◆――――――――――――――――――――――――――――――――――
人物:ライ セラフィナ
場所:海上(デルクリフ⇔ルクセン)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
気を抜くと途切れそうになる意識が実際に闇に閉ざされることはないのだろう。
ひどい眠気を感じているのに眠りに落ちることができない。勿論、ここで気を失うこ
とがあってはいけなかった。だから救いではあったが、同時にある種の苦痛でもあった。
「何なんだこの部屋は。船長の尊厳もあったもんじゃない」
大げさな溜め息をつく魔法使いには見覚えがある。
デルクリフの海岸で見た男だ。セラフィナが治した傷が額に跡を残している。何故こ
いつがこんなところにいるのだろう。この船を取り返しに?
「誰だ……あんた」
「この船は、元々ある国の所有物でね。
私はそれを奪い返しに来たのだよ」
奪い返しに。確かに彼の取った行動は、“奪う”という乱暴な言葉には相応しいよう
に思える。そこまで意識して言ったのかはわからないが、深い事情を説明する気がない
という意図は読み取れた。こちらとしても興味があるわけではなかったが。
最初に船を見たときの、軍艦みたいだ、という適当な感想が当たっていただけ。それ
がわかったところで現状を打開する役に立つとは思えなかった。
「まぁ、それは建前で、もっと個人的な事情なんだがね」
彼は少し照れくさそうに苦笑する。その意味はわからなかったものの、海賊以外に対
して敵対するつもりはなさそうだ。判断して、ライは表情から険しさを少しだけ取り払
った。
「なんだか知らないけど、やり方が穏やかじゃないよ」
一歩、距離を詰めようとして、軽くひっぱられる感覚があった。
抱え込むように腕を捕まえられている。寝台の上に上体を起こしたセラフィナを見下
ろして、彼女の細い手首に赤い擦り傷から血が滲んでいるのを見る。見上げてきた彼女
と目を合わせて、ライは微笑んだ。
「放して。大丈夫だから」
何が“大丈夫”なのか自分でもわからない。いきなり目の前の相手に飛び掛ったりし
ない程度の冷静さは取り戻したということなのか、それとも、ただ思いついた文句を口
にしただけなのか。たぶん後者だ。
「あ……ごめんなさい」
セラフィナが顔を曇らせた。何か、彼女の気に障るようなことをしただろうか。
そう思ってからライは気がついた。セラフィナが直前まで触れていた自分の腕は、先
ほどよりも随分と色を失い輪郭を霞ませている。気づかないうちにこんなことになって
いたのか。まだ実体を保っていられるのだから見た目ほどひどい状態ではないのだけど。
体の中を通り抜けていく不可視の流れ。すぐ近くにいる男が魔力の流れを掴んだまま
でいるのが、変に影響しているらしかった。最初の爆発が起こる直前から調子がおかし
くなったのだから間違いない。
優しい彼女を心配させてしまった。
そんなことをしていいわけがないというのに。
「ホントに大丈夫だから。
僕はもう落ち着いてるし……これは、時間が経てば少しは、なおるよ」
作れたのは、曖昧としかいいようのない、中途半端な笑顔だけだったが――かすかに
聞こえた含み笑いに、ライは男を睨みつける。何を考えているのかわからない相手は、
気味が悪い。
「仲がいいな」
「……は?」
突拍子のない言葉に思わず聞き返す。セラフィナも虚をつかれたような顔をしている
のが視界の隅に見えた。何、この人。意味が分からないどころじゃない。
この状況で――騒ぎの張本人が目の前にいて敵意がないようだが、少なくとも平和に
雑談している余裕があるとも思えないのに。
「えっ……と、その……」
「なに慌ててるの、セラフィナさん?」
別に、彼女がすごく慌てているようには見えなかったけど、それ以外にも見えなかっ
たので問い返す。ライは男が勘ぐった内容がわからないほど子供ではないつもりでいる。
だが実際に、恋愛とかそういうのじゃないはずだ。
生身だったときに女性経験が豊富だったわけもないのだが――皆無でもないけど、と
にかく、未だに恋愛感情というのがどういうものだかわからない。わからないままとい
うことは知らないということだ。
愛を知らないのはガキ? 馬鹿か。
初めてセラフィナと会ったときに感じたのは、今まで知り合った女の子たちに抱いた
のとは少し別の感情だった。だが、それはそういう意味ではなくて。
公園で出会ったときの彼女があまりに綺麗に見えたからだろうか?
――人でなくなってから初めて、人を殺して魂を喰らいたいという衝動を覚えたのだ。
すぐに例の事件が起こって、それどころじゃなくなったからもう大丈夫だけど。
「いや……無駄話してる場合じゃない。セラフィナさん、あっちの船に戻ろう。
船員さんたちが捕まってるんだ」
「! わかりました」
セラフィナが表情を引き締める。
黒いドレスを蝶の羽のように翻らせて彼女は立ち上がった。
助けないと、船が動かない。よく聞くように、舵が壊されているということはなかっ
たようだから彼らを解放すれば、なんとか逃げられるかも知れない。密航者の襲撃で海
賊たちが負傷しているなら、すぐに海賊船が動き出すことはないだろう。
逃げられるかも知れない。
望みは薄いが真正面から戦うよりは賢いはずだ。
「そういうわけで、僕たちは行くから」
「ライゼルさん……ありがとうございました」
深々と頭を下げるセラフィナに男は苦笑を浮かべる。枷を外したのは彼にとって、さ
したる苦労も必要のないことだったのだろう。
そのまま部屋を出ようと思った時。
――早足で、高い靴音が聞こえてきた。
開かれたままの扉から現れたのは長身の海賊。彼は密航者を見て一瞬、表情を強張ら
せたように見えた。抜き身の剣をわずかに持ち上げ、今までの挑発的な余裕が嘘のよう
に、憎々しげな様子で吐き出す。
「オマエ……」
「船を返してもらいにきた」
どこか厳かに告げた男の手に炎が集まる。
やめろこれ以上魔法を使うな――ライは顔をしかめたが、男には敵意や殺意といった
ものが感じられない。飄々と彼は言った。
「久しぶりだな、パトリシア」
――別の意味で空気が凍った。
PR
トラックバック
トラックバックURL: