人物:ライ セラフィナ
場所:港町ルクセン
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――マズいな、と、思うのは別に珍しいことではなかったが、それが下手をしたら命
に関わるかも知れない事態となると、そう珍しくないことではなかった。そんな物騒な
ことが日常茶飯事になるような人生は嫌だと常々思っている。
全力疾走。
息は切れない。疲れもしない。ただ走るという動作を継続させながらライは背後を振
り向いて、追跡者がまだ諦めていないことを確かめた。
駆け抜ける町並み、空はどこまでも青く青く。
ざわめきを突っ切って、行き交う人々の間を走る。
油断していたのが原因といえばそうなのだろう。あの手配書のことを忘れていたのだ。
遠くへ着たから大丈夫だと、無意識に安心してしまっていたのが問題なのかも知れない
し、今まで何か対策をしてきたかといえば、足跡を辿ろうと思えば簡単に辿れてしまう
程度には人前に現れている。
それともそんなことには関係なく、町中でモンスターを見かけたから追い掛け回して
いるのか。
「いい加減にしろ!」
そっちこそ。
後ろから聞こえた怒鳴り声は多分に疲労を含んでいた。このままなら逃げ切れるだろ
う。いや、だったら今すぐに姿を消してしまえばいいじゃないか――どうしてそうしな
いんだ?
買い物ぶくろを抱えたおばさんに突っ込んで、抵抗なく通り過ぎながらライは自問し
た。答えはすぐに返ってくる。消えてるじゃないか。誰にも僕は触れないし、見えない
はずだ。
――じゃあなんであいつは追っかけてくるんだよ!
もういちど振り返ると、追手がおばさんにぶつかって睨まれているのが見えた。おば
さんに捕まえられるよりも早くその手をすり抜けて追ってくる。第三者から見たら、そ
うとう変な人だろう。
若くはないが、まだ若い。二十五か、三十か。年上の老若を判断するのは難しい。丈
夫そうな革のジャケット、腰に長剣、頑丈なブーツ。冒険者か賞金稼ぎか。
一瞬、合わないはずの目が合った――虹彩の細い紫瞳にぞくりとする。魔眼という物
騒この上ない言葉を思いつき、本格的に恐慌状態になるよりも早く否定。
魔眼なんて滅多にない。おとぎ話か何かの。では何故追ってこれる?
あっちも人間じゃないとしたら? 亜人と認められる種族は多い。人に似ているもの、
人の血を引いているもの。神さまやら竜やら魔族やらが人にまぎれていることもあると
いう噂からすれば、自分はまだ大人しい方だろう。
違う、そんなこと考えてたんじゃない。
追ってくる男――人にぶつかったり、その拍子に荷物をぶちまけて怒られたり、ひそ
ひそ話されたり、白い目で見られまくっていたりして、ちょっと泣きそうになりながら
もしつこく追いかけてくる男が何者かというのが問題だ。普通の人ならそろそろ諦めて
いてもおかしくないのに。
その前に、なんでこっちが見えるの? 人間じゃないから? なら仕方ないやハハハ。
差別論って便利だ。
それにしても、昔は追いかけっこは得意だったのに、相手から見られているというだ
けでこれだけ不安になるのは何故だろう。普通、そんなことは当たり前なのに。
初めての町で逃げ回ったことも追いかけ回したこともある。確か、そのときは……
……
…………うわぁ、馬鹿らしい。
考える必要がないのに気がついた。
ライは近くの建物の壁をすり抜けて通りから逃げた。
残念そうな叫び声が聞こえた。
いい気味だ。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
細い路地に出た途端、剣を突きつけられた。
さっきの男がにやにやしながら見ている。やっぱり嫌な眼だ。自信に溢れて、意地の
悪げな、今すぐにでも潰してやりたいと思うような、目。
「普通、裏から出てくるよな、こういう場合」
ライはなんとも答えられずに――とりあえず、実体を現すことにした。
まさか捕まえる手段もなしに追ってきているとは考えられない。相手からだけ手を出
せる状況は避けておきたかった。
「馬鹿のフリして追いかけた甲斐があるってもんだ」
「……何の用?」
「人間のマネがお上手なことで」
「ケッコー疲れるから手短にお願いできるかな」
悪意のある相手には毒々しい返事。友好的にしてやる必要なんかあるものか。
話をする気があるということは、少なくとも、理由もなく追いかけてきたのではなさ
そうだ。
手配書の内容を思い出す。大丈夫だ、賞金は“生存に限り”支払われる。致命的なこ
とにはなっても、直接殺されることはない……と、信じたい。
「……テメェだな、セラフィナ皇女をさらったの」
思考を切り替える。楽観的な思いを振り払う。表情に出ないように注意しながら、ラ
イは男を観察した。さっき追ってきたときと雰囲気は変わらない。がっしりとした体格、
短い砂色の髪。肉食動物のような、という比喩が、的確ではないが間違ってもいない。
「魔物を連れてたっていうヤツもいれば、茶髪の優男が一緒だってほざくヤツもいた。
最初は情報が混乱してるのかと思ったが……ちょっと記憶にひっかかって手配書の束
をあさってみたら、思ったとおり、条件にぴったりのにーちゃんがいるだろ?
あんなテロ起こすなんて大物だ。皇女サマが今にも危険にさらされてるかも知れない
ってことで、オレたちは調査だけじゃなくて捕縛も引き受けたのさ」
説明下手なのか詳しいことを教える気がないのか、話の内容がよく読み取れない。非
常に好ましくない内容だ、ということだけはよくわかるのだが。
無駄だと思いながら問い返す。
「……ちょっと待って、さらったって何?」
「故国から忽然と姿を消したお姫さまを探し出してくれ、というのがオレたちの受けた
依頼さ。いつも一緒にいるはずのお目付け役も戻らない。これは、お姫さまが何者かの
手に落ち、謀略のために利用されようとしているに違いない――」
オレたち、ということは複数だ。
それから内容を反芻する。お目付け役? 船の上で聞いた、黒髪の剣士か。
で、今の状況は? とてもヤバいということしかわからない。恐れていた事態でもあ
る。知らない国の騒動に巻き込まれた。冗談じゃない。
「違う! セラフィナさんに聞けばわかる。
さらってなんかない」
男は剣の切っ先をさらに近づけた。喉元。
チリチリと鳥肌が立つような感覚で、魔剣と知れる。
「……世間知らずのお姫さまだ。うまく言いくるめられたに決まってる」
「そんな無茶な――!」
「実際はどうだろうと、そういうことになるっつってんだよ。
お姫さまは連れ戻されて、政治の道具に戻るんだ」
ふざけるな。
「生憎と競争相手がいてな、テメェに構ってる時間はないんだ。
ここの領主が魔法使いと手ェ組んで、お姫さまを狙ってんだよ。その賞金は惜しいが、
もっと魅力的な金額を約束されてるんでね。生け捕りなんて面倒な手間はかけない」
男を睨む。
遠い路地からざわめき。気が散ってイライラする。
悟られぬように注意しながら、必死に逃げ切る方法を探す。壁の向こうへ逃れるのと
剣が届くのと、どちらが早い? こいつの気を逸らすにはどうすればいい?
「――バジル! どこだ!?」
激しい足音が聞こえた。男が思わず反応した隙に、ライは姿を消して背中から壁へ飛
び込んだ。
「お姫さんがさらわ――」
途中で声は壁に遮られたが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
セラフィナさんがさらわれた? ライは走り出した。
「――ってのに、お前はこんなところで何してんだ!」
バジリウスは舌打ちして相棒を振り返ったが、その言葉の内容を理解すると、余計な
時間を使わせた(彼が勝手に追っていたのだが)亡霊が消えた壁を睨みつけた。
連れ帰る際に邪魔になりそうだから先に片付けておこうと思ったのに、その隙をつい
て別クチに目的の皇女が奪われたとなると、もはや笑い話にもならない。
場所:港町ルクセン
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――マズいな、と、思うのは別に珍しいことではなかったが、それが下手をしたら命
に関わるかも知れない事態となると、そう珍しくないことではなかった。そんな物騒な
ことが日常茶飯事になるような人生は嫌だと常々思っている。
全力疾走。
息は切れない。疲れもしない。ただ走るという動作を継続させながらライは背後を振
り向いて、追跡者がまだ諦めていないことを確かめた。
駆け抜ける町並み、空はどこまでも青く青く。
ざわめきを突っ切って、行き交う人々の間を走る。
油断していたのが原因といえばそうなのだろう。あの手配書のことを忘れていたのだ。
遠くへ着たから大丈夫だと、無意識に安心してしまっていたのが問題なのかも知れない
し、今まで何か対策をしてきたかといえば、足跡を辿ろうと思えば簡単に辿れてしまう
程度には人前に現れている。
それともそんなことには関係なく、町中でモンスターを見かけたから追い掛け回して
いるのか。
「いい加減にしろ!」
そっちこそ。
後ろから聞こえた怒鳴り声は多分に疲労を含んでいた。このままなら逃げ切れるだろ
う。いや、だったら今すぐに姿を消してしまえばいいじゃないか――どうしてそうしな
いんだ?
買い物ぶくろを抱えたおばさんに突っ込んで、抵抗なく通り過ぎながらライは自問し
た。答えはすぐに返ってくる。消えてるじゃないか。誰にも僕は触れないし、見えない
はずだ。
――じゃあなんであいつは追っかけてくるんだよ!
もういちど振り返ると、追手がおばさんにぶつかって睨まれているのが見えた。おば
さんに捕まえられるよりも早くその手をすり抜けて追ってくる。第三者から見たら、そ
うとう変な人だろう。
若くはないが、まだ若い。二十五か、三十か。年上の老若を判断するのは難しい。丈
夫そうな革のジャケット、腰に長剣、頑丈なブーツ。冒険者か賞金稼ぎか。
一瞬、合わないはずの目が合った――虹彩の細い紫瞳にぞくりとする。魔眼という物
騒この上ない言葉を思いつき、本格的に恐慌状態になるよりも早く否定。
魔眼なんて滅多にない。おとぎ話か何かの。では何故追ってこれる?
あっちも人間じゃないとしたら? 亜人と認められる種族は多い。人に似ているもの、
人の血を引いているもの。神さまやら竜やら魔族やらが人にまぎれていることもあると
いう噂からすれば、自分はまだ大人しい方だろう。
違う、そんなこと考えてたんじゃない。
追ってくる男――人にぶつかったり、その拍子に荷物をぶちまけて怒られたり、ひそ
ひそ話されたり、白い目で見られまくっていたりして、ちょっと泣きそうになりながら
もしつこく追いかけてくる男が何者かというのが問題だ。普通の人ならそろそろ諦めて
いてもおかしくないのに。
その前に、なんでこっちが見えるの? 人間じゃないから? なら仕方ないやハハハ。
差別論って便利だ。
それにしても、昔は追いかけっこは得意だったのに、相手から見られているというだ
けでこれだけ不安になるのは何故だろう。普通、そんなことは当たり前なのに。
初めての町で逃げ回ったことも追いかけ回したこともある。確か、そのときは……
……
…………うわぁ、馬鹿らしい。
考える必要がないのに気がついた。
ライは近くの建物の壁をすり抜けて通りから逃げた。
残念そうな叫び声が聞こえた。
いい気味だ。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
細い路地に出た途端、剣を突きつけられた。
さっきの男がにやにやしながら見ている。やっぱり嫌な眼だ。自信に溢れて、意地の
悪げな、今すぐにでも潰してやりたいと思うような、目。
「普通、裏から出てくるよな、こういう場合」
ライはなんとも答えられずに――とりあえず、実体を現すことにした。
まさか捕まえる手段もなしに追ってきているとは考えられない。相手からだけ手を出
せる状況は避けておきたかった。
「馬鹿のフリして追いかけた甲斐があるってもんだ」
「……何の用?」
「人間のマネがお上手なことで」
「ケッコー疲れるから手短にお願いできるかな」
悪意のある相手には毒々しい返事。友好的にしてやる必要なんかあるものか。
話をする気があるということは、少なくとも、理由もなく追いかけてきたのではなさ
そうだ。
手配書の内容を思い出す。大丈夫だ、賞金は“生存に限り”支払われる。致命的なこ
とにはなっても、直接殺されることはない……と、信じたい。
「……テメェだな、セラフィナ皇女をさらったの」
思考を切り替える。楽観的な思いを振り払う。表情に出ないように注意しながら、ラ
イは男を観察した。さっき追ってきたときと雰囲気は変わらない。がっしりとした体格、
短い砂色の髪。肉食動物のような、という比喩が、的確ではないが間違ってもいない。
「魔物を連れてたっていうヤツもいれば、茶髪の優男が一緒だってほざくヤツもいた。
最初は情報が混乱してるのかと思ったが……ちょっと記憶にひっかかって手配書の束
をあさってみたら、思ったとおり、条件にぴったりのにーちゃんがいるだろ?
あんなテロ起こすなんて大物だ。皇女サマが今にも危険にさらされてるかも知れない
ってことで、オレたちは調査だけじゃなくて捕縛も引き受けたのさ」
説明下手なのか詳しいことを教える気がないのか、話の内容がよく読み取れない。非
常に好ましくない内容だ、ということだけはよくわかるのだが。
無駄だと思いながら問い返す。
「……ちょっと待って、さらったって何?」
「故国から忽然と姿を消したお姫さまを探し出してくれ、というのがオレたちの受けた
依頼さ。いつも一緒にいるはずのお目付け役も戻らない。これは、お姫さまが何者かの
手に落ち、謀略のために利用されようとしているに違いない――」
オレたち、ということは複数だ。
それから内容を反芻する。お目付け役? 船の上で聞いた、黒髪の剣士か。
で、今の状況は? とてもヤバいということしかわからない。恐れていた事態でもあ
る。知らない国の騒動に巻き込まれた。冗談じゃない。
「違う! セラフィナさんに聞けばわかる。
さらってなんかない」
男は剣の切っ先をさらに近づけた。喉元。
チリチリと鳥肌が立つような感覚で、魔剣と知れる。
「……世間知らずのお姫さまだ。うまく言いくるめられたに決まってる」
「そんな無茶な――!」
「実際はどうだろうと、そういうことになるっつってんだよ。
お姫さまは連れ戻されて、政治の道具に戻るんだ」
ふざけるな。
「生憎と競争相手がいてな、テメェに構ってる時間はないんだ。
ここの領主が魔法使いと手ェ組んで、お姫さまを狙ってんだよ。その賞金は惜しいが、
もっと魅力的な金額を約束されてるんでね。生け捕りなんて面倒な手間はかけない」
男を睨む。
遠い路地からざわめき。気が散ってイライラする。
悟られぬように注意しながら、必死に逃げ切る方法を探す。壁の向こうへ逃れるのと
剣が届くのと、どちらが早い? こいつの気を逸らすにはどうすればいい?
「――バジル! どこだ!?」
激しい足音が聞こえた。男が思わず反応した隙に、ライは姿を消して背中から壁へ飛
び込んだ。
「お姫さんがさらわ――」
途中で声は壁に遮られたが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
セラフィナさんがさらわれた? ライは走り出した。
「――ってのに、お前はこんなところで何してんだ!」
バジリウスは舌打ちして相棒を振り返ったが、その言葉の内容を理解すると、余計な
時間を使わせた(彼が勝手に追っていたのだが)亡霊が消えた壁を睨みつけた。
連れ帰る際に邪魔になりそうだから先に片付けておこうと思ったのに、その隙をつい
て別クチに目的の皇女が奪われたとなると、もはや笑い話にもならない。
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