背筋がぴんと伸びている、品のよい白髪の老人が、美しい角度で頭を下げてい
る。
その老人に背を向けたまま、返答をする男。
「……足りない、だと?」
ダヴィードである。あの時鼻でも折ったのか、そこは治療の跡がある。他、頬
など、様々な箇所にもガーゼがあてられていた。流石に、眼鏡はかけていない。
それらの表情を隠す覆いがあるにも関わらず、ダヴィードは不機嫌であると一
目で分かった。
「はぁ。先方はそう申しております」
「馬鹿を言うな! 100枚、だ。100枚、私は、確かに用意しただろ
う!!」
低く、唸るように窓ガラスに向かって吼える。
それとは対称的に、老人は淡々と答える。
「仰る通りでございます。しかし、それでは足りないそうです」
「……小娘らが! 調子にのりおって!!」
老人の瞼が持ち上がり、床を見ていた老人の目がダヴィードに向けられた。し
かし、美しく傾斜している上半身は依然動かない。
「……一応、僭越ながら訂正させていただきますが。来訪者はお一人でございま
す」
「……なんだと?」
そこで、ダヴィードは始めて振り返った。と、同時に老人の瞼はまた落ちる。
「スイ様お一人でございます」
ダヴィードの肺の中が、驚きと羞恥と怒りで膨れた。
「敵は誰になる?」
「んー。テキ?」
微動だにせず、ノクテュルヌの返答を待つスイ。
首をかしげながら考えているのか考えていないのか分からぬ仕草をするノク
テュルヌ。
その二人がテーブル越しで対面している横で、お茶を呑みながら様子を見てい
る櫻華。
しばらくの沈黙の後。
「……櫻華ちゃん?」
ごふぉ、という音が響き渡る。今度は二人がむせている櫻華を見つめる番で
あった。
一人は疑問符を浮かべ。一人は値踏みする視線で。
「……不足は無いな」
ゴホゴホという音をBGMに、スイは満足そうな笑みを浮かべてノクテュルヌ
に言う。
その時、ぐぇほ、と隣でひときわ大きな音が聞こえたが、気にしていないよう
だ。
「あ、本当? 喜んでくれたみたいだね! よかったね、櫻華ちゃん」
櫻華の肩に手をポンと置いたと同時に。
「何もよくないっ!!!」
櫻華の絶叫が響く。
まだ気管支に入っているまま、無理に叫んだのだろう。すぐにまた咳き込み、
昼下がりのあたたかい空気の中、わびしい咳の音が響き渡る。
ようやく咳が収まった櫻華は、二人の顔を見て、愕然とした。
「……何故、きょとんとした顔をしてるんだ!?」
「だって、ねぇ? スイちゃん、いいんでしょ?」
「あぁ、構わない」
「構ってくれ!! そこ!!
というか、おかしいだろう!? 椿の同行人である私が、なんで椿が雇ったス
イの敵設定になるんだ!?」
「あ」
「……あ」
絶妙な、間合いのズレ。それは同時にそろう声よりも計算されているかのよう
だった。
そこに、ポン、という間の抜けた音がした。それは、スイの手が櫻華の頭の上
に載せられた音だった。
「……じゃぁ、櫻華は、実は裏社会の奥底に潜んで活動している地下組織『小粋
なマスターの小話』から送られてきた構成員で、実は、ノクテュルヌの母に親を
奪われた過去を持っていたりなんかして、なんだか敵になるってことで」
「ならんし、そんな過去は無いし、更に言えばそんな名前の地下組織は絶対存在
しない」
「……じゃぁ、混沌組織『耳鳴り大根』」
「別の案を考えるな。というかネーミングがさっきよりひどくなっている」
その時、無表情なスイの顔に、異変が起きた。顎にはなにやらデコボコが生
じ、唇が突き出て、眉間にはなにやら縦に筋が出来ている。奇妙な表情だ。
「あー。櫻華ちゃんがいじめるから、スイちゃんがスネちゃったー」
その言葉を聞いて、櫻華はその表情が拗ねているものだと気づいた。なるほ
ど、冷静に見れば、拗ねている表情である。
ノクテュルヌがスイを頭を抱きかかえ、『よしよし』をする。スイはやはり、
無抵抗である。もしかしたら甘えているのかもしれない、とも思い、想像してみ
たが、想像ができなかったので、櫻華はその思考を放棄した。
「……待つのは、いやだ。何も無い状態で所有されると……気持ち悪い」
ガバリと、ノクテュルヌの手から頭を離し、スイは、真っ直ぐとノクテュルヌ
を見据える。
「ノクテュルヌは、これから、自ら危険に身を置くのか?」
「……そういう予定は無いなぁ。探し物しているだけだから」
「……探し物は、得意じゃない。私の意味が無くなる……。
私は、意味のある物として存在したい……」
机の上に、気が抜けたように突っ伏すスイ。すなわち、それはノクテュルヌの
手の拒絶。
その様子に、櫻華は驚くばかりである。感情豊か、とまではいかないが、ここ
まで感情の動きを読み取らせるスイの一面があるとは、思いもしなかったから
だ。
しばらく、その様子をお茶を飲みながら眺めていたが、突然、ノクテュルヌが
席を立った。
「よし、決めた!
スイちゃんの雇う期間、今日でお終い!」
スイは顔を上げ、いつもの、何を考えているかわからない目でノクテュルヌを
見つめる。逆に言えば、それが正常に戻ったといえるのだろう。
櫻華はそのスイの様子にどこか安堵しつつ、
「……いいのか? 椿。
それは、金貨100枚をフイにする行為に等しいぞ?」
「イヤン☆ 櫻華ちゃん。金にモノを言わせてスイちゃんまでも弄ぶの?」
「……もう、頼むから、いい加減にしてくれ」
今度は櫻華が机に突っ伏す番だった。
スイはノクテュルヌを見つめたまま、言葉を発した。
「……いいのか?」
「それで、雇うとか、そういうの無しで。
勿論、スイちゃんにこの先何も予定が無くて、スイちゃんさえよければ、つい
てきてもらえると嬉しいのは確かだけども。
勿論、櫻華ちゃんもそうだと嬉しいよね?」
「まぁ、朝の地獄体験が半分になるのは確かにありがたいな」
と、言いつつ、櫻華の笑みは優しいものだ。
ノクテュルヌがガサゴソと本を取り出す。あの時、水晶の中から取り出した古
書だ。
勿論あの時のダヴィードに手持ちに金貨100枚があるはずもなく、まだ引き
換えていないので、ノクテュルヌが持っていた。
ノクテュルヌがそれをスイに差し出す。
「ハイ、これ。
とりあえず、まだお金に換えてないけど、渡しておくね」
ニコっと極上の笑顔で、ノクテュルヌはスイに渡した。
「……確かに、一人で来ているな」
ドアの隙間からダヴィードは、スイが一人出来ていることを確認した。
上等で華美である、ダヴィードの自慢のソファーの上にちょこんと膝を揃えて
スイが座っている。そのスイの目の前のテーブルには金貨100枚の入った袋
と、その隣には例の古書がある。しかし、スイはその両方共を視界に入れていな
いようで、空中をボーっと見ている。
服の裾から見える肌には包帯が巻かれている所を見るに、まだ、完全に回復し
てはいないようである。
「……しかし、何故100枚で足りないと言い出したんだ」
スイの性格上、値を釣り上げるなどという行為は考えられない。それは、短期
間とはいえ、雇っていて感じていたことだった。
「スイ様は、自分を雇った報酬の後払い分を請求しておられます」
「……は?」
「確か、ダヴィード様は、報酬を前払い後払いと2分割での契約をなさいまし
て。スイ様はその後払い分を請求しておられるのかと」
馬鹿な。敵に翻っておいて、尚、報酬がもらえるとでも思っているのか!
先ほど沈めた怒りがまたふつふつと泡を立て始めた。
実を言えば、スイに支払う分は、ダヴィードにとってはした金と呼んでもいい
くらいの金額であった。しかし、金額の問題ではない。
スイの無神経な主張が、ダヴィードのプライドを逆なでしていた。
「……スイの武器はどうした?」
「はい。こちらで預からせていただいております」
「そうか……そうか……」
ダヴィードは、笑いからくる空気の漏れを抑えることが出来ず、鼻がスン、と
短く鳴った。
「……新しく雇った者がいたな。そいつらに準備させろ」
傷がまだ完治していないというのに一人で来たのが大きな間違いだったと、思
い知らせてやろう。
冷えた空気に満たされた静けさの中、時折鳥の鳴き声が響く。沈んでいた空気
が徐々に首をもたげていき、黄色味の強い光が世界を横に突き刺す。
櫻華が虚ろな意識のまま、眼球に光を受け入れた時、彼女は気づいた。
光を真正面に受け、静寂に立ち向かうように音もなく立っているスイがそこに
いた。
「……いつからそこに?」
「さっきだ。起こすつもりは無かった」
いつも通りのスイの様子。静かに、気が抜けているような、意識がどこかずれ
ている、いつも通りの様子。
しかし、櫻華にはそんなスイの様子に恐ろしさを感じた。無造作に突き立てる
ような、静かな、静かな殺意。……朝の空気のせいだけではない。
自分はこのスイの空気に目が覚めたのかもしれない。いや、それに間違いは無
いだろう。
櫻華は上半身を起き上がらせた。下半身は、いつでも立てるような位置に足を
置いている。
「……どうしたんだ? こんな早くに」
と言って、櫻華はスイの格好に気づいた。
旅支度を済ませている格好である。
「行くのか」
スイは、首をカクンと縦に振った。
「そうか……」
起こすつもりは無かったということは、挨拶をしに来たというわけでも無いよ
うである。すると、何故、スイはここに現れたのか。
そう疑問に思ったが、櫻華は、別の疑問を口にしていた。
「意味が無くなると……自分の意味が無くなると、言っていたな」
しばらく間があって、スイは頷いた。
「意味とは、何なんだ?」
「……他人と、相対して役に立つこと」
「何故、相対する必要があるんだ」
「意味は、相手によって作られて、成立する。
私は、所有されて、生きる」
「所有されなければ?」
「……死んでも生きてもいない。意味が無いものとして、それはそれで楽だ。立
ち向かうものがあれば、私はそこで存在できる」
「……ならば、所有されない状態で、付いてくればいいではないか」
そこで、スイの目が、初めて櫻華に真っ直ぐと向けられた。
いつもの焦点が合っていない視線でもなく、あのギラギラとぬめった輝きを持
つ目でもなく、温度という概念を抜いたような、静かな視線。そこにあるのは、
殺す意思。
櫻華の背筋に冷たいものが走る。
あぁ、彼女は。
「あんた達には、所有されたくなる、という感覚が出てくるんだ。
だが、所有されたいのに、私は意味を持てない」
彼女は、殺そうとしている。
「それを、抑えてしまうと、私が消える」
殺意に満ちた瞳を、瞼で閉じる。
その殺意の矛先は自分の内側。
罪の無い欲望と、自身の存在を秤にかけての結果。
彼女は、いつでも闘いを挑んでいるのだ。自分の存在に対して。
「私は戦場以外の場所では役に立たないことを、自覚している」
再び、瞼を上げ、覗かせた光には、もう、あの冷たい殺意は無かった。
いつも通りの、一点を見つめているようで、見つめていないような、ぼーっと
した目に戻っていた。
「……まぁ、楽しかった、と言っておこう」
櫻華は立ち上がり、右手を差し出す。それに呼応するように、包帯に巻かれた
細い腕が伸び、白い手のひらを握……いや、ひっぱった。
ふいのことで、櫻華の身体は引かれる方向へと持っていかれる。
そして、頬に、湿った生ぬるいものが当たる感触を感じた。
「私も楽しかった。また戦う機会があるといいな」
……今、何が起きた?
スイは、またズレたことを言っていたが、今の櫻華の脳内にはその言語を処理
する余裕は無い。
しかしスイはそんな櫻華の様子を気にしていないようで、次に静かな寝息を立
てているノクテュルヌのところに行き、上半身を倒し、すぐに身を起こした。
ノクテュルヌは、「にゃはは」などという寝言を洩らした。
「戦場に身を置くことがあれば、呼んでくれ。駆けつける」
そう言って、スイは櫻華の隣を、通り抜ける。
ドアノブのガチャリという、朝の空気には無粋な音によって、櫻華はトんでい
た意識を、少しだけ取り戻すことが出来た。
そして、脳内を駆け巡っていた一つの疑問が、ポロリと出る。
「……今、何をした?」
スイは、きょとん、とした顔をしながら櫻華の顔をしばらく見つめていたが、
真顔で答えた。
「ちゅー」
事も無げに返された言葉は、簡潔だ。
「ちゅー……」
意味も無く、返された言葉を繰り返す櫻華の言葉に、頷きを返し、スイは部屋
から出て行った。
朝日が、先ほどより少し高くなり、冷たさを排除するように暖かい日差しが差
し込んできた。先ほどまで、どこか寂しさを感じていた鳥の声も、今日が始まる
期待に満ちたものに聞こえる。
その、暖かな空気の中、櫻華は立ち尽くしていた。
「……ちゅー」
スイは案内されるまま、置いていった荷物を保管してあるという部屋に入る
と、すぐにドアに鍵が閉められ、屈強そうな数人の男が不敵そうな笑みを浮かべ
ながら立っていた。
「怪我をしているとはいえ、こっちも仕事だ。分かるだろう?」
と、男は口では殊勝なことを言いつつも、そこにはサディスティックな含みが
あった。
だが、男の表情はすぐに訝しげなものへと変わる。
スイの口の両端が持ち上がっていることに、気づいたのだ。表情は、無造作に
されている前髪で見えない。
「……そうか」
内側から膨れ上がる喜悦が言葉になって洩れた響きに、男はゾクリとした。
スイは、懐から短剣を出した。刃渡りは女性の手のひらほどの長さのものだ。
たかがそれだけの物で、何が出来るというのだ。
男は先ほど感じた恐怖を否定の感情を、侮辱されたという怒りに変えて、叫び
と共に飛び掛った。
スイの包帯に赤いものが滲む。興奮により、塞ぎかけていた傷の一つが出血し
たのだ。だが、それは、彼女の赤い歓びが溢れ出しているようでもあった。
「ちゅー……」
「櫻華ちゃん、どうしたの?」
気づくと、ノクテュルヌが既に支度を済ませて立っていた。
「準備しないの? もう出るよ?」
外はすっかりもう日が高くなっている。既に昼は過ぎたようだ。それもそうだ
ろう、あのノクテュルヌが自力で起きているのだから。
「す、すまない。支度をする……」
我に返った櫻華だが、すぐにまた、動きを止めた。
「……椿。
あの、スイのことだが……」
「うん、行っちゃったんでしょう?」
「あぁ……そうか、部屋を見たのか」
もう昼は過ぎている。既に自分で確かめたのだろう。
「いや? 今起きたばっかりだし」
「今、起きたのか!?」
問題はそこではない。が、この短期間で身についてしまったツッコミの体質
が、櫻華にそうさせていた。
「ふぇ……へぶしっ」
ノクテュルヌは返答をくしゃみで返した。寝起きの鼻腔は敏感なのだ。
「へぶし」
奇しくも、同じ頃、ダヴィード邸にも同じ音が生じた。
「あ」
ドアを開けた途端、古書の背表紙がダヴィードの顔面にめり込んだのだ。
スイの様子によると、どうやら動く物に対しての条件反射で投げて『しまっ
た』という程度のものなのだろう。ダヴィードの治療は、更に長引くようであ
る。
意識を失い、崩れたダヴィードの背後には老人が、上品に目を伏せ、立ってい
る。
「そんなことだろうとは思いまして、こちらに全て用意してございます。
成功報酬に、買取金額。そして、スイ様のお荷物でございます」
スイは、無言でそれを受け取った。包帯には鮮血が染み込んでいるが、それは
スイのものか、返り血なのかは判別が付かない。
「しかし、見事でございますね。こちらで用意したロープを見事にご利用遊ばさ
れるとは」
顔色が紫色に変色した男の首には、ロープの痕が赤く残っていた。
「……ありがとう」
褒め言葉と受け取ったのだろう。老人の言葉に対して礼を言うスイ。
そして、スイは部屋から出て行った。
「……分かっていたのか?」
ノクテュルヌの食事に付き合いながら、櫻華は尋ねる。
「ん? だって言ったでしょう?
スイちゃんは、地平線を求めて駆けていって、私は虹を求めて空を見上げる
の。道は重ならない。ただ、今回は交差したんだろうね」
その台詞、もぐもぐと、口いっぱいに食べ物をつめていなければどれだけ様に
なるだろう……と、櫻華は思った。
その口の中のものを飲み下し、ノクテュルヌは、小声で、楽しそうに呟いた。
「……また交差するといいなぁ」
----------------------------------------------------------------
modulieren【仏モドゥリーレン】転調する。
る。
その老人に背を向けたまま、返答をする男。
「……足りない、だと?」
ダヴィードである。あの時鼻でも折ったのか、そこは治療の跡がある。他、頬
など、様々な箇所にもガーゼがあてられていた。流石に、眼鏡はかけていない。
それらの表情を隠す覆いがあるにも関わらず、ダヴィードは不機嫌であると一
目で分かった。
「はぁ。先方はそう申しております」
「馬鹿を言うな! 100枚、だ。100枚、私は、確かに用意しただろ
う!!」
低く、唸るように窓ガラスに向かって吼える。
それとは対称的に、老人は淡々と答える。
「仰る通りでございます。しかし、それでは足りないそうです」
「……小娘らが! 調子にのりおって!!」
老人の瞼が持ち上がり、床を見ていた老人の目がダヴィードに向けられた。し
かし、美しく傾斜している上半身は依然動かない。
「……一応、僭越ながら訂正させていただきますが。来訪者はお一人でございま
す」
「……なんだと?」
そこで、ダヴィードは始めて振り返った。と、同時に老人の瞼はまた落ちる。
「スイ様お一人でございます」
ダヴィードの肺の中が、驚きと羞恥と怒りで膨れた。
「敵は誰になる?」
「んー。テキ?」
微動だにせず、ノクテュルヌの返答を待つスイ。
首をかしげながら考えているのか考えていないのか分からぬ仕草をするノク
テュルヌ。
その二人がテーブル越しで対面している横で、お茶を呑みながら様子を見てい
る櫻華。
しばらくの沈黙の後。
「……櫻華ちゃん?」
ごふぉ、という音が響き渡る。今度は二人がむせている櫻華を見つめる番で
あった。
一人は疑問符を浮かべ。一人は値踏みする視線で。
「……不足は無いな」
ゴホゴホという音をBGMに、スイは満足そうな笑みを浮かべてノクテュルヌ
に言う。
その時、ぐぇほ、と隣でひときわ大きな音が聞こえたが、気にしていないよう
だ。
「あ、本当? 喜んでくれたみたいだね! よかったね、櫻華ちゃん」
櫻華の肩に手をポンと置いたと同時に。
「何もよくないっ!!!」
櫻華の絶叫が響く。
まだ気管支に入っているまま、無理に叫んだのだろう。すぐにまた咳き込み、
昼下がりのあたたかい空気の中、わびしい咳の音が響き渡る。
ようやく咳が収まった櫻華は、二人の顔を見て、愕然とした。
「……何故、きょとんとした顔をしてるんだ!?」
「だって、ねぇ? スイちゃん、いいんでしょ?」
「あぁ、構わない」
「構ってくれ!! そこ!!
というか、おかしいだろう!? 椿の同行人である私が、なんで椿が雇ったス
イの敵設定になるんだ!?」
「あ」
「……あ」
絶妙な、間合いのズレ。それは同時にそろう声よりも計算されているかのよう
だった。
そこに、ポン、という間の抜けた音がした。それは、スイの手が櫻華の頭の上
に載せられた音だった。
「……じゃぁ、櫻華は、実は裏社会の奥底に潜んで活動している地下組織『小粋
なマスターの小話』から送られてきた構成員で、実は、ノクテュルヌの母に親を
奪われた過去を持っていたりなんかして、なんだか敵になるってことで」
「ならんし、そんな過去は無いし、更に言えばそんな名前の地下組織は絶対存在
しない」
「……じゃぁ、混沌組織『耳鳴り大根』」
「別の案を考えるな。というかネーミングがさっきよりひどくなっている」
その時、無表情なスイの顔に、異変が起きた。顎にはなにやらデコボコが生
じ、唇が突き出て、眉間にはなにやら縦に筋が出来ている。奇妙な表情だ。
「あー。櫻華ちゃんがいじめるから、スイちゃんがスネちゃったー」
その言葉を聞いて、櫻華はその表情が拗ねているものだと気づいた。なるほ
ど、冷静に見れば、拗ねている表情である。
ノクテュルヌがスイを頭を抱きかかえ、『よしよし』をする。スイはやはり、
無抵抗である。もしかしたら甘えているのかもしれない、とも思い、想像してみ
たが、想像ができなかったので、櫻華はその思考を放棄した。
「……待つのは、いやだ。何も無い状態で所有されると……気持ち悪い」
ガバリと、ノクテュルヌの手から頭を離し、スイは、真っ直ぐとノクテュルヌ
を見据える。
「ノクテュルヌは、これから、自ら危険に身を置くのか?」
「……そういう予定は無いなぁ。探し物しているだけだから」
「……探し物は、得意じゃない。私の意味が無くなる……。
私は、意味のある物として存在したい……」
机の上に、気が抜けたように突っ伏すスイ。すなわち、それはノクテュルヌの
手の拒絶。
その様子に、櫻華は驚くばかりである。感情豊か、とまではいかないが、ここ
まで感情の動きを読み取らせるスイの一面があるとは、思いもしなかったから
だ。
しばらく、その様子をお茶を飲みながら眺めていたが、突然、ノクテュルヌが
席を立った。
「よし、決めた!
スイちゃんの雇う期間、今日でお終い!」
スイは顔を上げ、いつもの、何を考えているかわからない目でノクテュルヌを
見つめる。逆に言えば、それが正常に戻ったといえるのだろう。
櫻華はそのスイの様子にどこか安堵しつつ、
「……いいのか? 椿。
それは、金貨100枚をフイにする行為に等しいぞ?」
「イヤン☆ 櫻華ちゃん。金にモノを言わせてスイちゃんまでも弄ぶの?」
「……もう、頼むから、いい加減にしてくれ」
今度は櫻華が机に突っ伏す番だった。
スイはノクテュルヌを見つめたまま、言葉を発した。
「……いいのか?」
「それで、雇うとか、そういうの無しで。
勿論、スイちゃんにこの先何も予定が無くて、スイちゃんさえよければ、つい
てきてもらえると嬉しいのは確かだけども。
勿論、櫻華ちゃんもそうだと嬉しいよね?」
「まぁ、朝の地獄体験が半分になるのは確かにありがたいな」
と、言いつつ、櫻華の笑みは優しいものだ。
ノクテュルヌがガサゴソと本を取り出す。あの時、水晶の中から取り出した古
書だ。
勿論あの時のダヴィードに手持ちに金貨100枚があるはずもなく、まだ引き
換えていないので、ノクテュルヌが持っていた。
ノクテュルヌがそれをスイに差し出す。
「ハイ、これ。
とりあえず、まだお金に換えてないけど、渡しておくね」
ニコっと極上の笑顔で、ノクテュルヌはスイに渡した。
「……確かに、一人で来ているな」
ドアの隙間からダヴィードは、スイが一人出来ていることを確認した。
上等で華美である、ダヴィードの自慢のソファーの上にちょこんと膝を揃えて
スイが座っている。そのスイの目の前のテーブルには金貨100枚の入った袋
と、その隣には例の古書がある。しかし、スイはその両方共を視界に入れていな
いようで、空中をボーっと見ている。
服の裾から見える肌には包帯が巻かれている所を見るに、まだ、完全に回復し
てはいないようである。
「……しかし、何故100枚で足りないと言い出したんだ」
スイの性格上、値を釣り上げるなどという行為は考えられない。それは、短期
間とはいえ、雇っていて感じていたことだった。
「スイ様は、自分を雇った報酬の後払い分を請求しておられます」
「……は?」
「確か、ダヴィード様は、報酬を前払い後払いと2分割での契約をなさいまし
て。スイ様はその後払い分を請求しておられるのかと」
馬鹿な。敵に翻っておいて、尚、報酬がもらえるとでも思っているのか!
先ほど沈めた怒りがまたふつふつと泡を立て始めた。
実を言えば、スイに支払う分は、ダヴィードにとってはした金と呼んでもいい
くらいの金額であった。しかし、金額の問題ではない。
スイの無神経な主張が、ダヴィードのプライドを逆なでしていた。
「……スイの武器はどうした?」
「はい。こちらで預からせていただいております」
「そうか……そうか……」
ダヴィードは、笑いからくる空気の漏れを抑えることが出来ず、鼻がスン、と
短く鳴った。
「……新しく雇った者がいたな。そいつらに準備させろ」
傷がまだ完治していないというのに一人で来たのが大きな間違いだったと、思
い知らせてやろう。
冷えた空気に満たされた静けさの中、時折鳥の鳴き声が響く。沈んでいた空気
が徐々に首をもたげていき、黄色味の強い光が世界を横に突き刺す。
櫻華が虚ろな意識のまま、眼球に光を受け入れた時、彼女は気づいた。
光を真正面に受け、静寂に立ち向かうように音もなく立っているスイがそこに
いた。
「……いつからそこに?」
「さっきだ。起こすつもりは無かった」
いつも通りのスイの様子。静かに、気が抜けているような、意識がどこかずれ
ている、いつも通りの様子。
しかし、櫻華にはそんなスイの様子に恐ろしさを感じた。無造作に突き立てる
ような、静かな、静かな殺意。……朝の空気のせいだけではない。
自分はこのスイの空気に目が覚めたのかもしれない。いや、それに間違いは無
いだろう。
櫻華は上半身を起き上がらせた。下半身は、いつでも立てるような位置に足を
置いている。
「……どうしたんだ? こんな早くに」
と言って、櫻華はスイの格好に気づいた。
旅支度を済ませている格好である。
「行くのか」
スイは、首をカクンと縦に振った。
「そうか……」
起こすつもりは無かったということは、挨拶をしに来たというわけでも無いよ
うである。すると、何故、スイはここに現れたのか。
そう疑問に思ったが、櫻華は、別の疑問を口にしていた。
「意味が無くなると……自分の意味が無くなると、言っていたな」
しばらく間があって、スイは頷いた。
「意味とは、何なんだ?」
「……他人と、相対して役に立つこと」
「何故、相対する必要があるんだ」
「意味は、相手によって作られて、成立する。
私は、所有されて、生きる」
「所有されなければ?」
「……死んでも生きてもいない。意味が無いものとして、それはそれで楽だ。立
ち向かうものがあれば、私はそこで存在できる」
「……ならば、所有されない状態で、付いてくればいいではないか」
そこで、スイの目が、初めて櫻華に真っ直ぐと向けられた。
いつもの焦点が合っていない視線でもなく、あのギラギラとぬめった輝きを持
つ目でもなく、温度という概念を抜いたような、静かな視線。そこにあるのは、
殺す意思。
櫻華の背筋に冷たいものが走る。
あぁ、彼女は。
「あんた達には、所有されたくなる、という感覚が出てくるんだ。
だが、所有されたいのに、私は意味を持てない」
彼女は、殺そうとしている。
「それを、抑えてしまうと、私が消える」
殺意に満ちた瞳を、瞼で閉じる。
その殺意の矛先は自分の内側。
罪の無い欲望と、自身の存在を秤にかけての結果。
彼女は、いつでも闘いを挑んでいるのだ。自分の存在に対して。
「私は戦場以外の場所では役に立たないことを、自覚している」
再び、瞼を上げ、覗かせた光には、もう、あの冷たい殺意は無かった。
いつも通りの、一点を見つめているようで、見つめていないような、ぼーっと
した目に戻っていた。
「……まぁ、楽しかった、と言っておこう」
櫻華は立ち上がり、右手を差し出す。それに呼応するように、包帯に巻かれた
細い腕が伸び、白い手のひらを握……いや、ひっぱった。
ふいのことで、櫻華の身体は引かれる方向へと持っていかれる。
そして、頬に、湿った生ぬるいものが当たる感触を感じた。
「私も楽しかった。また戦う機会があるといいな」
……今、何が起きた?
スイは、またズレたことを言っていたが、今の櫻華の脳内にはその言語を処理
する余裕は無い。
しかしスイはそんな櫻華の様子を気にしていないようで、次に静かな寝息を立
てているノクテュルヌのところに行き、上半身を倒し、すぐに身を起こした。
ノクテュルヌは、「にゃはは」などという寝言を洩らした。
「戦場に身を置くことがあれば、呼んでくれ。駆けつける」
そう言って、スイは櫻華の隣を、通り抜ける。
ドアノブのガチャリという、朝の空気には無粋な音によって、櫻華はトんでい
た意識を、少しだけ取り戻すことが出来た。
そして、脳内を駆け巡っていた一つの疑問が、ポロリと出る。
「……今、何をした?」
スイは、きょとん、とした顔をしながら櫻華の顔をしばらく見つめていたが、
真顔で答えた。
「ちゅー」
事も無げに返された言葉は、簡潔だ。
「ちゅー……」
意味も無く、返された言葉を繰り返す櫻華の言葉に、頷きを返し、スイは部屋
から出て行った。
朝日が、先ほどより少し高くなり、冷たさを排除するように暖かい日差しが差
し込んできた。先ほどまで、どこか寂しさを感じていた鳥の声も、今日が始まる
期待に満ちたものに聞こえる。
その、暖かな空気の中、櫻華は立ち尽くしていた。
「……ちゅー」
スイは案内されるまま、置いていった荷物を保管してあるという部屋に入る
と、すぐにドアに鍵が閉められ、屈強そうな数人の男が不敵そうな笑みを浮かべ
ながら立っていた。
「怪我をしているとはいえ、こっちも仕事だ。分かるだろう?」
と、男は口では殊勝なことを言いつつも、そこにはサディスティックな含みが
あった。
だが、男の表情はすぐに訝しげなものへと変わる。
スイの口の両端が持ち上がっていることに、気づいたのだ。表情は、無造作に
されている前髪で見えない。
「……そうか」
内側から膨れ上がる喜悦が言葉になって洩れた響きに、男はゾクリとした。
スイは、懐から短剣を出した。刃渡りは女性の手のひらほどの長さのものだ。
たかがそれだけの物で、何が出来るというのだ。
男は先ほど感じた恐怖を否定の感情を、侮辱されたという怒りに変えて、叫び
と共に飛び掛った。
スイの包帯に赤いものが滲む。興奮により、塞ぎかけていた傷の一つが出血し
たのだ。だが、それは、彼女の赤い歓びが溢れ出しているようでもあった。
「ちゅー……」
「櫻華ちゃん、どうしたの?」
気づくと、ノクテュルヌが既に支度を済ませて立っていた。
「準備しないの? もう出るよ?」
外はすっかりもう日が高くなっている。既に昼は過ぎたようだ。それもそうだ
ろう、あのノクテュルヌが自力で起きているのだから。
「す、すまない。支度をする……」
我に返った櫻華だが、すぐにまた、動きを止めた。
「……椿。
あの、スイのことだが……」
「うん、行っちゃったんでしょう?」
「あぁ……そうか、部屋を見たのか」
もう昼は過ぎている。既に自分で確かめたのだろう。
「いや? 今起きたばっかりだし」
「今、起きたのか!?」
問題はそこではない。が、この短期間で身についてしまったツッコミの体質
が、櫻華にそうさせていた。
「ふぇ……へぶしっ」
ノクテュルヌは返答をくしゃみで返した。寝起きの鼻腔は敏感なのだ。
「へぶし」
奇しくも、同じ頃、ダヴィード邸にも同じ音が生じた。
「あ」
ドアを開けた途端、古書の背表紙がダヴィードの顔面にめり込んだのだ。
スイの様子によると、どうやら動く物に対しての条件反射で投げて『しまっ
た』という程度のものなのだろう。ダヴィードの治療は、更に長引くようであ
る。
意識を失い、崩れたダヴィードの背後には老人が、上品に目を伏せ、立ってい
る。
「そんなことだろうとは思いまして、こちらに全て用意してございます。
成功報酬に、買取金額。そして、スイ様のお荷物でございます」
スイは、無言でそれを受け取った。包帯には鮮血が染み込んでいるが、それは
スイのものか、返り血なのかは判別が付かない。
「しかし、見事でございますね。こちらで用意したロープを見事にご利用遊ばさ
れるとは」
顔色が紫色に変色した男の首には、ロープの痕が赤く残っていた。
「……ありがとう」
褒め言葉と受け取ったのだろう。老人の言葉に対して礼を言うスイ。
そして、スイは部屋から出て行った。
「……分かっていたのか?」
ノクテュルヌの食事に付き合いながら、櫻華は尋ねる。
「ん? だって言ったでしょう?
スイちゃんは、地平線を求めて駆けていって、私は虹を求めて空を見上げる
の。道は重ならない。ただ、今回は交差したんだろうね」
その台詞、もぐもぐと、口いっぱいに食べ物をつめていなければどれだけ様に
なるだろう……と、櫻華は思った。
その口の中のものを飲み下し、ノクテュルヌは、小声で、楽しそうに呟いた。
「……また交差するといいなぁ」
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modulieren【仏モドゥリーレン】転調する。
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