人物:ライ セラフィナ
場所:デルクリフ⇔ルクセン ―それなりに大きな港町ベリンザ
------------------------------------------------------------------------
――ああ、ここは寒い。
雰囲気がそう思わせるのだろう。古から数百年以上を経て生活感など完全に削ぎ落と
された遺跡よりも、こういった廃墟は神経を磨り減らす。誰かがいたという痕跡、その
誰かの生活を窺い知ることができる痕跡が消え去っていない。
廊下は真っ暗だった。あの男がランプを持って行ってしまったからで、それを見失う
前に追いかけなかったのは、この場所には見覚えがあるかも知れないと思ったからだ。
壊れた家具、カビと模様が混ざり合った壁紙、扉に刻まれた疵。
たしかこの廊下をまっすぐに歩いていくと右手に階段がある。二階にはホール。
暗闇でも不自由はないのだ――自分の存在以外の周囲の様子は、しっかりと認識する
ことができるのだから。わざとカツリカツリと足音を立てながらライは、こんな場所に
は来たことがないはずだと思い直した。
ベリンザの町には覚えがない。
二階にはホール。ささやかな宴会を催すための。
そこから始まったのだ、血濡れの惨劇が。
町で聞いた話の通りならば、かつてここの主だった商人は、招き入れた旅人に殺され
てしまったらしい。人のいい男で、珍しいほど強い吹雪の中で扉を叩いた吟遊詩人を、
当然のように受け入れて。
礼に一曲歌いたいと申し出た詩人に喜び、せっかくだからとホールに人を集め。
呪いの歌で、警備の人間や使用人ともども一人残らず命を奪われた。
(呪歌ねぇ……)
呪い歌。古い言葉で綴られた伝承歌には、旋律や歌詞に魔法的な音階を、或いは人間
の心理につけこんだ細工を施されたものが存在する。
演奏されることで再生し、その音律を耳にした者を魅惑し、眠りに誘い、恐怖に陥れ、
錯乱させ、絶望に突き落とし、優しく死を説き、狂乱を沈める、様々に人の心を揺さぶ
る楽曲。音楽技巧的には稚拙と呼ばれ、歌詞もありふれた伝説を歌っている。知る者に
しか相手にされない。
使い込んだ楽器と共に各地を渡り歩く吟遊詩人たちの間でのみ密かに伝えられる、人
の心を操る技術。考えてみればいい。どれだけ歌が上手く見目がよくとも、それだけで
一国の政治に介入する者がいるか。王に寵愛された彼らがどのような魔性を操ったのか。
(聞いたら即死する歌なんてあったかな……誇張して話されたんだろうな)
よくあることだ。
さて、と思考を切り替える。あの男はどこへ行ったのだろうか。
あまり大きな屋敷ではなさそうだが部屋の数は少なくなさそうだ。いや、人の気配を
探るのなら簡単か。大人数がいるはずもない。
だから、衣擦れや空気の動き、話し声。どんな些細な要素もここでは目立ってしまう。
目の前には闇だけがある。
男の足音もとっくに聞こえなくなっていたので、ライは再びペンライトを灯した。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
そうっとその部屋に忍び入り、ライは思わず『あ』と声を上げてから慌てたが、どう
せ誰にも聞こえないことに気づくまでは数秒かかった。
『なんで、いるんだ……』
視線の先にはセラフィナがいた。そこにいるのが当たり前というように椅子に腰掛け、
さっき見た男と向かい合って何かを話している。テーブルに置かれている本はさっきの
ものだろう。
二人が暗い表情でちらちらと窓の方を振り向くのでライもそちらを見ると、窓には子
供が映っていた――ちょうど、部屋の中、窓のすぐ手前に立っているだろう位置だが、
実際には誰もいない。子供の表情は何かを怒っているようだった。
何が起こっているのかさっぱりわからない。
ここはどうやら応接室のようだ。奥の方と違って部屋は綺麗に片付けられていて、廊
下もそうだった。
男がここに住み着いているというのは本当らしい。それなりに健康的な生活を送れそ
うなスペースがあるのだから。
(まさか、あの船員の話を真に受けて来たんじゃあるまいな)
いくら素直な彼女でもそんなことはないだろう。怪談なんて大半が創作か誇張だ。幽
霊さんなんてそうそういない。ソフィニアが異常だったのだ。膨大な魔法を扱う都市だ
から、何か変な影響で大量発生していたに違いない。
どんな場所でもいっぱい見えると言い張る人は幻覚でも見ているのではなかろうか。
自分にしか見えないお友達とは、あんまりお知り合いにならないほうがいい。健康管
理は大切だ。
むしろ、そういう人を見ている方が、幽霊さんを見るより寒気がする。
そう思えば今も少し寒いような気がして、ライは左手で右の上腕を掴んでみた。
自分の体を抱くように、という表現があるが、どういう風にすれば相応しくなるのか
よくわからない。掴んだ腕は布地越しでも異様な感触で指をめり込ませる。
――と、どうでもいいことを考えたりやったりしているうちに、窓に映った子供が、
ふとこちらを見た。窓ガラスの彼は窓に背を向けている。つまり部屋の中を見ている。
誰もいない空間から視線を感じた。
ヤバいな、と、思いながら。
とりあえずライは愛想笑いをしながら手を振ってみた。
子供は凍りついたようにライを見ている。
さて問題です。僕が人間だったのは二年以上前。体なしでそれだけの時間を過ごした
“ナカミ”が、そのまま人間の形を保っているでしょうか。
いるわけがない。自分で即答。
確かめようがないからわからないが、可視か不可視の人間の形の幻影を纏わなければ
誰にも見えないはずだから気にしていなかった。だが、誰かに視認される可能性がある
とすれば話は別だ。
ライは、ほんの一瞬だけ、セラフィナやあの男の気づかれるより早くこの子供をどう
にかできないかと真面目に考えた。
もう自分が完全に人間以外に成り変わっていることは、セラフィナには絶対に知られ
てはいけないと思ったのだ。そんなことは――ただ、怖い。
舌打ちして、踵を返し廊下に逃れる。
おかしいなぁ今回は傍観者に徹するつもりだったのにこのままだと無理じゃないか。
場所:デルクリフ⇔ルクセン ―それなりに大きな港町ベリンザ
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――ああ、ここは寒い。
雰囲気がそう思わせるのだろう。古から数百年以上を経て生活感など完全に削ぎ落と
された遺跡よりも、こういった廃墟は神経を磨り減らす。誰かがいたという痕跡、その
誰かの生活を窺い知ることができる痕跡が消え去っていない。
廊下は真っ暗だった。あの男がランプを持って行ってしまったからで、それを見失う
前に追いかけなかったのは、この場所には見覚えがあるかも知れないと思ったからだ。
壊れた家具、カビと模様が混ざり合った壁紙、扉に刻まれた疵。
たしかこの廊下をまっすぐに歩いていくと右手に階段がある。二階にはホール。
暗闇でも不自由はないのだ――自分の存在以外の周囲の様子は、しっかりと認識する
ことができるのだから。わざとカツリカツリと足音を立てながらライは、こんな場所に
は来たことがないはずだと思い直した。
ベリンザの町には覚えがない。
二階にはホール。ささやかな宴会を催すための。
そこから始まったのだ、血濡れの惨劇が。
町で聞いた話の通りならば、かつてここの主だった商人は、招き入れた旅人に殺され
てしまったらしい。人のいい男で、珍しいほど強い吹雪の中で扉を叩いた吟遊詩人を、
当然のように受け入れて。
礼に一曲歌いたいと申し出た詩人に喜び、せっかくだからとホールに人を集め。
呪いの歌で、警備の人間や使用人ともども一人残らず命を奪われた。
(呪歌ねぇ……)
呪い歌。古い言葉で綴られた伝承歌には、旋律や歌詞に魔法的な音階を、或いは人間
の心理につけこんだ細工を施されたものが存在する。
演奏されることで再生し、その音律を耳にした者を魅惑し、眠りに誘い、恐怖に陥れ、
錯乱させ、絶望に突き落とし、優しく死を説き、狂乱を沈める、様々に人の心を揺さぶ
る楽曲。音楽技巧的には稚拙と呼ばれ、歌詞もありふれた伝説を歌っている。知る者に
しか相手にされない。
使い込んだ楽器と共に各地を渡り歩く吟遊詩人たちの間でのみ密かに伝えられる、人
の心を操る技術。考えてみればいい。どれだけ歌が上手く見目がよくとも、それだけで
一国の政治に介入する者がいるか。王に寵愛された彼らがどのような魔性を操ったのか。
(聞いたら即死する歌なんてあったかな……誇張して話されたんだろうな)
よくあることだ。
さて、と思考を切り替える。あの男はどこへ行ったのだろうか。
あまり大きな屋敷ではなさそうだが部屋の数は少なくなさそうだ。いや、人の気配を
探るのなら簡単か。大人数がいるはずもない。
だから、衣擦れや空気の動き、話し声。どんな些細な要素もここでは目立ってしまう。
目の前には闇だけがある。
男の足音もとっくに聞こえなくなっていたので、ライは再びペンライトを灯した。
☆ ・ ☆ ・ ☆ ・ ☆
そうっとその部屋に忍び入り、ライは思わず『あ』と声を上げてから慌てたが、どう
せ誰にも聞こえないことに気づくまでは数秒かかった。
『なんで、いるんだ……』
視線の先にはセラフィナがいた。そこにいるのが当たり前というように椅子に腰掛け、
さっき見た男と向かい合って何かを話している。テーブルに置かれている本はさっきの
ものだろう。
二人が暗い表情でちらちらと窓の方を振り向くのでライもそちらを見ると、窓には子
供が映っていた――ちょうど、部屋の中、窓のすぐ手前に立っているだろう位置だが、
実際には誰もいない。子供の表情は何かを怒っているようだった。
何が起こっているのかさっぱりわからない。
ここはどうやら応接室のようだ。奥の方と違って部屋は綺麗に片付けられていて、廊
下もそうだった。
男がここに住み着いているというのは本当らしい。それなりに健康的な生活を送れそ
うなスペースがあるのだから。
(まさか、あの船員の話を真に受けて来たんじゃあるまいな)
いくら素直な彼女でもそんなことはないだろう。怪談なんて大半が創作か誇張だ。幽
霊さんなんてそうそういない。ソフィニアが異常だったのだ。膨大な魔法を扱う都市だ
から、何か変な影響で大量発生していたに違いない。
どんな場所でもいっぱい見えると言い張る人は幻覚でも見ているのではなかろうか。
自分にしか見えないお友達とは、あんまりお知り合いにならないほうがいい。健康管
理は大切だ。
むしろ、そういう人を見ている方が、幽霊さんを見るより寒気がする。
そう思えば今も少し寒いような気がして、ライは左手で右の上腕を掴んでみた。
自分の体を抱くように、という表現があるが、どういう風にすれば相応しくなるのか
よくわからない。掴んだ腕は布地越しでも異様な感触で指をめり込ませる。
――と、どうでもいいことを考えたりやったりしているうちに、窓に映った子供が、
ふとこちらを見た。窓ガラスの彼は窓に背を向けている。つまり部屋の中を見ている。
誰もいない空間から視線を感じた。
ヤバいな、と、思いながら。
とりあえずライは愛想笑いをしながら手を振ってみた。
子供は凍りついたようにライを見ている。
さて問題です。僕が人間だったのは二年以上前。体なしでそれだけの時間を過ごした
“ナカミ”が、そのまま人間の形を保っているでしょうか。
いるわけがない。自分で即答。
確かめようがないからわからないが、可視か不可視の人間の形の幻影を纏わなければ
誰にも見えないはずだから気にしていなかった。だが、誰かに視認される可能性がある
とすれば話は別だ。
ライは、ほんの一瞬だけ、セラフィナやあの男の気づかれるより早くこの子供をどう
にかできないかと真面目に考えた。
もう自分が完全に人間以外に成り変わっていることは、セラフィナには絶対に知られ
てはいけないと思ったのだ。そんなことは――ただ、怖い。
舌打ちして、踵を返し廊下に逃れる。
おかしいなぁ今回は傍観者に徹するつもりだったのにこのままだと無理じゃないか。
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