キャスト:リウッツィ・エルガ・マシュー
NPC:ジラルド
場所:コールベル/エランド公園
――――――――――――――――
すてきな夕餉
いじわるメイドがやってきた
しょっぱいワインに甘い肉
むせても飲み込む水はない
なにもかもが気に入らない
あぁなんてすてきな夕餉!
・・・★・・・
相手が女(それも若い)と知るや否や、店主は持っていた縄の束を
ジラルドが抱えていた木箱の上に放り出し、声のするほうへ
一目散に駆けていった。
(あの人あんなに素早く動けたんだ…)
普段の隙だらけの姿からはおよそ想像できない行動に、
しばしぽかんとして――とりあえず追い掛ける。
木箱を抱えて走ることはまず無理で、しかもマシューが置いていった
縄の束が衝撃で思いの外(ほか)跳ねる。
それを落とさないようにあごの先で押さえ付けるようにしながら
どうにか早足で辿り着くと、さきほどの美女とはまた別に、
もう一人女がいた。
女は噴水のふちに腰掛けさせられ、やや困惑するように美女と
マシューを見ていたが、ジラルドが姿を見せるとさらに困ったように
身じろぎした。
野次馬かなにかかと思われたらしい。
「ジュンちゃん、彼女、転んじゃったみたいなんよ」
不必要なまでに低くしゃがみこんで女の脚を見ていたマシューが、
振り返ってきた。
「えっ」
あんたそれほぼ痴漢ですよと一言言ってやりたかったが、
踏みとどまって女に目を移す。めくられたズボンのすその下、
膝には血がにじんで痛々しく、思わず声をかける。
「大丈夫ですか?」
「ええ、まぁ」
いきなり複数の他人に囲まれて、ばつが悪そうに彼女は答えてうなずいた。
「気分が悪いとか」
「いえ、勝手につまづいただけで。なんかこう…縄みたいなのに
引っ掛かったというか」
さっとマシューを見る。彼は立ち上がったかと思えば、ごく自然に
女の隣に腰掛けなおした所だった。そこでようやくこちらの視線に気付き、
頭の上に疑問符を浮かべてこちらを見返してきた。
「ん?」
「なんかしてませんよね」
「しとらんてー」
朗らかに笑いながら一蹴する。確かにマシューの言動は普通ではないが、
見知らぬ他人を罠にかけて怪我をさせるような人間ではない。
が、その態度にあまりにも重みがなさすぎて癪に障った。
「えと、寄るところがあるのでもう行きますね。ありがとうございました」
心配されて悪い気はしないだろうが、居心地はさほどよくないようだった。
ズボンのすそをむりやりなおして立ち上がり、ぺこりとお辞儀をして、
女は立ち去って――
2、3歩歩いたところで振り返り、ポケットから一枚の紙を取り出し広げながら
戻ってきた。簡単な地図の書かれたメモ書きのようだ。
「すみません、ここに行くにはこの道でいいんですよね」
「えっと…」
答えたのは美女のほうだったが、どう見ても地元の人間ではなかった。
案の定、示されたメモを見て困惑している。抱かれている猫は
ふんふんと紙切れのはじの匂いを嗅ぐそぶりを見せたが、
すぐに興味をなくして女の腕の中に頭を突っ込んでしまう。
「うん、あっとる」
と、マシューが口を挟んだ。ジラルドもつられて女の手元を覗き込む。
行き先は図書館だった。
少なくともジラルドには無縁の場所だったが、マシューは心得たように頷く。
そこはコールベルでも有数の大きい図書館で、所蔵する資料が膨大なために
諸外国からも利用者があるほどだが、それ故に利用にあたって多くの
制約がかけられたり、申請も必要になってくるため、一般人にとって
身近な施設とは言い難い。
「でもこの道だとちょいと迷うかもしれんなぁ」
「そうなんですか?」
「うん、船を使ったほうがいい。そんなに歩かなくてもいいし」
マシューが言う「あっち」とは、彼が経営している店がある商店街を
通るルートのことらしい。確かに水路が巡るこの街では、船を使うと
徒歩よりずっと短い時間で目的地にたどり着けたりする。
足を怪我しているなら確かにそちらのほうが効率がいい。
「へぇ、船?」
興味深そうに、猫を抱いている女が口を挟んだ。ジラルドはできるだけ
視線が胸元に集中しないように注意を払いながら、やや遠目で頷いた。
「渡し船ですよ。このあたりじゃ道の長さより水路の長さのほうが
長いっていわれるくらいだから、ほとんどの人が使っているんです」
「あっちに船着場があるんよ。どうせ通り道だし、うちに寄って
絆創膏のひとつでも貼って行けばいい」
(それが目的か)
意気揚々とぺらぺら喋っている店主の横顔を半眼で睨みつけると、
ジラルドはため息をついた。
「えーと…」
案の定、怪我をした女は返答に困っていた。ここコールベルでは
観光客を標的にした犯罪が頻発している。それを知らないわけでは
ないのだろう。場慣れしたマシューの様子は、その警戒心を解くどころか
さらに強める要素でしかない。
「面白そう。ついていっていいかしら」
意外なところから答えが返ってきた。軽く驚いて視線を声の主――
異国の服を着た女に転じる。意表をつかれたのであらぬ所を見てしまうが、
それを察したような緋色の猫が威嚇するように毛を逆立てたので、
慌てて目をそらす。
「勿論」
にこりと笑うマシュー。それからさっと噴水のふちに腰掛ける女に
目をやり、
「お姉さんはどうする?」
と訊いた。女は順々に三人を見てから、お願いします、とまるで
人事のように短く答えた。
――――――――――――――――
NPC:ジラルド
場所:コールベル/エランド公園
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すてきな夕餉
いじわるメイドがやってきた
しょっぱいワインに甘い肉
むせても飲み込む水はない
なにもかもが気に入らない
あぁなんてすてきな夕餉!
・・・★・・・
相手が女(それも若い)と知るや否や、店主は持っていた縄の束を
ジラルドが抱えていた木箱の上に放り出し、声のするほうへ
一目散に駆けていった。
(あの人あんなに素早く動けたんだ…)
普段の隙だらけの姿からはおよそ想像できない行動に、
しばしぽかんとして――とりあえず追い掛ける。
木箱を抱えて走ることはまず無理で、しかもマシューが置いていった
縄の束が衝撃で思いの外(ほか)跳ねる。
それを落とさないようにあごの先で押さえ付けるようにしながら
どうにか早足で辿り着くと、さきほどの美女とはまた別に、
もう一人女がいた。
女は噴水のふちに腰掛けさせられ、やや困惑するように美女と
マシューを見ていたが、ジラルドが姿を見せるとさらに困ったように
身じろぎした。
野次馬かなにかかと思われたらしい。
「ジュンちゃん、彼女、転んじゃったみたいなんよ」
不必要なまでに低くしゃがみこんで女の脚を見ていたマシューが、
振り返ってきた。
「えっ」
あんたそれほぼ痴漢ですよと一言言ってやりたかったが、
踏みとどまって女に目を移す。めくられたズボンのすその下、
膝には血がにじんで痛々しく、思わず声をかける。
「大丈夫ですか?」
「ええ、まぁ」
いきなり複数の他人に囲まれて、ばつが悪そうに彼女は答えてうなずいた。
「気分が悪いとか」
「いえ、勝手につまづいただけで。なんかこう…縄みたいなのに
引っ掛かったというか」
さっとマシューを見る。彼は立ち上がったかと思えば、ごく自然に
女の隣に腰掛けなおした所だった。そこでようやくこちらの視線に気付き、
頭の上に疑問符を浮かべてこちらを見返してきた。
「ん?」
「なんかしてませんよね」
「しとらんてー」
朗らかに笑いながら一蹴する。確かにマシューの言動は普通ではないが、
見知らぬ他人を罠にかけて怪我をさせるような人間ではない。
が、その態度にあまりにも重みがなさすぎて癪に障った。
「えと、寄るところがあるのでもう行きますね。ありがとうございました」
心配されて悪い気はしないだろうが、居心地はさほどよくないようだった。
ズボンのすそをむりやりなおして立ち上がり、ぺこりとお辞儀をして、
女は立ち去って――
2、3歩歩いたところで振り返り、ポケットから一枚の紙を取り出し広げながら
戻ってきた。簡単な地図の書かれたメモ書きのようだ。
「すみません、ここに行くにはこの道でいいんですよね」
「えっと…」
答えたのは美女のほうだったが、どう見ても地元の人間ではなかった。
案の定、示されたメモを見て困惑している。抱かれている猫は
ふんふんと紙切れのはじの匂いを嗅ぐそぶりを見せたが、
すぐに興味をなくして女の腕の中に頭を突っ込んでしまう。
「うん、あっとる」
と、マシューが口を挟んだ。ジラルドもつられて女の手元を覗き込む。
行き先は図書館だった。
少なくともジラルドには無縁の場所だったが、マシューは心得たように頷く。
そこはコールベルでも有数の大きい図書館で、所蔵する資料が膨大なために
諸外国からも利用者があるほどだが、それ故に利用にあたって多くの
制約がかけられたり、申請も必要になってくるため、一般人にとって
身近な施設とは言い難い。
「でもこの道だとちょいと迷うかもしれんなぁ」
「そうなんですか?」
「うん、船を使ったほうがいい。そんなに歩かなくてもいいし」
マシューが言う「あっち」とは、彼が経営している店がある商店街を
通るルートのことらしい。確かに水路が巡るこの街では、船を使うと
徒歩よりずっと短い時間で目的地にたどり着けたりする。
足を怪我しているなら確かにそちらのほうが効率がいい。
「へぇ、船?」
興味深そうに、猫を抱いている女が口を挟んだ。ジラルドはできるだけ
視線が胸元に集中しないように注意を払いながら、やや遠目で頷いた。
「渡し船ですよ。このあたりじゃ道の長さより水路の長さのほうが
長いっていわれるくらいだから、ほとんどの人が使っているんです」
「あっちに船着場があるんよ。どうせ通り道だし、うちに寄って
絆創膏のひとつでも貼って行けばいい」
(それが目的か)
意気揚々とぺらぺら喋っている店主の横顔を半眼で睨みつけると、
ジラルドはため息をついた。
「えーと…」
案の定、怪我をした女は返答に困っていた。ここコールベルでは
観光客を標的にした犯罪が頻発している。それを知らないわけでは
ないのだろう。場慣れしたマシューの様子は、その警戒心を解くどころか
さらに強める要素でしかない。
「面白そう。ついていっていいかしら」
意外なところから答えが返ってきた。軽く驚いて視線を声の主――
異国の服を着た女に転じる。意表をつかれたのであらぬ所を見てしまうが、
それを察したような緋色の猫が威嚇するように毛を逆立てたので、
慌てて目をそらす。
「勿論」
にこりと笑うマシュー。それからさっと噴水のふちに腰掛ける女に
目をやり、
「お姉さんはどうする?」
と訊いた。女は順々に三人を見てから、お願いします、とまるで
人事のように短く答えた。
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滅びの巨人 第9話 : 雑とサラ、そしてエリオット
_____________
PC : 雑
NPC : サラ、エリオット
場所 : ポポル郊外のクレーター
_____________
*あらすじ*
クレーターにおびき寄せられた雑は、突如現れたカマキリのモンスターと戦うことに。魔法学院の生徒、サラとエリオットが駆けつけるも、雑は二人の応援を拒み、実力を試すことに。サラとエリオットは、雑が秘める、底知れない炎の力を垣間見ることになる。そして二人は、その力に嫉妬を覚える。
武者震いが襲ってきた。目の前にいる、カマキリの化け物、これが雑の最初の相手だ。いかなる光も拒むかのように黒い体に、赤い目が鈍く光る。エリオットとサラは、この怪物に見覚えがあった。ポポル近辺に生息する、モンスターと似ていたのだ。けれども、あまりに大きくて、禍々しかった。なによりも、体中からにじむ邪悪なオーラが、下級モンスターとかけ離れていた。
「ねえ、エリオット。これって」
「ああ、講義で習った。下級モンスターのサイザーのはずだ」
エリオットはソードを握り締めた。
「だが、こいつは違う。下級モンスターに違いないが、こんな大型じゃないはずだ」
「お二人さんよ」
雑が話しかけてきた。
「何か知ってるらしいが、ちょいと引っ込んでくんな。ちょっくら腕試しすっからよ」
そういって雑はエリオットたちにウインクし、ニッと笑った。
「どうする? エリオット」
「ここは任せることにしよう。やつは使えそうだ」
エリオットたちはだまってその場を見守ることにした。にわかに沈黙が流れ、シャキシャキという、謎の鳴き声がする。雑はまるで、修羅場をくぐってきた戦士のごとく、どっしりと構えている。モンスターがおもむろに鎌を振りかざすと、雑はすかさず反応した。せい! と気合を発して、横っ腹にハンマーの鉄槌を加えたのだ。鍛え抜かれた筋肉が繰り出す一撃はすさまじく、空気がはじけたのではないかと感じるほど音がした。しこたま腹を打たれたモンスターは吹っ飛ばされて、樹木が横倒しになった。
「どうでぇ!」
エリオットとサラは目をまんまるくして驚いてしまった。
「すごい!」
「なんてヤツだ……。力だけは一流だな……」
ところがこの強烈な一撃にも関わらず、怪物は起き上がった。片方の鎌を杖代わりにしてはいるものの、まだまだ余力があるようだ。
「もういっぺんお見舞いしてやるぜ」
雑はハンマーを担ぎ、突進した。するとモンスターの赤い目が一際赤くなった。
「あぶない!」
サラが叫んだと同時に、雑は大きくジャンプした。怪物の眼から光線が出たところを飛び越え、雑は空中で体勢を整えた。みるみるうちにハンマーが炎を帯び、キャンプファイアーと見まごうばかりに燃え盛った。ハンマーを天高く掲げ、脳天に叩きつけた。
「くらえ!」
怪物は地震かと思うほど揺れたと思った瞬間、地獄のような熱さを感じた。視界がみるみるうちに狭くなり、闘争本能が薄れ、倒れこんだ。怪物は煙のようになって消えてしまい、後にはなぎ倒された樹だけが残った。
雑は見事に着地を決めると、満面の笑みを浮かべた。
「やったぜ」
ハンマーを肩に持ち直して、エリオットたちに近づいていった。
「おどろいたわ」
「お前、なかなかやるな。ずいぶんと荒削りだが」
「どうも。にしても、こいつはなんなんだ?」
「わからん」
エリオットが答えた。
「だが、村人に危害を加えようとしているのは確かだ」
そういって、ポポルの居住区の方角をさした。
「なるほどね。ところで、お前さんたちは?」
「そうね、自己紹介がまだだたわね」
サラが変わって、自己紹介をした。自分達は魔法学院から派遣された者で、ポポルで起きている、一連の事件を追跡していると話た。
「あなたは?」
「俺か? 俺は雑だ。鍛冶屋なんだが、修行のために旅してる。武器が壊れたら、まかせてくんな」
親指でハンマーをさして、ニカっと笑った。口元には花崗岩のように、真っ白な歯が並んでいた。
「そいつは頼もしい」
エリオットはぎこちなく笑った。
「(利用しやすそうな男だな。ま、いい子ちゃんぶっておくに越したことはなかろう。せいぜい使わせてもらおう)」
エリオットがそう考えた瞬間、雑は脳に不快感を覚えた。相手がいかがわしい考えをすると、いつもこうなるのだ。こういうときは、あからさまに警戒せず、様子をみるのが一番だ。握手をもとめるエリオットに、釈然としない思いを抱きつつも、応じることにした。
「私はサラ。よろしくね」
「おう!」
「(さっきの炎、なかなかのものだったわ。ま、私ほどじゃないけどね。)」
雑は額を押さえた。
「あら、どうかしたの?」
「いや、悪い。オレ、偏頭痛もちなんだ。そんなことより、よろしくな」
雑はすか手をさしだした。魔法学院といったら、魔法教育機関の頂点だ。ココロを読めないとも限らない。実際のところ、ココロを読む能力には雑の才能のほうが数倍優れていたのだが、訓練を受けていない雑には見抜く目がなかった。
「そうですか。お大事になさってください。よければ回復してさしあげますけど」
手を握った瞬間、こんな思考が流れてきた。
「(あら強がっちゃって。どうせさっきのモンスターにやられちゃったんでしょ。意外とたいしたヤツじゃないのかしらね。まあそんなこと、どうだっていいけどね。私にくらべたらカスみたいなもんだし)」
「いや、大丈夫だ。ちょっくら顔を洗えばすぐ治るさ。んじゃ、お疲れ」
雑は精一杯の笑顔で答えた。魔法学院の人間は、こんなものなのか? 忌まわしい考えを必死にふるって、荷物を担ぎ、その場を去った。初勝利の余韻を、台無しにされた気分だった。
「このままじゃ終われねえよな」
雑は夜空を見上げた。夏の星座が煌々と照り、数え切れない星が瞬いている。怪物の前に現れた巨大な影は、この空のどこかから現れたのか?
「この村で何が起きてるか、俺さまの目で確かめてやる」
雑はこぶしを握り締めて、夜道を歩いていった。
________________
滅びの巨人 第10話 希望の子
_______________________
PC : ベン、テッツ
NPC: ランバート、プレオバンズ、デービー
場所 : ポポルの剣術道場、テッツの臨時研究室
________________________
雑が未知のモンスターと戦闘を繰り広げた翌朝、ベンはポポルの道場にいた。今日は、近々開かれる大会の、選抜メンバーの決める日だ。教官のデービーが対戦表を張り出すと、教室の誰もが対戦相手の名前を確認した。
「あ、セイル」
ベンの初戦の相手はセイルだった。それも、今日の一番手になっている。
「それでは、セイル、ベン。両者は前へ」
ベンは木剣をとって、位置にたった。三メートル向かいにたつセイルは、ニヤッと笑った。が、どこかぎこちない。
「(セイルってば、ガチガチだよ。もっと落ち着かなくっちゃ)」
セイルはゴクッとつばを飲む。デービーの「構え」の合図とともに、二人は木剣を構える。道場の空気が、一気に引き締まった。
「始め!」
デービーの掛け声がすると、セイルは勢いよく突進した。
「(あ! 速い!)」
セイルのスピードは、明らかに向上していた。あのテッツという、魔法学院の教授のおかげだろうか。以前と比べてセイルは、格段の進歩を遂げていた。セイルは遠間から打ちうつけ、ギリギリとにじよる。正直言って、ベンから見ればまったく大したことない力だった。しかし、そのあまりの成長ぶりに、ベンはあっさりと撃退することが不憫に思えた。周囲は「あのセイルが、ベンを追い詰めている!?」と映り、目を真ん丸くしていた。
「(なかなかやるねセイル。だけど、これからだよ!)」
ベンは足に力を入れた。自慢の脚力でセイルから飛びのこうとしたのだ。ところが、セイルは驚くべき技を繰り出した。
「てや!」
「うわ!」
セイルは何の前触れもなく体をそらした。ベンは支えを失って、前のめりになった。ちょうど寄りかかっていた壁が、倒れたのと同じ状況だ。セイルはベンの木剣の柄を取り、円を描くように回転した。
「うわわわわわあ!?」
周囲は呆然とし、ベンは混乱した。ぐるぐる回っていたところ、突然ベンは木剣を引っ張りあげられ、後頭部にもっていかれた。勢いがそのまま、転倒のエネルギーに変わったのだ。一瞬だけ見えたセイルの顔は、笑っているようだった。
「(まだだ!)」
ベンは思い切り床をけって飛び上がり、身軽に一回転して着地した。
「なっ、なにい!?」
セイルの表情は「ありえない」と言いたげだ。ベンはそのまま、反撃に打って出た。
「(たしかセイルはこうやって……)」
ベンは自分の木剣を握っている、セイルの手を見た。グイっと引くと、セイルはバランスを崩した。ベンはセイルを引き回し、先ほどとは比較にならないスピードでグルグル回った。あわれセイルの目玉は、ナルトそっくりだ。
「(こう!)」
ベンは振りかぶるようにして、木剣を引っ張りあげた。その瞬間、ベンはひらめいた。これは素振りの動きだ。方向転換をして、振り下ろせばいいだけだ。ベンがそのとおりにすると、なんとセイルの足が浮かび上がり、空中で仰向けになった。
「(やべえ! 受身しねえと!)」
セイルの顔は真っ青だった。セイルは床にたたきつけられる瞬間、手のひらでバチンと床をたたいた。次の瞬間襲ってきた衝撃に、セイルは息もままならなくなってしまった。ベンがセイルののど元に木剣を突きつけたところで、試合は終了した。
「やめ!」
デービーの合図がすると、セイルは気合に任せて、強引に立ち上がった。強がってはいるが、猛特訓の成果をベンにマネされ、ショックを受けているようだ。セイルが窓のほうを向いたので、ベンもなんとなくそちらを向いた。テッツが枝から試合を観ていた。セイルはテッツにペコりとお辞儀をすると、自分の席にまで戻った。
・
・
・
・
・
次の対戦相手は、ランバートだった。慎重は180cmを超え、筋肉たくましく、この道場でダントツの力持ちだ。手には、普通の倍の長さの木剣が握られている。ベンは礼をとりながら、戦法を考えた。セイルのときとは、はっきりいってわけが違う。正面からぶつかったら、間違いなく不利だ。
「始め!」
ランバートは合図とともに、得意の八相の構えをとった。骨ばった顔に笑顔はなく、どっしりとにらみを利かせている。ジリジリとせまるすり足に、ベンは威圧感を覚えた。まず、出方をさぐろう。ベンは強靭な脚力で、踏み込んで突きを放った。ベンの突きは凄まじいスピードであったとはいえ、ランバートにはたやすく受け止められた。
「ふん!」
ランバートは力づくベンを突き飛ばした。ベンは衝撃で眉をしかめたが、空中で一回転して足から壁にぶつかり、そのまま着地した。たとえ全国大会や一流の冒険者でも、そうそうできないほどの、華麗な動きだ。ライバル意識がことさら強いセイルでさえも、ベンの動きの華麗さは、認めざるを得ずにいた。
ランバートは高速のすり足で迫り、怪力の袈裟切りを繰り出す。ベンは猛烈な速さで回り込み、攻撃をかわした。するとランバートの木剣が壁を打った。巨大な岩石の衝突にも劣らない轟音が鳴り響き、道場の全員がぎょっとした。
「(うわぁ! ランバートったら、めちゃくちゃ鍛えてるよ! こまったなぁ……)」
「(ベンのやつ、なんつースピードだ。セイルもかなり鍛えていたようだったけど、やっぱりさっきは本気じゃなかったか)」
セイルは唖然とした。
「(へ……へん! ま、またちょっとばかし、先をこされたようだな。ま、すぐに追いついてやるさ)」
そのままランバートがラッシュを仕掛けた。ベンはやむ終えず受け止めたが、その豪腕は予想をはるかに超えていた。木剣の新まで震えているかと思うほどの振動と、手の痛みが襲ってくる。数発受けただけで、ベンの握力は弱まってしまった。この激しい攻撃のなかで、ランバートは巧みなフェイントを行った。ベンの反射神経をもってしなければ、大怪我をしかねなかったことだろう。
この調子では負けてしまう。ベンは覚えたての技を使うことにした。
「(よっし、いくよランバート)」
ベンの木剣が、緑色に輝き始めた。
「(……ん? 魔法剣か!?)」
高度な集中力と、一定レベルの魔法力がないと使えない技だ。ピンチに陥りながらも、ベンは脅威の集中力を発揮したのだ。木剣が衝突する瞬間、ベンは魔法力を解放した。風の力が生み出され、凄まじい反発がランバートを襲う。すかさずベンは再度魔法剣を発動し、ランバートに突進していく。
「くっ!」
ランバートは渾身の力で木剣を横に薙いだ。ベンは体を丸めてジャンプし、ランバートの頭上をとった。ベンが魔法剣を振るうと、突風がランバートを突き飛ばし、彼をうつぶせにした。ランバートが顔を上げると、そこには木剣があった。
「やめ! 勝負あり。ベン・ドール連勝により、出場権獲得」
パチパチパチパチと、拍手が巻き起こる。セイルも機械的な拍手を送った。ランバートはベンの手をとって立ち上がると、苦笑いをした。
「あちゃー、負けちまった。いけるとおもったんだがな」
「ランバートってば、ただでさえすごい力なのに、なおさら強くなってて大変だったよ。がんばって出場権を獲得してね」
ベンはパチリとウインクした。
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ランバートはその後、危なげなく二連勝して選手に選ばれた。セイルも、テッツの特訓の成果を発揮して、どうにか選手となった。選抜試合の終了後、三人は一緒に帰ることにした。時刻は午後三時で、まだ暑い。アブラゼミやミンミンゼミが、うるさいくらいに鳴いている。
「かー! あつっくるしいな! おいセミ! ちょっとくらい静かにしてくれ!」
セイルが両手をさすりながら言った。見栄を張ってランバートの攻撃をもろに受けたので、ジンジン痛むようだ。
「ポポルだけだよ、こんなに自然が豊かなのは。好きなだけ鳴かせてあげようよ。みんな交尾の相手を探すのに必死なんだからさ。邪魔しちゃかわいそうじゃないか」
「へぇー、ベンが交尾ねぇ」
セイルがいたずらっぽく笑った。たちまちベンの白いほほが赤くなった。
「ち、ちがうよ! ぼ、ぼくじゃなくて、セミさんたちが……!」
「なあに言ってんだ。そんなんじゃお前……っお?」
セイルが何かに気づいた。ベンとランバートが視線の方向を見ると、テッツがたっていた。
「がっはっはっは! セイル、ギリギリじゃったなぁ。特訓が甘かったかの?」
「げっ、師匠!? いつのまにこんなところへ。……って、それよりも、なにかあったんすか?」
「うむ、それがの……」
テッツの声が、若干低くなった。
「お主らにちょいと頼みがあっての。協力してもらえんか?」
・
・
・
・
・
ベンたちはテッツに連れられ、森の奥へと入っていった。これからどこへ行くのかたずねると、テッツの研究室にいくとのことだった。極秘情報を教えるから、内密にせよ、とも言われた。三人は隕石のことを思い出した。当日は安全だ、なんていっておきながら、実は危険な物体だったとでもいうのだろうか? 蒸し暑い中で、冷ややかな汗が伝った。
「到着じゃ」
そこには壁としっくいが美しい、エキゾチックな家屋があった。
「中に入れ。ここは即席の研究室で、隠れ家のようなものじゃ。秘密はこの中にある」
テッツが扉を開くと、ギィィ……という、きしむ音がした。今にも倒壊しそうな雰囲気に、三人は冷や汗を流した。ところが中に入ると、およそ外見とはかけ離れた世界が広がった。ものすごい広くて、りっぱな部屋なのだ。吹き抜けのホールのようなつくりで、なんと六階まである。ホールにはわらで編んだめずらしいクッションと、四角くて小さな土間、そして変わったやかんが吊るしてある。一階から六階まで、手すりがなく、幅の広い螺旋階段でつながっていた。ランバートは、心底驚かされた様子だ。
「すごいな。これがテッツ先生の研究室か。さすが魔法学院の先生だ」
「いや、ほんと驚いた。いかにもちっこそうなくせに、デカいもんだぜ。ベンのちんちん並みだな」
セイルが言った。
「はは、確かにそのとおりだ」
「も、もう! やめてってばあ!」
ベンのほほが、またもや赤くなった。ベンが中に入ろうとしたとき、テッツが呼び止めた。
「まて、ベン。靴を脱げ」
「あ、ごめんなさい」
ベンはあわてて靴を脱いだ。セイルとランバートもそれに習った。三人がずんずんと奥へ行こうとすると、テッツが再び呼び止めた。
「あー、靴をそろえよ」
ベンたちが振り返った。玄関にある、藁のサンダルみたいなものは、体育座りした生徒のように、行儀良く並んでいる。それに対してベンたちの靴は、鬼ごっこをする子供みたいにバラバラだ。三人はキチンと靴を整えた。
「よし!」
テッツは革靴を脱いだ。体を玄関からみて平行の方を向き、靴を整えた」
「何事も礼儀作法は大事じゃからな」
テッツは奥へ進みながら言った。階段を上り始めたので、ベンたちも付いていった。その途中、三人は部屋の様子を見学した。二階には巨大な金属製の箱がぎっしり並んでいるかと思えば、三階には蛇口とガラス容器が並ぶだけだった。四回はその中間くらいの間取りで、五階はたくさんのタンクが複雑なパイプで繋がっていた。三人はそのまま、六階に上がった。
「ここじゃ。いろいろ興味深いものがあるじゃろうが、不用意に手を触れてはならんぞ」
そこはいくつかのテーブルがおいてあり、それぞれに薬品の収容棚が設置されている。各テーブルには、簡便な装置が設置してあった。ガラス管に繋がったビンの中に、真っ黒い砂粒がギッシリと詰っている。この部屋の奥には、透明なシートに包まれた、際だって大きな装置があった。シートの奥で、誰かが忙しそうにしている。もう一人の魔術学院教授、プレオバンズだ。
「バンズ、異常はないか?」
「おお、テッツ。万事順調に運んでおるよ。今度はもしかしたら、解毒できるかもしれん」
プレオバンズはシートから出てきた。彼は背が高く、ランバートよりもさらに頭ひとつ大きい。やや白髪はボサボサしているが、手の込んだ魔術学院のローブを着こなしていて、なかなかおしゃれだ。
「こんにちは。えーと……」
ランバートが言いよどんだ。名前が思い出せない。
「プレオバンズだ。バンズと呼んでおくれ。君たちとは隕石の日にしか会ったことがないから、名乗り忘れて追ったのう。それよりも、これを見てごらん」
プレオバンズは、さきほどの簡便な装置をさした。
「言うまでもなく、これらは隕石の破片だ。よく見ていなさい」
バンズは手のひらで小さな火をおこした。舞い上がった煙の跡には、昆虫のゲンゴロウがあった。
「みてくれはただのゲンゴロウだが、本物と同じ細胞でできた、精巧な模型だよ。いうなれば、死んで間もないゲンゴロウだ。これを隕石に触れさせると……」
バンズはゲンゴロウをガラス瓶に入れた。ゲンゴロウが溶液内で隕石に触れると、変化がおきた。
「あ!」
三人は一斉に声を上げた。隕石はゲンゴロウの中に入り込んでしまったのだ。しばらくすると、ゲンゴロウはスイスイ泳ぎだした。ゲンゴロウはみるみる黒ずんでいき、羽に不気味な模様が浮かんだ。ミミズ腫れの魔法陣のようなそれは、初めオレンジに光り、だんだんと赤くなっていく。ベンはこの模様に、非常な嫌悪感を覚えた。そのとき、ゲンゴロウが三人をにらんだ。目は赤く発行し、生き物の温かみは微塵もない。三人は思わず顔を引いたが、ゲンゴロウは水面から飛び出そうとした。しかし、ゲンゴロウは動きを止め、苦しそうにもがき、ビンのそこに落ちた。
「と、こんなもんだ」
プレオバンズが指を弾くと、ゲンゴロウは消滅した。跡には、隕石の粒が残された。
「び、びっくりしたあ!」
「なんじゃこりゃあ!」
「せ、せんせえ! 早く言ってくださいよ! 心臓止まるかと思いましたよ」
ベン、セイル、ランバートが言った。
「ははは、悪いことをしたね」
「どうじゃ。これは生物の死骸を侵食して凶暴化させる。ほうっておくわけにはいかんのじゃ。お主らも、手伝ってはくれんかの?」
三人は顔を見合わせ、うなずいた。
「頼もしい限りじゃ。ガッハッハッハ!」
テッツはうれしそうに笑った。
テッツの説明によると、次の二つを手伝ってほしいとのことだ。一つ目は、隕石に侵されたモンスターから、ポポルを防衛すること。二つ目は、隕石を無力化する方法を調査することだった。
「テッツ先生、こんな危ないもの、ボクたちだけで大丈夫なんですか?」
ベンが質問した。
「魔術学院にはちゃんと連絡してある。だが、どうやら演習授業扱いにされてしもうた。一刻も早く解決せねばならん。そこでじゃ、お主らに便利なアイテムを渡したい」
テッツは三人に、魔術学院のシンボルが印刷された手帳を渡した。
「備え付けのペンで文字が書ける。文面ができたら次のページをめくるのじゃ。送りたい相手の名前をペンで押せば、相手の手帳に文章が浮かび上がる。ためしに使ってみよ」
三人は言われたとおり、使ってみることにした。ベンは「こんにちは。みんな、がんばろうね!」と書き、セイルは「ああああああ」と、ランバートは「オッス!」と送った。
「うまく使えたようじゃな。悪口とかには使うでないぞ。何か知らせがあれば、わしらのほうから手帳に送る。情報を交換し合って……!」
透明シートの向こうから、ガタガタと音がした。装置が小刻みにゆれている。
「な、なんすか? あの、いかにもアブなそ~な揺れ方は?」
セイルが間の抜けた表情で言った。
「下がるんだ!」
バンズが指示した。ピシッ、と乾いた音がしたとき、テッツが叫んだ。
「伏せい!」
テッツがベン、セイル、ランバートを後ろへ突き飛ばした。三人は小柄なテッツのどこに、こんな怪力があるのかと思った。抗議の声を上げようとしたそのとき、装置が砕けた。次の瞬間、正気を疑う光景が展開された。突如として飛び出した巨大な手が、つかみかかってきた。その邪悪な黒い手に、テッツは直前で回り込んだ。そのまま禍々しい手の中指をがっしり掴み、ねじった。テッツの全身が、この手をひねる形となり、亡者の手をもぎ取った。分離された腕は煙となって消え、テッツはもいだ手を踏みつけた。ジタバタする力は相当なものであるのに、まるでビクともしない。ベンたちは、目を真ん丸くして見入ってしまった。
「ふん!」
テッツは気合とともに、亡者の手を踏み潰した。手は二、三度痙攣したのち、消滅した。床には、握りこぶしほどの、黒い石が転がっていた。数日前に降ってきた、あの隕石だ。
「やれやれ、また失敗か」
プレオバンズがおもむろに隕石をひろった。
「ば、バンズ先生! さわっちゃって大丈夫なんですか?」
「ん? ああ、私は魔方陣で手をガードできるからね」
「ふん、ベンよ。マネするでないぞ」
テッツは砕けた装置の中から、黒い金属のケースを取り出した。プレオバンズが隕石に文様を描くと、そこに収容した。ランバートは心配そうにたずねた。
「あの……、さっきまでそこに入れておいたんですよね? 大丈夫なんでしょうか? その……そのなかから、飛び出してきた……はずですよね?」
「いや、それがね……」
バンズは苦笑いした。
「ケース自体は安全だ。極めて、ね。ただ、それゆえこのケースに入れたままだと、一切の処理ができないんだ。なので、装置の中でケースを瞬間的に開けて、研究中の術をかけるんだが……だいぶ難儀なものでね。タイミングをずらしたり、術が効かないとさっきのようになる。なかなか手ごわい相手だよ」
バンズはケースをパシパシ叩いた。
「あの……」
ベンが遠慮がちに言った。
「なんだね?」
「その隕石を、ちょっとだけボクに見せてください」
バンズは予想外の質問を受けた。
「それはいけない。これは結構な危険物だ。ほかのものならともかく、これは……」
「そうでしたら……」
ベンは食い下がった。
「そうでしたら、そのケースに入れたままでいいんです。どうしても、ボクに見せてください」
「それならよかろう。しかし君も、相当な物好きだねぇ」
バンズはケースをベンに渡した。受け取ったところ、かなり重い。ベンはどうにか片手で持つことができたが、ここだけの話、ランバートはともかくセイルには無理だったろう。細腕ながらにも、ベンはかなり力が強いのだ。
ベンは隕石の夜から、胸騒ぎを感じていた。なすべきことをなす、その時であると、心臓の鼓動が語っているのだ。ベンが瞳を閉じると、ピアスが輝いた。あたりには小さな気流が生まれ、ケースは共鳴するかのように振動した。
「おお……!?」
テッツとバンズは驚嘆した。悪戦苦闘した忌まわしい物体が、みるみる沈静化していくのだ。ピアスの輝きはあわく、はかなげで、そして包み込むように優しかった。幼子の微笑みのような灯りは強さを増していき、ベンの背中に、八つの羽が現れた。
「べ、ベン!?」
「お、お前……!」
セイルとランバートが声をあげた。羽の生えたベンには、厳かな美しさが宿っていた。慣れ親しんだ彼とは、まるで別な人間のように感じられた。それどころか、人間以上の尊げな存在であるような、奇妙な感覚さえ覚えた。ベンが手を宙にかざすと、ケースから隕石がすり抜けて、手に停まった。隕石は青く発光し、その強烈な光りに、セイルたち四人は目をつぶった。光りが収まったところで目を開けると、いつもの姿に戻ったベンがにっこりと笑っていた。
「もう大丈夫です。隕石も、この部屋においてあった欠片も、すべて浄化しました」
「う、うむ! お、お主の協力に感謝する。しかし……」
テッツは言葉に詰まった。いまの神秘的な力は何なのか? ベンがただの少年ではないことは、明らかだった。
「ベン、すげぇなあ!」
ランバートは素直に感動している様子だった。まるで、チームメイトの成長を祝うような明るい表情だ。しかし、セイルは違った。
「な、なあ……ベン? お前、どこでそんな魔法を習ったんだ? いや、そんなことより。お、おれにも……」
セイルはつばを飲み込んだ。
「おれにも……できるか?」
セイルはどこか、傷ついたような、落ち込んだような様子だ。テッツはセイルの変調を見過ごさなかった。ベンが「えっ?」といった顔で、答えに困っているうちに、口を挟んだ。
「あー、つもる話は後でよい。ともかく、強い見方ができたわけじゃ。わしの目に狂いはなかったの!」
テッツは豪快に、うしゃうしゃと笑った。そのあまりの豪放っぷりに、みなつられて笑うしかなかった。うかない顔のセイルでさえも、うっすら笑顔を見せた。テッツはその場で、今日はお開き、各自行動開始と告げた。プレオバンズは茶を飲むと言って一階まで降りていった。ベンたちもまた、外へ出るために付いていった。
「セイル」
テッツが呼んだ。
「は、はい! なんすか、師匠?」
「遅くなったが、今日の選抜試合について反省会じゃ」
セイルはベンとランバートに「わりぃ、ちょっといってくらぁ。さきにいっといてくれ」と言った。するとそのまま、テッツに駆け寄った。
「ゴホン! あー、試合はまあまあ、よくやったのう。しかし、反応が鈍い。瞬間的に体が動くまで、根気強く、明確な目標を持ち、そして!」
テッツは強調するかのように、語気を強めた。セイルの集中力が、いやがおうにも高まる。
「なにより、楽しんで練習することじゃ」
「は、はい!」
「ゆえにセイル」
テッツはいつも以上に大きな咳払いをした。セイルは、テッツからいつもと違う印象を受けた。
「あの二人と、過度に張り合おうとするな」
「え!?」
セイルの表情が凍りついた。まるで選抜メンバー失格を言い渡されたかのように、愕然としている。
「ランバートは数万か、数十万、いや、数百万人に一人の才覚。ベンにいたっては、わしも見たことがないほどの天賦の才じゃ。人間とは思えぬほどの、な」
テッツは少し考えて、言葉を発した。
「わしはな、セイル、お主に才能がないと言っているのではない。お主には素質がある。じゃが、あの二人は、優れすぎておる。戦うために生まれてきたようなガキどもじゃ。セイル、劣等感の虜では、自らの道を閉ざすぞい」
セイルは茫然自失となった。一番認めたくなかったことを言われたのだ。
「つ、つまりその……なにが言いたいんすか? お、おれは……」
セイルは歯を食いしばった。
「おれは、ベンに追いつきたくって……ランバートにも……」
「セイルよ」
テッツは語りかけた。
「わしらは今、大いなるさだめを目撃しておる。お主はその特等席におるのじゃ」
「おれも、訓練すれば、ベンがやったことくらい……」
「それはムリじゃ」
テッツは言い切った。
「人知を超えた、大いなる力じゃ。運命から使わされた、希望の光りじゃ。わしらには、マネごとすらままならん」
「そんなはず、ないっすよ……。だって、お、おなじ……」
人間、という言葉をいえなかった。二人は、人間以上の存在かもしれない。ベンだって、ランバートだって、いつかは追い越せると思っていた気持ちが、傷つけられた気がした。
「セイル、お主には、お主の為すべきことがある。その使命を見つけ、成し遂げるのじゃ」
セイルは下を向いて、すすりないた。黙ってその場を立ち去り、外へ出て行った。
「誰もが通る道じゃ」
テッツはそっと呟き、散らかった研究室を片付け始めた。
(つづく)
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PC : ベン、テッツ
NPC: ランバート、プレオバンズ、デービー
場所 : ポポルの剣術道場、テッツの臨時研究室
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雑が未知のモンスターと戦闘を繰り広げた翌朝、ベンはポポルの道場にいた。今日は、近々開かれる大会の、選抜メンバーの決める日だ。教官のデービーが対戦表を張り出すと、教室の誰もが対戦相手の名前を確認した。
「あ、セイル」
ベンの初戦の相手はセイルだった。それも、今日の一番手になっている。
「それでは、セイル、ベン。両者は前へ」
ベンは木剣をとって、位置にたった。三メートル向かいにたつセイルは、ニヤッと笑った。が、どこかぎこちない。
「(セイルってば、ガチガチだよ。もっと落ち着かなくっちゃ)」
セイルはゴクッとつばを飲む。デービーの「構え」の合図とともに、二人は木剣を構える。道場の空気が、一気に引き締まった。
「始め!」
デービーの掛け声がすると、セイルは勢いよく突進した。
「(あ! 速い!)」
セイルのスピードは、明らかに向上していた。あのテッツという、魔法学院の教授のおかげだろうか。以前と比べてセイルは、格段の進歩を遂げていた。セイルは遠間から打ちうつけ、ギリギリとにじよる。正直言って、ベンから見ればまったく大したことない力だった。しかし、そのあまりの成長ぶりに、ベンはあっさりと撃退することが不憫に思えた。周囲は「あのセイルが、ベンを追い詰めている!?」と映り、目を真ん丸くしていた。
「(なかなかやるねセイル。だけど、これからだよ!)」
ベンは足に力を入れた。自慢の脚力でセイルから飛びのこうとしたのだ。ところが、セイルは驚くべき技を繰り出した。
「てや!」
「うわ!」
セイルは何の前触れもなく体をそらした。ベンは支えを失って、前のめりになった。ちょうど寄りかかっていた壁が、倒れたのと同じ状況だ。セイルはベンの木剣の柄を取り、円を描くように回転した。
「うわわわわわあ!?」
周囲は呆然とし、ベンは混乱した。ぐるぐる回っていたところ、突然ベンは木剣を引っ張りあげられ、後頭部にもっていかれた。勢いがそのまま、転倒のエネルギーに変わったのだ。一瞬だけ見えたセイルの顔は、笑っているようだった。
「(まだだ!)」
ベンは思い切り床をけって飛び上がり、身軽に一回転して着地した。
「なっ、なにい!?」
セイルの表情は「ありえない」と言いたげだ。ベンはそのまま、反撃に打って出た。
「(たしかセイルはこうやって……)」
ベンは自分の木剣を握っている、セイルの手を見た。グイっと引くと、セイルはバランスを崩した。ベンはセイルを引き回し、先ほどとは比較にならないスピードでグルグル回った。あわれセイルの目玉は、ナルトそっくりだ。
「(こう!)」
ベンは振りかぶるようにして、木剣を引っ張りあげた。その瞬間、ベンはひらめいた。これは素振りの動きだ。方向転換をして、振り下ろせばいいだけだ。ベンがそのとおりにすると、なんとセイルの足が浮かび上がり、空中で仰向けになった。
「(やべえ! 受身しねえと!)」
セイルの顔は真っ青だった。セイルは床にたたきつけられる瞬間、手のひらでバチンと床をたたいた。次の瞬間襲ってきた衝撃に、セイルは息もままならなくなってしまった。ベンがセイルののど元に木剣を突きつけたところで、試合は終了した。
「やめ!」
デービーの合図がすると、セイルは気合に任せて、強引に立ち上がった。強がってはいるが、猛特訓の成果をベンにマネされ、ショックを受けているようだ。セイルが窓のほうを向いたので、ベンもなんとなくそちらを向いた。テッツが枝から試合を観ていた。セイルはテッツにペコりとお辞儀をすると、自分の席にまで戻った。
・
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次の対戦相手は、ランバートだった。慎重は180cmを超え、筋肉たくましく、この道場でダントツの力持ちだ。手には、普通の倍の長さの木剣が握られている。ベンは礼をとりながら、戦法を考えた。セイルのときとは、はっきりいってわけが違う。正面からぶつかったら、間違いなく不利だ。
「始め!」
ランバートは合図とともに、得意の八相の構えをとった。骨ばった顔に笑顔はなく、どっしりとにらみを利かせている。ジリジリとせまるすり足に、ベンは威圧感を覚えた。まず、出方をさぐろう。ベンは強靭な脚力で、踏み込んで突きを放った。ベンの突きは凄まじいスピードであったとはいえ、ランバートにはたやすく受け止められた。
「ふん!」
ランバートは力づくベンを突き飛ばした。ベンは衝撃で眉をしかめたが、空中で一回転して足から壁にぶつかり、そのまま着地した。たとえ全国大会や一流の冒険者でも、そうそうできないほどの、華麗な動きだ。ライバル意識がことさら強いセイルでさえも、ベンの動きの華麗さは、認めざるを得ずにいた。
ランバートは高速のすり足で迫り、怪力の袈裟切りを繰り出す。ベンは猛烈な速さで回り込み、攻撃をかわした。するとランバートの木剣が壁を打った。巨大な岩石の衝突にも劣らない轟音が鳴り響き、道場の全員がぎょっとした。
「(うわぁ! ランバートったら、めちゃくちゃ鍛えてるよ! こまったなぁ……)」
「(ベンのやつ、なんつースピードだ。セイルもかなり鍛えていたようだったけど、やっぱりさっきは本気じゃなかったか)」
セイルは唖然とした。
「(へ……へん! ま、またちょっとばかし、先をこされたようだな。ま、すぐに追いついてやるさ)」
そのままランバートがラッシュを仕掛けた。ベンはやむ終えず受け止めたが、その豪腕は予想をはるかに超えていた。木剣の新まで震えているかと思うほどの振動と、手の痛みが襲ってくる。数発受けただけで、ベンの握力は弱まってしまった。この激しい攻撃のなかで、ランバートは巧みなフェイントを行った。ベンの反射神経をもってしなければ、大怪我をしかねなかったことだろう。
この調子では負けてしまう。ベンは覚えたての技を使うことにした。
「(よっし、いくよランバート)」
ベンの木剣が、緑色に輝き始めた。
「(……ん? 魔法剣か!?)」
高度な集中力と、一定レベルの魔法力がないと使えない技だ。ピンチに陥りながらも、ベンは脅威の集中力を発揮したのだ。木剣が衝突する瞬間、ベンは魔法力を解放した。風の力が生み出され、凄まじい反発がランバートを襲う。すかさずベンは再度魔法剣を発動し、ランバートに突進していく。
「くっ!」
ランバートは渾身の力で木剣を横に薙いだ。ベンは体を丸めてジャンプし、ランバートの頭上をとった。ベンが魔法剣を振るうと、突風がランバートを突き飛ばし、彼をうつぶせにした。ランバートが顔を上げると、そこには木剣があった。
「やめ! 勝負あり。ベン・ドール連勝により、出場権獲得」
パチパチパチパチと、拍手が巻き起こる。セイルも機械的な拍手を送った。ランバートはベンの手をとって立ち上がると、苦笑いをした。
「あちゃー、負けちまった。いけるとおもったんだがな」
「ランバートってば、ただでさえすごい力なのに、なおさら強くなってて大変だったよ。がんばって出場権を獲得してね」
ベンはパチリとウインクした。
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ランバートはその後、危なげなく二連勝して選手に選ばれた。セイルも、テッツの特訓の成果を発揮して、どうにか選手となった。選抜試合の終了後、三人は一緒に帰ることにした。時刻は午後三時で、まだ暑い。アブラゼミやミンミンゼミが、うるさいくらいに鳴いている。
「かー! あつっくるしいな! おいセミ! ちょっとくらい静かにしてくれ!」
セイルが両手をさすりながら言った。見栄を張ってランバートの攻撃をもろに受けたので、ジンジン痛むようだ。
「ポポルだけだよ、こんなに自然が豊かなのは。好きなだけ鳴かせてあげようよ。みんな交尾の相手を探すのに必死なんだからさ。邪魔しちゃかわいそうじゃないか」
「へぇー、ベンが交尾ねぇ」
セイルがいたずらっぽく笑った。たちまちベンの白いほほが赤くなった。
「ち、ちがうよ! ぼ、ぼくじゃなくて、セミさんたちが……!」
「なあに言ってんだ。そんなんじゃお前……っお?」
セイルが何かに気づいた。ベンとランバートが視線の方向を見ると、テッツがたっていた。
「がっはっはっは! セイル、ギリギリじゃったなぁ。特訓が甘かったかの?」
「げっ、師匠!? いつのまにこんなところへ。……って、それよりも、なにかあったんすか?」
「うむ、それがの……」
テッツの声が、若干低くなった。
「お主らにちょいと頼みがあっての。協力してもらえんか?」
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ベンたちはテッツに連れられ、森の奥へと入っていった。これからどこへ行くのかたずねると、テッツの研究室にいくとのことだった。極秘情報を教えるから、内密にせよ、とも言われた。三人は隕石のことを思い出した。当日は安全だ、なんていっておきながら、実は危険な物体だったとでもいうのだろうか? 蒸し暑い中で、冷ややかな汗が伝った。
「到着じゃ」
そこには壁としっくいが美しい、エキゾチックな家屋があった。
「中に入れ。ここは即席の研究室で、隠れ家のようなものじゃ。秘密はこの中にある」
テッツが扉を開くと、ギィィ……という、きしむ音がした。今にも倒壊しそうな雰囲気に、三人は冷や汗を流した。ところが中に入ると、およそ外見とはかけ離れた世界が広がった。ものすごい広くて、りっぱな部屋なのだ。吹き抜けのホールのようなつくりで、なんと六階まである。ホールにはわらで編んだめずらしいクッションと、四角くて小さな土間、そして変わったやかんが吊るしてある。一階から六階まで、手すりがなく、幅の広い螺旋階段でつながっていた。ランバートは、心底驚かされた様子だ。
「すごいな。これがテッツ先生の研究室か。さすが魔法学院の先生だ」
「いや、ほんと驚いた。いかにもちっこそうなくせに、デカいもんだぜ。ベンのちんちん並みだな」
セイルが言った。
「はは、確かにそのとおりだ」
「も、もう! やめてってばあ!」
ベンのほほが、またもや赤くなった。ベンが中に入ろうとしたとき、テッツが呼び止めた。
「まて、ベン。靴を脱げ」
「あ、ごめんなさい」
ベンはあわてて靴を脱いだ。セイルとランバートもそれに習った。三人がずんずんと奥へ行こうとすると、テッツが再び呼び止めた。
「あー、靴をそろえよ」
ベンたちが振り返った。玄関にある、藁のサンダルみたいなものは、体育座りした生徒のように、行儀良く並んでいる。それに対してベンたちの靴は、鬼ごっこをする子供みたいにバラバラだ。三人はキチンと靴を整えた。
「よし!」
テッツは革靴を脱いだ。体を玄関からみて平行の方を向き、靴を整えた」
「何事も礼儀作法は大事じゃからな」
テッツは奥へ進みながら言った。階段を上り始めたので、ベンたちも付いていった。その途中、三人は部屋の様子を見学した。二階には巨大な金属製の箱がぎっしり並んでいるかと思えば、三階には蛇口とガラス容器が並ぶだけだった。四回はその中間くらいの間取りで、五階はたくさんのタンクが複雑なパイプで繋がっていた。三人はそのまま、六階に上がった。
「ここじゃ。いろいろ興味深いものがあるじゃろうが、不用意に手を触れてはならんぞ」
そこはいくつかのテーブルがおいてあり、それぞれに薬品の収容棚が設置されている。各テーブルには、簡便な装置が設置してあった。ガラス管に繋がったビンの中に、真っ黒い砂粒がギッシリと詰っている。この部屋の奥には、透明なシートに包まれた、際だって大きな装置があった。シートの奥で、誰かが忙しそうにしている。もう一人の魔術学院教授、プレオバンズだ。
「バンズ、異常はないか?」
「おお、テッツ。万事順調に運んでおるよ。今度はもしかしたら、解毒できるかもしれん」
プレオバンズはシートから出てきた。彼は背が高く、ランバートよりもさらに頭ひとつ大きい。やや白髪はボサボサしているが、手の込んだ魔術学院のローブを着こなしていて、なかなかおしゃれだ。
「こんにちは。えーと……」
ランバートが言いよどんだ。名前が思い出せない。
「プレオバンズだ。バンズと呼んでおくれ。君たちとは隕石の日にしか会ったことがないから、名乗り忘れて追ったのう。それよりも、これを見てごらん」
プレオバンズは、さきほどの簡便な装置をさした。
「言うまでもなく、これらは隕石の破片だ。よく見ていなさい」
バンズは手のひらで小さな火をおこした。舞い上がった煙の跡には、昆虫のゲンゴロウがあった。
「みてくれはただのゲンゴロウだが、本物と同じ細胞でできた、精巧な模型だよ。いうなれば、死んで間もないゲンゴロウだ。これを隕石に触れさせると……」
バンズはゲンゴロウをガラス瓶に入れた。ゲンゴロウが溶液内で隕石に触れると、変化がおきた。
「あ!」
三人は一斉に声を上げた。隕石はゲンゴロウの中に入り込んでしまったのだ。しばらくすると、ゲンゴロウはスイスイ泳ぎだした。ゲンゴロウはみるみる黒ずんでいき、羽に不気味な模様が浮かんだ。ミミズ腫れの魔法陣のようなそれは、初めオレンジに光り、だんだんと赤くなっていく。ベンはこの模様に、非常な嫌悪感を覚えた。そのとき、ゲンゴロウが三人をにらんだ。目は赤く発行し、生き物の温かみは微塵もない。三人は思わず顔を引いたが、ゲンゴロウは水面から飛び出そうとした。しかし、ゲンゴロウは動きを止め、苦しそうにもがき、ビンのそこに落ちた。
「と、こんなもんだ」
プレオバンズが指を弾くと、ゲンゴロウは消滅した。跡には、隕石の粒が残された。
「び、びっくりしたあ!」
「なんじゃこりゃあ!」
「せ、せんせえ! 早く言ってくださいよ! 心臓止まるかと思いましたよ」
ベン、セイル、ランバートが言った。
「ははは、悪いことをしたね」
「どうじゃ。これは生物の死骸を侵食して凶暴化させる。ほうっておくわけにはいかんのじゃ。お主らも、手伝ってはくれんかの?」
三人は顔を見合わせ、うなずいた。
「頼もしい限りじゃ。ガッハッハッハ!」
テッツはうれしそうに笑った。
テッツの説明によると、次の二つを手伝ってほしいとのことだ。一つ目は、隕石に侵されたモンスターから、ポポルを防衛すること。二つ目は、隕石を無力化する方法を調査することだった。
「テッツ先生、こんな危ないもの、ボクたちだけで大丈夫なんですか?」
ベンが質問した。
「魔術学院にはちゃんと連絡してある。だが、どうやら演習授業扱いにされてしもうた。一刻も早く解決せねばならん。そこでじゃ、お主らに便利なアイテムを渡したい」
テッツは三人に、魔術学院のシンボルが印刷された手帳を渡した。
「備え付けのペンで文字が書ける。文面ができたら次のページをめくるのじゃ。送りたい相手の名前をペンで押せば、相手の手帳に文章が浮かび上がる。ためしに使ってみよ」
三人は言われたとおり、使ってみることにした。ベンは「こんにちは。みんな、がんばろうね!」と書き、セイルは「ああああああ」と、ランバートは「オッス!」と送った。
「うまく使えたようじゃな。悪口とかには使うでないぞ。何か知らせがあれば、わしらのほうから手帳に送る。情報を交換し合って……!」
透明シートの向こうから、ガタガタと音がした。装置が小刻みにゆれている。
「な、なんすか? あの、いかにもアブなそ~な揺れ方は?」
セイルが間の抜けた表情で言った。
「下がるんだ!」
バンズが指示した。ピシッ、と乾いた音がしたとき、テッツが叫んだ。
「伏せい!」
テッツがベン、セイル、ランバートを後ろへ突き飛ばした。三人は小柄なテッツのどこに、こんな怪力があるのかと思った。抗議の声を上げようとしたそのとき、装置が砕けた。次の瞬間、正気を疑う光景が展開された。突如として飛び出した巨大な手が、つかみかかってきた。その邪悪な黒い手に、テッツは直前で回り込んだ。そのまま禍々しい手の中指をがっしり掴み、ねじった。テッツの全身が、この手をひねる形となり、亡者の手をもぎ取った。分離された腕は煙となって消え、テッツはもいだ手を踏みつけた。ジタバタする力は相当なものであるのに、まるでビクともしない。ベンたちは、目を真ん丸くして見入ってしまった。
「ふん!」
テッツは気合とともに、亡者の手を踏み潰した。手は二、三度痙攣したのち、消滅した。床には、握りこぶしほどの、黒い石が転がっていた。数日前に降ってきた、あの隕石だ。
「やれやれ、また失敗か」
プレオバンズがおもむろに隕石をひろった。
「ば、バンズ先生! さわっちゃって大丈夫なんですか?」
「ん? ああ、私は魔方陣で手をガードできるからね」
「ふん、ベンよ。マネするでないぞ」
テッツは砕けた装置の中から、黒い金属のケースを取り出した。プレオバンズが隕石に文様を描くと、そこに収容した。ランバートは心配そうにたずねた。
「あの……、さっきまでそこに入れておいたんですよね? 大丈夫なんでしょうか? その……そのなかから、飛び出してきた……はずですよね?」
「いや、それがね……」
バンズは苦笑いした。
「ケース自体は安全だ。極めて、ね。ただ、それゆえこのケースに入れたままだと、一切の処理ができないんだ。なので、装置の中でケースを瞬間的に開けて、研究中の術をかけるんだが……だいぶ難儀なものでね。タイミングをずらしたり、術が効かないとさっきのようになる。なかなか手ごわい相手だよ」
バンズはケースをパシパシ叩いた。
「あの……」
ベンが遠慮がちに言った。
「なんだね?」
「その隕石を、ちょっとだけボクに見せてください」
バンズは予想外の質問を受けた。
「それはいけない。これは結構な危険物だ。ほかのものならともかく、これは……」
「そうでしたら……」
ベンは食い下がった。
「そうでしたら、そのケースに入れたままでいいんです。どうしても、ボクに見せてください」
「それならよかろう。しかし君も、相当な物好きだねぇ」
バンズはケースをベンに渡した。受け取ったところ、かなり重い。ベンはどうにか片手で持つことができたが、ここだけの話、ランバートはともかくセイルには無理だったろう。細腕ながらにも、ベンはかなり力が強いのだ。
ベンは隕石の夜から、胸騒ぎを感じていた。なすべきことをなす、その時であると、心臓の鼓動が語っているのだ。ベンが瞳を閉じると、ピアスが輝いた。あたりには小さな気流が生まれ、ケースは共鳴するかのように振動した。
「おお……!?」
テッツとバンズは驚嘆した。悪戦苦闘した忌まわしい物体が、みるみる沈静化していくのだ。ピアスの輝きはあわく、はかなげで、そして包み込むように優しかった。幼子の微笑みのような灯りは強さを増していき、ベンの背中に、八つの羽が現れた。
「べ、ベン!?」
「お、お前……!」
セイルとランバートが声をあげた。羽の生えたベンには、厳かな美しさが宿っていた。慣れ親しんだ彼とは、まるで別な人間のように感じられた。それどころか、人間以上の尊げな存在であるような、奇妙な感覚さえ覚えた。ベンが手を宙にかざすと、ケースから隕石がすり抜けて、手に停まった。隕石は青く発光し、その強烈な光りに、セイルたち四人は目をつぶった。光りが収まったところで目を開けると、いつもの姿に戻ったベンがにっこりと笑っていた。
「もう大丈夫です。隕石も、この部屋においてあった欠片も、すべて浄化しました」
「う、うむ! お、お主の協力に感謝する。しかし……」
テッツは言葉に詰まった。いまの神秘的な力は何なのか? ベンがただの少年ではないことは、明らかだった。
「ベン、すげぇなあ!」
ランバートは素直に感動している様子だった。まるで、チームメイトの成長を祝うような明るい表情だ。しかし、セイルは違った。
「な、なあ……ベン? お前、どこでそんな魔法を習ったんだ? いや、そんなことより。お、おれにも……」
セイルはつばを飲み込んだ。
「おれにも……できるか?」
セイルはどこか、傷ついたような、落ち込んだような様子だ。テッツはセイルの変調を見過ごさなかった。ベンが「えっ?」といった顔で、答えに困っているうちに、口を挟んだ。
「あー、つもる話は後でよい。ともかく、強い見方ができたわけじゃ。わしの目に狂いはなかったの!」
テッツは豪快に、うしゃうしゃと笑った。そのあまりの豪放っぷりに、みなつられて笑うしかなかった。うかない顔のセイルでさえも、うっすら笑顔を見せた。テッツはその場で、今日はお開き、各自行動開始と告げた。プレオバンズは茶を飲むと言って一階まで降りていった。ベンたちもまた、外へ出るために付いていった。
「セイル」
テッツが呼んだ。
「は、はい! なんすか、師匠?」
「遅くなったが、今日の選抜試合について反省会じゃ」
セイルはベンとランバートに「わりぃ、ちょっといってくらぁ。さきにいっといてくれ」と言った。するとそのまま、テッツに駆け寄った。
「ゴホン! あー、試合はまあまあ、よくやったのう。しかし、反応が鈍い。瞬間的に体が動くまで、根気強く、明確な目標を持ち、そして!」
テッツは強調するかのように、語気を強めた。セイルの集中力が、いやがおうにも高まる。
「なにより、楽しんで練習することじゃ」
「は、はい!」
「ゆえにセイル」
テッツはいつも以上に大きな咳払いをした。セイルは、テッツからいつもと違う印象を受けた。
「あの二人と、過度に張り合おうとするな」
「え!?」
セイルの表情が凍りついた。まるで選抜メンバー失格を言い渡されたかのように、愕然としている。
「ランバートは数万か、数十万、いや、数百万人に一人の才覚。ベンにいたっては、わしも見たことがないほどの天賦の才じゃ。人間とは思えぬほどの、な」
テッツは少し考えて、言葉を発した。
「わしはな、セイル、お主に才能がないと言っているのではない。お主には素質がある。じゃが、あの二人は、優れすぎておる。戦うために生まれてきたようなガキどもじゃ。セイル、劣等感の虜では、自らの道を閉ざすぞい」
セイルは茫然自失となった。一番認めたくなかったことを言われたのだ。
「つ、つまりその……なにが言いたいんすか? お、おれは……」
セイルは歯を食いしばった。
「おれは、ベンに追いつきたくって……ランバートにも……」
「セイルよ」
テッツは語りかけた。
「わしらは今、大いなるさだめを目撃しておる。お主はその特等席におるのじゃ」
「おれも、訓練すれば、ベンがやったことくらい……」
「それはムリじゃ」
テッツは言い切った。
「人知を超えた、大いなる力じゃ。運命から使わされた、希望の光りじゃ。わしらには、マネごとすらままならん」
「そんなはず、ないっすよ……。だって、お、おなじ……」
人間、という言葉をいえなかった。二人は、人間以上の存在かもしれない。ベンだって、ランバートだって、いつかは追い越せると思っていた気持ちが、傷つけられた気がした。
「セイル、お主には、お主の為すべきことがある。その使命を見つけ、成し遂げるのじゃ」
セイルは下を向いて、すすりないた。黙ってその場を立ち去り、外へ出て行った。
「誰もが通る道じゃ」
テッツはそっと呟き、散らかった研究室を片付け始めた。
(つづく)
____________________
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
PC:カイ ヘクセ
NPC:アティア 魔猿
場所:カフール国、クォンロン山頂、スーリン僧院本殿 祖霊廟前
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
立ち上がったものの、カイの身体に積み重なったダメージは大きかった。
身体は鉛のように重く、目は霞み、左腕も上がらない。
さらに勝算と呼べるものすら、一つとして見出せていなかった。
だが、先ほど垣間見た幻が、不思議とカイの気持ちを落ち着けていた。
――勝算?俺は勝とうとしていたのか?
――力でも速さでも勝てぬ相手に?
カイは先ほどまで自分が抱えていた奢りに可笑しくなった。
――いや、勝たねばならぬと思い込んでいたのだな。
カイは相手を見やった。意識を失う前と異なり、白い毛があちこち抜け、斑になった異形の化け物。
しかし、それ以上に、先ほどまでの威圧感を感じとれなかった。
――小さくなった?いや、そう感じるのか…。
――それほどに、俺は恐れ、不安だったのだな。
カイは苦笑した。
風が頬を撫で、目の端に映る木々の枝が風に揺れる。
数百年の寿命を持つこれら木々にしてみれば、魔猿もカイも刹那の間現れる小さな存在に過ぎない。
カイはそんなことを漠然と思った。
魔猿が雄たけびを上げる。
大気を震わす咆哮をカイは静かに聞いていた。
『猿は"言葉"を知らぬから、つたない"言葉"で咆えるしかない。』
幻の中で聞いた、ヘクセの言葉を思い出す。
「…なるほど。咆えるだけ…か。」
魔猿がそのまま身体を折り、力を溜め、弾かれるように一直線に跳躍する様を、カイは静かに見ていた。
――激情は筋肉を強張らせ、想いとは裏腹に動きを阻害し"速さ"を奪う。
――それ以上に、視野を狭め、"疾さ"を奪う。
カイはただ、大地の力に身を任せた。
カイは水平に"落下"し、魔猿の爪はカイの衣服のみを掠めた。
"井桁崩し"。自らにかかる沈下力を用い、水平方向に"落下"する技法。
カイは以前から修得していた。
ただ、本来の意味を悟ったのは、この瞬間だった。
自らの力のみに依らず、大地の力を聴き取る。
"大地に立つ"という意味。
自らの力のみで戦っていた頃には、決して心で理解し得なかった概念。
魔猿が意外そうな表情でカイを凝視する。
魔猿にしてみれば、カイが瞬間移動したように見えたのだろう。
魔猿は再び唸ると両腕を無茶苦茶に振り回しカイに襲い掛かる。
しかし、そのすべてがカイを捉えることはできなかった。
――先ほどの俺もそうだった。
――怒り。焦り。恐怖。責務。それらで、周りを見渡す余裕もなくしていた。
――結局は、これまで培ったことしか出来ぬのに。
――その時その時やるべきことをやる。必要だったのはその覚悟。
カイの中に、まだ怒りはあった。
恐怖が消えたわけでもなかった。
二人を守らなければならないという責務も抱いている。
しかし、カイはそれらに囚われてはいなかった。
それらは心の水面にうつる波紋のように、
ただ自己を、深く深く水の底へと沈めていった。
深く深く。
波の影響を受けぬ水底へと。
――なぜ、こいつはこれほどまでに怒ってる?
魔猿の猛攻にある、魔猿の怒りをカイはただ感じ取っていた。
――俺と同じなのか?俺を怖れて、そして憎んでいる。
自身に深く潜れば潜るほど、魔猿の怒りの陰に潜む憎しみ、焦り、怖れまで、カイには見えるようになってきた。
――いや、憎んでいるのは俺じゃない。人か…。
カイは魔猿の目が自分ではなく、"人間"に向かっていることすら悟った。
この怒りは愛するものを奪われたものの怒り。自らの拠るべきところを奪われたものの怨嗟。
魔猿が人に何をなされたのか、詳しくはわからない。
だが、それが魔猿にどれほど深い傷を与えたのかは、理解できた。
父とも言える大僧正を殺したことは許せない。
しかし、それとは別に、カイは魔猿が憎むべき魔物ではなく、同じ悲しみを抱いた存在になっていた。
――『明鏡止水』
あれは何時の事だったか。
大僧正がまだ武術指南役の一人に過ぎなかった頃、カイに語ったことがある。
「明鏡止水とは?」
「うむ。我を捨て、心を鎮め、天地と一体になったとき、
初めて真に相手の姿を映すことが出来る。
それが成し得れば、相手の成すことを全て読むことができるだろう。」
「…全て読む。…そんなことが可能なのでしょうか?」
「私にもまだ至らぬ境地さ。
己を捨て、勝負の理を脱し、相手の心と一体になる。
だがなぁ。我を捨てるのいうのは存外困難でなぁ。」
若き日の大僧正はかかかと笑った。
「『明鏡止水』などまだ分かりやすいほうだ。
『色即是空』など、解することもかなわぬわ。」
「『色即是空』?」
「『この世の全ては無』だとかいうことらしい。
『明鏡止水』も『色即是空』も私が見た『アカーシャの書』の写本の一節だ。」
「なんですか、それは?」
「カフールの御業の全てが記された書物らしいがな、真偽は知らぬ。
不完全な写本しか世には出ておらぬし、それすら目にするだけでも幸運というものだ。
果たして原本があるのかすら怪しい。
私は、過去の偉人達の言葉をその都度書き加えたものではないかと思っているがな。」
「また、そのような怪しげな事を。」
遠い日に交わした何気ない言葉。
カイはそんな言葉など、大僧正の世迷い言だと思っていた。
しかし今ならわかる。
これが、"明鏡止水"だ。
いや、明鏡止水へと至る道の一歩だと。
そして、さらに遙か遠くまで、その道が延びていることも。
大僧正が最後まで至る事の出来なかった境地。カイはそこに足を踏み入れようとしていた。
* * *
ヘクセは、地べたに腰を下ろし、両者の戦いを見守っていた。
「どのような生物・魔物でも、認識し、判断し、行動するまでに僅かな時差が生じる。
反応するだけでも、一流の戦士で0.2秒。通常で0.35秒。
これに判断が加われば、選択肢が多くなればなるほど0.2~0.6秒。
合計0.5秒から1秒近くの時間差。
一流の拳闘士の拳速がおよそ40km/h。2mの間合いを通過するのに0.166秒。
仮に音速の拳とて340m/s。2mを0.006秒。
両者の差は0.2秒もない。
生体的な速度差など、実のところ大して違いはないのさ。
戦闘における"疾さ"とは、つまるところ予見だ。
相手がどう動くか相手の筋肉、目その他の予備動作から見極め、先に動き出す。
その点、カフールの武技は実に合理的だ。
相手の行動を読み、自らの行動の気配は見せず、その時間差を自らのモノにする。
あの猿がどう動くか決めた瞬間には、カイはそれを読み動き出す。
猿にしてみれば、カイが実際に動いた後にしか認識できないのだから、当るわけもない。
後出しジャンケンもいいところだ。
それにしても、相手の行動を読み、即応するためとはいえ、
それを実現するために"闘争心"を否定し、
"捨己従人"、"自他合一"という"許容"の概念を持ち出し、
自己の精神、観念すら作り変えるとは、
…まったく、恐れ入るよ。」
ヘクセがくくくと笑ってるその前で、カイは魔猿の攻撃を避け続けた。
興奮する魔猿には視野が狭くなるから、余計相手の動きが見えなくなる。
カイには、逆に魔猿の動きが全て読めた。
だからこそ、魔猿がどう攻撃するか決めた瞬間には、カイはそれを認識していた。
そして動作の起こりを見せぬよう、無駄な筋肉を使わず、重力に従い重心を移し身体を流す。
――あぁ、そうだ。"武"とは弱者が生き延びるための理だった。
カイは、相手や周囲、なにより自身の弱さを受け入れることで、初めて自らが培った技術の真の意味を悟った。
――ならば。
カイは魔猿の腕の下を潜りぬけ、魔猿の死角となる脇に立った。
魔猿はすぐに飛びのき、身体をカイのほうに向け、腕を振り下ろす。
――やはり、そうだ。
カイは確信した。
相手の動きが読めるのであれば、導くことも容易い。
カイは魔猿の懐に踏み込む。魔猿が腕を振り下ろす。その腕を潜り魔猿の側面に。
魔猿はあわてて振り向き、腕でカイを振り払おうとする。その腕がカイを捉えたと思った瞬間、
カイは自ら跳び、魔猿の手首に腕を絡め、振り切ったその瞬間に、伸びきった肘に剄を叩き込んだ。
魔猿は自らの振るった腕の勢いのまま、肘をありえない方向に曲げられる。
そしてカイは魔猿の背後に降り立っていた。
魔猿が次の行動に移る前に、カイは掌で水面を叩くように剄を打ち込む。
浸透剄
あらゆる防護を通過し、内部に衝撃を伝える技。
魔猿は身体を大きくのけぞらせ、虚空を見上げ、身体を数回震わせた後、崩れるように地面に倒れ伏せた。
* * *
カイは魔猿を見下ろした。
まだかすかに息はある。
「殺さないのかい?」
後ろからヘクセが声をかける。
「………」
あらためて魔猿を見下ろす。
今なら容易にとどめを刺すことが出来る。だが…。
「大僧正の仇だろう?」
「………」
カイは動かない。
へクセはさらに尋ねた。
「許すのかい?」
「…許せない。だが…」
「だが?」
「…こいつもまた、人を仇と思い、それ故に今回のことを行ったのだとしたら、
こいつらは俺達となにが変わるのだろう?」
「さてねぇ?その答えは君の中にあるのだろう?」
「………」
その時、魔猿が大きく身じろいだ。意識を取り戻したのだ。
カイは魔猿の顔を見下ろすと、一言だけ告げた。
「次はない。
判ったら、去れ。」
カイはそう言うと、魔猿に背を向けアティアの元へと歩もうとした。
魔猿は仲間を仰ぎ見、自身の斑になった腕を見つめ、
それから唸り声と共に、カイに向かって飛び掛ると、その腕をカイに向かって振り下ろした。
カイははたして、魔猿の行動に意表を突かれながらもなお、武人の常として残心を解いてはいなかった。
いや、カイの至った境地が、魔猿が飛び掛るであろうということを、意識の裏で悟らせていた。
したがって、そこからのカイの動きは武人の本能に実に忠実であった。
歩み去る気配を見せながら、うらはらに斜め後ろに水平移動し、魔猿の懐に入り込み、攻撃を避けると同時に重心を崩す。
そして手刀の小指側の側面に、"気"を集中させ、薄く鋭い刃となす。
それを、大きく振りかぶりでもなく、力を込めるでもなく、ただ自らの勢いのまま突っ込む魔猿の首筋に、側面からそっと添わせた。
突っ込む勢いが大きければ大きいほど、横側からの僅かな力に、大きく方向を逸らされる。
ましてやそれが鋭利な刃物であれば、掠めただけで魔猿の命を奪うのには十分であろう。
カイはそれを分かっていた。
だからそうした。
刹那の交差。
自らの勢いに大きく吹き飛ばされた魔猿は、大地を転がりカイと立ち位置を入れ替えた。
ゆっくりと立ち上がり、カイにむかって振り向いた魔猿は、次の瞬間、首筋から盛大に血を噴き出した。
なにか吼えようとするも、気管すら裂かれ空気の抜ける音しかしない。
魔猿はどうっと倒れ、そして二度と起き上がらなくなった。
カイは何も言わなかった。
「不意を打たれたから、手加減ができなかったかい?」
ヘクセが声をかける。
「…いや。」
「殺す意思があったかい?」
「……あぁ」
「…憎さが勝ったかい?」
「……いや。…おそらく」
「…ただ、その結果があったかい?」
ヘクセの質問は詰問ではなく、本当にただ聞いているように思えた。
だからこそカイはヘクセの言葉に素直に耳を傾けられた。
そしてヘクセの最後の言葉が一番カイの中にしっくりきた。
怒りも憎しみも同情も許しも、全てを内包して、
ただこの刹那、起こった事象に対し素直に反応したらそうなった。それだけだった。
「…彼はきっと、
異形と化した自分は群れに戻っても前と同じようには生きられないだろう、
どうせならおまえさんに楽にしてもらいたい、
そう思ったのかもしれないね」
「…そうだな。」
カイの中にも、魔猿の最後の咆哮の中の、哀しみと救い縋る声は届いていた。
それが最後の自身の行動に影響を与えたのかは、自身にも判然としないけれども、
不思議と、自身の行動に後悔も疑心も抱くことはなかった。
頬を撫でる風に、カイは秋の匂いを感じた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
PC:カイ ヘクセ
NPC:アティア 魔猿
場所:カフール国、クォンロン山頂、スーリン僧院本殿 祖霊廟前
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
立ち上がったものの、カイの身体に積み重なったダメージは大きかった。
身体は鉛のように重く、目は霞み、左腕も上がらない。
さらに勝算と呼べるものすら、一つとして見出せていなかった。
だが、先ほど垣間見た幻が、不思議とカイの気持ちを落ち着けていた。
――勝算?俺は勝とうとしていたのか?
――力でも速さでも勝てぬ相手に?
カイは先ほどまで自分が抱えていた奢りに可笑しくなった。
――いや、勝たねばならぬと思い込んでいたのだな。
カイは相手を見やった。意識を失う前と異なり、白い毛があちこち抜け、斑になった異形の化け物。
しかし、それ以上に、先ほどまでの威圧感を感じとれなかった。
――小さくなった?いや、そう感じるのか…。
――それほどに、俺は恐れ、不安だったのだな。
カイは苦笑した。
風が頬を撫で、目の端に映る木々の枝が風に揺れる。
数百年の寿命を持つこれら木々にしてみれば、魔猿もカイも刹那の間現れる小さな存在に過ぎない。
カイはそんなことを漠然と思った。
魔猿が雄たけびを上げる。
大気を震わす咆哮をカイは静かに聞いていた。
『猿は"言葉"を知らぬから、つたない"言葉"で咆えるしかない。』
幻の中で聞いた、ヘクセの言葉を思い出す。
「…なるほど。咆えるだけ…か。」
魔猿がそのまま身体を折り、力を溜め、弾かれるように一直線に跳躍する様を、カイは静かに見ていた。
――激情は筋肉を強張らせ、想いとは裏腹に動きを阻害し"速さ"を奪う。
――それ以上に、視野を狭め、"疾さ"を奪う。
カイはただ、大地の力に身を任せた。
カイは水平に"落下"し、魔猿の爪はカイの衣服のみを掠めた。
"井桁崩し"。自らにかかる沈下力を用い、水平方向に"落下"する技法。
カイは以前から修得していた。
ただ、本来の意味を悟ったのは、この瞬間だった。
自らの力のみに依らず、大地の力を聴き取る。
"大地に立つ"という意味。
自らの力のみで戦っていた頃には、決して心で理解し得なかった概念。
魔猿が意外そうな表情でカイを凝視する。
魔猿にしてみれば、カイが瞬間移動したように見えたのだろう。
魔猿は再び唸ると両腕を無茶苦茶に振り回しカイに襲い掛かる。
しかし、そのすべてがカイを捉えることはできなかった。
――先ほどの俺もそうだった。
――怒り。焦り。恐怖。責務。それらで、周りを見渡す余裕もなくしていた。
――結局は、これまで培ったことしか出来ぬのに。
――その時その時やるべきことをやる。必要だったのはその覚悟。
カイの中に、まだ怒りはあった。
恐怖が消えたわけでもなかった。
二人を守らなければならないという責務も抱いている。
しかし、カイはそれらに囚われてはいなかった。
それらは心の水面にうつる波紋のように、
ただ自己を、深く深く水の底へと沈めていった。
深く深く。
波の影響を受けぬ水底へと。
――なぜ、こいつはこれほどまでに怒ってる?
魔猿の猛攻にある、魔猿の怒りをカイはただ感じ取っていた。
――俺と同じなのか?俺を怖れて、そして憎んでいる。
自身に深く潜れば潜るほど、魔猿の怒りの陰に潜む憎しみ、焦り、怖れまで、カイには見えるようになってきた。
――いや、憎んでいるのは俺じゃない。人か…。
カイは魔猿の目が自分ではなく、"人間"に向かっていることすら悟った。
この怒りは愛するものを奪われたものの怒り。自らの拠るべきところを奪われたものの怨嗟。
魔猿が人に何をなされたのか、詳しくはわからない。
だが、それが魔猿にどれほど深い傷を与えたのかは、理解できた。
父とも言える大僧正を殺したことは許せない。
しかし、それとは別に、カイは魔猿が憎むべき魔物ではなく、同じ悲しみを抱いた存在になっていた。
――『明鏡止水』
あれは何時の事だったか。
大僧正がまだ武術指南役の一人に過ぎなかった頃、カイに語ったことがある。
「明鏡止水とは?」
「うむ。我を捨て、心を鎮め、天地と一体になったとき、
初めて真に相手の姿を映すことが出来る。
それが成し得れば、相手の成すことを全て読むことができるだろう。」
「…全て読む。…そんなことが可能なのでしょうか?」
「私にもまだ至らぬ境地さ。
己を捨て、勝負の理を脱し、相手の心と一体になる。
だがなぁ。我を捨てるのいうのは存外困難でなぁ。」
若き日の大僧正はかかかと笑った。
「『明鏡止水』などまだ分かりやすいほうだ。
『色即是空』など、解することもかなわぬわ。」
「『色即是空』?」
「『この世の全ては無』だとかいうことらしい。
『明鏡止水』も『色即是空』も私が見た『アカーシャの書』の写本の一節だ。」
「なんですか、それは?」
「カフールの御業の全てが記された書物らしいがな、真偽は知らぬ。
不完全な写本しか世には出ておらぬし、それすら目にするだけでも幸運というものだ。
果たして原本があるのかすら怪しい。
私は、過去の偉人達の言葉をその都度書き加えたものではないかと思っているがな。」
「また、そのような怪しげな事を。」
遠い日に交わした何気ない言葉。
カイはそんな言葉など、大僧正の世迷い言だと思っていた。
しかし今ならわかる。
これが、"明鏡止水"だ。
いや、明鏡止水へと至る道の一歩だと。
そして、さらに遙か遠くまで、その道が延びていることも。
大僧正が最後まで至る事の出来なかった境地。カイはそこに足を踏み入れようとしていた。
* * *
ヘクセは、地べたに腰を下ろし、両者の戦いを見守っていた。
「どのような生物・魔物でも、認識し、判断し、行動するまでに僅かな時差が生じる。
反応するだけでも、一流の戦士で0.2秒。通常で0.35秒。
これに判断が加われば、選択肢が多くなればなるほど0.2~0.6秒。
合計0.5秒から1秒近くの時間差。
一流の拳闘士の拳速がおよそ40km/h。2mの間合いを通過するのに0.166秒。
仮に音速の拳とて340m/s。2mを0.006秒。
両者の差は0.2秒もない。
生体的な速度差など、実のところ大して違いはないのさ。
戦闘における"疾さ"とは、つまるところ予見だ。
相手がどう動くか相手の筋肉、目その他の予備動作から見極め、先に動き出す。
その点、カフールの武技は実に合理的だ。
相手の行動を読み、自らの行動の気配は見せず、その時間差を自らのモノにする。
あの猿がどう動くか決めた瞬間には、カイはそれを読み動き出す。
猿にしてみれば、カイが実際に動いた後にしか認識できないのだから、当るわけもない。
後出しジャンケンもいいところだ。
それにしても、相手の行動を読み、即応するためとはいえ、
それを実現するために"闘争心"を否定し、
"捨己従人"、"自他合一"という"許容"の概念を持ち出し、
自己の精神、観念すら作り変えるとは、
…まったく、恐れ入るよ。」
ヘクセがくくくと笑ってるその前で、カイは魔猿の攻撃を避け続けた。
興奮する魔猿には視野が狭くなるから、余計相手の動きが見えなくなる。
カイには、逆に魔猿の動きが全て読めた。
だからこそ、魔猿がどう攻撃するか決めた瞬間には、カイはそれを認識していた。
そして動作の起こりを見せぬよう、無駄な筋肉を使わず、重力に従い重心を移し身体を流す。
――あぁ、そうだ。"武"とは弱者が生き延びるための理だった。
カイは、相手や周囲、なにより自身の弱さを受け入れることで、初めて自らが培った技術の真の意味を悟った。
――ならば。
カイは魔猿の腕の下を潜りぬけ、魔猿の死角となる脇に立った。
魔猿はすぐに飛びのき、身体をカイのほうに向け、腕を振り下ろす。
――やはり、そうだ。
カイは確信した。
相手の動きが読めるのであれば、導くことも容易い。
カイは魔猿の懐に踏み込む。魔猿が腕を振り下ろす。その腕を潜り魔猿の側面に。
魔猿はあわてて振り向き、腕でカイを振り払おうとする。その腕がカイを捉えたと思った瞬間、
カイは自ら跳び、魔猿の手首に腕を絡め、振り切ったその瞬間に、伸びきった肘に剄を叩き込んだ。
魔猿は自らの振るった腕の勢いのまま、肘をありえない方向に曲げられる。
そしてカイは魔猿の背後に降り立っていた。
魔猿が次の行動に移る前に、カイは掌で水面を叩くように剄を打ち込む。
浸透剄
あらゆる防護を通過し、内部に衝撃を伝える技。
魔猿は身体を大きくのけぞらせ、虚空を見上げ、身体を数回震わせた後、崩れるように地面に倒れ伏せた。
* * *
カイは魔猿を見下ろした。
まだかすかに息はある。
「殺さないのかい?」
後ろからヘクセが声をかける。
「………」
あらためて魔猿を見下ろす。
今なら容易にとどめを刺すことが出来る。だが…。
「大僧正の仇だろう?」
「………」
カイは動かない。
へクセはさらに尋ねた。
「許すのかい?」
「…許せない。だが…」
「だが?」
「…こいつもまた、人を仇と思い、それ故に今回のことを行ったのだとしたら、
こいつらは俺達となにが変わるのだろう?」
「さてねぇ?その答えは君の中にあるのだろう?」
「………」
その時、魔猿が大きく身じろいだ。意識を取り戻したのだ。
カイは魔猿の顔を見下ろすと、一言だけ告げた。
「次はない。
判ったら、去れ。」
カイはそう言うと、魔猿に背を向けアティアの元へと歩もうとした。
魔猿は仲間を仰ぎ見、自身の斑になった腕を見つめ、
それから唸り声と共に、カイに向かって飛び掛ると、その腕をカイに向かって振り下ろした。
カイははたして、魔猿の行動に意表を突かれながらもなお、武人の常として残心を解いてはいなかった。
いや、カイの至った境地が、魔猿が飛び掛るであろうということを、意識の裏で悟らせていた。
したがって、そこからのカイの動きは武人の本能に実に忠実であった。
歩み去る気配を見せながら、うらはらに斜め後ろに水平移動し、魔猿の懐に入り込み、攻撃を避けると同時に重心を崩す。
そして手刀の小指側の側面に、"気"を集中させ、薄く鋭い刃となす。
それを、大きく振りかぶりでもなく、力を込めるでもなく、ただ自らの勢いのまま突っ込む魔猿の首筋に、側面からそっと添わせた。
突っ込む勢いが大きければ大きいほど、横側からの僅かな力に、大きく方向を逸らされる。
ましてやそれが鋭利な刃物であれば、掠めただけで魔猿の命を奪うのには十分であろう。
カイはそれを分かっていた。
だからそうした。
刹那の交差。
自らの勢いに大きく吹き飛ばされた魔猿は、大地を転がりカイと立ち位置を入れ替えた。
ゆっくりと立ち上がり、カイにむかって振り向いた魔猿は、次の瞬間、首筋から盛大に血を噴き出した。
なにか吼えようとするも、気管すら裂かれ空気の抜ける音しかしない。
魔猿はどうっと倒れ、そして二度と起き上がらなくなった。
カイは何も言わなかった。
「不意を打たれたから、手加減ができなかったかい?」
ヘクセが声をかける。
「…いや。」
「殺す意思があったかい?」
「……あぁ」
「…憎さが勝ったかい?」
「……いや。…おそらく」
「…ただ、その結果があったかい?」
ヘクセの質問は詰問ではなく、本当にただ聞いているように思えた。
だからこそカイはヘクセの言葉に素直に耳を傾けられた。
そしてヘクセの最後の言葉が一番カイの中にしっくりきた。
怒りも憎しみも同情も許しも、全てを内包して、
ただこの刹那、起こった事象に対し素直に反応したらそうなった。それだけだった。
「…彼はきっと、
異形と化した自分は群れに戻っても前と同じようには生きられないだろう、
どうせならおまえさんに楽にしてもらいたい、
そう思ったのかもしれないね」
「…そうだな。」
カイの中にも、魔猿の最後の咆哮の中の、哀しみと救い縋る声は届いていた。
それが最後の自身の行動に影響を与えたのかは、自身にも判然としないけれども、
不思議と、自身の行動に後悔も疑心も抱くことはなかった。
頬を撫でる風に、カイは秋の匂いを感じた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
PC:ヘクセ カイ
NPC:アティア
場所:カフール国、クォンロン山頂、スーリン僧院本殿 祖霊廟前
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
猿達はヘクセが指を山に向けただけで立ち去った。
「いったい、何をしたんだ?」
「彼らにとっては私は山神なのだよ。だから従ってくれるのさ。
実のところ、アティアの中の巫女の紋様を取っ掛かりに、
一時的に山神の気を身に纏ったに過ぎないんだが…」
「って山に戻していいのか?
お前さっき『木々や飢えた動物達の悲鳴が聞こえる。』
って言ってたじゃないか!」
「おぉっ、聞いていたのか。よく覚えてたねーw
まぁ気にしない気にしない。
さっきはあのお猿さんに呪いをかけるためにああ言ったけどさ、
山の掟は法律じゃなくって摂理だ。
なるようになるって。
まったくの異種ならともかく、もともと近隣地にいた種だ。
そうひどいことにはならんだろう。
何かの種が滅んだり、代わりに別の種が栄えたり、
それだって山の命の連鎖の一部さ。」
ヘクセはなんでもないことのように言うとアティアの額に手を当てた。
気絶しながらも苦しそうだったアティアの表情が安らぐ。
「これで大丈夫。
アティアの気を外界から隔離した。
山の気の影響は受けないよ。」
「…それは俺に施したものと違うよな?」
カイが眉根を顰めた。
「うん。君には導いただけで、施しはしてない。」
「出来るんだったらしろよ!」
「えー、やだよー、めんどくさい。
君はよちよちでも歩ける段階にいたんだよ?
なのに、なんでおんぶしてやらなくちゃいけないのさ。」
ヘクセはさも当然のごとく言う。
カイは小さくため息をついた。
「間に合ったからいいようなもの…」
そのときアティアが小さく身震いする。
ヘクセは纏っていたローブをさっさと脱ぎだした。
「おいっ!」
「なに?」
「女の子が人前で脱ぐな!」
「開眼したわりに、そんなところはウブなんだから…。
裸になったわけでもあるまいし。」
確かにヘクセは薄手のシャツにスパッツという格好で、それほど露出が激しいわけでもない。
カイにしてみれば、いきなりローブを脱ぎだしたのでうろたえただけであって、ことさら騒ぐことでもなかった。
ただ、ヘクセの露出した右腕を、指先から肩まで、埋め尽くす不可思議な紋様には、目を引かずにはおられなかった。
その紋様は気が渦巻いており、ただの刺青ではないことは明白だった。
ヘクセはローブでアティアの身を包むと、カイの視線に気付いて右手をひらひらさせて笑った。
「普段は封魔布で隠してるんだけどね。気にするな。
それよりカイの手当てもしなくっちゃね。ここに座って。」
ヘクセは答えになってないことを言うと、カイを手招きした。
「気を練る要領と同じ。目を閉じて、私と呼吸を合わせて。」
ヘクセはそう言って、カイの手を握った。
「自己の中に潜っていくんだ。
丹田に集まった気を、体内の気脈に沿わせて体中に巡らすように広げて。」
カイは言われるまま、気を体内に巡らせていった。
これぐらいのことはカイには今や半呼吸で行える。
わずかに流れ込むヘクセの気も感じ取れた。
「わかるかい?
気の流れが滞っているところ。
それを解して紡いで織り成すんだ。」
額にわずかに、そして背中や腹部、肩などに大小の濁りがある。
カイは呼吸を深く行うとゆっくりとその澱みに意識を集中した。
時間をかけ、本来あるべき流れに整える。
考えてみれば、この工程は、これまで何度も行っていた気がする。
やがてヘクセの手が離れ、カイは目を開けた。
身体から痛みが消え、傷がだいぶ塞がっている。
「治癒術か…」
「これもまた、君の持つ可能性の一つだ。
錬気術も極めれば、この地の仙人や武仙達の、千里を駆け、山を砕き、嵐を呼ぶ、
それら伝説の技を使えるだろう。
そこに至るには遥かに遠く険しくはあるがね。
…もし、その道を行くのなら、きちんとしたこの地の武仙についたほうがいい。
私が導けるのはここまでだ。もともと、ここの哲学は私の分野外なのだしね。」
「俺には気の才能は乏しいと聞いていたが…」
「才能が器の大きさというのなら、際立ってはいないな。
だが才能は絶対ではない。
それと向き合った密度、積み重ねたもの次第では、生得の差など凌駕できる。
身体能力の性能差が絶対ではないように…。
今の君には十分承知だろうw」
ヘクセはおもむろに立ち上がった。
「カイ、ここには来たこと無いんだろ?」
「…あぁ、山に入る資格をもらわなかったからな」
「だったら、案内してあげよう。」
ヘクセは先にたって歩きだした。
祖霊廟は山頂のすぐ傍に建っていた。
そして山頂にはぽっかりと大きな穴が開いていた。
地下深くまで続き、覗き込んでも底すら見えない深い穴。
霊気が渦巻いているのが感じ取れる。
「…これは?」
カイにもここまで濃い霊気だとわかるのか、眉根を寄せながら聞いた。
「"龍穴"だよ。
まさにここがカフールの龍脈の中心点だ。
昔は、この穴に巫女が身を投じていたんだな。」
ヘクセはカイのほうを振り向いて言葉を続けた。
「昔話の続きだ。
異界の神ラスカフュールは巫女を山神から譲り受けるために、
自身の魔力を渡したとされている。
…ところでカイ君は知ってるかね?
この国には龍退治の伝承が多く残っている。
それらの話には面白い共通点がある。
ラスクファブの龍退治、カスガホウロの龍退治、あるいは名もなき男。
それら英雄のどれもが東から現れ、この地の巫女、あるいはそれに類するものを娶る。
まるでカフールの建国譚のようだ。
さらに翻ってここより東の国、ライガールには、
ダルマファースという医と禅の哲人、タヅカヒョーブという武人の伝説があるが、
この二人の伝説は奇妙な共通点が多い。
天地を裂き、手を触れただけで怪物を倒し、霞のごとく消え去る。
人を寄せ付けず、放浪癖を持ち一つ所に留まらぬ。
そして小船に乗り海に出て行った件もね。
タヅカヒョーブはハスカヘイロウ、あるいはモモタロウという民話の基になってるんだけど、
この二人も海に出て鬼退治に行ってるね。
さて、ラスカフュールが実在したのであれば、建国譚にも真実が含まれると考えられる。
だとすれば、類似の神話の共通項にこそ真実が隠されているはずだ。
問題はどちらが元かだが、カフール建国伝説が龍退治の話の原型とは考えにくい。
話が複雑なものから簡単なものに、明快なものからよくわからぬものに変わることはない。
普通は逆だ。なにより祖霊神だとすると龍退治の英雄の名前に祖霊神以外が残るわけがない。
…まぁそのほうが納得もいく。
実際に魔力を譲り渡すなんてことは不可能だしね。」
「そうなのか?」
「君も開眼したなら多少は解るだろう。
魔力と一言でいうものは、戦闘力と同じで複合力だ。
身の内に秘めた魔素たる精髄の量、それを貯めるだけの器の大きさ、
認識を織り変えるに足る意志力、想像力。
そして何より重要なのは世界を測る物差しの理解度だ。
精髄を一時的に渡せるにしても、
器の大きさも、意志の力も、想像力も、渡せるものではなかろう?
まして理解度など。
今更君が、"気"を理解せぬ頃に戻れぬよう、
一度理解したものを譲ることも手放すこともできないんだよ。
"目覚めて"しまった以上、世界の正体を垣間見てしまった以上、
もはや"眠りし者"には戻れない。」
ヘクセはカイににやりと笑いかけると
「こちら側にようこそ」と軽口を叩いた。
「…ではなんで伝承が変わったんだ?
何故ラスカフュールは神の力を譲ったことになる?」
「理由はいくつか考えられるがね。
一つは山神は荒神といえど神、退治するのは拙いという考え方が根強かった。
一つはラスカフュールがその後、神の力を派手に用いた伝説が残っていない。
けれども私はこれが一番の理由ではないかと思ってるんだよね。
ラスカフュールは結局龍を滅ぼしたわけではない。」
「…よくわからないんだが、山神はお前の説では龍神ということだよな?
そしてラスカフュールは龍神を倒し、巫女を救ったのだろ?
何故、そこで倒していないということになる。」
「山神は龍だと昔の人々が認識してたってことが、
イコール実際に龍がいたことにはなるまい。
いてもおかしくない環境ではあるがね。
ただ、それならもう少し別の痕跡があってもいい。
つまり龍はいなかった。だが一方で龍の、神の存在を信じさせる何かはあった。
ついでに、この地の龍脈は、これほど密集しているにも関わらず
不自然なほどに整えられている。元からこうではあるまい。
明らかに何者かの手が加わっているとしか思えない。
これほど色濃く霊気が残っていながらも、その性状はかつて荒神と畏れられたものとは思えぬほど穏やか。
こういうものは倒したとは言わない。鎮めたと言うんだ。
…そんなことの出来る存在など、この地には一人しかいなかっただろう?
ラスカフュールが、何故それ以降、力を使用しなかったかはわからないけどね。」
「祖霊神…ラスカフュールとは何者だったんだ?
異界の神じゃないのか?お前は何を知っている?」
「…ほんの少し、彼のことを調べただけさ。
ラスクファブ、タズカヒョーブ、ダルマファース。
各地で呼び名に多少の差異はあるがね。
ラスカフュールが古カフール語の発音に近いなら、タズカヒョーブはライガール語に近い。
だが、ライガールにおいても彼の人の出自はあやふやだし、
ダルはナイジェラ古語で道、マは磨く、ファースは法師という意味だから
ナイジェラに縁のある人物とも考えられる。
一方、ハスカヘイロウに似た民話が西方の地にもあるから、
まさしく何者か未だに不明ではあるし、異界の存在かどうかは知らないが、
歴史上痕跡は残っている。
神…と言ってしまえば神なのかなぁ。
"気"という"言語"を極め、『道』を確立し、
人の身で、神の頂に登りつめた人物だ。」
「…元は人だと?」
「たぶんね。
もっとも、ここまで霊格を高めた存在を人間と言っていいのかは別としてね。
まぁ規格外ではあるよね。
カイも錬気術を極めれば、いつかその境地に辿り着けるかもよ?」
ヘクセは踵を返して祖霊廟の前に立った。
そこには奇妙な石碑が置かれていた。
何も書かれていない。ただ、中央に丸い穴が開いている2mほどの高さの石碑だ。
「これが…」
「そう。それが<フー>だよ。」
ヘクセが解説した。
「ただ、穴が開いているよう岩にしか見えないんだが?」
「そうだよ。魔力も何も無い、ただ岩に穴が開いているだけ。
まぁ、穴は完璧な円を描いてくり抜かれてはいるがね。
こないだ、さんざ調べたけどなーんにもなかった。」
ヘクセはつまらなそうに一瞥して、言葉を続けた。
「『フー』とは古い言葉で、『空ろ』というか『空っぽ』というか、
…うーん、難しいな。
『フー』は『フー』であって、その概念を示す適当な言葉が無いからなぁ。…」
そう言いながらヘクセは祖霊廟の扉を開く。
「おい、何してるんだ?」
「いや、せっかくだし。
この前来たときは、ろくに調べる前に捕まっちゃったし。」
ヘクセはそう言いながら、中に入っていく。
カイは溜息をつくと、ヘクセの後につづいた。
「ほら、見なよ。」
カイが入ってくるのを見て、ヘクセは壁の一面を指差した。
そこには絵が描かれていた。
カイは息を呑む。
そこには美しい黒髪、慈悲に溢れた瞳の美しい女性が描かれていた。
それはまるでセラフィナのようで…。
「聖皇母の肖像画だ。
アティアに似てるねぇ。
やっぱ血ってやつかなぁ?」
「…ぁあ、そうか、アティアにも似てるな。」
「アティア以外に似てる人を知ってるのかね?」
「………」
ヘクセのその問いに、カイは黙り込む。
ヘクセは気にも留めず、祖霊廟の中の壁を隈なく調べていた。
「…何をしている?」
「麓の正殿に無い以上、この本殿にあると思ったんだがなぁ…」
「何を探している?」
カイは重ねて尋ねた。
ヘクセは顔を上げずに答えた。
「アカーシャの書だよ。」
「アカーシャだと?」
「アカーシャとは古の言葉で『天地』を意味する言葉だ。
ラスカフェールが『道』の根幹を記した哲学書。
私が長年追い続けたものだ。
カイも聞いたことがあるだろ?アカーシャの書の名前をさ。」
確かにカイはその名前を知っていた。
アカーシャの書。
カフールで錬気術に一端でも携わるものなら、誰もが一度は耳にする伝説。
この世の真理を全て記した書物とも、武の真髄が記されている奥義書とも噂され、
数多の偽書が出回るが、その実物を見たものは誰もおらず、
いまではただの夢物語とまで言われている伝説の書物。
「ただの伝説ではなかったのか?」
「まぁ失われて久しいからね。」
「それがお前の目的だったのか?」
「そうだよ。」
やがてヘクセ不満げに立ち上がると、頭をかきながら霊廟を出た。
そしてそのまま座り込む。
「…見つからないのか?」
「…うーん。
書というからには、伝えるのが目的だ。
いくらカフール錬気術の教えが『不立文字』とはいえ、
何かは分かるところに残してあるはずなのに…」
ヘクセは真剣な顔で呟いた。
「<フー>が意味無く作られたとは思えない。
あれが目印ならば、ここにあるはずなんだけどなぁ…。
…どこに消えた?失われたとでもいうのか?…くそっ」
ヘクセは悔しそうに爪を噛んだ。
「そんなに、その書が大事なのか?
結局は大昔に書かれた哲学書だろ?」
「…君は目覚めてなお、哲学の重要性をわかってないのかね。」
ヘクセは不機嫌な表情で言った。
「書でも、剣でも、なんでもいい。
求められるべきは技量であって人格ではない。
だけど、ある水準以上の技量を持つ者は、一様にある種の"悟り"を開いている。
それは、技量を突き詰めるということは、
その"言葉"を持って、自らの意志で世界を変化させるということに他ならないからだ。
歌や料理で人の心を震わせたりね。
そして、あらゆる"言葉"には思想が内在している。
その"言葉"を真に解するには、
"言葉"の持つ思想を解することは不可欠だ。
思想を解するってことは、哲学を持つってことは、
世界を認識する物差しを増やすということなんだ。
哲学というのは、思索を経て理解に辿り着く営みなんだよ。
物事の認識・把握の仕方、概念、あるいは発想の仕方のことなんだ。
精神と肉体を練磨し、人を超える。
そのカフール錬気術の根幹たる思想、"言語"を手に入れれば、
霊格を次なる位階に押し上げることも可能なのに…。」
ヘクセはそう言った後、「むーっ」と呻いて、寝転がった。
両手を広げ、空を見上げる。
「…ようやく、手が届くところまで来たと思ったのに…。」
ヘクセは切なそうに呟いた。
「………」
カイはしばし寝転がるヘクセを眺めたが、頬を緩めヘクセの側に腰を下ろし、珍しく優しい声音で声をかけた。
「…いつものうるさいまでの元気はどうした?
何か見落としてるだけかもしれんぞ。」
「見落としってさー…」
ヘクセは呻く。なんとなしに<フー>が目に入った。
(「答えは君の目の前にあるんだよ。後は君が気付くだけでいい。」)
(「書というからには、伝えるのが目的だ。」)
(「いくらカフール錬気術の教えが『不立文字』とはいえ」)
不意に、ヘクセの脳裏に自らの言葉がフラッシュバックした。
ドクンッ!
鼓動が跳ね上がる。
ヘクセは飛び起きた。
その瞬間、悟ったのだ。
体の震えが止まらない。
ヘクセは自分の声が他人のように聞こえた。
「…見つけた。これが『アカーシャの書』だ。」
ヘクセの声は震え、涙が止めなく流れ出した。
それでもヘクセは目の前の『アカーシャの書』から目が離せなかった。
『アカーシャの書』=石碑の穴からは、満月がぽっかり覗いていた。
カイはその瞬間を目撃していた。
ヘクセが滂沱の涙を流し、石碑を見つめている。
ヘクセの周囲に濃密な気が渦巻き、膨れ上がり、やがてヘクセの左腕に収束していく。
そしてヘクセの左腕に新たな紋様が刻まれた。
周囲の気が落ち着き、ヘクセの腕に不可思議な紋様が定着して尚、ヘクセは石碑の前に座り、見つめ続けていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
PC:ヘクセ カイ
NPC:アティア
場所:カフール国、クォンロン山頂、スーリン僧院本殿 祖霊廟前
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
猿達はヘクセが指を山に向けただけで立ち去った。
「いったい、何をしたんだ?」
「彼らにとっては私は山神なのだよ。だから従ってくれるのさ。
実のところ、アティアの中の巫女の紋様を取っ掛かりに、
一時的に山神の気を身に纏ったに過ぎないんだが…」
「って山に戻していいのか?
お前さっき『木々や飢えた動物達の悲鳴が聞こえる。』
って言ってたじゃないか!」
「おぉっ、聞いていたのか。よく覚えてたねーw
まぁ気にしない気にしない。
さっきはあのお猿さんに呪いをかけるためにああ言ったけどさ、
山の掟は法律じゃなくって摂理だ。
なるようになるって。
まったくの異種ならともかく、もともと近隣地にいた種だ。
そうひどいことにはならんだろう。
何かの種が滅んだり、代わりに別の種が栄えたり、
それだって山の命の連鎖の一部さ。」
ヘクセはなんでもないことのように言うとアティアの額に手を当てた。
気絶しながらも苦しそうだったアティアの表情が安らぐ。
「これで大丈夫。
アティアの気を外界から隔離した。
山の気の影響は受けないよ。」
「…それは俺に施したものと違うよな?」
カイが眉根を顰めた。
「うん。君には導いただけで、施しはしてない。」
「出来るんだったらしろよ!」
「えー、やだよー、めんどくさい。
君はよちよちでも歩ける段階にいたんだよ?
なのに、なんでおんぶしてやらなくちゃいけないのさ。」
ヘクセはさも当然のごとく言う。
カイは小さくため息をついた。
「間に合ったからいいようなもの…」
そのときアティアが小さく身震いする。
ヘクセは纏っていたローブをさっさと脱ぎだした。
「おいっ!」
「なに?」
「女の子が人前で脱ぐな!」
「開眼したわりに、そんなところはウブなんだから…。
裸になったわけでもあるまいし。」
確かにヘクセは薄手のシャツにスパッツという格好で、それほど露出が激しいわけでもない。
カイにしてみれば、いきなりローブを脱ぎだしたのでうろたえただけであって、ことさら騒ぐことでもなかった。
ただ、ヘクセの露出した右腕を、指先から肩まで、埋め尽くす不可思議な紋様には、目を引かずにはおられなかった。
その紋様は気が渦巻いており、ただの刺青ではないことは明白だった。
ヘクセはローブでアティアの身を包むと、カイの視線に気付いて右手をひらひらさせて笑った。
「普段は封魔布で隠してるんだけどね。気にするな。
それよりカイの手当てもしなくっちゃね。ここに座って。」
ヘクセは答えになってないことを言うと、カイを手招きした。
「気を練る要領と同じ。目を閉じて、私と呼吸を合わせて。」
ヘクセはそう言って、カイの手を握った。
「自己の中に潜っていくんだ。
丹田に集まった気を、体内の気脈に沿わせて体中に巡らすように広げて。」
カイは言われるまま、気を体内に巡らせていった。
これぐらいのことはカイには今や半呼吸で行える。
わずかに流れ込むヘクセの気も感じ取れた。
「わかるかい?
気の流れが滞っているところ。
それを解して紡いで織り成すんだ。」
額にわずかに、そして背中や腹部、肩などに大小の濁りがある。
カイは呼吸を深く行うとゆっくりとその澱みに意識を集中した。
時間をかけ、本来あるべき流れに整える。
考えてみれば、この工程は、これまで何度も行っていた気がする。
やがてヘクセの手が離れ、カイは目を開けた。
身体から痛みが消え、傷がだいぶ塞がっている。
「治癒術か…」
「これもまた、君の持つ可能性の一つだ。
錬気術も極めれば、この地の仙人や武仙達の、千里を駆け、山を砕き、嵐を呼ぶ、
それら伝説の技を使えるだろう。
そこに至るには遥かに遠く険しくはあるがね。
…もし、その道を行くのなら、きちんとしたこの地の武仙についたほうがいい。
私が導けるのはここまでだ。もともと、ここの哲学は私の分野外なのだしね。」
「俺には気の才能は乏しいと聞いていたが…」
「才能が器の大きさというのなら、際立ってはいないな。
だが才能は絶対ではない。
それと向き合った密度、積み重ねたもの次第では、生得の差など凌駕できる。
身体能力の性能差が絶対ではないように…。
今の君には十分承知だろうw」
ヘクセはおもむろに立ち上がった。
「カイ、ここには来たこと無いんだろ?」
「…あぁ、山に入る資格をもらわなかったからな」
「だったら、案内してあげよう。」
ヘクセは先にたって歩きだした。
祖霊廟は山頂のすぐ傍に建っていた。
そして山頂にはぽっかりと大きな穴が開いていた。
地下深くまで続き、覗き込んでも底すら見えない深い穴。
霊気が渦巻いているのが感じ取れる。
「…これは?」
カイにもここまで濃い霊気だとわかるのか、眉根を寄せながら聞いた。
「"龍穴"だよ。
まさにここがカフールの龍脈の中心点だ。
昔は、この穴に巫女が身を投じていたんだな。」
ヘクセはカイのほうを振り向いて言葉を続けた。
「昔話の続きだ。
異界の神ラスカフュールは巫女を山神から譲り受けるために、
自身の魔力を渡したとされている。
…ところでカイ君は知ってるかね?
この国には龍退治の伝承が多く残っている。
それらの話には面白い共通点がある。
ラスクファブの龍退治、カスガホウロの龍退治、あるいは名もなき男。
それら英雄のどれもが東から現れ、この地の巫女、あるいはそれに類するものを娶る。
まるでカフールの建国譚のようだ。
さらに翻ってここより東の国、ライガールには、
ダルマファースという医と禅の哲人、タヅカヒョーブという武人の伝説があるが、
この二人の伝説は奇妙な共通点が多い。
天地を裂き、手を触れただけで怪物を倒し、霞のごとく消え去る。
人を寄せ付けず、放浪癖を持ち一つ所に留まらぬ。
そして小船に乗り海に出て行った件もね。
タヅカヒョーブはハスカヘイロウ、あるいはモモタロウという民話の基になってるんだけど、
この二人も海に出て鬼退治に行ってるね。
さて、ラスカフュールが実在したのであれば、建国譚にも真実が含まれると考えられる。
だとすれば、類似の神話の共通項にこそ真実が隠されているはずだ。
問題はどちらが元かだが、カフール建国伝説が龍退治の話の原型とは考えにくい。
話が複雑なものから簡単なものに、明快なものからよくわからぬものに変わることはない。
普通は逆だ。なにより祖霊神だとすると龍退治の英雄の名前に祖霊神以外が残るわけがない。
…まぁそのほうが納得もいく。
実際に魔力を譲り渡すなんてことは不可能だしね。」
「そうなのか?」
「君も開眼したなら多少は解るだろう。
魔力と一言でいうものは、戦闘力と同じで複合力だ。
身の内に秘めた魔素たる精髄の量、それを貯めるだけの器の大きさ、
認識を織り変えるに足る意志力、想像力。
そして何より重要なのは世界を測る物差しの理解度だ。
精髄を一時的に渡せるにしても、
器の大きさも、意志の力も、想像力も、渡せるものではなかろう?
まして理解度など。
今更君が、"気"を理解せぬ頃に戻れぬよう、
一度理解したものを譲ることも手放すこともできないんだよ。
"目覚めて"しまった以上、世界の正体を垣間見てしまった以上、
もはや"眠りし者"には戻れない。」
ヘクセはカイににやりと笑いかけると
「こちら側にようこそ」と軽口を叩いた。
「…ではなんで伝承が変わったんだ?
何故ラスカフュールは神の力を譲ったことになる?」
「理由はいくつか考えられるがね。
一つは山神は荒神といえど神、退治するのは拙いという考え方が根強かった。
一つはラスカフュールがその後、神の力を派手に用いた伝説が残っていない。
けれども私はこれが一番の理由ではないかと思ってるんだよね。
ラスカフュールは結局龍を滅ぼしたわけではない。」
「…よくわからないんだが、山神はお前の説では龍神ということだよな?
そしてラスカフュールは龍神を倒し、巫女を救ったのだろ?
何故、そこで倒していないということになる。」
「山神は龍だと昔の人々が認識してたってことが、
イコール実際に龍がいたことにはなるまい。
いてもおかしくない環境ではあるがね。
ただ、それならもう少し別の痕跡があってもいい。
つまり龍はいなかった。だが一方で龍の、神の存在を信じさせる何かはあった。
ついでに、この地の龍脈は、これほど密集しているにも関わらず
不自然なほどに整えられている。元からこうではあるまい。
明らかに何者かの手が加わっているとしか思えない。
これほど色濃く霊気が残っていながらも、その性状はかつて荒神と畏れられたものとは思えぬほど穏やか。
こういうものは倒したとは言わない。鎮めたと言うんだ。
…そんなことの出来る存在など、この地には一人しかいなかっただろう?
ラスカフュールが、何故それ以降、力を使用しなかったかはわからないけどね。」
「祖霊神…ラスカフュールとは何者だったんだ?
異界の神じゃないのか?お前は何を知っている?」
「…ほんの少し、彼のことを調べただけさ。
ラスクファブ、タズカヒョーブ、ダルマファース。
各地で呼び名に多少の差異はあるがね。
ラスカフュールが古カフール語の発音に近いなら、タズカヒョーブはライガール語に近い。
だが、ライガールにおいても彼の人の出自はあやふやだし、
ダルはナイジェラ古語で道、マは磨く、ファースは法師という意味だから
ナイジェラに縁のある人物とも考えられる。
一方、ハスカヘイロウに似た民話が西方の地にもあるから、
まさしく何者か未だに不明ではあるし、異界の存在かどうかは知らないが、
歴史上痕跡は残っている。
神…と言ってしまえば神なのかなぁ。
"気"という"言語"を極め、『道』を確立し、
人の身で、神の頂に登りつめた人物だ。」
「…元は人だと?」
「たぶんね。
もっとも、ここまで霊格を高めた存在を人間と言っていいのかは別としてね。
まぁ規格外ではあるよね。
カイも錬気術を極めれば、いつかその境地に辿り着けるかもよ?」
ヘクセは踵を返して祖霊廟の前に立った。
そこには奇妙な石碑が置かれていた。
何も書かれていない。ただ、中央に丸い穴が開いている2mほどの高さの石碑だ。
「これが…」
「そう。それが<フー>だよ。」
ヘクセが解説した。
「ただ、穴が開いているよう岩にしか見えないんだが?」
「そうだよ。魔力も何も無い、ただ岩に穴が開いているだけ。
まぁ、穴は完璧な円を描いてくり抜かれてはいるがね。
こないだ、さんざ調べたけどなーんにもなかった。」
ヘクセはつまらなそうに一瞥して、言葉を続けた。
「『フー』とは古い言葉で、『空ろ』というか『空っぽ』というか、
…うーん、難しいな。
『フー』は『フー』であって、その概念を示す適当な言葉が無いからなぁ。…」
そう言いながらヘクセは祖霊廟の扉を開く。
「おい、何してるんだ?」
「いや、せっかくだし。
この前来たときは、ろくに調べる前に捕まっちゃったし。」
ヘクセはそう言いながら、中に入っていく。
カイは溜息をつくと、ヘクセの後につづいた。
「ほら、見なよ。」
カイが入ってくるのを見て、ヘクセは壁の一面を指差した。
そこには絵が描かれていた。
カイは息を呑む。
そこには美しい黒髪、慈悲に溢れた瞳の美しい女性が描かれていた。
それはまるでセラフィナのようで…。
「聖皇母の肖像画だ。
アティアに似てるねぇ。
やっぱ血ってやつかなぁ?」
「…ぁあ、そうか、アティアにも似てるな。」
「アティア以外に似てる人を知ってるのかね?」
「………」
ヘクセのその問いに、カイは黙り込む。
ヘクセは気にも留めず、祖霊廟の中の壁を隈なく調べていた。
「…何をしている?」
「麓の正殿に無い以上、この本殿にあると思ったんだがなぁ…」
「何を探している?」
カイは重ねて尋ねた。
ヘクセは顔を上げずに答えた。
「アカーシャの書だよ。」
「アカーシャだと?」
「アカーシャとは古の言葉で『天地』を意味する言葉だ。
ラスカフェールが『道』の根幹を記した哲学書。
私が長年追い続けたものだ。
カイも聞いたことがあるだろ?アカーシャの書の名前をさ。」
確かにカイはその名前を知っていた。
アカーシャの書。
カフールで錬気術に一端でも携わるものなら、誰もが一度は耳にする伝説。
この世の真理を全て記した書物とも、武の真髄が記されている奥義書とも噂され、
数多の偽書が出回るが、その実物を見たものは誰もおらず、
いまではただの夢物語とまで言われている伝説の書物。
「ただの伝説ではなかったのか?」
「まぁ失われて久しいからね。」
「それがお前の目的だったのか?」
「そうだよ。」
やがてヘクセ不満げに立ち上がると、頭をかきながら霊廟を出た。
そしてそのまま座り込む。
「…見つからないのか?」
「…うーん。
書というからには、伝えるのが目的だ。
いくらカフール錬気術の教えが『不立文字』とはいえ、
何かは分かるところに残してあるはずなのに…」
ヘクセは真剣な顔で呟いた。
「<フー>が意味無く作られたとは思えない。
あれが目印ならば、ここにあるはずなんだけどなぁ…。
…どこに消えた?失われたとでもいうのか?…くそっ」
ヘクセは悔しそうに爪を噛んだ。
「そんなに、その書が大事なのか?
結局は大昔に書かれた哲学書だろ?」
「…君は目覚めてなお、哲学の重要性をわかってないのかね。」
ヘクセは不機嫌な表情で言った。
「書でも、剣でも、なんでもいい。
求められるべきは技量であって人格ではない。
だけど、ある水準以上の技量を持つ者は、一様にある種の"悟り"を開いている。
それは、技量を突き詰めるということは、
その"言葉"を持って、自らの意志で世界を変化させるということに他ならないからだ。
歌や料理で人の心を震わせたりね。
そして、あらゆる"言葉"には思想が内在している。
その"言葉"を真に解するには、
"言葉"の持つ思想を解することは不可欠だ。
思想を解するってことは、哲学を持つってことは、
世界を認識する物差しを増やすということなんだ。
哲学というのは、思索を経て理解に辿り着く営みなんだよ。
物事の認識・把握の仕方、概念、あるいは発想の仕方のことなんだ。
精神と肉体を練磨し、人を超える。
そのカフール錬気術の根幹たる思想、"言語"を手に入れれば、
霊格を次なる位階に押し上げることも可能なのに…。」
ヘクセはそう言った後、「むーっ」と呻いて、寝転がった。
両手を広げ、空を見上げる。
「…ようやく、手が届くところまで来たと思ったのに…。」
ヘクセは切なそうに呟いた。
「………」
カイはしばし寝転がるヘクセを眺めたが、頬を緩めヘクセの側に腰を下ろし、珍しく優しい声音で声をかけた。
「…いつものうるさいまでの元気はどうした?
何か見落としてるだけかもしれんぞ。」
「見落としってさー…」
ヘクセは呻く。なんとなしに<フー>が目に入った。
(「答えは君の目の前にあるんだよ。後は君が気付くだけでいい。」)
(「書というからには、伝えるのが目的だ。」)
(「いくらカフール錬気術の教えが『不立文字』とはいえ」)
不意に、ヘクセの脳裏に自らの言葉がフラッシュバックした。
ドクンッ!
鼓動が跳ね上がる。
ヘクセは飛び起きた。
その瞬間、悟ったのだ。
体の震えが止まらない。
ヘクセは自分の声が他人のように聞こえた。
「…見つけた。これが『アカーシャの書』だ。」
ヘクセの声は震え、涙が止めなく流れ出した。
それでもヘクセは目の前の『アカーシャの書』から目が離せなかった。
『アカーシャの書』=石碑の穴からは、満月がぽっかり覗いていた。
カイはその瞬間を目撃していた。
ヘクセが滂沱の涙を流し、石碑を見つめている。
ヘクセの周囲に濃密な気が渦巻き、膨れ上がり、やがてヘクセの左腕に収束していく。
そしてヘクセの左腕に新たな紋様が刻まれた。
周囲の気が落ち着き、ヘクセの腕に不可思議な紋様が定着して尚、ヘクセは石碑の前に座り、見つめ続けていた。
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