登場:ヒルデ
場所:ガルドゼンド国内
------------------------------------------------------------------------
岩場の道を、深い針葉樹の森を右に見ながら引き返していく。「あの森で冬を
越せる人間はいない」というクオドの言葉通り、鬱蒼とした森の中から生き物の
気配は感じられず、まるで光すらをも呑み込む深い闇が蟠っているかのような印
象を周囲に与えている。一瞬、自分がまるでここではないどこかにいるような錯
覚を覚えた。そう、あれは――思考を巡らせ、最初にこの道を辿ったときからず
っと感じている既視感の奥にあるものを確かめる。「ははっ」小さな笑いが零れ
た。生き物を拒む針葉樹の森、荒涼とした風景、そして厳しい冬が続く気候。な
んの事はない、自らも気付かぬうちに連想していたのは、故郷の姿だった。数を
減じ、押し込められた一族が再起を願いながら息を潜めて住まう場所。
「戦乙女ともあろうものが……郷愁の念に囚われるとはな」
自嘲めいた呟き。言葉を返すように、栗毛の馬がぶるるると喉を鳴らす。首筋
を撫でながら「なんでもない、気にするな」と語りかけた。納得したのかそもそ
も気にしてもいないのか、何も言わず愛馬が視線を上げる。気がつけば、なだら
かな坂道を越えていた。釣られて顔を上げると古い石に守られた村が見える。目
的地はもうすぐだ。
館に戻ると、再び執務室へと通された。前にも感じたが、この部屋はどうにも
空気が冷たく感じる。目の前の人物からそれほどの威圧感が放たれているという
わけでもないのだろうが……そこまで考えたところで、自分に向けられた視線に
気付く。やはり最近の私は少しおかしい。愚にもつかない事を考える前に、やる
べき事をやらなくては。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
盗賊団と思しき連中を倒した事、やつらから聞き出した話、後始末の為に人手
が必要な事。一通りの説明を終える頃には辺りは夕闇に包まれていた。そして、
私は今当然のように割り当てられた客室にいる。
「何をしているのだろうな、私は……」
思わず零れ落ちた呟き。部屋の外では忙しなく人が行き来している気配が感じ
られる。この地もティグラハット軍の侵攻と無関係ではない、その準備におおわ
らわなのだろう。そう、彼らは己が成すべき事をしっかりと見据え、その為に行
動しているのだ。だというのに私は……
「ふぅ……」
溜め息をこぼす自分に嫌気がさす。昔の私はこうではなかった。戦神の娘とし
ての使命のみを考え、その為だけに行動してきたというのに。いつからこうなっ
た?いつから――
「おい、聞いたか?アナウアがまたありえない速度で落ちて、ブライトクロイツ
もヤバいんじゃないかってさ」
「聞いた聞いた。あそこが抜かれたら次はここだろ?勘弁して欲しいよな……」
「子爵様が冒険者の知り合いとかにも声掛けてるらしいぜ。不思議な方面にコネ
あるよなあの人……」
「ハイデンヴァイルの方でもいろいろ準備してるらしい。俺たちも覚悟をきめな
いと……」
物思いに耽る私の耳に、扉の外を行き交う兵士たちの会話が入ってきた。戦。
そうだ、戦になれば自然と有望な傑物が集まろうというものだ。例えば、ティグ
ラハット軍には星墜としをも成し遂げる術者がいる。あれは、それこそ私の故郷
のように古くからの伝承を正しく遺し、なおかつ相応の力を以って臨まないと下
手をすれば身を滅ぼしかねない呪法。使いこなすには知識、力、そしてそれを自
信を持って確実に行うだけの精神が求められる。それほどの術者が付いているの
だ。今から下手にブライトクロイツを目指すよりは、ここで待つ方が確実かもし
れない。そうだ、それならば私も目的の為に行動している事になる……
そんな自分への言い訳めいた事を考えながら、明日には子爵殿にその事を話し
に行こうと決意し、私はまどろみの中へと落ちていった。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
――ガルドゼンド領、アナウア砦近郊、ティグラハット軍陣営――
「ふぇふぇふぇ、次はどの術を使ったもんかのぅ……」
戦利品の確認や負傷者の確認や部隊の再編成などで慌しく人が行き交う中、専
用に設えられた天幕の中央に置かれた机の上。そこには、どれも一目みて古いも
のだと分かる巻物が四つ、広げられている。
「これがいいかな?いやいや、こっちのも捨てがたい……」
そんな独り言を漏らしながら、楽しそうに巻物を取っては眺め、取って眺めし
ている姿は、まるで次はどの玩具で遊ぼうか悩んでいる子供のよう――というよ
りも、子供そのものと言ってもあながち間違いではないだろう。老人にとって、
次に使う儀式呪文の選択は、『それがどれほど有効か』ではなく『それを使った
結果がどれだけ楽しめるのか』によってなされるべきものなのだから。
「楽しそうだな」
突如背後から聞こえてきた声に、老魔導師は一瞬動きを止め後ろに向き直る。
いつの間にやらそこに立っていたのは、艶のない黒い甲冑を纏った一人の女。
「おお……きとったのか。相変わらず、見事な術じゃのう」
女の姿を確認すると、老魔導師は卑屈な笑みを浮かべ、賞賛の声をあげた。喩
え国王が相手だろうと傲岸不遜に振舞おうかという彼だが、この女性にだけは勝
手が違うらしい。歓待の言葉を述べ、椅子を勧める老魔導師に、しかし女はどこ
までも冷淡だった。
「いいか。戦場にするのなら、レットシュタインだ。あそこを取り巻く環境はな
かなかに面白い。狂王の部隊は、もうすぐの所まで来ている――間に合わせろ」
氷の塊が喋ったらこのような感じになるのだろうかと、そう思わせるような声
で必要な事を告げるとと、女は来た時と同じように音もなく影の中へと消えてい
った。残された静寂が、反論や拒否など認めないという彼女の意志を表している。
いつもどおりと言えばいつもどおりの様子に、老魔術師は軽く肩を竦めて……
そして、机の上に広げた巻物のうちからふたつを手に取った。
「間に合わせろ、か。ならば、間に合わせるとするかのう。こいつを使って、な」
そう言ってひとしきりふぇっふぇっふぇと笑うと、老魔導師はゆっくりと己の
テントを後にした。指揮官に、必要な準備をさせるために。
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場所:ガルドゼンド国内
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岩場の道を、深い針葉樹の森を右に見ながら引き返していく。「あの森で冬を
越せる人間はいない」というクオドの言葉通り、鬱蒼とした森の中から生き物の
気配は感じられず、まるで光すらをも呑み込む深い闇が蟠っているかのような印
象を周囲に与えている。一瞬、自分がまるでここではないどこかにいるような錯
覚を覚えた。そう、あれは――思考を巡らせ、最初にこの道を辿ったときからず
っと感じている既視感の奥にあるものを確かめる。「ははっ」小さな笑いが零れ
た。生き物を拒む針葉樹の森、荒涼とした風景、そして厳しい冬が続く気候。な
んの事はない、自らも気付かぬうちに連想していたのは、故郷の姿だった。数を
減じ、押し込められた一族が再起を願いながら息を潜めて住まう場所。
「戦乙女ともあろうものが……郷愁の念に囚われるとはな」
自嘲めいた呟き。言葉を返すように、栗毛の馬がぶるるると喉を鳴らす。首筋
を撫でながら「なんでもない、気にするな」と語りかけた。納得したのかそもそ
も気にしてもいないのか、何も言わず愛馬が視線を上げる。気がつけば、なだら
かな坂道を越えていた。釣られて顔を上げると古い石に守られた村が見える。目
的地はもうすぐだ。
館に戻ると、再び執務室へと通された。前にも感じたが、この部屋はどうにも
空気が冷たく感じる。目の前の人物からそれほどの威圧感が放たれているという
わけでもないのだろうが……そこまで考えたところで、自分に向けられた視線に
気付く。やはり最近の私は少しおかしい。愚にもつかない事を考える前に、やる
べき事をやらなくては。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
盗賊団と思しき連中を倒した事、やつらから聞き出した話、後始末の為に人手
が必要な事。一通りの説明を終える頃には辺りは夕闇に包まれていた。そして、
私は今当然のように割り当てられた客室にいる。
「何をしているのだろうな、私は……」
思わず零れ落ちた呟き。部屋の外では忙しなく人が行き来している気配が感じ
られる。この地もティグラハット軍の侵攻と無関係ではない、その準備におおわ
らわなのだろう。そう、彼らは己が成すべき事をしっかりと見据え、その為に行
動しているのだ。だというのに私は……
「ふぅ……」
溜め息をこぼす自分に嫌気がさす。昔の私はこうではなかった。戦神の娘とし
ての使命のみを考え、その為だけに行動してきたというのに。いつからこうなっ
た?いつから――
「おい、聞いたか?アナウアがまたありえない速度で落ちて、ブライトクロイツ
もヤバいんじゃないかってさ」
「聞いた聞いた。あそこが抜かれたら次はここだろ?勘弁して欲しいよな……」
「子爵様が冒険者の知り合いとかにも声掛けてるらしいぜ。不思議な方面にコネ
あるよなあの人……」
「ハイデンヴァイルの方でもいろいろ準備してるらしい。俺たちも覚悟をきめな
いと……」
物思いに耽る私の耳に、扉の外を行き交う兵士たちの会話が入ってきた。戦。
そうだ、戦になれば自然と有望な傑物が集まろうというものだ。例えば、ティグ
ラハット軍には星墜としをも成し遂げる術者がいる。あれは、それこそ私の故郷
のように古くからの伝承を正しく遺し、なおかつ相応の力を以って臨まないと下
手をすれば身を滅ぼしかねない呪法。使いこなすには知識、力、そしてそれを自
信を持って確実に行うだけの精神が求められる。それほどの術者が付いているの
だ。今から下手にブライトクロイツを目指すよりは、ここで待つ方が確実かもし
れない。そうだ、それならば私も目的の為に行動している事になる……
そんな自分への言い訳めいた事を考えながら、明日には子爵殿にその事を話し
に行こうと決意し、私はまどろみの中へと落ちていった。
―= ◇ = ◆ = ◇ = ◆ = ◇ =―
――ガルドゼンド領、アナウア砦近郊、ティグラハット軍陣営――
「ふぇふぇふぇ、次はどの術を使ったもんかのぅ……」
戦利品の確認や負傷者の確認や部隊の再編成などで慌しく人が行き交う中、専
用に設えられた天幕の中央に置かれた机の上。そこには、どれも一目みて古いも
のだと分かる巻物が四つ、広げられている。
「これがいいかな?いやいや、こっちのも捨てがたい……」
そんな独り言を漏らしながら、楽しそうに巻物を取っては眺め、取って眺めし
ている姿は、まるで次はどの玩具で遊ぼうか悩んでいる子供のよう――というよ
りも、子供そのものと言ってもあながち間違いではないだろう。老人にとって、
次に使う儀式呪文の選択は、『それがどれほど有効か』ではなく『それを使った
結果がどれだけ楽しめるのか』によってなされるべきものなのだから。
「楽しそうだな」
突如背後から聞こえてきた声に、老魔導師は一瞬動きを止め後ろに向き直る。
いつの間にやらそこに立っていたのは、艶のない黒い甲冑を纏った一人の女。
「おお……きとったのか。相変わらず、見事な術じゃのう」
女の姿を確認すると、老魔導師は卑屈な笑みを浮かべ、賞賛の声をあげた。喩
え国王が相手だろうと傲岸不遜に振舞おうかという彼だが、この女性にだけは勝
手が違うらしい。歓待の言葉を述べ、椅子を勧める老魔導師に、しかし女はどこ
までも冷淡だった。
「いいか。戦場にするのなら、レットシュタインだ。あそこを取り巻く環境はな
かなかに面白い。狂王の部隊は、もうすぐの所まで来ている――間に合わせろ」
氷の塊が喋ったらこのような感じになるのだろうかと、そう思わせるような声
で必要な事を告げるとと、女は来た時と同じように音もなく影の中へと消えてい
った。残された静寂が、反論や拒否など認めないという彼女の意志を表している。
いつもどおりと言えばいつもどおりの様子に、老魔術師は軽く肩を竦めて……
そして、机の上に広げた巻物のうちからふたつを手に取った。
「間に合わせろ、か。ならば、間に合わせるとするかのう。こいつを使って、な」
そう言ってひとしきりふぇっふぇっふぇと笑うと、老魔導師はゆっくりと己の
テントを後にした。指揮官に、必要な準備をさせるために。
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登場:クオド, ヒルデ
場所:ガルドゼンド国内
--------------------------------------------------------------------------
朝方、客人があった。三日も前に先触れがあったが、忙しさで忘れていた。
幸い主人と異なり記憶力と準備のよい使用人たちが出迎え、近状や昔話でヴィオ
ラがそこそこに身形を整える時間を稼いでくれた。ヴィオラが人々の集る広間へ入
ると、客人は火の入った暖炉の傍の椅子に腰掛け、兄と談笑していた。こういう時
ばかりは兄の要領のよさに感謝せざるを得ない。
ヴィオラは主人として最低限の挨拶をした後、当たり障りなく微笑んで言った。
「お久し振りです、叔父上」
恰幅のよい、好々爺たる外見の客人は、親しげに笑い返した。
「おお、久しぶりだ。
相変わらず景気の悪い顔をしてるな、地獄で母親が呼んでるんじゃないか?」
「今日はご令嬢は一緒ではないのですか?
彼女の元気と、体重の一部でも分けていただきたいものですが」
無言で笑い合う。同点、と胸の内で呟くが、不毛だということも承知していた。
愉快そうな兄を横目で睨み、客人に用件を問う。とはいえそんなものは決まり
きっていて、今度の戦に対する一族の態度をそろそろ定めねばならないということ
だった。
「大儀を表明せぬまま兵を整えては、周辺の貴族たちに不信感を持たれるぞ」
「ああ、そうでしたね。それに関しては――二、三日中にでも。
こちらで少しばかり問題が起こっておりまして」
問題? と客人は訊いた。ヴィオラは、せっかく造反組から誘いの手紙が来たの
に、その密使が領内でならず者に襲われて死んでしまった、と笑った。客人よりも、
むしろ兄が驚いた顔をした。
「どうするんだ」
客人は目を細め、血族特有の、冴えない灰色の髪を掻いた。
「どちらでも」
ヴィオラは投げ槍に答えた。個人的には嫌いだが、警戒しすぎても仕方がない相
手だ。血にしがみついている人種なので、家の存続の為には何でもやる。家長でな
いのが残念だ、と思ったが、言えば嫌味にしかならないので別のことを言う。
「……正直、関わりたくないですがね」
「無理だろう。ティグラハットが国内に侵入してきた以上、ここは守りの要になる。
門を閉ざせば両軍から攻められるぞ。どちらかを選ばなければならない」
「宣戦布告として星落としを見せ付けたティグラハットか、それとも狂王陛下の殲
滅部隊か?」ヴィオラは鼻で笑った。「どちらに門を開いても食い荒らされます。
両軍ともこんな土地、占領地の一つとしか見ないでしょうから」
「だが、血は残る」
客人の言葉にヴィオラは首を傾げた。一瞬の後で意味を理解し、ああ、と笑う。
民を見捨てても血を絶やすなと、つまりはそういうことだ。それも一つの価値観で
はあろうが。
おい、と兄が声を上げた。普段は空気を読まない癖に、調和を取るのは非常に得
意だ。ヴィオラも場を荒立てるつもりはなかった。そしてその面で叔父と対立する
ことはないだろうとも思っていた。彼は彼の兵を、家のために使うだろう。その未
来を想像してみたが、特にこの場で諍いを起こさなければいけない理由は見当たら
ない。
「勿論、滅ぼすつもりはありません」
「――それで、死んだ密使とやらは、どうしたんだ?」
「遺体を整えて聖堂に。殺害した一団は昨日、壊滅させ、生き残りの尋問も終えま
した。彼らは、やったのは自分達ではないと言っていますが」
「ほう」
「黒い軍馬の、双剣の女がやったと」
客人は沈黙して、嘆息した。
「……俺は、お前のその性癖がなければ、もう少し友好的に接してやってもいいと
思ってるぞ。その造反組とやらにつくつもりはないということだな?」
「首魁はともかく他の面子が悪い。仮に王を見限るにしろ、あんな烏合の衆に参加
するくらいなら単独でティグラハットに降った方がまだいいくらいです。事故のふ
りをして時間を稼げるならよし、そうでなくとも、彼らが本当にここへ攻め入るに
は、彼らの予想以上に深く侵攻したティグラハットが邪魔です」
しかしこの地が戦場になるならば、血が流れる前に開城してしまった方がいいと
いう気はしていた。辺境の、権限を剥奪され繁栄から切り離された小貴族が、まと
もな戦などできるはずがない。卑怯者の謗りは受けようが。
「血族会議は」
「無視してませんよ、招集をかけるたびに席次で半月もめるのはどこの馬鹿共です
か」
ここで話していても仕方がないことなので、と話題を変える。
新しく騎士を叙任しましたと告げると、客人は、知らせは受けていると頷いた。
一族には失踪者が多いので、出自をでっち上げるには困らなかった。呼ばれて顔を
出したクオドは相変わらず困ったような顔で偽りの紹介を聞き、少し沈黙してから
「よろしくお願いします」と頭を下げた。
客人はどういうわけかクオドを気に入ったようで、椅子から立ち上がって彼の肩
を抱き、本人が知るはずもない架空の人物の昔話をしながら、背を押して広間を出
て行ってしまった。ヴィオラは古い記憶を辿り、叔父に男色の気はないことを思い
出したので、放っておくことにした。
歩き回られたところで、見られて困るものは何もない――いや、祖母の遺品をだ
いぶ売り払ったか。気づかれなければいいが。
+ ○ + ○ + ● + ○ + ○ +
客人は昔話をしたがったが、クオドが会話を合せられなくてもあまり気にしな
かった。古い話だから覚えていなくても仕方がないだろうと、朗らかに笑う様はク
オドの警戒を解かせた。書類上は自分の母親だという女は、この客人の従妹なのだ
そうだ。随分と歳が離れており、娘の年頃に旅の冒険者と駆落同然にいなくなった
というから、二十年以上、客人とは会っていない。
幼いながらも信仰に厚い娘だった、と客人は言った。クオドは「そうですか」と
頷いた。
客人は、砦の外の森にある聖堂の話をした。「あの娘は毎日あそこへ通っていた。
代が替わってあの聖堂へ行く者はもういないが、あそこは一族を知る上で重要な場
所だ」と、何も知らない新参者の私生児にものを教える口ぶりで言ったが、クオド
はわずかに違和感を覚えた。
クオドは曖昧に頷いてその場を持たせた。あの聖堂にあるのは忌わしい記憶だけ
だ。
客人はふと思い出したという様子で、蒼い石の嵌った聖印を取り出した。「あの
子が昔、持っていたものだ。息子が来ると聞いたから持ってきた」クオドは殆ど無
理やり渡されたそれを受け取って、反応に困りながらも辛うじて「ありがとうござ
います」とだけ答えた。
客人は昼前に辞した。玄関で見送る時、耳の奥で女の声を聞いた。くすくすと、
楽しそうな笑い声を。
“あの森の道は、閉ざされて何百年になるのかしら”
見下ろした手の中で、聖印の蒼い石が艶やかに光を跳ね返した。
「ヒルデさん」
と、扉を叩く。現れた戦乙女は、若干、不機嫌そうに見えた。客人がくるから部
屋から出るなと言い含められた彼女は結局、午前を部屋で過ごした。食事は用意さ
れたはずだが、押し込められた一室で、独りで食べる食事はあまり美味しくないだ
ろう。
客が帰ったことを伝えると、ヒルデは「そうか」と素っ気なく応じた。
クオドは、親戚の方ですと大雑把すぎる説明をして、それから「今後の件で」と
言い足した。
「親族同士で対応に揉めていて。こちらの都合で軟禁みたいにしちゃってすみませ
ん。
お詫びに――ええと、今日はご飯がちょっと豪華ですよ。お客さんがおみやげに
くれた鹿を調理します」
ヒルデは眉間に皺を寄せた。
「クオド……本当に騎士なのか?」
「はい?」
「いや、なんでもない。気にするな」
ヒルデは適当な動作で手を振った。何かを誤魔化された気がする。
「……昼食の席、子爵殿もいるのか?」
ええ勿論と、クオドは頷いた。ヒルデは彼と仲があまりよくないようなので、答
えてからしまったと思ったが、「わかった、出よう」という言葉を聞いてひとまず
安心した。
---------------------------------------------------------------------
場所:ガルドゼンド国内
--------------------------------------------------------------------------
朝方、客人があった。三日も前に先触れがあったが、忙しさで忘れていた。
幸い主人と異なり記憶力と準備のよい使用人たちが出迎え、近状や昔話でヴィオ
ラがそこそこに身形を整える時間を稼いでくれた。ヴィオラが人々の集る広間へ入
ると、客人は火の入った暖炉の傍の椅子に腰掛け、兄と談笑していた。こういう時
ばかりは兄の要領のよさに感謝せざるを得ない。
ヴィオラは主人として最低限の挨拶をした後、当たり障りなく微笑んで言った。
「お久し振りです、叔父上」
恰幅のよい、好々爺たる外見の客人は、親しげに笑い返した。
「おお、久しぶりだ。
相変わらず景気の悪い顔をしてるな、地獄で母親が呼んでるんじゃないか?」
「今日はご令嬢は一緒ではないのですか?
彼女の元気と、体重の一部でも分けていただきたいものですが」
無言で笑い合う。同点、と胸の内で呟くが、不毛だということも承知していた。
愉快そうな兄を横目で睨み、客人に用件を問う。とはいえそんなものは決まり
きっていて、今度の戦に対する一族の態度をそろそろ定めねばならないということ
だった。
「大儀を表明せぬまま兵を整えては、周辺の貴族たちに不信感を持たれるぞ」
「ああ、そうでしたね。それに関しては――二、三日中にでも。
こちらで少しばかり問題が起こっておりまして」
問題? と客人は訊いた。ヴィオラは、せっかく造反組から誘いの手紙が来たの
に、その密使が領内でならず者に襲われて死んでしまった、と笑った。客人よりも、
むしろ兄が驚いた顔をした。
「どうするんだ」
客人は目を細め、血族特有の、冴えない灰色の髪を掻いた。
「どちらでも」
ヴィオラは投げ槍に答えた。個人的には嫌いだが、警戒しすぎても仕方がない相
手だ。血にしがみついている人種なので、家の存続の為には何でもやる。家長でな
いのが残念だ、と思ったが、言えば嫌味にしかならないので別のことを言う。
「……正直、関わりたくないですがね」
「無理だろう。ティグラハットが国内に侵入してきた以上、ここは守りの要になる。
門を閉ざせば両軍から攻められるぞ。どちらかを選ばなければならない」
「宣戦布告として星落としを見せ付けたティグラハットか、それとも狂王陛下の殲
滅部隊か?」ヴィオラは鼻で笑った。「どちらに門を開いても食い荒らされます。
両軍ともこんな土地、占領地の一つとしか見ないでしょうから」
「だが、血は残る」
客人の言葉にヴィオラは首を傾げた。一瞬の後で意味を理解し、ああ、と笑う。
民を見捨てても血を絶やすなと、つまりはそういうことだ。それも一つの価値観で
はあろうが。
おい、と兄が声を上げた。普段は空気を読まない癖に、調和を取るのは非常に得
意だ。ヴィオラも場を荒立てるつもりはなかった。そしてその面で叔父と対立する
ことはないだろうとも思っていた。彼は彼の兵を、家のために使うだろう。その未
来を想像してみたが、特にこの場で諍いを起こさなければいけない理由は見当たら
ない。
「勿論、滅ぼすつもりはありません」
「――それで、死んだ密使とやらは、どうしたんだ?」
「遺体を整えて聖堂に。殺害した一団は昨日、壊滅させ、生き残りの尋問も終えま
した。彼らは、やったのは自分達ではないと言っていますが」
「ほう」
「黒い軍馬の、双剣の女がやったと」
客人は沈黙して、嘆息した。
「……俺は、お前のその性癖がなければ、もう少し友好的に接してやってもいいと
思ってるぞ。その造反組とやらにつくつもりはないということだな?」
「首魁はともかく他の面子が悪い。仮に王を見限るにしろ、あんな烏合の衆に参加
するくらいなら単独でティグラハットに降った方がまだいいくらいです。事故のふ
りをして時間を稼げるならよし、そうでなくとも、彼らが本当にここへ攻め入るに
は、彼らの予想以上に深く侵攻したティグラハットが邪魔です」
しかしこの地が戦場になるならば、血が流れる前に開城してしまった方がいいと
いう気はしていた。辺境の、権限を剥奪され繁栄から切り離された小貴族が、まと
もな戦などできるはずがない。卑怯者の謗りは受けようが。
「血族会議は」
「無視してませんよ、招集をかけるたびに席次で半月もめるのはどこの馬鹿共です
か」
ここで話していても仕方がないことなので、と話題を変える。
新しく騎士を叙任しましたと告げると、客人は、知らせは受けていると頷いた。
一族には失踪者が多いので、出自をでっち上げるには困らなかった。呼ばれて顔を
出したクオドは相変わらず困ったような顔で偽りの紹介を聞き、少し沈黙してから
「よろしくお願いします」と頭を下げた。
客人はどういうわけかクオドを気に入ったようで、椅子から立ち上がって彼の肩
を抱き、本人が知るはずもない架空の人物の昔話をしながら、背を押して広間を出
て行ってしまった。ヴィオラは古い記憶を辿り、叔父に男色の気はないことを思い
出したので、放っておくことにした。
歩き回られたところで、見られて困るものは何もない――いや、祖母の遺品をだ
いぶ売り払ったか。気づかれなければいいが。
+ ○ + ○ + ● + ○ + ○ +
客人は昔話をしたがったが、クオドが会話を合せられなくてもあまり気にしな
かった。古い話だから覚えていなくても仕方がないだろうと、朗らかに笑う様はク
オドの警戒を解かせた。書類上は自分の母親だという女は、この客人の従妹なのだ
そうだ。随分と歳が離れており、娘の年頃に旅の冒険者と駆落同然にいなくなった
というから、二十年以上、客人とは会っていない。
幼いながらも信仰に厚い娘だった、と客人は言った。クオドは「そうですか」と
頷いた。
客人は、砦の外の森にある聖堂の話をした。「あの娘は毎日あそこへ通っていた。
代が替わってあの聖堂へ行く者はもういないが、あそこは一族を知る上で重要な場
所だ」と、何も知らない新参者の私生児にものを教える口ぶりで言ったが、クオド
はわずかに違和感を覚えた。
クオドは曖昧に頷いてその場を持たせた。あの聖堂にあるのは忌わしい記憶だけ
だ。
客人はふと思い出したという様子で、蒼い石の嵌った聖印を取り出した。「あの
子が昔、持っていたものだ。息子が来ると聞いたから持ってきた」クオドは殆ど無
理やり渡されたそれを受け取って、反応に困りながらも辛うじて「ありがとうござ
います」とだけ答えた。
客人は昼前に辞した。玄関で見送る時、耳の奥で女の声を聞いた。くすくすと、
楽しそうな笑い声を。
“あの森の道は、閉ざされて何百年になるのかしら”
見下ろした手の中で、聖印の蒼い石が艶やかに光を跳ね返した。
「ヒルデさん」
と、扉を叩く。現れた戦乙女は、若干、不機嫌そうに見えた。客人がくるから部
屋から出るなと言い含められた彼女は結局、午前を部屋で過ごした。食事は用意さ
れたはずだが、押し込められた一室で、独りで食べる食事はあまり美味しくないだ
ろう。
客が帰ったことを伝えると、ヒルデは「そうか」と素っ気なく応じた。
クオドは、親戚の方ですと大雑把すぎる説明をして、それから「今後の件で」と
言い足した。
「親族同士で対応に揉めていて。こちらの都合で軟禁みたいにしちゃってすみませ
ん。
お詫びに――ええと、今日はご飯がちょっと豪華ですよ。お客さんがおみやげに
くれた鹿を調理します」
ヒルデは眉間に皺を寄せた。
「クオド……本当に騎士なのか?」
「はい?」
「いや、なんでもない。気にするな」
ヒルデは適当な動作で手を振った。何かを誤魔化された気がする。
「……昼食の席、子爵殿もいるのか?」
ええ勿論と、クオドは頷いた。ヒルデは彼と仲があまりよくないようなので、答
えてからしまったと思ったが、「わかった、出よう」という言葉を聞いてひとまず
安心した。
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登場:クオド、ヒルデ
場所:ガルドゼンド国内
----------------------------------------------------------------------
「ほう……これは」
一切れ食べた所で、思わずヒルデの口から感嘆の声が零れた。以前、野で捕
らえた鹿を調理したときには硬い上に臭みがあって正直あまり美味いとも思わ
なかったのだが、今回の昼食に供された鹿肉のステーキはけして硬すぎない程
よい歯ざわりと、付け合せの香草によるものか後味はすきっと爽やか。さらに、
添えられたベーコンの鹿肉とはまた違った食感の存在が、口を飽きさせない。
それは、王侯貴族のそれとはまた違った意味でのご馳走だった。例えるならば
戦を前にした戦士が精をつける為に食す類の。いや、例えどころの話ではない。
確かに、この地には戦火が迫ってきているのだから。
だと言うのに。
ちらりと視線を子爵に向けると、偶々目が合った。柔らかい笑みを浮かべ
「お口に合いますか?」と問われたので素直に賛辞を述べると、それはよかっ
たと返事が返ってくる。それを言う姿は何か意図があるようにも、純粋にもて
なせている事を喜んでいるようにも見えた。
視線を横に移すと、彼の騎士がステーキを小さく丁寧に切り分けて少しずつ
口に運んでいる様子が目に入る。その様子に何かを連想しかけたが、結局それ
が何なのか思い出す事はできなかった。なんとなくほっこりした気持ちを抱き
ながら、さらに視線を動かしていく。
主の兄は懲りるという言葉を知らないのか、何かと話題を見つけてはヒルデ
に話しかける事をやめようとしない。半ば聞き流しながら不躾にならない程度
に相槌だけ打っているとその内に料理を食べ終わり、だいたいその頃には丁度
話も一区切りがつく。不思議な事に、コルネールの皿は綺麗に空になっていた。
あれだけ喋りながら、――しかも相手に不快感を与えずに――食事までこなす
というのはどういった技術の為せる技なのか……ヒルデには見当も付かなかっ
た。
食堂を後にし、割り当てられた部屋への廊下を歩きながら様子を伺っている
と、確かに数日前よりは慌しくなってきているような空気を感じられる。
「なぁ、クオド。私は――」
傍らを歩く騎士に口を開きかけて、ヒルデはそこで言葉を止めた。というよ
りも、どう続く言葉が出てこなかった。
「どうかしました、ヒルデさん?」
「いや……すまない、なんでもない」
何度か口を開いたり閉じたりしてみたものの結局続く言葉は出てこず、そう
言ってヒルデは強引に会話を打ち切った。
もう一度、昼食の時の事を思い返してみる。何かがおかしいと思うのに、そ
れが何かが分からない。まるで小さな棘が甲冑の隙間から入り込んだような心
地が、ヒルデをなんとも言えない気持ちにさせた。
「何かあったら呼んでくださいね」
クオドはヒルデを部屋まで送り届けると、そう言い残して去っていった。基
本的にヒルデの扱いは逗留している客人のそれだ。朝のように自重を求められ
る事もあるものの、今現在このレットシュタインが置かれている状況を考えれ
ばむしろかなり厚遇されていると言っても間違いではない。
結局のところ、だからこそヒルデは言い様のない居心地の悪さを感じているのかも知れなかった。
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場所:ガルドゼンド国内
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「ほう……これは」
一切れ食べた所で、思わずヒルデの口から感嘆の声が零れた。以前、野で捕
らえた鹿を調理したときには硬い上に臭みがあって正直あまり美味いとも思わ
なかったのだが、今回の昼食に供された鹿肉のステーキはけして硬すぎない程
よい歯ざわりと、付け合せの香草によるものか後味はすきっと爽やか。さらに、
添えられたベーコンの鹿肉とはまた違った食感の存在が、口を飽きさせない。
それは、王侯貴族のそれとはまた違った意味でのご馳走だった。例えるならば
戦を前にした戦士が精をつける為に食す類の。いや、例えどころの話ではない。
確かに、この地には戦火が迫ってきているのだから。
だと言うのに。
ちらりと視線を子爵に向けると、偶々目が合った。柔らかい笑みを浮かべ
「お口に合いますか?」と問われたので素直に賛辞を述べると、それはよかっ
たと返事が返ってくる。それを言う姿は何か意図があるようにも、純粋にもて
なせている事を喜んでいるようにも見えた。
視線を横に移すと、彼の騎士がステーキを小さく丁寧に切り分けて少しずつ
口に運んでいる様子が目に入る。その様子に何かを連想しかけたが、結局それ
が何なのか思い出す事はできなかった。なんとなくほっこりした気持ちを抱き
ながら、さらに視線を動かしていく。
主の兄は懲りるという言葉を知らないのか、何かと話題を見つけてはヒルデ
に話しかける事をやめようとしない。半ば聞き流しながら不躾にならない程度
に相槌だけ打っているとその内に料理を食べ終わり、だいたいその頃には丁度
話も一区切りがつく。不思議な事に、コルネールの皿は綺麗に空になっていた。
あれだけ喋りながら、――しかも相手に不快感を与えずに――食事までこなす
というのはどういった技術の為せる技なのか……ヒルデには見当も付かなかっ
た。
食堂を後にし、割り当てられた部屋への廊下を歩きながら様子を伺っている
と、確かに数日前よりは慌しくなってきているような空気を感じられる。
「なぁ、クオド。私は――」
傍らを歩く騎士に口を開きかけて、ヒルデはそこで言葉を止めた。というよ
りも、どう続く言葉が出てこなかった。
「どうかしました、ヒルデさん?」
「いや……すまない、なんでもない」
何度か口を開いたり閉じたりしてみたものの結局続く言葉は出てこず、そう
言ってヒルデは強引に会話を打ち切った。
もう一度、昼食の時の事を思い返してみる。何かがおかしいと思うのに、そ
れが何かが分からない。まるで小さな棘が甲冑の隙間から入り込んだような心
地が、ヒルデをなんとも言えない気持ちにさせた。
「何かあったら呼んでくださいね」
クオドはヒルデを部屋まで送り届けると、そう言い残して去っていった。基
本的にヒルデの扱いは逗留している客人のそれだ。朝のように自重を求められ
る事もあるものの、今現在このレットシュタインが置かれている状況を考えれ
ばむしろかなり厚遇されていると言っても間違いではない。
結局のところ、だからこそヒルデは言い様のない居心地の悪さを感じているのかも知れなかった。
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