PC:アウフタクト ヒュー ジェンソン
Stage: → ヴァルカン周辺
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母が喜ぶのを見たのは、物心ついてから初めてだった。
ロクな成績も取れず最後の賭けにも失敗して学院を退学になり姿を晦まそうとした俺の元に現れた彼女は、記憶にあるよりもずっと美しかった。確かに年老いて容貌は衰えていた。しかし俺が子供の頃の、明らかに病んでいた神経の片鱗も窺わせず、頬を薔薇色に火照らせ、土色の眸を細めて、鈴のようにころころと笑ってみせる姿は、やはり美しいのだった。
「悪魔を」彼女は言う。聞いたことのない優しい声だった。「喚んだんですって。すごいわ、素質がなければできないことよ」
俺は曖昧に笑って後ずさった。召喚自体は簡単なのだ。公にこそされないが、試みる学生は五年に一度は現れたし、成功事例もその何分の一かはあった。悪魔というものはどうやら彼ら自身が言っているほど人間を嫌ってはいないらしく、喚び出すという段階までなら、案外、簡単だ。
そういったしどろもどろの弁解にも、彼女は態度を変えなかった。まるで子供にするように、俺の髪をぐしゃぐしゃに撫でながら、ほころぶ笑顔は花ほどにも可憐だった。
「でも、あなたは無事でここにいるじゃない。悪魔を召喚して支配や交渉に失敗した魔術師は、気が狂うか死んでしまうか、或いはもっとおぞましい目に遭うものなのよ」
「運がよかったのでしょう、ある程度は」俺は逃れながら言った。母は聞く耳を持たなかった。
「それだけではないに決まっているわ」いっそ身の危険を感じるほど陽気に彼女は腕を広げ、怯む俺を抱きしめた。ぞっとするほど強い力に俺はようやく、目の前の女が間違いなく俺の知っているあの母だと実感した。
「どうしてこんな急に」「よかった。あなたはちゃんと、わたしとあのひとの血と力を継いでいたのね」母は当たり前のように俺の言葉を遮った。「わたしは不義を疑われ、あなたは無能とあざ笑われてきたけれど。形はどうあれ、どちらも嘘だとあなたはちゃんと証明できるようになったのだわ」
「……あなたは」嫌な予感がした。母と接するときの、慣れ親しんだ感覚。狂気のにおい。「すごいわ。お母さんうれしいわ。ずっと信じていたもの、あなたなら、できるって」
その言葉で俺は確信した。
母は俺ではなく誇りを取り戻しに現れたのだと。
憫れな女だ、と思った。母は古い魔法使いの王の末裔の血脈であると自称していたが、学院で歴史を学べば嘘か妄想の類と知れた。しかし母にはもうそれしかないのだ。そしてそれを奪った実の息子に、さあ宝を返却せよと迫りに来たに違いなかった。本人にはそのつもりもなく、債務者が今まで以上の敗残者に落ちているとも気づかずに。
憫れな女だ――
もう一度だけ、半ば呼びかけるように心のうちで呟きかけ、愕然とした。
前の前で、無邪気な喜びの言葉を重ね続ける老いた女。
己の母たる彼女の名を、何故、俺は知らない?
★ ・ ★ ・ ★ ・ ★
「鉄の船」
アウフタクトは無感動に問い返し、肉叉を皿に置いた。
小さな食堂は、所謂“安くて美味い”という店で、勤め帰りの地元人から、町に慣れた時期の滞在人まで、客層は広い。薄汚れた旅装束のアウフタクトも抵抗もなく受け入れられた。
奥のテーブルにいる、冒険者か傭兵かという若者だけが、さすがに少し浮いて見えた。
「そう、空を飛ぶ鉄の船だよ」
向かいの席で、赤ら顔の男が言った。彼の前には東方酒の透明な瓶が置かれている。空き皿を下げに現れた店員につまみを頼み、どうやらまだ居座るつもりのようだ。
「四日前の夜、隣町から帰ってくる途中の峠で見たのさ。頭の上を横切っていったんだ。あのでかさ、間違いなく船だったね。そうでなけりゃあ竜だ。だが、竜だとしたら、こんな町、もうとっくになくなっちまってるだろ? だからあれは船だ。城かも知れないが、城は動かん」
「……はぁ」
「嘘だと思ってんな? わかってるよ、カカァも娘も、おれの言うことなんざ信じねえんだから。鳥にからかわれたんだろとか馬鹿にしやがる――まあ、飲めよ」
「結構です」
男が酒瓶を持ち上げる。アウフタクトは、まだ半分は水が残っている自分のグラスを遠ざけて守った。相席には当たり外れが大きい。食事刻を避ければよかったのだろうが、歩き詰めで、空腹だったので。
男の言葉は、もう愚痴に変わろうとしていた。「いっそのことあれが本当に竜なら、今頃は大騒ぎだっただろうによ。カカァだってもうおれを疑わないって泣いて謝っただろうに」
「だといいですね」
アウフタクトは視線だけで周囲を見渡し、助けを求めてみた。後ろの席へ料理を運んできた店員が目を逸らす。酔っ払いに気づかれないようこっそりと指差してみると、店員は困ったような笑顔で首を横に振った。ああ、なるほど。いつものことなのか。
「鉄の船なんか呪われちまえばいいんだ。奴のせいでおれはまた嘘つきに――」
「――コロラトゥーラ」
小さく囁く。魔法の鳥はいつも通りに声に応え、姿を現した。店の片隅、天井に近く固定された小さな棚。繁盛祈願の札の横に、一羽の野駒。あの女とおなじ青の目は既に飼い主の意図を了解しているようだった。店内の賑やかさにかき消されるほどかすかな声で、歌うように、鳴く。
「お願いします」
鳥が、ふわりと羽ばたいた。アウフタクトがその翼を眺めているうちに、相席の男の頭が揺れた。喉の奥で潰れるような呻き声を残し、ぐしゃりとテーブルに倒れ伏す。客の一人がこちらを一瞥し、「また潰れちゃったよ」と苦笑した。店員が寄ってきてアウフタクトの皿を下げ、ごめんなさいねと小さく謝った。「いつも潰れるまで飲むの。悪い人ではないのだけど……」
そんな客と相席させないで欲しい。が、ほとんど満席の時に現れた常連の男が、少なくとも無害そうな旅人か或いは奥の戦士風の旅人のどちらとおなじテーブルを選ぶかといえば、恐らく前者だろうが。
「美味しかったです。お勘定を」言いながら見上げれば、鳥は既に姿を消していた。
店を出るとすっかり夜だった。
土のにおいのする湿っぽい風とすれ違い、思わず立ち止まって空を見上げた。真珠のような月が、ひっそりと町を見下ろしている。星は見えず、空全体が灰色に煙っている。雨の気配。深夜には降り始めるだろうか。雨自体は特に好きでも嫌いでもないが、目下の問題は、今夜の寝床がまだ決まっていないということだ。
三日かけて、街道から外れた山道を越えてきた。せっかく町に着いたのだから、路地裏で雨に打たれながら眠るのは勘弁願いたい。
月が翳る。アウフタクトは興味を失い、歩き出す。三十五歩の距離に小さな宿泊所の看板を見つけたが、残念なことに、満室を示す札がかかっていた。肩掛け鞄の紐を直しながら、通りの先へ。
五軒目でようやく、明らかに旅人用ではない店に開き部屋を見つけた。受付の顔が見えないカウンターの上に銅貨を出し、「一人?」という胡乱げな声に「他に寝る場所がないんで」と応える。
「紹介料くれりゃ、いいコ呼んでやるよ」
「あー……結構です。今夜のところは」
受付は「そうかい」と無関心に(しかし、少し残念そうに)鍵を寄越してきた。金属プレートで部屋番号を確認して、灯りの一つもない階段をのぼる。途中で一度躓きかけ、更には、存在しない段に足をかけて転びかけた。防音性など期待できそうにない建物なのに、物音一つ聞こえない。立て付けの悪い扉の隙間から漏れる光もなく、どうやら他には客がないようだ。もう少し遅い時刻になればわからないが、どうせそれまで起きていられないだろう。
自分の部屋の扉を見つけ、鍵を回して中へ入る。扉を閉め、施錠し、念のためにと上から魔術の錠をかけた。
扉の裏で、窓から差し込む弱い光が白く反射した。鏡だろうか。
灯りが必要だ。
「…… 《たとえここが黒墨の領域であろうと、一切の光を拒む則はない》 」
唱え、手を掲げる。ぼんやりと部屋の中空が光を帯びる。照らし出された内装は極めて平凡だった。より粗末なのは値段のせいもあるだろう。が、眠れればいいという最低条件は満たしているので構わない。安全性については、あの鍵を盗賊の類が破るのは無理だ。扉ごと壊されたらもはや笑い話として片付ける。
扉を振り返れば、貼り付けられているのはやはり、錆びた鏡だった。
うすらぼやけた灯りを逆光に、見飽きた男が映っている。明るかろうと暗かろうと重く見える真鍮色の髪。旅で少しそげた頬。金色の眸が、つまらなそうに眠たそうにこちらを見据えている。あと二年で三十歳になる。ひどい有様だ、と思ったが、何がひどいのかは思いつけなかった。普段と違うのはせいぜい三日分の無精髭と、町の外で払いきれなかった旅塵くらいだ。
「……」
静かすぎて、声を出すのが憚られた。自分でも内容の予測がつかない独白は、無声音のため息になって室内に散った。
ぱた、と外から音が聞こえた。そして数秒の間に世界は雨音に覆われた。
間違いなく、今夜は静かに寝られるだろう。屋根さえあれば、雨による擬似的な静寂は心地よいものだ。
考えた途端、鏡のことはどうでもよくなった。
窓際に寄って、毛玉の浮いたカーテンを引く。
眠い。
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Stage: → ヴァルカン周辺
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母が喜ぶのを見たのは、物心ついてから初めてだった。
ロクな成績も取れず最後の賭けにも失敗して学院を退学になり姿を晦まそうとした俺の元に現れた彼女は、記憶にあるよりもずっと美しかった。確かに年老いて容貌は衰えていた。しかし俺が子供の頃の、明らかに病んでいた神経の片鱗も窺わせず、頬を薔薇色に火照らせ、土色の眸を細めて、鈴のようにころころと笑ってみせる姿は、やはり美しいのだった。
「悪魔を」彼女は言う。聞いたことのない優しい声だった。「喚んだんですって。すごいわ、素質がなければできないことよ」
俺は曖昧に笑って後ずさった。召喚自体は簡単なのだ。公にこそされないが、試みる学生は五年に一度は現れたし、成功事例もその何分の一かはあった。悪魔というものはどうやら彼ら自身が言っているほど人間を嫌ってはいないらしく、喚び出すという段階までなら、案外、簡単だ。
そういったしどろもどろの弁解にも、彼女は態度を変えなかった。まるで子供にするように、俺の髪をぐしゃぐしゃに撫でながら、ほころぶ笑顔は花ほどにも可憐だった。
「でも、あなたは無事でここにいるじゃない。悪魔を召喚して支配や交渉に失敗した魔術師は、気が狂うか死んでしまうか、或いはもっとおぞましい目に遭うものなのよ」
「運がよかったのでしょう、ある程度は」俺は逃れながら言った。母は聞く耳を持たなかった。
「それだけではないに決まっているわ」いっそ身の危険を感じるほど陽気に彼女は腕を広げ、怯む俺を抱きしめた。ぞっとするほど強い力に俺はようやく、目の前の女が間違いなく俺の知っているあの母だと実感した。
「どうしてこんな急に」「よかった。あなたはちゃんと、わたしとあのひとの血と力を継いでいたのね」母は当たり前のように俺の言葉を遮った。「わたしは不義を疑われ、あなたは無能とあざ笑われてきたけれど。形はどうあれ、どちらも嘘だとあなたはちゃんと証明できるようになったのだわ」
「……あなたは」嫌な予感がした。母と接するときの、慣れ親しんだ感覚。狂気のにおい。「すごいわ。お母さんうれしいわ。ずっと信じていたもの、あなたなら、できるって」
その言葉で俺は確信した。
母は俺ではなく誇りを取り戻しに現れたのだと。
憫れな女だ、と思った。母は古い魔法使いの王の末裔の血脈であると自称していたが、学院で歴史を学べば嘘か妄想の類と知れた。しかし母にはもうそれしかないのだ。そしてそれを奪った実の息子に、さあ宝を返却せよと迫りに来たに違いなかった。本人にはそのつもりもなく、債務者が今まで以上の敗残者に落ちているとも気づかずに。
憫れな女だ――
もう一度だけ、半ば呼びかけるように心のうちで呟きかけ、愕然とした。
前の前で、無邪気な喜びの言葉を重ね続ける老いた女。
己の母たる彼女の名を、何故、俺は知らない?
★ ・ ★ ・ ★ ・ ★
「鉄の船」
アウフタクトは無感動に問い返し、肉叉を皿に置いた。
小さな食堂は、所謂“安くて美味い”という店で、勤め帰りの地元人から、町に慣れた時期の滞在人まで、客層は広い。薄汚れた旅装束のアウフタクトも抵抗もなく受け入れられた。
奥のテーブルにいる、冒険者か傭兵かという若者だけが、さすがに少し浮いて見えた。
「そう、空を飛ぶ鉄の船だよ」
向かいの席で、赤ら顔の男が言った。彼の前には東方酒の透明な瓶が置かれている。空き皿を下げに現れた店員につまみを頼み、どうやらまだ居座るつもりのようだ。
「四日前の夜、隣町から帰ってくる途中の峠で見たのさ。頭の上を横切っていったんだ。あのでかさ、間違いなく船だったね。そうでなけりゃあ竜だ。だが、竜だとしたら、こんな町、もうとっくになくなっちまってるだろ? だからあれは船だ。城かも知れないが、城は動かん」
「……はぁ」
「嘘だと思ってんな? わかってるよ、カカァも娘も、おれの言うことなんざ信じねえんだから。鳥にからかわれたんだろとか馬鹿にしやがる――まあ、飲めよ」
「結構です」
男が酒瓶を持ち上げる。アウフタクトは、まだ半分は水が残っている自分のグラスを遠ざけて守った。相席には当たり外れが大きい。食事刻を避ければよかったのだろうが、歩き詰めで、空腹だったので。
男の言葉は、もう愚痴に変わろうとしていた。「いっそのことあれが本当に竜なら、今頃は大騒ぎだっただろうによ。カカァだってもうおれを疑わないって泣いて謝っただろうに」
「だといいですね」
アウフタクトは視線だけで周囲を見渡し、助けを求めてみた。後ろの席へ料理を運んできた店員が目を逸らす。酔っ払いに気づかれないようこっそりと指差してみると、店員は困ったような笑顔で首を横に振った。ああ、なるほど。いつものことなのか。
「鉄の船なんか呪われちまえばいいんだ。奴のせいでおれはまた嘘つきに――」
「――コロラトゥーラ」
小さく囁く。魔法の鳥はいつも通りに声に応え、姿を現した。店の片隅、天井に近く固定された小さな棚。繁盛祈願の札の横に、一羽の野駒。あの女とおなじ青の目は既に飼い主の意図を了解しているようだった。店内の賑やかさにかき消されるほどかすかな声で、歌うように、鳴く。
「お願いします」
鳥が、ふわりと羽ばたいた。アウフタクトがその翼を眺めているうちに、相席の男の頭が揺れた。喉の奥で潰れるような呻き声を残し、ぐしゃりとテーブルに倒れ伏す。客の一人がこちらを一瞥し、「また潰れちゃったよ」と苦笑した。店員が寄ってきてアウフタクトの皿を下げ、ごめんなさいねと小さく謝った。「いつも潰れるまで飲むの。悪い人ではないのだけど……」
そんな客と相席させないで欲しい。が、ほとんど満席の時に現れた常連の男が、少なくとも無害そうな旅人か或いは奥の戦士風の旅人のどちらとおなじテーブルを選ぶかといえば、恐らく前者だろうが。
「美味しかったです。お勘定を」言いながら見上げれば、鳥は既に姿を消していた。
店を出るとすっかり夜だった。
土のにおいのする湿っぽい風とすれ違い、思わず立ち止まって空を見上げた。真珠のような月が、ひっそりと町を見下ろしている。星は見えず、空全体が灰色に煙っている。雨の気配。深夜には降り始めるだろうか。雨自体は特に好きでも嫌いでもないが、目下の問題は、今夜の寝床がまだ決まっていないということだ。
三日かけて、街道から外れた山道を越えてきた。せっかく町に着いたのだから、路地裏で雨に打たれながら眠るのは勘弁願いたい。
月が翳る。アウフタクトは興味を失い、歩き出す。三十五歩の距離に小さな宿泊所の看板を見つけたが、残念なことに、満室を示す札がかかっていた。肩掛け鞄の紐を直しながら、通りの先へ。
五軒目でようやく、明らかに旅人用ではない店に開き部屋を見つけた。受付の顔が見えないカウンターの上に銅貨を出し、「一人?」という胡乱げな声に「他に寝る場所がないんで」と応える。
「紹介料くれりゃ、いいコ呼んでやるよ」
「あー……結構です。今夜のところは」
受付は「そうかい」と無関心に(しかし、少し残念そうに)鍵を寄越してきた。金属プレートで部屋番号を確認して、灯りの一つもない階段をのぼる。途中で一度躓きかけ、更には、存在しない段に足をかけて転びかけた。防音性など期待できそうにない建物なのに、物音一つ聞こえない。立て付けの悪い扉の隙間から漏れる光もなく、どうやら他には客がないようだ。もう少し遅い時刻になればわからないが、どうせそれまで起きていられないだろう。
自分の部屋の扉を見つけ、鍵を回して中へ入る。扉を閉め、施錠し、念のためにと上から魔術の錠をかけた。
扉の裏で、窓から差し込む弱い光が白く反射した。鏡だろうか。
灯りが必要だ。
「…… 《たとえここが黒墨の領域であろうと、一切の光を拒む則はない》 」
唱え、手を掲げる。ぼんやりと部屋の中空が光を帯びる。照らし出された内装は極めて平凡だった。より粗末なのは値段のせいもあるだろう。が、眠れればいいという最低条件は満たしているので構わない。安全性については、あの鍵を盗賊の類が破るのは無理だ。扉ごと壊されたらもはや笑い話として片付ける。
扉を振り返れば、貼り付けられているのはやはり、錆びた鏡だった。
うすらぼやけた灯りを逆光に、見飽きた男が映っている。明るかろうと暗かろうと重く見える真鍮色の髪。旅で少しそげた頬。金色の眸が、つまらなそうに眠たそうにこちらを見据えている。あと二年で三十歳になる。ひどい有様だ、と思ったが、何がひどいのかは思いつけなかった。普段と違うのはせいぜい三日分の無精髭と、町の外で払いきれなかった旅塵くらいだ。
「……」
静かすぎて、声を出すのが憚られた。自分でも内容の予測がつかない独白は、無声音のため息になって室内に散った。
ぱた、と外から音が聞こえた。そして数秒の間に世界は雨音に覆われた。
間違いなく、今夜は静かに寝られるだろう。屋根さえあれば、雨による擬似的な静寂は心地よいものだ。
考えた途端、鏡のことはどうでもよくなった。
窓際に寄って、毛玉の浮いたカーテンを引く。
眠い。
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