PC:アウフタクト ヒュー ジェンソン
Stage: → ヴァルカン周辺
------------------------------------------------------------------------------
母が喜ぶのを見たのは、物心ついてから初めてだった。
ロクな成績も取れず最後の賭けにも失敗して学院を退学になり姿を晦まそうとした俺の元に現れた彼女は、記憶にあるよりもずっと美しかった。確かに年老いて容貌は衰えていた。しかし俺が子供の頃の、明らかに病んでいた神経の片鱗も窺わせず、頬を薔薇色に火照らせ、土色の眸を細めて、鈴のようにころころと笑ってみせる姿は、やはり美しいのだった。
「悪魔を」彼女は言う。聞いたことのない優しい声だった。「喚んだんですって。すごいわ、素質がなければできないことよ」
俺は曖昧に笑って後ずさった。召喚自体は簡単なのだ。公にこそされないが、試みる学生は五年に一度は現れたし、成功事例もその何分の一かはあった。悪魔というものはどうやら彼ら自身が言っているほど人間を嫌ってはいないらしく、喚び出すという段階までなら、案外、簡単だ。
そういったしどろもどろの弁解にも、彼女は態度を変えなかった。まるで子供にするように、俺の髪をぐしゃぐしゃに撫でながら、ほころぶ笑顔は花ほどにも可憐だった。
「でも、あなたは無事でここにいるじゃない。悪魔を召喚して支配や交渉に失敗した魔術師は、気が狂うか死んでしまうか、或いはもっとおぞましい目に遭うものなのよ」
「運がよかったのでしょう、ある程度は」俺は逃れながら言った。母は聞く耳を持たなかった。
「それだけではないに決まっているわ」いっそ身の危険を感じるほど陽気に彼女は腕を広げ、怯む俺を抱きしめた。ぞっとするほど強い力に俺はようやく、目の前の女が間違いなく俺の知っているあの母だと実感した。
「どうしてこんな急に」「よかった。あなたはちゃんと、わたしとあのひとの血と力を継いでいたのね」母は当たり前のように俺の言葉を遮った。「わたしは不義を疑われ、あなたは無能とあざ笑われてきたけれど。形はどうあれ、どちらも嘘だとあなたはちゃんと証明できるようになったのだわ」
「……あなたは」嫌な予感がした。母と接するときの、慣れ親しんだ感覚。狂気のにおい。「すごいわ。お母さんうれしいわ。ずっと信じていたもの、あなたなら、できるって」
その言葉で俺は確信した。
母は俺ではなく誇りを取り戻しに現れたのだと。
憫れな女だ、と思った。母は古い魔法使いの王の末裔の血脈であると自称していたが、学院で歴史を学べば嘘か妄想の類と知れた。しかし母にはもうそれしかないのだ。そしてそれを奪った実の息子に、さあ宝を返却せよと迫りに来たに違いなかった。本人にはそのつもりもなく、債務者が今まで以上の敗残者に落ちているとも気づかずに。
憫れな女だ――
もう一度だけ、半ば呼びかけるように心のうちで呟きかけ、愕然とした。
前の前で、無邪気な喜びの言葉を重ね続ける老いた女。
己の母たる彼女の名を、何故、俺は知らない?
★ ・ ★ ・ ★ ・ ★
「鉄の船」
アウフタクトは無感動に問い返し、肉叉を皿に置いた。
小さな食堂は、所謂“安くて美味い”という店で、勤め帰りの地元人から、町に慣れた時期の滞在人まで、客層は広い。薄汚れた旅装束のアウフタクトも抵抗もなく受け入れられた。
奥のテーブルにいる、冒険者か傭兵かという若者だけが、さすがに少し浮いて見えた。
「そう、空を飛ぶ鉄の船だよ」
向かいの席で、赤ら顔の男が言った。彼の前には東方酒の透明な瓶が置かれている。空き皿を下げに現れた店員につまみを頼み、どうやらまだ居座るつもりのようだ。
「四日前の夜、隣町から帰ってくる途中の峠で見たのさ。頭の上を横切っていったんだ。あのでかさ、間違いなく船だったね。そうでなけりゃあ竜だ。だが、竜だとしたら、こんな町、もうとっくになくなっちまってるだろ? だからあれは船だ。城かも知れないが、城は動かん」
「……はぁ」
「嘘だと思ってんな? わかってるよ、カカァも娘も、おれの言うことなんざ信じねえんだから。鳥にからかわれたんだろとか馬鹿にしやがる――まあ、飲めよ」
「結構です」
男が酒瓶を持ち上げる。アウフタクトは、まだ半分は水が残っている自分のグラスを遠ざけて守った。相席には当たり外れが大きい。食事刻を避ければよかったのだろうが、歩き詰めで、空腹だったので。
男の言葉は、もう愚痴に変わろうとしていた。「いっそのことあれが本当に竜なら、今頃は大騒ぎだっただろうによ。カカァだってもうおれを疑わないって泣いて謝っただろうに」
「だといいですね」
アウフタクトは視線だけで周囲を見渡し、助けを求めてみた。後ろの席へ料理を運んできた店員が目を逸らす。酔っ払いに気づかれないようこっそりと指差してみると、店員は困ったような笑顔で首を横に振った。ああ、なるほど。いつものことなのか。
「鉄の船なんか呪われちまえばいいんだ。奴のせいでおれはまた嘘つきに――」
「――コロラトゥーラ」
小さく囁く。魔法の鳥はいつも通りに声に応え、姿を現した。店の片隅、天井に近く固定された小さな棚。繁盛祈願の札の横に、一羽の野駒。あの女とおなじ青の目は既に飼い主の意図を了解しているようだった。店内の賑やかさにかき消されるほどかすかな声で、歌うように、鳴く。
「お願いします」
鳥が、ふわりと羽ばたいた。アウフタクトがその翼を眺めているうちに、相席の男の頭が揺れた。喉の奥で潰れるような呻き声を残し、ぐしゃりとテーブルに倒れ伏す。客の一人がこちらを一瞥し、「また潰れちゃったよ」と苦笑した。店員が寄ってきてアウフタクトの皿を下げ、ごめんなさいねと小さく謝った。「いつも潰れるまで飲むの。悪い人ではないのだけど……」
そんな客と相席させないで欲しい。が、ほとんど満席の時に現れた常連の男が、少なくとも無害そうな旅人か或いは奥の戦士風の旅人のどちらとおなじテーブルを選ぶかといえば、恐らく前者だろうが。
「美味しかったです。お勘定を」言いながら見上げれば、鳥は既に姿を消していた。
店を出るとすっかり夜だった。
土のにおいのする湿っぽい風とすれ違い、思わず立ち止まって空を見上げた。真珠のような月が、ひっそりと町を見下ろしている。星は見えず、空全体が灰色に煙っている。雨の気配。深夜には降り始めるだろうか。雨自体は特に好きでも嫌いでもないが、目下の問題は、今夜の寝床がまだ決まっていないということだ。
三日かけて、街道から外れた山道を越えてきた。せっかく町に着いたのだから、路地裏で雨に打たれながら眠るのは勘弁願いたい。
月が翳る。アウフタクトは興味を失い、歩き出す。三十五歩の距離に小さな宿泊所の看板を見つけたが、残念なことに、満室を示す札がかかっていた。肩掛け鞄の紐を直しながら、通りの先へ。
五軒目でようやく、明らかに旅人用ではない店に開き部屋を見つけた。受付の顔が見えないカウンターの上に銅貨を出し、「一人?」という胡乱げな声に「他に寝る場所がないんで」と応える。
「紹介料くれりゃ、いいコ呼んでやるよ」
「あー……結構です。今夜のところは」
受付は「そうかい」と無関心に(しかし、少し残念そうに)鍵を寄越してきた。金属プレートで部屋番号を確認して、灯りの一つもない階段をのぼる。途中で一度躓きかけ、更には、存在しない段に足をかけて転びかけた。防音性など期待できそうにない建物なのに、物音一つ聞こえない。立て付けの悪い扉の隙間から漏れる光もなく、どうやら他には客がないようだ。もう少し遅い時刻になればわからないが、どうせそれまで起きていられないだろう。
自分の部屋の扉を見つけ、鍵を回して中へ入る。扉を閉め、施錠し、念のためにと上から魔術の錠をかけた。
扉の裏で、窓から差し込む弱い光が白く反射した。鏡だろうか。
灯りが必要だ。
「…… 《たとえここが黒墨の領域であろうと、一切の光を拒む則はない》 」
唱え、手を掲げる。ぼんやりと部屋の中空が光を帯びる。照らし出された内装は極めて平凡だった。より粗末なのは値段のせいもあるだろう。が、眠れればいいという最低条件は満たしているので構わない。安全性については、あの鍵を盗賊の類が破るのは無理だ。扉ごと壊されたらもはや笑い話として片付ける。
扉を振り返れば、貼り付けられているのはやはり、錆びた鏡だった。
うすらぼやけた灯りを逆光に、見飽きた男が映っている。明るかろうと暗かろうと重く見える真鍮色の髪。旅で少しそげた頬。金色の眸が、つまらなそうに眠たそうにこちらを見据えている。あと二年で三十歳になる。ひどい有様だ、と思ったが、何がひどいのかは思いつけなかった。普段と違うのはせいぜい三日分の無精髭と、町の外で払いきれなかった旅塵くらいだ。
「……」
静かすぎて、声を出すのが憚られた。自分でも内容の予測がつかない独白は、無声音のため息になって室内に散った。
ぱた、と外から音が聞こえた。そして数秒の間に世界は雨音に覆われた。
間違いなく、今夜は静かに寝られるだろう。屋根さえあれば、雨による擬似的な静寂は心地よいものだ。
考えた途端、鏡のことはどうでもよくなった。
窓際に寄って、毛玉の浮いたカーテンを引く。
眠い。
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Stage: → ヴァルカン周辺
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母が喜ぶのを見たのは、物心ついてから初めてだった。
ロクな成績も取れず最後の賭けにも失敗して学院を退学になり姿を晦まそうとした俺の元に現れた彼女は、記憶にあるよりもずっと美しかった。確かに年老いて容貌は衰えていた。しかし俺が子供の頃の、明らかに病んでいた神経の片鱗も窺わせず、頬を薔薇色に火照らせ、土色の眸を細めて、鈴のようにころころと笑ってみせる姿は、やはり美しいのだった。
「悪魔を」彼女は言う。聞いたことのない優しい声だった。「喚んだんですって。すごいわ、素質がなければできないことよ」
俺は曖昧に笑って後ずさった。召喚自体は簡単なのだ。公にこそされないが、試みる学生は五年に一度は現れたし、成功事例もその何分の一かはあった。悪魔というものはどうやら彼ら自身が言っているほど人間を嫌ってはいないらしく、喚び出すという段階までなら、案外、簡単だ。
そういったしどろもどろの弁解にも、彼女は態度を変えなかった。まるで子供にするように、俺の髪をぐしゃぐしゃに撫でながら、ほころぶ笑顔は花ほどにも可憐だった。
「でも、あなたは無事でここにいるじゃない。悪魔を召喚して支配や交渉に失敗した魔術師は、気が狂うか死んでしまうか、或いはもっとおぞましい目に遭うものなのよ」
「運がよかったのでしょう、ある程度は」俺は逃れながら言った。母は聞く耳を持たなかった。
「それだけではないに決まっているわ」いっそ身の危険を感じるほど陽気に彼女は腕を広げ、怯む俺を抱きしめた。ぞっとするほど強い力に俺はようやく、目の前の女が間違いなく俺の知っているあの母だと実感した。
「どうしてこんな急に」「よかった。あなたはちゃんと、わたしとあのひとの血と力を継いでいたのね」母は当たり前のように俺の言葉を遮った。「わたしは不義を疑われ、あなたは無能とあざ笑われてきたけれど。形はどうあれ、どちらも嘘だとあなたはちゃんと証明できるようになったのだわ」
「……あなたは」嫌な予感がした。母と接するときの、慣れ親しんだ感覚。狂気のにおい。「すごいわ。お母さんうれしいわ。ずっと信じていたもの、あなたなら、できるって」
その言葉で俺は確信した。
母は俺ではなく誇りを取り戻しに現れたのだと。
憫れな女だ、と思った。母は古い魔法使いの王の末裔の血脈であると自称していたが、学院で歴史を学べば嘘か妄想の類と知れた。しかし母にはもうそれしかないのだ。そしてそれを奪った実の息子に、さあ宝を返却せよと迫りに来たに違いなかった。本人にはそのつもりもなく、債務者が今まで以上の敗残者に落ちているとも気づかずに。
憫れな女だ――
もう一度だけ、半ば呼びかけるように心のうちで呟きかけ、愕然とした。
前の前で、無邪気な喜びの言葉を重ね続ける老いた女。
己の母たる彼女の名を、何故、俺は知らない?
★ ・ ★ ・ ★ ・ ★
「鉄の船」
アウフタクトは無感動に問い返し、肉叉を皿に置いた。
小さな食堂は、所謂“安くて美味い”という店で、勤め帰りの地元人から、町に慣れた時期の滞在人まで、客層は広い。薄汚れた旅装束のアウフタクトも抵抗もなく受け入れられた。
奥のテーブルにいる、冒険者か傭兵かという若者だけが、さすがに少し浮いて見えた。
「そう、空を飛ぶ鉄の船だよ」
向かいの席で、赤ら顔の男が言った。彼の前には東方酒の透明な瓶が置かれている。空き皿を下げに現れた店員につまみを頼み、どうやらまだ居座るつもりのようだ。
「四日前の夜、隣町から帰ってくる途中の峠で見たのさ。頭の上を横切っていったんだ。あのでかさ、間違いなく船だったね。そうでなけりゃあ竜だ。だが、竜だとしたら、こんな町、もうとっくになくなっちまってるだろ? だからあれは船だ。城かも知れないが、城は動かん」
「……はぁ」
「嘘だと思ってんな? わかってるよ、カカァも娘も、おれの言うことなんざ信じねえんだから。鳥にからかわれたんだろとか馬鹿にしやがる――まあ、飲めよ」
「結構です」
男が酒瓶を持ち上げる。アウフタクトは、まだ半分は水が残っている自分のグラスを遠ざけて守った。相席には当たり外れが大きい。食事刻を避ければよかったのだろうが、歩き詰めで、空腹だったので。
男の言葉は、もう愚痴に変わろうとしていた。「いっそのことあれが本当に竜なら、今頃は大騒ぎだっただろうによ。カカァだってもうおれを疑わないって泣いて謝っただろうに」
「だといいですね」
アウフタクトは視線だけで周囲を見渡し、助けを求めてみた。後ろの席へ料理を運んできた店員が目を逸らす。酔っ払いに気づかれないようこっそりと指差してみると、店員は困ったような笑顔で首を横に振った。ああ、なるほど。いつものことなのか。
「鉄の船なんか呪われちまえばいいんだ。奴のせいでおれはまた嘘つきに――」
「――コロラトゥーラ」
小さく囁く。魔法の鳥はいつも通りに声に応え、姿を現した。店の片隅、天井に近く固定された小さな棚。繁盛祈願の札の横に、一羽の野駒。あの女とおなじ青の目は既に飼い主の意図を了解しているようだった。店内の賑やかさにかき消されるほどかすかな声で、歌うように、鳴く。
「お願いします」
鳥が、ふわりと羽ばたいた。アウフタクトがその翼を眺めているうちに、相席の男の頭が揺れた。喉の奥で潰れるような呻き声を残し、ぐしゃりとテーブルに倒れ伏す。客の一人がこちらを一瞥し、「また潰れちゃったよ」と苦笑した。店員が寄ってきてアウフタクトの皿を下げ、ごめんなさいねと小さく謝った。「いつも潰れるまで飲むの。悪い人ではないのだけど……」
そんな客と相席させないで欲しい。が、ほとんど満席の時に現れた常連の男が、少なくとも無害そうな旅人か或いは奥の戦士風の旅人のどちらとおなじテーブルを選ぶかといえば、恐らく前者だろうが。
「美味しかったです。お勘定を」言いながら見上げれば、鳥は既に姿を消していた。
店を出るとすっかり夜だった。
土のにおいのする湿っぽい風とすれ違い、思わず立ち止まって空を見上げた。真珠のような月が、ひっそりと町を見下ろしている。星は見えず、空全体が灰色に煙っている。雨の気配。深夜には降り始めるだろうか。雨自体は特に好きでも嫌いでもないが、目下の問題は、今夜の寝床がまだ決まっていないということだ。
三日かけて、街道から外れた山道を越えてきた。せっかく町に着いたのだから、路地裏で雨に打たれながら眠るのは勘弁願いたい。
月が翳る。アウフタクトは興味を失い、歩き出す。三十五歩の距離に小さな宿泊所の看板を見つけたが、残念なことに、満室を示す札がかかっていた。肩掛け鞄の紐を直しながら、通りの先へ。
五軒目でようやく、明らかに旅人用ではない店に開き部屋を見つけた。受付の顔が見えないカウンターの上に銅貨を出し、「一人?」という胡乱げな声に「他に寝る場所がないんで」と応える。
「紹介料くれりゃ、いいコ呼んでやるよ」
「あー……結構です。今夜のところは」
受付は「そうかい」と無関心に(しかし、少し残念そうに)鍵を寄越してきた。金属プレートで部屋番号を確認して、灯りの一つもない階段をのぼる。途中で一度躓きかけ、更には、存在しない段に足をかけて転びかけた。防音性など期待できそうにない建物なのに、物音一つ聞こえない。立て付けの悪い扉の隙間から漏れる光もなく、どうやら他には客がないようだ。もう少し遅い時刻になればわからないが、どうせそれまで起きていられないだろう。
自分の部屋の扉を見つけ、鍵を回して中へ入る。扉を閉め、施錠し、念のためにと上から魔術の錠をかけた。
扉の裏で、窓から差し込む弱い光が白く反射した。鏡だろうか。
灯りが必要だ。
「…… 《たとえここが黒墨の領域であろうと、一切の光を拒む則はない》 」
唱え、手を掲げる。ぼんやりと部屋の中空が光を帯びる。照らし出された内装は極めて平凡だった。より粗末なのは値段のせいもあるだろう。が、眠れればいいという最低条件は満たしているので構わない。安全性については、あの鍵を盗賊の類が破るのは無理だ。扉ごと壊されたらもはや笑い話として片付ける。
扉を振り返れば、貼り付けられているのはやはり、錆びた鏡だった。
うすらぼやけた灯りを逆光に、見飽きた男が映っている。明るかろうと暗かろうと重く見える真鍮色の髪。旅で少しそげた頬。金色の眸が、つまらなそうに眠たそうにこちらを見据えている。あと二年で三十歳になる。ひどい有様だ、と思ったが、何がひどいのかは思いつけなかった。普段と違うのはせいぜい三日分の無精髭と、町の外で払いきれなかった旅塵くらいだ。
「……」
静かすぎて、声を出すのが憚られた。自分でも内容の予測がつかない独白は、無声音のため息になって室内に散った。
ぱた、と外から音が聞こえた。そして数秒の間に世界は雨音に覆われた。
間違いなく、今夜は静かに寝られるだろう。屋根さえあれば、雨による擬似的な静寂は心地よいものだ。
考えた途端、鏡のことはどうでもよくなった。
窓際に寄って、毛玉の浮いたカーテンを引く。
眠い。
-----------------------------------------------------------
PR
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ヒューの目には白い世界が見えた。冷たい空気、見慣れた白い空、白い大地、そして晴天の地吹雪。
夢だとはすぐ分かる。もう死んだはずの居合いの師匠が横にいたからだ。小柄なカフール人だった。それ以外あまり覚えていない。カフール人といえば、彼であるのは間違いないのだけれど、カフール人の見分けなどつかない。
来るぞ、と彼は言ったように思えた。白い世界のなにもない場所から、白い毛皮と赤い目を持つ猿のような化け物が何匹も顔を出した。体躯はちょっとした丘ほどあり、手は人を握りつぶせるほど大きい。
自分の横手にはいつの間にか、過去の仲間達も並んでいる。生き残って料理人になった男もいる。
弔うまで女と知らなかった同年代の戦士もいる。彼、いや彼女はヒューによくよく話しかけてきて、南のことを教えてくれた。ヒューは彼女に感謝していた。西方へ旅立った真っ赤なローブの魔術師が呪文を叫ぶ。寒さが急に和らぎ、雪は地面のように硬く感じられるようになった。戦いの後、どこかへ消えた騎士が両手剣を引きずって突撃した。戦いが終わっても死体が見つからなかった。突撃に合わせて傭兵達の怒号がそれに続く。
猿たちはただ無言で不気味に近寄ってくる。ひときわ大きな猿が叩く胸の音を除いては。
突撃に追随するヒューの後ろから、ビュウと強い北風があたりに吹いた。風が過ぎると、人も大猿も粉雪へと変えて吹き散らした。
彼の周りはただいつまでも溶けることのなかった雪だけが残っている。
★ ・ ★ ・ ★ ・ ★
「ヒュー、起きろ、風邪引くぞ」
意識を揺らす声だが、微睡みに打ち勝つほどではない。だいたいこんなに暖かいのになぜ起きる必要があるんだ。そう思うヒューの目ぶたはまだ重かった。聞こえてくる雨音が心地いい。この一年で慣れてきた異郷の音だ。初めて見て聞いたときは、はしゃぎすぎて眠れなかった。だが、今はいい子守歌だった。
「敵襲だ」
ヒューはさっと立ち上がり、目を見開いた。あたりをざっと見る。空の皿が並んでいるテーブルがいくつかと、酒瓶を抱えた男が眠っているだけだ。背後は壁で、その後ろに気配はない。目の前には傭兵時代の仲間がにやついてた。
「そろそろ店じまいでね」
喉を鳴らすように笑う仲間をヒューは軽く睨む。冗談なのだろうか。そういうものにはどう返せばいいのか、傭兵の少女に教わったことを思い出した。懐かしみを覚えながら口を開いた。
「悪い冗談だ」
棒読みの台詞に、店の主人は困った顔を向ける。沈黙と微苦笑を合わせたような雰囲気だった。
「そうか、こういうの嫌いだったな」
「いや、そんなことはない。なかなかいい目覚めだったとは思う」
店主は肩を落とした。戦場では頼りになる奴だったが、どうも表情が読めない。夜の森でゴブリンを探すぐらい難しい。またヒューが唇を動かす。彼が敵か、と酔っぱらいを指差す。そして腰に差した剣の柄に手をかける。
「ヒュー、おまえじゃ洒落に成らん」
そうか、と肩を落とす。
「難しいな」
「まあ、誰にでも苦手はあるさ」
店主は自身の体躯とヒューを比べた。頭一つ分、店主は小さい。年は倍以上違うし、ヒューはまだ子供といっていい年だった。きっとさらに伸びる。そう、きっと奴はオレとは別の方で、さ。テーブルを店主は撫でた。すると情緒無くおかれた食器の山が目に入る。彼の行くべき道は数ヶ月も前ふと決まったのだ。
くつくつと店主は笑い、流れるように声を続ける。
「さあて、怖い嫁さんに怒鳴られる前に片付けるか。婿ってのはまったく肩身が狭いもんだ。お客をおまえの部屋に連れて行ってやってくれ、相部屋になるけど、いいよな」
野宿でもかまわない、屋根があるだけでありがたい。ヒューは頷くと酔っぱらいを担ぎ上げた。
「構わない。今日は世話になる」
いいってこった、店主はまた喉を鳴らした。
隣のベッドに寝かせた酔っぱらいは、鉄の船の夢を見ているようだ。
部屋は暗く、小さな蝋燭が灯っている。普段、酔いつぶれた客にたまに開放する部屋で、藁で作ったらしいベッドが三つ、無理矢理並べられている。ヒューはゆっくりと腰に差した剣を鞘ごと外し、抱えるようにしながら横のベッドに座る。目を瞑り、雨音に意識していく。いつものように奉ずる神に祈った。
そうしている間にも隣から呻きと恨みが吹き出てきた。その寝言は家庭の崩壊が見て取れた。恐ろしいことだった。少なくとも、ヒューにとっては。鉄の船とは無茶苦茶だが、真剣に訴える家長のことを信じられない娘と妻だなんて。やはり文明の子は恐ろしい。
「文明の地に平穏はない。あの優しい女達さえ、暑さに腐ってしまう」
父の警句が頭に浮かぶ。巨躯の戦士は集落に攻め入る大猿も、降り続ける雪も恐れなかったが、ただ、文明の腐敗を怖がっていた。
「けれど、ここは暖かいです。父さん。だれも凍りません」
ヒューは少しだけ和らいだ声を出した。父から譲られた剣を抱きしめる。鞘にしみついた油の臭いが暖かみもなく、ヒューを包んだ。これに魅入られてここまできたのだ。今更、北に帰る気も、どこかで堕落するつもりもない。だが、剣の冷たさは決して彼を後押ししなかった。ただ、剣を振り、剣の道を極める。彼の人生と信仰はそれだけだというのに。
ふと振動を感じて、ヒューはさっと剣を抜き放つ。冷たい刀身は蝋燭の炎を写し、かたかたと鳴っていた。刃にはぼんやりと薄い影が写る。見つめているヒューではない。鳥のように見えるうっすらとした影。二羽いるのだろうか、飛び回っているように見えた。一つは真っ黒い小鳥のような影だ、目は閉じたまま飛んでいる。そして、何気なくに剣から火の粉のように飛び出してくる。
ケケッ、と笑う鳥があたりを飛び回る。目を見開いてケケケ、と続けて笑う。片目がボタン、片目が人の目。爪から時折、黒い液体がぬるりと落ちて、白い煙を吐き出す。
「神よ、何が言いたいのです」
固い言葉で剣に語りかけるが、答えることはなかった。代わりに爆ぜるようにもう一羽の鳥がパッと飛び出した。銀で出来た繊細な細工の鳥だった。彼の周りを同じように飛び回る。
ヒューは体を固くして、剣を握りしめる。ただ彼の神は剣に生きることを説いていた。だのに、これはいったいどういうことなのだろうか。ここ最近、彼に訪れる天啓は決まってこうだった。ヴァルカンへ近寄る度により鮮明になった。
鳥たちを無視して、剣の切っ先を真っ直ぐ天に掲げる。神への問いかける、祈りの構え。
すると今日は彼らは動いた。二羽は剣へ集まり止まった。そして、木材が砕ける音が響き、鉄と鉄がぶつかり合う音と火花が目の前で散る。腕に大猿の棍棒を受けたときのような衝撃が走る。鉄板がヒューに逸れ、藁のベッドに突き刺さった。ばらばらと雨と木片が降り注いだ。暗い闇が辺りを包んだ。蝋燭の灯は消えてしまったようだ。
物音に気付いたようで、下からばたばたという音が寄ってくる。ヒューは雨に打たれるまま、戦友を待った。酔っぱらいは未だに寝言を絶やさない。ヒューでさえ、彼の妻と娘の気持ちが分かるような気がした。
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ヒューの目には白い世界が見えた。冷たい空気、見慣れた白い空、白い大地、そして晴天の地吹雪。
夢だとはすぐ分かる。もう死んだはずの居合いの師匠が横にいたからだ。小柄なカフール人だった。それ以外あまり覚えていない。カフール人といえば、彼であるのは間違いないのだけれど、カフール人の見分けなどつかない。
来るぞ、と彼は言ったように思えた。白い世界のなにもない場所から、白い毛皮と赤い目を持つ猿のような化け物が何匹も顔を出した。体躯はちょっとした丘ほどあり、手は人を握りつぶせるほど大きい。
自分の横手にはいつの間にか、過去の仲間達も並んでいる。生き残って料理人になった男もいる。
弔うまで女と知らなかった同年代の戦士もいる。彼、いや彼女はヒューによくよく話しかけてきて、南のことを教えてくれた。ヒューは彼女に感謝していた。西方へ旅立った真っ赤なローブの魔術師が呪文を叫ぶ。寒さが急に和らぎ、雪は地面のように硬く感じられるようになった。戦いの後、どこかへ消えた騎士が両手剣を引きずって突撃した。戦いが終わっても死体が見つからなかった。突撃に合わせて傭兵達の怒号がそれに続く。
猿たちはただ無言で不気味に近寄ってくる。ひときわ大きな猿が叩く胸の音を除いては。
突撃に追随するヒューの後ろから、ビュウと強い北風があたりに吹いた。風が過ぎると、人も大猿も粉雪へと変えて吹き散らした。
彼の周りはただいつまでも溶けることのなかった雪だけが残っている。
★ ・ ★ ・ ★ ・ ★
「ヒュー、起きろ、風邪引くぞ」
意識を揺らす声だが、微睡みに打ち勝つほどではない。だいたいこんなに暖かいのになぜ起きる必要があるんだ。そう思うヒューの目ぶたはまだ重かった。聞こえてくる雨音が心地いい。この一年で慣れてきた異郷の音だ。初めて見て聞いたときは、はしゃぎすぎて眠れなかった。だが、今はいい子守歌だった。
「敵襲だ」
ヒューはさっと立ち上がり、目を見開いた。あたりをざっと見る。空の皿が並んでいるテーブルがいくつかと、酒瓶を抱えた男が眠っているだけだ。背後は壁で、その後ろに気配はない。目の前には傭兵時代の仲間がにやついてた。
「そろそろ店じまいでね」
喉を鳴らすように笑う仲間をヒューは軽く睨む。冗談なのだろうか。そういうものにはどう返せばいいのか、傭兵の少女に教わったことを思い出した。懐かしみを覚えながら口を開いた。
「悪い冗談だ」
棒読みの台詞に、店の主人は困った顔を向ける。沈黙と微苦笑を合わせたような雰囲気だった。
「そうか、こういうの嫌いだったな」
「いや、そんなことはない。なかなかいい目覚めだったとは思う」
店主は肩を落とした。戦場では頼りになる奴だったが、どうも表情が読めない。夜の森でゴブリンを探すぐらい難しい。またヒューが唇を動かす。彼が敵か、と酔っぱらいを指差す。そして腰に差した剣の柄に手をかける。
「ヒュー、おまえじゃ洒落に成らん」
そうか、と肩を落とす。
「難しいな」
「まあ、誰にでも苦手はあるさ」
店主は自身の体躯とヒューを比べた。頭一つ分、店主は小さい。年は倍以上違うし、ヒューはまだ子供といっていい年だった。きっとさらに伸びる。そう、きっと奴はオレとは別の方で、さ。テーブルを店主は撫でた。すると情緒無くおかれた食器の山が目に入る。彼の行くべき道は数ヶ月も前ふと決まったのだ。
くつくつと店主は笑い、流れるように声を続ける。
「さあて、怖い嫁さんに怒鳴られる前に片付けるか。婿ってのはまったく肩身が狭いもんだ。お客をおまえの部屋に連れて行ってやってくれ、相部屋になるけど、いいよな」
野宿でもかまわない、屋根があるだけでありがたい。ヒューは頷くと酔っぱらいを担ぎ上げた。
「構わない。今日は世話になる」
いいってこった、店主はまた喉を鳴らした。
隣のベッドに寝かせた酔っぱらいは、鉄の船の夢を見ているようだ。
部屋は暗く、小さな蝋燭が灯っている。普段、酔いつぶれた客にたまに開放する部屋で、藁で作ったらしいベッドが三つ、無理矢理並べられている。ヒューはゆっくりと腰に差した剣を鞘ごと外し、抱えるようにしながら横のベッドに座る。目を瞑り、雨音に意識していく。いつものように奉ずる神に祈った。
そうしている間にも隣から呻きと恨みが吹き出てきた。その寝言は家庭の崩壊が見て取れた。恐ろしいことだった。少なくとも、ヒューにとっては。鉄の船とは無茶苦茶だが、真剣に訴える家長のことを信じられない娘と妻だなんて。やはり文明の子は恐ろしい。
「文明の地に平穏はない。あの優しい女達さえ、暑さに腐ってしまう」
父の警句が頭に浮かぶ。巨躯の戦士は集落に攻め入る大猿も、降り続ける雪も恐れなかったが、ただ、文明の腐敗を怖がっていた。
「けれど、ここは暖かいです。父さん。だれも凍りません」
ヒューは少しだけ和らいだ声を出した。父から譲られた剣を抱きしめる。鞘にしみついた油の臭いが暖かみもなく、ヒューを包んだ。これに魅入られてここまできたのだ。今更、北に帰る気も、どこかで堕落するつもりもない。だが、剣の冷たさは決して彼を後押ししなかった。ただ、剣を振り、剣の道を極める。彼の人生と信仰はそれだけだというのに。
ふと振動を感じて、ヒューはさっと剣を抜き放つ。冷たい刀身は蝋燭の炎を写し、かたかたと鳴っていた。刃にはぼんやりと薄い影が写る。見つめているヒューではない。鳥のように見えるうっすらとした影。二羽いるのだろうか、飛び回っているように見えた。一つは真っ黒い小鳥のような影だ、目は閉じたまま飛んでいる。そして、何気なくに剣から火の粉のように飛び出してくる。
ケケッ、と笑う鳥があたりを飛び回る。目を見開いてケケケ、と続けて笑う。片目がボタン、片目が人の目。爪から時折、黒い液体がぬるりと落ちて、白い煙を吐き出す。
「神よ、何が言いたいのです」
固い言葉で剣に語りかけるが、答えることはなかった。代わりに爆ぜるようにもう一羽の鳥がパッと飛び出した。銀で出来た繊細な細工の鳥だった。彼の周りを同じように飛び回る。
ヒューは体を固くして、剣を握りしめる。ただ彼の神は剣に生きることを説いていた。だのに、これはいったいどういうことなのだろうか。ここ最近、彼に訪れる天啓は決まってこうだった。ヴァルカンへ近寄る度により鮮明になった。
鳥たちを無視して、剣の切っ先を真っ直ぐ天に掲げる。神への問いかける、祈りの構え。
すると今日は彼らは動いた。二羽は剣へ集まり止まった。そして、木材が砕ける音が響き、鉄と鉄がぶつかり合う音と火花が目の前で散る。腕に大猿の棍棒を受けたときのような衝撃が走る。鉄板がヒューに逸れ、藁のベッドに突き刺さった。ばらばらと雨と木片が降り注いだ。暗い闇が辺りを包んだ。蝋燭の灯は消えてしまったようだ。
物音に気付いたようで、下からばたばたという音が寄ってくる。ヒューは雨に打たれるまま、戦友を待った。酔っぱらいは未だに寝言を絶やさない。ヒューでさえ、彼の妻と娘の気持ちが分かるような気がした。
-----------------------------------------------------------
PC:アウフタクト ヒュー ジェンソン
NPC:バトン ルイス
Stage: → ヴァルカン周辺
------------------------------------------------------------------------------
柔らかい小春日和の昼下がり。窓の外には緑が生い茂り、草花が太陽を歓迎するかのようにそよ風に揺られている。
そんな窓からの風景を、ジェンソンはベッドから上半身を起こしたなりの祖母と眺めていた。
「綺麗な空ね~」
「寒くないか?ばあちゃん」
開け放たれた窓からは、優しい風が吹いてくる。
「大丈夫よ……。ジェンソン。あなたは優しい子ね。そのままのあなたでいてね。……おじいさんのこと、頼んだわ。寂しがり屋な人だから、時々顔を見せてやって」
病床に伏したまま、シエル・ハイドフェルドは孫の手を握り、弱々しく微笑んだ。
「何言ってんだよ!ばあちゃん。あんな頑固ジジイの面倒なんてご免だぜ?ばあちゃん以外に面倒見れるヤツなんていねーって。だから、早く元気になってくれよ」
ジェンソンは熱くなってきた目頭を必死に堪え、その手を握り返した。
「そうね~……私しかいないわね。なんとか頑張らなくちゃね……。おじいさんがね。空を飛ぶ船を作ってくれるっていうの。私が空を飛びたいって言ったら張り切っちゃって。その船を見るまでは死ねないわね……」
「空飛ぶ船~!?すげぇな!じいちゃんなら絶対作ってくれるって!完成するのが楽しみだな」
それは、シエルを元気付かせるための言葉だった。だが、もしかすると自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。いつも優しく見守ってくれた祖母は、必ず元気になると……そう、信じていたかったのかもしれない。
空を飛ぶ船――翔空艇"シエル・ブル号"――を、その目で見ることなく、彼女は永遠の眠りについた……。その寝顔はとても安らかで、春の日差しのように温かなものだった。
++++++++++++++++++++
「ちょっと兄さんっ。あの馬鹿まだ帰ってこないの!?」
「あぁ……また小型艇でどっかを飛び回ってるよ。きっと」
そうなると、当分帰ってこないからなぁ~……。
苦笑しながら、副操縦士は読んでいる本に視線を戻した。
「はぁ??!また?何時だと思ってんのよ??」
「……日付があと2分45秒で変る時刻……」
彼は側に置いてある腕時計を確認し、ぼそっと質問に答えた。
「本船の整備を人任せにして遊びに行ってるなんて……絶対に許さない!!」
えんじ色のつなぎを着て怒りまくっている整備士を見て、女は怖い……と彼は素直に思った。
此処は、ヴァルカンから少し離れた森深くの湖畔である。彼らが乗船、操縦する"シエル・ブル号"はヴァルカン郊外にあるネルソン工房へ向かう途中、定期整備を行うため着陸していた。ついでなので今晩はここで一夜を過ごし、明日向かおうと、彼女が探している馬鹿の一声で決定した。
湖畔に着陸した船体は、今は闇夜に紛れて黒く静かに佇んでいる。明日の朝になれば陽に照らされ、銀色に鈍く光る船体を現してくれることだろう。
先程から食堂に隣接しているリビングでランタンを灯し、読書に耽っているのはバトン・ロズベルグ。26歳の副操縦士である。そのバトンの周りを怒りの表情でウロウロとしているのはルイス・ロズベルグ。整備士兼コックで、こちらは24歳。藤色の目をした2人の短い黒髪の兄と、深緋色のロングヘアーの妹は、それぞれの時間を過ごしながら、ボスの帰りを待っているのだった。
「……もうっ。私シャワー浴びてくる。帰ってきたら一発ぶん殴ってやる!」
「いってらっしゃい」
クスクスと笑いながら妹の後ろ姿をバトンは見送った。
何だかんだ文句を言っているが、心配をしているのである。バトンは彼女の不器用さが我が妹ながら可愛いなぁ~と、考えながら読書に意識を戻した。
翔空の盗賊団"ボヌールの翼"。世界中でその名を知らない者は……幾多数多にものぼる。要は自称と変わらない、彼らのボスが勝手に命名した名前である。
結成当時、"ボヌール"とはどんな意味があるのか聞いたところ、"幸せ"という意味で、どっかの異国の言葉だと教えられた。
楽しいことが大好きな彼らしいネーミングセンスだと、即納得をしたバトンだった。
そもそも、なぜ盗賊団なのか?それも聞いてみた。彼曰く。
『トレジャーハンターってかっこいいし、盗賊団っていう響きが好き。それにさー、せっかくじいちゃんにコレもらったんだ。世界中飛び回らなきゃ損だろ?』
だそうだ。もちろんコレとは空を飛ぶ船のことである。
そんな彼の思い付きとしか思えない行動に付き合っている自分たちも自分たちだが……。
幼い頃から一緒に居るからなのかそれは自然なことで、何より彼ら自身も楽しんでいた。
「それにしても……ちょっと遅すぎるな」
本から目を離し、再び腕時計を確認する。時刻は深夜12時半を過ぎたところだ。シャワーを浴びているルイスはいつもことなので気にしていない。
問題は小型艇に乗ったまま帰ってこない、一番の年長者であり奔放者、ルイスが言うところの馬鹿だ。
「ジェンソン。ルイスが出てくるまでに帰ってこないと後が怖いぞ……」
バトンはひとり溜息をつき、雨が降る窓の外を見たのだった。
一方、その頃。ジェンソン・ハイドフェルドは自分が馬鹿呼ばわりされていることを知る由もなく、森林周辺の上空を自由気ままに小型艇に乗り飛んでいた。
小型艇は自動操縦に設定されており、トロトロと灰色の空を進んでいる。
「雨止まないなー。なぁ、カマラード。そろそろ帰るか」
隣の助手席に座り、丸くなっている白い狼に声をかける。
狼はチラッとジェンソンを一瞥し、勝手にしろと言わんばかりに尻尾をタンタンと2回座席に軽く叩きつけ、再び丸まって寝に入った。
「冷たいなー。もう少し優しくしてよ」
と、狼を相手に本気で拗ねる。
カマラードはそんな主人を気にすることもなく、無視して寝ることに決めたようだ。
くるくるとした天パの金髪に深紅の目。右肩には天使の翼の刺青をしている。この刺青と同じデザインのロゴが"シエル・ブル号"と2機の小型艇の船体に描かれている。
子供っぽい表情が残る顔立ちは祖父のネルソン・ハイドフェルド譲りだろう。その祖父の血を受けつぎ、ジェンソンの父親もくるくるパーマである。今はヴァルカンで、お堅い公務員として働いている。
盗賊団を結成し、こうやって世界を飛び回ることに父親は猛反対した。「真っ当な人生を送れ。お前のじいさんの様になるな」それが父親の口癖だった。
小さい頃から祖父が大好きだったジェンソンは、当然反発し、あと2年で三十路になろうというこの年になっても、ほとんど口を利いていない。会えば喧嘩になるのが目に見えているので、帰る時は父親が働いている時間に帰るようにしている。いつか父親とも決着をつけなければ……ジェンソンも将来のことを考えていないわけではなかった。
「うーん。ヤバい俺も眠くなってた……ふあぁぁ~ぁ」
大きな欠伸をしたその時……。
ガコンッ!!
衝撃音とともに軽く船体が揺れた。
「なんだぁ??」
音がした右船体にある窓に顔を近づけ様子を見る。
「鳥でもぶつかったな~。……あぁ!?」
右船体の鉄板の一部が衝撃でネジがゆるみグラグラとして今にも落ちそうだ。
「って言うか、落ちたっっ!!」
鉄板は真っ逆さまに落下し夜の闇へ消えていく。落ちた先は肉眼では確認できなかった。
「やべ~っっ。逃げよ……」
自動操縦から手動操縦に切り変わった小型艇は猛スピードで、森林の方角へ飛んでいったのだった。
その勢いで、落下した隣の鉄板も同じようにどこかに落下したことに、ジェンソンは気付いていなかった。
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NPC:バトン ルイス
Stage: → ヴァルカン周辺
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柔らかい小春日和の昼下がり。窓の外には緑が生い茂り、草花が太陽を歓迎するかのようにそよ風に揺られている。
そんな窓からの風景を、ジェンソンはベッドから上半身を起こしたなりの祖母と眺めていた。
「綺麗な空ね~」
「寒くないか?ばあちゃん」
開け放たれた窓からは、優しい風が吹いてくる。
「大丈夫よ……。ジェンソン。あなたは優しい子ね。そのままのあなたでいてね。……おじいさんのこと、頼んだわ。寂しがり屋な人だから、時々顔を見せてやって」
病床に伏したまま、シエル・ハイドフェルドは孫の手を握り、弱々しく微笑んだ。
「何言ってんだよ!ばあちゃん。あんな頑固ジジイの面倒なんてご免だぜ?ばあちゃん以外に面倒見れるヤツなんていねーって。だから、早く元気になってくれよ」
ジェンソンは熱くなってきた目頭を必死に堪え、その手を握り返した。
「そうね~……私しかいないわね。なんとか頑張らなくちゃね……。おじいさんがね。空を飛ぶ船を作ってくれるっていうの。私が空を飛びたいって言ったら張り切っちゃって。その船を見るまでは死ねないわね……」
「空飛ぶ船~!?すげぇな!じいちゃんなら絶対作ってくれるって!完成するのが楽しみだな」
それは、シエルを元気付かせるための言葉だった。だが、もしかすると自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。いつも優しく見守ってくれた祖母は、必ず元気になると……そう、信じていたかったのかもしれない。
空を飛ぶ船――翔空艇"シエル・ブル号"――を、その目で見ることなく、彼女は永遠の眠りについた……。その寝顔はとても安らかで、春の日差しのように温かなものだった。
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「ちょっと兄さんっ。あの馬鹿まだ帰ってこないの!?」
「あぁ……また小型艇でどっかを飛び回ってるよ。きっと」
そうなると、当分帰ってこないからなぁ~……。
苦笑しながら、副操縦士は読んでいる本に視線を戻した。
「はぁ??!また?何時だと思ってんのよ??」
「……日付があと2分45秒で変る時刻……」
彼は側に置いてある腕時計を確認し、ぼそっと質問に答えた。
「本船の整備を人任せにして遊びに行ってるなんて……絶対に許さない!!」
えんじ色のつなぎを着て怒りまくっている整備士を見て、女は怖い……と彼は素直に思った。
此処は、ヴァルカンから少し離れた森深くの湖畔である。彼らが乗船、操縦する"シエル・ブル号"はヴァルカン郊外にあるネルソン工房へ向かう途中、定期整備を行うため着陸していた。ついでなので今晩はここで一夜を過ごし、明日向かおうと、彼女が探している馬鹿の一声で決定した。
湖畔に着陸した船体は、今は闇夜に紛れて黒く静かに佇んでいる。明日の朝になれば陽に照らされ、銀色に鈍く光る船体を現してくれることだろう。
先程から食堂に隣接しているリビングでランタンを灯し、読書に耽っているのはバトン・ロズベルグ。26歳の副操縦士である。そのバトンの周りを怒りの表情でウロウロとしているのはルイス・ロズベルグ。整備士兼コックで、こちらは24歳。藤色の目をした2人の短い黒髪の兄と、深緋色のロングヘアーの妹は、それぞれの時間を過ごしながら、ボスの帰りを待っているのだった。
「……もうっ。私シャワー浴びてくる。帰ってきたら一発ぶん殴ってやる!」
「いってらっしゃい」
クスクスと笑いながら妹の後ろ姿をバトンは見送った。
何だかんだ文句を言っているが、心配をしているのである。バトンは彼女の不器用さが我が妹ながら可愛いなぁ~と、考えながら読書に意識を戻した。
翔空の盗賊団"ボヌールの翼"。世界中でその名を知らない者は……幾多数多にものぼる。要は自称と変わらない、彼らのボスが勝手に命名した名前である。
結成当時、"ボヌール"とはどんな意味があるのか聞いたところ、"幸せ"という意味で、どっかの異国の言葉だと教えられた。
楽しいことが大好きな彼らしいネーミングセンスだと、即納得をしたバトンだった。
そもそも、なぜ盗賊団なのか?それも聞いてみた。彼曰く。
『トレジャーハンターってかっこいいし、盗賊団っていう響きが好き。それにさー、せっかくじいちゃんにコレもらったんだ。世界中飛び回らなきゃ損だろ?』
だそうだ。もちろんコレとは空を飛ぶ船のことである。
そんな彼の思い付きとしか思えない行動に付き合っている自分たちも自分たちだが……。
幼い頃から一緒に居るからなのかそれは自然なことで、何より彼ら自身も楽しんでいた。
「それにしても……ちょっと遅すぎるな」
本から目を離し、再び腕時計を確認する。時刻は深夜12時半を過ぎたところだ。シャワーを浴びているルイスはいつもことなので気にしていない。
問題は小型艇に乗ったまま帰ってこない、一番の年長者であり奔放者、ルイスが言うところの馬鹿だ。
「ジェンソン。ルイスが出てくるまでに帰ってこないと後が怖いぞ……」
バトンはひとり溜息をつき、雨が降る窓の外を見たのだった。
一方、その頃。ジェンソン・ハイドフェルドは自分が馬鹿呼ばわりされていることを知る由もなく、森林周辺の上空を自由気ままに小型艇に乗り飛んでいた。
小型艇は自動操縦に設定されており、トロトロと灰色の空を進んでいる。
「雨止まないなー。なぁ、カマラード。そろそろ帰るか」
隣の助手席に座り、丸くなっている白い狼に声をかける。
狼はチラッとジェンソンを一瞥し、勝手にしろと言わんばかりに尻尾をタンタンと2回座席に軽く叩きつけ、再び丸まって寝に入った。
「冷たいなー。もう少し優しくしてよ」
と、狼を相手に本気で拗ねる。
カマラードはそんな主人を気にすることもなく、無視して寝ることに決めたようだ。
くるくるとした天パの金髪に深紅の目。右肩には天使の翼の刺青をしている。この刺青と同じデザインのロゴが"シエル・ブル号"と2機の小型艇の船体に描かれている。
子供っぽい表情が残る顔立ちは祖父のネルソン・ハイドフェルド譲りだろう。その祖父の血を受けつぎ、ジェンソンの父親もくるくるパーマである。今はヴァルカンで、お堅い公務員として働いている。
盗賊団を結成し、こうやって世界を飛び回ることに父親は猛反対した。「真っ当な人生を送れ。お前のじいさんの様になるな」それが父親の口癖だった。
小さい頃から祖父が大好きだったジェンソンは、当然反発し、あと2年で三十路になろうというこの年になっても、ほとんど口を利いていない。会えば喧嘩になるのが目に見えているので、帰る時は父親が働いている時間に帰るようにしている。いつか父親とも決着をつけなければ……ジェンソンも将来のことを考えていないわけではなかった。
「うーん。ヤバい俺も眠くなってた……ふあぁぁ~ぁ」
大きな欠伸をしたその時……。
ガコンッ!!
衝撃音とともに軽く船体が揺れた。
「なんだぁ??」
音がした右船体にある窓に顔を近づけ様子を見る。
「鳥でもぶつかったな~。……あぁ!?」
右船体の鉄板の一部が衝撃でネジがゆるみグラグラとして今にも落ちそうだ。
「って言うか、落ちたっっ!!」
鉄板は真っ逆さまに落下し夜の闇へ消えていく。落ちた先は肉眼では確認できなかった。
「やべ~っっ。逃げよ……」
自動操縦から手動操縦に切り変わった小型艇は猛スピードで、森林の方角へ飛んでいったのだった。
その勢いで、落下した隣の鉄板も同じようにどこかに落下したことに、ジェンソンは気付いていなかった。
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PC:アウフタクト ヒュー ジェンソン
Stage:ヴァルカン周辺
------------------------------------------------------------------------------
真夜中に一度、雷鳴で目が覚めた気がする。
が、意識はすぐに夢と現の合間から、ずるずると水面下へ沈みこんだ。次に目覚めたとはっきり意識したときには既に遅い朝だった。
顔を洗い、適当に用意をして、荷物を持って階下へ降り、無人の受付に鍵を返す。従業員は午前のうちなら客がいつ帰ろうが構わないだろうし、午後になれば追加料金を要求するだけだろう。無関心はいいことだ。面倒でない。
路地から通りへ出ると、輝くばかりの日光に撃ち抜かれた。白く輝く路面や家々の壁に目を細め、ふらふらと歩き出す。アウフタクトはこの後の目的地を特に考えていなかったが、この町で少し商売するのもいいかも知れないと思った。
学院では教養科目扱いとされている幾つかの術は、一般人相手には十分に“魔法”として通用する。特に簡単な魔除けや灯の印を記した札はよく売れる――生徒が勝手にこんな軽率な商売をすれば校則に法って何かしらの罰を受けるだろうが、放校された身には関係ない。
と、そんなことを考え始めた矢先に、町並みに不自然な箇所があることに気づいた。
商店街なのか繁華街なのか、それともそのどちらからも少し離れた箇所に店が固まっているに過ぎないのか、とにかく数件の商店や普通の家屋の並びのうち一件の屋根がずたずたに破れ、内部が露出している。豪快に折れた木製の梁の断面は昨夜の雨を十分に吸って、黒々とした茶色に変色している。
いちおう寝台はあるので生活空間として使われていたのだろうが、その機能は破壊と水で絶望的だ。それ以上に、壮観だ。真夜中の雷鳴は現実のものだったのだろうか。
建物の周囲には人が集まっているが、それもそろそろ解散し始めた、という様子だった。
「……ああ、昨日の食堂か」
思い出して、つい呟く。一人旅のうちに独り言が増えた。
体格のいい店主と流れ者風の少年が、破片――というより瓦礫を撤去している。彼らが軽い悪態と共に地面に下ろしたのは巨大な金属の板だった。
「すげえな、あれが落ちてきたんだってよ」と誰かが囁くのが聞こえた。
アウフタクトは改めて金属板を注視した。雷の物理的存在が証明されたのはこれが初めてではあるまいか。違ェよ、どう見てもただの落下物だ。
金属板は何かの目的のために加工されているが、それ一つで全体というわけではなさそうだった。これだけではただの金属板だ。と、アウフタクトは、時折飽きて去っていき、時折新しく足を止める見物人の一人として眺めながら考えた。
知り合い同士でいるものは店の被害や落下物についての感想や推測を言い合っているが、間違いなくそれらは不毛なことだった。無責任な推測だけで、空から急に金属板が降ってくる原因を言い当てられたら、それはそれで正気ではない。
(鉄の鳥が)
鉄の鳥? 急に脳裏を言葉がよぎった。鳥。思わず魔除けともう一本の腕輪に目を落としてから、空を見上げる。鉄の鳥? ああ、そうだ。昨日、聞いたんだ。酔っ払いの妄言。
鉄の翼で鳥は飛べない。鳥を真似して翼を作った人間のうちには鉄を材料に使う者もいたが、彼らの大凡は落下した。
鉄の鳥なんて。いや、真当な技術のものとは限らない。この町に、こういった実験だか悪戯だかをする魔術師がいるのだとしたら、商売はやめておいて、早く出発するべきかも知れない。
ひっそりと人々に溶け込む在野の魔術師は、縄張り意識が強い。閉じた技術を扱う故に、己の手管を暴かれるのを嫌うからだ。知らずに下手な行動を起こす余所者に対し、即座に強硬手段に出る者も稀にいる。それで酷い目にあったこともある。
「あー、こりゃひどいなぁ」
横手で能天気な声が聞こえたので、思わず視線だけを向ける。やたらと背の高い男が、感心したように撤去作業を眺めている。革のベスト、短い金髪、肩の刺青に、他にもいろいろ目に付くところはあるのだが、一目で堅気な生き方はなさっていないとわかる外見。
アウフタクトはさりげなく一歩、距離を開けた。が、その動きに目ざとく気づいたらしく、男は「ちょっとちょっと」と呼びかけてきた。しまった、失敗した。影の薄さには自信があったのに。
「な、なんですか?」
「これ、何があったの?」
「えーと……」
問われても、把握しているわけではない。他の、もっと前からここにいる野次馬に聞いた方がまだわかるだろうが、もちろん誰も助けてくれない。
「降ってきた、んじゃないでしょうか」
「やっぱり?」
男はそれでアウフタクトからは興味を失ったのか、被害状況を見ながらぶつぶつと何かを呟いている――「取りに行ったら怒られるよなぁ」というような言葉が聞こえたので、アウフタクトは全精神力で持って、今度こそ気配を消して無関係を維持した。関係者様ですか、そうですか。
同業よりも厄介そうだ。この町に長居するのはやめておこう。商売に直接支障はなくても、得体の知れないことは流れの魔術師のせい、ということになりかねない。昨夜、店内で鳥を使ったな。誰にも見られていないといいのだが。
「あれ、何だと思う?」
また話しかけられた。「さぁ」と答える。
「鉄の板ですね」
「鉄の板だな」
思うところがあるのかないのか、男は納得した様子で頷いた。
「ここ来る途中にな、市門を通ろうと思ったんだけど」と彼は言う。何をしたいのかさっぱりわからない。単に誰かを捕まえて話をしたいだけかも知れないし、ここで店の様子を見続ける口実を作りたいのかも知れなかった。
「同じような鉄板が街道沿いの木に落ちて、その木が倒れて通行止めだってさ」
「……木なら、すぐどけられるんじゃないですか?」
「いや、それが根元から引っくり返ったってんで、路面が盛り上がってすごかったぜ」
暫くすると警邏隊がやってきて、参考物と称して金属板を引き取っていった。
店主はその対応に何か納得いかないような顔をしていたが、結局は「置いていかれても困る」と引き渡し、片付けの作業に戻った。一階の、無傷な定食屋の扉に貼られた“臨時休業”の看板が物悲しい。
隣の男はリヤカーを押して去って行く警邏隊を眺めていたが、「やべーな」と呟いて、彼らを追って姿を消した。
アウフタクトも、そろそろここから動いて、とりあえずどこかで朝食にしようと考えた。
+++++++++++++++++++++++
Stage:ヴァルカン周辺
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真夜中に一度、雷鳴で目が覚めた気がする。
が、意識はすぐに夢と現の合間から、ずるずると水面下へ沈みこんだ。次に目覚めたとはっきり意識したときには既に遅い朝だった。
顔を洗い、適当に用意をして、荷物を持って階下へ降り、無人の受付に鍵を返す。従業員は午前のうちなら客がいつ帰ろうが構わないだろうし、午後になれば追加料金を要求するだけだろう。無関心はいいことだ。面倒でない。
路地から通りへ出ると、輝くばかりの日光に撃ち抜かれた。白く輝く路面や家々の壁に目を細め、ふらふらと歩き出す。アウフタクトはこの後の目的地を特に考えていなかったが、この町で少し商売するのもいいかも知れないと思った。
学院では教養科目扱いとされている幾つかの術は、一般人相手には十分に“魔法”として通用する。特に簡単な魔除けや灯の印を記した札はよく売れる――生徒が勝手にこんな軽率な商売をすれば校則に法って何かしらの罰を受けるだろうが、放校された身には関係ない。
と、そんなことを考え始めた矢先に、町並みに不自然な箇所があることに気づいた。
商店街なのか繁華街なのか、それともそのどちらからも少し離れた箇所に店が固まっているに過ぎないのか、とにかく数件の商店や普通の家屋の並びのうち一件の屋根がずたずたに破れ、内部が露出している。豪快に折れた木製の梁の断面は昨夜の雨を十分に吸って、黒々とした茶色に変色している。
いちおう寝台はあるので生活空間として使われていたのだろうが、その機能は破壊と水で絶望的だ。それ以上に、壮観だ。真夜中の雷鳴は現実のものだったのだろうか。
建物の周囲には人が集まっているが、それもそろそろ解散し始めた、という様子だった。
「……ああ、昨日の食堂か」
思い出して、つい呟く。一人旅のうちに独り言が増えた。
体格のいい店主と流れ者風の少年が、破片――というより瓦礫を撤去している。彼らが軽い悪態と共に地面に下ろしたのは巨大な金属の板だった。
「すげえな、あれが落ちてきたんだってよ」と誰かが囁くのが聞こえた。
アウフタクトは改めて金属板を注視した。雷の物理的存在が証明されたのはこれが初めてではあるまいか。違ェよ、どう見てもただの落下物だ。
金属板は何かの目的のために加工されているが、それ一つで全体というわけではなさそうだった。これだけではただの金属板だ。と、アウフタクトは、時折飽きて去っていき、時折新しく足を止める見物人の一人として眺めながら考えた。
知り合い同士でいるものは店の被害や落下物についての感想や推測を言い合っているが、間違いなくそれらは不毛なことだった。無責任な推測だけで、空から急に金属板が降ってくる原因を言い当てられたら、それはそれで正気ではない。
(鉄の鳥が)
鉄の鳥? 急に脳裏を言葉がよぎった。鳥。思わず魔除けともう一本の腕輪に目を落としてから、空を見上げる。鉄の鳥? ああ、そうだ。昨日、聞いたんだ。酔っ払いの妄言。
鉄の翼で鳥は飛べない。鳥を真似して翼を作った人間のうちには鉄を材料に使う者もいたが、彼らの大凡は落下した。
鉄の鳥なんて。いや、真当な技術のものとは限らない。この町に、こういった実験だか悪戯だかをする魔術師がいるのだとしたら、商売はやめておいて、早く出発するべきかも知れない。
ひっそりと人々に溶け込む在野の魔術師は、縄張り意識が強い。閉じた技術を扱う故に、己の手管を暴かれるのを嫌うからだ。知らずに下手な行動を起こす余所者に対し、即座に強硬手段に出る者も稀にいる。それで酷い目にあったこともある。
「あー、こりゃひどいなぁ」
横手で能天気な声が聞こえたので、思わず視線だけを向ける。やたらと背の高い男が、感心したように撤去作業を眺めている。革のベスト、短い金髪、肩の刺青に、他にもいろいろ目に付くところはあるのだが、一目で堅気な生き方はなさっていないとわかる外見。
アウフタクトはさりげなく一歩、距離を開けた。が、その動きに目ざとく気づいたらしく、男は「ちょっとちょっと」と呼びかけてきた。しまった、失敗した。影の薄さには自信があったのに。
「な、なんですか?」
「これ、何があったの?」
「えーと……」
問われても、把握しているわけではない。他の、もっと前からここにいる野次馬に聞いた方がまだわかるだろうが、もちろん誰も助けてくれない。
「降ってきた、んじゃないでしょうか」
「やっぱり?」
男はそれでアウフタクトからは興味を失ったのか、被害状況を見ながらぶつぶつと何かを呟いている――「取りに行ったら怒られるよなぁ」というような言葉が聞こえたので、アウフタクトは全精神力で持って、今度こそ気配を消して無関係を維持した。関係者様ですか、そうですか。
同業よりも厄介そうだ。この町に長居するのはやめておこう。商売に直接支障はなくても、得体の知れないことは流れの魔術師のせい、ということになりかねない。昨夜、店内で鳥を使ったな。誰にも見られていないといいのだが。
「あれ、何だと思う?」
また話しかけられた。「さぁ」と答える。
「鉄の板ですね」
「鉄の板だな」
思うところがあるのかないのか、男は納得した様子で頷いた。
「ここ来る途中にな、市門を通ろうと思ったんだけど」と彼は言う。何をしたいのかさっぱりわからない。単に誰かを捕まえて話をしたいだけかも知れないし、ここで店の様子を見続ける口実を作りたいのかも知れなかった。
「同じような鉄板が街道沿いの木に落ちて、その木が倒れて通行止めだってさ」
「……木なら、すぐどけられるんじゃないですか?」
「いや、それが根元から引っくり返ったってんで、路面が盛り上がってすごかったぜ」
暫くすると警邏隊がやってきて、参考物と称して金属板を引き取っていった。
店主はその対応に何か納得いかないような顔をしていたが、結局は「置いていかれても困る」と引き渡し、片付けの作業に戻った。一階の、無傷な定食屋の扉に貼られた“臨時休業”の看板が物悲しい。
隣の男はリヤカーを押して去って行く警邏隊を眺めていたが、「やべーな」と呟いて、彼らを追って姿を消した。
アウフタクトも、そろそろここから動いて、とりあえずどこかで朝食にしようと考えた。
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