キャスト:ジュリア アーサー
場所:モルフ地方東部 ― ダウニーの森
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ぽたり、ぽたり。
小瓶から滴る雫が湖の水面に小さな波紋を広げてからすぐに、周囲には甘いアルコー
ルのにおいが漂い始めた。気化したアルコールが脳を溶かそうとするにおい。自称騎士
は酒にあまり強くはないらしく、「うう」と呻いて口元を手で覆った。
ジュリアはその様子を眺めながら、竜はきっとお前より酒豪だろうなと言いかけたが、
これ以上に何か言うとそろそろ再起不能になってしまいそうに思えたのでやめておいた。
剣を持った者の心を抉っても何の得もない。
いや、私が代わりに剣を握れば――使えないことはないのだ。羽のように軽く、針の
ように細い剣ならば、の話であれば。とはいえ騎士の役割を奪う気は起こらないので、
ヘコませるのはやめておこう。思いながら欠伸を噛み殺す。
「このくらいでいいか」
「相手は竜だぞ」
「…………」
頭上で月が白々と輝いている。強い光に負けて星は少ない。
水面に映ったもうひとつの月がゆらゆら揺れている。畔の黒い花は、日の下でも黒い
のだろうか――幻想的だと言えなくはない光景だ。
また、ぽとぽとと雫が落ちて、酒のにおいが強くなった。
テイラックの方は注意を引かない動きでいくらか岸から離れ、じっと周囲の森を眺め
ている。竜がどこから現れるにしても、きっと彼がすぐに気づくだろう。如何にも紳士
然とした格好とは不釣合いに彼の眼差しは鋭く、人間の目に映るものながら何であれ、
見逃すことはなさそうだった。
こちらは、頼りになると言ってもいいかも知れない。
武器を持っているようには見えないというたった一つの問題に目を瞑れば。いや、武
器があるにしても。
「竜は剣で倒せるのか?」
「ご入用とあらば」と、背後でエンプティの声がした。「聖剣の一振り程度で宜しけれ
ば、私めが用意いたしましょう」
彼の手には既に、鞘に収められた剣が乗せられている。白を貴重とした製造えに金の
縁を入れたそれは確かに聖剣らしいといえばらしいが、その分だけ安っぽく玩具じみて
もいた。
「どうぞ、騎士殿」
「い、いや……僕の剣はここにある。
魔物退治の聖剣ではないが、父から受け継いだ名剣だ。
悪魔封じの聖堂で祝福を受けたものだと聞いている」
「それは心強い。
ではこの剣は……アーサー殿、お使いになりますか?」
その言葉にテイラックは少しだけ悩んだようだったが、上着の裏側を確かめるように
手を動かした後に、「いや、いい」とかぶりを振った。その動作でジュリアは彼の武器
が何なのか大凡の検討をつけた。その種類の武器で竜を倒したという話は聞いたことが
ないが、前例などきっとアテにならないものだろう。どちらも絶対数が極めて少ない。
ジュリアはエンプティに向けて腕を伸ばした。
「私に寄越せ」
「…………はい?」
エンプティの沈黙はジュリアにとって少しはおもしろい見物だった。
口元がつりあがるのを感じながら、もう片手で耳元にかかる髪を背中に払う。
「ただし欲しいのは聖剣ではない。
針のように細く、羽のように軽く、そして牙のように鋭い剣を私に寄越せ」
「承知しました、“西の魔女”殿。あなたが剣士だとは存知ませんでした」
「この森では魔法が使えないようだ、少なくとも簡単には。
ならば、武器の一つくらい持っていないと不安で仕方がないだろう?」
エンプティがぼろぼろの服の裾から取り出した剣は、正に注文通りの品だった。
ジュリアは無言で受け取って鞘から払い、何度か空中を相手に手首を返して使い勝手
を確かめ、「必要があれば使わせてもらう」と言って鞘に戻した。鍔飾りの赤い石が、
月光を受けて僅かに煌く。
いくらかの静寂の後――
「あそこだ」
ごくごく小さな声で初めに囁いたのはやはりテイラックだった。
彼の指す先を注視すると、蒼硝子の夜空の下、暗闇から姿を現す黒い獣の姿があった。
遠目にもわかるしなやかな体躯。艶を帯びて月光に浮かび上がる毛皮と翼。いっそ美
しい生き物ではあったが、そっと湖に口をつけた獣の伏せた紅瞳は、ひどく禍々しい色
をしていた。
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場所:モルフ地方東部 ― ダウニーの森
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ぽたり、ぽたり。
小瓶から滴る雫が湖の水面に小さな波紋を広げてからすぐに、周囲には甘いアルコー
ルのにおいが漂い始めた。気化したアルコールが脳を溶かそうとするにおい。自称騎士
は酒にあまり強くはないらしく、「うう」と呻いて口元を手で覆った。
ジュリアはその様子を眺めながら、竜はきっとお前より酒豪だろうなと言いかけたが、
これ以上に何か言うとそろそろ再起不能になってしまいそうに思えたのでやめておいた。
剣を持った者の心を抉っても何の得もない。
いや、私が代わりに剣を握れば――使えないことはないのだ。羽のように軽く、針の
ように細い剣ならば、の話であれば。とはいえ騎士の役割を奪う気は起こらないので、
ヘコませるのはやめておこう。思いながら欠伸を噛み殺す。
「このくらいでいいか」
「相手は竜だぞ」
「…………」
頭上で月が白々と輝いている。強い光に負けて星は少ない。
水面に映ったもうひとつの月がゆらゆら揺れている。畔の黒い花は、日の下でも黒い
のだろうか――幻想的だと言えなくはない光景だ。
また、ぽとぽとと雫が落ちて、酒のにおいが強くなった。
テイラックの方は注意を引かない動きでいくらか岸から離れ、じっと周囲の森を眺め
ている。竜がどこから現れるにしても、きっと彼がすぐに気づくだろう。如何にも紳士
然とした格好とは不釣合いに彼の眼差しは鋭く、人間の目に映るものながら何であれ、
見逃すことはなさそうだった。
こちらは、頼りになると言ってもいいかも知れない。
武器を持っているようには見えないというたった一つの問題に目を瞑れば。いや、武
器があるにしても。
「竜は剣で倒せるのか?」
「ご入用とあらば」と、背後でエンプティの声がした。「聖剣の一振り程度で宜しけれ
ば、私めが用意いたしましょう」
彼の手には既に、鞘に収められた剣が乗せられている。白を貴重とした製造えに金の
縁を入れたそれは確かに聖剣らしいといえばらしいが、その分だけ安っぽく玩具じみて
もいた。
「どうぞ、騎士殿」
「い、いや……僕の剣はここにある。
魔物退治の聖剣ではないが、父から受け継いだ名剣だ。
悪魔封じの聖堂で祝福を受けたものだと聞いている」
「それは心強い。
ではこの剣は……アーサー殿、お使いになりますか?」
その言葉にテイラックは少しだけ悩んだようだったが、上着の裏側を確かめるように
手を動かした後に、「いや、いい」とかぶりを振った。その動作でジュリアは彼の武器
が何なのか大凡の検討をつけた。その種類の武器で竜を倒したという話は聞いたことが
ないが、前例などきっとアテにならないものだろう。どちらも絶対数が極めて少ない。
ジュリアはエンプティに向けて腕を伸ばした。
「私に寄越せ」
「…………はい?」
エンプティの沈黙はジュリアにとって少しはおもしろい見物だった。
口元がつりあがるのを感じながら、もう片手で耳元にかかる髪を背中に払う。
「ただし欲しいのは聖剣ではない。
針のように細く、羽のように軽く、そして牙のように鋭い剣を私に寄越せ」
「承知しました、“西の魔女”殿。あなたが剣士だとは存知ませんでした」
「この森では魔法が使えないようだ、少なくとも簡単には。
ならば、武器の一つくらい持っていないと不安で仕方がないだろう?」
エンプティがぼろぼろの服の裾から取り出した剣は、正に注文通りの品だった。
ジュリアは無言で受け取って鞘から払い、何度か空中を相手に手首を返して使い勝手
を確かめ、「必要があれば使わせてもらう」と言って鞘に戻した。鍔飾りの赤い石が、
月光を受けて僅かに煌く。
いくらかの静寂の後――
「あそこだ」
ごくごく小さな声で初めに囁いたのはやはりテイラックだった。
彼の指す先を注視すると、蒼硝子の夜空の下、暗闇から姿を現す黒い獣の姿があった。
遠目にもわかるしなやかな体躯。艶を帯びて月光に浮かび上がる毛皮と翼。いっそ美
しい生き物ではあったが、そっと湖に口をつけた獣の伏せた紅瞳は、ひどく禍々しい色
をしていた。
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