PC:タオ, ライ
場所:シカラグァ・サランガ氏族領・港湾都市ルプール - 船上
------------------------------------------
「……なんていうか」ライは状況に相応しい言葉を探したが、どうも自分の語彙には見当たらなかったので、どうでもいいことを言うことにした。「幽霊に海賊に密航者にって、船旅の楽しみフルコースだよね」
「きみはジョークのセンスがないな」モスタルグィアのエグバートが鋭く言った。
「うるさいなぁ。きっと今は、場を盛り上げるよりは白けさせた方がいい時なんだよ。ねえ、そこのおじさん。どっちが正しいと思う?」
「は?」急に話を振られた乗客は目を白黒させたが、このくだらない会話にはあまり乗り気でないようだった。室内には敵意が充満している。この視線を向けられているのが自分でなくてよかったと考えながら、ライは騒ぎを見学することにした。
手を出すにしろ放っておくにしろ、まずは状況判断だ。狂気に駆られた乗客が寄ってたかって密航者を八つ裂きにするというのは好ましくない自体だが、元より、密航は発見されればその場で海に放り込まれるものと決まっている。女であれば、秘密裏に奴隷商人に売り渡す船もあるかも知れないが。
この船は、奴隷商人がいる港までは辿り着けないだろう。
殺せと誰かが言った。海の神だの何だのと、それは船員たちの迷信であり、出発前までは乗客たちはそれを嘲笑っていたにも関わらず。踞る少女の前に立ちふさがる神父が彼らを止めていた。
「詩人殿は、どうする?」エグバートが呑気に尋ねた。口調には、幾らかの傲慢さが含まれていた。それは檻の鼠を眺める観察者のものに近かったが、残念なことに彼もまた檻の中にいる。本人が気づいているかどうかは知らないが。
「あなたは?」ライは周囲の音を意識から締め出してから問い返した。これは心臓が動いていた頃よりも随分と上手くできるようになったことの一つだ。
「さあ。こういう時、東部の人間はどのような行動を起こすのだろうか?」
「……シカラグァ人を、文明の遅れた蛮族だと思っているね」ライは声に、批難ではなく呆れを含ませて言った。
エグバートは肯定せずに笑った。「彼らの国家は、野蛮な血筋からなる部族の集合体に過ぎない。近代まで続いた彼らの争いによって王朝は頻繁に代わり、文化は成熟しなかった。未だ、体に布を巻き付けるだけのものを衣と呼び、木の根を煮ただけのものを料理と呼んでいる」ライは遮った。苦笑で告げる。「これが教師とは、生徒が可哀そうだ」
エグバートは無言で苦笑を返した。
騒ぎに意識を戻すと音が戻った。罵声ばかりの膠着状態は続いていたが、ライは先程よりは密航者に好意的になっていた。神父がこちらにさっさと手伝え的な恨みがましい視線をちらちらと向けてきていたし、放っておいては隣の傲慢な男と同類になりかねない。
この場で一人くらい切り倒せば静かになるだろう。馬鹿な思いつきと同時に、自分がまだ抜き身の剣を持ったままでいることに気づいた。ライは手の中で柄を回し、剣を空に溶かした。
無頓着に、神父と少女へ近づいていく(生身だったら絶対にやらないが)。状況の変化に、騒いでいた乗客たちの声のトーンが僅かに落ちた。結局、自分もある程度は怖がられているのだろう。もう少し怖がらせれば黙るかも知れない。
「楽しそうだね」
「主は我らに苦難ばかりを賜る」
「それを喜んで受け入れるのが聖職者でしょ?」
「残念ながら私はマゾヒストではありません」神父はきっぱりと言った。ライは思わず笑った。周囲の空気は一向によくならないが。
「上で」ライは笑いながら、しかし叩きつけるように言った。「傭兵や船員が死に物狂いに戦ってる。何人かは死んだ」
乗客たちは不穏な言葉にざわめいた。「ここに、この、痩せて、薄汚れた、惨めな子供を殴り殺せるような勇気のある戦士がいるなら、今すぐ甲板に上がって彼らを助けるべきだと思うけどね」
「黙れ、こいつのせいで海の女神が――」
「たかが女だろ!?」ライは怒鳴り返した。神父がぎょっとした顔をした。「女神だろうが密航者だろうが、どっちも女だ。片方が怖くて片方は怖くない? 大の男が笑わせるな。大体、ここにはイムヌスの神父がいる。異教狩りの専門化じゃないか。彼は少女殺しよりもっといい方法を知っている。密航者を殺すより、こいつを甲板に叩き出すのを先にした方がいい」
神父は批難の目を向けた。「……幽霊詩人殿、私は異端審問官では……」
「本当に?」ライは苛立から鋭く問い返した。とりあえずこの場をなんとかできればそれでいいと思っており、口裏を合わせて欲しかっただけだが、神父は一瞬、言葉に詰まった。ライは藪から蛇を出した気分になった。思わず嫌な顔をすると、相手もそれで失敗に気づいたらしく、はぁと嘆息した。
「……修行が足りないようですな」
「……僕も軽率過ぎたよ。とりあえずここなんとかして上に行こうか」
乗客が口を挟んだ。「俺たちを見捨てるのか?」
「見捨てる?」ライは問い返した。「守るために、上に行くんだ。今のところここには何の危険もない」
「壁を破って敵が来たらどうする」
そんなの、最下層に穴を開けられたら船が沈むに決まっている、と思った。護衛達はあまりにも多くの海賊を海に投げ落としたな、とも。或いは彼らは実際に外側に張り付いているのかも知れない。悪い想像ならいくらでもできる。できないのは証明と対処だけだ。
「馬鹿な」ライは吐き捨てた。
結局、神父が何か上手いことを言って煙に巻き、ライと神父と密航者の三人は、追い出されるように外へ出た。扉の向こうでは、再びバリケードを積み上げる音がしている。
少女は俯いたままがたがた震えており、それは恐怖のためだけではないように思えた。「ずっとあそこにいたのですか?」と神父が尋ねた。少女は頷いた。
ライは肩を竦めた。「生憎、ここには温かいスープもパンもない」
少女はびくと震え、神父にしがみつき、こちらを見上げてきた。神父が、批難がましい声でこちらを呼んだ。「随分と機嫌が悪いようですな」
「機嫌?」ライは問い返し、自分の感情を測ってみたが、確かに機嫌はよくなかった。気が立っている。ついでに、いつの間にか輪郭が乱れていた人の姿を、意識して結び直す。少しはまともに見えるはずだ。「悪いよ。今の状況を喜ぶようなマゾヒストじゃないから」
「誰もそうではないでしょうな」
「わかった」ライは意味のない嘆息で反省を示した。少女に「怖がらせてごめん」と謝った。上に戻ると告げると、少女に呼び止められた。弱々しい声だったが、辛うじて聞き取ることはできた。
「……父さんは、無事?」
「誰のこと?」ライは問い返した。神父が、父親に用があって密航したのかと問うた。少女は躊躇ったが、頷いた。「父さんは船員よ。港に寄った時、船は一週間も停泊してたのに、父さんは一度も帰ってこなかった。会いに来ても追い返されたから、忍び込んだの」
彼女の口調には下町の響きがあり、端々には鋭さが感じられた。普段であれば気の強い性格なのだろう。喋っている内に立ち直ってきたのか、少女は神父の手を取って立ち上がった。
「それで密航とは度胸があるね。船が動かない内には帰れなかったの?」
「……あの日が出港だなんて知らなかったのよ」少女はむすっとして答えた。ライはそれは嘘だろうと思った。彼女はさりげなく目を逸らしたし、船員の娘が船内の様子で出港に気づかないとは思えなかった。
「父君とはどなたのことです?」神父が尋ねた。少女は答えた。「トビーっていうのよ。巨人のトビアス。あたしとおなじ青い目をしているの」
ライと神父は視線を見合わせた。二人とも、彼とは何度か、おなじ賭博の卓についたことがあった。まだ若く、豪快で、傭兵達にも負けない立派な体躯と、潮に喉をやられたがらがらした声を持っていた。ライが先に目を逸らした。彼が上で殺されたことを、二人のうち、ライだけが知っていた。
そういえば彼は生前、せっかく故郷に寄ったのに家へ帰れなかったというようなことを言っていた。ライは彼は多忙のあまり帰る暇もなかったのかと思ったが、違うのだろうか。
「……トビーか。彼には金貨を二枚も負けた」ライは声を絞り出した。「まだ海賊が降りてきてないってことは、護衛がまだ戦ってるんだと思う。探すだけ探してくるよ」
「あたしも行く!」
「駄目ですよ、お嬢さん」神父が彼女の腕を押さえた。「上は危険です」
「その半分でも僕の心配をしてくれてもいいと思うけど」ライはぼやいた。神父は呆れた顔をして、従順な子羊に神のご加護を云々と祝福をくれた。ライは大凡の悪霊の類がするように、その場から退散することにした。
踵を返すと、目の前に、潰れた顔があった。それはライを無視して神父と少女に飛びかかった。剣を抜くには間に合わない。半ば反射的に襲撃者の背に手を伸ばし、活力の源を奪い去る。魂だが生気だが、そんなようなものを失った死体がどさりと倒れた。
「……ひ」少女が喉の奥で声を上げた。
倒れているのは、先程、船室の窓を目張りしている時に死んだ乗客だった。あの場に横たえられて放置されていたのがアンデッドとして立ち上がったに違いない。神父の祈りで防げなかったのが残念だが、東西では宗教観念や魂の概念が異なるようなので仕方がない。
「死んだ……?」神父は悼ましさと疑わしさが入り交じった視線で死体を見下ろした。ライは「貸し二ね」と言って甲板へ向かった。
そして二人の姿が見えなくなってから、あーと声を上げて頭を抱えた。死人の魂など食うものではない。吐気がする。東西問わず二度とやるまい。いくら手応えが気持ち悪かろうが剣でやった方がマシだ。
ふらふらと甲板に出る。戦いの物音は絶えていなかった。ライは安堵して知った顔に話しかけた。「生きてる?」
「なんとかな」三十歳過ぎの、黒髪の傭兵が呻いた。彼は左肩に裂傷を負っており、その周囲はドス黒く変色していた。他の傭兵達も似たような有様か、死んで転がっているか、無傷でも酷く疲労しているかだった。
「お前こそ死んだような顔してやがる」
「食あたり。おじさんも注意しなよ」ライは敢えて笑って答えた。
「飯か。それも悪くないが」傭兵は苦笑いし、ここを守るのが仕事だと答えた。船室に一人の脱落者の姿もないことは不思議だった。前線を見れば状況が芳しいようには見えないが、士気は高い。
「金貨三枚で人生を棒に振る気?」
「そう思うなら返せよ」傭兵は笑って鎚戈を構え直した。その先端は不安定に上下した。
「次は勝てばいい。手加減はしないけど」ライは苦笑を返した。死ぬつもりの人間と話すと神経が擦り減る。自分はこのような場所にいるような人種ではないはずだ。見てわかるような死地とはそれなりに無縁に過ごしてきた。
「そうだな、次は勝とう」
ライは答えるべきか迷った。
不意に、誰かに呼ばれたような気がした。視線を巡らせたが、戦列の先には篝火と霧、襲い来る海賊たちしか見えない。その海賊たちの攻勢が幾らか収まり、反撃に出ようとした護衛たちを、指揮官の声が押さえ込んだ。命令を下しているのはバラントレイだった。彼は集団を指揮することに随分と慣れているように見えた。嘗てはどこかの正規軍にいたか、或いは自分の傭兵団を持っていたのだろう。
ライは霧の先を見通そうとしたが、失敗した。自然のものでないためか、視界が効かない。
やがて、霧の中から海賊たちが飛び出してきた。ライは人間よりは幾らか先に彼らの姿を見て取った。或いは、目のよい者は同時に気づいたかも知れない。どちらにせよ、一瞬は目を疑ったので、大差はなかった。
海賊たちは、中央の者を先頭にに、両翼に数人を並べ、見事な突撃陣形で突っ込んできた。
場所:シカラグァ・サランガ氏族領・港湾都市ルプール - 船上
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「……なんていうか」ライは状況に相応しい言葉を探したが、どうも自分の語彙には見当たらなかったので、どうでもいいことを言うことにした。「幽霊に海賊に密航者にって、船旅の楽しみフルコースだよね」
「きみはジョークのセンスがないな」モスタルグィアのエグバートが鋭く言った。
「うるさいなぁ。きっと今は、場を盛り上げるよりは白けさせた方がいい時なんだよ。ねえ、そこのおじさん。どっちが正しいと思う?」
「は?」急に話を振られた乗客は目を白黒させたが、このくだらない会話にはあまり乗り気でないようだった。室内には敵意が充満している。この視線を向けられているのが自分でなくてよかったと考えながら、ライは騒ぎを見学することにした。
手を出すにしろ放っておくにしろ、まずは状況判断だ。狂気に駆られた乗客が寄ってたかって密航者を八つ裂きにするというのは好ましくない自体だが、元より、密航は発見されればその場で海に放り込まれるものと決まっている。女であれば、秘密裏に奴隷商人に売り渡す船もあるかも知れないが。
この船は、奴隷商人がいる港までは辿り着けないだろう。
殺せと誰かが言った。海の神だの何だのと、それは船員たちの迷信であり、出発前までは乗客たちはそれを嘲笑っていたにも関わらず。踞る少女の前に立ちふさがる神父が彼らを止めていた。
「詩人殿は、どうする?」エグバートが呑気に尋ねた。口調には、幾らかの傲慢さが含まれていた。それは檻の鼠を眺める観察者のものに近かったが、残念なことに彼もまた檻の中にいる。本人が気づいているかどうかは知らないが。
「あなたは?」ライは周囲の音を意識から締め出してから問い返した。これは心臓が動いていた頃よりも随分と上手くできるようになったことの一つだ。
「さあ。こういう時、東部の人間はどのような行動を起こすのだろうか?」
「……シカラグァ人を、文明の遅れた蛮族だと思っているね」ライは声に、批難ではなく呆れを含ませて言った。
エグバートは肯定せずに笑った。「彼らの国家は、野蛮な血筋からなる部族の集合体に過ぎない。近代まで続いた彼らの争いによって王朝は頻繁に代わり、文化は成熟しなかった。未だ、体に布を巻き付けるだけのものを衣と呼び、木の根を煮ただけのものを料理と呼んでいる」ライは遮った。苦笑で告げる。「これが教師とは、生徒が可哀そうだ」
エグバートは無言で苦笑を返した。
騒ぎに意識を戻すと音が戻った。罵声ばかりの膠着状態は続いていたが、ライは先程よりは密航者に好意的になっていた。神父がこちらにさっさと手伝え的な恨みがましい視線をちらちらと向けてきていたし、放っておいては隣の傲慢な男と同類になりかねない。
この場で一人くらい切り倒せば静かになるだろう。馬鹿な思いつきと同時に、自分がまだ抜き身の剣を持ったままでいることに気づいた。ライは手の中で柄を回し、剣を空に溶かした。
無頓着に、神父と少女へ近づいていく(生身だったら絶対にやらないが)。状況の変化に、騒いでいた乗客たちの声のトーンが僅かに落ちた。結局、自分もある程度は怖がられているのだろう。もう少し怖がらせれば黙るかも知れない。
「楽しそうだね」
「主は我らに苦難ばかりを賜る」
「それを喜んで受け入れるのが聖職者でしょ?」
「残念ながら私はマゾヒストではありません」神父はきっぱりと言った。ライは思わず笑った。周囲の空気は一向によくならないが。
「上で」ライは笑いながら、しかし叩きつけるように言った。「傭兵や船員が死に物狂いに戦ってる。何人かは死んだ」
乗客たちは不穏な言葉にざわめいた。「ここに、この、痩せて、薄汚れた、惨めな子供を殴り殺せるような勇気のある戦士がいるなら、今すぐ甲板に上がって彼らを助けるべきだと思うけどね」
「黙れ、こいつのせいで海の女神が――」
「たかが女だろ!?」ライは怒鳴り返した。神父がぎょっとした顔をした。「女神だろうが密航者だろうが、どっちも女だ。片方が怖くて片方は怖くない? 大の男が笑わせるな。大体、ここにはイムヌスの神父がいる。異教狩りの専門化じゃないか。彼は少女殺しよりもっといい方法を知っている。密航者を殺すより、こいつを甲板に叩き出すのを先にした方がいい」
神父は批難の目を向けた。「……幽霊詩人殿、私は異端審問官では……」
「本当に?」ライは苛立から鋭く問い返した。とりあえずこの場をなんとかできればそれでいいと思っており、口裏を合わせて欲しかっただけだが、神父は一瞬、言葉に詰まった。ライは藪から蛇を出した気分になった。思わず嫌な顔をすると、相手もそれで失敗に気づいたらしく、はぁと嘆息した。
「……修行が足りないようですな」
「……僕も軽率過ぎたよ。とりあえずここなんとかして上に行こうか」
乗客が口を挟んだ。「俺たちを見捨てるのか?」
「見捨てる?」ライは問い返した。「守るために、上に行くんだ。今のところここには何の危険もない」
「壁を破って敵が来たらどうする」
そんなの、最下層に穴を開けられたら船が沈むに決まっている、と思った。護衛達はあまりにも多くの海賊を海に投げ落としたな、とも。或いは彼らは実際に外側に張り付いているのかも知れない。悪い想像ならいくらでもできる。できないのは証明と対処だけだ。
「馬鹿な」ライは吐き捨てた。
結局、神父が何か上手いことを言って煙に巻き、ライと神父と密航者の三人は、追い出されるように外へ出た。扉の向こうでは、再びバリケードを積み上げる音がしている。
少女は俯いたままがたがた震えており、それは恐怖のためだけではないように思えた。「ずっとあそこにいたのですか?」と神父が尋ねた。少女は頷いた。
ライは肩を竦めた。「生憎、ここには温かいスープもパンもない」
少女はびくと震え、神父にしがみつき、こちらを見上げてきた。神父が、批難がましい声でこちらを呼んだ。「随分と機嫌が悪いようですな」
「機嫌?」ライは問い返し、自分の感情を測ってみたが、確かに機嫌はよくなかった。気が立っている。ついでに、いつの間にか輪郭が乱れていた人の姿を、意識して結び直す。少しはまともに見えるはずだ。「悪いよ。今の状況を喜ぶようなマゾヒストじゃないから」
「誰もそうではないでしょうな」
「わかった」ライは意味のない嘆息で反省を示した。少女に「怖がらせてごめん」と謝った。上に戻ると告げると、少女に呼び止められた。弱々しい声だったが、辛うじて聞き取ることはできた。
「……父さんは、無事?」
「誰のこと?」ライは問い返した。神父が、父親に用があって密航したのかと問うた。少女は躊躇ったが、頷いた。「父さんは船員よ。港に寄った時、船は一週間も停泊してたのに、父さんは一度も帰ってこなかった。会いに来ても追い返されたから、忍び込んだの」
彼女の口調には下町の響きがあり、端々には鋭さが感じられた。普段であれば気の強い性格なのだろう。喋っている内に立ち直ってきたのか、少女は神父の手を取って立ち上がった。
「それで密航とは度胸があるね。船が動かない内には帰れなかったの?」
「……あの日が出港だなんて知らなかったのよ」少女はむすっとして答えた。ライはそれは嘘だろうと思った。彼女はさりげなく目を逸らしたし、船員の娘が船内の様子で出港に気づかないとは思えなかった。
「父君とはどなたのことです?」神父が尋ねた。少女は答えた。「トビーっていうのよ。巨人のトビアス。あたしとおなじ青い目をしているの」
ライと神父は視線を見合わせた。二人とも、彼とは何度か、おなじ賭博の卓についたことがあった。まだ若く、豪快で、傭兵達にも負けない立派な体躯と、潮に喉をやられたがらがらした声を持っていた。ライが先に目を逸らした。彼が上で殺されたことを、二人のうち、ライだけが知っていた。
そういえば彼は生前、せっかく故郷に寄ったのに家へ帰れなかったというようなことを言っていた。ライは彼は多忙のあまり帰る暇もなかったのかと思ったが、違うのだろうか。
「……トビーか。彼には金貨を二枚も負けた」ライは声を絞り出した。「まだ海賊が降りてきてないってことは、護衛がまだ戦ってるんだと思う。探すだけ探してくるよ」
「あたしも行く!」
「駄目ですよ、お嬢さん」神父が彼女の腕を押さえた。「上は危険です」
「その半分でも僕の心配をしてくれてもいいと思うけど」ライはぼやいた。神父は呆れた顔をして、従順な子羊に神のご加護を云々と祝福をくれた。ライは大凡の悪霊の類がするように、その場から退散することにした。
踵を返すと、目の前に、潰れた顔があった。それはライを無視して神父と少女に飛びかかった。剣を抜くには間に合わない。半ば反射的に襲撃者の背に手を伸ばし、活力の源を奪い去る。魂だが生気だが、そんなようなものを失った死体がどさりと倒れた。
「……ひ」少女が喉の奥で声を上げた。
倒れているのは、先程、船室の窓を目張りしている時に死んだ乗客だった。あの場に横たえられて放置されていたのがアンデッドとして立ち上がったに違いない。神父の祈りで防げなかったのが残念だが、東西では宗教観念や魂の概念が異なるようなので仕方がない。
「死んだ……?」神父は悼ましさと疑わしさが入り交じった視線で死体を見下ろした。ライは「貸し二ね」と言って甲板へ向かった。
そして二人の姿が見えなくなってから、あーと声を上げて頭を抱えた。死人の魂など食うものではない。吐気がする。東西問わず二度とやるまい。いくら手応えが気持ち悪かろうが剣でやった方がマシだ。
ふらふらと甲板に出る。戦いの物音は絶えていなかった。ライは安堵して知った顔に話しかけた。「生きてる?」
「なんとかな」三十歳過ぎの、黒髪の傭兵が呻いた。彼は左肩に裂傷を負っており、その周囲はドス黒く変色していた。他の傭兵達も似たような有様か、死んで転がっているか、無傷でも酷く疲労しているかだった。
「お前こそ死んだような顔してやがる」
「食あたり。おじさんも注意しなよ」ライは敢えて笑って答えた。
「飯か。それも悪くないが」傭兵は苦笑いし、ここを守るのが仕事だと答えた。船室に一人の脱落者の姿もないことは不思議だった。前線を見れば状況が芳しいようには見えないが、士気は高い。
「金貨三枚で人生を棒に振る気?」
「そう思うなら返せよ」傭兵は笑って鎚戈を構え直した。その先端は不安定に上下した。
「次は勝てばいい。手加減はしないけど」ライは苦笑を返した。死ぬつもりの人間と話すと神経が擦り減る。自分はこのような場所にいるような人種ではないはずだ。見てわかるような死地とはそれなりに無縁に過ごしてきた。
「そうだな、次は勝とう」
ライは答えるべきか迷った。
不意に、誰かに呼ばれたような気がした。視線を巡らせたが、戦列の先には篝火と霧、襲い来る海賊たちしか見えない。その海賊たちの攻勢が幾らか収まり、反撃に出ようとした護衛たちを、指揮官の声が押さえ込んだ。命令を下しているのはバラントレイだった。彼は集団を指揮することに随分と慣れているように見えた。嘗てはどこかの正規軍にいたか、或いは自分の傭兵団を持っていたのだろう。
ライは霧の先を見通そうとしたが、失敗した。自然のものでないためか、視界が効かない。
やがて、霧の中から海賊たちが飛び出してきた。ライは人間よりは幾らか先に彼らの姿を見て取った。或いは、目のよい者は同時に気づいたかも知れない。どちらにせよ、一瞬は目を疑ったので、大差はなかった。
海賊たちは、中央の者を先頭にに、両翼に数人を並べ、見事な突撃陣形で突っ込んできた。
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イカレ帽子屋と鳳凰の国
1.
その手紙は、不吉な書き出しだった。
「吸血鬼が吸血鬼を呼び寄せた」
国家の紋章と代表者のサインがある。文末はこうだ。
「速やかに調査・原因究明されたし」
「……やれやれ」
シルクハットの男が言った。
「こちらの事情はおかまいなしですか」
「うむ」
男の知人が言った。
「うちは情報・仲介・錬金術が専門です。ホシの目星はありますか? こんな肉体系の仕事、すこしは手助けしていただきたいものです」
「多少はある。どうだろう、帽子屋? 聞き入れてくれるだろうか?」
「金貨の量で決まります」
「……そうくると思ったよ」
「友情はおおよそ、金で成り立つらしいですからね」
2.
銀髪の青年は「それ」を掲げた。
「どう? これはわりと自信作だよ」
それは革の表紙だった。二つ折りを開くと、金の文字が光っていた。
「偽造パスにしては、よい見栄えですね」
イカレ帽子屋が言った。青年の自慢話もそこそこに、身支度を整える。そこへ、女の子がやってきた。彼女はウサ耳バンドをつけており、その美しい顔を映えさせていた。
「通行書が完璧でも、持ってるやつがうさんくさい」
女の子が言った。
「それは遠まわしに私が社会不適合者と言いたいのですか?」
「そうよ」
「手厳しいお言葉を。それはそうと、通行書をこちらへ」
銀髪の青年から偽造通行書を受け取った。飴色のカバンを閉め、杖を握る。女の子は杖を見て、嫌そうな顔をした。
「あたしの仕込み杖……」
「似合いますか?」
「超最悪」
かつて二人はコンビだった。それがいまや、険悪な空気になっている。第三者がいたら、窒息したかもしれない。
「アンタがいくところ、コモンウェルズだったわよね?」
「ええ、そうですとも」
「ものすっごい閉鎖的な場所なのよ。アンタ、知ってるの」
「いえ、まったく」
「こういう依頼が一番厄介なのよ。国が絡むのよ、国が! ろくなことないわ」
「後の祭りです。依頼は完遂します。それでは」
会話を背にして、扉に向かった。部屋を出る前に、そのあざとい瞳を仲間に向けた。
「留守中はお気をつけてください」
「うん。イカレ帽子屋も気をつけて」
「アンタこそ、気をつけなさい」
ドアをでるとき、三日月の微笑を浮かべた。彼はそのまま、去っていった。
3.
大陸横断鉄道を下車して北東へ。スズナ山脈の一角にある検問所を抜けたさき、ここは断崖の国コモンウェルズだ。自然環境が厳しいこの国は、全国民が鳳凰を信仰していた。閉鎖的な風土であり、外から様子はうかがい知れなかった。
そこへ青年がやって来た。
「ここが断崖の国の入り口か」
絶壁にそびえる家々と、風に耐える針葉樹が見えた。
「なんていうか、でかいな」
町の表通りを辿っていくと、広場に着いた。辺りを見渡すと、少女が目に留まった。彼女は豪華な服装で、宗教関係者らしかった。
「こんにちは、お嬢さん」
「あ、はい。こんにちは……?」
「俺はウピエル。見ての通り、旅のものさ。女王様に用事があるんだ」
「女王様に、ですか」
「そう。頼まれごとなんだ。いそがなきゃならない。神殿を探しているんだが、どこにあるんだい?」
少女に紋章入りの手紙を渡した。すると彼女は安堵した表情をした。
「そうだったんですか。私はこれから神殿に行くところでした。よければ一緒に来てください」
「そうかい。それじゃ頼む。ちなみに神殿はどの辺りにあるんだい?」
「あちらです」
指差した先は、山頂だった。
「ちょっと遠いな。ま、よろしく頼む」
二人は歩いていった。
4.
少女の名前はリーゼロッテといい、神殿の巫女だった。祭事の雑用や、病人やけが人の世話が仕事らしい。やがて神殿に着いたとき、ウピエルが言った。
「へぇ、こいつが神殿か」
冠に炎を頂き、重厚な気配をかもし出している。
「案内ありがとな。助かったよ」
「……」
思い悩んだ表情をしていた。言葉も聞こえていない様子だ。
「リズちゃん?」
「え? あ、ごめんなさい。考え事をしていました」
「そうかい。案内サンキュな。おかげで迷わずにすんだわ」
「いいえ。私も戻ってくるところでしたから。それよりもウピエルさん。ちょっとお願いが……」
「なんだい?」
そこへ、男がやってきた。
「お帰りなさいませ、リーゼロッテさま」
貫頭衣を着ており、ハルバードとラウンドシールドを握っている。おそらく衛兵なのだろう。
「そちらの方は、ウピエル様でしょうか?」
衛兵が言った。何気なくリーゼロッテの手を取ろうとすると、彼女はうまく避けた。彼は顔をひきつらせた。
「ウピエル様。ご本人であれば」
衛兵が言った。
「女王様からのお手紙をみせてください」
衛兵の物言いはトゲがあり、節々に嫌みなイントネーションがあった。ウピエルは「貴族のボンボンか何か」と思い、受け流すことにした。
「ああ。こちらです」
「ふむ……」
時間をかけて手紙を見た。偽造でないことを確かめたかったのだろう。
「あちらです」
神殿の奥を指差した。
「まっすぐ行くと謁見の間があります。どうぞお進みください。ではリーゼロッテさま。お部屋にお連れしましょう」
「え……そんな……」
リーゼロッテが言った。ウピエルは嫌そうな表情を見た。
「おいおい、この国はろくな対応をしないな」
ウピエルが言った。
「ちゃんと案内してもらおう」
「……」
「どうなんだ?」
「失敬しました。こちらへどうぞ」
「ああ、そうしてくれ。それじゃ、リーゼロッテちゃん、またな」
「はい、また後で」
リーゼロッテが言った。
「ウピエル様」
衛兵が言った。
「女王様がお待ちです。お急ぎください。置いていきますよ」
「わるいわるい」
これだから人をからかうのは面白い、ウピエルはそう思った。
5.
正午の鐘と同時に、ウピエルは謁見の間に着いた。両開きの扉には、鳳凰が舞う姿が刻んである。両脇に衛兵が待機していた。
「女王様から呼び出されたウピエルっていうものだ。通してもらえるかい?」
「手紙をお見せください」
「これだ。偽造じゃないぜ」
「たしかに。どうぞお通りください」
何かの操作をしたのか、扉が自然と開いた。ウピエルが入ると、閉まった。すると奥から声がした。鈴の音色のような声だった。
「ウピエル殿、ようこそ我がコモンウェルズへ」
リーゼロッテの話だと、この十年来、女王マルガリータの美貌は衰えなかったらしい。鳳凰の加護だそうだ。ウピエルの見たところ、絶世の美女、それも男を悩ましてやまない、魔性の美貌だった。
「ご用件は事件の解決だそうで?」
「その通りです。わが国で起きている事件を調査し、解決してください」
「おいおい、そんだけかよ。アバウトすぎだぜ」
「依頼は受けていただけと存じます。まさかお心変わりされましたか。ウピエル殿ともあろうものが」
「この……」
「一週間はこちらで宿を手配します。その間に解決してください」
「偉そうな話だな」
「報酬はお望みどおりに用意いたします」
「やれやれ……」
「あなたが賢明で助かります。何か分かったら、報告に来てください」
後ろで扉が開いた。
「へいへい、わかりましたよ。まあ、期待しないでまってておくんなさい」
6.
ウピエルはカジノに来ていた。ディーラーが卓上の賭けを配当している。積みあがった金貨とチップに、ギャラリーは興奮していた。すこし勝ちすぎたかもしれない。店員の目つきが鋭くなった。そろそろ手段を選ばなくなるころだ。
「どうすっかな」
「赤に入れなさい」
誰かが言った。
「だれだい?」
後ろにはシルクハットの男がいた。帽子の隙間から覗く肌は、病的に青かった。
「いつの間にそこに?」
「ずっと前からです」
「存在感ないな、あんた。クラスで手を上げたとき、数えてもらえないタイプだろ」
「残念ながら学校出の経歴はないんですよ。でもお察しの通り、ギルドの集会ではしょっちゅう無視されます」
「面白いやつだな、あんた」
「驚かないんですね。さすが長く生きてらっしゃる。年の功ですかね」
「顔に出ないだけさ。けっこう小心者でね」
「あなたが小心者というなら、世の人々は蟻一匹ほどの心もないでしょう」
「とりあえず」
ウピエルが言った。
「お友達になりたいなら自己紹介といこうや」
「イカレ帽子屋と申します。詳しくは後ほど。それと、赤に入れることを忘れずに。では」
煙のように気配が消えた。
「赤に、ね……」
チップを全て赤に乗せた。ギャラリーが歓声をあげるなか、ディーラーだけがほくそ笑んでいた。
7.
「大勝だ。あんたのおかげだぜ」
ウピエルが言った。
「んで、イカレ帽子屋さんよ。なにが悲しくて密室にいるわけ?」
「別に私は悲しくないので、お気遣いなく」
「俺は悲しいんだけどね」
「人に聞かれると困る話題ですので」
イカレ帽子屋が言った。笑顔で対応する声は、客商売の鏡だった。しかしその顔は、見るものを不安にさせる笑みが浮かんでいた。
「吸血鬼が吸血鬼を呼び寄せた、だそうですよ」
「なんだって?」
「コモンウェルズ、子供だけが焼死する連続発火事件です。百年単位で数十件が起こり、外部調査の者がことごとく消え去る、というものです。ご存知、ありませんか?」
帽子屋の話は、事件の真相だった。ウピエルは人間の執念を感じて、その恐ろしさを垣間見た。
「それが本当なら、この国の王族は、ある意味」
ウピエルが言った。
「どんな人間より人間らしく、そしてどんな化け物よりも化け物だ。んで、こんだけの情報を無償で提供してくれるほどのお人よしじゃないよな」
頬杖をついて返答を待った。
「私は情報収集がメインでして。戦力がほしいのです」
笑顔は全く崩れない。堂に入ったポーカーフェイスだ。
「ふーん」
睨んでも、真意を読み取れなかった。黙考のすえ、決断をした。
「いいだろう。その話、乗った。ただし、一応裏は取らせてもらうけどな」
「裏を取る、と言いますと?」
「忍び込むのさ。あんたが話した、『病院』とやらにな」
8.
夜陰に乗じて、ウピエルは『病院』に侵入した。ここは病気や怪我をした人間を治療する場所とは、少し違う施設だった。帽子屋が語ったことが真実なら、ここは執念の魔窟ともいうべき建造物である。
「ここか」
扉には特別病棟・関係者以外立ち入り禁止、と書いてあった。厚い錠前が取り付けてある。
「ごくろうなこった」
先ほど打ち倒した倒れた護衛を見た。鍵とおぼしきものを、腰から下げている。
「朝までゆっくりおねんねしてくんな」
錠前を掴んで引っ張った。鍵は外れ、床に転がった。
「さて、なにがあるんだ」
扉を開けたとき、泣き声が聞こえた。赤ん坊のすすり泣きや、狂ったような叫びもする。
「なんだ、これ?」
部屋の光景が、ウピエルを戦慄させた。それは地獄の火の海のような光景だった。全身が焼けただれた、子供たちが転げまわっていたのだ。
イカレ帽子屋の話が頭に浮かんだ。コモンウェルズの先祖は不死を願い、かつて崇めていた火の鳥を食らった。しかし不死を得られず時が過ぎ、ある時を境に異変が起きた。鳳凰の遺伝子が体に食い込み、後生に伝わったのだ。火の鳥の火炎がよみがえり、唐突に燃え上がることが、起きるようになった。理由は不明だが、成長期の子供が自然発火するのだ。この部屋は、発火した子供を隔離する場所だった。
「ふざ……」
背を向ることが出来なかった。うめきのなかで、行き場のない怒りが湧いた。しばらく、立ち尽くした。やがて意を決して扉をしめ、その場を後にしたのだった。
9.
翌朝、ウピエルはノックで目を覚ました。
「おはようございます」
リーゼロッテが言った。心なしか、呼吸が荒い。
「おう、あんたか。俺様にご用か?」
彼女に紅茶を淹れると、ベッドに腰掛けた。
「ま、その椅子に座るといい」
「すいません、失礼します。こんな朝早くに、本当に申し訳ありません」
「いや、むしろ早起きは三文の得さ。起こしてくれてありがとうよ」
「う……」
「大丈夫か?」
「ええ、心配ありません。しんぱいありません……」
突然、倒れこんだ。こぼれた紅茶が手にかかり、蒸発した。
「おい、しかっりしろ」
額に触れると、火傷するほど熱かった。ウピエルの頭に、病院の光景がよぎった。このままでは、発火するかもしれない。ウピエルは厨房へ向かった。袋にありったけの氷を詰めて、部屋へ走った。すると、入り口にイカレ帽子屋が立っていた。
「おい、あんた。手伝ってくれ」
「無論です」
「助かるぜ」
リーゼロッテをベッドに寝かせ、氷を添えた。
「私、死んじゃうのでしょうか?」
リーゼロッテが言った。
「このままでは、そうなるでしょうね」
帽子屋が言った。
「死が怖いのですか?」
「……」
呼吸も苦しいのか、返答もままならない。
「あなたは、終わる」
帽子屋が言った。
「そして別のモノが始まるでしょう」
「別の、モノ?」
「あなたの体内では、太古の生物の遺伝子が発現したのです。そしてあなたを組み替えているのです。生きながら別のモノに変わる気分はどうですか?」
「教えてください」
「なにをでしょうか」
「私たちの知らないことを、です。見てください」
腕を捲り上げると、黄金の羽毛が現れた。
「五年ほど前のことです。私は父さんと母さん、そして三人の妹と暮らしていました。そのころは、空を飛ぶ夢をよく見ていました。ある朝、目が覚めるとこれが生えていました。女王様の衛兵が私を『選ばれた者』として、神殿まで連れて行きました。女王様は、私が仕えるなら家族に有り余る食事と水を与える約束をしてくださいました」
「ふむ」
よく見れば、リーゼリットの瞳は細い虹彩があった。まるで本当の鳥のようだった。
「私は、これからどうなるか分かっています」
リーゼリットが言った。
「……鳳凰になっても、神様になっても、父さんや母さんを覚えていられるのでしょうか?」
うっすら涙を浮かべ、大粒となった。
「申し訳ありません。それに関する知識はございません」
帽子を深くかぶり、すすり泣きをただただ聞いていた。
10.
「これはこれはウピエル殿。かような慌て方、いかがなさいました」
女王が言った。
「女王陛下、報酬はお命でいただきましょう」
広間に護衛兵のうめき声がする。一人残らず、戦意を失って倒れていた。
「事件は解決しましたか?」
「これから解決する」
ウピエルが言った。短剣を抜き、女王に放った。音速に迫る速度だったが、女王はそれを避けた。
「子供が『再生』の遺伝子を覚醒させ、大人が『不死』の遺伝子を覚醒させるんだろ」
「ウピエル殿、それは誤解だ。不死とは死なぬことよ。それは『再生』の遺伝子が完全でなければならない。我らの『不死』など時間稼ぎ。数度心臓を失えば事切れる」
広間に兵士が集まってきた。
「能書きはいい。リーゼリットの治し方を教えろ。でないと、次は本気でやるぞ」
短剣の切っ先を女王に向けた。
「治る? これは病気ではない。進化だ。 我らは人と神をつなぐリングなのだ。我らは新たな神となるのだ」
「笑える話だ。てめぇの神様ごっこでどれだけ子供が死んだ?」
女王の余裕が不可解だった。自分を侮っているのだろうか。
「駒の配置が逆になってしまいましたが、まあいいでしょう。リーゼリットは祭壇にささげられたはずです」
「なんだと?」
「外の国々が邪魔を送ったことは知っている。あの喪服男は我らの内情を通敵するためにやってきたのだ。鳳凰を狙う魂胆が透けて見えるわ」
その顔は歪み、醜かった。
「だがわが国は鳳凰を目覚めさせていない。だからあの喪服男は『神』の可能性のあるリーゼリットに近づこうとしたが、お前が先に接触していたということだ。あの男の狙いはお前の注意を我らに向け、自分はのうのうと神を覚醒させ、その情報を売りさばくことなのだよ」
11.
帽子屋は山登りをしていた。幅の細い岩山で、聖域とされる場所だった。
「……帽子屋さん」
リーゼリットが言った。
「ごめんなさい……少し……」
「さすがにその熱では辛いですか」
「へ、平気です……」
衣服を引きずり、熱っぽい呼吸をする。
「おそらくあなたは」
帽子屋が言った。
「すでに覚醒しています。人間の意識があることが、驚異的です。お辛いでしょう」
「帽子屋さん、おっしゃいましたよね。誰か……だれかが神様になれば、発火現象は収まるって」
「もちろん。私の仮説によるところ、鳳凰が復活すれば遺伝因子は安定し、発火現象は治まります。リーゼリットさん、しばらくガマンできますか?」
「なんとかがんばります」
笑顔を浮かべた。まるで清流のように澄んでいた。
「ちょっと失礼します」
「わっ」
少女をおぶって階段を駆け上がる。リーゼリットはもぞもぞしたが、すぐぐったりした。
「帽子屋さん。ウピエルさんに、ありがとうって……伝えてください」
「ええ、必ずや」
「ウピエルさん、大丈夫かしら」
「あの男は心配ありません」
帽子屋が言った。
「彼は吸血鬼です」
「え?」
「本物の吸血鬼ですよ。並外れた戦闘力の男です」
「はあ……」
朦朧とする頭では、理解できなかった。しかしその様子から、心配ないことだけは分かった。
やがて最上階に到着した。密度の高い地質であり、正面に祭壇があった。
「さて」
リーゼリットを広間におろした。そのとき、殺気を感じた」
「女王陛下も口ほどにもない。先回りされてしまいました」
三日月の笑みを浮かべ、前方をみた。そこには、ウピエルが立っていた。
「何かいいてぇ事はあるか」
しばらく、風の音だけがした。
「あの、ウピエルさん……ちがうんです」
リーゼリットが言った。
「もういい。寝てろ」
瞳が赤く光った。するとリーゼリットは倒れ伏した。
「魔眼とは大げさな。貴方も容赦しませんね」
「信じてたモンに裏切られるってのは辛いもんさ。夢でも見せとくのが優しさってもんだろう?」
「おや、私は彼女の意志を尊重しただけですが。裏切りとは心外ですね」
「誘導しておいて、なに言ってる」
「知ってどうするのですか? ここでは吸血鬼の力は、満足に発揮できないでしょう」
階段に歩き出した。両手を広げ、まるで俳優のようだ。
「この祭壇は鳳凰の死骸で出来ている。彼女が来て、力を取り戻しつつある。そして貴方は、生命の中では力を使えない。……魔眼で力を消耗したでしょう? 通常はすぐ回復しても、ここでは違う。ただ一人の少女のために、ここで命を散らすのですか?」
「言いてえことはそれだけか?」
ストレートを放つと、暴風が起きた。帽子屋の前髪をはじき、首を飛ばすように見えた。
「おお、こわい」
バックステップで避けた。
「私は情報戦が専門だといいますのに」
「女王が何を企もうが」
体を回転させ、左フックを放った。ところがまたも外れた。
「知ったこっちゃねえ。てめえのやりくちもガマンならねえ」
「おそろしやおそろしや」
仕込杖の剣を抜いた。剣先をウピエルに向け、構えた。まったく隙がない。
「やってみな」
「お言葉に甘えて」
心臓めがけて突きを放った。するとウピエルは横に跳ね、間合いから外れた。
「おっと! こんどはこっちの番だぜ」
獣のような速度で飛び込み、帽子屋に拳を打った。帽子屋はステップを踏んでかわした。
遠くから見るとまるで舞のようだった。予定調和をいなしあう、無限連鎖の幻想だった。
「ほっほっほ。やっとるのう」
祭壇の入り口に、化け物が現れた。
「どうした。豆鉄砲をくらった鳩のような顔なんぞしおって」
顔は人だが、体は鳥だった。腕はなく、羽が生えている。
「わらわが姿を見せるなど、数百年ぶりのこと。幸運と思え」
「お前は……女王か!」
ウピエルが言った。
「吸血鬼ウピエルよ。娘を渡してもらうぞ。その血肉を食らって、ついに神となるのじゃ」
「女王様」
帽子屋が言った。
「なんじゃ帽子屋。褒美なら後で望むままとらせようぞ。それともわらわがウソをついたと憤っておるのか。巫女を祭壇の間へ連れて行けば、神となり救われる。そう申したことがウソだったと」
「さようでございます」
「言いがかりもいいところじゃ。事実、巫女はわらわの血肉となるのじゃ。神の血肉であるぞ。これを救いと呼ばずになんと呼ぶ」
少女の心臓をえぐりだし、かじりついた。いつの間にか風もやみ、まるで時が止まったかのようだった。
「ふふふ。はっはっはっは! 力が、力が流れ込んできよるわ」
踊り場に立つ帽子屋を見た。
「さて、褒美をくれてやろう。神の力を存分に味わうがいい」
炎が手に集まり、球状となる。全てを焼くという、鳳凰の炎だ。
「おい」
ウピエルが言った。
「どうせなら俺様を呼んだ理由を教えてもらいたいね」
「冥土の土産がほしいか。汝を呼んだのは、化け物の分際で永世を生きることが許せなかったからじゃ。不死は神のみの特権なるぞ。よってわらわが直々に断罪してやろうというのじゃ」
「なるほど。つまり俺様がうらやましかったんだな」
「なんじゃと」
「神だのなんだの、意味はねえんだろ? アンタは長生きがしたかった。そのためにそんな醜い姿にもなった。なのに俺様はあっさり不死を得ている。嫉妬は醜いぜババァ」
「お前なんぞに何が分かる。偉そうに語るな。化け物風情が」
炎は勢いを増し、生き物のように波打った。
「なあ、そろそろだよな?」
「ええ」
世間話のように気軽だ。女王は何かがおかしいと思った。しかしもう遅かった。
「目覚めろ」
ウピエルが言った。すると、すさまじい炎がリーゼロッテを包んだ。
「何をした!?」
女王が言った。
「力が……力が吸い取られるじゃと!?」
羽毛が抜け落ち、肌にシワが現れる。堂々たる女王の姿は、忽ち消えた。
「力はより大きな力に飲み込まれるのですよ。あなたが何人欠片をもつ子供を取り込もうと、本物にはかなわなかったのです」
「バカな。わらわは神の力を手にしたはずじゃ」
鈴のような声も、いまや錆び付いた。祭壇によろめき、膝から崩れた。そのとき、リーゼリットが炎を発した。全てを癒すかのような、優しい炎だった。
「認めん。わらわは認めんぞ」
絶叫を発し、姿を消した。より一層炎は燃え上がる。罪を蒔きにして炎は紅く、美しく、激しくなった。
「女王よ。実に美しい。さぞお喜びと存じます」
「そりゃ綺麗だろう。数千の呪いと生贄の集大成だぜ」
リーゼリットを抱き起こした。ぐったりしてるが、特に異変はないようだ。一安心した時、かん高い声が響いた。
「なんだ、あれ?」
赤い光と火の粉が舞う。その先には、鳥らしき影があった。歌のような、叫びのような声を発して、飛び去り、朝焼けに隠れてしまった。
ウピエルも帽子屋も、無言だった。
「生で神サマを見たのは初めてですよ」
「まあ……ほんとにナマモノだとはな」
会話をしていると、リーゼリットが眼を開けた。
「あ、あれ?」
「残念でしたね」
帽子屋が言った。
「あなたはハズレだったようです」
「なんつー言い方すんだよ」
明け方の空は青く、さっきの赤い光がウソのようだ。
「あの、女王様は?」
「ババアはそこだ」
灰の塊を指した。リーゼリットはよく分からない様子だ。
「なんだか、あっという間でした」
親玉の女王は滅んだ。しかしこの国はどうなるのか。子供を失った親はどうするのか。先行きは暗澹としている。
「いままで女王が神でした。あの悪玉がね」
帽子屋が言った。
「これからは頑張ることは報われますよ。きっと……」
12.
数日後、帽子屋はアジトに戻っていた。後片付けをしていると、少女が言った。
「ところでアンタ、どうやってそんな情報を売るの? まさか自分で見ただけですって、目撃談だけ?」
「あ……。ええ、その通りです」
「ばかー! またタダ働きじゃないのー!」
あの知人をどうやって丸め込もう。汗が滴る帽子屋だった。
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