対峙する
それが、唯一の、自分の存在確認手段だった。
その時だけ、確実に生きている、と感じられた。
生と死、勝利と敗北という、コントラストな価値。
自分とその他だけというシンプルな世界構造。
悦びに脈は早打ち、脳は痺れながらもクリアになる。
なんという、幸福感。
それ以外、何も考えなくてもよい、ということは、それだけを考えていればい
いということだ。
自分の存在と、相手の存在だけを、思っていればよい。
相手も同様なのだから。
喜びに痺れた脳には事足りる世界だ。
あの熱気。
あの視線。
あの血の暖かさ。
それに埋め尽くされた世界は、とてもいとおしい。
あぁ、早く、早く、はやく、はやく、はやく!!!!!!!!
―――――その、はやる鼓動を宥めていたのは、おかしなことに、ノクテュル
ヌの歌と、手のぬくもりだった。
その相反する心地よさが、なんとも……奇妙で、気持ち悪かった。熱い鉄に、
生温いお湯をかけるような、そんな心地悪さとでもいったところだろうか。
なのに。なかなか手を放すことが出来なかった。
「狂っている」と何度も言われてきたスイだが、これには「気が狂い」そう
だった。
意を決し、手を放す。
途端、寂寥がよぎり……そして、すぐに馴染んだ喜悦が到来した。
「っと、スイちゃんどうしたの?」
抑える。
まだ、早い。
気づかれない程度に息を深く吸い、落ち着かせる。
「……ここが目的地だ」
そう言って示したのは、道の終端が膨らんだような形をした場所だった。
「やっタもが」
奇妙な発音をしたのはノクテュルヌだった。即座に歓喜の声を上げようとした
のだが、これまた即座に櫻華に口をふさがれたのだった。
「この広間の、どこにあるというんだ?」
その問いに、スイは動く。
思わず、櫻華は構えかけた。だが、スイは櫻華の横を過ぎる。
櫻華は、自身では理解していなかったが、スイの内側にあるモノを無意識に感
じ取っていたのだ。
スイは、そんな櫻華の振る舞いを気にする様子もなく、ノクテュルヌの目の前
で歩みを止める。
「ん?」
スイは無言で、ノクテュルヌの持っていたランタンを取り上げ、中に入ってい
る火を吹き消した。
「あ。消えちゃった」
ランタンの明かりが消え、光源は今や外からの、細い光のみであった。かろう
じて、という程度の明るさだ。
「どういうつもりだ?」
その問いかけに、一度櫻華に顔を向けるが、スイは再び歩き出す。今度は、水
晶の壁に向かって。
しばらく、壁に向かって、何かを探していたようだが、ある一角の水晶を掴ん
だ。
ごとり、とはまる音がすると同時に。
櫻華は息を呑んだ。
瞬時に、辺りは光に包まれた。壁の水晶は光を内包し、光を拡散させていた。
やけに澄んだまぶしさを感じさせる。例えるならば、そう、朝の光だ。
そして、何よりも櫻華の息を止めさせたものは……壁の水晶の中に無数の本が
点在している光景であった。
「なんか知らないが、この水晶は特別なものらしい。光の屈折率がどうだとか、
言っていた」
「……これは……一つの楽典を様々なところに投影しているのか」
そう、突如現れた水晶の中にある本は、よくよく見ると、全て「同一」のもの
だった。
「らしいな。この状態でなければ、楽典は現れない。
本物の楽典は、これらのどれかなのか。それとも、ここではない別のところか
らの投影かはわからない。
そして」
スイは、静かに水晶壁に手を当てる。スイの手元には小さな穴があった。
「私には、単なるいびつな穴にしか見えないが、鍵穴らしい」
指し示したのは、確かに、奇妙な穴だった。奇妙な形をしている穴だ。
なるほど、鍵穴だといわれればそう見えないことは無い。
「じゃぁ、それに鍵を……」
櫻華の言葉を、スイが静かにふさぐ。
「それが」
スイは、腕を伸ばす。
「そこにも、あそこにも」
なんと、鍵穴は点在していた。
「……ど、どういうことだ?」
「知らない」
「……」
問いかける相手が悪かったことに、仙女はすぐに後悔した。
「椿、鍵を持っているんだろう。どこに挿せばいいかわかるか?」
櫻華は、ノクテュルヌに問いかける。こちらの方が建設的だというものだ。
が。櫻華が振り返った先……つまりは、さっきまでノクテュルヌがいた所に、
彼女は存在しなかった。
「呼んだぁ?」
声がした方向は、部屋の中央。
先ほどまで暗くて分からなかったが、部屋の中央には小高い円形の段があっ
た。
……ノクテュルヌは、その上で跳ねていた。
再び、後悔の波が襲ってくる。予想の範囲内だったではないか、と。しかし、
後悔とはいつも手遅れの時にやってくるものだった。
今更ながら、櫻華はこの連れ達に……これまた、後悔した。
「……いや、鍵を……どこに、だな」
「え? 持ってないよ?」
沈黙が流れる。愕然としているのは、ただ一人だけだが。
「本当に知らないのか!!」
「コーフンしちゃだめだよ。コーフンすると、毛細血管って切れちゃうんだっ
て」
その言葉が、更に興奮させる一因になっていることに、何故気づかないのか。
「特に鼻の内部の血管はもろい。顔を殴っても一番に出血するしな」
鍵の不在は、決して他人事ではないだろうに、スイは冷静な一言を付け加え
る。
「あはは、鼻血ブーだ」
………櫻華は、脱力した。まともに取り合っては、こちらが馬鹿を見るだけで
ある。
そして、ふっ、と声が洩らし、笑った。
何はともあれ、この光景は素晴らしいことには違いない。これを見ることが出
来たということだけでも、収穫ではないか。
ここまで来て、手ぶらで帰るということに、全く落胆を覚えないというわけで
もないが。
櫻華がそう納得しかけた時。
「まぁまぁ、聞いて聞いて、櫻華ちゃん。きっとね、鍵なんか、ないんだよ。コ
レ」
「……は?」
「でね、でね。この鍵穴? 鍵穴って呼んでるから鍵なのかなぁ……。まぁいい
や、鍵でいいや。
で、この鍵穴は、一つ一つ挿しこむんじゃなくて……いっぺんに挿し込んじゃ
うんだよね」
「どういうことなんだ? 椿。鍵は……あるのか?」
ノクテュルヌは微笑んで、自分の喉を指でトントンと軽く叩いた。
「古代曲『虹への道』」
そして、彼女の肩が揚がり、肺が膨らんた。
次の瞬間、爆発するように音が弾けた。
高い音だ。
そして、それは、言葉ですらなく、単なる音だった。その音は、緩やかな旋律
を、のったりと辿る。呻きのように。叫びのように。
それは、泣き女(バンシー)の悲鳴にも似ているし、鳥のさえずりにも似てい
た。開放された雄叫びのようにも聞こえたし、愛に満ちた歓喜の声にも聞こえ
た。
一体、彼女の細い身体のどこから、この声量が出るのか……。いや、声量の問
題ではないだろう。この歌の力は……力強さと雄大な優しさを含んだ声だ。
その、声に隠れてぴしり、と音がした。それに気づいた時には、その音は崩れ
る音に変わった。
その瞬間。
* * *
「……おかーさん」
少年が、母の服の裾をひっぱる。
「今、忙しいんだよ」
「おかーさん」
先ほど強めに今度は引っ張る。
「どーしたんだい今日は……」
「おかーぁさん!! ねぇーぇ! みぃーてって!!」
ぐずりだした子供にとうとう根負けしたのか、母は手を止めて子供が指差す方
向を見る。
自分の子供が暇さえあれば眺めている、いつもの空を。
いつも、青い空だけがある、いつもどおりの空――――のはずだった。
母は目を疑った。
そこにあるのは。
「おかーさん! にじ!! 虹でしょ? これ!!
これが、虹なんでしょう? ねぇ!」
青い空に、無数の色がつまった弧。
母親も、初めて見るものだった。だから、子供の問いには、答えられなかっ
た。
ただ、子供の手をぎゅっと握り、子供の名を呼ぶだけであった。
「エメ……」
子供は母親の大きな手を、興奮をただ、伝えようとするように握り返した。
そして、母と子供は、ずっと空を見ていた。
* * *
水晶が、割れる。
その水晶は粒子となり、風が空へと吹きぬける。
粒子は、空へと舞い、光を受ける。
それは。
虹。
* * *
「へぇ……これが、噂の虹ってやつかい」
「本当に、やるとはなぁ、あのお嬢ちゃん達」
「ってことは……もぉ、俺らの目的って、無くなったちゃったとか?」
最後の問いかけに、他の二人は「あ゛ー……」などと、輪唱する。
「まぁ……今回は、コレで、十分な収穫じゃない?」
阿呆みたいに口を空けながら頭上を見る。
「……だな」
耳に聞こえるのは、歌声。
天まで突き抜けるような声色。
何かに、捧げるかのような、一途な声。
* * *
その瞬間、楽典が消えた。
いや、違う。一つだけ、残っている。
そう、消えたのは、楽典の虚像だったのだ。
その楽典を抱いている水晶にも、ひびが入っている。
遠くで、水晶の割れてゆく音が聞こえる。
ノクテュルヌの声が、ひときわ強い響きに変わる。
ひびは一気に亀裂となった。
そして、ノクテュルヌの声が、徐々に徐々に小さく変化し、そして、最後、肺
の中の空気全てを吐き出すように、音は終結した。
ノクテュルヌが、息を静かに吸い込み、ふぅ、と吐き出し、満足を帯びた静か
な微笑みを浮かべていた。
あまりのことに、呆けていた櫻華を正気に戻したのは水晶が砕かれた音だっ
た。
楽典が、空気に触れた。
突如、弾けたような大きな音が鳴り響いた。
振り向くと、そこには大仰に拍手をしているダヴィードが、数人の護衛に付き
添われ、そこにいた。
「なるほど。鍵とは、歌ということか。
ある音程を手順どおりに踏めば、共鳴して水晶は砕かれるという訳か。
あの穴は、さしずめ、振動の通り道というわけか?」
拍手がやんだ。
「さて……。ご苦労だったな。
それを、素直に渡してもらえるかな……というのは、やっぱ聞いてもらえない
かね」
櫻華が二本の剣を抜く。二本とも、なにかしらの文様が刻まれている。
「そんなことだろうとは思っていたよ。
気前が良過ぎたからな」
「必要な投資は出し惜しみしないのが、成功の秘訣だな。
素直に引いてくれないのなら……仕方ないな」
「椿」
ダヴィードだって理解しているのだろう。
今までの人材を今更自分達にぶつけるわけが無い。
動揺させないように、ノクテュルヌに呼びかける。呼びかけることによって、
自分というものを自覚させるのだ。
ノクテュルヌを見ると、彼女は構えていた。
スイに向かって。
スイは、途端に高揚した。
櫻華の覚悟と、ノクテュルヌの理解に、嬉しさを覚えた。
心臓が、身体を急かすように鼓動する。
さぁ、いとおしい対峙者達よ。
始めようではないか。
愛すべき、闘争者達よ。
世界を、自覚しようではないか。
「スイ、やれ」
ダヴィードの声と同時に、スイは弾けた。
----------------------------------------------------------------
innig(インニヒ):心からの
それが、唯一の、自分の存在確認手段だった。
その時だけ、確実に生きている、と感じられた。
生と死、勝利と敗北という、コントラストな価値。
自分とその他だけというシンプルな世界構造。
悦びに脈は早打ち、脳は痺れながらもクリアになる。
なんという、幸福感。
それ以外、何も考えなくてもよい、ということは、それだけを考えていればい
いということだ。
自分の存在と、相手の存在だけを、思っていればよい。
相手も同様なのだから。
喜びに痺れた脳には事足りる世界だ。
あの熱気。
あの視線。
あの血の暖かさ。
それに埋め尽くされた世界は、とてもいとおしい。
あぁ、早く、早く、はやく、はやく、はやく!!!!!!!!
―――――その、はやる鼓動を宥めていたのは、おかしなことに、ノクテュル
ヌの歌と、手のぬくもりだった。
その相反する心地よさが、なんとも……奇妙で、気持ち悪かった。熱い鉄に、
生温いお湯をかけるような、そんな心地悪さとでもいったところだろうか。
なのに。なかなか手を放すことが出来なかった。
「狂っている」と何度も言われてきたスイだが、これには「気が狂い」そう
だった。
意を決し、手を放す。
途端、寂寥がよぎり……そして、すぐに馴染んだ喜悦が到来した。
「っと、スイちゃんどうしたの?」
抑える。
まだ、早い。
気づかれない程度に息を深く吸い、落ち着かせる。
「……ここが目的地だ」
そう言って示したのは、道の終端が膨らんだような形をした場所だった。
「やっタもが」
奇妙な発音をしたのはノクテュルヌだった。即座に歓喜の声を上げようとした
のだが、これまた即座に櫻華に口をふさがれたのだった。
「この広間の、どこにあるというんだ?」
その問いに、スイは動く。
思わず、櫻華は構えかけた。だが、スイは櫻華の横を過ぎる。
櫻華は、自身では理解していなかったが、スイの内側にあるモノを無意識に感
じ取っていたのだ。
スイは、そんな櫻華の振る舞いを気にする様子もなく、ノクテュルヌの目の前
で歩みを止める。
「ん?」
スイは無言で、ノクテュルヌの持っていたランタンを取り上げ、中に入ってい
る火を吹き消した。
「あ。消えちゃった」
ランタンの明かりが消え、光源は今や外からの、細い光のみであった。かろう
じて、という程度の明るさだ。
「どういうつもりだ?」
その問いかけに、一度櫻華に顔を向けるが、スイは再び歩き出す。今度は、水
晶の壁に向かって。
しばらく、壁に向かって、何かを探していたようだが、ある一角の水晶を掴ん
だ。
ごとり、とはまる音がすると同時に。
櫻華は息を呑んだ。
瞬時に、辺りは光に包まれた。壁の水晶は光を内包し、光を拡散させていた。
やけに澄んだまぶしさを感じさせる。例えるならば、そう、朝の光だ。
そして、何よりも櫻華の息を止めさせたものは……壁の水晶の中に無数の本が
点在している光景であった。
「なんか知らないが、この水晶は特別なものらしい。光の屈折率がどうだとか、
言っていた」
「……これは……一つの楽典を様々なところに投影しているのか」
そう、突如現れた水晶の中にある本は、よくよく見ると、全て「同一」のもの
だった。
「らしいな。この状態でなければ、楽典は現れない。
本物の楽典は、これらのどれかなのか。それとも、ここではない別のところか
らの投影かはわからない。
そして」
スイは、静かに水晶壁に手を当てる。スイの手元には小さな穴があった。
「私には、単なるいびつな穴にしか見えないが、鍵穴らしい」
指し示したのは、確かに、奇妙な穴だった。奇妙な形をしている穴だ。
なるほど、鍵穴だといわれればそう見えないことは無い。
「じゃぁ、それに鍵を……」
櫻華の言葉を、スイが静かにふさぐ。
「それが」
スイは、腕を伸ばす。
「そこにも、あそこにも」
なんと、鍵穴は点在していた。
「……ど、どういうことだ?」
「知らない」
「……」
問いかける相手が悪かったことに、仙女はすぐに後悔した。
「椿、鍵を持っているんだろう。どこに挿せばいいかわかるか?」
櫻華は、ノクテュルヌに問いかける。こちらの方が建設的だというものだ。
が。櫻華が振り返った先……つまりは、さっきまでノクテュルヌがいた所に、
彼女は存在しなかった。
「呼んだぁ?」
声がした方向は、部屋の中央。
先ほどまで暗くて分からなかったが、部屋の中央には小高い円形の段があっ
た。
……ノクテュルヌは、その上で跳ねていた。
再び、後悔の波が襲ってくる。予想の範囲内だったではないか、と。しかし、
後悔とはいつも手遅れの時にやってくるものだった。
今更ながら、櫻華はこの連れ達に……これまた、後悔した。
「……いや、鍵を……どこに、だな」
「え? 持ってないよ?」
沈黙が流れる。愕然としているのは、ただ一人だけだが。
「本当に知らないのか!!」
「コーフンしちゃだめだよ。コーフンすると、毛細血管って切れちゃうんだっ
て」
その言葉が、更に興奮させる一因になっていることに、何故気づかないのか。
「特に鼻の内部の血管はもろい。顔を殴っても一番に出血するしな」
鍵の不在は、決して他人事ではないだろうに、スイは冷静な一言を付け加え
る。
「あはは、鼻血ブーだ」
………櫻華は、脱力した。まともに取り合っては、こちらが馬鹿を見るだけで
ある。
そして、ふっ、と声が洩らし、笑った。
何はともあれ、この光景は素晴らしいことには違いない。これを見ることが出
来たということだけでも、収穫ではないか。
ここまで来て、手ぶらで帰るということに、全く落胆を覚えないというわけで
もないが。
櫻華がそう納得しかけた時。
「まぁまぁ、聞いて聞いて、櫻華ちゃん。きっとね、鍵なんか、ないんだよ。コ
レ」
「……は?」
「でね、でね。この鍵穴? 鍵穴って呼んでるから鍵なのかなぁ……。まぁいい
や、鍵でいいや。
で、この鍵穴は、一つ一つ挿しこむんじゃなくて……いっぺんに挿し込んじゃ
うんだよね」
「どういうことなんだ? 椿。鍵は……あるのか?」
ノクテュルヌは微笑んで、自分の喉を指でトントンと軽く叩いた。
「古代曲『虹への道』」
そして、彼女の肩が揚がり、肺が膨らんた。
次の瞬間、爆発するように音が弾けた。
高い音だ。
そして、それは、言葉ですらなく、単なる音だった。その音は、緩やかな旋律
を、のったりと辿る。呻きのように。叫びのように。
それは、泣き女(バンシー)の悲鳴にも似ているし、鳥のさえずりにも似てい
た。開放された雄叫びのようにも聞こえたし、愛に満ちた歓喜の声にも聞こえ
た。
一体、彼女の細い身体のどこから、この声量が出るのか……。いや、声量の問
題ではないだろう。この歌の力は……力強さと雄大な優しさを含んだ声だ。
その、声に隠れてぴしり、と音がした。それに気づいた時には、その音は崩れ
る音に変わった。
その瞬間。
* * *
「……おかーさん」
少年が、母の服の裾をひっぱる。
「今、忙しいんだよ」
「おかーさん」
先ほど強めに今度は引っ張る。
「どーしたんだい今日は……」
「おかーぁさん!! ねぇーぇ! みぃーてって!!」
ぐずりだした子供にとうとう根負けしたのか、母は手を止めて子供が指差す方
向を見る。
自分の子供が暇さえあれば眺めている、いつもの空を。
いつも、青い空だけがある、いつもどおりの空――――のはずだった。
母は目を疑った。
そこにあるのは。
「おかーさん! にじ!! 虹でしょ? これ!!
これが、虹なんでしょう? ねぇ!」
青い空に、無数の色がつまった弧。
母親も、初めて見るものだった。だから、子供の問いには、答えられなかっ
た。
ただ、子供の手をぎゅっと握り、子供の名を呼ぶだけであった。
「エメ……」
子供は母親の大きな手を、興奮をただ、伝えようとするように握り返した。
そして、母と子供は、ずっと空を見ていた。
* * *
水晶が、割れる。
その水晶は粒子となり、風が空へと吹きぬける。
粒子は、空へと舞い、光を受ける。
それは。
虹。
* * *
「へぇ……これが、噂の虹ってやつかい」
「本当に、やるとはなぁ、あのお嬢ちゃん達」
「ってことは……もぉ、俺らの目的って、無くなったちゃったとか?」
最後の問いかけに、他の二人は「あ゛ー……」などと、輪唱する。
「まぁ……今回は、コレで、十分な収穫じゃない?」
阿呆みたいに口を空けながら頭上を見る。
「……だな」
耳に聞こえるのは、歌声。
天まで突き抜けるような声色。
何かに、捧げるかのような、一途な声。
* * *
その瞬間、楽典が消えた。
いや、違う。一つだけ、残っている。
そう、消えたのは、楽典の虚像だったのだ。
その楽典を抱いている水晶にも、ひびが入っている。
遠くで、水晶の割れてゆく音が聞こえる。
ノクテュルヌの声が、ひときわ強い響きに変わる。
ひびは一気に亀裂となった。
そして、ノクテュルヌの声が、徐々に徐々に小さく変化し、そして、最後、肺
の中の空気全てを吐き出すように、音は終結した。
ノクテュルヌが、息を静かに吸い込み、ふぅ、と吐き出し、満足を帯びた静か
な微笑みを浮かべていた。
あまりのことに、呆けていた櫻華を正気に戻したのは水晶が砕かれた音だっ
た。
楽典が、空気に触れた。
突如、弾けたような大きな音が鳴り響いた。
振り向くと、そこには大仰に拍手をしているダヴィードが、数人の護衛に付き
添われ、そこにいた。
「なるほど。鍵とは、歌ということか。
ある音程を手順どおりに踏めば、共鳴して水晶は砕かれるという訳か。
あの穴は、さしずめ、振動の通り道というわけか?」
拍手がやんだ。
「さて……。ご苦労だったな。
それを、素直に渡してもらえるかな……というのは、やっぱ聞いてもらえない
かね」
櫻華が二本の剣を抜く。二本とも、なにかしらの文様が刻まれている。
「そんなことだろうとは思っていたよ。
気前が良過ぎたからな」
「必要な投資は出し惜しみしないのが、成功の秘訣だな。
素直に引いてくれないのなら……仕方ないな」
「椿」
ダヴィードだって理解しているのだろう。
今までの人材を今更自分達にぶつけるわけが無い。
動揺させないように、ノクテュルヌに呼びかける。呼びかけることによって、
自分というものを自覚させるのだ。
ノクテュルヌを見ると、彼女は構えていた。
スイに向かって。
スイは、途端に高揚した。
櫻華の覚悟と、ノクテュルヌの理解に、嬉しさを覚えた。
心臓が、身体を急かすように鼓動する。
さぁ、いとおしい対峙者達よ。
始めようではないか。
愛すべき、闘争者達よ。
世界を、自覚しようではないか。
「スイ、やれ」
ダヴィードの声と同時に、スイは弾けた。
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innig(インニヒ):心からの
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