キャスト:ジュリア イェルヒ (リクラゼット)
場所:ソフィニア近郊 -遺跡パジオ、内部
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「……」
魔術で灯した灯りを頼りに延々と歩き続け、いい加減に疲れてきたころに辿り着いた突き当りの壁をエルフは慎重に検分しはじめた。妖精族特有の白く細い指先が石壁の上になぞる模様は文字のようだった。この遺跡で何度か見かけた、奇妙な文字だ。
古代文字――という言葉を聞いた気がする。
古代文字というのは、ジュリアの知識では、ようするに古代の文字のことだ。
他になんとも言いようがない。文字そのものが特殊な意味を持っていたり、魔法じみた効果を表すこともあるが、ただそれだけの骨董品だ。読めない文字は文字ではない。だとすれば、どんな付属的な意味があろうとも、大抵の人間にとって無意味だということだ。だが、この遺跡は、その古代文字で制御されたり操作されたりするらしい。
時代錯誤と言うものは、まったくもって気味が悪い。
だから遺跡は好まないのだ。好きな場所など思い当たらないが。
エルフの表情がすとんと絶望色に染められたのを見て、ジュリアは、問題の起こらない速やかな脱出が不可能になったのだと悟った。確率的に低い事柄に中るということは、運が悪いと言うことだ。
運命の女神は気まぐれだなどという言い回しはよくあるが、彼女は気まぐれなのではなくて、つねに悪意の方向に傾いているのだろう。気に入られれば少しは優遇されるというだけで、そういった特別を覗けば、世の中の誰もが多少なれども不運だということになる。最も賢いのは、彼女の気を引かぬよう、極めて平凡な人生を志すことだ。
――そんな無駄思考を数秒続けた後、ジュリアは無言で背後を振りかえった。
「地図、見せろ」
「……ああ」
横柄に手を差し出す。エルフは無愛想に応えて古びた紙切れを渡してきた。
ここが駄目だということは他を探すしかあるまい。ざっと地図に目を通し黙考。
「脱出の古代文字は他にない」
「ん?」
「ここからしか出られないはずだ。ここが使われているということは……」
「……何を寝ぼけた事を言ってるんだ。
普通の入り口から入ってきたじゃないか。出られるよ」
「そういう意味じゃない」
どうやらエルフは感情を表面に出さないタイプのようだが、眉間に浅く寄った眉で、苛だちのようなものが読み取れた。この状況で気が立たない方がどうかしている。実際、ジュリアも平穏な気分でいるわけではない。
早いところ宿に帰って寝たい。今日は早起きした(馬鹿に叩き起こされた)せいで、いつも以上に何にもやる気が起こらない。そろそろ、現実を否定することにさえ投げやりになってきそうだ。それはマズい。全身全霊を持って、今日の出来事は闇に葬り去らなければならないのだから。
「つまり?」
「脱出の古代文字はここにしかなくて、これは恐らく時間の経過と共に効果を回復する」
「それは不便なことだ」
「この文字は、使われたばっかりだ。
ということは、好ましくない現状を確実に知る事ができる」
そこまで言われて、ようやくジュリアにもエルフの言いたいことがわかってきた。
馬鹿とチャーハン魔神たちが、或いは彼らの何人か或いは誰かが、既にここから脱出している可能性がある。森の中を走り回ってくれているならいいとして、万が一ソフィニアに向かってしまったとしたら大惨事だ。
ソフィニアがどうなろうがジュリアの知ったことではない。
しかし大勢の人間がいる場所で騒ぎが起こってしまうと、もう、誰の記憶にも残らないように歴史の闇へ叩き落とすのがひどく難しくなる。そうなったらソフィニアごと滅ぼすしか。
「……もう、放置でよくない?
自分たちだけ忘れればめでたしめでたしじゃないか」
「俺はあそこに住んでるんだ」
「旅に出るとか」
「出ない」
「残念」
本心からそう言って、ジュリアは肩を竦めた。
あらためて地図と睨めっこしてみる。
まだあのベニ夫人がうろついている可能性がある。
これだけ広い遺跡の中ででくわすことはそうそうないだろう、などと楽観的に考えていると運命の女神様がにっこりと微笑んでダイスの目を変えてくれるわけだ。
「アレが、ここに辿り着く可能性は、低いな?」
「あれだけの岐路があれば」
アレというのはアレのことだ。形容詞で通じ合うのは、形容詞以外でアレを表現したくないという一点においてのみ、二人の心の距離がちょっと近いからだ。
「……低い、はず……だ」
答えてきたエルフの目は、一般的な確率論と、異次元における不条理を天秤にかけて、その結果を判断しかねている様子だった。
ジュリアは後々ベニ夫人に無茶な登場をされないために、床に、森の小石やパンよろしく紅生姜が点々と撒かれていたりしないことを確認した。本当に魔女がいて、「ほらここに究極のチャーハンがあるよ」とか言いながらベニ夫人を竃の前に立たせてくれたりしたら何の問題もないのだが、さすがにそこまでを望むのは贅沢というものだ。
しまった、逃げずに自分でやってくればよかったのか。
「その古代文字というのはどれだけの時間で回復する?」
「待つのか?」
「歩き回ったら絶対に遭遇するって」
「そうだな」
エルフは諦めたようにため息をついた。
もう世界に対して諦めのようなものを抱いてしまったらしい。
「それなら……少し試してみよう。
失敗すれば歩くことになる」
何をするつもりなのかは知らないが、何か事態を進展させる可能性があるなら、とりあえず試してもらうべきだろう。ジュリアは無言で頷いて、古代文字の刻んである反対側の暗闇から脅威が現れたときにいつでも速攻で吹き飛ばすことができるように強風の魔術の呪文を思い出す。
ソフィニアの中退者に、酒代と引き変えに教えてもらったのだ。
あまり使う機会はないし得意でもない。そもそも理論そのものを理解しきっていない。しかし「とりあえず呪文を丸暗記して唱えれば発動する程度のものだ」という言葉の通り、よくわからないにも関わらず、多少の応用を利かせることもできる。
尤も、現役の学院生から見れば児戯に等しいだろうが。
エルフは壁の前に片膝をついて、白墨のようなものを取り出すと、それを片手に文字と睨みあい始めた。たまにぽつりと何かを呟くのは癖なのか、それとも作業がひどく難解なのか。細面の横顔には、古代の遺産を冷徹に分析しようという真剣さが表れていた。
古代には恐らく単純に神秘として扱われていただろう力ある文字を理論に分解し、その配線に手を加える。傲慢極まりない人間の技術だ。
何故、エルフである彼がそんなものを扱うのだろうとふと思ったが、すぐに別れるだろう相手の事情を問うほど好奇心旺盛ではない。
やがて、複雑な模様を描き加えられた古代文字がぼんやりと発光し始めた。
知識がなくとも直感的にわかる、発動の合図。置いていかれては面倒だ。駆け寄り、とりあえず「おつかれ」とだけ声をかける。エルフは少し得意げな表情を抑え切れないようだった。それを悟られないようにとわずかに顔をそむける彼には望みどおり一片の注意も払わずに、文字を眺める。
で、これをどうしればいいんだ?
と問うより早く、文字から溢れた光が周囲を包み込んだ。
文字のそれは、目が眩むほど強い光ではなかったが、次に差してきた陽光は暗闇に慣れた目をチカチカさせた。周囲の空気が変わったことがはっきりとわかる。埃臭さと饐えた湿気が消え、爽やかな――という表現は陳腐だが、遺跡の中に比べれば段違いに爽やかな風を感じる。
(ここは?)
でたらめに明滅する視界に集中するために目を細める。
視力があまりよくないせいか、あまり明るいところはただでさえ苦手なのだ。
状況がよくわからないというのは不安要素だ。数十秒もすれば目が慣れるとわかっていても急いてしまう。近くにエルフも立っているが、彼は放心したように直立して動かなかった。
「……そんな」
小さな呟きは何の感情も伴っていなかった。
不安が増し、ジュリアは周囲を見渡した。
少し離れたところに高い建物、足元は――整備されている。町の中だ。公園か、広場か、そういった場所の端に出たらしい。ようやく目が慣れてきた。見覚えのある場所だと認識する。ここはソフィニアだ。昨日、少し寄ってみようかと思ったが、妙に気味が悪くて近寄らなかった公園。
ジュリアは遅れてエルフと同じ方向に視線をやり。
そしてエルフとおなじく硬直した。
公園の木々の向こう側。
包丁を振り回すクラークとそれを追いかける一団が、まるで一陣の風のように駆けぬけ、警笛を鳴らしながら追いかける警邏がそれに続いていた。
恐れ慄く通行人、悲鳴と奇声の大合唱。
喧々囂々、阿鼻叫喚。
そして最悪なことに、馬鹿の集団は奇声をあげながら公園へなだれ込んできた。
場所:ソフィニア近郊 -遺跡パジオ、内部
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「……」
魔術で灯した灯りを頼りに延々と歩き続け、いい加減に疲れてきたころに辿り着いた突き当りの壁をエルフは慎重に検分しはじめた。妖精族特有の白く細い指先が石壁の上になぞる模様は文字のようだった。この遺跡で何度か見かけた、奇妙な文字だ。
古代文字――という言葉を聞いた気がする。
古代文字というのは、ジュリアの知識では、ようするに古代の文字のことだ。
他になんとも言いようがない。文字そのものが特殊な意味を持っていたり、魔法じみた効果を表すこともあるが、ただそれだけの骨董品だ。読めない文字は文字ではない。だとすれば、どんな付属的な意味があろうとも、大抵の人間にとって無意味だということだ。だが、この遺跡は、その古代文字で制御されたり操作されたりするらしい。
時代錯誤と言うものは、まったくもって気味が悪い。
だから遺跡は好まないのだ。好きな場所など思い当たらないが。
エルフの表情がすとんと絶望色に染められたのを見て、ジュリアは、問題の起こらない速やかな脱出が不可能になったのだと悟った。確率的に低い事柄に中るということは、運が悪いと言うことだ。
運命の女神は気まぐれだなどという言い回しはよくあるが、彼女は気まぐれなのではなくて、つねに悪意の方向に傾いているのだろう。気に入られれば少しは優遇されるというだけで、そういった特別を覗けば、世の中の誰もが多少なれども不運だということになる。最も賢いのは、彼女の気を引かぬよう、極めて平凡な人生を志すことだ。
――そんな無駄思考を数秒続けた後、ジュリアは無言で背後を振りかえった。
「地図、見せろ」
「……ああ」
横柄に手を差し出す。エルフは無愛想に応えて古びた紙切れを渡してきた。
ここが駄目だということは他を探すしかあるまい。ざっと地図に目を通し黙考。
「脱出の古代文字は他にない」
「ん?」
「ここからしか出られないはずだ。ここが使われているということは……」
「……何を寝ぼけた事を言ってるんだ。
普通の入り口から入ってきたじゃないか。出られるよ」
「そういう意味じゃない」
どうやらエルフは感情を表面に出さないタイプのようだが、眉間に浅く寄った眉で、苛だちのようなものが読み取れた。この状況で気が立たない方がどうかしている。実際、ジュリアも平穏な気分でいるわけではない。
早いところ宿に帰って寝たい。今日は早起きした(馬鹿に叩き起こされた)せいで、いつも以上に何にもやる気が起こらない。そろそろ、現実を否定することにさえ投げやりになってきそうだ。それはマズい。全身全霊を持って、今日の出来事は闇に葬り去らなければならないのだから。
「つまり?」
「脱出の古代文字はここにしかなくて、これは恐らく時間の経過と共に効果を回復する」
「それは不便なことだ」
「この文字は、使われたばっかりだ。
ということは、好ましくない現状を確実に知る事ができる」
そこまで言われて、ようやくジュリアにもエルフの言いたいことがわかってきた。
馬鹿とチャーハン魔神たちが、或いは彼らの何人か或いは誰かが、既にここから脱出している可能性がある。森の中を走り回ってくれているならいいとして、万が一ソフィニアに向かってしまったとしたら大惨事だ。
ソフィニアがどうなろうがジュリアの知ったことではない。
しかし大勢の人間がいる場所で騒ぎが起こってしまうと、もう、誰の記憶にも残らないように歴史の闇へ叩き落とすのがひどく難しくなる。そうなったらソフィニアごと滅ぼすしか。
「……もう、放置でよくない?
自分たちだけ忘れればめでたしめでたしじゃないか」
「俺はあそこに住んでるんだ」
「旅に出るとか」
「出ない」
「残念」
本心からそう言って、ジュリアは肩を竦めた。
あらためて地図と睨めっこしてみる。
まだあのベニ夫人がうろついている可能性がある。
これだけ広い遺跡の中ででくわすことはそうそうないだろう、などと楽観的に考えていると運命の女神様がにっこりと微笑んでダイスの目を変えてくれるわけだ。
「アレが、ここに辿り着く可能性は、低いな?」
「あれだけの岐路があれば」
アレというのはアレのことだ。形容詞で通じ合うのは、形容詞以外でアレを表現したくないという一点においてのみ、二人の心の距離がちょっと近いからだ。
「……低い、はず……だ」
答えてきたエルフの目は、一般的な確率論と、異次元における不条理を天秤にかけて、その結果を判断しかねている様子だった。
ジュリアは後々ベニ夫人に無茶な登場をされないために、床に、森の小石やパンよろしく紅生姜が点々と撒かれていたりしないことを確認した。本当に魔女がいて、「ほらここに究極のチャーハンがあるよ」とか言いながらベニ夫人を竃の前に立たせてくれたりしたら何の問題もないのだが、さすがにそこまでを望むのは贅沢というものだ。
しまった、逃げずに自分でやってくればよかったのか。
「その古代文字というのはどれだけの時間で回復する?」
「待つのか?」
「歩き回ったら絶対に遭遇するって」
「そうだな」
エルフは諦めたようにため息をついた。
もう世界に対して諦めのようなものを抱いてしまったらしい。
「それなら……少し試してみよう。
失敗すれば歩くことになる」
何をするつもりなのかは知らないが、何か事態を進展させる可能性があるなら、とりあえず試してもらうべきだろう。ジュリアは無言で頷いて、古代文字の刻んである反対側の暗闇から脅威が現れたときにいつでも速攻で吹き飛ばすことができるように強風の魔術の呪文を思い出す。
ソフィニアの中退者に、酒代と引き変えに教えてもらったのだ。
あまり使う機会はないし得意でもない。そもそも理論そのものを理解しきっていない。しかし「とりあえず呪文を丸暗記して唱えれば発動する程度のものだ」という言葉の通り、よくわからないにも関わらず、多少の応用を利かせることもできる。
尤も、現役の学院生から見れば児戯に等しいだろうが。
エルフは壁の前に片膝をついて、白墨のようなものを取り出すと、それを片手に文字と睨みあい始めた。たまにぽつりと何かを呟くのは癖なのか、それとも作業がひどく難解なのか。細面の横顔には、古代の遺産を冷徹に分析しようという真剣さが表れていた。
古代には恐らく単純に神秘として扱われていただろう力ある文字を理論に分解し、その配線に手を加える。傲慢極まりない人間の技術だ。
何故、エルフである彼がそんなものを扱うのだろうとふと思ったが、すぐに別れるだろう相手の事情を問うほど好奇心旺盛ではない。
やがて、複雑な模様を描き加えられた古代文字がぼんやりと発光し始めた。
知識がなくとも直感的にわかる、発動の合図。置いていかれては面倒だ。駆け寄り、とりあえず「おつかれ」とだけ声をかける。エルフは少し得意げな表情を抑え切れないようだった。それを悟られないようにとわずかに顔をそむける彼には望みどおり一片の注意も払わずに、文字を眺める。
で、これをどうしればいいんだ?
と問うより早く、文字から溢れた光が周囲を包み込んだ。
文字のそれは、目が眩むほど強い光ではなかったが、次に差してきた陽光は暗闇に慣れた目をチカチカさせた。周囲の空気が変わったことがはっきりとわかる。埃臭さと饐えた湿気が消え、爽やかな――という表現は陳腐だが、遺跡の中に比べれば段違いに爽やかな風を感じる。
(ここは?)
でたらめに明滅する視界に集中するために目を細める。
視力があまりよくないせいか、あまり明るいところはただでさえ苦手なのだ。
状況がよくわからないというのは不安要素だ。数十秒もすれば目が慣れるとわかっていても急いてしまう。近くにエルフも立っているが、彼は放心したように直立して動かなかった。
「……そんな」
小さな呟きは何の感情も伴っていなかった。
不安が増し、ジュリアは周囲を見渡した。
少し離れたところに高い建物、足元は――整備されている。町の中だ。公園か、広場か、そういった場所の端に出たらしい。ようやく目が慣れてきた。見覚えのある場所だと認識する。ここはソフィニアだ。昨日、少し寄ってみようかと思ったが、妙に気味が悪くて近寄らなかった公園。
ジュリアは遅れてエルフと同じ方向に視線をやり。
そしてエルフとおなじく硬直した。
公園の木々の向こう側。
包丁を振り回すクラークとそれを追いかける一団が、まるで一陣の風のように駆けぬけ、警笛を鳴らしながら追いかける警邏がそれに続いていた。
恐れ慄く通行人、悲鳴と奇声の大合唱。
喧々囂々、阿鼻叫喚。
そして最悪なことに、馬鹿の集団は奇声をあげながら公園へなだれ込んできた。
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