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2024/05/17 01:29 |
水たまりに“落ちた”女/香織(周防松)
PC:香織

場所:現代

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


それは、小学校の卒業式が近付いたある日のことだった。

「今日は皆さんに、作文を書いてもらいます」

背後の黒板に、白いチョークで『十年後の私へ』と書き終えた担任の教師が、
生徒達に振り返って微笑む。

「題名は、『十年後の私へ』です。十年後の自分へ手紙を書くようなつもりで、
いろいろなことを書いてみてください。この作文は、十年後、先生が郵便で
皆さんにきちんと届けます」

「せんせ~、十年後、って言ったら、みんな、22歳ですよね~?」

1人の男子生徒が手を上げる。

「ええ、そうなりますね。もう働いている人もいれば、大学に行っている人も
いるでしょう。ああ、もしかしたら、結婚している人もいるかもしれませんね」

おお~、と生徒達の間でどよめきが起こる。
大人になった自分の姿。
中学3年生にもなれば、高校受験を控えているため、将来の進路を考えろと
せっつかれて、嫌でも考えざるを得なくなることだが、この年頃のうちは好き
勝手にいろいろと想像できる。
22歳になった自分は、一体どこでどんなことをしているのか。
そう考えただけで、純粋にわくわくしてしまう。

――まあ、実際なってみるとわかることだが、22歳の人間は、想像していた
よりもずっと子供で、そして無力である。

「はいはい、静かに。作文は、今週中には絶対、先生に提出してください。
提出できなかった人は、居残りで書いてもらいますからね」

生徒達は思い思いに鉛筆を取り、原稿用紙に向かう。

――その中で。
黒い髪を二つに結った1人の女子生徒は、皆と同じように鉛筆を手にし、
ほんの少し悩んだ後、原稿用紙に鉛筆を走らせた。


『十年後の私へ      六年三組  西本 香織』



  * * * * * * * * * 



残業続きのハードな1週間がどうにかこうにか終わり、明日は待ちに待った
休日である。

体には、栄養ドリンクなんかじゃ取れないぐらいの疲れが、風呂場のカビの
ごとくしつこくこびりついている。
くたびれた体を引きずるようにしての、1人暮ししているマンションへの帰り道。
持ち慣れたハンドバッグでさえ、今日はなんだか重たい気がする。
この分では、貴重な休日は体力と気力の回復に費やされることだろう。
それから、残業続きのせいで手が回らなかった、掃除や洗濯、それから
布団干しなどの、ためこんでいた家事も消化せねば。

まったくもって、地味な休日の過ごし方である。

(……こういう大人になりたかったわけじゃないのに)

ふと、彼女――香織の疲れた頭がそんなことを考える。

今の自分は、学生時代、最もなりたくなかった“つまらない大人”というやつ
そのものではないだろうか?

しかしすぐに、仕方が無い、という思考が働く。
香織は特筆すべき才能なんて持っていなかったし、学校の成績も中くらい。
そんな人間が欲を出してはいけない。
幸い、社会というのは、特に夢だの目標だのがなくたって生きていける
仕組みになっている。

そう、欲張りさえしなければ、凡人でもそれなりにやっていけるのだ。

……少し悲しくはあるが。

今日ついたため息の数をまた一つ追加しながらマンションに着き、ぱかん、と
自分の郵便受けを開けてみると、大して興味の沸かないダイレクトメールが
大量に入っている。
1日分ではない。
残業続きで疲れていて、今日まで郵便受けを開けていなかったのだ。
ざっと換算して、これは3・4日分である。
はあ、と小さくため息をつき、ダイレクトメールの束をつかんだ。

(あら?)

香織は、ダイレクトメールの中に、一通の白い封筒が混じっていることに
気付いた。
取り出してみてみると、マンションの住所と共に、『西本香織 様』と丁寧な
字で書いてある。
誰からだろう。
ひょいと引っくり返して差出人を確認した香織は、

「……あ……」

かすかに声を上げ、疲労で冴えなかった表情を一転、明るいものにした。
そこにあったのは、小学6年生の時の担任の名前だった。

(先生……)

担任の教師の笑顔が、脳裏をよぎる。
こみ上げる懐かしさに、胸のどこかがじんわりと暖かくなる。
目を閉じると、その頃の授業風景が浮かんでくるようだ。

ぶわあっ!

その時、冷たい夜風が吹いた。
強風というわけではないが、その風は、感傷にひたっていた香織の手から
封筒をさらっていくのには充分な強さを持っていた。

封筒は、風にあおられて、マンション前の道路にある大きな水たまりへと
落ちていく。

「大変!」

せっかくの手紙が水に濡れては台無しである。
何としても、封筒が水たまりに落ちることだけは避けねばならない。
香織は慌てて駆け出し、落ちてくる封筒へと懸命に手を伸ばした。
指先に触れる、紙の感触。
さらに手を伸ばし、ぐぁしっ! と封筒をつかむ。
おかげで封筒はくしゃくしゃになってしまったが、水たまりに落ちる前に
キャッチすることには成功した。

(……あ……)

ぐらっ、と視界が揺れる。
封筒をキャッチするのに夢中になって、体勢のことまで気が回らなかった
らしい。
よろけた体を支えようと、香織は足を一歩踏み出した。
水たまりに向かって。

さぞ大きな水しぶきが上がるだろう、と香織は思った。
パンプスは水びたしになるだろうし、ストッキングもはねた水で汚れるだろう。
下手をしたら、スーツのスカートも被害を受けるかもしれない。

しかし。
香織の想像した水しぶきは、いつまで経っても上がらず。
踏み出した足は、水たまりの中にずぶりと飲みこまれ――


まるで穴にでも落ちるかのように、彼女の体は水たまりの中へと消えた。
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2007/02/11 23:12 | Comments(0) | TrackBack() | ▲いくつもの今日と明日と世界と

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