女は肩を竦める。反論が見つからなくてライは表情を曇らせた。
言葉のやり取り自体がとてつもなく不毛に思えた。空を見ようと思ったが、近くに強
い光があるせいで、余計に時刻がわからない。
「お姉さん、準備は終わったの?」
「さっきので最後だったから、あとは待つだけ。
神聖魔法の結界とか仕掛けたから、引っかからないように気をつけろ」
それは明らかに個人攻撃だなと被害妄想的に確信して、ライはそっぽを向いた。
親しげに話しかけてもお前は敵だと牽制されている。何か言い返したいが、何の策も
思いつかない。いっそ短絡的に脅しでもかけてみようか。却下。死に損ない[アンデッ
ド]と司祭では分が悪すぎて有効とは思えない。
ライが仏頂面で黙り込んだのを見て、女は呆れたようにため息を吐いた。
「……融通が利くのが、冒険者の美点だろ?
本当だったら自由にさせてやってもいいんだけどさ、今回は――領主についた魔法使
いってのが、お前みたいなゴーストとか使うらしいから、できれば大人しくしてた方が
いいよ。そいつ、ソフィニアのアレの実行犯だって噂もあるから」
ソフィニアの。思い出してライは表情を強張らせた。あ、言っちゃった、と女が口元
に手をやったがどうもワザトくさい。自分達の都合なんだとはいえその一環として心配
してくれたみたいだし礼くらいは言おうかと思ったが、その気分も霧散してしまった。
「ほら、精神支配とかって、やられるの想像するだけでイヤじゃん?
だからおとなしくしてようよ。お姫様はわたしたちが助け出すから」
「で、そのままどっか連れてっちゃうんでしょ。だったら却下。……っていうか」
ライは疑わしそうな表情を作って女を見た。自分より背丈が低い相手を自然な上目遣
いで見れる、というのは地味に特技に入るのかも知れない。役に立つのかどうかは甚だ
疑問だが。
「さっきは「勝手にしてていいよ」みたいな感じだったのに、なんで今になって、そう
いうこと言うの? 冒険者って気まぐれだから信用できないよ」
言いながら昔を思い出す。護送対象をこっそり逃がしたり、依頼人を殴り倒して役所
に引き渡したりすることはよくあった。詐欺師を騙すのは楽しみの一つだったし、調査
を頼まれた遺跡をわざと倒壊させたりもした。山賊を雇って小村に夜襲をかけたことも
あったか。一応、それなりの理由があっての行動だった。でも並べてみるとロクなこと
していないように聞こえる。
自分が冒険者を名乗っていた頃にそういうことをやっていたから、冒険者は信用しな
い。情で落とせばノってくれるかも知れないけど、昔それを企んだ相手に痛い目を見せ
た記憶がいくつも蘇って、おなじような報復はされたくないなと思った。
彼らは単純なようでいて、狡猾で、したたかだ。
「なんで?」
「人生ごとドロップアウトしたけど、元同業者だから?」
女は困ったように苦笑した。
ああそれじゃあ信用してもらえないなぁなんて頭を掻く。あまりおしとやかと言えな
い動作もサマになっていて、ライは顔をしかめる以外の反応をできなかった。
「まあ、仕方ないか。脅しが効く程度ならこの場で捕縛しようと思ったんだけど」
「からかいに来たの?」
「愛の逃避行だったら邪魔しちゃ悪いから、確認しに。よくわかんないから結局保留だ
けど。ほら、そろそろ馬車が来るよ。準備とかするなら今のうち」
女は背を向けて小走りに去って行った。
残されたライは、もういちど窓から空を見上げてから踵を返した。